ブルー・ギャラクシー ミオ編

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ミオ編 1 エレーナ

 ――ここはどこ。
 わたし、なんでこんな所にいるの。
 目覚めた時は、裸で、天蓋つきの大きなベッドの中にいた。
 金と白とクリーム色でまとめた、華麗な内装。アンティーク風の家具。ホテルの一室のように見える。それも、かなりの豪華ホテル。大きなフランス窓の外には、よく晴れた青空が見える。
 でも、わたしは今、モデルクラブの宿舎で寝起きしているのよ。どうしてホテルなんかに……
 ずきんと、躰の芯に鈍い痛みが走った。そのあたりに、今までに経験したことのない違和感もある。
 これは何?
 生理痛とは位置が違う。もっと下の……
 ぎくしゃくと身を起こし、あたりを見回して、自分のドレスが布張りの椅子にかけてあるのを発見した。淡いオレンジ色のロングドレス。
 椅子の下には、金色のハイヒールが揃えてある。横の小卓には、小さなパーティーバッグ。
 そう、盛装して、他のモデルたちと一緒に、宿舎から移動用のバスに乗ったのを覚えている。みんなで遠足のように、きゃあきゃあおしゃべりした。でも、それから先はどうなったの?
 裸の上にドレスをすとんとかぶり、理由のわからない痛みを感じながら、ふらふらとバルコニーに出た。
 白い手摺りにもたれて眺めると、眼下には、鏡のような青い湖が広がっている。一キロ近くありそうな対岸には、ぽつぽつと別荘やホテルが散っていた。新緑の季節だから、風も甘い。
 左右にも、同じようなバルコニーが張り出している。わたしがいるのは、三階の高さ。上にもまだ、階がある。建物の端には、とんがり屋根を持つ丸い塔がついている。
 見覚えがあった。ここはもしかしたら、パーティ会場になっていた屋敷ではないか。
 そうだ。コンパニオン業務の指名が来た時に、行く先を調べた。
 地球時代の城館をイメージして設計したという、広壮な屋敷で、首都の名士たちを集めたカクテルパーティが開かれるという。
 わたしは『会場の彩り』として、他の娘たち、青年たちと一緒に、銀の盆に載せたシャンパンや、色とりどりのカクテルを客に勧めて回るはずだった。それがどうして、一人でこんな所に……

 室内を振り向くと、寝室の入口にあたる扉が開いて、朝食のワゴンを押した男性が入ってきた。
 金茶色の髪を七三に分けた、四十代のハンサム。気楽なオープンカラーのシャツ姿で、休日の朝という雰囲気を漂わせている。
 顔は知っていた。この屋敷の持ち主で、幾つもの企業を親から引き継いだ、名家の御曹司。首都社交界の有名人。女優の誰かと噂になったのを、ゴシップ記事で見たことがある。
「あの……わたしは……」
 それとなく説明を求めたつもりなのだけれど、彼はワゴンをバルコニーに押してきながら言う。
「そうだね、ここの方が気分がいい。一緒に食べよう。そしたら、宿舎まで送るから」
 彼はわたしが立ち尽くしているのを見ると、苦笑する。
「おいおい、他人みたいな顔しないでくれよ。昨夜はあんなに、楽しく過ごしただろ?」
 頭から血が下がるのがわかった。本当に、さーっと血が引いていくのだ。
 そんなばかな。
 よりによって、任務中に、そんなこと。

 わたしにとっては、初めての潜入捜査だった。
 モデルクラブ内の誰かが違法な薬物の小売りをしている、という噂の真偽を確かめるのが任務。
 もし、背後に違法組織が隠れていたら、大捕物になる。
 男子部にも一人、軽く整形した男性捜査官が入っていた。他星の大学を出たわたしは、ここではほとんど顔を知られていないので、素顔のまま。
 ただし、薬物汚染の広まりを警戒して、モデルクラブの社長にさえ、わたしたちの身分を知らせていない。
 もちろん、最初から公開捜査にして、モデルクラブとその周辺の人間を一斉の薬品尋問にかければ早いけれど、それでは大袈裟すぎるし、主犯がその網の外にいたら、むざむざ取り逃がすことになる。
 レンタル船に飛び乗られ、違法組織の割拠する辺境星域に逃亡されては、もはや軍でも追跡は不可能。公開捜査にする前に、少しは的を絞っておかなければならないのだ。
 正直に言えば、少しは怖かったけれど、でも、それ以上に張り切っていた。実績を積んで、いつか上級捜査官になるというのが、わたしの夢だ。
 そうしたら、伝説のハンター≠ニだって組めるかもしれない。
 もちろん実物のリリス≠ヘ、娯楽映画に描かれた姿とは違うだろうけれど。その違いも、自分の目で見てみたかった。
 それなのに、これは。
 まさか、記憶が飛ぶほど、お酒を飲むはずがない。常に周囲を警戒していたし……
「まさか初めて≠ニは思わなかったけど、いつかは通る道だからね。きみも楽しんだだろ。下着はそっちに置いてあるよ。シャワーでも浴びてきたら」
 男は慣れ慣れしく、わたしの腰を抱いて、額にキスしようとする。
 わたしは混乱したまま、身をよじって逃げた。バッグと下着の残りを取り上げ、裸足のまま、寝室に隣接する浴室に入る。
 扉を閉めてから見ると、壁一面の鏡の中には、血の気の引いた惨めな女がいた。
 嘘よ、そんな。
 酔っ払って、記憶のないうち、『初めての体験』をしてしまうなんて。
 奥手すぎるのはわかっている。でも、学生時代はずっと勉強一筋だったし、司法局に入ってからは、仕事を覚えるのに懸命だったから。
 わたしの理想は、あんな安手のプレイボーイじゃない。パーティを開いては、女の子をつまみ食いする男なんて。
 覚悟してドレスをたくし上げ、脚の間に指を入れた。内部はまだ濡れている。血液の汚れと、精液らしい液体が拭いとれる。
 ぞっとしたけれど、おかげで頭は冴えた。氷を背中に入れられたように、しゃんとする。
 学生時代、おおかたの女の子と同じように、処女膜の切除手術は済ませていた。恋人はまだいなかったけれど、『いつか』のために。だから、苦痛や裂傷は最小限で済んだのだ。
 任務が先よ、エレーナ。
 もし、記憶が飛ぶような薬を使われたのだとしたら。
 あの男は、わたしが捜査官だとは、夢にも思わなかったのだ。ただの女の子だと甘く見て、合意の上だったふりをすれば平気だろうと。
 とんでもない。
 わたしはシャワーをあきらめ、顔だけ洗うと、バッグから取り出した通話端末を手首にはめた。
 寝る時でも外さないものが、バッグに入れられていたのは、あの男の仕業だろう。
 まず、捜査チームの仲間に緊急信号を送った。すぐに来てもらい、わたしの体内に残った体液の検査をすれば、強姦容疑で逮捕が可能だ。それから、わたしの血液検査をする。薬物反応があれば、更に好都合。
 もしかしたら、これが薬物疑惑の正体だったのかもしれない。あの男が、以前からモデルたちに、あるいは他の女性たちに、こういう卑劣な真似を繰り返していたのだとしたら。
 わたしはもう一度、冷たい水でざぶざぶと顔を洗った。
 泣いちゃだめ。
 泣いてる暇なんかない。
 それどころか、勝ち星よ。これで、チンピラ小悪党を退治できる。
 それでも、惨めな気持ちは消せなかった。いつか、本当に愛する相手に巡り逢うまではと思って、遊び半分の誘いは、全て退けてきたというのに。
 こんなことで。こんな風に。
 それに、これから先、どうやって同僚たちと付き合えるだろう。
 彼らはきっと、何もなかったような顔をしてくれるはずだけれど、わたしはいつまでも、この屈辱をひきずっていくことになる。
 犯罪の被害者になるのは、無防備な女性のはずなのに。わたしは人より強く、賢く、身を守る力を備えているはずだったのに。

