チベットの話

平成十八年九月初旬、チベットを旅してきた。といっても現在チベットという国は存在しないので、正確に言うと中華人民共和国チベット自治区を旅してきたのであり、滞在したのは首都のラサだけであった。

チベット自治区の広さは日本の三倍強であるが、中国に占領される前のチベットは日本の六倍の広さがあったという。人口は公表されていないが推定二六〇万人といわれており、広大な面積にこれだけの人しか住んでいないのは、国土のほとんどが不毛の土地だからである。そのことは飛行機の窓からこの国を見下ろすと納得できる。

チベットの大気は乾燥して澄み切っている。そのため空は青く、雲は白く、遠くの山々も近くに見える。この国は春霞やおぼろ月夜といったものとは無縁の国なのである。また平均標高が四千メートルという高原の国であり、ラサの標高三六五〇メートルは富士山の九合目に相当する。そのためラサの大気濃度は下界の六五パーセントしかなく、空気が薄いため日射しはきついが日陰に入るとひんやりとする。

何回か富士登山の経験のある私は、富士山の九合目ぐらいで高山病などかかる筈がないと高をくくっていたが、私も含めて同行者のなかに無事な人は一人もいなかった。ラサには昼ごろ到着し、高山病の症状はすぐには出ないものなので、日中はみんな元気にしていた。症状が出たのは夜寝てからであり、寝ると酸素摂取量が減るため発症しやすくなるのである。だから高山病になったからといって寝てばかりいるのは良くない。

私の場合、頭痛と食欲不振がおもな症状であり、頭痛のため起きていられないのに眠ることもできず、ご馳走が並んでいるのにお粥とマーボ豆腐しか食べられず、心臓にも負担がかかっているらしく不整脈もあった。人によっては体のむくみ、吐き気、下痢、発熱をともなうというが、これらはまだ初期症状である。

旅の案内書には「高山病は年齢、性別、体力のあるなし、陸路と空路の別にかかわらず、かかる人はかかるし、かからない人はかからない。前回問題なくても今回大丈夫とは限らない。重篤な人では視力障害や幻覚が出ることもあり、脳浮腫や肺浮腫で死に至ることもある」とある。かかる人はかかる、かからない人はかからない、というのは卓見であるが、やはり若い人はかかりにくいらしく、いちばん若年の添乗員はいちばん軽症であった。

またこの年の七月に青海湖(せいかいこ)方面からの鉄道が開通しており、それを利用してやって来た人の話では、鉄道で時間をかけて上がってくるとやはりかかりにくいといっていた。

高山病対策としては、到着した日はおとなしくしていること、深呼吸をすること、水を大量に飲むこと、などが挙げられる。深呼吸で頭痛が軽減することは私も体験し、これは下界でも気分転換に利用できると思った。水を飲んで新陳代謝をよくする方法は、中国軍がチベット侵略のとき利用した方法だという。なお風呂やシャワーは厳禁である。高山病に悪いだけでなく、かぜをひくと命取りになる。だから、かぜをひいている人がチベットに来るのは自殺行為だとある。お酒もよくない。

ラサの宿には高山病のための医務室が付属しており、主な治療は点滴と酸素吸入である。点滴の中には高山病の薬が含まれているし、お粥ぐらいしか食べられないから栄養補給の必要もあるし、受けた人の話ではかなり効果があったというから、症状が出たら早めに点滴を受けるのが正解だと思う。ただし酸素吸入の方は頼りすぎると高地順化が遅れるという説がある。同行の一人が一晩入院させられたぐらいなので、高山病は軽視できない。

     
被占領国チベット

一九五九年(昭和三四年)にチベットは中国に占領され、統治者のダライラマはインドへ亡命した。それ以後インドやネパールへ脱出したチベット人は十万人ともいわれ、現在も脱出は続いている。イギリス人権委員会の調査によると、侵略によるチベット人の犠牲者は百五〇万人にのぼるとされ、侵略時のチベットの人口ははっきりしていないが、およそ三分の一から半分が、殺害、獄死、餓死などで死んだことになるという。

現在ダライラマはチベット亡命政府をインドのダラムサラに設立し、中国政府と対峙している。そのためダライラマの写真やチベット国旗をチベット国内で所持することは禁止されており、旅行案内書に載っていたダライラマの写真が、空港の検査で破り捨てられたこともあるという。監視の目は厳しく、いたる所に警察官がいる状況なので、ダライラマや政治問題に関する質問には答えられないと現地ガイドはいう。

