紫の姫の物語

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14 紫の姫の章

 春が過ぎ、夏が過ぎた。お兄さまの忍び歩きはだいぶ落ち着いて、公務以外は、わたくしの側で過ごす時間が長くなっている。藤壺さまのお邸の周囲をいくらうろうろしても、もはや入り込む隙がないらしい。
 よかったわ。藤壺さま付きの女房も、お兄さまに泣きつかれて手引きをすることは、きっぱりやめたらしい。それでこそ、本当の主人思いというもの。あるいは、疑わしい女房を、藤壺さまが遠ざけたのかもしれないけれど。
 貴族や皇族の女にとっては、邸内の女房たちの統率こそ、最も難しい課題なのだった。
 自ら望んで女房勤めをしている女たちは、下手をすると、女主人より美しかったり、教養や才覚があったりする。当然、彼女たちを使う側は、ただ優しいだけではなめられる。といって、厳しいだけでは恨まれる。普段はおっとり、でも節目はきっちり、という態度が望ましい。
 それに気付いてから、わたくしも、あれこれと気を回すようになっていた。
 彼女たちの健康を気遣ったり、季節毎にちょっとした贈り物をしたり、車で気晴らしの外出をさせたり、身内の病気や不始末などの困り事で、助けの手を差し伸べたり。
 宮中が右大臣さまと弘徽殿こきでんさまに支配されている現在、お兄さまも左大臣側の方々も、以前ほどは自由が利かないけれど、それでもまだ、できることはある。人脈をたどって、彼女たちの夫や兄弟の仕事口を見付けたり、お役目上の失敗をかばったり、有益な情報を伝えたり。
 おかげで、昔からいるお兄さま付きの女房たちも、ようやく、西の対のわたくしを、二条院の女主人と認めてくれるようになっている。
 一応は結婚の儀式を済ませたといっても、ごく内輪の簡略なもの、しょせんは愛人ではないか、という見方が、古参の彼女たちの間では根強かったのだ。
 それに、無理のないことだけれど、お兄さまの手の付いた女たちには、わたくしに対する嫉妬や反感もある。
(光君さまとは、わたくしの方が長いお付き合いなのよ)
(わたくしの方が、お癖やお好みを心得ているわ)
(光君さまの秘密だって、あれこれ知っているのよ)
 という自負があるのだ。それを傷つけないよう、やんわりおだてて付き合いながら、少しずつ、こちらの権威を納得させていく。
 まあ、それができたのは、お兄さまがわたくしを妻として立ててくれたからだけれど。
 おかげで、宮中はともかく、二条院の内部はうまく治まっていた。どうかこのまま、穏やかに日が過ぎていきますように。
 わたくしは、この世の大抵の女たちより、はるかに恵まれている。もしもこの上、望むことがあるとすれば、それは、赤ちゃんを授かること。
 わたくしと同じ年頃の女房たちは、次々に恋人を作り、あるいは結婚し、赤ちゃんを産んでいる。そして、乳母めのとを雇ったり、実家の母親に預けたり、自分で乳をやったりしながら、家庭と職場を往復している。
 わたくしも何度か、彼女たちの子供を抱かせてもらった。お乳の匂いがする幼子は、本当にふくふくして愛らしい。おとなしく眠っている時でも、そっくり返って泣いている時でも、這い這いして虫を追っている時でも、夢中で母の乳房に吸いついている時でも、わたくしには珍しく、見ていて飽きない。
(わたくしも早く、自分の子を抱きたい。自分でお乳をやりたい)
 という思いで一杯になってしまう。
 人の子でもこんなに可愛いのだから、まして、お兄さまの子供だったら、どんなに愛しいだろう。
 でも、焦ってはいなかった。わたくしは健康なのだし、まだ若いのだから。いずれそのうち、何人も産めるに違いないわ。
 葵の上さまがお産で亡くなっているので、少しは恐れもあったけれど、それは悩んでも仕方のないこと。
 よく食べて、よく動いて、元気に過ごしているのが一番、と少納言も言う。こればかりは少納言も、品格より実利を取るらしい。几帳きちょうに囲まれてじっとしている姫君より、くるくる働いている庶民の女の方が、お産も軽いことが多いのですって。
 だから、わたくしが身をやつして市に出掛けても、馬に乗ってお花見に巡り歩いても、川遊びをしても、若くて身軽な女房や、気が利く牛飼童うしかいわらわ、慣れた警護の者たちさえ付いていれば、あまり文句は言わなくなってきた。いい傾向だわ。

 やがて、冬が来た。
 桐壺院が亡くなってから、もう一年が過ぎてしまったのだ。いまだ嘆き、御代みよを懐かしむ人もいるけれど、世間はおおかた、右大臣家に媚びることに慣れてしまっている。
 わたくしたち左大臣側には、いっそう身に染む寒さというわけ。わたくし個人にとっては、お兄さまの夜歩きが減った分だけ、心安らかと言えるかも。
 冷たい風の吹き渡る、曇りがちの夕刻だった。
「この様子では、雪になるかもしれませんわね」
 と空を見上げて女房たちが言う。わたくしは部屋を炭火で暖め、熱い食事を用意させて、お兄さまの帰りを待っていた。ここのところ、桐壺院の一周忌の御法事が続いている。
 けれど、そのお兄さまはなぜか、真っ青な顔で戻ってきた。そのまま自室の御帳台みちょうだいに籠もってふすまを引きかぶり、いくら勧めても食事も摂らない。
 亡き方々のための、藤壺さま主催の法華八講会ほっけはっこうえに参列しただけなのに、どうしたというのかしら。
 やがて、噂が入ってきた。
 その法会ほうえの最終日、藤壺さまが突然、ご自分の結願けちがんとして出 家の決意を示されたのだという。
 そして、叡山えいざん座主ざすをお召しになって戒をお受けになり、伯父上である横川よかわ僧都そうずにお願いして、その場で御髪みぐしをおろされたという。
 列席の人々は驚き、嘆き、
「まだお若いのですから、早まったことは」
「何も尼姿にならずとも、桐壺院のご冥福は祈れますのに」
「どうか、お心を強く持たれて、考え直されて下さいませ」
 と、わたくしのお父さまが中心になって、必死でお止めしたそうだけれど、藤壺さまは揺るがぬご決意で、むしろ晴れやかなご様子であったとか。
「わたくしを差し置いて、院のための大掛かりな法会を主催するなど、生意気な」
 と最初はご不興だった弘徽殿の大后さまは、藤壺さまの出家を聞いて、
「おや、そういうご決意でしたの。それはそれは、ご立派ですわ。見上げたご覚悟ですこと」
 と勝ち誇ったように高笑いなさったらしい。これでますます、宮中は弘徽殿さまの思いのまま、というわけ。
 でも、それで、お兄さまの受けた衝撃がわかった。
 出家するということは、俗世への執着を断ち切ること。一切の愛欲の情を捨て去ること。
 つまり、お兄さまにとっては、別離の宣言に他ならない。いくら能天気なお兄さまでも、出家した女性を口説くような罰当たりな真似は、とてもできないのだから。
 わたくしも驚いたけれど、ほっとした部分が強い。
(よかった。藤壺さまが、決断して下さって)
 これでもう、お兄さまも、きれいさっぱりあきらめがつけられるでしょう。東宮さまのおためにも、その方がよかったのよ。
 甘ったれのお兄さまは、しばらく泣き崩れているだろうから、放っておくことにした。泣き疲れた頃に、様子を見に行けばいいわ。
 そう思って、ちらちらと雪の降りだした一晩、離れて過ごした。
 憧れの方の出家、ご自分の青春の終わりを、思う存分嘆き悲しめばいい。わたくしだって、さんざん泣いたのだから、これで釣り合いがとれるというものよ。

 そうして、翌日の朝。
