紫の姫の物語
院の御所に現れた光君は、頬がこけて、目ばかり光り、まるで病人のようだった。無紋の袍に鈍色の下襲という服喪のお姿で、いつもの華やかな様子とは打って変わり、声まで湿っておいでになる。
「この度は、父上にもご心配をおかけしました。数々のお見舞い、ありがとうございます」
と院の御前で、深く頭を下げられる。
葵の上を亡くしてから、もうずいぶん経つというのに、まだこんなにやつれているなんて。
不仲だと聞いていたけれど、やはり、夫婦の情はあったのだろう。葵の上も、お気の毒に。こんなに愛されていたのに、夫と子供を残して逝かねばならなかったなんて。
わたくしだったら、想像することさえできない。既にもう、あの子と離れて暮らしているというのに。この上、もっと遠くへ行くなんて。
「そなた、随分とやつれたではないか。きちんと食事を摂っていないのだろう。今日はここで、滋養のあるものを食べていきなさい」
院は優しくおっしゃり、女房たちに命じて、光君の前に御膳を運ばせる。その溺愛ぶりは、以前と少しも変わりない。いえ、ご自分が病がちになられてから、なおいっそう、強まったかもしれないほど。
もっとも、溺愛というのなら、このわたくしこそ、過分に愛していただいている。
それというのも、わたくしが、ずっと昔に亡くなられた桐壺の更衣さま、つまり、光君の母上にうり二つだというせい。
内裏に入った最初の頃は、正直なところ、幾度も戸惑った。
『まあ、本当にそっくり』
『怖いほどですわ』
『まさか、あの方が乗り移っていらっしゃるのでは』
『おやめなさいな。そんな不吉なことを』
という他の局の女房たちのささやきが、どうしても耳に入ってきたから。
わたくしは藤壺に部屋をいただいたので、今も藤壺と呼ばれているけれど、あの頃、主上さまから聞く話といえば、
『桐壺の更衣はああだった、こうだった』
という、亡くなった方の思い出ばかり。
おまけに時々、主上さまは、わたくしをその方と混同なさった。
『更衣や。あの行幸の時は、本当に桜が見事だったねえ』
と優しく話しかけてこられてから、
『いや、すまない。藤壺だったな』
と目を伏せられたりして。
もちろん、時間が経つにつれ、主上さまの痛いような悲しみは薄れていき、わたくしはわたくしとして、愛していただくようになってきた。今では、桐壺の更衣に申し訳ないと思いながらも、この方こそわたくしの運命の方、と思い定められるようになっている。
できるものなら、この方の御子を生み参らせたかったのだけれど。こればかりはもう、どうにも取り返しのつかないこと。
わたくしは院のお側に控え、御簾や几帳の陰になるよう座っていたけれど、それでも、隙間からこっそり様子を窺うことはできる。
そうすると、光君が女房たちに囲まれて食事をしながらも、ちらちら、こちらを気にしておられるのがわかった。まるで迷子の子犬のような顔で、
(藤壺さま、そこにいらっしゃいますよね。わたしのことを、見守っていて下さいますよね)
と無言のうちに訴えてくるのが感じ取れる。やつれているだけに、なお一層強い目の光。
(一声だけでもいい。じかに、お声をかけては下さらないのですか。そのお気持ちがあれば、わたしは立ち直れますのに)
そんな顔をしないで。
こちらばかり、見ないで。
誰かに怪しまれたら、破滅するのは、わたくしたち二人だけでは済まないのよ。
わたくしの生んだ皇子は、いま、東宮として宮中にいる。もしも、あの子が不義の子と人に知られたら、帝位どころではない。命が危ない。
ただでさえ弘徽殿の大后は、わたくしたち親子を目の敵にしていらっしゃるのだから。
もしかしたら、あの噂は本当なのかもしれない、と思うことすらある。弘徽殿さまが、桐壺の更衣を毒殺なさった、という恐ろしい話。わたくしを初めてご覧になった時も、まるで、物の怪でも見るような、青ざめたお顔をなさっていた。
