紫の姫の物語
寒いと思っていたら、夜中のうちに雪が降ったらしい。
朝になったら、庭は白く真綿をかぶったようになっていた。わたくしは貴婦人らしく、あまり端近には寄らなかったけれど、それでも、女房たちが格子を上げた時に見た。
池は凍り、木々の下や立石の陰は、深い吹きだまりになっている。前栽の山吹は雪の重みでうなだれ、岩躑躅は丸い岩のよう。
空はまだ厚い雲に覆われているけれど、白い光を閉じ込めているから、暗くはない。たまにちらちらと、小雪が降りかかる。
着馴れて柔らかくなった直衣姿のお兄さまが、妻戸まで出て外を眺め、几帳の陰にいるわたくしを呼んだ。
「紫の上、こちらへ来てごらん。見事な雪景色だよ」
「………」
「そんな奥にいないで、ここまで出てきたら」
「………」
「雪遊びは好きだったろう。景色だけでも、見たら?」
「………」
お兄さまは、頑固に口を閉ざしているわたくしを、何とか楽しませようと考えたらしい。何人もの女の童たちを庭に下ろして、雪遊びをさせることにした。
集められた下働きの子供たちは、きゃっきゃと喜び、真っ新の雪の上に手形や足跡を付けたり、雪を集めて山を築いたり、漆塗りの折敷の上に、可愛い雪うさぎをこしらえたりする。無邪気な女の子たちが、とりどりの衣を着て庭中に散っているのは、確かに絵のような眺め。
雪はまだ、それほどの深さには積もっていなかったけれど、それでも手で握った雪玉を転がしていくと、大きな丸い玉になる。それを二つ重ねて、人の形に見立て、笹の葉を腕のように差したり、顔に炭で目を入れたり。
お兄さまは簀子縁の高欄に寄りかかって、楽しげにそういう遊びを眺め、
「紫の上、あなたは遊ばないの」
と廂の間にいるわたくしを振り向いて言う。
わたくしは几帳の陰にいて、お兄さまがこちらを見ていない時だけ、そっと隙間から庭を眺めている。
わたくしを、あの子たちと同じ子供だとでも思っているのかしら。この寒いのに、どうして、袴や袿をからげて庭に降りなくてはならないの。こんな日は、奥で火桶に囲まれているのが一番よ。
それは、わたくしも去年までは、ああして雪まみれになって、夢中で遊んだものだけれど。今はもう、できない。お兄さま本人が、わたくしの子供時代を終わらせてしまったのよ。
もちろん、いつかは大人にならなくてはならないのはわかる。でも、せめてもう少し、気長に導いてほしかった。わたくしは本当に怖くて、惨めな思いをしたのだから。
わたくしが几帳の陰で黙っていると、お兄さまは落胆したようなため息をついた。これ以上どうすればいいのだろう、と思いあぐねている様子。
わたくしも、ちょっぴり心が弱り、
(そろそろ、一声くらい聞かせてあげても)
と迷ったけれど、いったんしゃべってしまったら、もうおしまい。お兄さまは、わたくしに許された、と思うだろう。そしてまた、わたくしを甘く見て、好き勝手な真似を始めるに違いないのよ。今でさえ、既に十分、好き放題しているというのに。
その時、寝殿の方から、お兄さま付きの女房たちが渡ってきた。いつも優雅な彼女たちが、かなりの急ぎ足。少し離れた所で揃って平伏し、こわばった顔で言う。
「光君さま、院の御所からのお使いが参っております。あちらにお戻りを」
直感が働いて、わたくしは、お兄さまの様子が見える位置までいざって出た。お兄さまもまた、驚きを通り越し、何かを覚悟した顔になっている。こんな風に来るのは、決して、よい知らせではない。
わたくしをちらと見てから、お兄さまは腰を上げ、無心に遊ぶ子供たちを残して、ご自分の居室に引き上げていった。
わたくしは、何か言うべきだったかもしれない。慰めか、励ましか。
でも、何が言えるの。
お兄さまを許さない、と決めているくせに。
いいえ、違う。
本当は、とうに許している。これだけ大事にされて、怒り続けていられるはずがない。わたくしは確かに、愛されているのよ。
ただ、怖いだけ。
この愛着が、いつまで続くかわからないから。
本当に安心しきってお兄さまに甘えることが、もうできない。わたくしは、そんなに強くない。いつか捨てられる覚悟をして、それでもなお、楽しく毎日を過ごすなんて。
――桐壺院、ご逝去。
その知らせに都中が驚き、涙に沈んだ。退位なさっても、やはりまだ、この世の要でいらしたから。
わたくしもまた、
(こんなことなら、もっと早くお目にかかっておくのだった)
(お兄さまと仲直りして、御所に連れていってもらえばよかった)
と悔やんだけれど、もはや手遅れ。
お兄さまから聞くお話だけでも、とても大きな、慈愛深い方と想像できたのに。お兄さまのためにも、もっと長生きしていただきたかったと、しみじみ思う。
世間の人もみな、お心の広い院を慕っていたから、それぞれに思い出を語り、悲しんでいるという。あちこちの邸を使者が行き交い、お兄さまの元へも、慰めのお文が集まってくる。
お兄さまの元からも、藤壺さまや東宮さまへ、また、兄君であられる主上さまへ、お悔やみの文を持たせたお使いを出した。左大臣さまや頭の中将さまからのお文にも、それぞれお返事を差し上げなくてはならない。お付き合いのある宮家や、貴族の方々からのお文も、そのまま放置するわけにはいかない。
