パキスタンの話

平成二九年の十月、パキスタンの北部山岳地帯を旅してきた。旅の目的は五世紀初頭にパミール高原からカラコルム山脈を越えてインドへ入った中国僧、法顕(ほっけん)三蔵の足跡をたどることであった。

ただし彼が歩いた道そのものを、今たどることはできない。崖崩れなどで道筋が変わるとか、人が住まなくなって道がなくなるとか、新しい道ができて古い道が消滅する、などのことで道はたえず変化しており、山岳地帯の道はとくに変化が早い。だから千六百年前の道がそのまま残っているはずがないのである。

しかも彼がどこを歩いたのか、はっきりとは分かっていないのである。正確な地図のない時代であるから、本人も自分がどこを歩いているか、おそらくはっきりとは分かっていなかったと思う。

とはいえ法顕三蔵がカラコルムを越えたときの道筋は、おおよそはカラコルム・ハイウェイの道筋と重なっている。だからこのハイウェイを走れば、ある程度その道の雰囲気を味わうことができるはずである。このハイウェイは、二〇年の歳月をかけて一九七八年に完成した、カラコルム山脈を越えてパキスタンと中国とを結ぶ道。ただし法顕三蔵はベシャムでハイウェイの道筋を離れ、おそらくはシャングラ峠を越えて、スワトーの谷へ入った。

カラコルム・ハイウェイの道筋が、古い街道の道筋とおおよそ重なっているのは、点在する町を結んで道を通すと、自ずとこの道筋になるからである。法顕三蔵が歩いたかもしれない昔の街道の跡が、ギルギットの北に残っていた。ガイドはこれもシルクロードの一部だと言っていた。今回確認した昔の街道はそこだけであるが、案内書によるとスストの北にも残っているとある。

今回の旅の行程は、パキスタンの首都イスラマバードから、中国との国境クンジュラブ峠までの約九二〇キロの往復。ただしカラコルム・ハイウェイの起点は、イスラマバードから二六五キロ地点のターコット。そこから初めはインダス川ぞいに走り、ギルギット川が分岐するとギルギット川ぞいに走り、ギルギット川とフンザ川の分岐点からはフンザ川ぞいに走り、そしてパキスタンの最北の地フンザに入った。川の水はどこも緑がかった茶色に濁っていた。

フンザは桃源郷とか長寿の里と呼ばれる山中の隠れ里のようなところ。その中心の町カリマバードで三連泊し、クンジュラブ峠はこの町から往復した。なおフンザというのは町の名ではなく旧王国の名。フンザ王国の版図であったギルギットからクンジュラブ峠までの地域を、今もフンザと呼んでいるのである。

     
キシラ

旅の始まりは、イスラマバードに近いタキシラ遺跡の見学。ここには法顕三蔵も寄り道しており、彼が書き残した旅行記、法顕伝によると、タキシラは捨身餌虎(しゃしんしこ)の話、月光王の話、などの舞台になった国とされ、それらの場所には大きな仏塔があったという。

捨身餌虎の話は、釈尊が過去世に飢えた虎にわが身を投げ与えたという話。法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)にその場面が描かれていることでも知られる。月光王の話は、釈尊が過去世に月光王であったとき、ある王の求めに応じて自分の頭を布施したという話。

タキシラは釈尊の前世物語であるジャータカにもしばしば登場するが、話の舞台にはなっていない。つまり釈尊は前世にある国の王子として生まれ、成長するとタキシラへ行って武芸と学問を学び、国に帰って王位を継いだ、というように物語の導入部に登場するのである。だからジャータカが書かれた紀元前三世紀ごろのタキシラは、インドにおける武芸や学問の先進地であったことが分かる。

タキシラでは、博物館、シルカップ都市遺跡、ジョーリアン寺院遺跡、の三ヵ所を見学したが、この三ヵ所とも私は四〇年前に見学したことがある。

シルカップは西紀前二世紀に、ギリシア人が都市計画に基づいて建設した都。南北につらぬく大通りを中心に作られていて、仏教寺院やいくつかの仏塔の遺跡も残っている。この都は、クシャーナ王朝期の西紀二世紀にシルスフに遷都するまで続いた。