 表面だけ身繕いしてバルコニーに出ていくと、男は呑気に朝食を楽しんでいた。白いガーデンテーブルに二人分の料理を並べ、わたしの顔を見ると、優雅なアンティーク風のカップにコーヒーを注ぐ。
「さ、ここへお座り」
 わたしは冷然としたまま、手招きして男を立たせた。湖の対岸から、銀色の機体が二機、飛んでくるのがわかる。首都の司法局ビルから飛び立ったエアロダインだ。わたしのチームに、応援の部隊が加わっているはず。
「わたし、どうして昨夜のことを覚えていないのかしら?」
 男はにやついて言う。
「おや、せっかくの情熱の時間を忘れてしまったとは、勿体ない。ちょっと飲みすぎたらしいね」
「いいえ。わたし、仕事中に飲んだりしないわ」
 男は呑気に両手を広げてみせた。
「もちろん、パーティが終わった後だよ。ぼくが誘ったら、喜んでついてきてくれたじゃないか。モデルクラブの方には、うまく言ってあげただろ?」
 わたしは黙って拳を握り、隙だらけの男の顔面に正拳を叩き込んだ。加減はしたけれど、鼻の骨が折れただろう。
 男は椅子とテーブルを倒して床に転がり、両手で顔を覆った。血がだらだらこぼれて、白いシャツを汚す。
 何か抗議するようにふがふがと言い、血の跡を残しながら、お尻で後ずさりしては、伊達男も台無しである。
「わたしは《司法局テンシャン》支局、エレーナ・ソワソン捜査官です。あなたを違法薬物使用の容疑で逮捕します」
 と宣言したら、男の薄青の目が見開かれ、全身が恐怖で固まった。
 何という、愚かな遊び人。
 ただのナンパで、満足していればよかったのに。
 屋敷の庭にエアロダインが着陸し、捜査官たちの緊迫した声が交錯した。屋敷内の人間は、泊まり客も使用人も、全員尋問を受ける。この男の交友関係も、全て明らかにされる。
 忘れよう。犬に噛まれたと思って。
 どうせ覚えていないんだから、幸いだわ。
 絶対に泣いたりしない。少なくとも、同僚たちの前では。
 わたしは自分で望んで、この仕事に就いたのだから。

2 ミオ

 目が覚めた時は、全身がぎしぎしと痛くて、妙にだるかった。それに、頭が重くて、気持ちが悪い。
 どうしてこんなに、躰がきしむの。
 だいたい、裸で寝ているのはなぜ。
 厚い遮光カーテンのかかった、暗い部屋だった。わたしは一人で、広いベッドの上にいる。
 ごくわずかに漏れる光では、ホテルの一室のようだった。なぜ、ホテルになんか……
 はっとして、身がすくんだ。その途端、唇がぴりっとする。舌で嘗めたら、血の味がした。唇の端が切れている。
 とにかく、間違いない。まだ躰の芯が濡れていて、しかも、異様な違和感がある。奥深い部分に、痛いような、しびれたような感覚。膣だけではなく、肛門まで。
 頭を抱えた。悲鳴をあげたい。
 またなの。
 また、やってしまったの。
 避妊セルも埋めていないのに、どうして、こんなことができるのよ!?
 一度や二度ではない。これでもう、四回目。休みの日に、一人で街をぶらついていただけなのに、どこでどう酔ったのか、朝になると、裸でどこかのホテルにいるのだ。
 どんな男が相手だったのか、どこでどう出会って口説かれたのか、それともこちらが酔って口説いたのか、まるで覚えていない。
 いったい、わたしはどうなっているの。
 もう二度と絶対、外では飲まないと誓っていたのに。
 そんな単純な決心すら守れないほど、だらしのない性格なの!?
 腕の端末を探し、ソファセットのテーブルの上から取り上げて見たら、もう昼近かった。男の姿など、影もない。テーブルの上に、料理の残骸やお酒の瓶、幾つものグラスが残っているだけ。
 ソファの上には、わたしの下着と、お気に入りの薄紫のワンピース。小さな葡萄の房を飾った、麦藁の帽子。いつものバッグ。靴がその下に、揃えて置いてある。
 とりあえず、撮影のない日でよかった。こんなざまで仕事に出ても、まともな笑顔が作れない。
 笑ったら、また唇が切れてしまうから、気をつけなくちゃ。
 のろのろと起き上がったら、テーブルの上の紙片に、走り書きがあった。
『昨夜はとても楽しかった。心から礼を言うよ。ありがとう。支払いは済ませてある。しかし、きみの場合、酒は控えめにしたほうがいいね。飲むと、大胆になりすぎるようだ』
 紙切れを握り潰し、思い直して引き裂き、料理の残骸の隅に捨てた。頭を動かすと、ズキンと重い痛みが広がる。
 とにかく、異様にだるい。
 まるで、一人ではなく、何人もの男の相手をしたかのよう。
 それに……手首に赤い痕があるのは、まるで……いえ、足首にもあるわ。縛られた痕のような。まさか、そんなことまで。いえ、もし、相手の男がそういう趣味だったら。
 浴室で熱いシャワーを浴び、全身をきれいに洗った。脚の間の痕跡からすると、コンドームは使われなかったらしい。
 家に帰ったらすぐ、アフターピルを飲んでおかないと。前に処方してもらった残りがあって、よかった。でも、そんな劇薬、何度も使うものじゃないって習ったのに。
 子供の頃、学校で授業を受けた時は、
(避妊もしないで、そんな真似をするなんて、ありえない)
 と軽蔑混じりで思ったのに。その自分が、まさか、何度もアフターピルを服用することになるなんて。
 大学時代、ボーイフレンドのいた時期には、避妊用のホルモンセルを埋め込んでいたけれど、別れてからは、その必要がなくなっていた。でも、やはり、常に埋めておくべきなのかも。
 もと二度としない、と自分に誓ったのに、また、こんな失敗をしでかすようでは。
 ウェーブのついた長い髪をざっと乾かし(邪魔だと思うこともあるけれど、これを切ろうと思ったら、モデルクラブの許可が要る)、服を着ると、すぐさま部屋を出た。
 通路の大きな窓から、明るい街路が見下ろせる。首都のどこかであることは、間違いない。
 見覚えのあるビルに気づいて、少し記憶が戻った。ここは、昨日の午後、マレーネと会ったカフェテラスの近くだわ。
 マレーネは、付き合っている男性がかなりのマザコンなので、結婚するべきかどうか迷っている、と話してくれた。それでしばらく、紅茶とケーキをお供にして、あれこれと話し込んだ。
 でも、マレーネと別れてからどうしたのか、記憶がない。すぐに家に帰らずに、うろうろしているうちに、ナンパ男にひっかかったのかしら。
 おかしな話だった。わたしはこれまで、くだらない男たちは全て避けてきているのに。
 ラブレターもデートの誘いも、片端から断ってきた。外見だけでちやほやしてくる男たちに、用はない。
 彼らはただ、目立つ女を連れて歩いて、自慢したいだけ。口説き文句に耳を傾けるだけで、時間の無駄。
 でも、本当は、心の深い部分で、そういう禁欲生活が嫌になっているのかしら?
 欲求不満がたまっているから、時々、羽目をはずしてしまうの?
 やっぱり、一人くらい、ボーイフレンドを持っておくべき?
 でも、これまでに付き合った数人には、あまりいい思い出がなかった。別れて初めてほっとする、という男たちばかり。
 やはり、どうしても、
(美人を連れて歩くのが、嬉しくてならない)
 という、幼稚な見栄を感じてしまったから。
 でも、そういう男しか寄ってこないというのは、わたしにも、人格的に何か足りないという問題があるのかしら。
 他の客や従業員と顔を合わせるのが厭で、麦藁帽子を深く下ろして、足早に一階ロビーを通り過ぎた。
 フロントで聞けば、あるいはホテルの管理システムで確認すれば、部屋を借りた男の名前はわかる。でも、知りたいとも思わなかった。どうせもう、二度と会うことはない。
 街路に出ると、まぶしい秋の日差しを受けて、目がくらんだ。
 空腹だし、喉も渇いている。あの部屋にいるのが苦痛で、水一杯飲んでこなかった。
 早く帰らなきゃ。またしても、無断外泊だわ。パパとママが旅行中で幸いだけれど、タケルが心配しているんじゃないかしら。
 顔を合わせたら、尋ねられてしまう。姉さん、昨夜はどうしたのって。
 マレーネの所に泊まったことにするしかないわ。二人で飲みながら、遅くまでおしゃべりしていて、そのまま眠ってしまったの。連絡も入れないで、ごめんなさいね……

