紫の姫の物語
「姫さまは、まだお寝みなの?」
「おかしいわね。いつもなら、とうに起きていらっしゃるのに」
「物語でも読んで、夜更かしなさったのかもしれないわ。お目覚めを待ちましょう」
女房たちが障子の向こうでささやき交わし、引き返していく気配がわかる。わたくしは厚い衾をかぶったまま、御帳台から出なかった。
どんな顔をして、外に出られるというの。
もう二度と、前のわたくしには戻れない。
まさか、お兄さまが、あんなひどいことをするなんて。怖いと言っても、痛いと訴えても、やめてくれなかった。わたくしが泣いて頼んでも、平気で無視した。
ひどい。
ひどい。
ひどい。
どうして。
どうして。
どうして。
さんざん泣いて、ようやくわかった。わたくしは、こんなことのために引き取られてきたのだ。
遊び女、と名乗った女たちに教わったことが、今こそ身に沁みてわかる。男は、女をおもちゃにするのだ。女の気持ちなど、どうでもいいのだ。ただ、自分が楽しみさえすれば。
あの女たちは、ああいう恥辱と苦痛に耐える代償として、金品を受け取っていたのだろう。それが仕事。生きるための道。それなら、わたくしも同じではないの。この部屋も、数々の調度も、豪華な衣装も、全てああいうことの代償。
そして、結果的に子供ができれば、悪阻や陣痛で苦しむのもまた女。
運が悪ければ、葵の上さまのように、力尽きて死ぬこともある。それなのに、男にとっては他人事。
お兄さまだって、葵の上さまのことを悲しんだのは一時だけ。忘れ形見の若君は左大臣家に任せたきりで、自分はすぐにまた、他の女を相手に楽しみ≠求めるのだから。
これでは、たとえわたくしがお産で死んだところで、
『やれやれ、しょうがないなあ』
と言って、すぐまた新しい女を探すのだわ。
わたくしは、そういう遊び相手の一人にすぎない。ちゃんとした保護者がいないばかりに、誘拐同然に連れてこられて。どうせ逃げていく先はないと知っているから、何をしても平気だと思い上がっている。
あんな男と知らず、お兄さま、お兄さまと慕っていたなんて、子供だったんだわ。
自分では賢いつもりでいたけれど、とんだ世間知らずだった。全くの他人が、ただの親切で、財産もない娘を引き取ったりはしないのよ。
お兄さまの教育方針も、今になって思えば片寄っていた。和歌や漢籍は教えてくれたけれど、肝心のことに関してはどうだったか。昨夜の得意げな御託によれば、
『男と女のことは、姫には教えないように』
と少納言に厳しく言っていたらしい。わたくしが逃げ出すのを防ぐためだわ。
葵の上さまのことがあって、少納言がこっそり知識を授けてくれなかったら、今もまだ、わけがわからないままでいたところよ。
なんて卑劣な男。
何が『光る源氏の君』よ。ただの人さらい、色悪じゃないの。
それが世間から非難されずに済んでいるのは、身分のある男たちがみんな、似たようなことをしているからだわ。
わたくしのお父さまだって、お母さまを愛人にしたくせに、きちんと守ってくれなかった。正妻に苛め抜かれて病気になるのを、見て見ぬふりをしていたんだわ。
だからお祖母さまも、わたくしの行く末について、お父さまをあてにできなかったのよ。それで、やむなく、お兄さまの申し出にすがるしかなかった。わたくしを、気晴らしの遊び道具にしようという男の申し出に。
そのうち、呑気な声がした。
「まだ寝ているって? お寝坊さんだね。起きてごらん、いい天気だから。何か果物でも食べるといいよ」
おぞましい。
汚らわしい。
寄らないで。
わたくしが衾を深く引きかぶって伏せているのに、この男は、図々しく御帳台の中に入り込んできて、わたくしの肩に手をかける。
思わず、全力で払いのけていた。向こうも驚いたようで、後ずさりする。けれど、周囲で様子見をしている女房たちの手前があるから、
「お姫さまは、ご機嫌がよろしくないようだ。後でまた来るよ」
と少納言に言って、何でもない様子で部屋を出ていく。何というふてぶてしさ。
「姫さま、何かお召し上がりになっては」
と声をかけてくる少納言も、今はうとましかった。こうなることを知っていて、知らんふりしていたくせに。
確かに、女がどうやって身ごもるかは教えてくれたけれど、あれほど痛くて恐ろしいことだとは、警告してくれなかったわ。
今こそ、はっきりわかった。この邸は檻なのだ。わたくしは囚人。惟光や少納言は、檻の番人。
よくもよくも、みんなでぐるになって、わたくしを騙してくれたわね。
「いらない。頭が痛いの。一人にして」
みんなを追い払い、お水だけ飲んだ。
考えなくてはならない。
犬や猫、馬や牛なら、餌さえもらえばおとなしく飼われるだろうけれど、わたくしは違う。わたくしを飼い殺しにできるなどと、あの男に思わせてなるものか。
お母さまは、男に飼われて生涯を終えたけれど。逃げることも逆らうこともできず、正妻に苛められ、病気になって死ぬしかなかったなんて。
わたくしは、いや。
そんな惨めな生き方、お断り。
外に出て、違う暮らしをしてみせる。
それはつまり、男になるか、それとも出家するかということだった。
