紫の姫の物語
わたくしが悪いのではないわ。
酔った下人どものしたこと。わたくしには、止めようがなかったのよ。
でも、『葵祭の車争い』の一件は、またたく間に、都中に広まってしまったという。そして、わたくしが悪役になっているのだと。
『実家の権力をかさに着た、傲慢な女』
『温厚な左大臣には似ない、気の強い姫』
ですって。
ひどいわ。まさか、このわたくしが、下人たちをそそのかしたとでも?
お腹がふくらみ始めているわたくしは、わざわざ外出などしたくなかったのに、女房たちがどうしてもとせがむから、賀茂の祭に先立つ斎院さまの御禊の日、車を連ねて見物に出たのだった。光君が勅使として立たれ、賀茂川に向かう禊の行列に供奉なさるので、その晴れ姿を拝見するために。
ところが、出遅れたために、御禊の行列の見られるよい場所は全て、他家の牛車に取られてしまっていた。見渡す限り、一条大路は人と馬と車で一杯。高く作られた桟敷席はそれぞれに飾り立てられ、女房たちの出衣が華やかにこぼれて、盛装ぶりを競い合っている。
車という車からも、女たちが袖口や裳の裾をのぞかせて、色合わせの才覚を誇っている。徒歩の者はみな、互いに押し合いへし合いして、少しでも前へ出ようとする。
どこの邸の女たちも、こぞって光君を目当てに出掛けてくるらしい。遠い国からわざわざ、妻子を連れて見物に来る者も少なくないとか。興奮したざわめきが、大路一杯に響き渡っている。
――光君は、もうお通りかしら。いいえ、まだよ。斎院さまのお供の方々は、たくさんいらっしゃるわ。どの方がそうなのか、ちゃんとわかるかしら。もちろんよ。一際美しいお方だから、間違えようがないわ。何といっても、光り輝く君よ。
そういう女たちの声を聞くうち、
(わたくしは、あなたたちの憧れの方の正妻なのよ)
と、さすがに晴れがましく、誇らしい気分になったのは確か。
びっしり並んだ車のうちに何台か、比較的地味な車があったので、これなら押しのけてよかろうと、うちの郎党たちは考えたらしい。
「こちらは左大臣家のお車ぞ。場所を譲れ」
と無理に押し出そうとした。
ところが、向こうは六条の御息所のお車だったのだ。わざと目立たぬように、地味にしつらえてお出ましだったものを、物知らずの若い郎党たちが、身分の低い者の車と勘違いして。
どんな方かは、よく知っていた。
あの方の第一の愛人。桐壺院の故弟宮に愛され、斎宮になられる姫君を産んだ方。
当代最高の貴婦人と名高いのは、美貌だけでなく、才気も教養も兼ね備えておいでだから。
どれほど素晴らしい方なのかしら、とあれこれ想像して、密かに嫉妬していたものだけれど。まさか、こんな所でかち合うなんて。
「何をする。無礼を働いてよいお方ではないぞ」
と向こうの郎党も、お車を守って引こうとしない。そのうち、こちらの郎党たちも、
「や、あれは六条のお方さま」
「これは、まずいことをしてしまったか」
と悟ったようだけれど、そこは力の余った若い男たち。年輩者の制止も聞かず、酒の酔いと祭りの興奮に任せて、そのまま無理を通してしまった。
「こちらは、源氏の君の北の方のお車だ。そちらは、ただの愛人ではないか」
と嵩にかかって、向こうのお車に打ちかかり、簾を引きちぎったり、轅を折ったり、踏み台を壊したり、罵声を浴びせたりしたという。
乗っていらした御息所さまは、どんな恐ろしい思いをなさったことか。せっかく早くから場所を取っていらしたのに、行列の見えない後ろへ押しやられ、どれほど悔しい思いをなさったか。
それがわかった時、わたくしは気分が悪くなり、飾り立てた行列が通過する長い時間を、やっとのことでこらえるしかなかった。
この場から逃げようにも、車は隙間なく立て込んでいて動きようがない。斎院さまの御輿のお供をなさる光君は、馬上からわたくしの乗る車を認めたらしく、わざとゆっくり進み、黙礼して敬意を示して下さったけれど、それさえも、わたくしにはいたたまれない。
華やかな行列が通り過ぎる間、わたくしはずっと、一つのことだけを恐れていた。この出来事が光君のお耳に入ったら、どう思われるだろう。
『さもあらん。あの葵の上はわがままで、権高で、女らしい思いやりのない方だ』
と言われるのではないか。
『わたしが尊敬し、礼を尽くしている高貴な女人に、なぜ妻のあなたが恥をかかせたりする』
と、お怒りになるかもしれない。
どうしよう。どう言い訳したらいいの。
わたくしが何か訴えても、本気で聞いては下さらないのではないかしら。常日頃のわたくしの態度を顧みると、あまりにも、光君に与えてきた印象が悪すぎる……
その晩、わたくしの女房たちから話を聞いて、お父さまが驚かれ、六条邸にお詫びの使者を送って下さったけれど、わざとではない、わたくしの指図ではないと、御息所にわかっていただけたかどうか。何よりも、申し訳ないと思う気持ちが、光君にまで届いたかどうか。
事実、その後しばらく、光君は我が家においでにならなかった。わたくしははらはらして過ごしていたけれど、やがて、噂が届いてきた。
何でも、賀茂の祭の当日に光君は、二条院の女と同車で見物にお出掛けだったとか。
世間の人々は、あっと思い知ったらしいのだ。いま現在、光君の寵愛が最も深いのは誰なのか。
正妻のわたくしではない。長年の愛人の御息所でもない。
出自の知れない、新しい女。
もう、望みはないとわかった。元々、あの方は左大臣家の後援が必要だっただけ。わたくしは、お義理の妻にすぎない。形だけ奉っておけば、それでよいだろうと思っていらっしゃる。