(あの女が、適当な誰かに乗り移って、甦ってきたのではないかしら)
とでもお疑いだったのだろうか。それ以来、いつお目にかかっても、仇敵でも見るかのような目で、わたくしをご覧になる。
もっとも、初めのうちは、他の女御や更衣の方々からも、白い目で見られていたけれど。
そちらの方は、こちらの努力で次第に打ち解け、憎まれずに済むようになった。
わたくしは桐壺の更衣ではない、主上さまも今はもう、わたくし一人にかかりきりになることはない、とわかっていただけたのだ。
変わらず冷ややかな態度を保っていらしたのは、弘徽殿さまだけ。
すると自然に、お付きの女房たちからも、何かと冷たい仕打ちを受けることになる。はっきりした無作法ではなくても、油や炭を届けてくるのを後回しにするとか、催し事の変更などを、うっかりしたふりで知らせてこないとか。
もちろん、わたくしが正妃である中宮にしていただいてからは、扱いが格段に重くなったので、くだらない嫌がらせの類は、ぱたりとなくなったけれど。
皇族の端くれであるわたくしでさえ、後宮暮らしは気苦労の連続だったのだから、まして、頼れる後見のない光君の母上は、どれほど心細い日々を過ごされたことか。
たとえ毒殺されずとも、気苦労で疲れきり、命の火が消えていくのは当然だったかもしれない。
その悲劇の根底には、ただ一人の殿方の世継ぎを確実に儲けるために、多くの女たちを後宮に閉じ込めておく、という制度の残酷さがある。
たとえその方が、この豊葦原の瑞穂の国の帝という唯一無二のお方だとしても、女盛りの歳月を捧げて何も報われなかった女たちにしてみれば、恨みの気持ちが湧いて当然、ではないだろうか。
宮中に差し出されたりせず、普通の女として暮らしていれば、もっと穏やかな日々が過ごせたかもしれないのに。贅沢はできずとも、たくさんの子供や孫に恵まれ、笑って過ごせたかもしれないのに。
わたくしについては、兎にも角にも、こうして院の御所に移ったことで、弘徽殿の大后のおられる内裏から離れられて、ほっとした。今はほとんどの時間、あの方の刺すような視線のことを忘れて暮らしていられる。
ただ、東宮は変わらず内裏にお住まいだから、油断できない。乳母や女房たちにくれぐれも堅い守りを言い聞かせ、まめに文の遣り取りをして、変事がないかどうか、いつも気にかけている。
本当は、東宮をこの院の御所に住まわせて、わたくしがこの手でお世話できれば、一番いいのだけれど。東宮は内裏で育つもの、という長い伝統がある以上、生母であっても、どうしようもない。
「――愛する者を失う苦しみは、わたしもよく知っている。そこから回復するには、長い時間がかかるものだ」
院はぽつぽつと光君を慰め、励まされている。昔、桐壺の更衣を亡くされた時のことを思い出していらっしゃるのだろう。
過度のご寵愛が、かえって彼女の命を縮めた。後宮中の女たちの妬み、憎しみが、彼女を追いつめた。
院はそれを強い教訓となさって、わたくしの時は、かなり用心深くなられていた。
弘徽殿さまを差し置いて、このわたくしを中宮の位に即けて下さったのは、ただひたすら、わたくしの生命安全を案じてのこと。
ただ、そのことでまた、弘徽殿さまのお怒りを深くしたことも確か。中宮という女の最高位を、やはり、あの方も欲していらしたようだから。
問題は、あの方の憎しみが、わたくしだけではなく、わたくしの息子にまで向かうことだった。それだけは、何としても、わたくしの所で食い止めなくては。
「だが、そなたには、そなたを頼る息子ができたのだ。これからは、父親としての責任を果たさねばな」
院は穏やかに諭された。
それもまた、ご自身の経験からのお言葉に違いない。光君を臣下に降ろされたことも、左大臣家に婿入りさせたことも、光君の身を案じられてのこと。
その父君の、大きな愛情に包まれて育った光君は、素直に頷かれた。