 突然、地面が消えた。
 躰が宙に浮いて、そのまま前に落ちていく。
 うそ、階段だったの!?

 そのままだったら、何メートルも転落して、大怪我をしていただろう。地下街の出入り口だったのだ。
 でも、わたしは誰かの肩にかつがれるようにして、がっしり受け止められていた。視野が逆さになり、帽子もバッグもどこかに消え失せている。
「危ない、危ない」
 深いアルトの声でそう言ったのは、わたしを支えている誰か。とても強い肩と腕を感じるのに、女の人なの!?
 わたしは逆さのまま地上まで運ばれ、そっと平らな歩道に降ろされた。それなのに、足がいうことをきかず、そのまま崩れ込んでしまう。
 わたしの前には、濃色のサングラスをかけた、屈強な体格の女性がかがみこんでいた。白いシャツブラウスが、目に痛いほど。黒いミニスカートからは、力強い長い脚が伸びている。
「貧血かな? 大丈夫?」
 いったんは足を止めた周囲の通行人も、わたしが無事とわかって、再び流れだしていくらしい。
 階段下でバッグと帽子を拾ってくれた若い女性が、身軽に上がってきた。淡い緑色の優雅なワンピースドレスに、きちんと結った長い髪。わたしなんか、ろくに髪も梳かさないままなのに。
「お嬢さん、お顔が真っ青よ。タクシーを呼びましょうか?」
 落ち着いたソプラノの声を聞いて、サングラスの女性が、まじまじ、わたしの顔をのぞきこんでくる。
「病院に連れていこうか?」
 わたしは反射的に顔をそむけ、逃げようとした。こんな時に、人と関わりたくない。
「いえ、何でもありません。ちょっと寝不足で、ぼんやりして。大丈夫ですから」
 もしも病院で、何か重大な心の病気≠セと診断されたら。多重人格とか何かで、即座に入院、なんてことになったら。
 それなのに、サングラスの女性は、わたしを横抱きにして立ち上がっていた。子供でも扱うように、軽々と。
「大丈夫かどうかは、医師に診断してもらおう」
 わたしの帽子とバッグを持つ女性が、通りの向こう側を指して言う。
「サンドラ、そのビルにクリニックがあるわ」

3 紅泉

 植民惑星《ベルグラード》の惑星首都。
 今回、あたしたちはバカンスでこの星に来ていた。前のバカンスは雪山でスキーだったので、今度は街中で買い物三昧したいと、従姉妹の探春たんしゅんが言う。
 むろん、あたしに異存はなく、美しい川に面したホテルに泊まって、骨董品店や美術館、画廊やデパートを巡り歩いていた。
 今朝は、探春の好きな着物の店を覗いてきたところ。
 あたしは夕涼みの浴衣しか着ないが(本式の着物なんて、拷問だ)、お茶と生け花を習って育った探春は、和服が好きなのだ。
 気に入った反物と帯を買い、仕立ててホテルに届けてもらう手配をして、次の店に向かう途中のアクシデント。
 民間クリニックのロビーで、あたしと探春は、ミオ・バーンズという娘の診察が終わるのを待っていた。
 診察の結果次第で、家まで送るか、親に連絡するか、何かした方がいいだろう。法的には成人かもしれないが、まだ一人前とは言えない若さだから。
 お昼は何を食べようか、午後はどこを回ろうか、探春と低く話していると、四十歳前後の栗毛の女性医師が出てきて、ドクター榊原と名乗り、
「ミス・バーンズのお友達ですか」
 と深刻そうに問う。
「いえ、ただの通りすがりです。具合が悪そうなので、連れてきたのですけれど」
 探春が言うと、有能そうな女性医師はしばし考え、
「では、あとは当方で引き受けます。もう、お引き取りくださって結構です」
 と言う。
「入院させるの?」
 と気軽く尋ねたあたしに、榊原医師は難しい顔で答えた。
「患者のプライバシーになりますので、お答えできません」
 ぴんときた。やはり、犯罪がらみだ。
 過去数十年の経験から、そういう勘は働くようになっている。
「これを見てください。休暇中だけど、司法局特捜部のサンドラ・グレイ捜査官です」
 あたしはサングラスをはずしてシャツの胸元にひっかけると、自分の左手首の端末から、女性医師の腕の端末へ市民番号を送った。すると向こうには、あたしの身分がただちに確認できる。
 ただし、C級検索では私立探偵と出てしまうので、B級検索を指定した。すると、本部所属の上級捜査官という身分が出る。巨大な組織である司法局の中でも、わずか数千人しかいないエリートだ。
 あたしたちの正体は、実は、A級検索でも出てこない極秘事項であるのだが。
 普通の市民に可能なのは、C級検索までである。このレベルでは、最低限の情報しか出てこない。
 権限を持った役人や政治家なら、B級検索が許される。すると、対象者の胎児時代からの健康診断の記録や、学校時代の成績、過去の職歴など、もう少し詳しい情報が得られる。
 更に許可を得れば、A級検索が許される。対象者だけでなく、その人物の関係者全員の個人情報が得られる。ただ、これは相当な上級者でなければ、許可が下りない仕組み。
 その上の超A級情報となると、回線経由のアクセスはできない。何箇所かの惑星の極秘の保管庫に、分散して保存されている。これが公にされるのは、五十年なり百年なりが経過して、歴史資料となってからだ。
 今現在それに触れられるのは、二百億人超の人口を有する惑星連邦全体でも、わずか十人前後。
 『辺境生まれの違法強化体』であり、『司法局のお抱えハンター』というあたしたちの正体は、厳重に秘匿されていた。
 もし、あたしたちが正体を宣伝して歩いたら、それこそ、命が幾つあっても足りないことになる。
 辺境を支配する違法組織の連合≠ェ、あたしたちの首に、史上最高額の懸賞金をかけているからだ。
 とりあえず、この場では、捜査官だと納得してもらえればよい。
 『サンドラ・グレイ』は司法局特捜部が用意してくれた偽装身分だから、中央星域内のどこでも問題なく通用する。
 架空の両親、生まれた病院、通った学校、子供時代の習い事、大学時代の専攻まで、完璧に作り上げてある。探春が使っている『ヴァイオレット・コールダー』という身分も同様。
「そうでしたか。失礼しました」
 と女性医師の警戒がゆるんだ。
「こちらは、同僚のコールダー捜査官。何か事件なら、職務として話を聞きましょう」
 榊原医師は納得して、あたしたちを自分の診察室に入れてくれた。ミオという娘は、まだ奥の処置室にいるという。慣れた看護士が付いているので、心配はないそうだ。
「本人の記憶がはっきりしないのですが、強姦事件のようです。何らかの薬物を使用した上で、ですね。血液は、いま分析にかけています。薬物の特定ができるかもしれません」
 そうか。見過ごさなくて、正解だ。
「体内から、五人分の精液が採取できました。膣から四人分、肛門から三人分。重複を除いて五人です。それも分離して、遺伝子検査にかけ、個人が特定できると思います」
 医師は冷静だが、探春はトパーズ色の瞳を見開き、手で口を押えた。それから、黙って首を横に振る。正気で、五人もの男の相手を承知する女はいない。
「咽頭部からも、ある種の特徴的な細菌が検出されました。つまり、オーラルセックスがあったという意味ですが。唇の傷は、そのためらしいですね」
 まったく、男というのは困った種族である。この宇宙時代になってもまだ、自分たちの獣性とうまく折り合えないのだから。
 自分と別れようとした女を追いかけて、殴ったり殺したりする事件も、いまだ絶えていない。
 中央星域の治安がよいといっても、事件がないわけではないのだ。女たちが強くなったので、おおかたの男は(やむなく)紳士として振る舞っているが、酒でも飲めば、中身は数千年前と変わらないのだから。
「その人数だと、たぶん、計画的犯行でしょう」
 と榊原医師は言う。
「ええ。酒と薬物とで、被害者の記憶を飛ばしたんでしょう。地球時代からある、古典的手口ですよ」
 とあたしは受けた。そして、現代でもまだ、滅びていない手口。
「血液や精液などの採取物と、分析データをまとめて、司法局に提出してくれますか」
「ええ、もちろん。負傷部位や分析部門からの報告など、全てまとめておきます。犯罪関連の報告用書式がありますから」
「ありがとう。お願いします」
 全市民の遺伝子データは、胎児の頃から、かかりつけの病院を通して、惑星行政府に管理されている。
 また、全市民の行動履歴は、一年以内ならば、腕の端末の位置記録で確認できる。自宅から離れる時は端末を身につける決まりだし、それがなくても、随所の警備カメラやセンサーに記録が残る。
 重要部門の関係者なら、もっと長期間、行動記録が保存される。したがって、市民社会での重大犯罪は、ほぼ百パーセント隠蔽不可能だ。
 いや、犯罪自体は行えるが、自由の身でいたいのならば、それが露見する前に、高飛びする必要がある。
 レンタル船を借りて飛ぶとか、違法組織と通じる企業の輸送船に隠れるとかして、無法の辺境星域に逃げ込めば、もはや司法の追求は届かない。
 この銀河のうちで、法と良識が通用するのは、地球を中心とする、直径わずか数千光年の球状空間にすぎないのだ。
 あとは全て、無法の荒野。
 だからこそ、あたしたちのような、法に拘束されないハンター≠ェ必要になる。
「本人は、一晩中、朦朧としていたらしいですね。ついさっき、ホテルで目を覚まして、ショック状態のまま歩きだしたようです。保護して下さって、正解でしたわ。いま、体内の洗浄、妊娠の予防処置などを行っていますから。事情聴取は、その後になさって下さい」
「わかりました。治療をよろしくお願いします」
 と探春は静かに言うが、内心では、かなりショックを受けている。またしても、男の悪辣さを見せつけられたのだ。
 ――悪いことをしたな、せっかくのバカンスに。
 普段、重犯罪者相手の苛酷な仕事をしているからこそ、こういう休暇の時には、気分を切り替えないといけないのに。
「こちらからも、お願いします」
 女性医師は、顎のあたりに力を入れて言った。
「こんなことをした連中を、全員逮捕して、二度と再び同じことができないよう、厳しく再教育してやって下さい」