その証拠に、たまに邸へやって来ても、お父さまやお兄さまたちと飲む方が優先なのだ。それだけではない。わたくしの女房の何人かにも、こっそり手を付けていらっしゃる。それを知っていて、知らぬ顔をしていなければならない苦痛。
もちろん、わたくしにも確かに、いけないところがあった。最初のうちは、すねていたから。せっかく東宮さまからのご内意があったというのに、お父さまが断っておしまいになったと聞いて。
なぜ、中宮になる夢、国母になる夢を台無しにしてくれたのかと、しばらくは恨めしかった。それが、女の最上の誉れではないの。
でも、源氏の君と夫婦になってから、わかったのだ。お父さまは間違いなく、この世で最高の殿方を、わたくしのために選んで下さったのだと。
世界がどれほど広くても、光君以上にまばゆい殿方はいない。世間では左大臣家の御曹司としてもてはやされるお兄さま方も、光君と並べて見たら、比較にならない凡庸さ。
それなのに、わたくしはうまく自分の気持ちを表せなかった。年上だという引け目もあって、つい、つんけんしてしまい、ぎくしゃくしてしまう。
それに、あの方もまた、女の気持ちなど深く考えない。表面の態度は柔らかいけれど、根底では、自分は愛されて当たり前、望まれて当たり前、とふてぶてしく構えているところがある。口先では、すらすらお愛想を言うけれど、
(このくらい甘いことを言えば、女は感激するだろう)
という作為が透けて見えてしまうのだ。何も考えず、そのお愛想に浸ってしまえば、それで済むのかもしれないけれど。
わたくしのことも、心の奥では、
(甘やかされて育ったから、いつも相手が機嫌を取ってくれて当たり前、と思っているんだ。その態度を改めるまで、少し放っておいてやろう)
と見下しているのがわかる。
その図太さがつい、勘にさわって反発してしまう。いけないとわかっていながら、冷たく振る舞ってしまう。
そうして、あの方が帰ってから、一人でくよくよと悔やみ、思い悩む。
そんなことを、もう何年続けてきただろう。
もういい。
よく、わかった。
わたくしにも六条の方にも、もはや勝ち目はないのだ。寵愛されているのは、二条の自邸に引き取られた娘。若く気の利いた女房をたくさん付け、最高の調度や衣装をしつらえ、ご自身も昼といわず夜といわず西の対に出入りなさって、北の方同然の扱いだという。
これまで、内輪の噂だけは聞いていたけれど、それがとうとう、世間にも知れ渡ることになってしまった。古い女が車争いなどしているうちに、源氏の君は、新しい愛人に夢中だと。
もはや、笑ってしまうしかない。
わたくしたちは、祭りを盛り上げた道化のようなもの。
本当に愛しているのは、どこの一族の出とも知れない、その娘というわけ。身分がなくても、財産がなくても、その娘当人を大事に思ってらっしゃるのね。
もういいの。
もういいわ。
わたくしは、母になるのだから。
光君が愛して下さらなくても、わたくしは生きていける。この子がいれば。
わたくしはどうせ、あの方の好みの女ではないのだもの。
結婚した、最初の頃からそうだった。わたくしを抱いていながらも、しばしば上の空で、他の誰かのことを思っているのが、はっきりわかってしまったから。
以前はそれを、六条の方なのかと思っていた。でも、違う。いつでも会える女性のことを、そう思いつめるはずがない。
やはり、二条の女なのか。長いこと思い続けていた相手だから、ようやく手に入れて、有頂天なのか。
あるいはまた、わたくしの知らない誰かなのか。だとしたら、気振りにも出せないほど、難しい相手であるのに違いない。皇女のどなたかか、さもなければ、一度噂になった、右大臣家の姫君か。でなければ、その姉妹のどなたかか。
わたくしはおそらく、あの方にとって、三番目か四番目、いいえ、それ以下の女でしかないのだろう。
だとしたら、泣いてすがっても無駄なこと。せめて、みっともないあがき方だけはしたくない。
車争いの件では、あの方にどう言い訳したとしても、どうせ信じてはもらえないだろうから、知らない顔をしていようと決めた。二条の女のことも、向こうから言い出さない限り、口にするまい。
それよりも、子供を授かったことを、最大の幸運と考えよう。少なくとも、あの方が、ご自分の子供を無視することはできない。これから先は、子供を通して、わずかなりとも、つながりを持ち続けられるのだから。
「若君でございます!」
「お元気な若殿でございますよ!」
白い調度を揃えた産屋に、赤子の泣き声が響くと、それまで張りつめていた左大臣邸の人々は、わっと浮かれて沸き立った。
「いや、めでたい、めでたい」
「これで一安心でございますわねえ」
「まあまあ、何と元気のよい泣き声でしょう」
わたしもまた、深く安堵していた。とにかく、無事に生まれたのだ。それが何より。
「ご覧なさいまし、光君さま」
しばらく経って、白装束の女房に抱かれて連れてこられた子を、わたしも恐る恐る抱かせてもらった。
本当に小さいが、ふくふくとして温かい。きょろっとした黒い目を見開いて、甘い乳の匂いがする。壊れそうに小さいくせに、爪まで揃った手を、ぎゅっと握りしめている。猿のように赤くて、まだ、誰に似ているともわからない目鼻立ち。
しかし、左大臣も、北の方の大宮さまも、頭の中将たち兄弟も、目は誰それ、口許は誰それと楽しく言い合っている。
とにかく、よかった。
この子はわたしの跡取り息子として、皆に守られて育っていく。わたしにも、本当に家族と呼べる者ができたことになる。