ジョーリアンは西紀二世紀のクシャーナ王朝時代に、景色のよい丘の上に作られた、仏塔部分と僧院部分の二つからなる仏教寺院の遺跡。仏塔部分は中心の主仏塔と、それを取り囲むたくさんの小さな奉納仏塔からなり、主仏塔は基部しか残っていないが、奉納仏塔の保存状態はよい。

四〇年前に来たときには、この遺跡はまだまったく整備されていない状態であり、遺跡の入口に小さな建物があって、そこに番人が住んでいた。その番人の男はお金を払っても入場券をくれず、そのうえ何か食べ物を持っていないかとしつこく聞いてきた。ちょうどそのとき、私の胸ポケットには食べかけのお菓子が入っていた。それはタキシラ駅前で買った、一口食べてあまりのまずさに食べるのをやめたお菓子であった。

ところがその食べかけのまずいお菓子をあげたらその男は非常に喜び、子供がお菓子をもらったときのように大事そうに少しずつ、実においしそうに食べていた。そしてお礼に水パイプのたばこを吸わしてくれたが、それは一回吸っただけで頭がくらくらする強烈なたばこであった。この人は毎日このたばこを吸って、うつらうつらしながら生きているのかと思った。

タキシラには紀元前四世紀のアレキサンダー大王東征のとき、すでに堅固な城壁に守られた都市が成立していた。その都市は今もビール・マウンドの遺跡として残っている。ところがそのときの王アンビーは、戦うことなく大王を町に迎え入れ歓待したという。おそらく負ける戦さを回避したのであろう。

その後タキシラはインドのマウリヤ王朝の勢力下に入り、そのときこの国に仏教が広まった。そして王朝の庇護のもとに繁栄を続けたタキシラでは、多くのガンダーラ仏教芸術が生まれたが、タキシラを含むガンダーラの諸都市と仏教は、中央アジアから侵攻したエフタルによって破壊された。

     
エフタル王ミヒラクラ

白フン族とも呼ばれるエフタルは、五世紀半ばから六世紀半ばにかけて、ヒンズークッシュ山系の交易の要地で強勢を誇った遊牧民族。イラン系民族とする説が有力であり、彼らは遊牧生活と都市生活の両方をあわせ持っていたという。

記録がほとんど残っていないので、エフタル国の詳細は不明であるが、初代の王トーラマーナが西紀五百年ごろガンダーラの地を占領し、仏教嫌いの第二代の王ミヒラクラが、寺を破壊し僧を殺害する仏教大弾圧をおこなったとされる。そのためガンダーラ仏教は壊滅、生き延びた僧はカシミールに逃れそこで仏教を再興したという。この事件が仏教に末法思想が存在する原因になったとする説もある。

数少ないエフタルに関する記録の中で、中国僧、宋雲が残した記録は信頼できる貴重なもの。敦煌生まれの宋雲は、仏教僧であり官吏でもあった。彼は北魏の孝明帝のとき、西域諸国と友好関係を結ぶための使節として、国書を託されて西域を回ったのであり、仏教経典の入手も旅の目的の一つであった。

その旅の記録である宋雲行記に、エフタル国で王に国書を手渡したときのことが記されている。それによると、そのとき王は再拝しひざまずいて国書を受けとったとある。場所はアフガニスタンかウズベキスタンのあたりのようである。そのエフタル王の名は記されていないが、おそらく初代トーラマーナ王であったと思う。

エフタル国の様子を宋雲行記はこう伝えている。「西紀五一九年十月の初め、エフタル国に至った。田畑は広々としており、山河は遙かに広がり、町には城郭もなく、遊牧しながら統治している。人々はフェルトで家を作り、水や草を追って移動する。夏は涼しい所に移り、冬は温かい地にゆき、郷土とて知らず、文字も礼教もない。・・・エフタル王は、四十歩四方の大きな毛織りのテントにおり、回りはフェルトを壁面として張り巡らしている」

そして宋雲は翌五二〇年に、今度はガンダーラでミヒラクラ王に会い国書を手渡した。そのときガンダーラはエフタルの支配下にあり、ミヒラクラが支配を任されていた。ミヒラクラがカシミールと戦争をしているときだったので、その陣中で会見したとある。ところがその会見の内容は宋雲にとって不愉快、不満足なもので、待遇もきわめて悪かった。そしてそれからまもなくのことだと思うが、ミヒラクラによってガンダーラの都市も仏教も滅ぼされたのであった。