この世の中、女のままでは、自由に生きることなどできはしない。でも、遊びで男装するのではなく、ずっと男のふりをして暮らすなんて、あまりにも大変すぎる。慣れない町でうろうろしていたら、それこそ本物の人さらいに捕まって、遠くへ売り飛ばされてしまうかも。
それならば、やはり、どこかのお寺に駆け込んで、髪を切り、出家するしかない。仏門に入ってしまえば、もはや、お兄さまも手出しはできないはず。そんなことをしたら、どんな仏罰が当たるかわかりはしない。
でも、それにも不安が残る。わたくしがどこから逃げてきたかを知ったら、寺の誰かが、褒賞目当てにお兄さまに知らせるのではないかしら。髪を切る前に発見されたら、連れ戻されてしまう。
いいえ、髪を切った後でさえも、同じことかも。周囲に口止めがなされ、わたくしの反抗など、なかったことにされてしまうのではないかしら。
どうしよう、どうしようと考える間に、時刻はどんどん過ぎていく。冬の日は短い。このまま夜になってしまったら、また同じことが繰り返されるのではないの。
ああ、いや。おぞましい。
お兄さまは昨夜もずっと、まるで熱に浮かされたかのように、わたくしをしつこく撫で回しながら、見え透いた空言を並べていた。わたくしが誰より愛しいだの、美しいだの、唯一無二の存在だの、生涯大切にするだのと。
確かに、これまで贅沢三昧させてくれたのは、それなりに執心している証拠なのだろう。だとしたら、男装してこの邸から抜け出せても、遠くまで行かないうちに、追っ手をかけられ、捜し出されてしまうかもしれない。
でも、ああいう扱いが大事にされることだとは、わたくしには到底思えない。
わたくしを軽んじ、甘く見ているからこその暴力。いくら泣かせても、どうせ逃げる先などないと、高を括って。
やはり、ここから出ていくしかないのよ。そうでなければ、わたくしが本気で怒っていることを、あの人は絶対、理解しないだろうから。
その晩、懲りずにお兄さまが来た。
そして、嫌だというのに、またわたくしを痛い目に遭わせた。
許さない、絶対に。
へらへらとご機嫌とりをしたって、誰が口を利いてやるものですか。一生恨み、蔑んでやるわ。
まだ闇が深い時刻、わたくしは熟睡しているお兄さまの横から、そっと起き上がった。隠しておいた狩衣を着て、邪魔な髪を肩の下でざくざく切り、首の後ろで男の子のように堅く結ぶ。それから、廂の間で寝ている女房たちを起こさないように、こっそり庭に降り立った。
厩に忍び込んで、おとなしい馬をいただこう。外から来た文使いのふりをして、門から堂々と出ればよい。男の子の格好をしているのだから、闇の中なら何とかごまかせるだろう。門番たちに怪しまれたら、この短刀で脅してでも、馬で蹴散らしてでも突っ切るわ。
ところが、篝火の焚かれた庭を回っていく途中で、中門廊のあたりにいた誰かが、むくりと動いた。はっとして身構えると、静かな男の声が言う。
「高貴な御身が、夜中の一人歩きはいけませんな」
「‥‥惟光!」
しまった。お兄さまは、わかっていたのだ。わたくしが、何かやらかすと。
「戻っていただけませんか。でないと、随身や郎党たちを起こす騒ぎになってしまうと思うのですが」
わたくしは身を翻して、庭の闇に紛れようとした。木に登って、塀を越えてやるわ。越えられそうな場所は、前から目星をつけてあるのよ。
そうしたら、行く手にはもう一人いる。
「姫さま、どこへ行かれるおつもりですか」
炎の明かりが届く中に出てきたのは、少納言。
「父上さまのお邸に逃げ込まれるおつもりなら、無駄です。源氏の君が返せとおっしゃれば、父上さまは、庇っては下さいませんよ」
ふん。
「頼ろうなんて思ってないわ。お母さまを見殺しにした男なんか」
どうせ女を飼うなら、最後まで責任を持って飼えというのよ。正妻が妾をいびり殺すのを、黙って見ているんじゃないわ。
「では、どちらへ」
少納言は、憎らしいほどの落ち着きぶり。わたくしが、子供じみた駄々をこねている、と思っているんだわ。
「どこでもいいでしょう。おまえたちには関係ないわ。そこをおどき。どかないと、怪我をするわよ」
隠し持っていた短刀を取り出し、構えた。強盗や人さらいなどに会った時の用心。うまく使える自信はなかったけれど、何もないよりはまし。いざという時は、これで自分の喉を突くこともできる。そんなこと、全然したくなんかないけれど。
篝火の反射で、抜いた刀身がきらめいたらしい。
「姫さま、危ない。そんなものを」
うろたえたのは惟光で、少納言は動じなかった。
「そうですか。そこまでのお覚悟ならば、お止めしません。では、わたくしを突き殺してから、出ていって下さい」
そう言って、重量のある堅肥りの躰で、ずい、と前に出る。威厳の度合いは、細身の伊達男である惟光の十倍というところ。
殺せというの。
小さい頃から、ずっと世話してくれた乳母を。
でも、嘘やはったりでこんなことを言う女ではない。少納言は、いつだって大まじめだ。わたくしが貴婦人の規範から外れると、すぐお説教。
「ふざけないで。どきなさい」
と言ったら、冷笑する気配。
「おや、わたくしを殺す覚悟もなしで、どうやって、外の男たちと渡り合うおつもりです。わずかな米、わずかな酒のためには、死人から衣を剥ぐことも、子供を売り飛ばすことも平気でする者たちが、大勢うろついているのですよ。若い女とみれば、すぐさまよだれを垂らす男たちがね」