「左大臣家の大宮さまが、夕霧を養育して下さいます。わたくしもまめに訪問し、成長を見守るつもりでおります。父上がわたくしを教え導いて下さったように、わたくしも、息子のために力を尽くしたいと思います」
と、かしこまってお答えする。
でも、それはまだ口先だけ、という気がした。
殿方というものは、大人になるのに時間がかかる。大抵の場合、女の何倍も。
この方に父親の自覚が育つのは、まだまだ先のことではないかしら。本当に若君の養育に打ち込むおつもりならば、もっとお元気になられているはずだもの。
光君とは長年のお付き合いだった六条の御息所が、斎宮さまの付き添いとして、伊勢に去られてしまったのも残念なこと。あの方ならば、失意の光君を受け止め、慰めて下さっただろうに。
こうなると、この方の一番の支えは、やはり、わたくしなのかしら。それとも、二条の邸に住まわせているという、謎の姫君なのかしら。いったい、どこのどういう姫君なのか、わたくしの女房たちも不思議がり、しばしば噂している。
でも、こちらを窺う剣呑な顔つきからすると、光君はまだ、わたくしの隙を狙っているらしい。よくよく気を付けて、戸締まりを厳重にさせなくては。
お願いだから、もう、わたくしに構わないで。
愛して下さるのは嬉しいけれど、半分以上は迷惑なのです。わたくしは、このまま院に添い遂げるつもりなのですから。
あれはもう、十年以上昔のこと。宮中で初めて光君に会った時、
(何てお綺麗で、利発な皇子さまかしら)
と感動し、その美少年から、
「藤壺さま、藤壺さま」
と慕われるのが単純に嬉しかった。
皇女として生まれたとはいえ、お父さまの在位中には婿が決まらず、独身のまま終わると覚悟していた身。
それが、思いもかけず入内が決まり、日の当たる場所に出てこられた晴れがましさ。
わたくしはまだ娘気分が抜けず、主上さまがお優しくして下さることに安堵し、多少の意地悪はあろうとも、後宮の華やかな暮らしにはしゃいでいた。
衣装は季節ごとに新しく、最高の品があつらえられるし、気の利いた女房たちが座を盛り立ててくれるし、宮中のどんな行事でも、一番いい場所から見られるのだもの。
華やかな貴公子も、才気溢れる女房たちも、あちこちの局に自由に出入りして、歌を詠み合い、洒落た冗談の応酬をし、管弦の腕前を披露する晴れやかさ。
中でも光君は、愛らしい弟のようなものだった。童子の頃の総角姿もよかったけれど、元服したりりしいお姿もまた格別で、わたくしは幾度もうっとりと見惚れたもの。
「何てお美しいのかしら」
「桜襲の直衣に、葡萄染の下襲がよくお似合い」
「花なら、庭園のあやめというところかしら」
「いいえ、深山の白百合よ」
「一度でいいわ、あの方に口説かれてみたい」
「でも、案外きまじめでいらっしゃるのよ。軽はずみなことはなさらないわ」
「ああ、もう、お姿を見られるだけで幸せ」
という女房たちの熱狂を見て、
(わたくしは、あの光君の母代わり、姉代わりなのよ)
と、どれだけ誇らしく思っていたか。
その弟が、よもや、あんな真似をしでかすとは。
里下がりをしていたある晩、光君が、闇に紛れて忍び込んで来たのだ。突風に巻かれたようなもので、どうしようもなかった。若い殿方がその気になった時の勢いは、到底、女に止められるものではない。
頼み込まれて手引きをした王の命婦も、まさか、いきなりそこまでとは思わなかったらしい。
でも、彼女に後から手をついて謝られても、泣いて詫びられても、もはや手遅れ。
懐妊がわかった時、わたくしは絶望して泣いた。若い男に甘い顔をした、自分の愚かさを悔やんだ。
けれど、起きたことは元へ戻せない。
この子は主上さまの御子、と言い通し、心底から喜び、誇っているように振る舞うしかない。
わたくしの懐妊を心から喜んで下さり、あれこれと気遣って下さる主上さまの前で、しおらしげにはにかみ、微笑んでみせるとは、我ながら何という悪行。
よくも、わたくしをこんな苦境に追い込んで、と、どれだけ光君を恨んだか。