それにしても、お兄さまの受けた打撃は大きかった。震える手で筆を取り、必要な文をしたためるのがやっと。あとは何も考えられないようで、
「父上、なぜこんなに早く」
と顔を押さえてしまう。初めは声をこらえていたけれど、しまいにはしゃくりあげ、身を投げて、手放しの悲しみようだった。まるで、小さな子供に戻ったかのよう。自邸だから、いくら取り乱してもいいけれど、女房たちも驚いているわ。
「光君のあんなお姿、初めて見ましたわ」
「本当に、院をお慕いだったのですね」
「まあ、何というお嘆きようでしょう」
と、もらい泣きする者もいる。少納言もまた、わたくしにそっとささやいた。
「お気持ちの汚れていない方なのですわ。男の方には珍しい」
「そうね……」
それはある意味、当たっている。
普段は、優雅で能天気な色男。
でも、本質はこれ。
見守ってくれる人がいるから、安心して遊んでいられるという子供なのだ。大きな庇護を失ったら、みるまにしょげかえり、どうしていいかわからない。
(これが天下の柱石≠セなんて、世間の人々こそ、お先真っ暗だわ)
もはや跡継ぎの息子もいる立派な殿方だというのに、いつまでも甘ったれで情けないけれど、目の前でぐしょぐしょ泣かれては仕方ない。わたくしは横に座り、背中を撫でて、慰めてやった。
「無理もありませんわね。お母さま、お祖母さまの亡くなった後、ずっとお手元に置いて下さって、元服まで育てて下さったお父さまですものね。退位されてからも、何かと気にかけて下さっていましたものね。本当に、お優しいお父さまでした。わたくしも、心から残念に思います」
すると、お兄さまははっとした様子。
(口を利いてくれた! 何か月ぶりだろう!)
と驚いたのだろうけれど、その安堵もすぐにまた、圧倒的な悲しみに押し流されてしまった様子。気をゆるめて鼻をすすり上げ、わたくしの膝にしがみついてくる。
「そうなんだ。小さい頃は、いつもお膝にまとわりついていたんだよ。どこの局を訪ねる時も、一緒に連れていって下さった。母上の思い出話もして下さった。立派な後見役も付けて下さった。葵の上が亡くなった時は、わたしの食事の心配までして下さったんだ」
わたくしだって個人的に悲しいし、天下国家の行く末を思って大いに心細いのだけれど、これだけ先に嘆かれてしまっては、慰めたり、励ましたりする役しか残っていない。
そういえば、お祖母さまに死に別れた後、わたくしも、
『お祖母さまのところへ行くう』
と転がって泣いて、少納言たちを困らせたっけ。
あの時は、少納言を筆頭とする女房たちが、自分たちの悲しみや不安を後回しにして、わたくしを慰めてくれたのだと、ようやくわかった。人はこうして、順送りに役目を引き継いでいくのね。
「ええ、わかるわ。わかるわ」
肩を撫で、鼻をかむための紙を差し出してやり、切れ切れの思い出話を聞いてやった。まったく、女房たちでは、とても世話しきれない。泣いては鼻をかみ、また鼻をかみ、あたりは丸めた畳紙の山。
こんな姿、世の女性たちが見たら、夢が壊れるわ。光源氏の君といったら、天上の貴公子、理想の男性だと思われているのだもの。
もちろん、その貴公子の側にいるわたくしには、理想の男なんて存在しない、とわかっている。これが最上の男なら、後は推して知るべしという感じ。
桐壺院や左大臣さまは、それぞれ温厚な人格者だと承って、遠くからご尊敬申し上げてきたけれど、この甘ったれ男を甘やかしすぎたという点では、政治家としての計画性に欠けると言うしかない。
もしも、わたくしがこの人の庇護者だったら、自分が亡き後、人々が頼れる指導者として立てるよう、もっと厳しく教え育てていたわ。
とはいえ、それでもまあ、泣きも苦しみもしない鈍感男や冷感男よりは、はるかに素直で、可愛げがあるというものでしょうね。
「行かないで。ここにいておくれ」
と、しがみつかれてしまうと、無下に振り払うことはできない。
そのまま一緒に夜を過ごしたら、驚いたことに、こんな時でも、わたくしを求めてくる。まるで、溺れかけた人が救いを求めるようにして。わたくしの乳房の間に顔を埋めている時だけが、安心していられる時なのかしら。
ぐったり疲れた様子で寝入ってしまった姿を見ながら、密かに思った。
(これからは、わたくしが庇護者なんだわ)
わたくしより背が高くても、腕力があっても、この人の中身は、親に甘えたい幼児と大差ないのだもの。
本当は、心を鬼にしていったん突き放し、一人で耐えさせるべきなのかもしれないけれど。
でも、はたして男性というものに、それだけの力があるのだろうか。母に頼り、妻に頼り、娘に頼り、それでやっと形を保っているのが、男性というものなのでは。
わたくしは世間に出たことがなく、男性といえば、お父さまとお兄さまの他に、惟光や良清くらいしか知らないのだけれど、女房たちから、噂話だけはたっぷり聞いている。
景気のいい空約束ばかり繰り返して、実際には少しもあてにならない男。都合が悪くなると、ふいと逃げてしまう男。逆に、暴力で女を黙らせようとする男。実力もないくせに、威張りたがりの男。普段は小心なのに、酔った時だけ威張る男。
もちろん、広い世間には、立派な男性もいるのだろうけれど、それはあくまでも例外、という気がするほど、情けない男が多い様子。