その一二〇年後に玄奘三蔵がガンダーラを訪れた。大唐西域記によると、そのときガンダーラは荒れはてて住む人も少なかったとある。「ガンダーラ国は東西千余里、南北八百余里、東はインダス川に臨んでいる。国の大都城はプルシャプラ(現ペシャワール)といい、周囲四十余里ある。王族は嗣を絶ち、カーピシー国に隷属している。村里は荒れはて、住民は稀で、宮城の一隅に千余戸あるだけである」

西域記のタッカ国の項に、エフタルのミヒラクラ王と思われる王の話が収録されている。タッカ国の所在地は不明であるが、タキシラとラホールの中間ぐらいの所にあったと思われる。

「数百年前にミヒラクラという王がいた。この城に都して治め、諸印度の王となった。才知あり、性質勇敢であり、隣境の諸国は臣伏しないものはなかった。政務の余暇に仏教を学ぼうと思い、僧の中から智慧のあるものをひとり推挙させた。

ところが命に応ずるものはいなかった。少欲で自然に人を化するほどのものは聞達を求めようとせず、博学で明敏な僧も威厳を懼れるところがあった。ちょうどその時、むかし王家に仕えていた召使いで、出家して久しく、弁論がさわやかで、話に実のあるものがいたので、その僧を王に推挙した。

すると王が言った。『私は仏教を尊敬して遠くまで名僧を求めたのに、僧たちはこのしもべを推挙して話をさせようとした。私は常に僧の中には賢明なる人が多くいるだろうと思っていたが、今になってはっきり分かった。どうして仏法を尊敬できよう』。そして五印度に令して仏教に関係するものはみな破壊し、僧徒は放逐して少しも残すところがなかった」

蓮華面(れんげめん)経というお経の中に、ガンダーラ仏教滅亡のことが予言の形で短く載っている。蓮華面はミヒラクラの前世の名前とされる。この経の現代語訳が今年出版され、その解説の中にエフタルという民族や、ガンダーラ仏教滅亡に関することが載っていた。この経は大正蔵経に入っているが、現代語訳されるのは初めてとある。

     
カラコルムへの道

カラコルム・ハイウェイは、ハイウェイとは名ばかりのひどい悪路。道の悪いところではバスは二〇キロぐらいの速度しか出せず、山側の崖を見上げると落石予備軍の石が無数に引っかかっていた。雄大なカラコルム山脈の景色の中で、道はなおさら貧弱にかぼそく見えた。

その道はなぜか中国側から整備が進められていた。なぜ向こう側から工事をするのかとガイドにきいたら、中国が資金を提供し工事も請け負っているからという。また地震による崖崩れで川がせき止められて道が水没し、人や荷物を船で渡していた場所がある。そこにトンネルを掘って迂回路を作ったのも中国だという。

なぜ中国がパキスタン側の道路を整備するのだろうか。その理由の一つは貿易による儲けが中国の方が大きいからであろう。パキスタンのバザールなどで売られている商品の多くは中国製だというのである。また軍事的な目的もあると思う。つまり中国が海上封鎖されたときの抜け道の確保。

ハイウェイは谷ぞいに作られた曲がりくねった道なので、車外の景色はしばらく目を閉じているうちに一変する。そのためもったいなくて居眠りができなかった。北上すると次第に木が少なくなり、やがて山上には木がまったくなくなるが、奥へ行くほど地形が険しくなるとは限らず、谷を抜けた先に平地が広がっていたりする。そうした場所に人が住んでいるのである。

途中のベシャムの町で行きと帰りに一泊ずつ、それとギルギッドで帰りに一泊した。ベシャムのホテルは、テレビどころか電話も毛布もないひどい宿であったが、それでもここではいちばんいい宿なのである。

ギルギッドの宿は今回の旅行で一番いい新しいホテルであったが、警備の物々しさには驚いた。刑務所のような高い塀に囲まれている上に、入口にはタイヤをパンクさせて車を停止させる装置を初めとして、いくつもの侵入防止装置が施されていて、入るときには車の下まで調べていた。

しかもこの二つの町では散歩に出ることができなかった。危険だからといって宿の外に出してくれないのである。ところがギルギットで、裏口から抜け出して町を散歩してきた同行者がいた。その人の話だと、近くにバザールがあったので見学していたら、男が二人近づいてきてパスポートを見せろと言ったという。もちろん彼は見せたりしなかったが、見せていたらそのまま持ち逃げされたと思う。