 探春も少女の頃、通りすがりのチンピラたちに誘拐されかけたことがある。
 あたしたちは辺境の違法都市で育ったので、警備厳重な屋敷の敷地から一歩外に出ると、すぐさま『何でもあり』の無法地帯だったのだ。
 バイオロイドの娼婦を取り揃えた繁華街、誘拐されてきた市民の競り市、機械兵から戦闘艦まで、あらゆる兵器を売る店。
 もちろん、お嬢さま育ちのあたしたちは、
『大人の付き添いなしでは、絶対に外へ出てはいけません』
 と一族の年輩者たちに厳しく言い渡されていた。
 街へ買い物や食事に出る時も、アンドロイド兵士の壁に囲まれて、一族の所有する店に出入りするだけ。
 可能な限り、外部の邪悪や冷酷からは切り離されていた。
 しかし、子供もいつかは、大人の世界を知る時が来る。
 今でもよく覚えているが、あの肌寒い晩秋の霧の午後、あたしが散歩のついでに敷地の境界線を飛び越えたのは、ヴェーラお祖母さまに叱られた腹立ち紛れである。
(骨董品の茶碗が何だっての。そんなに大事なものなら、箱に入れて、地下室にでも蔵っておけばいいじゃないのさ)
 お茶の時間、うっかりアンティークのティーカップを割ってしまったことで、またしても、きつい厭味を聞かされたのだ。
 ――紅泉こうせん、あなたには、人が大切にしているものを、大切にしようという思いやりがないのかしら。力が強いだけ、動作は慎重にしなければならないのですよ。
 おかげであたしは、人間社会に紛れ込んだフランケンシュタインの気分だった。
 普通にカップを置いたつもりなのに、ちょっと勢いがよすぎてしまったのだ。何世紀も経過していた繊細な陶器は、ひとたまりもない。
(あたしの腕力がゴリラより強いのは、仕方ないでしょ。強化体なんだから。あたしをそういう風に設計したのは、誰だってのよ)
 もちろんお祖母さまは、あたしに腕力の制御を覚えさせるため、あえて貴重な骨董品を、日々のテーブルに出し続けていたのだが。
 あたしの父母は、違法都市の管理仕事で忙しく飛び回っていたから、大抵の時間、ヴェーラお祖母さまとヘンリーお祖父さまが養育責任者だった。
 探春の方も、やはり両親が一族の仕事で留守がちだったから、あたしと同様、お祖母さまの膝元で過ごしていたのだ。
 双方の両親はあたしたちが成人する頃、仲間を集めて、銀河系外への移民に出発した。人類の本体から遠く離れた彼方に、理想郷を建設するのだという。おそらく、あたしたちと再会することはないだろう。
 十四歳のその夕方、霧の中の小道をずんずん歩いて、敷地の境界線を示す小川に出た時、むらむらと反抗心が湧いてきて、あたしはそれをひょいと飛び越えてしまった。
 だからといって、別に何事も起こらない。
 まさか、警備砲塔が一族の娘を撃つはずもないし。
 管理システム《ティーナ》が、大人たちに報告はするだろうが、それは後で叱られればいいこと。
 どうせ、あたりは広大な森林地帯で、こんなうすら寒い夕暮れに、霧の中をうろつく物好きはいないだろう。
 ところが、心配して追いかけてきた探春が、あたしを連れ戻そうとして、やはり小川を飛び越えてしまった。
 あたしは何も、本格的な家出などするつもりはなく、禁じられた冒険をちょっぴり試したら、夕食に間に合うように帰るつもりだったのに。
 あの時、もしもあたしたちが通話端末を持っていたら、探春はあたしの居場所を正確に突き止められただろう。でも、当時のあたしたちは、付き添いなしには屋敷の敷地から出ない建前になっていたから、個人用の端末は、まだ必要ないと言われていたのだ。
 護衛犬を連れて、湿った小道の匂いをかがせ、あたしの跡をたどっていた探春が、森を貫く林道にさしかかった時、運悪く、退屈している若い男たちを乗せた車が通りかかった。
 彼らは探春を見て、はぐれバイオロイドと思ったらしく(ちょうどまた、メイドみたいな紺のワンピース姿だったから)、銃を突き付けて脅し、車に引きずり込もうとした。
 探春を守って戦おうとした犬は、その場で射殺された。
 幸い、あたしに追いついていたもう一頭の犬が、吠えて警告してくれたので(サイボーグの護衛犬たちは、通信装置を介して互いにリンクしている)、あたしはすぐに引き返した。
 そして、霧を透かして従姉妹の危機を見てとると、まずは拾った小石を投げて、厄介な銃を、男の手首ごと吹き飛ばした。それから突進して、唖然としている男たちを蹴り倒した。
 十四歳のあたしは、既に百七十センチを越す屈強な体格で、アンドロイド兵士を相手に、空手の稽古を積んでいたのだ。
 それでも、一蹴りずつで三人のうちの二人を即死させたことには、自分で驚いた。手首を砕かれた男は、まだ生きてはいたが、内臓破裂で虫の息だ。
 だって、こいつらも強化体じゃないの!?
 それで、この程度!?
 この事件で自信をつけたあたしは、次からは、もっと大胆に屋敷を抜け出し、ついにはチンピラ狩りを趣味にするようになるのだが、それは数年後のこと。
 その時は、自分の過失にただ狼狽していた。男たちが車内で待機させていたアンドロイド兵が、《ティーナ》によって無力化されていたことにも気づいていなかった。
 ただ、華奢な従姉妹にすがりつかれ、命の恩人だと感謝されたことで、いくらかほっとしただけ。
 あたしの腕力が、初めて役に立ったのだ。
 もちろん、あたしが敷地から抜け出さなければ、探春がこんな目に遭うこともなかったのだけれど。
 驚いたのは、その時、探春が道端の重い石を拾い上げ、よろよろと運んで、まだ息のあった三人目の男の頭を、ぐしゃりと潰したことだった。
 頭蓋骨が陥没し、血と脳細胞があたりに流れ出す。
 あたしは不覚にも、草むらに膝をついて吐いてしまったが、小柄な従姉妹は、本来の芯の強さを発揮して、にっこりした。
『これでわたしも、共犯だから』
 あたし一人を殺人犯にはしないという、友情の印だったのだ。
 もっとも、あたしはヴェーラお祖母さまに叱られることはなく、座敷牢に入れられることもなかった。
 それよりも、
『よく探春を守りましたね』
 と誉められて、唖然としたものだ。
 ――違法都市では、チンピラの命なんか、骨董品のティーカップより安いってことか。
 とにかく、探春の身は無事で済んだが、見知らぬ男たちに取り囲まれて小突かれ、卑猥な言葉を浴びせられた衝撃は強かったらしく、それ以来、頑固な男嫌いになってしまった。
 こんな事件にぶつかると、またしても嫌悪が強まるに違いない。
 世の中の男が全部、卑劣な強姦魔というわけではないのに。
 いや、潜在的にはそうかもしれないが、それを顕在化させないのが文明というものだろう。
 そして、文明を守るのは女の力。
 生物の本流は、雌なのだから。
 野蛮な真似は許さないと、男たちに知らしめるのは、いつの世でも、女の役割なのである。