(この人は、まだましよね)
わずかな明かりの元で、深い眠りを貪るお兄さまの寝顔を見ながら、わたくしは考えていた。自分がまし£度に思われているなんて知ったら、自惚れ屋のお兄さまは、びっくり仰天するだろうけれど。
(お父さまのご威光に守られて、この世に怖いものがなかったから、無邪気なままでいられたのよ。でも、今度からは、少しはものを考えるようになるでしょう。決して、頭の悪い人ではないのだもの。自覚さえできれば、国家の柱石として立てるはず……)
そうなったら、この悲嘆こそ、院の残して下さった貴重な置き土産、最後の教育ということになるだろう。
夜が明けると、わたくしは声音を厳しくして言った。
「さ、そろそろしゃっきりなさって。いつまでもそんなことでは、東宮さまの後見は務まりませんよ」
ぐずぐずしているのを急かして顔を洗わせたり、食事を摂らせたり、濃い鈍色の喪服で参内の支度をさせたりした。
お兄さまは左大臣さまを手助けして公務を行う立場だから、あれこれの儀式やご法事の手配、動揺する貴族たちの取りまとめ、院の御所に残された女性たちの世話、主上さまや東宮さまへのご挨拶など、お役目が色々あるはず。
「しっかり、お務めを果たしていらっしゃいませ」
そうしてお兄さまを送り出した後は、わたくしもすることがある。古参女房たちに前例を教わりながら、あちこちに必要な使者を走らせたり、お布施の用意をしたり、他家からの挨拶や問い合わせに答えたり、この二条院で行う個人的な法要の手配を進めたり。わたくしの装束はもちろん、使用人たちの衣服も、屋内の調度類も全て、服喪用のものに取り替えなくてはならない。
慣れないことで大変だけれど、これが妻の務めと思って雑事に励んでいたら、少納言がにんまりして言う。
「頼もしくなられましたわ、紫の上さまは」
こちらもつい、口の端がゆるんでしまう。
「そりゃあ、わたくしも、いつまでも子供ではいられないわ」
それが、この世の決まり。人は順次、前に押し出されて、大人の責任を果たすようになっていく。
ところが、誰もが喪に服すこの世の中で、お一方だけ、高笑いなさった方があるという。
他でもない、弘徽殿の大后。
「これでようやく、わたくしの春だわ」
舞うような勢いで、晴れ晴れとおっしゃったとか。
あくまでも噂だから、真偽のほどはわからないけれど、そういう噂が流れても不思議ではないほど、平然としていらっしゃるのは確からしい。
長いこと別居生活とはいえ、仮にも、ご自分の夫だった方なのに。
もしかして、誰も見ていないところでは、こっそりお泣きになったのかしら。
ご夫婦だったからこそ、人にはわからない愛憎があるのかもしれない、と想像した。人前で泣かないことが、弘徽殿さまの意地なのかも。
わたくしだって、一時は本気でお兄さまを恨み、いっそ刺し殺したいと思ったほどだものね。
邸内の者たちが寝静まった真夜中に、お兄さまの平和な寝顔を見下ろしながら、隠しておいた短刀を握りしめていたことが幾度もあるなんて、お兄さまは夢にも知らないでしょう。
(お兄さまを殺して、わたくしも死ぬ)
あの頃のわたくしは、それしか道がないように思いつめていた。でも、それは、今になって思えば、
(お兄さまに捨てられたくない)
という依存心の裏返し。飽きられて捨てられる日が来るのなら、その前に、全てを終わらせてしまう方がましだったから。
今ではもう、密かに蔵っておいた、その短刀も見当たらない。誰かに見付かって怪しまれ、処分されてしまったのだろう。それは、もういい。もう必要ない。少しずつ落ち着いてきたお兄さまが、
「紫の上、あなたがいてくれてよかった。わたし一人では、とても耐えられなかったよ」
なんて、照れたように微笑みかけてくるのだもの。
「わたくしもよ。お兄さまがいて下さるから、この世に生きていられるのよ」
と言ってしまったのは、嘘ではない。
女の心に鈍感でも、幼稚な甘えたがりでも、この人は善良だった。一番いい部分で、わたくしを愛し、守り育ててくれた。だから、これからは、わたくしがこの人を守る。わたくしはもう、大人になってしまったのだもの。
さまざまな法事が済み、院の御所におられた女の方たちもそれぞれの里へ散っていき、世の中がそれなりに落ち着いてきた頃、わたくしは、お兄さまの様子がおかしいのに気が付いた。
めそめそ、ぐずぐずは終わったけれど、何か憑かれたような顔で、じっと壁を見つめていたりする。急に立ち上がっては、どこかへ出ていこうとして、またくるりと戻ってくる。文を書きかけては、破り捨てる。あまつさえ、それを女房たちがつなぎ合わせて見たりしないように、火桶で焼き捨てる。
何かしら、これは。
いったい、何を隠しているの。
用心して眺めていたら、ある晩、こっそりとわたくしの横から起き上がった。障子や几帳の向こうの女房たちを起こさないよう、ごそごそと古い狩衣を着る。わたくしの隠しておいた衣裳はもうないのに、お兄さまのお忍び用の衣裳は、ちゃんと用意されているのだ。
それから、くたびれた烏帽子をかぶる。飾り気のない太刀を下げる。篝火を避けて厩へ行き、自分で鞍を置いて馬を引き出す。供も連れずに、一人で出ていくつもりなのだ。