チベット自治区に住むチベット人の割合は、人口の七〇パーセントぐらいとされているが、一九五〇年以前は九五パーセントであったとされ、この数字はどんどん小さくなっているという。その理由は中国政府が、チベットを中国化するため漢民族を移住させる政策をとっているからであり、すでにラサではチベット人の方が少数になったという。ただし中国政府は都合の悪いことは公表しないので詳細は不明である。

もちろんこうしたことにチベット人は反対しているが、中国の圧倒的な軍事力に対抗するすべはない。そのためラサは中国のほかの都市と同じような町になっており、チベットに来たという感じはしなかった。

現在のチベット人の総人口は、チベット自治区に二百万人弱、世界全体で六百万人程度といわれる。これだけの人数で特色のあるチベットの文化を創造し維持してきたのだから、彼らは偉大な民族なのだろう。

チベットの悲劇は住民があまりに宗教的すぎたことが原因の一つかもしれない。宗教は古いものを大切にするから、宗教重視の社会は近代化が遅れる傾向がある。そこを中国につけ込まれたのだと思う。しかしチベット人たちは、仏教という人類の宝を守っていくのが自分たちの使命である、という強固な信念を持っているように見える。

チベットが他民族に占領されたのは今回が初めてではなく、十三世紀にジンギスカンの孫のクデンに占領されたことがあった。ところがチベット人はしたたかな民族であり、武力ではモンゴルに敵わなかったが、占領されたことを逆利用してチベット仏教をモンゴルに布教することに成功した。そして熱烈な仏教信者となったモンゴル人が、チベットに大量の貢ぎ物をするようになったため、チベットは占領されたことでかえって豊かになったという。現に今でもモンゴル僧がチベットの僧院に修行に来ているのである。

そのうえ中国に元王朝を建国したフビライを初めとして、元の歴代皇帝はチベット仏教の高僧を国師として中国に招き、また満州族が建国した清王朝もチベット仏教に傾倒していた。そのためチベット仏教は中央アジアだけでなく、中国、満州、ロシアにまで広まっていったのである。

チベット国内の仏教は、文化大革命のとき、寺が破壊されたり、出家者が殺されたり、還俗させられたりして、壊滅的な打撃を受けた。そのためデブン寺、セラ寺、ガンデン寺などの重要な寺は、インド在住のチベット人により南インドのムンゴットに同名の寺が建てられ、チベット仏教はそれらの寺で生き残りをかけて人を育て、全世界に向けて布教をおこなっている。中国の侵略という未曾有の災いを跳躍台にして、彼らは新たな時代の仏教を開拓していくと思う。

     
鳥葬の国チベット

鳥葬というのは遺体を鳥に食べさせて処理する葬法のことをいい、チベットと聞くと鳥葬(ちょうそう)の国という言葉が浮かんでくる。しかしいくらチベットでも今はしていないだろうと思っていたら、今でももっとも一般的な葬法として行われているという。

セラ寺を訪ねたとき、裏山の頂上付近に立っているたくさんの旗をガイドが指さし、あそこが鳥葬の場所だと教えてくれた。山の反対側にある道で遺体を中腹まで車で運び、その先はかついで鳥葬場所へ運びあげ、岩の上に横たえるのだという。

仏教では火葬が伝統的な葬法なのに、なぜ鳥葬を行うのだろうか。おそらくその一番の理由は薪がないことだと思う。ラサはキチュ川という大河が流れるチベットでは水に恵まれた場所にあるが、それでも周囲の山に木はまったく生えていない。おそらく森林限界を超えているため木が育たないのであろう。だとすると植林も不可能であり、そのため今でも多くの人がヤク(高山性の牛)のフンを燃料にしている。

また宗教的な理由もあるらしい。それは、生きるために山ほど生き物を殺して食べてきたのだから、自分が死んだときには他の生き物に食べてもらおう、という布施と平等の精神から来る理由である。また遺体は単なる抜け殻にすぎないのだから、他の生き物に与えてもかまわないと、輪廻を信じるチベット人は考えているのかもしれない。

鳥葬というと、遺体を置いて立ち去りあとは鳥に任せるのだろう、と思いたくなるが、河口慧海師のチベット旅行記によると、チベットのやり方はそうではないようである。慧海師は一九〇〇年に仏教研究のためチベットに密入国し、日本人で初めてラサの寺で修行した禅僧である。慧海師は次のようなことを書き残しているが、今もこうした方法で鳥葬が行われているかどうかは分からない。