わたくしはこれから一生、お優しい主上さまに嘘をつき通すことになる。この罪で、死後は地獄に落ちるかもしれない。
周囲の女房たちに悟られないよう、努力して明るい顔を見せながら、心底ではどれだけ悩み苦しみ、眠れない夜を過ごしたか。
懐妊の時期について、世間に疑われはすまいか、弘徽殿さまに怪しまれはすまいか、生きた心地がしなかった。内裏から下がった時、わたくしが懐妊などしていなかったことを、 乳母子の弁をはじめ、身近な女房たちは知っている。
幸いにも、
『物の怪が憑いたせいで、出産の時期が予定よりも遅れたのだ』
という弁解が通用したので、胸を撫で下ろした。
人はおそらく、都合の悪いことを、かなりの部分、物の怪のせいにしてきたのに違いない。
王の命婦以外の女房たちは、よくぞ、不審の思いを隠し通してくれたものだと、口には出せないながら、深く感謝したものである。
それにまた、いくら命婦を恨み、光君を恨んでも、生まれてしまった息子は可愛い。この世の誰より愛しい、わたくしの半身。まさしく、銀にも黄金にも勝る宝。
どうか、この子は無事に育ち、幸せになりますように。弘徽殿さまの憎しみも、この子には影を落としませんように。
光君の幼い頃によく似ている点も、
『異母とはいえ、ご兄弟なのだから、当然のこと』
とみなされて、密かに安堵した。今のわたくしは、院に対する感謝と情愛の他は、ただもう、あの子のためにだけ生きている。
光君が退出なさってから、院がしみじみおっしゃった。
「かなり参っているようだな。無理もない。子を生した仲というのは、特別なものだ」
子を生した仲。
胸を刺す言葉だったけれど、でも、院は何もお疑いではない。わたくしはさらりと、他人事のような相槌を打つ。
「光君は、まだお若いのですもの。じきにまた、お元気になられますわ」
そう、わたくしでなくても、あの方を慰める女はいくらでもいる。この都の女たち、貴族の姫でも女房たちでも、河原の遊び女でも、光源氏の君と聞けば、それだけで陶然とするほどなのだもの。
おまけに、手元で大事にしているという、謎の姫もおいでなのだし。通うことで飽き足らず、わざわざ自邸に引き取るとは、相当なご執心に違いないという世間の噂。
わたくしと過ごした幾度かの夜、情熱を込めてかき口説いて下さった光君のお言葉、全てが嘘とは思わないけれど、ああいうことは、その場の雰囲気次第で、どの女にでも言えることなのだ。
葵の上にも、六条の御息所にも、その他の女たちにも、ああやって迫って感動させたに違いない。
それをいちいち本気にしていたら、女はばかをみる。
だから六条の御息所も、光君の相手より、実の娘御の後見を優先なさったに違いない。
わたくしもやはり、天から授かった皇子が宝。
あの子が無事に帝位に即き、日嗣の皇子をもうけるまでは、わたくしが気を張って守っていかなくては。
そして、そのために必要ならば、源氏の君にお愛想も言おう。心残りのふりもしよう。
あの方はゆくゆく、国家の重鎮になられる方。まして、心の内で自分の子と思えば、東宮のために、どれほどでも力を尽くして下さるはず。
わたくしもまた、弘徽殿の大后などに負けはしない。負けないだけの身分、中宮という地位を主上さまが与えて下さった。
ただ、その主上さまが、退位なさってからは、目に見えて老いを深められ、病がちになられているのが大きな心配だった。
一日でも長く生きていただき、幼い東宮の後ろ盾として、ご威光を示して下さらなくては。
そして、院がこの世におわす間に、光君にも、一人前の政治家になっていただかなくては。
(いつまでも、あちこちの花を巡り歩いて、ふらふら遊んでおられる場合ではありません) と言ってやりたい。
(一日も早く立ち直って、政務に邁進して下さいませ。そして、弘徽殿さまに対抗できるだけの貫禄を身につけて下さいませ)