耳を疑った。
いつも堅苦しい少納言が、何という露骨な物言い。
でも、だからこそ、お腹の底にずしりと響く。
「姫さまをこの邸に届ければ、褒賞が出るとわかっていても、目先の欲に狂っていれば、損得勘定などできないかもしれません。寄ってたかって犯そうとするのが、目に見えていますわ。姫さまが暴れたり、叫んだりすれば、殴り付けて殺すか、首を絞めて殺すか、わかりはしません」
思わず息を呑み、後ろに下がってしまった。
わたくし、考えが甘かったかも。
確かに、そういう男たちがたくさん歩き回っているのだとすれば、こんな短刀一本で、とても切り抜けられるものではない。優男にすぎないお兄さま一人の腕力にも勝てなかったのに、それが大勢の野蛮な男たちとなったら。
「髪など切っても、無駄ですわ。姫さまのそのお顔は、隠しようもありませんもの。泥で汚したところで、すぐさま目を付けられて、捕まえられてしまいます。遠国の湊か、そこらの淫売宿へ売り飛ばされたら、どんな目に遭うかご存じですか。一人二人ではなく、何十人、何百人もの男に弄ばれることになるのですよ」
愕然とした。まさか、少納言の口から、そんな脅しが出るなんて。
いえ、脅しなどではないのだわ。たぶん、それが現実。わたくしは今日まで、その現実から隔離されていただけ。
たとえ犯されるにしても、相手がただ一人だけなら、それは大幅にましな運命なのだと、少納言は判断しているのだわ。
「それでも、若いうちはまだ、男たちにちやほやされるかもしれませんが、それもほんのしばらくのこと。行く末はどうなります」
どうなるの。
「男が寄り付かないほどの年寄りになったら、道端で物乞いでもする他ありません。いいえ、たとえ若くても、悪い病にかかれば、看病もされずに捨てられるもの」
そうだったわ。この都は、過去に幾度も流行り病に襲われたのだった。
夏になると、通りに掘られた用水路も、あちこちにできる水たまりも、生活の汚物で濁り、腐った匂いを放つという。
それが原因になるものか、下々の家はもちろん、貴族の屋敷にも、恐ろしい疫病は忍び込んだ。見た目が綺麗な水でも、病の発生した地域の井戸から汲んだ水だと、毒になることがあるらしい。内裏のある高台に近いこの二条邸は、上流から来る澄んだ水が使えるので、そういう災厄を免れてきたけれど。
「動けない病人は、河原に集めて焼いてしまうこともあるのですよ。息があろうがなかろうが、おかまいなしです。生きたまま、犬に食われてしまうことも珍しくありません」
実際にそういう悲惨を見たことはないけれど、わたくしも、話には聞いていた。下々では、親が事故や病で死んでしまうと、残された幼子は、世話してくれる人もなく、飢えて死ぬか、弱ったところで野良犬に食い殺されるのだと。
「あるいはまた、若くてお元気なうち、望まない子を身ごもるかもしれません。父親の知れない子供を生みたいですか?」
そんな、そんなこと。
「孕み女では商売にならないと言われ、無理に堕胎薬を飲まされたり、冷たい川に浸けられたりして、命を落とす女もいます。逃げようとして捕まり、見せしめに折檻を受けて、そのまま殺される女もいます」
耳を塞ぎたくなった。それではこの世は、地獄と変わりない。
いいえ、それが真実。
わたくしは今日まで、たまたま恵まれていただけのこと。桐壺院や今上さまに寵愛される貴公子の元にいられたから、最上の暮らしを当たり前と思っていられたのよ。ここを出てしまえば、どんな貧苦に陥るか。
でも少納言は、まだ足りないとばかりに話し続ける。
「やっとのことで身二つになっても、生まれた子を殺されたり、売り飛ばされたりするのですよ。売られた子供は、どこかの荘園で奴婢にされるのか、それとも、腹を裂かれて生き肝を抜かれるのか。赤ん坊の肝は、よい薬になると申しますからね」
身がよじれるほど怖かったけれど、少納言は容赦がない。
「わたくしは、この二条院に入る前に、そういう不運な女たちを幾度も見てきました。わたくしの縁者でも、落ちぶれはてて、行方知れずになった者が何人もおります。姫さまのお母さまにお仕えできたわたくしは、庶民に近い下級貴族の娘としては、ごくごく幸運だったのですよ。この都では、一握りの大貴族の他は、明日の保証などない暮らしです。時流から外れた貴族は、先祖からの財物を売り食いし、最後には、自分の娘を売り飛ばすのですよ」
知らなかった。少納言は、わたくしやお兄さまより、ずっと醒めた目で世間を見てきたのね。その上で、わたくしに、ここにいろと言うのね。ここから出れば、もっと悲惨な道をたどるだけだと。
「食いつめれば、男は強盗になるのが早道ですが、女は身売りすることになります。最初のうちは若さや美しさがあっても、そういう生活は心を荒ませ、命を縮めるものですからね。みるまに老け込み、衰えます。十年経ったら、たとえ命があったとしても、姫さまの方が、わたくしより年寄りに見えるかもしれません」
わたくしは、すっかりひるんでしまった。気を強く持とうと思っても、手足に震えがきてしまい、とても木登りなどできそうにない。
もしかしたら世間には、わたくしを気に入ってくれ、正式の妻にしようとする人がいるかもしれないけれど、それもまた身売りの一種。相手の男性を愛せない限り、屈辱は同じこと。