 お庭の木々には白く雪が積もっているけれど、昨日の厚い雲は去り、あたりには明るい日差しが注いでいた。人の行き交う小道や中門ちゅうもん車宿くるまやどりのあたりは、既に雪が除けられ、乾き始めている。この分では、残った雪も、じきに溶けてしまうだろう。
「紫の上さま、どういたしましょう。光君さまは、昨日から、お食事もなさらないのですが」
「格子も開けるな、うるさいから誰も来るな、とおっしゃるのです」
 と心配する女房たちを下がらせておき、わたくしは、お兄さまの居室である東の対に踏み込んだ。格子をきっちり下ろしているから、中は暗い。
「あなた、雪は止みましたわよ。お起きにならないのですか」
 本人は、あちこちに畳紙たとうがみ檜扇ひおうぎ直衣のうし指貫さしぬきを散らかし、単姿で御帳台の中に伏していた。
 左大臣さまからいただいたという、立派な石帯せきたいも放り出したまま。
 破り捨てた薄様うすようの切れ端が何枚もあるのは、藤壺さまからのお文なのかしら。それとも、ご自分の書き損じなのかしら。
 もしも滅多な内容だったら、女房たちに見られないうち、火桶で焼き捨てておかなくては。
 わたくしが近づくと、真綿入りの衾をかぶっていたお兄さまは、涙でぐしょぐしょの顔を上げた。わたくしは小袿こうちきの裾を優雅にさばいて座り、
「どうなさったの」
 と、すまして尋ねてみる。すると、このお馬鹿はぐずぐず鼻をすすり、
「あの方が、あの方が」
 と母親に何か言い付ける子供のように、わたくしに訴えるのだった。藤壺さまに見捨てられた、と。
「あの方はもう、わたしのことなんか、どうでもいいんだ。出家なさって、俗世のことはみんな忘れてしまう。わたしには母上も、お祖母さまももういないのに。夕顔も、葵の上も、六条の御息所も、みんな、みんな、どこかへ行ってしまう。父上も、わたしを残して逝かれた。誰も、わたしの側に残ってくれないんだ。その上、あの方まで出家だなんて。これからどうやって、何のために生きていけばいいというんだ」
 と身もだえして嘆く。
 まったくもう、馬鹿なんだから。
 自分が藤壺さまを困らせ、追いつめるから、こういうことになったんじゃないの。
 無理に押し入られ、不義の子をはらまされた藤壺さまこそ、いい迷惑というもの。
 よもや藤壺さまの側から、お兄さまを引き入れたわけではないはずよ。多少の好意はあったとしても、そんなもの、望まぬ妊娠で吹き飛んでしまったはず。
 今となっては、おそらく、お兄さまの一方的な妄執もうしゅうが残っているだけ。
 東宮さまのご用事にかこつけて、普通の対面をするだけで満足していればよかったのに。そういう、大人の我慢ができないのが悪いのよ。
「そうなってしまったことは、仕方ありません」
 と静かに言い聞かせた。
「藤壺さまも、東宮さまのおために、よくよくお考えになってのこと。宮中からの風当たりも強かったでしょうし、ここは一歩引かれた方が、弘徽殿さまのお気持ちも、幾分かはおさまるかもしれません。それに、東宮さまの後見であるお兄さまが、その母君さまに、まるきりお目にかかれない、というはずはないでしょう。何か御用があれば、普通の訪問はできるのだから、口実を考えたらいいのですよ」
 子供を教え導くように、諄々じゅんじゅんと諭す。
「ほら、出家なさった方は、俗世の余計な悩み事がなくなって、長生きなさることが多いというじゃありませんか。藤壺さまもきっと今頃、清々しいお気持ちで、院のご冥福を祈っていらっしゃいますよ」
 何より、お兄さまの邪恋から逃れられて、一安心、というところだわ。
「だからね、そんなに寂しがらなくていいんです。ここにこうして、わたくしがいるでしょう」
 あなたの妻が。
「わたくしは、どこへも行きません。お兄さまが白髪になっても、歯抜けになっても、見捨てたりしませんからね。これからは、わたくしを藤壺さまの代わりだと思って下さればいいのよ」
 すると、お兄さまは呆然として、わたくしを眺めている。
 本当は、まずいやり方かもしれない。これでは、ただお兄さまを甘やかし、お馬鹿のままでいさせるだけかもしれない。
 でも、いま、この人を慰めるには、これしか思いつかない。
 身代わりで始まった関係でも、長く続けば、わたくしこそが本物になるかもしれないでしょう。
 ―お祖母さまに死に別れて、心細く泣き暮らしていた時、お兄さまが両手を広げて迎えに来てくれて、どんなに嬉しかったか。
 暑い日は釣殿つりどので一緒に昼寝をし、氷室ひむろから取り寄せた氷に甘葛あまずらをかけて食べ、池に舟を漕ぎ出して水遊びを楽しんだ。
 秋はお月見や紅葉紅葉もみじ狩り、重陽ちょうようの節句。
 冬は暖かい塗籠ぬりごめで物語を読んだり、庭に降りて雪遊びをしたり。
 春は若菜摘みや桜巡り、物詣ものもうでに連れ出してもらった。
 どんなに楽しい、晴れやかな日々だったことか。
 この人にどんな欠点があるとしても、やはり、愛している。わたくしにとって、生涯ただ一人の殿方。この人を守れる妻は、わたくしだけのはずよ。
「わたくしが、お母さまの代わりです。泣きたい時は、いつでもわたくしの膝を貸して差し上げます」
 と優しく言うと、お兄さまは信じられないように、まじまじとわたくしを見る。
 ちょっと、子供扱いしすぎたかしら。生意気を言うな、と怒りだすかもしれない。そうしたら、わたくしも怒ってやるけれど。
 でも、お兄さまは、わたくしの膝にがばりと身を投げてきた。そして、安堵が混じった勢いで、盛大にすすり泣く。
 涙がはかまに染みた。熱いのか冷たいのか、よくわからない。世間から見れば理想の貴公子でも、中身は一生、幼子のままなのかもしれない。わたくしはもう、そんな時期は通り過ぎてしまったのに。
「いい子、いい子ね。もう大丈夫。わたくしが付いていますよ」
 頭を撫でて、慰め続けた。この人は本当は、顔も覚えていないお母さまが恋しいだけなのかもしれない。藤壺さまこそ、お母さまの形代かたしろだったのではないだろうか。
 でも、それなら、わたくしだって構わないわけだわ。
 いいえ、わたくしこそ、お兄さまの一番の理解者よ。
 藤壺さまは、ご自分の御子を優先なさるのが当たり前。でも、わたくしは、この人を置いては、どこへも行かない。
 たとえ出て行きたくても、行く場所がないのよ。頼れる実家もなければ、自分名義の財産もないのだから。
「よかった、あなたがいてくれて」
 やがて、泣き止んだお兄さまはそう言って起き上がり、照れ笑いしてみせた。だいぶ、気持ちを落ち着けた様子。わたくしだけはどこへも行かない、そのことを信じてくれたらしい。
「それでは、何か温かいものを運ばせましょうね。お腹がお空きでしょう」
「うん、頼む」
 と素直に言う顔を見て、わたくしは、
(勝った)
 という気がする。
別に、藤壺さまに張り合うつもりではなかったけれど、やはり、負けたくないと、深い所で念じていたのかもしれない。
 とにかく、いま、この人の隣にいるのはわたくし。
 今後もずっと、わたくしこそが正当な妻。
 そのことに、深く安堵している自分がいる。
 わたくしがこうして甘えさせている限り、この人はわたくしを頼るだろう。わたくしを慕い、まとわりつくだろう。
 それは本当は、この人を損なうだけかもしれない。びしびしと厳しいことを言ってやって、大人の自覚を持たせるべきなのかもしれない。
 でも、それをしたら、この人はよそに逃げるわ。帝の御子という身分、天下有数の美貌と才気、無邪気な愛嬌、これだけ備えていたら、どこの女も、喜んでこの人をちやほやするもの。