まさか。
これまで、どんな忍び歩きでも、乳兄弟の惟光だけは連れていったものだわ。
静かに先回りしていたわたくしは、篝火の明かりの届く場所で、お兄さまの前に踏み出した。急いで出てきたので、単の上に羽織った袿の裾をからげただけ。草履をつっかけた裸足の指先は、氷のように冷え込んでいく。晴れた夜空には、降るような星。
「どこへいらっしゃるの。お供もなしでは、物騒ですわ」
馬の手綱を曳いていたお兄さまは、ひどく驚いたようだった。それでもしぶとく、
「目ざといなあ、あなたは」
と笑いに紛らせようとする。吐く息は夜目にも白く、手足の先まで、ぴんと緊張が張りつめていた。明らかに、普通の浮かれ歩きではない。
「どこへ行くのか、正直におっしゃらないと、悲鳴をあげますよ」
ここで騒げば、詰め所にいる舎人や随身たちが、何事かと集まってくるだろう。すると、お兄さまは馬の手綱をとったまま、困り果てる様子。どう言い訳したらこの場を逃れられるのか、あれこれ考えているらしい。
「わたくしは、あなたの妻ですわ。何でも相談して下さって、よいのですよ」
と偉そうに言うと、苦笑した。例の、女たちをたぶらかす笑みで。
「そんなことを言ってもらえるようになったんだ。よかった。一時は、このままずっと口を利いてもらえなかったら、どうしようと思っていたからね」
ふん。
その笑みが通用するのは、お兄さまの舞台裏を知らない女だけ。
「わたくしに失礼な態度をとったら、いつでもまた、絶交します。さ、どこへ行くつもりか、おっしゃい」
それでもまだ、お兄さまは白状しない。
「何でもないんだ。ただ、散歩がしたくなっただけなんだよ」
だなんて、この息が白くなる夜中に、誰が信用しますか。
季節はそろそろ春とはいえ、夜中や明け方の冷え込みはまだ厳しい。こうして立っていると、足先や襟元、袖口から、どんどん肌の熱が奪われていくのがわかる。お兄さまも最近は、めっきり夜の外出が減っていたのに、暖かい寝床からこっそり抜け出して、あえて出ていこうというのは、よほどのこと。
どこなのかしら。このわたくしにも言えない、秘密の行き先なんて。
夕顔という昔の恋人のことも、朝顔の宮さまへの憧れも、逃げ切られた空蝉のことも、常陸の宮の風変わりな姫君のことも、右大臣家の六の君、朧月夜の姫との仲も、みんな打ち明けてくれたというのに。
その時、稲光が走ったかのように、ある記憶が蘇った。あれはまだ、わたくしたちが夫婦になる前のこと。
同じ御帳台で仲良く眠っていたある夜中、悪い夢を見たらしく、お兄さまが何やらうなされていたので、わたくしは目が覚めてしまった。お兄さまの苦しみようを放っておけず、わたくしは、肩を揺り動かして起こしたのだった。
『お兄さま、どうなさったの、大丈夫?』
するとお兄さまは、わずかな明かりの下でわたくしを見て、
『藤壺さま』
と言い、こちらの手を握りしめ、
『よかった。夢だった。いて下さったんだ』
と安堵したようで、すぐまた寝入ってしまった。寝ぼけているんだわ、と思って、わたくしも気にせず、そのまま忘れてしまったけれど。
藤壺さまは、わたくしの父方の叔母さまだから、わたくしたちは似ているのかもしれない。でも、夜中に御帳台の中で藤壺さまを見て、安堵する?
何かおかしいわ、それ。
今になってみると、他のことも思い合わされる。藤壺さまのお生みになった東宮さまが、お兄さまの小さい頃にそっくりだという噂話。
異母とはいえ兄弟なのだから、似ていても不思議はなく、みなが楽しい話題として語っていたことだけれど。
女房たちの口からその話が出ると、お兄さまも愛想笑いはするものの、なぜか心地悪いらしく、すぐに話題をそらせてしまう。
まさか。
でも。
お兄さまは高嶺の花が好き。そして、お父さまのお妃さまといったら、これ以上はないという高嶺の花ではないの。
ぞっとした。
まさか、いくら何でも、そんな危険な横恋慕をするなんて。
いいえ、ことによったら相思相愛なのかもしれないけれど、どちらにしても、あってはならないことよ。もしも、誰かにまずい場面を見られて、噂にでもなったりしたら、どうするの。それらしい文一つでも落としたら、即座に破滅ではないの。
ああ、でも、この人は、その無謀をしてきたんだわ。藤壺さまと、許されない逢瀬を繰り返してきたのに違いない。宮中におられる幼い東宮さまは、もしかしたら、お兄さまの息子かもしれないのだ。
怒りと絶望で、目の前が暗くなった。
何ということをしてくれたの。
皇統を乱すことは、国の礎をぐらつかせること。
わたくしにもわかる罪の重さが、この人にはわからないの。
いいえ、少しはわかっているから、誰にも内緒で行こうとしているのね。あるいは、
(どうせ父上の血を引く孫には違いないんだから、皇統の乱れというほどでもないさ)
とでも、ふてぶてしく考えているのかしら。確かに、他の男が藤壺さまに通うよりは、はるかにましかもしれないけれど。
今上さまのお母さま、弘徽殿の大后さまは、お兄さまを目の敵にしておられるという。その昔、お兄さまのお母さまに、桐壺帝の寵愛を奪われた恨みとか。それが今や、父君の右大臣さますら従えて、怖いものなしの権勢を振るっていらっしゃる。何か証拠でも掴まれたら、どんなことになるか。