それだったら、このままこの二条院で飼われる方が、まだましだとわかる。
でも、それでも、悔しいものは悔しい。
お兄さまには、わたくしのこの気持ちが全くわからないのだ。
いいえ、わかろうという努力すらしてくれない。自分が目をかけただけで、女にとっては無上の光栄だろうと思い上がっている。
「わたくし、出家するのよ。人さらいに捕まる前に、どこかの寺に駆け込むわ」
と言い張った。でも、前ほどは強く叫べない。少納言は平然として言う。
「源氏の君がそのおつもりになれば、すぐ捜し当てられますよ。源氏の君に逆らってまで、姫さまを匿う寺などございません」
わたくしは苛立ってきて、小さい子供のように足を踏み鳴らした。
「いいから、そこをおどき! 邪魔すると、本当に刺すわよ!」
「構いません。どうぞ」
少納言は、ふっくらした胸をそらせて言う。
「わたくしは、筆頭の女房でありながら、姫さまのお母さまを守りきれませんでした。それが悔しくて、悔しくて、お小さい姫さまの横で、どれほど泣いたかしれません。ですから、姫さまだけは、あの北の方さまを悔しがらせるほど、お幸せになっていただきたいと思っておりました」
わたくしは、はっとする。
少納言も、自分の無力が悔しかったというの。悲しさ苦しさで、こっそり泣いたことがあるの。わたくしの前では、いつでも岩壁のように威厳があったのに。
「源氏の君が北山で姫さまを見初められた時は、初めのうちこそ驚きましたが、やがて、これこそ最高のご縁と思うようになりました。他のどの場所よりも、源氏の君の元こそが、姫さまには一番と思い定めて、今日までお仕えして参りました。それが間違いだったのなら、姫さまのお母さまに対しても、お祖母さまに対しても、死んでお詫びするしかありません。どうぞ、殺して下さいませ」
やめて、やめて。
わたくしの力が抜けるようなこと、言わないで。
わかっているのよ。小さい時からずっと、どれほど慈しんで育ててもらったかは。
少納言だけでなく、他の古株の女房たちも、みんなして、わたくしのために心を砕いてくれた。熱を出して寝込んだ時も、食べ過ぎでお腹をこわした時も、崖から滑り落ちて傷だらけになった時も。
「姫」
それまで黙っていた惟光が、口を開いた。
「殿はわたくしに、三日夜の餅を用意するようにとおっしゃいました。おわかりですか。遊びや戯れではないのです。殿は姫とご結婚なさるおつもりで、ずっと、姫が大人になられるのを待っていらしたのですよ」
結婚。
お兄さまが、わたくしと。
正式な結婚の儀式を経て、世間に披露するというの。
でも、まだ、葵の上さまが亡くなったばかり。それでは、もしもわたくしが急に死んだら、すぐにまた新しい妻を迎えるのでしょう。お兄さまにとっては、女なんて、いくらでも取り替えがきくのでしょう。唯一無二なんて、とても信じられない。
わたくしには、お兄さまこそ唯一無二で、だからこそ、ひどい仕打ちに耐えられなかったのに。
涙が溢れてきて、どうしたらいいのかわからない。空が明るくなってしまって、これではもう、どこへも逃げようがないではないの。
そうしてわたくしは不承不承、お兄さまの妻になった。
嫌々であることを示すために、お兄さまとは一切口を利かないことにする。
わたくしの前で頭を下げても、お愛想を言っても、おどけたふりをしても、絶対に甘い顔なんかしない。
「ああ、こんなに髪を切ってしまって。なんて勿体ないことを。本当に、無茶をするんだから」
と、お兄さまは嘆いていたけれど、それは外に洩れないよう女房たちに口止めし、お父さまの邸へも、きちんと使者を立てて事実を知らせた。行方不明と思われていた姫は、実は自分の手元で養い育てていて、この度、正式な妻にいたしました、と。
お父さまは、さぞ驚かれたことだろう。名高い光君の婚儀であるから、世間でもまた、ずいぶんと騒がれたらしい。
「源氏の君が自邸に隠していらしたのは、兵部卿の宮の姫君だったのか」
「道理で、大層なご寵愛だったわけだ」
「しかし、父君にも知らせず自邸に引き取るとは、いくら脇腹の姫でも、またずいぶんと強引な」
「さぞかし、お美しい方なのだろうなあ。だから、無理を通されたに違いない」
「一度でいい、拝んでみたいものだ。あの藤壺さまの姪に当たられるのだから、やはり、花のようなお方なのだろう」
藤壺の叔母さま。
わたくしは、一度もお会いしたことがない。本当は、お目にかかって親しくお話してみたいけれど、お兄さまと口を利かない以上、院の御所に連れていってもらうわけにはいかないし。
でも、噂では、天女のように美しい方だとか。少年の頃のお兄さまが、実のお母さまのように慕って、お部屋に出入りしたり、後を付いて歩いたりしていたという。それほど慕われたら、藤壺さまもきっと、可愛い子だとお思いだったでしょうね。
「藤壺さまと、うちの紫の君と、どちらが美しいかって。そうだなあ」
わたくしがずっとそっぽを向いているので、西の対にやってきたお兄さまは所在なく、唐渡りの玻璃の杯を片手に、女房たちを相手にしゃべっている。
「藤と桜の美しさは、どちらが上、と決められるものではないだろう」
まあ。藤が藤壺さまなら、わたくしは桜なのかしら。