インダス川の流れはギルギットの手前で東西に分岐し、東がインダス川、西がギルギット川である。そしてこの合流点は、ヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、ヒンズークッシュ山脈、という三つの巨大山脈がぶつかる所でもある。

けわしいカラコルム山脈の中とはいえ、意外とあちこちに集落が点在しており、山肌にはハイウェイ以外にも意外と道がついていた。人が住んでいれば家と家、集落と集落とを結ぶ道が必ずできる。そしてそれらをつないだ街道といえるものも昔からあったはずである。おそらくそうした道を法顕三蔵はたどったのであろう。宿も食料も集落で得られたと思う。

しかしパキスタン側最後の町スストと、中国側最後の町タシュクンガルの間が問題になる。この間は無人地帯なので、道はあったとしても食料と宿の確保がむずかしく、峠越えの難所になったはずである。ただしスストの標高は三千メートルほどで、チベットの首都ラサの三千四百メートルよりもかなり低い。だから昔はスストの奥にも人が住んでいたかもしれない。

     
クンジュラブ峠

スストから先は急に道が険しくなり、崖崩れしている場所が多くなった。またスストから先は中国のトラックしか走っていなかった。この区間は道路整備をしている中国に通行権があるらしい。

スストの先でミンタカ峠へ行く道が分かれていた。法顕三蔵はクンジュラブ峠の五〇キロほど西にあるミンタカ峠か、さらにその西にあるキリク峠を越えたようであるが、法顕伝には越えた峠の名は書いてない。彼の時代にクンジュラブ峠を越える道があったのかどうかも分からない。今回利用した旅行社が、来年ミンタカ峠へ行く旅行を計画していると言っていたので、少なくともミンタカ峠までは車道が通じているらしい。

標高四七三三メートルのクンジュラブ峠は広々とした台地の上にある峠。中央に立つ門が中パ国境であるが、実は中パ国境は確定しておらずこの国境は暫定的なもの、そしてスストとタシュクンガルの間が緩衝地帯になっているという。

パミール高原からカラコルム山脈にかけての山々を、中国人は葱嶺(そうれい)と呼んでいた。その葱嶺という山名は、山上に葱(ねぎ)のような植物が生えていることに由来するというので、それらしき植物を探したが見つからなかった。法顕三蔵が葱嶺を越えたのは、長安を出発して二年半後の西紀四〇一年の秋ごろのことで、葱嶺を越えたときのことを彼はこう書き残している。

「竭叉国(かっしゃこく。タシュクンガル)は葱嶺の中央にある。・・・ここから西行して北インドへ向かい、ひと月間旅を続けて葱嶺を越えることができた。葱嶺は冬も夏も雪があり、毒竜がいる。もし毒竜のご機嫌を悪くすると、たちまち毒風や雨雪を吐き、砂や小石や石を吹き飛ばす。この難に会った者は、万に一人も安全な者はない。葱嶺を渡り終えれば、そこは北インドである。その境に入ると一小国あり。ダレルという」

これは峠越えのときの体験だと思うが、ここになぜ毒竜が出てくるのかと不思議に思っていた。それが今回の旅行で、毒竜の毒気の正体は高山病ではないかと気がついた。クンジュラブ峠の標高は四七三三メートル、ミンタカ峠は四七〇九メートル、これはほとんどの人が高山病になる高度である。

そのため峠へ向かうバスの中で添乗員が、「水をたくさん飲んでください。居眠りをしないでください」とくり返していた。水を飲むのは体内の代謝を良くするため、居眠りしないのは代謝を悪くしないため、代謝が悪くなると体が酸欠状態になりやすいのである。

また雨や雪には遭わなかったが、峠の上は風が強く寒さでこごえた。道路わきのたまり水が凍りついていた。同行者に今回の旅行でいちばん印象に残っていることをきいたら、クンジュラブ峠の寒さをあげた人が何人かいたほどの、まさに毒風と呼ぶべき風であった。そのためバスを降りるとき添乗員が「持っているものを全部着て下りてください」と言っていた。