「まずその死骸の布片を取って岩の上に置く。で、坊さんがこちらで太鼓をたたき鉦(かね)を鳴らして御経を読みかけると、一人の男が大いなる刀を持って、まずその死人の腹をたち割るです。そうして腸を出してしまう。それから首、両手、両足と順々に切り落として、皆別々になるとそれを取り扱う多くの人達が料理を始めるです。

肉は肉、骨は骨で切り離してしまいますと、峰の上あるいは岩のさきに居るところの禿鷲はだんだん下の方に降りて来て、その墓場の近所に集まるです。まず最初に太腿の肉とか何とか良い肉をやり出すと沢山な鷲が皆舞い下って来る。

もっとも肉も少しは残してあります。骨はどうしてその禿鷲にやるかというに、大きな石を持って来てドジドジと非常な力を入れてその骨を叩き砕くです。その砕く場所もきまって居る。岩の上に穴が十ばかりあって、その穴の中へ大勢の人が骨も頭蓋骨も脳味噌も一緒に打ち込んで細かく叩き砕いたその上へ、麦焦がしの粉(ツァンパ)を少し入れてごた混ぜにしたところの団子のような物を拵えて鳥にやると、鳥はうまがって喰ってしまって残るのはただ髪の毛だけです」

遺族は遺体がきれいに食べ尽くされるのを喜ぶというから、チベット人に墓は不要なのである。

     
五体投地の国チベット

熱心な仏教徒ばかりというチベット人の生活は、仏教なしでは成り立たないような感がある。そのためチベットの旅はどうしても仏教探訪の旅になってしまう。なおチベット仏教は以前はラマ教と呼ばれていたが、この言葉にはチベットの奇妙な仏教という響きがあるため、現在は使われなくなった。

チベットはヒマラヤ山脈を越えればそこはインドという所に位置しているため、この国の仏教はインド直輸入の仏教である。そのため中国化された仏教が土台になっている日本仏教とはかなりの違いがある。また東南アジアの仏教とも大きな違いがある。東南アジアに伝わったのは上座部(じょうざぶ)仏教と呼ばれる初期の形態の仏教であり、チベットに伝わったのは大乗仏教と呼ばれる後期の仏教である。仏教は十三世紀ごろに生まれ故郷のインドから姿を消すが、その消滅直前の最終段階の仏教をチベットは輸入したのである。

大乗仏教という点では日本仏教と同じなので、チベットの寺には日本人にもなじみの深い、釈迦如来、阿弥陀如来、観音菩薩などが並んでおり、ダライラマは観音菩薩の化身とされている。それに対して東南アジアの寺の仏像は釈迦如来だけである。

チベット人は五体投地(ごたいとうち)の好きな人たちである。五体投地は、頭、両手、両足、の五点を地につける礼拝法であるが、チベットのやり方は日本式と大きな違いがあり、彼らが寺院の前でおこなっている五体投地は、野球の前方滑り込みのように体を大地に投げ出す、まさに五体を投地する礼拝である。そのため体を傷めないように床の上には布団が敷いてあるし、ひざやひじにクッションを当てている人もある。それを朝から晩までやっている人もあるが、苦しい修行をしているという感じはなく、バター茶を飲んだりお喋りしたりしながら楽しげにやっている。

     
カイラス山

チベットの西方に聖地の中の聖地、チベットで究極の巡礼地とされているカイラス山がある。ラサからカイラス山まで、直線距離では約九百キロ、道のりでは千二百キロあるというが、その全行程を五体投地で巡礼する人もある。体の前面全体をおおう革製の上着を身につけ、手にも靴をはいて五体投地の礼拝をし、手が届いたところに小石を置いて、そこから次の五体投地をする、ということを繰り返しながら前進するのである。

ちなみに一回の五体投地で二メートル前進できるとすると、片道千二百キロでは六万回、往復では十二万回になる。五体投地でカイラス山へ行った日本人はまだいないはずなので、体力に自信のある人は挑戦してみてはいかがだろうか。こうした巡礼では家族や弟子がつき添って、荷物運び、テント張り、食事の用意、などの世話をすることが多いという。当然、一人の場合は五体投地で進んだあと荷物を取りに戻ることになる。

ラサからカイラス山まで、五体投地で半年、歩きで四〇日、バス旅行だと往復二週間ぐらいかかるということで、出発点はラサの中心にある大昭寺(だいしょうじ)である。ジョカンと呼ばれるこの寺は、ラサで一番神聖な寺とされており、ラサにやってくる巡礼たちの最終目的地でもある。