桜はわたくしの大好きな花で、それを知っているから、お兄さまもそう言ったのかもしれない。
でも、おだてたって無駄ですからね。わたくしはまだ、怒っているのよ。わたくしが嫌だというのに、よくも繰り返し、ひどいことをしてくれたわね。いずれはあなたも好きになるって、どういうことよ。あんな動物的で痛いばかりのこと、未来永劫、好きになるはずがないじゃないの。お兄さまって、頭がおかしいわ。
「わたくしこれまで、あちこちのお邸に上がっておりますが、こちらの紫の上さまほどのお方は、正直なところ、お見かけしたことがございません。こう申しては何でございますが、ここだけの話、きっと藤壺さまよりお美しいのでは」
そう持ち上げているのは、新参の女房だった。わたくしを誉めれば、お兄さまのご機嫌がよくなる、と思うのね。単純なお兄さまは、
「うーん、実はわたしも、この姫、いや、紫の上より美しい方というのは、ほとんど見たことがない」
と、にやけた態度。
結婚してから、わたくしはこの二条院の女主人という格になり、紫の上、と呼ばれるようになった。それでわたくしも、お兄さまではなく、あなた、と呼ぶように言われている。
でも、関係ないわ。
ずっと一生、お兄さまとは口を利かないもの。
それだけが唯一、わたくしにできる抵抗だった。女房たちがおかしな顔をしても、陰でひそひそ噂しても、お兄さまが拝むようにして頼み込んできても、絶対、しゃべってやらないと決めている。
反省して。
自分が悪かったと、心の底から思ってよ。
わたくしがこれだけ怒っていることを、茶化さないで、真剣に受け止めて。
「伊勢へ行かれた六条のお方さまは、百合の花のような美女、と聞いておりますが」
と別の女房が言う。
「もちろん、あの方はお美しいよ。高雅な気品がおありになる。春の八重桜に比べても、夏の白百合に比べても劣らない方だ。ただ、いかんせん、盛りは過ぎておいでだから」
まあ。
伊勢へ文を出して、告げ口してやりたいわ。
六条の御息所さまにさんざん甘えておいて、何という言い草なの。
それではわたくしも、十年したら、同じことを言われるのね。若い頃は美しかったけれど、今はもう見る影もない年増だと。
「亡くなられた葵の上さまも、評判の美人でいらっしゃいましたね」
「そう、あの方も、冴えた美しさをお持ちだった。花に譬えれば、春の初めの白い梅かな。もう少し女らしい情趣があれば、もっとよかったけれど」
言いたい放題言っているわ。あの方が亡くなられた時は、子供のようにわんわん大泣きした、というくせに。
いえ、もしかしてこれは、わたくしに対する厭味なのかしら。いつまでも怒っていないで、少しはにこやかに、女らしくしろ、と言いたいのかも。でないと、いくら美しくても、男の心が離れてしまうと。
「そこへいくと、この紫の上は」
お兄さまは、話をこちらに振ってくる。
「華やかな美しさでは、どこの誰にもひけをとらない。宮家の気品も備えている。花の王と言われる牡丹でも敵うまい。もうそろそろ、天下第一の美女と言ってもいいのではないかな」
ふん。
そんなおだてに乗るとでも思っているの。お兄さまなんて、口から先に生まれたようなお調子者なんだから。
わたくしが冷然としてそっぽを向いたままなので、居並ぶ女房たちも、相槌に困るらしい。もごもごとお愛想を並べた後、話をそらせた。
「そういえば、入内が決まっていらっしゃる、右大臣家の六の君。あの方も、ご評判ですわねえ。ご姉妹のうちでも、随一の美貌とか」
「右大臣さま、さぞかしご自慢でいらっしゃいましょうね」
「どんなお方でしょう」
「薄紅の薔薇のような、愛らしくて華やかな方、と聞いたことがありますわ」
「あら、わたくしは、撫子のように可憐な方、と聞きましたわ」
「いえいえ、黄金色の山吹のように明るい方、という噂ですわよ」
お兄さまはつられて口を開きかけ、はっとして思いとどまった。見たわよ。いま、六の君の美貌について、論評しようとしたわね。
ということは、お顔を知っているんだわ。まさか、兄君さまのお妃になられる方に、手を出しているのではないでしょうね。そんな危ないこと、いくら『天下の光君』でも、下手をしたら首が飛ぶのに。
「お美しいといえば、新しい斎院さまも。たしなみの深い、ご立派な方とか」
「でも、ご身分のある方は、えてして回りが持ち上げるものですわ。実際よりも、大袈裟に宣伝されるもの」
これもまた、お兄さまは何か言いたいことがある様子。宮家の姫であり、新しく賀茂の斎院になられたこの方のことを、以前から朝顔の君と呼んで、何度も文を差し上げているのは知っていた。まったく、あちこち手広いんだから。
お兄さまの好みはわかっている。なかなか手の届かない、高嶺の花。
そこらの女房や、中級貴族、下級貴族の娘では、すぐになびいてしまって、面白くないのでしょうね。
だからといって、兄君さまのお妃さまとか、神に仕える斎院さまとか、滅多な相手には手出ししないでほしいのだけれど。
そこへいくと、わたくしなんか、孤児同様の身の上ですものね。そうしようと思えば、簡単にさらってこられる程度の女。
高嶺の花として憧れてもらう、なんてことは永遠にないんだわ。お兄さまは好きなだけ、外の花を探して歩けるんだもの。疲れた時に帰ってきて、やれやれ、たまにはうちの花でも見るか、というあたり。