 いいえ、渡さないわ。この人は、ずうっとわたくしが面倒みるの。いつか、わたくしが先に死ぬようなことになったら、その時は、許してもらうしかないけれど。
 その時までには、きっと子供を産んでおくわ。家族は、増やすことができるのよ。わたくし、あなたにたくさんの子供と、孫をあげる。そうしたら、いつか老いて死ぬ時が来ても大丈夫。回りを囲んでくれる家族がいたら、満足してけるはず。
 だから、わたくしを愛してちょうだい。早く、あなたの子供を授かるように。

 事態は急速に悪化した。
 お兄さまときたら、前からの恋人である朧月夜おぼろづきよの姫の元へ忍んでいって、こともあろうに、お父上の右大臣さまに見付かってしまったのだ。
 その晩、生憎と激しい雷雨になってしまったもので、心配なさった右大臣さまが、姫さまのお部屋にお見舞いに立ち寄られた。逃げ損ねて姫さまの御帳台に隠れていたお兄さまは、言い訳しようのない密会の現場を目撃されてしまった、というわけ。
 まったく、この難しい時期に、何という大間抜けなの。
 よりによって、敵地同然の右大臣邸に忍び込んでの逢瀬おうせだなんて。
 同じお邸に、弘徽殿の大后さまも里帰りしていらしたというのに。
 朧月夜の姫は、元々、入内じゅだいが決まっている方だった。つまり、朱雀帝あにぎみさまの婚約者。
 それが、お兄さまとの軽はずみな恋愛沙汰のおかげで正式な入内ができなくなり、苦肉の策として、女官長である尚侍ないしのかみの身分で宮中に上がられたという経緯がある。
 その醜聞の時、右大臣さまは、
『我が家の大事な姫に、何ということを。妃にするべく、風にも当てずに育ててきたのに、主上さまに差し上げる前に、こんなことになるとは』
 と、ひどくお怒りになったらしいけれど、既に葵の上さまが亡くなっていたため、お兄さまと左大臣家とのつながりは、若君の夕霧さまの養育のことだけ。
『既にそういう仲ならば、いくら怒っても手遅れか』
 と考え直され、
『それならば、結婚を許してもいいかもしれん。左大臣家と手を切って、こちらの婿になって下さるなら、それなりにお世話して差し上げよう』
 と言って下さったとか。さすがは老練な政治家、現実的な判断というもの。お兄さまの人気と将来性を考えれば、敵に回すより、自分の陣営に取り込む方が有利ということ。
 それなのに、お兄さまときたら。
 ことによったら、わたくしに義理立てしてくれたのかもしれないけれど、
『いや、結婚する気はないよ。朧月夜の姫は、美人で愛嬌があるけれど、少々考えの足りない、軽薄な方だからね。妻にするには向かない』
 とすまして、そのお話を蹴ってしまった。浮気癖のやまないお兄さまが、人のことを軽薄だなんて、開いた口がふさがらない。
 それに、結婚話を断ったのならば、そこですっぱり別れておけばいいものを、逢瀬だけはこっそり繰り返していたというから、図々しいことこの上ない。右大臣さまや弘徽殿の大后さまでなくても、
(何という、けしからぬ男)
 と思われて不思議はない。
 貴族社会では、どんな事件の時も、それぞれの邸に仕える女房たち、郎党たちの人脈によって、かなり正確な噂が伝わるのだけれど、前は折れて下さった右大臣さまも、今回はさすがに、許して下さらないようだ。
「この二人は、まだ切れていなかったのか。うかうか誘いに乗る姫も愚かだが、源氏の君も何という無節操だ。しかも、わが邸内での密会とは。これではもう、主上さまに言い訳できないではないか」
 と、ひどくお嘆きとか。
 ところが、今上きんじょうさまは不思議な方。この朧月夜の姫をたいそう気に入られていて、今では女御にょうご以上のご寵愛なのだった。
 普通なら、寵姫ちょうきの裏切りはとても許せないはずだと思うのだけれど、
「光君に口説かれたら、どんな姫でも、よろめくのは仕方ないね。いいよ、わたしは気にしないから、宮中に戻っておいで」
 と寛大におっしゃっているらしい。
 いいのかしら、そんなにお優しくて。
 元々、この方は、『光源氏の君の崇拝者』なのだと聞いている。兄が異腹の弟に憧れるなんておかしな話だけれど、お兄さまが御前ごぜん伺候しこうすると、主上さまはいつも大喜びなさり、様々な遊び事を持ちかけられ、なかなか退出をお許しにならないとか。
「やはり、どんな催し事でも、あなたの姿がなければね」
 と公言なさり、お兄さまが宴の舞い手を引き受けたりなさると、うっとり見惚れていらっしゃるとか。宮中の人々からは、
「ひょっとして、周囲の女君より、源氏の君の方がずっとお好きなのでは」
 と苦笑混じりに噂されるほどだという。貴族社会では、男性同士の妖しい関係というものも、決して珍しくはないことだから。
 恐れ多いことながら、うがって考えれば、
(朧月夜の姫を通して、源氏の君と重なりたい・・・・・・・・・・
 というお気持ちなのかも。何となくわかるような、やっぱりよくわからないような、不思議なお気持ちである。
 おさまらないのは、弘徽殿さまだった。
「何という不甲斐ない!! お気に入りの姫を盗まれた上、まだそんな甘いことを言っているのですか!!」
 と、いたくお怒りらしい。
 このお気持ちは、よくわかる。客観的な立場で見れば、お兄さまが右大臣家に大恥をかかせ、煮え湯を飲ませたのだ。
「そもそも、葵の上の時も、こちらが妃にと望んだのに、源氏の君に横取りされたのですよ!! 二度目、三度目の無礼ではありませんか!! 甘い顔をしていたら、この先何度でも、同じ無礼を繰り返しますよ!!」
 わたくしも、たぶん、そうだと思う。よほど痛い目に遭わなければ、お兄さまはりない。自分のすることは全て許されるという、とんでもない感覚を持っている人だから。
 そして、その感覚を維持するのに、わたくしも一役買ってしまっている。本当は、少納言がわたくしを躾けたように、もっと厳しく、お兄さまを叱り付けなければならないのに。

 とにかく、弘徽殿の大后さまは、以来、ことあるごとに、主上さまの前でも、公卿くぎょう方の前でも、公然とお兄さまを非難なさるようになった。
「源氏の君の不敬ふけいぶりは、目に余りますわ!! 聞いたところによれば、賀茂の斎院さまにも、しつこく言い寄っておられるとか!! 神に仕えるいつき皇女みこを汚すおつもりとは、何という増上慢ぞうじょうまんですか!!」
 ここで登場する斎院さまは、例の車争いの時に御禊ごけいなさった斎院さまではなく、新しく交替して斎院になられた、桃園ももぞの式部卿しきぶきょうの宮の姫君、朝顔の姫のこと。
 こちらはまあ、言い寄るというよりも、
「朝顔の姫とは、昔からの文通相手だから、季節の便りを交わし合っているだけなのに。斎院になられたからといって、急に不義理をしたら、おかしいじゃないか」
 というお兄さまの言い分が正しいだろう。朝顔の姫というのは、とても怜悧れいりな方で、最初から、お兄さまとややこしい関係になるおつもりはないらしいし。
 でも、弘徽殿さまにとっては、今が長年の憤懣ふんまんを一気に噴出させる時。桐壺院がお亡くなりになった以上、この世に遠慮する相手は一人もいない。
「あの者を、いつまで好き放題させておくおつもりですか!!」
てんじょうびと  と日々繰り返し、主上さまや、右大臣さま、その他の殿上人乳母めのとの方々に訴え続けていらっしゃる。
「でも、あのう、光君には何の悪気もないのですよ。ただ、あまりにもまばゆい存在だから、女たちがつい、よろめいてしまうだけで……」