カイラス山に到着すると、山を一周する五二キロの巡礼路が待っている。この道を一周すると今生の罪が洗い流され、十周すると一劫(ごう。きわめて永い時間の単位)の罪が清められ、百八周すると涅槃に入ることができるといわれる。巡礼路には標高五六六八メートルのドルマ・ラ(峠)があるため、チベット人なら一日で歩けるが日本人だと死ぬ気で歩いても三日かかるという。

カイラス山は、仏教では世界の中心にある須弥山(しゅみせん)、ヒンズー教ではシバ神の住む山、ジャイナ教では開祖が悟りを開いた所、チベット古来のボン教では開祖が天から降り立った所とされており、いずれの宗教でも聖地になっている。カイラス山の北側は全体が切り立った壁になっていて、形がシバ神のリンガに似ている。シバ神が住むとされるのはそれが理由であろう。

特異な山容で人目を奪うカイラス山だが、この山の標高は六六五六メートルであるから、チベットでは高山の仲間に入らない。とくにチベット西部は平均高度五千メートルという高原になっているから、この山は高さだけ考えればどこにでもある峰の一つにすぎない。それがなぜ聖山になっているかとガイドに質問したら、予想した通りの答えが返ってきた。

それは、この山が四つの大河の源流に位置していることである。その大河とは、インダス川、インダス川最大の支流サトレジ川、ガンジス川支流のカルナリ川(昔はこれがガンジスの源流とされていたという)、チベット最大の川ヤルン・ツァンポー、の四つである。

またカイラス山の南三〇キロにはマナサロワールという湖があり、この湖の存在もカイラス須弥山説の一つの理由らしい。この湖が須弥山の南、大雪山の北にある竜王が住むという湖、東西南北に四つの川を分出し世界全体を潤しているという阿耨達池(あのくだっち)とされているからである。なお日本人で最初にこの地へ来たのは河口慧海師である。

ヤルン・ツァンポーはチベットの母なる川と呼ばれる大河であり、ヒマラヤ山脈の北側を山脈と平行して東へ流れ、山脈の東のへりを回り込んで南下し、バングラデシュでガンジス川に合流している。この川はインドではブラマプトラ(天地創造の神ブラフマンの子の意味)川と呼ばれており、この川の方がガンジス川よりも長いので、ガンジス川はこの川の支流ということになる。なおツァンポー川となっている地図があったが、ツァンポーは川を意味するチベット語である。

     
問答の国チベット

チベット仏教の特色の一つは問答である。問答というと禅宗で行われている禅問答を思い浮かべるが、禅問答とチベットの問答には大きな違いがある。禅問答の目的は言葉を超えた悟りの世界を端的に示すことであり、そこに理屈は入ってこない。

それに対してチベットの問答は、思想や哲学の優劣を問答で決する、というインドの伝統を受けついだ論理的な問答であり、相手をやり込めるための論戦問答である。とうぜん対象となるのは言葉の世界であり、そのためチベット仏教を学ぶには因明(いんみょう。論理学)が不可欠とされる。

チベット仏教は言葉の世界を超える前に、言葉の限界を見極めようとしているのかもしれない。論理の果てまで行ってから、論理を超えた世界に飛び込むということであるが、それに対して禅は初めから言葉を超えることを求めており、論理を超えた所が修行の出発点になっている。どちらがいいかは分からないが、理屈っぽい欧米人には理屈っぽいチベット仏教が合うかもしれない。

セラ寺の中庭では毎日、観光客が注視する中で数十人の修行者が問答をおこなっている。この点でも密室の中でおこなう禅問答とは大きな違いがある。問答は二人一組でおこなわれており、しかける側は立ち姿勢でたたみ掛けるように大声で問いを発し、答える側は石の上などに腰を下ろした姿勢でやり返す。この役割は一日交替だという。大げさな身振り手振りでやっているから、言葉は分からないが見ていて面白い。

しかし毎日、午後三時から二時間半も問答するというから、声を出し続けるだけでもたいへんであるし、毎日の勉強もたいへんである。目の前の二人は何を問答しているのかとガイドにきいたら、お経の一節を問題にしており、両者の意見は食いちがい対立しているという説明だった。観光客の近くでやっているのは問答になれた修行者のようである。

こうした公開問答は、衆人環視の場に慣れさせるとか、本気になりやすい、などの長所があって行われているのだろう。またチベット仏教の自信のようなものも感じた。問答をしていた庭にはチベットには珍しく木が生い茂っていた。