いえ、証拠など必要ない。
疑いさえ生じれば、あの方は行動する。
偽の証人くらい、すぐにでも仕立てられる。
帝より右大臣より、あの方の怨念が怖い。
愛がこじれた時、それが死を引き寄せる憎しみに転じることを、わたくしは自分の身で知っている。
「わかりました。そういうことなら、なお、行ってはなりません。もしも露見したら、お兄さまだけでなく、あちらのお若い方まで、将来がなくなります」
わたくしが厳しく言うと、お兄さまははっとして身を強ばらせ、目を泳がせた。嘘の下手な人。動揺がありありだわ。
こういうお馬鹿さんだから、わたくしが守ってやるしかないのよ。いくら呆れはて、腹が立ったとしても。
「何かあっても、かばって下さる院は、もういらっしゃらないのですよ。行動は慎重にしなければ、いつ何時、弘徽殿さまから、どのような言いがかりをつけられるか。いいえ、言いがかりではなく、正当な非難だったら、逃げようがないのですよ」
お兄さまはますます、視線をさまよわせている。これで決まりだわ。本当に、藤壺さまの所へ行くつもりだったのだ。お住まいの三条の宮は、どれほど厳重に警備されているかわからないのに。曲者と間違えられて、矢でも射掛けられたらどうするつもり。
いいえ、間違いなどではなく、れっきとした曲者だわ。いくら未亡人になられても、父上さまのお妃だった事実は変えられないのだから。
「ねえ、姫……いや、紫の上。この際だから、あなたには話すけれど……」
言い訳がましい態度で言われて、はっとした。
だからなのね。わたくしのことを、紫のゆかりの姫、若紫と呼んでいたのは。
そうだったの。
わたくしは、叔母さまの形代なんだわ。
叔母さまを手に入れられないから、代わりに、姪のわたくしを引き取ったわけね。そして、藤のゆかりの娘だから、紫と。
力が抜けて、冷たい地面にめり込みそうだった。それでは、わたくしはずっと、お兄さまに片思いをしていたのだ。愛されていると思っていたのは、ただの錯覚。
お兄さまはわたくしの向こうに、藤壺さまを見ていたのだ。早逝なさったお母さまにそっくりだという、理想の女性を。そして、わたくしをうまく育てて、その理想に近づけるつもりだったのだわ。
何ということ。
あまりにも惨めで、馬鹿らしくて、もはや笑ってしまうしかない。
お生憎ね。わたくしは、理想の姫なんかではないもの。木に登るのも、馬に乗るのも、市で買い食いするのも、未だに大好きなのだから。
お兄さまの夢見るような、高雅な貴婦人になんか、永遠になれるわけがない。まして、会ったこともない方の人真似なんて。
「これには、ずっと昔からの事情があるんだ。わたしは子供の頃、宮中で藤壺さまに会った。亡くなった母上にそっくりだと聞かされて、すぐさま、心を奪われてしまったよ。まさに、この世に降りてこられた天女のような方……」
気がついたら、お兄さまは馬の手綱を持ったまま、庭の暗闇の中で、ぼそぼそと何かをしゃべっている。声は低めているけれど、熱に浮かされたように切々と。
「あの方はずっと、わたしの母であり、姉だった。元服する前までは、親しくお部屋に出入りしていたものだ。それが、元服した途端、もう御簾越しにしかお目にかかれないんだ。どんなに寂しく、辛かったか」
そして、少年のお兄さまは、左大臣家の姫と結婚させられた。葵の上さまは、それでもお兄さまを愛していらしたのに。お兄さまときたら、藤壺さまに心を寄せたままで、葵の上さまのことは、ずっとお義理の妻にしておいたのだわ。
今ならわかる。葵の上さまの惨めさが。心がここにない夫を、どうして温かく迎えらるだろう。ご自分の誇りを守るために、悲しみも悔しさも、冷たい態度の陰に押し隠すしかなかったのだわ。
「あの方にじかにお目にかかりたくて、気が狂いそうだった。だから、王の命婦に頼み込んで、里下がりの機会を狙ったんだ。あの方は、初めは拒絶なさったけれど、最後には、とうとう認めて下さったよ。わたしを愛していると」
この、馬鹿。
鈍感の大間抜け。
このわたくしに、それを言うの。
気が狂いそうなのは、こちらの方よ。
「それでも、父上がおいでの時は、後ろめたくて苦しかった。父上は最後まで、何もご存じないままだったから。でも、今ならもう、裏切りではないだろう?」
何を言っているの。裏切りになるのは、院に対してだけではないのよ。曲がりなりにも妻であるわたくしに向かって、他の女をどれだけ愛しているか訴える、それが裏切りでなくて何なの。
この、底抜けの鈍感男。わたくしがどう感じるか、想像しようともしないんだわ。お馬鹿だとはわかっていたけれど、まさか、ここまでとは思わなかったわよ。
でも、これで納得できた。だからだわ。六条の御息所が、娘である斎宮さまに付いて、伊勢へ下向なさったのは。
この幼稚さ、無神経さに愛想を尽かしたのだわ。これではもう、一生待っても、もののわかった大人の男になる望みはないと。
でも、お兄さまはまだ語っている。
「宮中はいま、弘徽殿さまの天下だからね。あの方はきっと、心細くて泣いていらっしゃると思うんだ。お側に行って、お慰めしなくては」