ダレル国はギルギットの南にあった国。インダス川はここでは千仞の谷になって流れ、谷の断崖ぞいに丸太を渡しただけに道がどこまでも続いていた、と法顕伝にある。

今回の旅の目的の一つは、パミール高原とカラコルム山脈の境界がどこにあるかを調べることであったが、結局のところ分からなかった。ただし中国側を旅行したときにはパミール高原の名前しか出てこなかったし、今回の旅ではカラコルムの名前しか出てこなかったので、国境の向こう側がパミール高原、こちらがカラコルム山脈というのが正解かもしれない。

     
桃源郷フンザ

イスラマバードからフンザのカリマバードまで丸二日かかった。悪路に時間をとられたのである。だから同じ道を往復するより中国へ抜けた方が良かったかもしれない。途中の町は治安が悪くて散歩もできなかったが、カリマバードに治安の問題はない。ただし山の斜面に作られた急な坂ばかりの町なので、散歩するのも楽ではないが、この坂の存在が長寿の里といわれる秘密かもしれない。

カリマバードは標高七三八八メートルのウルタル峰の南麓にある町。覆いかぶさるようにウルタル峰がそびえているので、地震でもあれば崖くずれで町全体が埋まってしまいそうに見える。こうした雄大な景観は、人々の人生観にどんな影響を与えているのだろうか。

ウルタル峰は登山家の長谷川恒男が、一九九一年に雪崩で遭難した山。そのためこの山のふもとに彼の墓がある。当時この山は未踏峰であった。またハセガワ・メモリアル・パブリック・スクールという彼の名のついた学校がカリマバードにある。この学校は事故のときにお世話になったフンザの人々にお礼がしたいと、彼の妻が発起人になって寄付を募って建学したもの。

その学校の朝礼に、フンザでの最終日に私たち一行も参加し、そのあと校長と歓談し授業も見学した。ここはイスラム教国には珍しい男女兼学の学校、のびのびとした雰囲気が印象的であった。高校生ぐらいの男子生徒の一人が立派なアゴヒゲをはやしていたのも印象に残った。

フンザの人々にはイスラム教徒にありがちなとげとげしさがなく、顔を隠している女性もおらず、女性であってもみんなにこやかに挨拶してくれる。辺境の地でありながらも、パキスタンでいちばん先進的な地域というから、まさに桃源郷。朝まだ暗き午前五時に、礼拝を知らせるアザーンが聞こえていたので近くにモスクがあるはずだが、散歩のときモスクは見なかった。おそらく大きなモスクはないのだろう。

カリマバードに到着した翌朝は、日の出を見るため早起きをした。天気は快晴、一片の雲も霞も風もない、というこの日のご来光はすばらしかった。標高二八〇〇メートルの展望台から見るおもな峰は、ウルタル、ラポカシ、ディラン、スパンティークなど。ここでは七千メートル以下の山には名前が付いていないとか。朝日が射すと雪をかぶった山頂がまずポッと赤くなり、次第に下に広がっていく。これほど見事な朝焼けを見たのは初めてかもしれない。

フンザは杏(あんず)の里とも呼ばれているが、花の季節ではなかったのでどれが杏か分からなかった。その代わりポプラの木が目についた。天に向かってまっすぐに伸びるポプラは町の景観の引き立て役、ポプラがなければカリマバードの魅力は半減すると思った。すでにポプラは黄葉が始まっており、スストでは落葉も始まっていた。

カリマバードは石垣の町でもある。地面を掘れば際限なく石が出てくる土地なので、それを積んで塀や壁にしているのである。ここの民家は石を積んで壁を作り、その上に木を横に渡して屋根にし、水平な屋根の上には水が漏らないように厚く泥が塗ってある。ところが石の積み方はどこも乱雑で美しいとは言いがたく、石垣にしても屋根にしてもみんな少しゆがんでいる。自家製だとしても、もう少し真っ直ぐ積めないものかと思った。

パキスタン名物のひとつに、はなばなしく飾り付けされたデコレーション・トラック、通称デコトラがある。デコトラの装飾は半端なものではなく、車体全体にすき間なく模様が描いてある上に、鈴や風車や魔除けのリボンといったものまで少なからず付いている。

何のために装飾するのかとガイドにきいたら、女性が化粧するのと同じで美しくするためだという。しかし金があり余っている人間が道楽でトラックを飾るというなら分かるが、どう見ても余裕があるとは思えない国の人間のすることではない、などと批判をするのは余計なお世話というものだろうか。

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