 あたしたちは榊原クリニックで、司法局ビルから担当者が来るのを待っていた。
 ミオ・バーンズは治療が済み、病室の一つで横になっている。本人の希望で、家族には連絡を入れていない。司法局から、心理療法の専門家につなぐことになるだろう。
 事件そのものは単純だから、地元の捜査官に任せればよい。ホテルの記録から、ミオ・バーンズと一緒だった者を逮捕すればいいだけである。
 生まれたての赤ん坊も含め、全市民が、正規に登録された通話端末を所持して暮らしている現在、偽名でホテルに泊まったり、買い物の支払いをしたりすることは不可能である。
 全ての決済は(物々交換以外)端末を通して行われるし、端末を身につける者が本人かどうかの確認も、随時、当局の警備網で行われる。
 法律があるので、ホテルの警備システムにも、宿泊者や訪問者の映像記録が残っている。
 もちろん、プライバシーの侵害にならないよう、室内の映像ではなく、ロビーや通路を通る時のものだが。
 男たちの側からは、『合意の上だった』という主張ができるが、一対五ならば、事件性はきわめて強い。
 事件とみなされれば、薬品と催眠装置を併用する深層尋問が可能になるから、真実はすぐ明らかになる。普通人である限り、尋問の専門家に対して隠し事はできない。
「誰か一人がうまくあの子を酔わせて、それから仲間を呼んだんだろうね」
「ひどいことをするわ。信じられない」
「たぶん、前にもやってる。発覚しなかったから、調子に乗って、人数を増やしたんだろうね」
「公開処刑できないのが、残念だわ」
 探春は、八割くらい本気で言っている。ここが辺境なら、あたしもそちらに傾くかもしれない。
 だが、それでも、殺さずに済む場合はそうしたいのだ。さもないと、際限なく殺し続けることになり……あたしは本当に怪物になってしまう。あえて冗談のように受けた。
「その発言は不穏当ですよ、コールダー捜査官」
 市民社会には、死刑はない。罪状に応じて、一定期間の隔離があるだけだ。それと再教育。罪を憎んで、人を憎まずの精神だ。
 若い頃は、それが納得いかなかった。弱い者をなぶる下劣な連中は、殺して構わないと思っていた。事実、かなりのチンピラたちを、戦闘の練習台にしてきた。彼らもまた哀れなのだと……そう思えるようになったのは、いつ頃からだろう。
 奥まった病室の一つで話しているうち、男女の捜査官ペアが到着した。
 三十そこそこの、がっちりした固太りの男と、それよりやや若い、ほっそりした女。もちろん、細く見えても筋金入りだろう。捜査官は全員、格闘技の有段者である。
「本部のサンドラ・グレイ捜査官と、ヴァイオレット・コールダー捜査官ですね。お噂は聞いています。ぼくは、サミュエル・ベイカー捜査官」
 褐色の髪の、がっちり男が手を出し、あたしと握手した。短い黒髪の女は、にこやかに探春と握手する。
「ワン・レイ捜査官です。どうぞよろしく」
 それはいいけど、
「噂って?」
 と確認せずにはいられない。まさか、『辺境生まれのハンター』という正体が知られているわけではないだろう。
 バカンス中、ハンターとしてのあたしたちに直接連絡できるのは、ミギワ・クローデル司法局長と、特捜部のパウル・ミン本部長のみ。
 いったん任務を受ければ、あとはハンター管理課や担当支局と連絡を取り合うが、実体を秘匿されていないと、秘密兵器≠ノならない。
 もしや、グレイ捜査官として、悪名が広がっているのでは。
 いい男とみれば、しつこく追い回す女だとか、陰で笑われているのかも。ノーと言われたら、すぐ引き下がるようにしてるんだけど。それに、妻帯者も避けているんだけど。
 あたしには、人の家庭を破壊する趣味はない。そんなことをしたら、正義の味方≠ニは威張れない。
「本部でも、有数の腕利きペアと聞いています。お会いできて光栄です」
「この《ベルグラード》へは、バカンスでいらしたのでしょう。なのに早速、事件を見抜かれるなんて、さすがです」
 ほっとした。
 どうやら、普通に尊敬されているだけ、らしい。
 それにしても、あまり名前が売れると、また次の偽名に切り替えないといけなくなるから、なるべくおとなしく過ごさなくては。
 既にリリー・ベイ≠ェ有名になりすぎて、関係者からはリリス≠ニ結びつけられるようになってしまったから、サンドラに切り替えたのだ。
 他にもガーベラやローズという身分を使うが、あまり名前を変えると、自分で混乱するから、しばらくはサンドラでいたい。
「引き継ぎをすませたら失礼するけど、バーンズ嬢はかなり参っているから、気をつけてやって。発作的に、自殺でも図ると怖い」
 もちろん病院でも司法局の施設でも、通常の監視システムは働かせているが、想定外の事態は起こりうる。
「わかりました。専門家のいる病院に、入院の手配をしますので、ご安心下さい」
 この時点では、普通の(というと語弊があるが)、単発的な強姦事件と思っていたので、あたしと探春は本物の捜査官ペアに後を任せ、早々にクリニックを出た。
 外の青空の下に立ち、伸びをして深呼吸する。
 日差しはまだ強いが、さわやかな空気が気持ちいい。行き交う市民たちは何の屈託もなく、午後の外出を楽しんでいる。
 こうしている今も、辺境では、多くの命が無駄に奪われているのだが。
 そればかり考えていては、いくらあたしでも、身が保たない。
 再びサングラスをかけてから、探春に言った。
「放っておいたら、あの子、泣き寝入りだったかもしれない。事件化できて、よかったよ」
 それが、本人の立ち直りにも通じる。次の女性の被害を未然に防げた、と思うことが、自分自身の救いになるのだ。逮捕されない限り、犯人の男たちは、また次の悪さをするだろうから。
「そうね。あなたでなかったら、階段で受け止めることもできなかったし」
 探春は努力して微笑んでみせたが、すぐまた顔が曇ってしまう。気分を変えてやるのは、あたしの役目。
「さ、お昼にしよ。なに食べる?」
 戦闘用の強化体であるあたしは、普通人の二倍から三倍食べないと保たないのだ。
「あなたの好きなものにして。わたしは何だか、食欲がなくなったわ」
 そうか。
 小柄で細い探春も、実は一族の技術で強化された肉体であり、普通人の男よりは強いが(だからこそ、あたしのパートナーが務まる)、体力よりは知能に重点を置いて強化されている。
 あたしよりも数段繊細で、ストレスに弱いのだ。
「よし、お弁当を買って、ドライブに行こう」
 あたしは探春をひょいと抱き上げ、左腕一本で抱えて通りを歩きだした。利き腕の右はいつも、不意の襲撃に備えて空けておく習慣だ。
「さあて、中華がいいかな。それともイタリアン」
「だめよ、だめ、降ろして」
 と探春が慌てて言うのは、通行人が驚いて、じろじろ見ていくからだ。男が女を抱き上げるならまだしも、女が女を片腕で抱え上げて歩くのは、確かに珍しい見世物であろう。『女優の休日』……よりは『格闘技女子チャンピオンの日常』だな。
「へんなの。あのお姉ちゃん、大きいのに、抱っこされてるよ」
 と小さな子供が呆れてママに言うのが、聞こえたりして。
「お願い、降ろして、みっともないわ」
 と探春は、一粒真珠のイヤリングを揺らして身をよじる。その高さだと、さぞかし眺めがいいだろう。
「別にいいでしょ、犯罪じゃなし。さあ、好きな店を探してよ」
 ついに探春が降参して、笑いだす。
「わかったわ。わかりました。食欲が戻ったから、もう降ろしてちょうだい」
 それなら、よし。
 すとんと歩道に降ろすと、探春は笑いながら、あたしの左腕に腕をからめてくる。
「もう、無茶なんだから」
「それが取り柄でね」
 あたしも笑い、ちょうど通り道にあった総菜屋に入った。
 スモークサーモンとクリームチーズのサンドイッチ、ハニーマスタード風味のチキン、何種類ものハムやテリーヌ、小海老とオレンジのマリネ、牛蒡のサラダ、トマト風味のロールキャベツ、アップルパイやレモンケーキ。
 ワインなら、角を曲がった所に酒屋があるという。あれこれ買って、郊外へ車を走らせよう。せっかくのバカンスなのだから。