このセラ寺で修行した最初の日本人は河口慧海師である。境内には彼の霊塔も立っており、それがチベットで唯一の日本人の霊塔だと説明されたが、見ていないので霊塔とは何か分からない。チベット旅行記の中で慧海師は、問答の方法と精神を次のように説明している。なお問答は文殊菩薩の真言を唱えてから開始されるという。

「問答は因明の論理学のやり方であって、因明論理の法則によりまず始めに『仏というものは人なるべし』」と言うて問いかけると、答え手は『そうである』とか『そうでない』と答える。

もし『そうだ』と言えば、一歩を進めて『しからば仏は生死をまぬかれざるべし』となじる。そこで答えて『仏は生死をまぬかれたり』と答えると、問い手は『仏は生死をまぬがれず。何となれば仏は人なるがゆえに、人は生死をまぬかれざるがゆえに、汝はかく言いしがゆえに』と畳みかけて問い詰めるので、そこで答え手がやり手でありますと『仏は人にして生死をまぬかれたり。仏の生死は仮に生死を示現したり』などと言うて、仏に法身報身化身の三種あることを解するようになるのです。

またもし『そうでない』と答えると、『いやインドの釈迦牟尼仏は確かに人であった。これはどうであるか』というようにどこまでもなじって行く。どっちへ答えてもなじるようにしてだんだん問答を進めますので、その問い方と答え方の活発なる事は真に懦夫(だふ)をしてたたしむるのおもむきがあるのです。

その例を一つ申しますが、今問い手が言葉を発すると同時に左の足を高く揚げ、左右の手を上下向かい合わせに拡げて、その手をうつ拍子に足を厳しく地に打ち付ける。その勢いは地獄のフタも破れようかという勢いをもってやらなくてはならんというのであります。またそのその打った手の響きは、三千大千世界の悪魔の肝をこの文殊の知恵の一声で驚破する程の勢いを示さなければならんと、その問答の教師は常々弟子達に教えて居るのです。

そこでその問答の底意は、己が煩悩の心を打ち破って己が心の地獄を滅却するために勇気凛然たる形をあらわし、その形を心の底にまで及ぼして解脱の方法とするのであります。まあそんなふうな元気をもって問答をやるので、決して儀式にやって居るようなものではない。しかしこれをやるには始めから仏教を知らんではやれない訳ですが、やはり問答の教科書及び参考書がたくさんあって、年々それに相応する取り調べをして、一年一年に及第して二十年間の修行を積んで始めて博士の位を取るようになるのでございます」

     
現地ガイドは菩薩さま

現地ガイドはツーテン・ドゥーカという二六歳の女性だった。ツーテンは永遠の平安、ドゥーカはターラー菩薩を意味し、チベット人の名前には姓がないという。観音菩薩の涙から生まれたというターラー菩薩には白と緑の菩薩があって、ドゥーカは白の菩薩を意味しており、その名の通りチベット人にしては色白の目の大きな女性だった。彼女の名前はリンポチェ(活仏)に付けてもらったものであり、ほとんどの人がラマ(高僧)やリンポチェに名前を付けてもらうので、チベット人には同じ名前の人が多いという。

ターラー菩薩は日本ではなじみのない仏さまだが、調べてみたら密教の中に多羅菩薩として登場していた。仏教語大辞典で多羅菩薩を調べると、「ターラーは瞳の意であり、瞳子、妙眼精と漢訳する。蓮華部の部母であって定の徳を司り、女形をしている。観音の眼から生じ、普眼によって衆生を摂受する」とあった。

彼女の父親はもとはお坊さんであった。ところが文化大革命のとき無理やり還俗させられ、その後結婚して彼女が生まれたという。その父親は今どこかへ巡礼に出ているという。「お金がなくても巡礼はできる。健康だけが必用なことです」と言っていた。一番尊敬しているラマは誰かときくと、ダライラマとパンチェンラマだという。この二人の活仏の人気は衰えていないらしい。

参考文献
「チベット旅行記」河口慧海 講談社学術文庫1978年
「チベット生と死の智恵」松本栄一 平凡社新書2002年
「わたしのチベット紀行」渡辺一枝 集英社文庫2003年
「チベット遠征」スヴェン・ヘディン 中公文庫1992年
「チベット密教」ツルティム・ケサン 正木晃 ちくま新書2000年
「チベットの七年」ハインリヒ・ハラー 白水社1997年
「旅行人ノートチベット第三版」旅行人編集部 1996年
「地球の歩き方チベット」2004〜2005年版 地球の歩き方編集室
「チベット入門」一九九九年 チベット亡命政府 情報・国際関係省

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