わたしは古参の女房に頼み、そっと産屋に入れてもらった。白い几帳や屏風に囲まれ、萎れた白い単一枚の葵の上は、げっそりと疲れはてた様子で、白い衾にくるまれて横になっている。あたりの白さを映したかのように、顔に血の気がない。
「葵の上」
わたしは枕元に用意された白い褥に座り、遠慮しながら手を握った。産屋に長居をしては迷惑だろうから、すぐ引き上げるが、礼だけはじかに言っておきたい。
「ありがとう。よく頑張ってくれたね。本当に嬉しいよ」
これまでの言葉遣いより、あえてくだけた言い方をした。子が生まれたのだ。本当の夫婦にならなければ。
賀茂の祭の一件では、確かに、六条の御息所がひどく傷ついたようで、邸の女房たちにもあてこすりを言われるし、
(困ったことをしてくれた)
と腹も立ったが、この疲れきった様子を見れば、まず痛々しさが先に立つ。
「元気で立派な息子だ。すぐに、院の御所にも使者を出そう。父上が、どんなに喜んで下さることか」
と声を明るくして言った。
だが、葵の上は、誇らしい笑みを浮かべるのではなく、ただ、ほろほろと涙を流す。わたしはびっくりして、顔を寄せた。
「どうしたの。まだ苦しいのか。祈祷や薬湯は効かないのかな? それとも、何か汁物でも運ばせようか。でなければ、手足をさする?」
初めてのお産というのは、相当に大変なものなのだろう。お付きの女房たちから、悪阻がひどかったことは聞いていたが、夏場の暑さでもまた、体力を消耗したに違いない。これから回復してくれればいいが、青ざめた頬に、ただ涙だけが流れていく。そのうちに、唇がかすかに動いた。
「わたくしの、役目は、終わってしましました……」
何、何だって。
「跡継ぎの息子さえできれば、もう、わたくしに用はないでしょう? ここへいらっしゃるのは、ただ、それだけのためでしたものね……」
わたしは息ができなくなった。
この人は、そんな風に思っていたのか。
いや、でも、それは違う、とは言えない。
わたしは確かに、左大臣家という後ろ盾を失いたくないために、子供を作ろうと努力していた。孫ができれば、父上も、どんなに安心して下さるかと思っていた。怜悧なこの人には、ちゃんとわかっていたのだ。
「ねえ、葵の上」
努力して、優しい声を出した。
「息子を産んでくれて、とても嬉しいよ。将来が楽しみだ。きっと、素晴らしい公達になる。でも、わたしは欲張りだからね。次は、姫が欲しいな。あなたによく似た、可愛い姫を何人も……」
わたしの手の中にある手は、ひんやり冷たく、力がない。不安が強くなった。この人は紫の姫と違って、外を駆け回ったことなどない、本当の深窓の姫君だ。やはり、体力が乏しいのかも。
「いいの。そう、無理なお芝居をなさらないで」
責めるというよりは、ただもう静かにあきらめた、という様子。
「あなたには、他に、大切な方がいらっしゃるんですものね……ここにお泊まりになるのは、いつも、仕方なく、でした……」
そうか。それも、知られていたのか。
わたしにとっての最愛は、藤壺さま。次は若紫の姫。それから、いつも甘えられる六条の御息所。
死んだ夕顔のことは、思い出すのも苦しい。その中で、この人はいったい何番目に当たるのか。
「あなたは、わたしの妻ですよ。あなたが一番大切に、決まっているじゃありませんか」
けれど、葵の上は涙を流したまま、うっすら微笑んだ。わたしの口からは、いつも社交用の美辞麗句が流れ出るのを知っている。完全な嘘ではないが、大幅に飾り立てた言葉。それを交わし合うのが、貴族の日常。そうでないと、世渡りできない。打ち解けた口を利こうと努力しながら、わたしもつい習性で、普段のよそ行き口調に戻ってしまう。
「もう、いいのです。わたくしが何番目でも。わたくしには、あなただけが、ただ一人の殿方だから……ずっと、お慕いしていました。でも、これからは、あの子が、わたくしを慕ってくれます。あなたの分まで」
刺されたように、胸を貫かれた。
わたしが。
このわたしが、葵の上の最愛の相手だというのか。
そして、わたしの愛が足りないから、もはや何も期待せず、あとは子供にすがると。
これがこの人の本音なのだと、胸に打ち込まれるようにわかった。これまでの強がりが全て、極限の疲労によって押し流されたのだ。
「もっと早く、言えばよかった。でも、認めるのが、悔しくて……」
何ということだ。わたしは愛されていたのではないか。これまで、それを知らなかったなんて。
いや、自分が知ろうとしなかったのだ。他の女性のことにかまけていて。
「葵の上」
白い手を握りしめ、その上に身をかがめるようにして、心底から訴えた。
「わたしこそ、あなたに見下されていると思って、怖かった。年下の夫としては、強がるしかなかったのです。あなたがこんなに素直な、可愛い方だなんて、知らなかったのですよ。でも、これからは、もっと仲良くなれる。もう、くだらない意地の張り合いはよしましょう」
ようやく、力のない手から、わずかな反応が返ってきた。
「かわ、いい?」
そうか。この人は、わたしにそう言ってほしかったのか。美しいでも、気高いでも、賢いでもなくて。
「そうですよ。あなたの泣きべそ顔は、本当に可愛い」
励まして元気になってくれるものなら、何でも言おう。
「悔しい時は悔しい、悲しい時は悲しいと、素直に言って下さればいいんです。怒りたい時は、わたしをぶってもいい。引っ掻いてもいい。ものを投げつけてもいい。好きに振る舞っていいんです。わたしはそういう、飾らない人が好きなのだから」