4 エレーナ

 わたしは長期休暇を取り、海岸のコテージを借りて過ごしていた。
 しばらく、何も考えたくない。
 考えると、頭がおかしくなる。
 だから、久しぶりに絵を描いていた。それも、上品なパステル画や水彩画ではなくて、手の指を使って塗りたくる油絵を。
 気持ちが落ち着いたら、いつでも戻ってくればいい、と支局長には言われている。場合によっては、他星の支局に転属させてくれるという。だから、こんなことで辞めないでほしい、と。
 わたしが犯人に必要のない暴力を振るったことも、内々に処理してくれるという。
 わたしだって、せっかく子供の頃からの憧れの仕事に就いたのに、そう簡単に辞めるつもりなんかない。
 でも、日に何度も吐き気がこみあげてきて、トイレに駆け込むありさま。
 さもなければ、髪をかきむしり、食器や花瓶を床や壁に叩きつけたくなる。実際、最初の数日は、無数の食器を犠牲にした。
 捜査官が、精神安定剤なしでいられないようでは、話にならない。
 あの男は(名前を呼ぶのも汚らわしい)、モデルクラブのマネージャーと結託して、何十人もの娘たちを餌食にしてきたのだ。
 まず、モデルクラブの宿舎で暮らす娘たちの中から、これはと思う娘を選ぶ。
 マネージャーが彼女たちの食事や飲み物に薬を入れ、彼女が部屋で深く眠り込んだ時に忍び込む。そして、特殊な深層暗示をかけておく。
 これは、辺境から手に入れた技術らしい。
 そうしておくと、後日、その娘をキーワード一つで催眠状態に落とすことができる。
 そうなると、本人は何も抵抗できず、ほぼ夢遊状態で、人形のように弄ばれることになる。
 そして、翌日に記憶が残らないよう、念を入れて酒や薬物も使う。
 わたしは宿舎の自室で眠っているうちに、餌食に選ばれたらしい。知らないうちに深層暗示をかけられ、キーワードを植え付けられて、奴らに利用されたのだ。
 あの男は、そうして若い女を何人も用意しておき、遊び人仲間に声をかけて利用≠ウせていた。どんな真似をしても、翌日には忘れているから大丈夫と保証して。
 その結果、首都の有力者たちの間に、一種の会員制クラブのようなものができていた。それぞれ、かなりの代価を払って会員になり、夢遊状態の女たちをセックス人形にしていたのだ。
 特に好まれていたのは、輪姦と獣姦、本格的なSMプレイだとか。
 普通の女なら、絶対に承知しないことだ。そのために、わざわざ大型犬を飼った男たちもいるという。
 客たちの家から、大量の記録映像が発見された。その中には、わたしの姿もあった。
 支局長も課長も見るなと言ったけれど、わたしは知る権利を主張して、それを見た。それから、見なければよかったと思った。まさか、あんな真似をさせられていたなんて。
 この屈辱の記憶は、一生消えない。
 何をしていても、不意に甦っては、心を真っ暗に塗り潰す。
 よくも。よくも。よくも。
 その記録を見たのは、ごく一部の担当者だけで、必要な書類を作成した後、映像そのものは抹消されたというけれど、それでも、あんな惨めな姿を人に見られたなんて。
 狂いそうな気持ちを何とか安定させるため、わたしは厚手の画紙に怒りの色を塗りたくっていた。
 赤、緑、黄色、黒、オレンジ、群青。
 毒々しい組み合わせの色を目一杯叩きつけると、ほんの少し、気分がましになる。何枚か溜まったら、庭で火にくべて焼き尽くす。
 被害者はわたしだけではない。それはわかっている。事実が明るみに出てよかった。これでもう、新たな被害者が生まれなくて済む。
 それでもなお、わたしは救われない。
 いつか時間が経てば、楽になれるの。
 それとも一生、この怒りと呪いは消えないの。
 せめて、精神安定剤がなくても済むようにならないと、現場へは戻れない。
 いいえ、もう二度と、冷静な捜査官には戻れないかも。
 首都で名士と言われていた男たちが、何十人も集まって、罪のない女たちを餌食にしていたのだ。
 他の何億人もの男たちだって、機会がないから紳士でいるだけで、もし、機会を提供されたらどうなるか。
 消えない怒りが、体内で荒れ狂う。
 あいつら全員、片端から射殺してやりたい。
 それでもなお、この胸は晴れないだろう。この世から、全ての男が消えない限り。