きゅっと胸が絞られて、そのことに自分で驚いた。
いやだわ、わたくし。
これではまるで、やきもち焼いているみたい。
これまで、お兄さまに頼りきりで暮らしてきたからだわ。気を強く持たなくては。
お兄さまが外でどんな花を愛でていようと、知ったことではない。勝手にすればいいのよ。わたくしは絶対に、おとなしい飼われ女になどならないのだから。
「ねえ、頼むよ、紫の上」
しんしんと冷え込む夜、お兄さまは、わたくしと二人きりの塗籠で、手をとって懇願するふりをする。
「そういつまでも怒っていないで、笑ってくれないか。お願いだから、何かしゃべっておくれ。わたしも本当のことを言うよ。どこの妃だろうと姫だろうと、あなたより美しい人は誰もいない」
あら、そう。
言うだけなら、何とでも言えるわよね。問題は行動よ。外の女を訪ね歩くことをやめない限り、わたくしは絶対、信用しないわ。それに、お兄さまが浮気心を捨てることも、金輪際ありえないとわかっているわ。
こうなってから、わたくしは気が付いた。お兄さまが、この邸の女房たちの幾人かにも、手を付けていること。
これまでは、わたくしが子供だったから、密かな目配せや、さりげない約束の言葉、夜中の逢瀬などに気が付かなかっただけ。
お兄さま本人は、今でもまだ、わたくしが知らないだろうと思っている。その鈍感さ、図々しさには、まったく苛々させられる。
「自分ではわからないかもしれないけれど、あなたは、わたしの理想そのものなんだ。本当に、心の底から愛しているんだよ。そりゃあ、最初の晩は、無垢なあなたを驚かせたと思うけど、もう慣れてきただろう? 世間の男と女が、みなしていることなんだよ。これがないと、子供も生まれないのだし」
子供。
お兄さまはわたくしに、そんなことまで期待しているのかしら。
でも、結婚したということは、わたくしが子供を生んだら、夕霧の若君と同じ扱いになるの?
いいえ、それは無理ね。
あちらには、左大臣家の後援がある。どんな教育も昇進も、思いのまま。
けれど、わたくしの子供には、わたくししか頼る者がない。それでは、あまりにも心細すぎる。お兄さまがわたくしに飽きて、この邸から放り出すことだってありえるのだもの。
そうしたら、わたくしの子供はどうなるのだろう。わたくしと一緒に捨てられる? それとも、継母に育てられる?
そんなの厭よ。わたくしの後釜が、どんな女かわからないのに。
わたくし一人ならともかく、子供にまで辛い思い、惨めな思いをさせたくないわ。
財産や後見人に恵まれていない女は、子供を生まない方が安全なのよ。自分の身だけならば、最悪、自分で始末することもできるのだから。
「ねえ、正直ついでに、もう一つ言うよ。以前、夕顔という女を愛したことがあるんだ」
何ですって。
どういうつもりよ。
なぜわたくしに、そんな話をするの。聞きたくないわ。浮気者のお兄さまが、本気でのぼせた女がいたなんて。
「あなたを北山で見る前のことだよ。外出先で、偶然知り合ったんだ。素直で可愛くて、茶目っ気もあって、ずっと抱きしめていたくなる女だった」
あら、そう。
それは、よろしゅうございましたわね。
それなら、お好きなだけ抱きしめていたら。
「でも、どこが悪かったのか、まだ若いのに、急死してしまったんだ」
まあ。
だから、今でも未練たらたらなのね。美しい思い出だけ残して、逝ってしまった人。もう誰も、その人には敵わない。
「あの時は泣いたよ。目の前が真っ暗になって、しばらく寝付いてしまったくらいだ。世の中には夢も希望もない、いっそ出家しようかと思った。それが、あなたに出会ったら、また世の中が明るく見えてきたんだ」
ああ、そういう風につながるの。納得。
それじゃ、わたくしが急死したら、すぐにまた、次の誰かを見付けるのでしょ。
お兄さまが熱心に口説いたり、哀れっぽく泣きついたりしたら、大抵の女性は勝てないものね。容姿や才能に恵まれた男性は、得ですこと。
「辛いことがあっても、嫌なことがあっても、あなたの笑い声を聞いたら、心が明るくなった。あなたがいてくれるだけで、どんなに救われてきたか。そのあなたが、もうずっとわたしに心を閉ざしている。これはこたえるよ。この通り謝るから、どうか許しておくれ。これから一生かけて、誰より大切にするから」
それにしては、夕顔だの朝顔だの、お忙しいこと。
わたくしがつんとして横を向いたままでいると、お兄さまはため息をつき、それからやおら、わたくしの肩を押して倒し込み、のしかかってきた。
ほら、すぐそういうことをする。どうしてそう、やたらに撫で回すの。人におかしな格好をさせようとするの。
だから嫌いなのよ。わたくしを大切にするなら、どうして、わたくしが嫌だということをするの。いったい何が面白いのよ。
わたくしの方が恥ずかしくて、くすぐったくて、どんな顔をしたらいいか困るじゃないの。そこは敏感な場所なのだから、あまり悪さをしないでちょうだい。
ところが、苦痛を予期して身構えていたのに、ほとんど痛みはなかった。それよりも、何かむずむずするような感じがする。
何、これ。
変だわ、何か変。
躰の芯が、何か熱いような、ゆるゆると溶け出すような。
