百丈和尚の話

百丈懐海(ひゃくじょう・えかい。七四九〜八一四)禅師は、唐の時代の福建省長楽の生まれ、二〇歳で西山慧照和尚のもとで出家し、南嶽の法朝律師から具足戒を受け、広く仏教を学び、馬祖大師の法を嗣いだ。

そして江西省の大雄山(だいゆうざん。百丈山)に大智寿聖寺(だいちじゅしょうじ。百丈寺)を建立して禅風を鼓吹し、い山霊祐(いさん・れいゆう。い:さんずいに為)禅師、黄檗希運(おうばく・きうん)禅師など多くの弟子を育てた。また修道生活の規則である百丈清規(しんぎ)を制定したことでも知られる。ただし百丈清規は序文しか伝わっていない。

禅師の言葉の中では、「一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食らわず」がよく知られている。禅師は高齢になっても作務(さむ)をやめなかった。そのため心配した弟子たちが、作務の道具を隠してしまった。すると作務もしなくなったが、食事もとらなくなり、断食の理由をたずねるとこの言葉を答えたのであった。

     
百丈野鴨子(やおうす)

修行時代のこと、馬祖大師のお供をして歩いていると鴨が飛んできた。大師が言った。

「あれは何だ」

「鴨でございます」

「どこへ行った」

「向こうへ飛んでいきました」

大師は百丈の鼻を思いきりひねりあげ、百丈が悲鳴をあげると言った。

「ここに居るじゃないか」(碧巌録五三。百丈野鴨子)

こうして百丈は本心に目覚め、後に馬祖大師の一喝をこうむって三日間、眼が見えず耳も聞こえなくなり、そのとき底を抜いた。

     
独坐大雄峰

百丈禅師が大雄山に住していたとき、僧が質問した。

「この世で一番すばらしいことは何でしょう」

「独坐大雄峰(どくざだいゆうほう)」(碧巌録二六。百丈雄峰)

     
百丈野狐(やこ)

百丈禅師が提唱しているとき、いつも後ろの方で一人の老人が話を聞いていた。修行者が退くと老人も居なくなったが、ある日その老人がなぜかその場に残っていた。禅師がたずねた。

「そこにいるのは誰か」

「私は人間ではありません。昔も昔の大昔、迦葉仏(かしょうぶつ)の時代に私はこの山の道場で住職をしていました。あるとき修行者の一人が私に質問しました。大悟徹底した人は因果の法則に支配されますか、それともされませんかと。そのとき不落因果(ふらくいんが。支配されない)と答えたために、私は生まれ変わり死に変わりして、五百回も狐の身となりました。願わくば正しい答えでもって、私を助けてください。大修行底の人は、因果に落ちますか、落ちませんか」

百丈禅師が答えた。「不昧因果(ふまいいんが。因果をくらまさず)」

老人は言下に大悟し、礼拝して言った。「それがし、すでに狐身を脱することができました。私の体は山の向こうにあります。できれば出家として送ってください」

そう言って老人はいなくなった。百丈禅師は大衆とともに裏山に入り、崖下に狐の死骸を見つけると、出家の作法でもって葬送した。(無門関二。百丈野狐)

劇にでもなりそうなお話であるが、一切皆空の平等の面からいえば不落因果であるし、因果歴然の差別の面からいえば不昧因果となる。

     
百丈禅師の言葉

伝灯録の中から百丈禅師の言葉をいくつかご紹介したい。

「生死の中において広く知解を学し、福を求め智を求めば、理において益無し。かえって解境の風に漂わされ、生死の海に帰せん。仏はこれ無求の人なり。これを求むれば即ちそむく。理はこれ無求の理なり。これを求むれば即ち失う。もし無求を取ればまた有求に同じ。もしよく心、木石のごとくに相似て、陰界五欲八風の漂溺する所たらざれば、即ち生死の因を断ちて、去住自由ならん」

「努力して、猛く、早く、なすことを作せ。耳聾し、眼暗く、頭白く、面皺み、老苦身に及んで眼中に涙を流すことを待つなかれ。心中おそれあわてるも未だ去処を知らず。この時に至りては脚手を整理することを得ざるなり。たとい福智多聞あるもすべて救わず。心眼いまだ開かざれば、ただ諸境を縁念して返照することを知らず。また仏道を見ず。一生のあらゆる悪業、ことごとく現前す」

百丈禅師は西暦八一四年に九五歳で亡くなり、大智禅師と諡され、塔を大宝勝輪という。

出典「景徳伝灯録巻六、洪州百丈山懐海禅師」「宋高僧伝巻十、唐新呉百丈山懐海伝」「碧巌録五十三則。同二十六則」「無門関二則」

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