5 紅泉

イラスト

 その晩、ベイカー捜査官とワン捜査官のペアから、あたしたちのホテルに連絡が入った。
 ミオ・バーンズの事件が解決した報告をしてくれるのだろうと、軽い気持ちで通話画面の前に座ったが、向こう側の二人は深刻な顔である。
「実は、どうやら、個人的な犯行ではないらしいのです」
 とベイカー捜査官。
「おや」
「休暇中のお二人を巻き込むつもりはないのですが、一応、わかったことだけはお知らせしようと思いまして」
「そう、ありがとう。ちょっと待ってね」
 あたしは、同じ居間にいた従姉妹を手招きした。
 店から届いた着物を試しに着ていた探春は、赤紫の地に白い梅の花模様の着物を仮紐でまとったまま、画面の前に来る。華やかな姿に、捜査官たちはやや驚いたようだが、すぐに顔を引き締めた。
「最初は、酒か薬でバーンズ嬢の抵抗を封じたと思っていたのですが、それだけではありませんでした。以前から、深層暗示がかけてあったんです」
「へえ?」
 と、いうことは。
「キーワードを聞かされると、暗示が表面化して、正常な思考力を失う仕組みです。相手の男を、前からの恋人と思い込む仕掛けなんですね。彼女は繁華街を歩いているうち、犯人の男にそのキーワードを聞かされて、朦朧状態でホテルに連れ込まれたようです」
 あたしと探春は、ちらと視線を合わせた。
「それじゃ、黒幕は違法組織だな。他にもまだ、被害者がたくさんいるってわけだ」
 そういう精神操作の技術を持っているのは、中央では一部の専門家だけだが、辺境では当たり前の技術。
 また、違法組織は、ネットを通じて市民に接触し、誘惑したり、暗示をかけたりして手下に仕立てる。
 犯罪の実行犯を逮捕しても、黒幕は数千光年の彼方というのも、よくあることだ。
「ま、それはこれからですね。現在、捜査本部が設置されまして、人員が増えましたが、我々は引き続き、この件を担当します」
「バーンズ嬢に乱暴した男たちの尋問で、キーワードを売った仕掛け人の名前が出ましたので。いま、別のペアが逮捕に向かっています」
「何者なの」
「マレーネ・ファンフリート、三十二歳。バーンズ嬢と同じモデルクラブに所属しています。彼女を尋問すれば、おそらく共犯か黒幕の名前が出てくるでしょう。女一人でできることではありませんから」
 そうか、あの子、モデルだったのか。道理で可愛かった。大きな黒い瞳に、さくらんぼみたいな唇をして。
 帽子で顔を隠していなかったら、男たちがみんな振り返ったことだろう。
 いや、だからこそ商品≠ノされたのだ。
 ああいう子を自由にできるのだったら、大金を払う男たちがいくらでもいるのだろう。
「客から要望があった時、ちょうど使える娘≠差し出すのが、ファンフリートの役だったそうです。前回の利用から間もない娘とか、生理中の娘は避けて。条件の揃った娘がいない時には、可能になるまで客を待たせたとか」
 とベイカー捜査官。ワン捜査官が、付け加えて言う。
「生理中の娘を希望する客も、いたようですけど」
 あーあ、また探春が暗くなるよ。
 客たちもまた、決して焦ってはならないことを知っていたはずである。被害者のうち、誰か一人でも疑惑を持ち、病院か警察か司法局に訴えたら、それで潰えてしまう危うい商売。
 そんなことで人生を棒に振るなんて、金を払った男たちは、愚かとしか言いようがない。
「発覚してよかったね」
 と、あたしは言った。
 男たちにとって、昔は娼婦という最後の救い≠ェあったが、この現代、豊かになった市民社会には、もはや身を売ることを商売にする女は存在しない。
 おおかたの男は、冷や汗をかいて、正面から女を口説く。
 さもなければ、こっそり船を出して辺境の違法都市に行き、バイオロイドの女を買う。
 どちらもいやだという面倒臭がりの馬鹿が、こういうことをしでかすのだろう。バイオロイドを買うというのも、十分に卑劣な行為だが。
 ワン捜査官が、続けて話す。
「他星系で最近、同様の事件があったのをご存じですか? 被害者保護のため、公式発表されてはいないので、わたしたちも、今日、関連を考え始めたところですが」
「いや、知らないな、説明してくれる?」
「《テンシャン》の惑星首都にあるモデルクラブが、やはり組織売春に巻き込まれていたんです」
 そこに所属するモデルたちの何割かが(被害者のほとんどは女性だが、数人は男性もいたという)、知らないうちに催眠暗示をかけられ、商品≠ノされていたのだという。
「キーワードを聞かされると、一時的に、強い酩酊状態というか、多幸状態に陥るらしいです」
「ハイになるわけか」
「その時は、相手を恋人だと思っているから、楽しく過ごす。ま、相手が一人なら、ですが。たとえ数人がかりで何かされても、正常な判断力がなくなっているから、ほとんど抵抗できない。そして、翌朝には記憶が消えているように、酔わせた上で薬を飲ませておく。あるいは注射する」
「なるほどね」
 目覚めた時は、自分がなぜ、見知らぬ部屋にいるのかわからない。ただ、肉体的な快楽の余韻と、二日酔いの症状だけが残っている。
 それで当然、深酒の上のあやまち、と思い込む。
 本人が自分の過失と思えば、事件にはならない。
 それが発覚したのは、偶然、餌食にされた一人が、薬物疑惑を追って潜入中の捜査官だったからだという。
「まあ」
 と探春は眉を曇らせた。確かに気の毒な話だが、あたしが気にしたのは、横にいる探春の方である。あとでまた、何かして笑わせなくては。
「捜査官と知らず楽しんだ£jたちも、共犯のモデルクラブのマネージャーも、技術協力していた医師も逮捕されましたが、みな主犯ではありませんでした。他の客たちも残らず逮捕されましたが、捜査はそこで行き止まりです」
 そうか。
「《テンシャン》での組織作りの中心になった男は、そういう商売を始めるように、どこかの誰かから命じられていたんです。彼らの稼ぎの大部分は、その黒幕に吸い上げられて、辺境のどこかへ消えています」
 むろん、客たちが正規の端末を通して、金を払ったわけではない。それぞれ、価値のある何かを差し出したのだ。
 たとえば、家宝の美術品。後にそっくりの複製品を置いておけば、家族には悟られない。
 また、自分の管理する部署の極秘情報。
 あるいは、政府機関の重要人物の弱み。
 それぞれが違法組織を通じて換金され、裏の口座に入る。そうなったら、軍にも司法局にも手の出しようがない。辺境の決済機構《プラチナム》は、違法組織を束ねる連合≠ェ運営しているのだ。
「その黒幕は、おそらく、辺境のどこかにいる違法組織の幹部でしょう。こういうネット経由の汚染は、とても防ぎきれません」
 表の世界の通信ネットワークと、裏の世界のネットは、あちこちで不法につながっている。相互乗り入れは簡単なこと。
 むろん、軍も司法局も違法アクセスを取り締まろうとしているが、限度がある。
 なぜならば、市民社会の何億人という男たちが、辺境で作られる違法ポルノを、繰り返し欲しがるからだ。ダミー企業から普通の品物を買ったことにすれば、支払いは可能である。
 一度で懲りる者もいるが、何十年も愛好する者も多い。彼らをいちいち逮捕していたら、社会が麻痺してしまう。
 それに、千人のうち九百九十九人までは、お望みのポルノを手に入れるだけで済む。
 ただ、不運な一人は網にかかる。
 たまたま大企業の重要部署にいたり、有望な軍人や科学者だったり、あるいは親戚に重要人物がいたりすると、脅迫されたり、誘惑されたり、洗脳されたりして、手先にされてしまう。
 そして、組織の命じるままにスパイ活動をしたり、暗殺や誘拐に加担したり、他の手先を助けたりして、泥沼にはまる。やがては逮捕されるか、市民社会から脱出するか、という羽目になる。
「事件は迷宮入りか」
「でも、もしも、このバーンズ嬢の事件と共通の黒幕がいれば、こちらから突破口が開けるかもしれません。手口が似通っていますから」
 と意気込んだベイカー捜査官。
「もちろん、捜査は非公開で、被害者の保護はこっそりやります」
 と言うのは、クールなワン捜査官。
 当然だ。
 世間の噂になったりしたら、被害者たちが救われない。
「本当は、そういう細工のできる医師や技術者に、もっと厳重な抜き打ち審査をかけるといいんだけどね」
 と、あたし。市民の通話履歴や行動履歴も、もっと長期間保存した方がいい。
「ぼくもそう思いますが、規制強化というと、すぐに人権侵害の大合唱ですからね。そういう法案が議会を通過するには、まだ何十年もかかるでしょう。ぼくには娘がいるので、できれば、娘の世代が犠牲になる前に、法律改正してほしいですけどね」
 ベイカー捜査官は、血色のいい丸顔で真剣に言う。政治家にも違法組織の誘惑や洗脳が及んでいるから、先進的な議案は、しばしば葬られてしまう。盟友のミギワが、どれだけ悔しがっていることか。
「お嬢さんがいるの。それは楽しみだね」
 と、あたしは微笑んだ。きっと支局のデスクには、妻と娘の写真が飾ってあるのだろう。
「いやあ、もう、こういう事件があると心配で。女の子は楽しみも大きいですが、心配もひとしおです。妻に似て、とっても可愛いもんですから」
 隣で理知的な美人のワン捜査官が、この親ばか、という顔をしている。
 いいではないか。
 妻と娘にべた惚れなんて、男の幸福ここに極まれり、だ。
「違法アクセスをしなければ、違法組織に付け込まれることもないんですけどね」
 とワン捜査官は軽蔑したように言う。
 確かに、市民社会の男たちが、上品な合法ポルノで満足すれば、違法アクセスは大幅に減る。
 しかし、過激な違法ポルノを買いたがる奴が、うんざりするほどいるのだ。強姦もの、獣姦もの、調教もの、幼い子供を使ったもの。
 あたしが違法都市での少女時代に、幾度も現場を目撃したように、本物の拷問や殺戮を撮影したものも多い。たくさんのバイオロイドたちが、そういう撮影で殺されていく。
 せめて、アニメや合成画像にしておいてくれればいいのに。それでは刺激が足りない、というわけ。
 欲望に訴えるビジネスは滅びない。違法組織の側では、中央の市民たちをあらゆる餌で誘惑する。
『違法都市へ来れば、不老不死の技術はお望み次第。注射と投薬だけで、老化は大幅に防げるのです』
『あなたのクローン体に、脳移植をしませんか。あらかじめ不老処置を施しておけば、向こう三百年は若さを保てます』
『誰にも知られず、幼い少女の魅惑的な写真集があなたのお手元に』
『この口座に入金していただければ、毎月、刺激的な新作映画をお届けします』
 あるいは、違法組織が正規の旅行会社や船会社と組んで、極秘の買春ツアーを仕立てることもある。たまに当局が手入れして逮捕者が出ると、世間では名士として通っている家族持ちの男たちがぞろぞろ客になっているので、笑えるというか、情けないというか。
 いや、スケベなのは一向に構わない。それが、男の存在理由だから。
 女を追い回して口説き倒し、妊娠させる。それが、彼らの生物学的使命である。
 残念ながら、あたしの所には、全然、そういう使命感に燃える奴が回って来ないが。
 ただ、自分のスケベを自分で恥じることができるのが、文明人というものではないか。
「《テンシャン》では黒星でしたが、こちらで黒幕に行き着けたらと思います。ではまた、捜査が進展しましたら、ご報告しますので」
 若い捜査官ペアは、丁重に言って通話を終えた。あたしたちを、本部所属のエリート捜査官と信じている。
 あたしは従姉妹を振り向いて、両手を伸ばした。
「さて、一緒にお風呂に入ろうか」
 すると、曇っていた顔が、いくらか明るくなる。
「そうね」
 あたしはすかさず、着物に仮紐という躰を横抱きに抱え上げた。小さな子供のように、ぐるぐる振り回す。
「いやっ、やめて、目が回る」
「いいでしょ、遊園地だと思って。ほーら、自由落下」
 探春を天井近くまで放り上げ、落ちてきたところをキャッチする。もちろん、怪我などさせない。一族の末っ子のダイナは、これが大好きだったものだ。しかし探春には、やや向いていないとわかっている。
「いや、やめてえ」
 と本気に近い悲鳴。本気七割、甘え三割だな。
「大丈夫、落とさないから」
「だめっ、着物が破れるわ、もうだめっ」
「よしよし。じゃあ、裸にしてから放り投げてやろう。それならいい?」
「もうっ、紅泉たら。あなたの食べ物に、唐辛子仕込むわよ」
 探春がようやく笑ってくれたので、騎士としては一安心。
 あとは、お風呂で全身を洗ってやればいい。耳の後ろから足の指先まで、時間をかけて。そういうスキンシップをすると、目に見えてご機嫌がよくなるのだ。
 もちろんあたしには、女同士でいちゃつく趣味はない。
 どうせなら、たくましい男性に抱き上げてほしい。まあ、それはもう九割がた、あきらめた夢だけど。
 だって、あたしの王子さまになってくれるはずだったミカエルは、大人になることを拒んで、少年の肉体に閉じこもってしまったのだもの。