 と主上さまが異母弟をかばおうとなさっても、弘徽殿さまにじろりと一睨みされると、真っ青になって、縮み上がってしまわれるとか。
 一見、感情的になられているだけのようにも見えるけれど、弘徽殿さまの態度には、冷静な計算も織り込まれていると思う。
 いま、口実があるうちにお兄さまを排斥するのが、政治的には正しいことなのだ。
 もし、お兄さまをこのまま好きに振る舞わせておいたら、次の時代はどうなるか。
 藤壺さま腹の東宮さまが新たな帝になり、お兄さまが新帝の補佐に付けば、皇統はそのまま藤壺側の血筋で続いていき、今の朱雀帝すざくていの血筋は、傍流ぼうりゅうに追いやられてしまうかもしれない。
 だから、弘徽殿さまがご自分の御子のため、その子孫のため、早いうちに邪魔者を排除しておこうと考えるのは、理にかなっている。

 そのうち、お兄さまに対する、公然たる嫌がらせも始まった。
 これまでも少しはあったことだけれど、桐壺院がおられた頃は、まだ右大臣方に遠慮というものがあったのだ。でも、もはや、お兄さまに意地悪しても、どこからも叱責しっせきが来ないから。
 右大臣方の公達きんだちに、通りでわざと前を横切られたり、聞こえよがしの皮肉や悪口を浴びせられたり、下襲したがさねきょを踏まれて、大勢の前で転びかけたり。
 一つ一つは些細な出来事でも、子供時代からずうっと人気者だったお兄さまにとっては、慣れていないことばかりなので、余計にこたえる様子。
 心情的にはお兄さまに味方したい者たちも、とばっちりを恐れて、知らん顔で通り過ぎていくらしい。
 ――中宮であられた藤壺さまでさえ、弘徽殿さまの権勢を恐れ、出家なさったではないか!! まして我々などに、いったい何ができる!!
 これまで、あれこれの頼み事に列をなして来ていた者たちも、時候じこうの挨拶や任官にんかんの挨拶に来ていた者たちも、ぱったり二条院に寄り付かなくなっている。門前に並んでいた馬や車の列もなくなり、従者たちの詰める侍所さむらいどころもがらんとしてしまった。
 常に誰かしらが食事していた台盤台盤だいばんも、隅の方にはほこりが積もっているくらい。
 それはもう、唖然とするほどの様変わり。
(あの時は、こちらが色々お世話したのに)
(ご子息の出世のために、口利きして差し上げたのに)
 と、わたくしたちが思っても、それはもう、全てなかったことにしたいらしい。
 左大臣方の人々の昇進も、見事に止まってしまった。お兄さまの親友の頭の中将さまも、そのご兄弟たちも、先行きの暗さにがっくりなさっているとか。
 お兄さまのしゅうとにあたる左大臣さまも、温厚な方なので、怒って右大臣方にやり返すということはなさらない。すっかり嫌気がさされたらしく、公務から退かれてしまった。こうなると、天下は完全に弘徽殿さまと右大臣家のもの。

 そうして、ある午後、お兄さまの部屋で、
「いや、参りました」
 と膝を並べてうなだれたのは、惟光これみつ良清よしきよである。
 二人ともこれまでは、お兄さまの側近として順当な出世ぶりだったのに、今度の司召つかさめしで官位を剥奪はくだつされてしまったのだ。当然、参内さんだいもできない、お手当も出ない。
 事実上、貴族社会からの追放である。お兄さまにとっては、両腕をもがれたようなもの。
 それで済むどころか、お兄さま本人も、ついに無位無官の身に落とされてしまった。右大将という輝かしい身分から、一気に、宮廷の序列の外にはじき飛ばされたわけ。これにはさすがに、能天気なお兄さまも、とどめを刺された様子。
 当面、さして困らずに暮らしていけるだけの荘園も財産もあるけれど、宮中への出入り不可では、先の展望がない。いつ何時、新たな難癖をつけられて、それらの所領を没収されないとも限らないのだし。
 また、あまりにも恐ろしいので口には出したくないけれど、この二条院に放火され、どさくさに紛れて、家人もろとも惨殺されるという可能性もある。古来から、政治というのは血腥ちなまぐさいもの。
「困りましたなあ」
「これから、どうなるやら」
 惟光も良清も腕を組み、考えあぐねているけれど、几帳の陰にいたわたくしは、
(これは、行くところまで行くわね)
 と覚悟を決めていた。
(まあ、最悪の罪が発覚していないだけ、まだましよ)
 いえ、それも油断はできないかも。男女の密会というのは、手引きする者がなくては成立しない。あちらの門の錠、こちらの扉の掛け金を外さなければ、最奥の寝所にはたどり着けないのだから。
 お兄さまと藤壺さまが堅く沈黙していても、秘密を知る女房あたりが右大臣方に密告する、ということは考えられる。まさか腹心の古参女房は裏切らなくても、その下の者が何か気付いていないとは限らない。
 そのことを、お兄さまの謀反むほんの証とでも言われたら。あるいは、呪詛じゅそとか謀殺ぼうさつとか、まったく事実無根の罪を着せられたら。
 そんなことになる前に、何とかしなければ。
 でも、どうすればいいの。何ができるの。
 現在、弘徽殿さまに逆らえる者は誰もいない。藤壺さまも、ご身分は高いけれど、これといった後ろ盾のない方だし(わたくしのお父さまは、藤壺さまの兄にあたるけれど、北の方のお尻に敷かれていて、まったく頼りない)、東宮さまにとばっちりが行かないよう、息を潜めておられるのがやっと。藤壺さまへの公式なお手当さえ、出家を理由に減額されてしまっているのだ。
 お兄さまの場合、流罪るざいも考えられる。絶海の孤島に流されたりしたら、わたくしたちは生き別れだわ。いいえ、その時には男装してでも、漁師の舟を盗んででも、お兄さまにいていくけれど。
「先手を打ちましょう」
 わたくしは几帳の陰から出て、惟光と良清の前に座った。
「姫さま。いえ、紫の上さま」
 脇に控えていた少納言が、渋い顔でたしなめてきたけれど、あえて無視した。貴婦人は、夫や家族以外の男性に顔を見せるものではないけれど、こんな大事な話をするのに、物陰から女房経由では、まだるっこくて仕方ない。それにどうせ、この二人には、娘時代にさんざん顔を見せているのだし。
「先手とは?」
 と戸惑う二人。お兄さまも、けげんそうな顔。わたくしは断言した。
「宮中から正式に何か言われる前に、隠棲いんせいするのよ。どこかの田舎へ引っ込むの。そこで何年か、情勢が変わるのを待てばいいのよ。右大臣さまも、決してお若くはありません。弘徽殿さまだって、ご病気でもなされば、お気が弱くなるかもしれないし。そうしたら、主上さまは元々、お兄さま贔屓びいきなのだから、殿上てんじょうへの復帰を許して下さいますよ」
 男たちは、お互いに顔を見合わせた。
「自発的な退去、謹慎ですか」
「それはちと、早まりすぎるのでは……」
「何も、そこまで極端なことをせずとも」
 三人とも都育ちだから、都の外に出る、ということが考えられないのだ。
「そうかしら。正式に流罪を言い渡されてごらんなさい。大変よ」
 主に惟光と良清に向かって、言い聞かせた。
「あなた方、お兄さまと一緒に、お米も取れない島に流されたいですか? 自分で畑を耕したり、釣りに出たりしないと、食べるものもない暮らしですよ。野菜をどうやって育てるか、ご存じですか? 舟で沖に出て、魚が捕れますか? 着るものも、そのうちぼろぼろになって、継ぎ当てだらけ。日に焼けて、髪はざんばらになって、島の漁師と区別がつかなくなるでしょう。野分のわきでも来たら、小屋の屋根なんか吹き飛ぶでしょうね。それを修理するのも、自分たちなのですよ。お二人とも、大工仕事をなさったことがおあり? たぶん、縫い物をなさったこともないでしょう。でも、お兄さまの衣類の継ぎ当ては、あなた方がするのですよ。島の女たちだって、手ぶらの流人なんかには、そうそう甘い顔はしてくれませんからね」