わたくしにはもう、源氏の君のことは、東宮の守り手としての意味しかない。
だから、幾度ここへ来て、すがるような目をしても無駄なのよ。
あなたはあなたで、心の支えとなる方を探して下さい。そして、これからの日々は、その方のために生きればよいのです。
疲れた。
つくづく、虚しい。
もう、何もかも投げ出して、どこかへ雲隠れしてしまいたい。できるものなら、このまま出家したいくらいだ。
父上の御所から二条院に戻る牛車の中で、桧扇を弄びながら考えていた。
天下随一の貴公子と言われたところで、それが何だというのだろう。人にはわからないのだ。母もない、妻もないわたしの寂しさは。
葵の上は、二度と戻らぬ彼方へ行ってしまった。何という皮肉だろう。心が通じたと思った時には、もう失う時だったなんて。
せめてあの告白が、一年前だったなら。いや、半年でも三月でもいい。優しくする時間が残っているうちだったら。
誇り高いあの人が、わたしの腕の中で、幾度も柔らかく溶け崩れたのは、わたしを愛してくれているからだったのだ。それを単なる女の弱さと思い、心中で見下していた、わたしの愚かさ。
こんなわたしに、親の資格があるのだろうか。父親としての責任を果たせ、子供のために元気を出せと言われても、まだぴんとこない。夕霧と名付けた息子は、左大臣家で大事に守られているから、わたしの出る幕はあまりないし。
父上の前では気を張っても、一人になると、深い沼の底に沈み込むようだった。
本当は、心中に期待があった訪問だったのだが、父上の側におられる藤壺さまとは、とうとう、直接にはお言葉を交わせなかった。
そもそもあの方は、ある時期から、わたしを避けよう、避けようとなさっている。心の奥深くでは、わたしを愛して下さっているはずなのに。
わたしの錯覚、身勝手な自惚れ、ただそれだけではないはずだ。密かに寝所に忍び入り、この腕に抱いた時、最初は抵抗していたあの方も、最後は歓喜に震えた。自ら、熱い腕でわたしにしがみついてきた。
あれは罪だった、もう裏切りを繰り返したくない、そう思うお気持ちはわかるが、せめて、目配せの一つでもして下さらないものか。
子まで生した仲だというのに、御簾や几帳の陰に隠れ、視線も合わせないままでは、あんまりだ。子供の頃は、あの方のお膝に甘えたこともあるというのに。
もう一人、わたしが膝にすがって甘えられた女人、六条の御息所も、遠い伊勢に去られてしまった。わたしの相手より、姫君の世話役を選んで。
賀茂の祭の後、車争いの話を聞いた時は、わたしもまずいと思ったのだが、真正面から責められるのが怖くて、一度面会を断られた後は、なかなか六条に足を向けられなかったのだ。そのうちに葵の上の出産、死別の騒ぎがあり、あの方のことを気にかけるどころではなくなって……
つまりは、わたしが捨てられた。誇り高いあの方を、長い年月、中途半端な愛人のままにしておいたから。
やはり、それを恨んでおいでだったのだ。そうならそうと、もっと早く、正直に言って下さればよかったのに。
いや、言われても、どうしようもなかったか。わたしはひたすら藤壺さまを思い、紫の姫がそっくりに生い育つのを楽しみにしていたから。
おそらく、何を訴えても無駄、とわかっていたからだろう。あの方は最後の最後まで、無駄な恨み事を言わなかった。そして、潔く伊勢へ旅立っていかれた。生きているうち、またお目にかかれるかどうかもわからない。
別れというのは、いつも突然に来る。
夕顔との別れも、あっけなかった。出会ってすぐ、あっという間に燃え上がり、夢中になっていた時の急死。惟光の馬に乗せられ、逢瀬の隠れ家から邸によろめき帰り、しばらく寝込んでしまったものだ。
わたしはもしかしたら、愛する者を片端から失う定めなのか。これからも、わたしの人生には、悲しい別れしかやってこないのか。
藤壺さまとの逢瀬も、もはや無理かもしれない。忠義者の王の命婦も、今では、わたしの手引きをしたことを悔やんでいる。