白い顔に、ほんのり笑みが浮かんだ。
「あなたがお好きな方は、あなたのことを、ぶったりするの?」
「いや、その、それは……また別の話で」
紫の姫は、怒ると遊び道具でも何でも投げ付けてきたものだが、それはまだ子供だったから。
「ただ、わたしは誤解していた。あなたがもっと、冷たい人だと思っていた。とんでもない間違いだったと、ようやくわかりましたよ。今度からは、何でも言いたいことを言って下さい。そうしたら、わたしも正直になれる」
この世界では、それが一番、難しいことなのだが。
「あなたの愛しい方は、正直な方?」
というのはまた、困った問いである。
「ええと、それはその……」
紫の姫はそうだ。まだ、大人の世界の悪知恵に汚れていない。でも、藤壺さまも嘘の嫌いな方である。
「その人はね、人妻なんです」
わたしは思いきって白状した。几帳を隔て、隅で控えている女房たちに聞こえないよう、声は低めたが。
「立派な夫がいて、幸せに暮らしているのですよ。だから、わたしもいい加減、あきらめようと思っていた。今度から、あなたがそれを手伝って下さればいい。泣いたりすねたりふくれたりして、わたしを引き留めてくれればいいんですよ」
葵の上はうっすらと微笑み、あとは、どこか遠くに視線をさまよわせた。
「本当は、わたくし、姫も欲しかったの……可愛い女の子がいたら、どんなに楽しいか……でも、とても疲れました……こんなで、また次の子が産めるかしら……」
「もちろん、産めるとも」
わたしは空事ではない、本気の熱意で言った。ここは女房たちに聞こえてもいいから、声を強くして。
「いくらでも産ませてあげるよ。すぐに元気になるから、大丈夫。わたしがついているからね。欲しいものは、何でも取り寄せよう。痛い所は、さすってあげよう。何も心配しなくていいから、元気になることだけを考えて」
わたしはもしかしたら、この人に、母の幻を重ねているのかもしれない。母はわたしが物心つかないうちに、病んで逝ってしまった。呪詛されたのか、毒殺されたのか、それともただの心労だったのか。
わたしは、顔すらも覚えていない。お祖母さまと父上から、思い出話を聞いただけ。母上が生きていて下さったらと、子供時代、幾度悲しい思いをしたことか。
もし、この人が死んだら、生まれたばかりの息子も、母親の顔を知らないことになってしまうのだ。そんなことにさせてはいけない。絶対に。
「約束する。あなたが元気になるまで、ずっと付き添っているよ。浮気もよそ見もしない。さあ、少し眠るといい。一眠りしたら、楽になるから」
「手を……」
葵の上は、どこまで信じていいかわからない顔をしてささやいた。
「手を、握っていて下さる?」
これが紫の姫なら、大威張りで命令するだろう。
『手を握っていて!』
そして、わたしがその通りにするものと信じきって眠るだろう。この人がそういう無邪気さを持てないのは、たぶん、わたしの責任だ。
「ずっと握っているから、大丈夫。あなたが目覚めるまで、ここにいるからね」
わたしは約束した。そして、その約束を守ろうと心に誓った。女房たちは、わたしが産屋に長居するのはよくないというが、出産の穢れなど知ったことか。この人が元気になるためには、心の張りが必要なのだから。
わたしは今まで、この人のことを考えなさすぎた。あまりにも身勝手だった。でも、この人がわたしを必要としてくれるなら、わたしはここに、本当の自分の家族が持てるではないか。
心の底では、わかっている。藤壺さまは、焦がれても手に入らない、天上の月のようなものだ。それよりも、人に祝福される相手と愛し合う方が、はるかにいいのだと。
そうだ。愛しい妻が二人いても、いいではないか。葵の上と、紫の姫と。
双方に子供ができれば、もう寂しいことも、心細いこともなくなる。わたしが本当に欲しかったのは、浮かれ歩きの先ではなくて、そこから帰っていける家なのだから。
空が低く垂れ込め、秋だというのに、不気味に生暖かい風が吹く。木々がざわめき、散り敷いた枯れ葉が吹き上げられる。
湿気の強い、いやな夕方だった。女房たちがあちらで群れ、こちらで群れして、暗い顔で何かささやきあっている。どうやら凶事らしい。
西の対から出て、女房たちが集まっている寝殿の廂の間を覗き、
「何かあったの?」
と尋ねると、少納言はややためらい、それから教えてくれた。葵の上さまが、亡くなったのだと。お兄さまは左大臣邸に詰めたまま、半狂乱で泣き伏していらっしゃるとか。
何ということ。
つい昨日、無事に若君誕生という知らせが来たばかりなのに。
「安産ではなかったの」
「第一報では、そういう話でしたが。後産が、うまくいかなかったのかもしれません」
「後産て、なに?」
少納言は額を押さえ、何か悩むようだったけれど、やがて顔を上げ、わたくしを几帳の陰に座らせると、じっくり時間をかけて説明してくれた。
どうやって子供ができるのか。子供はどこから生まれてくるのか。その時に、どんな危険があるものなのか。
わたくしは頭がくらくらして、しばらく気持ちの整理がつかない。
子供って、お臍から生まれるのではなかったのね。
わたくし以外はみんな知っていたなんて、ひどいわ。それならわたくしにも、もっと早く、正しい知識を教えてくれればよかったのに。
それにまた、話だけでは、完全に理解しきれない部分もある。
子供の種を女の体内に送り込むって、具体的にはどうするの???
それがなぜ、男の人には楽しいことなの???