 貴族社会に育った二人は、てきめん、情けない顔になった。悲惨な未来図が、ようやく胸に迫ってきたらしい。
 お兄さまは、呆然としている。これまでの自分の暮らしからすれば、考えたこともないような転落だから。
「まさか、そんなことには……」
「ならないと言えますか? 今上さまはお優しいけれど、お母さまには逆らえない方ですよ。それに、弘徽殿の大后さまは、お兄さまの存在自体が憎らしいのでしょう。ご自分は、桐壺の更衣さまに勝てなかったから。そして、ご自分の息子は、逆立ちしてもお兄さまに敵わないから」
 ひっ、という顔で、男たちは首をすくめた。それが事実とはわかっているものの、口に出すのは剣呑けんのんすぎる、と思うらしい。
 少納言はわたくしの毒舌に呆れて、そっぽを向いている。わたくしの意図を十分に理解しているので、邪魔はしてこないだけ。
 本当のところ、今上さまが必ずしも、お兄さまより劣った男性、というわけではないのだけれど。
 それどころか、他の男と密会した朧月夜の姫君を責めないところは、潔いし、お優しいわ。怖々ながら、お兄さまをかばって下さるのも、
『わたしの亡き後は、兄弟で助け合うように』
 という院のご遺言を重んじていらっしゃるからでしょう。お母さまにはっきり逆らわないのも、夫に愛されなかったという、お母さまの悲しさを察していらっしゃるせいかもしれないし。
 それでも人々からは、
(うすぼんやりした、頼りない主上さまよ)
 と思われているのが、切ないところ。おまけに、わたくしまでがずけずけ悪口を言ってしまって、本当に申し訳ないと思う。でも、今はとにかくお兄さまのお尻を叩いて、行動を起こさせないと。
 うーん、と三人とも考え込んだ。
「確かに、流刑を待つよりましか」
「しかし、隠棲するにしても、どこへ」
筑紫つくしとか、東国とうごくとか?」
 と心細い顔。
「そこまで遠くなると、道中危ないでしょう。行った先でも、何が起こるかわかりません。精々、須磨すま明石あかしでよろしいんじゃありませんか」
 と提案した。それならば、そう極端な田舎ではない。都と文の遣り取りもできるし、届け物もできる。
 宮中で育ったお兄さまには、都の外の暮らしは想像できないかもしれないけれど、北山の自然の中で遊んだ時期があるわたくしには、田舎暮らしの良さもわかる。身分や体裁など忘れてしまえば、川で魚を獲り、焚き火で焼いて食べるのも楽しいこと。
 山には、たくさんの恵みがある。梅に桃、柑子こうじたけのこ、山菜に茸、栗に銀杏。それらを集めて、売り暮らすことだってできる。その昔は貴族の女たちも、自ら山菜摘みや薬草集めをしていたのだから。
 いえ、須磨ならまず、海ね。きっと、広々として気持ちがいいはず。できるなら、わたくしも一緒に行きたいくらい。
 お兄さまと小舟に乗って網を投げたり、波打ち際で貝や海草を集めたりしたら、きっと楽しいわ。
 もしも、そうして二人で暮らせるのなら、貴族の暮らしなんか、捨てても構わない。
「須磨か」
 と沈んだため息をつき、遠い目をするお兄さま。もっと遠くへ赴任する貴族たちもたくさんいるのだから、そう深刻にならなくていいでしょう。
「海辺の暮らしも、数年なら、面白いのではありません? こういうことは、お気の持ちようですわよ」
 と、にっこりしてみせた。
「絵をお描きになったり、管弦の遊びをなさったりしているうちに過ぎますわ。お留守はわたくしが守りますから、心配いりません。なんでしたら、たまに男装して訪ねていきましょうか」
「とんでもない。人さらいに遭ったらどうする。ちゃんと邸にいてくれないと」
 と、お兄さまは慌てた様子。わたくしはくすくす笑った。
「冗談ですわ。女連れでは、謹慎になりませんものね」
 お兄さまはしみじみ、わたくしを眺めて言う。
「紫の上。あなたはいつの間に、そんなに大人になったのかな」
 さあ、いつからかしら。
 悲しいことがある分、少しずつ鍛えられていくんだわ。
 まさかこうして、お兄さまと別れて暮らすことになるとは、夢にも思わなかったけれど。
「きっと、誰かさんの教育がよかったんですわ」
 と笑いに紛らせた。お兄さまも苦笑する。
「おかげでこうして、都一の貴婦人が出来上がったわけだ」
 本当に、そう思って下さるならいいけれど。
「大丈夫、ほんの少しのことですわ。いずれ必ず、風向きが変わりますから」
 と明るく保証した。
 隠れ家で急死した夕顔の君や、お産で亡くなった葵の上さま、思いを残して逝かれた方々からすれば、わたくしははるかに恵まれている。光君のただ一人の妻として、留守を守れるのだもの。

 その晩、お兄さまはわたくしを抱いて、繰り返し約束した。
「あなたという妻がいるのに、他の女に迷ったりして、本当に愚かだった。二度と浮気はしないよ。遠く離れても、毎日ずっと、あなたのことを思っているからね。たくさん文を書くよ」
 息が苦しくなるほど強く抱きしめられて、わたくしは、切ないけれど幸福だった。いま、この人は、真情からそう言っているとわかるから。
「ええ、わたくしも、文をお届けします。都の様子をお知らせしますわ」
 浮気をしないという言葉だけは、信じていなかったけれど。
 寂しがりの上、目新しい女性にはすぐ好奇心を持つ人だから、須磨で土地の女性と仲良くなってしまう可能性は少なくない。でも、それは仕方がないこと。いつか、無事に戻ってきてくれさえすれば、それでいい。この人は、わたくしの大きな坊やだから。
「都のことなんか、どうでもいい。あなたが無事に過ごしているかどうか、それだけ知りたい。ああ、あなたを人形のように小さく縮めて、懐に隠して連れていきたいよ」
 自分が留守の間、他の男がわたくしの元に忍び込んだりしないか、心配しているみたい。勝手なものだわ。自分はよその人妻の元に、何度も忍び入っているくせに。
「わたくしは、天下の光君の妻ですもの。あなたと張り合おうとする無謀な殿方なんて、いるわけないでしょ」
 と微笑んで言ったら、
「それもそうか」
 と、やや安心した様子。いまだに、自分は天下一の美男と信じているんだから、いい気なもの。世間には次々、新たな美少年や美青年が生い育っているというのに。
 ――ただ一つ、どうしても残念なことは、いまだに懐妊かいにんきざしがないことだった。もしも子供と一緒にお兄さまの帰りを待てるのだったら、どんなにか心強かったでしょうに。
 まだ若い、とは思っても、これからまた数年経てば、もっと妊娠しにくくなるのではないかしら。
 わたくしは健康なのに、お兄さまもこうして愛してくれるのに、どうして子宝を授からないのだろう。
『紫の上さまは、あまりにお幸せすぎるからですよ』
 という慰めは、女房たちから幾度も聞いた。神仏が、幸福を独り占めしないようにと計らっておいでなのだと。
 でも、それならば、愛しい人と引き裂かれるこの時になら、心の支えを与えてもらってもいいのではないの。
(どうか、子供をお授け下さい)
 闇の中で、お兄さまの傍らに寄り添いながら、わたくしは祈った。
 祈る相手は神か仏か、わたくしには決められない。あの世におられるお祖母さまか、お母さまかもしれない。
 女を罪深い生き物と決めつける御仏の教えには、わたくしは反感を覚えている。この世で罪が深いのは、苦労の重い女たちよりも、無責任な男たちの方ではないのかしら。