お兄さまの動作につれて、じっとしていられない、奇妙な何かが広がっていく。息が苦しくなって、黙っていることに耐えられず、何か叫んでしまいそう。
思わず、お兄さまの肩にしがみついてしまった。やめて、やめて。もうやめて。わたくし、何も考えられなくなってしまう。
「ほら、ね。痛いのは、最初のうちだけなんだよ。だんだん、良さがわかってきただろ」
と息を弾ませながら、お兄さまは自慢げに言う。
知らない。何がいいのよ。
わたくしは、子供なんか欲しくないわ。お兄さまが一生愛してくれる保証なんて、どこにもないんだもの。いつか見放されて、それきりになるかもしれないじゃないの。そう考えるだけで、今から心が張り裂けそうになるんだから。
あれはまだ、あの子が少年の頃。
元服して、間もない時期だったと思う。内々で神泉苑に出向き、深山幽谷を思わせる池のほとりを巡りながら、供人を遠ざけ、二人きりでしみじみ語り合ったことがある。
「いつか、話してやらなければと思っていた。そなたの母が、どうして死んだか」
それは、わたしのせいだった。毒殺にせよ、病死にせよ、女たちの間にそこまでの怨嗟を広め、更衣を追いつめさせたのは。
「泣いて里へ帰りたいと言った時に、その通りにしてやればよかった。わたしの方こそ、そなたの母にすがっていたのだ」
帝という地位にいる意味が、まだよくわかっていなかった。多くの女たちを侍らす身であれば、誰も泣かずに済むよう、満遍なく気を遣うべきだったのだ。彼女たちはそれぞれ一族の期待を背負って、懸命に務めていたのだから。
あの頃のわたしに、それだけの知恵があれば、弘徽殿も、あれほど頑なな女になることはなかったろう。
「そういう道理が、若い時のわたしにはわからず、一途に桐壺の更衣だけに打ち込んだ。他の女たちがどう思うか、配慮するゆとりがなかった。おかげで今も、弘徽殿とは仲直りできないままだ。そなたは、わたしと同じ間違いをしてはならぬ」
臣籍に降ろした息子に、わたしは語った。余人を交えず、男と男の立場で。
「男というものは、周囲の女人の幸せに責任がある。関わった女性には優しくして、余計な不安や悲しみは持たせないように努めなさい。母が不幸だと、子供もまた不幸になってしまう。それでは、世の中に不幸が広がるばかりだ」
利発な少年は、真剣な顔をして聞いていた。この若さで、わたしの言うことがどれほど沁みるかはわからないが、とにかく、話せる時に話しておかなくては。
「はい、父上。大丈夫です。わたくしは、女の人を泣かせたりいたしません。いつか子供ができたら、その子のこともしっかり守ります」
力んで言うのがおかしくて、つい、からかった。
「そういえば、近頃、六条に通っているそうだな。子供ができる気配はあるか?」
まだ背丈も伸びきっていない少年は、みるまに赤くなり、うろたえた。
「あの、それは、そういうことではなくて……六条には、ただ世間勉強に……あそこには、教養の高い方々が集まるので……」
「よい、叱ったわけではない。あの方は立派な貴婦人だ」
わたしの弟宮が愛した方。東宮であった弟が早世しなければ、中宮に昇られていたかもしれない。
「礼儀正しく振る舞って、色々と教えていただくといい」
この子にしっかりした後ろ盾をと思い、左大臣の姫と結婚させたが、まだ双方が若いので、うまくいかないこともあるだろう。しっかりした年上の女性に導かれる方が、若い男には望ましい。
この子だけは、幸せにしたかった。更衣のことを守りきれず、死なせてしまったことは、取り返しのつかない過ちである。せめて、形見の息子だけは守らねば……
「桐壺さま。お目覚めでいらっしゃいますか。お薬の時間でございます」
ひそやかな声に起こされた。桐壺の更衣。いや、藤壺の中宮か。わたしは時々、二人を混同してしまう。
「夢を見ていた……」
左右から女房たちに抱え起こされ、幾つもの丸薬と、苦い薬湯を飲む。何を飲んだところで、もはや尽きかけた寿命だというのに。
「どんな夢をご覧でしたの」
若い妻は、わたしの横に付き添い、微笑んで言う。更衣ならば、もっと老けているはずだ。わたしと釣り合いよく。
「昔の夢だ。まだ若かった頃の。源氏の君は少年だった。りりしくて、きまじめで。東宮も、大きくなったら、ああいう姿になるのだろうな」
藤壺の生んだ東宮が即位して、次の帝となる。その日までは生きられまい。
もう、一日の半分、夢の中にいるようなものだ。目が覚めてからも、今がいつなのか、しばらくわからない。
とろとろとまどろんで、少年の頃に戻ったり、青年の頃に戻ったりしている時間が、実は救いなのかもしれない。
「院は、まだ男盛りでいらっしゃいますわ」
藤壺は、強いて笑顔で言う。だが、自分が老人だということは、自分でよくわかっている。
若い妻を迎えると、こちらもつい気が若くなるが、肉体は確実に老いているのだ。無理な気の張りは、余計な疲労を招く。
しかし、わたしと同年輩の弘徽殿の大后は、まだまだ壮健そうだ。宮中に君臨して、若い帝をびしびし叱り付けていると聞く。今はまだ、わたしがいるから、あれでも遠慮しているのだろうが。
「そなたと東宮のことは、源氏の君に、くれぐれも頼んである」
もう何度も言っただろうことを、また繰り返した。しつこいとわかってはいるのだが、言わずにはいられない。