犬の交尾と同じといっても、人間と犬では、まるで違うじゃないの。
あれこれ考えているうち、思い出したのは、去年、馬で迷子になった時、三人連れの女たちに聞かされたことだった。
ようやく、理解の光が差した気がする。女を裸にして楽しむというのは、そういうことだったのね。
では、お兄さまもやはり、よそではそういうことをしているんだわ。その結果が、葵の上さまのご懐妊。
想像しかけて、思わず、頭を振ってしまった。そんな変なこと、やはり考えたくない。それに、わたくしには関係ないし。
わたくしはこのまま一生、お兄さまの元で守られて過ごすのだから、よその男性に種を送り込まれるなんて、そんな不気味な、おぞましい目に遭わずに済むわ。そうしたら、お産で死ぬこともないのだし。
とにかく、お兄さまが帰っていらしたら、精一杯慰めてあげよう、とだけ思った。葵の上さまもお気の毒だし、お兄さまも可哀想。せっかく生まれた若君も、お母さまがいないままで育つなんて。
わたくしもお兄さまも、お母さまというものには縁が薄かった。二人とも、頼りのお祖母さまにも、早いうちに死に別れてしまった。だからこそ、今日まで互いに寄り添い、慰め合い、笑い合って過ごしてきたのだ。
そのお兄さまを、近頃はすっかり葵の上さまに取られてしまったようで、本当はちょっぴり、いいえ、かなり寂しかったし、恨めしかったのだけれど、まさか亡くなるなんて思わなかった。
わたくしは自分の部屋に戻ると、お祖母さまの形見の数珠を握って、懸命にお祈りをした。
葵の上さまが亡くなったのはお産のせいで、わたくしが何かしたわけではないけれど、それでもお兄さまの悲しみ、左大臣家の人々の嘆きを思うと、自分の心根が情けない。
恨めしいなんて思って、ごめんなさい。
やきもちを焼いたりして、ごめんなさい。
一度もお目にかかったことはないけれど、お兄さまの大事な奥さま。若君のお母さま。
どうか、あの世で蓮の台に座り、ゆったりお過ごしになれますように。
現世に生きる者はみな、死んだ後、地獄か極楽のどちらかへ行くという。本当かどうかは知らないけれど(だって、あの世から戻ってきた人はいないもの)、よほどの悪人でない限り、極楽浄土へ行けるはず。葵の上さまも、一足先に美しい世界へ行かれただけ。そこで安らかに過ごしていらっしゃる。そう思いたい。
あ、そうだわ。
いつか、わたくしがあの世へ行ったら、一人で蓮の台に座るのかしら。夫婦なら、同じ蓮に乗れるというけれど。わたくしとお兄さまは、そうではないものね。お兄さまは、葵の上さまの隣に座るんだわ。それはちょっと、寂しいかも。
そこまで思って、頭を振った。
何をばかなこと、考えているのかしら。まじめにお祈りしなくては。やきもちばかり焼いていると、わたくしこそ、極楽へ行けなくなってしまうわ。
お兄さまは四十九日が過ぎるまで、左大臣家に籠もっていらした。
ようやくこの二条院にお戻りになった時は、顔色も悪く、げっそりやつれていらっしゃる。
そのお姿を見ただけで、どれだけ葵の上さまを愛していらしたか、痛いほどわかってしまった。わたくしにできることは、精々、滋養のあるお食事を整えて差し上げるくらい。
「お兄さま、ずいぶんおやつれですわ。お気持ちはわかりますけど、元気をお出しになって。なるべく、たくさん召し上がってね」
側に付いて、あれこれ世話を焼いていたら、ようやく微笑んでくれる。
「ありがとう、紫の君。あなたにも、心配かけたね。長いこと留守にして、すまなかった。こちらのことも、気にかかっていたのだけれど、でも、わたしがいなくなると、あちらの方々も寂しいだろうと思ってね」
しんみりした、力のない微笑みなので、こちらが泣きたくなってしまう。以前のお兄さまは、子犬に譬えたくなるほど元気で、笑いたがりで、ふまじめさんだったのに。
ここは、わたくしがその分、明るく振る舞わないと。
「ええ。お兄さまがお留守だと、女房たちも張り合いがなくて、お庭の草木も萎れて見えるくらい。わたくしも時々、寂しくて眠れませんでした。でも、左大臣家の方々は、お兄さまのお姿で、ずいぶん心強かったと思いますわ。これからは、若君さまの成長を楽しみにできますし。どんな赤ちゃんですの? お顔はどちらに似ていらっしゃる? きっと将来は、宮中の女性たちを騒がせるようにおなりですわ」
強いて気を引き立てて、夕霧さまという若君の様子を聞き、お留守の間の出来事などを、とりとめなくしゃべった。
気がつくと、お兄さまは黙ったまま、わたくしの顔をじっと眺めていらっしゃる。調子に乗って、軽薄にしゃべりすぎたかしら。心が疲れている人には、うるさかったかも。
「あの、もうお休みになりますか?」
と尋ねたら、にっこり微笑んでくれて、
「いや。もう少し、あなたと話していたいな」
と言われたので、ほっとした。
「うるさくして、ごめんなさい」
「とんでもない。あなたの声を聞いているだけで、楽になってくる。それに、いつの間にか、ずいぶん大人になったのだね」
しみじみと優しく言われ、嬉しかった。もう、お守りされる子供ではなく、対等の話相手になれるということだもの。
「当たり前ですわ。いつまでも、北山の雀っ子じゃありません」
と威張ってみせた。するとようやく、お兄さまは、やや明るい笑みになる。
「あなたが元気で嬉しいよ。わたしも、その元気を少し分けてもらえる気がする」
よかった。この分なら、お兄さまもじきに回復するわ。宮中でお務めをしたり、管弦の宴に出たりという、普段の生活に戻れるでしょう。もちろん、葵の上さまのことは、一生、お兄さまの心に沈んで残るだろうけれど。
その時、ふと思ってしまった。
いつか将来、わたくしがお兄さまより先に死んだら。
お兄さまは、どのくらい泣いてくれるのかしら。その後、すぐにまた、笑えるようになってしまうのかしら。
ずうっと泣き続けなのも心配だけれど、すぐに回復されてしまうのも悲しい。せめて何年かは、思い出して涙ぐんでもらいたいわ。
でも、年の順からいえば、わたくしがお兄さまを看取る側。逆になるよりも、その方がいいわね。お兄さまを後へ残していくのでは、たとえ極楽往生できても、心残りで仕方ないもの。
坊やが訪ねてきた。本当に久しぶり。
鈍色の喪服姿のせいもあるけれど、見るからにやつれ、悄然としているのに驚いた。
不思議なことだわ。それほど、葵の上を愛していたとは思えないのに。やはり、子供が生まれたことで、絆が深まったというわけかしら。
女房たちを下がらせ、二人きりになってから話を促すと、坊やは幾度も鼻をすすりながら語った。
「まさか、死ぬなんて思わなかった。女房たちも大丈夫だと言うし、じきに元気になるものと思って。でも、本人は、わたしが顔を見に行った時、静かに泣いていたんです。予感があったのかもしれない。このまま回復しないと」
お産で力を使い果たした葵の上は、ぐったりと産屋に横たわったまま、静かな泣き笑いで告げたのだという。
――本当は、最初から、お慕いしていました。でも、あなたのお心がわたくしにないのがわかっていたので、意地になっていたの。愚かでした。もっと素直になって、あなたに甘えればよかった……
坊やは愕然として、初めて、妻への愛情に目覚めたらしい。
『わたしこそ、あなたに馬鹿にされまいとして、つい強がって。誇り高いあなたが、臣下の妻ではさぞご不満だろうと、いじけていたのです。とんでもない間違いだった。これからは、睦まじい夫婦になりましょう。遅くはありません。共に白髪になるまで、ずっと一緒にいられるのだから』
と涙ながらに誓い、眠る間も手を握って付き添ったとか。目覚めれば髪を撫で、肩を支えて薬湯を飲ませ、女房たちより親身に世話を焼き、いったんは葵の上も、明るい顔になったという。
――嬉しい。生きていて、よかった。わたくし、ずっとあなたの妻でいられるのですね……
翌日には容態も安定して、光君もやや安堵し、左大臣や頭の中将たちと共に、公務のために参内したところで、急遽呼び戻された。慌てて左大臣邸に駆け戻った時は、葵の上は既に、息が絶えていたとか。
出産は怖い。何が起こるかわからない。わたくしの場合は幸いにも安産だったけれど、葵の上は運が悪かった。懸命の祈祷や御修法が行われる中、妻の手を握り、名前を呼び、これからいくらでも大事にするからと誓ったにもかかわらず、葵の上は蘇ることはなかった。
以来、坊やはずっと泣き続け、自分を責め続けてきたらしい。
「本当は、女らしくて優しい人だったのに。わたしが愚かだったばっかりに、悲しい思いをさせて。くだらない浮かれ歩きをして、誇り高いあの人を怒らせて、ずっとすれ違ってばかりいて」
と懐紙を目に当て、鼻をすする。
可哀想にね。わたくしに慰めて欲しくて、ここへ来たのね。
自慢の姫を亡くした左大臣家の人々も、さぞかし嘆き悲しんでいることでしょう。
でも、わたくしにとって、その悲しみは既に他人のものだった。既に、別れを決めていたから。
(そのくだらない浮かれ歩き≠フ中に、わたくしのことも入っているんでしょう?)