 その男たちを贔屓ひいきする神仏に祈るよりは、わたくしを愛して下さったお祖母さま、お母さまにすがりたい。
(男の子でも、女の子でも、どちらでもいいのです。ただ、元気な子であったら。子供がいれば、お兄さまのいない寂しさにも、きっと耐えられます。たとえ、このまま二度と会えないことになっても、子供のために生きていけます)
 産後の葵の上の様子は、お兄さまから聞かされた。力を使い果たし、身も心も弱りきっていたという。回復するかと思ったのに、結局は助からなかったと。
 わたくしだって、お産で死ぬのは怖い。想像すらしたくない。後にお兄さまと赤子を残していくのでは、どんなに辛いだろう。
 それでもなお、我が身に赤子を授かりたい。
 それは、いつしか、心を焦がすような願いになっている。
 自分の胸に子供を抱いて、乳を含ませたい。紅葉もみじのように小さな手で、顔を撫でてもらいたい。一緒に笑い、遊びたい。眠る時は、側に寄り添いたい。夜中でも明け方でも、ぐずりだしたら、すぐ抱き上げられるように。
 誰かの赤子を見る度に、どれほどうらやましかったか。その気持ちを表に出すまいとして、あえて興味の薄いふりをしたこともある。本当は、抱き上げて、頬ずりして、そのまま返したくないほどだったのに。
(きっと大丈夫よ。今度こそ)
 お兄さまに抱いてもらう度に、自分にそう言い聞かせてきた。でも、こうなっては、お兄さまが旅支度を整えて都を離れてしまうまでに、あと何回、機会があるか。
 わたくしの隣で、お兄さまはもう深く寝入っている。この人がわたくしの大きな子供、そうは思っても、本物の子供が欲しいという夢は捨てられない。
 それとも、それは欲張りすぎなのかしら。都中の女が憧れる光君を夫にしている、それ以上を望んだら、貪欲どんよくの罪で天罰が下るのかしら。
(でも、お兄さまは須磨へ行ってしまう。何年後に戻ってこられるか、わからないのよ。もしかしたら、それきりかもしれないのよ)
 暖かい夜具の中で、苦い涙が流れた。
(どうか、無事で戻ってきて。わたくしの元へ、きっと戻ってきて)
 この都の中、他にもきっと、お兄さまのために祈っている女たちがいる。お兄さまが密会してきたあちらの姫君、こちらの北の方。女主人の脇から、そっと憧れてきた女房たち。わたくしはきっと、彼女たちから見れば、この上なく幸運な女。
 だから、泣くのは今だけ。
 朝になったら、明るい顔で旅支度を指図するわ。
 そうよ。いざとなったら、本当に男装して、追いかけていくもの。
 二人して都から逃げてしまえば、弘徽殿さまにだって追いきれないわ。
 二人で筑紫へでも東国へでも行って、畑でも耕して静かに暮らすの。何人も子供を産んでね。子供たちが大きくなったら、昔は都にいて、たいした羽振りだったのだと、笑い話にして聞かせるわ。
 そこまで空想して、やっと少し安堵した。
 この世の誰にも、わたくしとお兄さまを引き裂くことはできない。ほんの少しの、かりそめの別居に過ぎないのよ。それが長引くようなら、わたくし、絶対に追いかけていくんだから。

 お兄さまが惟光や良清、わずかな供人たちを連れ、須磨の地所に隠棲してから、わたくしはずっと、二条院で少納言たちとひっそり暮らしていた。
 お兄さまがいないと、陳情のお客さまも来ないし、宴会を開くこともないし、夜毎の外出もないから、邸内は平和なもの。地味に暮らしていれば、生活に困ることもないから、女房たちと双六すごろくをしたり、碁を打ったり、流行はやりの曲を合奏してみたり。
 時には、どこかの女房のふりで市をひやかしに行くことも、牛車を連ねて、お花見がてらのお参りに出掛けることもある。もちろん、油断はせずに、機敏な女房たちを連れ、前後を屈強な舎人たちに守らせて。
 一応は『留守宅の者も謹慎中』というふりをしているけれど、邸内を調べられるわけではないから、内実は、かなり呑気なものだった。庭で好きな花を咲かせているし、季節にふさわしい香をくゆらせている。池に小舟で漕ぎ出すこともできるし、蛍を愛でながらお酒を飲むこともある。
 寂しいことは寂しいけれど、くよくよしても、お兄さまが戻ってこられるわけではないから、なるべく女房たちと笑い合うようにしていた。
「わたくし、いっぺん、よその殿方からお文をいただいてみたいんだけれど、それも来ないわねえ」
 という冗談に、少納言は軽く笑う。
「下手にこの邸に関わって、弘徽殿さまににらまれたら大変、というわけでしょう」
 少納言が老いてきて、目が悪くなり、腰が重くなった分、彼女が仕込んだ若い女房たちがしっかりしてきたので、毎日の生活には何の不自由もない。
 邸に忍び込んでくる物好きな殿方もなく、夜盗に襲われることもなく、わたくしは、季節の花や月の光、新しい物語、女房たちとの合奏、たまに届くお兄さまからの手紙、惟光からの報告書を楽しみに過ごしていた。
 こちらからは、お兄さまの衣装や夜具を整えて送ったり。供人たちの家族からの文や荷物に、わたくしの心尽くしの品々を添えて届けさせたり。
 そうして、一年と半分ほどが過ぎた頃。
 とうとう、予期していたものが来た。
 お兄さまが、嵐をきっかけにして須磨から明石に移ったことは既に聞いていたけれど、お兄さまの世話をしてくれた明石の入道にゅうどうという地元の財産家には、大事に育ててきた姫君がいるという。お兄さまがいよいよ、その姫君に通い始めたという、惟光からの詳しい知らせが届いたのだ。
 覚悟はしていたつもりだったけれど、やはり、具体的な事実は痛かった。
 何でも、明石の入道という人は、自分の娘に高貴な婿君を取ることを願い、都の姫君にも負けないように、美しく誇り高く育てたらしい。そのへんの下級貴族や田舎豪族などからの縁組の申し込みは、全てきっぱりはねつけていたという(どうやら良清も、小物扱いされて、ふられた一人らしい)。
『もしも良縁がないままならば、いっそ、海へ入って死ね』
 とまで娘に言い聞かせていたとか。土地の人々も、
海龍王かいりゅうおうの妃にでもなれというのか』
『高望みが過ぎるんじゃないのか』
『いったいどんな婿君ならば、満足するというのだ』
 と半ば呆れ、半ば感心して、成り行きを見守っていたらしい。
 その明石の入道は、お兄さまの流謫るたくの噂を聞くや、千載一遇せんざいいちぐうの機会とばかり、 『是非是非、帝の御子であられる源氏の君に、わが娘を差し上げたい』
 と熱望し、嵐と落雷でお兄さまのいおりが壊れたのを幸い、強引に、明石の浜辺にある自分の屋敷へ招いたという。そして、背中を押すようにして、高台の別邸に住む娘の元へ通わせることに成功したとか。
 そうなの。
 一徹な老人にそれほど望まれては、仕方なかったかもしれないわね。
 どのみち、血の熱いお兄さまが、いつまでも一人寝をしていられるわけがないのよ。
『わたしにはもう、都に妻がいますから』
 と、きっぱり断ってくれればよかった、とも思うけれど、
(つまらない男に添うくらいなら、いっそ死ね、とまで言われて育てられたとは、どんな姫だろう。お顔を拝んでみたいなあ)
 という好き心が動いたに違いないわ。
 わたくしだって、気になる。どんな方なのだろう。噂通りに美しく、教養高い方なのかしら。
 もちろん、惟光がじかにお目にかかることはできない方だから、彼が書いて寄越したのは周辺の噂や、婿入りの経緯、お兄さまから聞いた印象の断片ばかり。それでも、お兄さまを引き付けられるだけの姫君、ということはわかる。
 お兄さま、婿になってよかったと思っていらっしゃる?