怒りのあまり、目眩がした。それなら昼間、東宮さまの後見役として、堂々と正式に訪問すればいいのよ。何も夜中に、こそこそ忍び込むことはないわ。
わかっている。本当に抱きたいのは、わたくしではなくて、藤壺さまなのね。わたくしは、ただの代用品だから。
もう、もう、勝手にすればいい。途中で強盗にでも遭って、斬り殺されてしまえばいいんだわ。
何が、光り輝く君よ。女の心を知らない、知ろうとしない、最低の幼稚男。身勝手男。
「待っていておくれ。夜明けには戻るから」
わたくしを説得したと思うのか、お兄さまは馬にまたがり、あっという間に走り去ってしまった。門番たちはどう言いくるめられているのか、静かに門を開いて協力するのだ。
わたくしは震えながら暗い部屋に戻り、それぞれの局で寝ている女房たちに気付かれないよう、そっと夜具に潜り込んだ。冷えきった躰が暖まるのを待ちながら、自分を堅く抱きしめる。
ようやく、妻として暮らす覚悟が定まってきたところだったのに。一生、お兄さまに尽くすつもりでいたのに。わたくしがお兄さまに寄り添っている間、お兄さまは、
(この子が、あの方だったらいいのに)
と思っていたんだわ。
明日から、どうやって生きていけばいいのか、わからない。
自分が人間ではなく、ただの人形だったなんて。
それでも、わたくしには、他に生きる場所がない。これだけの秘密を打ち明けられて、それを守り通せる者は、他にはいない。何かの時は、わたくしがお兄さまを庇うしかないのだ。精一杯の知恵を働かせて。
ふと、思い至った。
わたくしは、もしかしたら、亡くなった桐壺の更衣の思いを引き継いでいるのかもしれない。幼い息子を残して逝った方の、無念の思い。
実のお母さまの代わりに、このわたくしが、お兄さまを守る巡り合わせになっていたのではないかしら。
そう思えば、どうということはないはず。お兄さまは、わたくしの子供のようなものだもの。他の女性に夢中になったとしても、帰る場所は、わたくしの元なのだから。
だいたい、お兄さまは自惚れが過ぎるのよ。世間の噂を聞く限り、藤壺さまは聡明な方。いざとなったら、秘密の恋人より、ご自分のお腹を痛めた息子を選ぶはず。
藤壺さまに捨てられて、わあわあ泣くといいのよ。慰めてはあげるけれど、わたくし、内心で笑ってやるんだから。
その想像で自分を慰めたけれど、それでも、苦い涙は止められない。一人でいるのが、たまらなく寒い。肩も背中も、ぞくぞくする。お兄さまが横にいてくれたら、冷たい足を足の間に差し込んで、温めてもらえるのに。
声を殺して、しばらく泣いているうちに、人生のからくりがわかったような気がした。
不意にどこかへ突き落とされて、ここがどん底だと思って嘆いていると、更にまた、そこより深い場所へ突き落とされる。人間は、きっと死ぬまで、こういうことを繰り返すのだわ。
それでは、次はいったい、どんな絶望に突き落とされるのかしら。これ以上悲しいことがあるなんて、今のわたくしには、想像もつかないけれど。
「それでは、中宮さま、お休みなさいませ」
「ええ、お休みなさい」
女房たちが廂の間に下がると、わたくしは一人で、火桶を置いた暖かい塗籠に入った。
四方が壁という空間は、とても落ち着ける。寒い季節は、ここで寝るのが好きだった。心ゆくまで好きな絵や物語をめくったり、とろりと甘いお酒を飲んだり。
未亡人の身というのは、慣れてみれば、ずいぶんと気楽なものだった。寝るも起きるも、食事の時刻も、全て自分だけの都合でいいのだから。
もちろん、院を失った寂しさはあるけれど、弱っていく人を励まし続ける看病の日々に、かなり疲れていたのも事実。寒い夜中や明け方、苦しげなお咳を聞いて、起き上がることもよくあった。白湯を差し上げたり、お薬を選んだり、手足や背中をさすったり、お眠りになるまで物語を朗読していたり。
むろん、女房たちも控えているけれど、妻であるわたくしが、知らん顔して寝ているわけにはいかない。真っ先に起きて、最後までお側に付き添うのが務め。おかげで、こちらが冷えきってしまったり、寝不足で辛かったり。
それでも、決して疲れたという顔はできなかった。病の身の院が、こちらに気を遣われるのでは、かえってお気の毒だから。
自分を励まして明るく振る舞い、あちこちに季節の花を飾り、院のお好きな香を焚き、女房たちと心を合わせて楽しい話題を探し、御所が陰気にならないように努力した。
おかげで院を無事に見送ることができ、こうして一人で伸び伸び眠れるようになったのは、本当に有り難いこと。
欲を言えば、幼い東宮のために、もう少し長生きしていただきたかったけれど。
でも、寿命というものは、仕方のないものだから。あの方は今頃、最愛の桐壺の更衣とお二人、極楽浄土で楽しく過ごされているはずよ。
わたくしの場合は、死んでも極楽へは行けないだろうから、せめて、あまりひどい地獄には落ちませんようにと祈るだけ。
あとの心配は、宮中で育てられている東宮の身の安全。まだ幼くとも、立派な帝となるべく勉学の日々だから、生みの母とはいえ、そう入り浸りにもなれないのが辛いところ……わたくしが宮中に出入りすることは、弘徽殿さまからもよく思われないし……あの方はまったく、呆れるほどに壮健でいらっしゃる……