かといって、下手に他の女房を口説くのも危険だし(女を味方に引き入れ、秘密を守らせるには、やはり、抱いて骨抜きにするしかない。あの方に近づくために、そういう策略を使うのは、あまり気が進まないのだが‥‥‥)。
人の心というものは、本人にさえ自由にならないもの。
あの方は今でもなお、わたしの最愛の女性。
この世に舞い降りた天女。
わたしは母上の顔を覚えていないが、皆が口を揃えて言う。藤壺さまは、亡くなった桐壺の更衣に生き写しだと。それを聞いて、少年の日のわたしが、どれほどあの方に焦がれたか。
紫の姫を引き取ったのも、姫が藤壺さまの姪にあたると知ったからだ。姫の父上は、藤壺さまの兄君。事実、顔立ちにも声にも、はっきりと似通うものがある。中身はまだ、姫の方が年若い分、較べものにならないが。
それでも、葵の上の喪でしばらく会えなかったうちに、紫のゆかりの姫は、ぐんと女らしくなってきた。おまけに、子供の頃から変わらず、わたしを慕ってくれている。今ではあの姫だけが、わたしの心の慰め。
――そうだ。
重い暗雲が裂けて、光が差したような思いがした。
もうそろそろ、姫を実質的な妻にしてもいいのではないだろうか。
そうすれば、更に女として磨かれて、より一層、藤壺さまに近づくのでは。
いや、しかし、まだ早いのか。何といっても、赤ん坊は臍から生まれると信じている無邪気さだ。いきなりは無理かもしれない。これまでずっと、兄と妹として過ごしてきたのだし。
だが、少し慣らすくらいならどうだろう。手を握り、肩を抱く。腰を撫でる。軽い口づけをする。姫は元々、わたしの懐に潜って眠るのが好きなのだから。冬の夜はしばしば、わたしの足の間に、冷たい足を差し込んできたものだ。温めてくれないと眠れない、と甘えきって。
きっと大丈夫だ。
わたしは既に、愛されている。
他に頼る先を持たない姫にとって、わたしは唯一の庇護者。父であり兄であったものが、夫に移り変わるだけのこと。
これまで、衣の上から抱いて温めていたのを、じかに触れ合うようにするだけだ。
最初は驚き、怖がるかもしれないが、それは押し切っても問題あるまい。過去にわたしが抱いたどの女人も、抗ったのは初めのうちだけで、すぐに溶け崩れ、わたしの首に熱い腕を回してきた。姫もそうなるはずだ。こんないいこと、どうしてもっと早くしてくれなかったの、と言われるかもしれない。
試してみよう。今夜だ。
この手の中に、姫の清らかな乳房を、じかに包み込む。
そう決心すると、いくらか力が戻ってきた。いや、かなり心が浮き立ってきた。
まだ、この世に見切りをつけるのは早い。姫を妻にしたら、もう、くだらない浮かれ歩きなどしなくていい。やむを得ない公務の他は、二人で寄り添って過ごすのだ。
邸に戻ると、さっそく西の対を訪ねた。
冬への衣更えが済んだばかりの室内は、空薫物の香りもゆかしく、調度類も華やかだ。少納言の計らいで、女房たちの衣裳にも神経が行き届いている。喪に沈む左大臣邸とは違い、交わされる声も明るい。
「お帰りなさい、お兄さま」
紫のゆかりの姫は、あでやかな紅の小袿姿で、長い黒髪を背に流し、花が開いたような美しさである。しみじみと、目に染みた。
さすがに、藤壺さまの高雅にはまだ及ばないが、そこは、若さの華やぎが補ってくれる。
照り輝くような肌の色合いといい、ふっさりした黒髪の艶やかさといい、天下に隠れもない美女ではないか。もう数年したら、当代随一と言っても過言ではなくなるだろう。
「お食事はもう、お済みですか。まだでしたら、すぐ支度させますわ。外は寒かったでしょうから、汁物を熱くさせましょうね。お酒も運ばせますわ」
あれこれと気遣ってくれる微笑みの明るさ、立ち居振る舞いの女らしさ。これならもう、一人前の淑女といってよい。今日まで、慈しんで育ててきた甲斐があったというもの。
「院のご様子は、いかがでしたか」