 明石で一番の長者に、天下一の婿君よと大事にされて、ご満足?
 もう、都へなど戻らなくてもいいくらい?
 さすがに心が波立ち、馬を飛ばして駆け付けたいような気にもなったけれど、今のわたくしは、この二条院の女主人。そうそう気軽に、何日もかかる旅には出られない。そんな行動を、もしも弘徽殿さまに知られたら、謹慎はふりだけか、とお怒りを招くだろうし。
 それに、たとえ明石まで出掛けて泣き騒いだところで、もう関係ができてしまったものが、元に戻るわけではない。
 いいわよ、好きになさい。財力のある親元にいる姫君が、蟄居ちっきょの身のお兄さまのことなんか、心底頼りにするはずがないんだもの。しばらく付き合ったら、お兄さまの幼稚さがわかるはずだし。いつかふられて帰ってきたら、ネチネチ皮肉を言っていびってやるわ。その時が楽しみよ。

 でも、これはまだ、本当のどん底ではなかった。わたくしは自分を慰め、励まし、気持ちを明るく保つことができた。
 奈落に突き落とされたのは、蟄居生活の三年目。
 明石の姫君が懐妊かいにんのご様子、という惟光からの報告が来た時。
 季節は夏で、庭にはまぶしい日差しが注いでいたのだけれど、しばらく、何も見えず、何も聞こえなくなった。目が文面を見ていても、文字が上滑りする。
 明石の方に、子供。
 お兄さまの、子供。
 心が痛いというよりは、しびれた、という感じだった。思いがけない怪我をした時、痛みよりも、まず、驚きが先にくるように。
 それでも、堅い岩に長雨の水が染み入るように、何かがじわじわ、心の奥に沈み込んでいく。
 ――明石の姫君というのは、何という運の強い方だろう。
 わたくしは一度も懐妊の兆候がないまま、お兄さまと別居することになってしまったのに。あなたは、お兄さまと一緒に暮らせるばかりか、そんな宝物まで授かって。
 人を憎みたくはない。恨みたくもない。でも、こればかりは、やいばはらわたをえぐられるような苦しみだった。それも、鋭い刃物ではなく、なまくらな小刀で、繰り返し、腸をかき回され続けるよう。いっそ、一思いに突き殺してくれた方が、親切というもの。
 どうして。
 どうして。
 このわたくしではなく、よその女性に和子が。
 思えば、葵の上さまの懐妊の時は、わたくしがまだ子供だったから、本当の嫉妬はしないで済んだのだ。お産で亡くなられた方に、恨みを持つことなどできないし。
 また、藤壺さまの御子のことも、そうと知ったのは後になってから。わたくしが妻になってから、よその女性に子供ができるのは、これが初めて。
 和子が若君にせよ、姫君にせよ、お兄さまは、自分の子を生んだ女性を、決して粗略には扱わないだろう。もしかしたら、単なる愛人ではなく、わたくしと同格の妻、という扱いにするかもしれない。高貴な身分の男性ならば、複数の妻は当たり前。
 いいえ、わたくしの方こそ愛人に格下げされ、そのうち忘れ去られるのかもしれない。子供のできない女なんて。女の、一番大事な務めを果たせない女なんて。
 炎が燃え上がるように、脳天まで何かが熱く突き上げた。
 思いきり悲鳴をあげて、柱に頭をぶつけたい。
 そこらのものを引き裂き、のたうち、荒れ狂いたい。
 自分の皮膚をかきむしり、髪を引きむしりたい。
 でも、それはできない。何人もの女房たちが控えている前で。
 そんなことをしたら、物の怪がいたと言われるだけだわ。せっかく築いたわたくしの威厳が、地に落ちる。少納言も悲しむだろう。わたくしにできるのはただ、静かに文を読み続けるふりをすることだけ。
 それでも、胸の内では、押さえようのない嵐が吹き荒れていた。お兄さまのいおりを壊した嵐よりも、わたくしの嵐の方がきっと激しいわ。
 明石の姫が憎いのではない。
 娘の幸せを願った、明石の入道が悪いのでもない。
 ただ、こんな巡り合わせになった運命が憎いだけ。
 わたくしだって、子供が欲しい。この膝の上に、お兄さまの子供がいたら。できる限りのことをして、健やかに、幸せにと祈って守り育てるわ。
 いいえ、今からだって遅くはないはず。お兄さまが、この邸に戻ってくれさえしたら。前のように、情熱を込めて、わたくしを愛してくれたら。
 でも、それにはあと何年かかるの。そんな日は二度と来ないまま、お兄さまは明石の入道の婿君として過ごし、わたくしのことを忘れてしまうのではないかしら。
 いいえ、都に戻ってこられて、前にも増して栄華を極めることになったとしても、わたくしが石女うまずめのままだったら。
 石女。
 この残酷な言葉。
 こんな言葉を考え出すのは、きっと男だわ。そう呼ばれた女がどれほど傷つくか、のたうって苦しむか、思いやることもない。
 わたくしのからだは熱いのに。
 熱い血で溢れているのに。
 子供を授からなかったら、男にとっては、冷たい石と同じことなのね。何の価値もない、邪魔な石ころなのね。
 お兄さまが遠い場所で、美しい妻と可愛い赤子を前に、手放しで笑み崩れているさまが心に浮かんだ。それはやがて、現実の風景になるのだ。
『あばば、よしよし、いい子だなあ。こんな可愛い子は、宮中にだっていやしない』
 なんて、桁外けたはずれの子煩悩こぼんのうになるのではないかしら。
『本当に、光君さまそっくりの、美しい和子さまですこと』
『我が家の宝じゃ。どんなことでもして差し上げよう』
 明石のお祖父さまもお祖母さまも揃って、和やかな団欒だんらんが続くだろう。
『あまり甘やかしては困りますわ、あなた』
 と明石の上がおっとり微笑むさまが、目に見えるよう。そこにもう、わたくしの入り込む余地はない。わたくしのことなど、いずれ、
『ああ、そういう女もいたっけ』
 という程度にかすんでしまうのではないかしら。
 考えると、うすら寒くなる。
 妻としてこの二条院を預かってはいても、わたくし個人の財産というものは、ほとんどないのだ。わたくし名義に書き換えた権利書類もあるけれど、それは、弘徽殿さまに没収されることを防ぐため。実質的には、お兄さまのもの。いつか、お兄さまが戻ってきて、
『ここには明石の上を住まわせるから、出ていってくれないか』
 と言われれば、それまでのこと。
 そうなったら、頼る親族もないわたくしはどうなるの。
 どうせ期待はしていなかったけれど、実家のお父さまは、弘徽殿さまに睨まれては困るとばかり、この二条院には寄り付きもしない。お兄さまが時めいていた頃は、あれこれと援助や贈り物を受け取り、よき婿君よと自慢していらしたくせに。