ところが、四方を塞がれたはずの密室に、誰かが動く気配があった。わたくしのものではない、甘い香りが漂う。はっとして身を起こすと、几帳の陰から覚えのある声がささやいた。
「わたしです、藤壺さま」
光君。
何ということを。
よくも警護の者たちに見付からず、ここまで入り込んできたもの。まさか、また、王の命婦が手引きしたのかしら。
でも、彼女はもう、二度といたしませんと泣いて誓ってくれた。あの誓いが、そう簡単に破られるものとは思えない。
では、若手の女房の誰か。もしや光君に口説かれ、甘いことを言われて、それを信じたのでは。
『こっそりきみに会いに行くから、掛け金を外しておいておくれ』
などと騙されたのかもしれない。女たちはみな、光君の甘いささやきに弱いから。それは、このわたくし自身もそうだけれど。
帝の御子という、高貴な血筋。
ありとあらゆる才に恵まれた、美しくりりしい貴公子。
この方が内裏の簀子縁を歩かれると、御簾の陰の女房たちが、一斉に放心のため息をついた。
折々の行事で見事な舞いを披露なさる時などは、後宮中の女たちがひしめき合い、我を忘れてうっとりと見とれたもの。
その貴公子が、少年の頃から、このわたくしに恋焦がれてきたとおっしゃる。人目を避けてわたくしを口説き、手を握ろうとなさる。聞いてはいけないと思いながら、つい熱い言葉に耳を傾けてしまい、はっとして逃げ出したことが、幾度あったことか。
そしてとうとう、あの強引な逢瀬。
取り返しのつかない罪。
院は本当に、お気付きではなかったのだろうか。物の怪のせいで出産の時期がずれたなどという苦しい言い訳を、真に受けて下さったのか。
人はしばしば、都合の悪いことを物の怪のせいにする。酔って喧嘩をした時。仕事をしくじった時。危険な本音を叫んでしまった時。物の怪の側では、さぞかし迷惑に感じているに違いない。
でも、たとえ疑いを持たれたにしても、院はそんなことは一言もおっしゃらなかった。光君そっくりの皇子を、ご自分の御子として愛して下さり、東宮に立てて下さった。だからこそ、他の誰一人怪しまずに、今日まで無事に過ぎてきている。
それなのに、その平安を打ち砕くような真似を、この人は。
「お会いしたかった」
光君はわたくしの手を取り、低くささやかれる。
「あなたがお一人になって、日々どんなに寂しい思い、心細い思いをなさっているかと、居ても立ってもいられなくて」
とんでもない。わたくしは、呑気な未亡人暮らしを楽しんでいたのよ。勝手に悲劇を作り上げないで。
寂しさはあるけれど、精一杯お世話して見送ったことに満足しているわ。あとは、東宮の成長を見守るだけ。もしも悲劇が起こるとしたら、あなたがこうして、危ない真似をするせいよ。
「もう大丈夫、わたくしがお守りします。こうしていつも、あなたのことを思っていますから」
強い力でぎゅっと抱きしめられ、懐かしい香りに包まれた。甘い梅花の燻りと、青草のような青年の匂い。
晩年のあの方はもう、こんな力など失くしていた。若くて健やかな、荒々しいほどの雄の力に囚われると、わたくしもつい、心地よさに気が遠くなりかける。分別が溶けて流れそうになる。
いけない、いけないと思いながら、この情熱に巻き込まれてしまい、他のことを全て忘れてしまう熱い時間があったのは事実。
でも、そんなことには限度がある。もう、危険な逢瀬を繰り返すことはできない。もしも弘徽殿の大后に、東宮の血筋を疑われるようなことになったら。
どちらにしても、帝の血が流れていることには変わりないから、皇統を断絶させたという大逆にはならないのが、せめてもの救いだけれど。
そんな言い訳、弘徽殿さまには通用しない。わたくし自身はどうなっても罪の報いだけれど、あの子の将来だけは守らなくては。でないと、院のお気持ちをも無駄にすることになってしまう。
「やめて!」
わたくしは精一杯の力で、光君を突き飛ばした。こんな扱いを受けたことのない貴公子は、唖然としている。
「藤壺さま……」
「まだ、おわかりにならないの。わたくしたちは、もう終わっているのです。最初から、あってはならない交わりでした。もう、わたくしのことは忘れて下さい。あなたには、紫の上という方がいらっしゃるでしょう」
わたくしの姪。会ったことはないけれど、女房たちの噂では、わたくしによく似ているという。きっと、わたくしよりも素直で愛らしく、罪のない、可憐な姫君に違いない。
「待って下さい。違います。あなたを偲ぶよすがに引き取ったのです。姫は、あなたの姪だから。あなたに近しいものなら、何でも手に入れたかった。一番に愛しているのは、あなたです」
光君は懸命に言い訳なさるけれど、でも、当の紫の上は、自分本人が愛されていると信じているはず。
「いいえ。そんなことを言ってはいけません。あなたを信じている方を、どうぞ大切にして差し上げて」
もしも、紫の上がわたくしのことを知ったら、悲しむわ。余計なことを知らないまま、幸せに過ごしてくれる方がいい。せっかく光君と夫婦になったのだから、末長く睦まじく暮らせるようでなくては嘘よ。
その時、ふと思った。もしかしたら、人はこうして、終わりのない思慕の連鎖を続けていくものなのかもしれない。片思いをしている人に、報われない片思い。また、誰かがその人に片思い。