坊やの心が他の誰かにあることは、わたくしも知っていた。だから、期待はするまいと思っていた。
結婚までは望まない。古い恋人として重んじてもらえれば、それで満足できると。いえ、満足しなければならないと。
その支えが打ち砕かれたのは、あの車争いの事件の時。
葵の上に責任があるとは思わない。深窓の姫君なのだし、懐妊中だったのだから、郎党たちの狼藉を止められないのは仕方ない。祭りの興奮の中では、酒に酔った若者の喧嘩や乱暴くらい、よくあること。決して愉快ではなかったけれど、左大臣家からは、丁重なお詫びの使いも来たことだし。
問題は、光君がその事件を知っても、このわたくしを愛人のままで置いておくこと。
わたくしが正妻の側の郎党から愛人呼ばわりされ、車を押しのけられる侮辱を受けたことは、都中に広まってしまっている。おまけに本祭の日には、二条の女と一緒だったとか。
古い女を争わせておいて、自分は新しい女に夢中。
いくらわたくしが超然と構えていても、世間はわたくしを哀れむ。あるいは、こっそりと笑う。
長い付き合いなのに、妻にしてもらえない女。
もはや盛りは過ぎて、色香は褪せているのだろう。源氏の君も、扱いに困っているのだろう、と。
わたくしがとりすがって、結婚結婚と困らせているわけではない。実際には、わたくしよりも、わたくしの女房たちが待ち望んでいること。わたくしが、天下の光君から妻として望まれること――それこそが、『当代最高の貴婦人』である証だから。すなわち、仕える彼女たちの面目だから。
本当に結婚してくれ、というのではない。ただ、申し込んでくれるだけでよかった。そして、そのことを世間に知らせてくれれば。
そうしたら、わたくしは、感謝を持って断ることができた。今の暮らしで満足しているから、と。
忠実な女房たちも、それで納得できただろう。お方さまは、ご自分の主義で結婚なさらないのだと。
さもなければ、坊やが左大臣家に厳重な抗議をしてくれるだけでもよかった。六条の御息所への侮辱は自分が許さないと、世間にはっきりわかるように。
でも、そのどちらの解決策も、坊やは採らなかった。ただ、他人事のような顔をして、見舞いの文を寄越したきり。後ろ盾である左大臣家に文句をつけるようなことは、たぶん、怖くてできないのだ。
確かに、一度は自身で訪ねてきた坊やを、わたくしが追い返させたのだけれど、それは、わたくしが傷ついていることを知らせるため。
わたくしの立場を理解して、解決策を提示するべきだったのよ。それができるのは、坊やただ一人なのだから。
でも、それがないために、わたくしは依然、哀れな立場で宙吊りになったまま。
坊やは葵の上の出産にかかりきりで、あるいは、二条邸の女の機嫌を取るのに忙しくて、わたくしのことなど、どうでもよくなっていたのだろう。せめて再度の訪問がないものか、期待して待ち続けていた自分が、自分で哀れになる。
そして、やっと来てくれたと思ったら、ただひたすら、自分の苦しみを訴えるだけ。
自分が甘えたい時だけやって来て、わたくしの膝に頭をこすり付けるのね。母親のようなものだから、無限に甘えられると思っているのね。いつでもわたくしが、あなたのためだけに存在していると。
生憎と、わたくしは生身の女。
自分自身の欲も夢もある。誇りもある。
これまでずっと、坊やを愛しいと思い、真心を注いで可愛がってきたつもりだけれど、これで性根がわかったというもの。
甘ったれの子供よ、あなたは。
死んだ妻を思って、ぐずぐず泣いているといいわ。
あなたの妻の他にも、傷ついている女はいるというのに、それはまるで見えていないのだから。
もはや、説明する気にもなれない。女の気持ちなんて、説明してくれなければわからない、と男たちは言うけれど、それは責任逃れ。最初から、相手をわかろうとする気持ちを持っていないからよ。女の側にだけ、男の気持ちをわかれ、男を立てろ、男に尽くせと強要しておいて。
やがて、その坊やが、気付いたように顔を上げた。
「今日は、お顔を見せて下さらないのですか?」
いつもはじかに会うのだけれど、今夜は御簾を隔てていた。坊やからは、わたくしの輪郭しか見えないはず。
「わたくしも、そろそろ身を慎みませんと。近々、野宮に移る予定ですの」
すまして言うと、坊やが凍りつくのがわかった。
「まさか……」
何が、まさかよ。
当然の結果でしょう。
わたくしが、実の娘より、あなたの方を選ぶと思い込んでいたの。あなたにとってわたくしは、大勢の中の一人にすぎないのに。
「ご存じの通り、わたくしの娘が、伊勢の斎宮に決まっております。ただいま、潔斎のために嵯峨野の野宮におりますが、わたくしも身を清め、伊勢に同行するつもりです。娘はまだ、ほんの子供ですので、わたくしが付いていませんと」
坊やは御簾をはねのけ、母屋に入り込んできた。こういう時は素早い。わたくしににじり寄って、衣の端をつかむ。
「嘘でしょう、嘘ですよね。おかしなことを、おっしゃらないでください」
慌てふためくさまを見て、少しだけ溜飲が下がった。わたくしもまだ、少しは未練を持たれているわけだわ。
「何が、おかしなことですの」
「だめです、そんなこと。伊勢になんか行かれたら、都に戻れるのはいつの日か、わからないじゃありませんか。伊勢行きは、斎宮さまご本人だけでいいはずです。お供は大勢付き従うのですから、不自由などありませんよ。何も、母君が同行されなくとも。そんな前例、ないじゃありませんか」