 わたくしが暮らせるだけの財産を、もし分けてもらえなかったら、と本気で考えざるを得なかった。
 お兄さまに悪気はないにしても、誰か新しい人に夢中になったら、古い女のことなど、どうでもよくなるかもしれない。自分が本当に困窮こんきゅうしたことがないから、貧乏の惨めさ、恐ろしさを知らないし。
 でも、わたくしは覚えている。お祖母さまのやしきの、質素な暮らしのことを。
 先祖代々の財産のおかげで、飢えることはなかったけれど、決して余裕のある暮らしではなかった。この先数年の見通しはついても、十年、二十年となると、はたしてどうだったか。
 持ち主が女や年寄りとなると、荘園の管理人も、てきめんに態度が悪くなる。毎年の収穫を、どれだけ横取りされたかわからない、と少納言が悔しがっていた。親族の支えと、たまさかのお父さまの訪れがなければ、わたくしたちのささやかな財産は、誰かにかすめ取られていたかもしれないのだ。
 親の死後、頼りになる兄弟がなく、泣く泣く身分の低い男に嫁いだ姫君の話は、それこそ幾らでもある。きちんと結婚できればまだしも、ただの愛人扱いで、そのうち飽きられて見捨てられ、あるいはどこぞの成り上がり者に売り飛ばされ、姫君はそのまま行方不明、という話もある。
 あれから二条院に引き取られ、さまざまな贅沢に慣らされてしまい、長らく、お祖母さまの元での女世帯の心細さを忘れていたけれど。
 もう一度、あの頃の気持ちになれるだろうか。
 十四の頃、髪を切ってここを出ていこうとした時の、あの気の張り、無謀な意地は、まだわたくしの内にあるだろうか。
 もちろん、男装だの出家だのでは、本当の解決にならない。女の身で、自分の力で、どれだけ生き延びていけるかの戦いになる。この冷酷な実力社会では、皇族の身分など気休めにもならない。財力のある受領ずりょう階級、兵力のある武人階級の方がよほど有利。
(いよいよとなったら、どこかの邸に、女房勤めに出ることだわ)
 これまでずっと、かしずかれる側だったわたくしが、仕える側に回って、うまくやれるかどうか、自信はないけれど。
(少納言に、女房の心得を教わらなくちゃ)
 と思い、文机ふみづくえに向かったまま、一人で笑ってしまった。
 不確かな男性の好意に頼るより、最初から自分で働いて、少しでも蓄えを作っておいた方が、どれほど安心か。気の利いた女房たちは、働き盛りのうちに、ちゃんと宿下がり用の家や、老後のための商売の道を確保しているというものね。
 よくわかったわ。お兄さまが、怒って口を利かないわたくしを、せっせとなだめてくれた時期、わたくしは本当に幸せだったのだということが。
 今のこの不安、この苦しみに比べたら、あの頃は、何て恵まれていたのだろう。
 きっとこれが、わたくしの生涯のどん底なのね。
 それとも、この先もっと、これ以上に辛いことがあるのかしら。あの頃はまだよかったと、後から回想することになるのかしら?
 だとしたら、わたくしもいつか藤壺さまのように、出家したくなるのかもしれない。その方がきっと、楽になれるのかもしれないわ。殿方にも、この世の仕組みにも、一切の期待を持たなくなる方が。

「紫の上さま。どのようなお文で?」
 気が付くと、少納言が心配そうな顔でこちらをうかがっている。わたくしは惟光からの気遣いに溢れた手紙と、お兄さまからの言い訳の手紙をそれぞれ畳み、微笑んだ。
「あとで話すわ。それより、お腹が空いたわね」
 わたくしが暗くなっては、留守宅を守る女房たち、家司けいしたち、舎人とねりたち、みんなが心細い思いをする。
 それに、わたくしがここを追い出されても、彼らはそっくり残って、次の女主人に仕えればいいだけのこと。
 少納言はわたくしにいてくると言うかもしれないけれど、髪に白いものが増え、目の弱ってきた彼女を、わざわざ困窮の中へ連れ出すことはない。女房たちの束ね役として、ここで大きな顔をしていた方がいい。お兄さまは、老いた使用人には優しいから。
「みんなを呼んで、釣殿で甘いものでも食べましょう」
と言い、しとねから立った。
 午後の庭には強い日差しが照りつけ、敷きつめられた白砂が、その光をまばゆく跳ね返している。でも、緑の下影は濃いし、みずや、池のほとりはいくらかましなはず。夕方になれば、涼しい風も吹くし。
 若い女房たちや、女の童たちは、遣り水で冷やした果物と聞いて、喜んで集まってくる。
 寝殿や東の対の方は人少なで寂しいけれど、わたくしのいる西の対は、まだにぎやか。
 すぐさま絶望することはないわ、と自分に言い聞かせた。今はまだ、こうしてお兄さまから文が来る。わたくしが恋しいと書いてきてくれる。たまたま子供ができることになってしまったが、あなたへの愛情は少しも変わらない、信じて待っていておくれと。
 それを信じたい。
 愛は消えないと思いたい。
 でも、それでも、わたくしは覚悟しておこう。いつか、お兄さまに捨てられる時が来るかもしれないと。
 わたくしが、子供を生めないままだったら。お兄さまが、他の女性との家庭の方を、より大切に思ったら。
 それはもう、わたくしの努力では、どうしようもないことだもの。そういう巡り合わせだったと思って、あきらめるより仕方ない。少女の頃から今まで、この二条院という楽園にいられただけで、十分に幸せなのだと。
 でも、その時はまた、わたくしがお兄さまを捨てる時でもある。
 お兄さまがわたくしを要らないと言うのなら、それはつまり、お兄さまのお守りという、わたくしの役目は終わったということ。
 気が済むまでわあわあ泣いて、のたうって、恨みつらみを数え上げて、それから顔を洗えばいい。
 空は広いわ。
 都の外にも、ずっと広がっている。
 わたくしが生きていける場所も、この青い空の下のどこかに、きっとある。
 大丈夫、いざとなったら、籠を頭に載せて野菜売りだって、干物ひもの売りだってしてみせるもの。
 簀子すのこから仰いだ空は紺碧で、湧き上がる雲はまぶしいほどに白い。めそめそして過ごすには、あまりに惜しい日。
 そうだ、と思い付いた。川原はきっと、風が涼しくて気持ちがいいはずよ。腹ごしらえをしたら、久しぶりに狩衣を着て、髪をくくって、馬で外を一走りしてこよう。
 そうしたら、いつかのお姉さんたちに会えるかもしれない。今なら、笑って言えるわ。人生の真実を教えてくれて、ありがとう。わたくしも何とか、負けずに生きていますって。

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