思う相手に、等量に思い返されるということは、きっと、ごくごく稀な出来事なのではないだろうか。
亡くなられた院も、それを気にしていらした。わたくしを入内させ、桐壺の更衣の身代わりにしてしまってすまないと、幾度もおっしゃっていた。こんな年寄りに付き合わせて、若い盛りを過ごさせてしまったと。
わたくしも以前は、若い女房たちと同じく、明るくて颯爽とした光君に憧れていたけれど。
いつからか、わかるようになってきた。この方の明るさは、ただの幼さ。苦難によって鍛えられた、本当の強さ、朗らかさとは違う。人の都合に構わず、自分の望みを押し通せる者が持つ、無邪気な傲慢さにすぎない。弘徽殿の大后が、この傲慢を許せないとお思いになる気持ちも、無理はないと思ってしまうほど。
それよりも、わたくしや回りの女たち、伺候する臣下の誰彼にも、遠い地方の民にも、公正で寛大な心遣いをして下さったあの方こそが、本当の男性というもの。
桐壺の更衣を失ったことで、あの方は深く苦しまれ、そこからようやく、本物の帝になられたのだと思う。
わたくしは、その素晴らしい方に愛されていた。もう、これ以上、未練がましい真似はするべきではない。いくら、わたくしの肉体が、この人の熱情を欲していようとも。
そう、肉欲。
わたくしがこの方に魅かれるのは、ただそのためなのだ。
それならば、断てる。わたくしには、もっと大事なものがあるのだから。
「わたくしは、これから、東宮のためにだけ生きていきます。あなたはどうか、東宮の後見という立場でお力添え下さい」
と言い渡した。
この方もいつか、人の心がわかる大人の男性になるかもしれない。でも、その過程に付き合うのは、わたくしではない。この方の伴侶は、若い紫の上。
「もちろん、もちろん後見はします」
光君は焦って言われる。
「若君のために、何でもします。どうか、頼りにして下さい。ですが、こうしてあなたとお会いできれば、より一層、力が湧くというものです。わたしがどれだけ、あなたに会いたくて、機会を窺っていたか……」
「いいえ、聞きません。どうか、わたくしを困らせないで」
「でも、藤壺さま」
「いいえ。お帰りになって。もう二度と、二人きりではお会いしません」
わたくしを捕らえ、強引に押し倒そうとする青年と揉み合い、幾度も厳しく叱り付け、やっとのことで塗籠の外に押し出した時には、もう夜明けが迫っていた。
わたくしはがっくりと疲れはて、震えがきてしまう。女房たちに悟られずに済んだことが、せめてもの救い……
それとも、みんな密かに聞き耳を立てていて、これから噂が広まるのかしら。あの妊娠の時でさえ、堅く口を閉ざしてくれていた者たちだから、まさか、そんなことにはならないと思うけれど。
寝床に就いて、真綿入りの衾を深く引きかぶった。どうか、光君が誰にも見咎められず、無事に邸の外へ抜け出せますように。警護の者に発見されて斬り付けられたり、矢を射掛けられたりしませんように。
でも、わたくしの方も、長く眠るわけにはいかない。女房たちが起きてきたら、それに合わせて起き上がらなくては。そして、気持ちよく目覚めたふりをしなくては。
この高貴な残り香が、勘のいい女房たちに、不審がられなければいいのだけれど。
それにしても、これからいったい、どうしよう。あの様子では、近いうち、また忍び込んでくるかもしれない。こんな危うい思いは、もうたくさんなのに。
殿方は、その時の熱情だけで後先考えずに動けるけれど、女は違う。もう一度妊娠などということになったら、今度こそ終わり。背の君を失った身では、もはや、ごまかしようがない。喪も明けないうちに身籠もるとは、父親はいったい誰だという、きつい詮議になってしまう。
そして、誰かが光君の姿をちらとでも目撃していたら、そこから、東宮の血筋まで追求されかねない。
わずかでも疑惑が生じれば、その機会を逃す弘徽殿さまではないだろう。あの子は、東宮位を剥奪される。
いいえ、それだけで済むとは限らない。
弘徽殿さまは、いざとなったら、邪魔者に毒を盛るくらいのことはなさる方。
守らなければ。どんなことをしてでも、あの子を守らなくては。
その時、わたくしの頭に浮かんだ方法は、ただ一つだけだった。
わたくしが、女であることを捨てること。
この世に生きながら、この世の栄枯盛衰の外に身を置くこと。
本当は、それをしたくはなかった。あの方が、そんなことはしないようにと、わざわざ言い遺して下さったのだもの。六条の御息所のように、源典侍のように、美しく装い、華やかな催しに顔を出し、残る日々を楽しく過ごすようにと。
でも、他には、世間を納得させつつ、なおかつ光君の執着を断ち切るような道がない。なまなかなことでは、あの強引さを退けられないとわかっている。
(あなた、お許し下さい。東宮のためです)
と心で祈った。
(わたくしには、もう、あの子しかいないのですから。どんなことをしてでも、あの子だけは守ります。どうか、ご加護を)
光君にはまだ、我慢というものができない。何かを欲しいとなったら、駄々っ子と変わらないのだ。それを止めるには、わたくしの方が決断しなくては。