そう。伊勢の斎宮に任じられた皇女は、あとは帝の代替わりの時まで、伊勢で神に仕えて暮らすことになる。いったん都を離れれば、戻れる日は何十年先かわからない。今の帝はまだお若いのだから、光君とも、これが永劫の別れになるかもしれない。
正直、少しはひるむ気持ちもあるけれど、このまま都にいても、惨めなことが増えるだけだとわかっていた。わたくしが六条邸の女主人として時めき、多くの貴族、文人に一目置かれている現状には、若い光君がわたくしに夢中、という評判が大きくものをいっている。
誰もが憧れる、『当代最高の貴婦人』。
あの光君ですら、六条の御息所の愛人の一人。
その威光が、あの車争いの一件で、大きく傷ついたのだ。
そうでなくても、わたくしはとうに若い盛りを過ぎている。これから坊やの愛着が薄れることはあっても、増すことはない。
また、坊やがわたくしに会いに来ていた動機の中には、女盛りの中将に対する色気や、わたくしの娘に対する好奇心が混じっているのもわかっていた。
本当ならば、わたくしよりも娘の方が、源氏の君にはふさわしい年頃。斎宮にしてしまい、草深い神域に埋もれさせてしまうには惜しい美しさ、清らかさを備えた姫に育っている。もしも坊やに見せたら、小躍りして喜び、夢中になって口説くに違いない。
それがわかっていて、なお、娘を子供だと言い張ってきた、わたくしの無駄なあがき。
灯火や化粧を工夫し、華やかな香を焚き、衣装にも派手な色目を選び、少しでも若く見せようとしてきた、虚しい努力の日々。
もう、ここらできっぱり気持ちを変えたい。都にいて、惨めな自分を持て余すよりも、清浄な神域に入り、娘と共に祈りの日々を過ごす方が、どれだけよいか。
「天下の貴公子が、何を慌てていらっしゃるの。あなたのお相手になる女人は、他にも大勢いるではありませんか」
わたくしが優しく言うと、先帝に溺愛された御子は、青ざめた顔の中で、目ばかり光らせて詰め寄ってくる。
「わざと意地悪を言われているんですね。わたしにご不満があるのはわかります。でも、あなたとは古い付き合いじゃありませんか。ご不満は何でも、言って下さればいい。そうすれば、できることは何でもします」
わたくしは笑った。
たぶん、はっきり言ってやるのが、最後の親切。
「でも、わたくしと結婚するつもりはない。車争いの件について、左大臣家に正式に抗議して下さることもない。自分が会いたい時に、甘えに来るだけ。そうでしょう?」
坊やは木彫りの人形のように、堅くこわばってしまった。わたくしが本気でいることが、ようやくわかったらしい。
身を捨てて得た、ささやかな勝利。
それを貴重な美酒のように味わいながら、
「あなたのことは、変わらず好きですわ」
と声を優しくして言った。
「わたくしの可愛い坊やですもの。でも、もう生臭い世界からは離れたいのです。そういう年になったのですわ」
坊やはしばらく言い訳を探しているようだったけれど、やがてあきらめたらしく、がくりとうなだれた。
「わたしに、見切りをつけたということですね」
その通りだけれど、そうはむきつけに言わないのが、教養というもの。
「年齢のせいですわ。あなたもいずれ、欲に惑わされない静かな暮らしがしたい、と思うようになるのではないかしら。その時はまた、花につけ紅葉につけ、季節の便りを下さればよいのですわ。風雅の友としてなら、いつまでもお付き合いできますもの」
下を向いたまま、坊やは苦笑したらしい。
「風雅の友、ね」
この坊やがそんな境地に至るのは、おそらく、遠い先のことだろう。たくさん傷つけ、自分も傷つき、後悔にまみれてからのこと。
わたくしだって、まだ枯れきっているわけではない。生々しくうずくものはある。でも、それに振り回されることには、もう疲れた。優しさというものは、人に注ぎ続けるだけでは自分が涸れてしまう。相手からも注いでもらわなくては、続かないのだ。
「伊勢から、お手紙を参らせますわ。遠く離れて交わす文の方が、なお情趣があるというもの」
「情趣?」
「男と女でなくなっても、友情は残りますわ」
でもそれは、若い男には理解できないことらしい。女と付き合うのは愛欲のため。それ以外は時間の無駄、仕事でもした方がまし、という感覚なのだろう。
「わかりました」
坊やはすっくと立ち上がった。驚きと後悔、罪悪感が消化しきれず、そのまま怒りに転じたのだろう。自棄のような勢いで言い捨てる。
「みっともなく泣きすがって、お引き留めするようなことはしません。これまでのご厚情に感謝します。どうか、お元気で」
そして、足音も荒く立ち去っていく。
「まあ、光君さま、もうお帰りですの」
「お酒の支度をしておりますのに」
「お供の方たちも、まだ夜食の最中ですのよ」
驚いた女房たちが、慌ただしく追っていく気配。それが遠ざかる。
わたくしは脇息に寄りかかり、ため息をついた。これで終わりだという寂しさと、よくぞ別れを告げたという、自尊心の慰め。
これでよかったのだ。坊やのお守りは、もっと若い女がしてくれればよい。強くて賢く、優しい女に守ってもらえば、坊やも幸せになれるだろう。
もっとも、そんなできた女が、この甘えたがりの坊やを本気で愛してくれるかどうかは、はなはだ怪しいと思うけれど。
たぶん、仕方がないのだ。若くて美しく、才に恵まれた貴公子が、女を甘く見て、傲慢になるのは当たり前。