「帝にも、源氏の君を政務の柱とするよう、よく言い聞かせてある。わたしがいなくなっても、何も心配することはない」
唯一の気掛かりは、弘徽殿がどの程度、昔の恨みをひきずっているかだった。
そもそもはわたしが悪いのだから、わたしだけを恨んでくれればよいのだが、それだけでは済まないらしい。桐壺の更衣が憎ければ、更衣の生んだ息子も憎い。更衣によく似た藤壺も憎い。藤壺の生んだ皇子も憎い。
弘徽殿の息子、朱雀帝は気弱な青年だ。悪気は少しもないが、母が強く何か言えば、それに逆らえない。
頼みの左大臣も、かなりの年齢になっている。そういつまでも、現役ではいられまい。最大の政敵がいなくなれば、あとは狷介な右大臣が幅を利かせることになるだろう。右大臣も年だが、弘徽殿と同様、壮健だからな。
自分でつい、苦笑してしまった。心配を始めると、きりがない。後は若い者に託して、楽をするつもりで退位したのに。
豪奢な夜具に埋もれて仰向けに横たわったまま、枕の上でつぶやいた。
「思ったほどは、時間がなかったな。こんな病人になっても、まだまだ見足りないと思ってしまう。山も川も、空も海も……わたしは自分の治める国を、隅々まで見て回ったこともないのだ。もう十年若ければ、内密の旅もできただろうが……」
すると、藤壺は黒い瞳を潤ませ、袖で顔を隠す。やはり、わたしがもう長くないと思っているのだ。
「これから、いくらでも、お出掛けになれますわ。暖かくなりましたら、まず、あちらこちらに参詣に参りましょう。湯治もよろしゅうございます。珍しい景色をご覧になれば、お気が晴れましてよ……」
と言う声が、はっきりと濡れている。
「泣いてもよいが、顔は見せておくれ」
わたしは笑って言った。本当に、あとどれだけの残り時間か、わからない。できるだけ長く、愛する者を見つめていたい。
すると藤壺は泣き笑いになり、しばらくこらえていたが、やがて、衾の上に泣き伏した。声を殺し、肩を震わせている。わたしは手を伸ばして、その髪を撫でた。しっとりと重く、艶やかな漆黒の髪。
男の人生を慰めてくれるものは、結局、女なのだ。帝であっても、ただの下人であっても、日々の食べ物があり、雨露をしのぐ屋根があれば、あとは、気の合う妻と暮らせるかどうか。
いや、気が合うと思うこと自体、女たちがこちらに合わせてくれるための錯覚なのかもしれない。男というものは、知らず知らず、女にその努力を強いているのかもしれない。
その努力が報われないと思い、我慢が限界に来れば、弘徽殿のように、男を憎み、蔑む女になってしまうのだろう。
あれも、入内してきた当初は、初々しい姫だった。わたしの好みを覚え、話を合わせようとして、懸命に詩文を学び、琵琶や琴の稽古をしていた。衣装も香も道具類も、わたしを喜ばせようとして吟味していた。
そうして尽くされることを当たり前と思い、きちんと感謝しなかったわたしが悪い。
この藤壺には、間に合うように、感謝を伝えておかねばならなかった。女盛りの年月を、ひたすらわたしのために捧げてくれたのだから、残りの歳月は、自由になってくれてよいのだと。
「そなたはまだ若い。わたしがいなくなっても、簡単に出家などしないでおくれ」
と笑いに紛らせて言った。
「六条の御息所のように、邸を構え、才女や文人、貴公子を集めて、気ままな日々を楽しんでいいのだよ。それに、源典侍をごらん。いつまでもあのように、心を若く保つのが理想だね」
藤壺は、黙って首を横に振る。苦笑しているらしい。
源典侍とは、例が悪かったか。
老いてもなお美しく着飾り、背筋を伸ばして色好みを誇り、若い貴公子と浮名を流すくらいの方が、頼もしくてよいと思うのだが。光君と頭の中将、双方から熱烈に求愛されたという話は、いささか眉唾だとしても、望んで噂の中心になるだけ、立派ではないか。
わたしは横になったまま手を伸ばし、白い柔らかな手を握った。
「そなたを長いこと、更衣の身代わりにしてしまった。だが、不平を言わず、よく尽くしてくれた。可愛い皇子も生んでくれた。利発で素直で、本当によい子だ。おかげで、わたしはこの上なく幸せだった。更衣は更衣で、そなたはそなたで、同じくらい愛しているのだよ」
男は複数の女人を愛せる。ならば、女人も複数の男を愛せるだろう。それは、巡り合わせである。誰も愛さず終わるより、悲しんでも、苦しんでも、愛のある人生を送る方がはるかによい。
「わたしがいなくなっても、そなたがめそめそせず、楽しく過ごしてくれるのがわたしの願いだ。わかったね」
「はい」
涙を拭きながら、愛しい妻は懸命に微笑む。この美しさに若い男が迷ったとて、どうして責められよう。それほど気にすることはない、と言ってやりたかった。東宮がわたしの子ではないとしても、わたしの孫ではあるのだから。
本当なら、わたしは源氏の君を帝位に即けたかった。しかし、右大臣家の思惑、弘徽殿の女御の敵意があっては、到底叶わないことだった。だから、その夢が、次の世代でようやく実現するのだともいえる。
だが、藤壺が懸命に守ろうとしている秘密だ。わたしは最後まで、知らない顔をしていよう。
あとは源氏の君が、どんなことをしてでも二人を守るだろう。昔、赤い頬をして、わたしに誓ってくれたように。