と尋ねてくれる声も優しい。
「ああ、父上はお元気だったよ」
そういえば、今日の訪問の名目は、父上のお見舞いなのだった。わたしの方が、逆にいたわられて帰ってきたが。
思い返してみれば、母上が亡くなった時も、お祖母さまが亡くなった時も、わたしには父上がいた。いつでも父上の、大きな慈愛に包まれてきた。
父上が、わたしの後見役に定めて下さった左大臣さまも、立派な方だ。夕霧がいる限り、左大臣家との絆も残っている。頭の中将という友もいる。失われた繋がりを嘆いてばかりいて、今ある繋がりを忘れてはいけない。残されたものこそ、大事にしなければ。
「そうですか。よろしゅうございました。ご病気がち、という噂だったので、心配だったのですけれど。それなら、無事に春を迎えられますわね」
と紫の姫はにっこりする。ものの言い方も品よく落ち着いて、しとやかになってきた。少納言の躾が、ようやく実を結んできたのだろう。
「そうだ。いつか、あなたを父上に引き合わせよう。なに、大袈裟にしないで、わたしの女房のふりで連れていけばいい」
そうしたら、藤壺さまと紫の姫、よく似た美女二人を見比べて、父上は何とおっしゃるだろう。まるで姉妹のようだ、花が咲き揃ったようだ、と喜ばれるのではないか。
そして、わたしにこんな素晴らしい妻がいることに、安堵して下さるだろう。葵の上に優しくできなかった分、これからは、紫の姫を大切にしていきますと申し上げるのだ。
「まあ、院にお目通りできるのですか。すてき。それでは、わたくし、藤壺の叔母さまにお目にかかれるのね。嬉しいわ。これまで、お噂ばかりで、お会いできる機会がなかったのだもの」
と、はしゃぐ姿も愛らしい。
外は寒々とした冬景色だが、ここだけは、早々と春が来たかのようだ。この姫の喜ぶことなら、何でもしてやりたい。
「桜が咲いたら、花見に行こう。馬を並べて行ってもいい。その方が、広く見て回れるからね」
「ほんと? 男装で外を歩いていいの?」
黒い瞳が、期待できらきら輝く。
「少納言には内緒だよ。途中まで牛車で行って、そこから馬にしよう」
御簾や几帳の向こうで控えている女房たちに聞こえないよう、顔を寄せてささやくのも楽しい。姫はくすくす笑う。
「それじゃあ、桜まで待てないわ。梅が咲いたら、すぐよ。ね、約束して、お兄さま」
興奮すると、言葉遣いが子供の頃に戻ってしまうのは、まだ仕方のないことか。
「ああ、二人で梅を見に行こう。あなたが行きたい所なら、どこへでも連れていくよ」
「まあ、お兄さまったら、前は渋々だったのに、どうして急に、そんなにものわかりがよくなったの」
「何が一番大事か、わかってきたからだろうね」
人はいつか、必ず死に別れる。だから、一緒にいられる間は、精一杯、優しくし合わなくては。
わたしは姫に付ききりで過ごし、今日初めて見るもののように、白い肌や、赤い唇や、豊かな黒髪を目で楽しんだ。夜が更けると、女房たちを下がらせ、いつものように二人で御帳台に入る。
暖かい真綿の衾にくるまり、足をからませ、互いの体温で温め合った。細い肩を抱いて、ぐいと胸に引き寄せると、姫は嬉しそうに頭をすりつけてきながら、くすくす笑う。
「お兄さま、前より寂しがり屋さんになったのではなくて?」
「そうかもしれない」
単の下に、弾力のある、温かい乳房が隠れているのがわかった。もう子供ではない。肩を抱くだけではおさまらない、という自分を感じた。
この甘い肌を、じかに味わいたい。
香しくほころびかけた蕾を、強引にでも開花させてしまいたい。
何も知らない姫は驚くだろうが、許してくれるはずだ。これまで、互いの愛情を疑ったことはないのだから。
「もっと、くっついてくれるかい」
と髪を撫でてささやいた。すると、無邪気なくすくす笑い。
「これ以上、どうやって?」
「邪魔な隔てを取ってしまえばいい。これからはもう、わたしたちを遮るものは、何もいらないのだから」