何度も痛い思いをし、傷ついて疲れ果て、それでようやく、少しはましな大人になるものだろう。
わたくしだって、若い頃は傲慢だった。自分の美貌と才知があれば、どんなにでも幸せになれると思っていた。
それが、愛した人を病で失った時に、まず、叩きのめされた。人の命など、はかないもの。愛する者も、自分自身も、いつまでこの世にいられるか、わかりはしない。死別の前に娘を授かったのが、せめてもの幸運。
何年かは泣き暮らしたけれど、やがて、心が静まってきた。
娘の成長を見守り、季節の移ろいを愛でられる幸せ。
帝の后として宮中に君臨するよりも、却ってよかったかもしれない、と思えるようになった。それはおそらく、ずいぶんと気の張る、不自由な立場であろうから。
それからは、暮らしに困らないだけの財産があるのを幸いとし、残りの日々を楽しく過ごせば、それでいいと思い定めてきた。そして、この六条邸の主として、忘れ形見の娘を育てながら、華やかな日々を過ごしてきた。大勢の客をもてなし、季節ごとの宴を開き、若い貴公子との浮名も流して。
そういう日々に、まるきり未練がないと言えば嘘になる。本当は、坊やが泣いてすがって引き留めてくれることを、少しは期待していた。でも、それでは結局、悪あがきになるだけのこと。
まだ誇りと美しさが残っているうちに、きれいに別れるべきなのだ。それでこそ、『当代最高の貴婦人』というものではないか。
わたくしのその姿がまた、娘への教育になるだろう。
男を愛するのはよいが、溺れてはならない。この世はとにかく、女が生きにくいようにできている。だからこそ、女は強く、誇り高くあらねばならないのだ。
「――お母さま」
ひょっこり御簾から覗いた悪戯な顔に、わたくしは驚いた。
「まあ、あなたという人は。また抜け出してきたのですか」
新たな斎宮として潔斎中の一人娘が、またしても、お使いの女房のふりをして、こっそり野宮を出てきたのだった。これまでにも、幾度かしでかしたことではあるけれど、よりによって、わたくしが坊やと決別した晩に。
「ごめんなさい。でも、まだ運びたいものがあって」
と若い顔が照れ笑いする。
「一度、伊勢へ行ってしまったら、もう二度と戻れないかもしれないんですもの」
この娘なりに、斎宮のお務めのことは真剣に考えているのだけれど、そこはやはり若い娘。溜め込んだ漢籍だけでなく、お気に入りの冊子や絵巻物も持って行きたいし、新しい物語も手に入れたい。お友達と文通するための、洒落た料紙も欲しい。我が家の料理人の料理も味わいたい。あれやこれやで、密かに実家へ戻ってきては、息抜きしていくのである。それをきつく叱らないわたくしも、甘いのだけれど。
このわたくしでさえ、都を離れると思うと未練が残るのだから、まして若い娘では、
(今のうちに少しでも、自由な空気を吸っておかなくちゃ)
と思うのは無理もない。いずれ出立の時までは、大目に見ようとわたくしは思っていた。
(あたら花の盛りを、いつまでという期限もわからず、神に仕えて過ごすとは)
という哀れさもある。
ただ、それはまたそれで、いい人生かもしれない。男を愛し、そのために不安に揺れ、嫉妬に苦しめられるのも悪くはないけれど、あえて娘に勧めたいことでもない。清らかなまま、神に仕えて穏やかに老いていくのも、決して虚しいことではあるまい。
身分のある女の場合、ふさわしい殿方がいない時は、無理に結婚などしない方がいいのだ。生きていくのに困らない財産があるのなら、何もわざわざ、余分な苦労を背負い込む必要はない。
おそらくは、正妻である葵の上もまた、長年、坊やの身勝手に苦しんでいたのだろう。
わたくしの姫が、男に関わらない人生を送れるとしたら、それは、願ってもない僥倖なのではないだろうか。
「わかっていますよ。欲しいものは、今のうち何でも注文しておきなさい」
と苦笑して言った。
伊勢の斎宮でも不自由はしないはずだけれど、細かい注文が必要なものは、都にいるうちの方がいい。姫は明るく微笑んだ。
「ありがとう、お母さま。いま、甘葛をかけた芋粥を用意させていますの。ここに運ばせますから、一緒にいただきましょう。それから、久しぶりに貝合わせでもしませんか。それとも、何かを賭けて碁の勝負がいいかしら」
この子はもしや、わたくしが光君と別れ話をしたことを知っているのかもしれない、と感じた。それとなく、慰めているつもりなのかも。
(いい年をして、娘にいたわられるなんて)
とは思ったけれど、やはり嬉しかった。今夜は一人でいるより、みんなで甘いものでも食べて、賑やかに騒いだ方がいい。琵琶、琴、笛、お酒に双六、何でもあり。
恋が終わっても、人生は続く。
この娘がいる限り、わたくしは母として生きられる。
坊やは今頃、わたくしを恨んでいるかもしれないけれど。それは、あなたが悪いのよ。女に対して、あまりにも傲慢すぎるから。
いえ、そうではないわね。何年もずるずる無駄に期待し続けた、わたくしの弱さ。
一度でいいから、結婚をねだられてみたかった。葵の上が亡くなっても、正妻にと望んではもらえないとわかって、ようやくあきらめがつけられただけ。
もしも坊やが、自邸に引き取った娘を正式の妻にするのなら、二の次にされたわたくしの屈辱は、都中に広まってしまう。そんなことになる前に、遠い伊勢へ去っている方がいい。それならば、わたくしの方から別れを告げたのだということが、世間にはっきりわかるでしょうから。