 違法都市《ティルス》で育った十代の後半、あたしはライダースーツを着てヘルメットをかぶり、大型バイクで街を探険して回るようになっていた。
 かつて、年上の従兄弟のシヴァがそうしていたように。
 彼にできたことなら、あたしにもできないはずがない。
 子供の頃は、ほとんど対等に取っ組み合って(いや、向こうが手加減してくれたのはわかっている)遊んでいたのだから。
 そうして、森林公園の奥や、広い公共の緑地のあちこちで、放置された死体を幾度も見つけた。
 乳房を切り取られ、膣に木の枝を突き立てられた、若い女の死体。先の尖った枝は、内臓まで突き破っていた。
 首にきつく縄を巻かれたまま、湖に浮いていた子供の死体。顔は紫に変色してふくれ上がり、全身に打撲の跡が残っていた。
 木の枝から逆さ吊りにされたままの、少女の死体。鞭の跡が縦横に残り、腹を裂かれ、前歯をへし折られていた。
 そのまま放っておいても、都市の清掃部隊に回収され、他の有機ごみと一緒に、溶解処分か焼却処分にされる。
 誰も騒がないし、弔ってもやらない。
 あたしは屋敷の護衛兵に命じて、それらの死体を回収し、花を添えて布でくるみ、森の地面に埋めさせた。
 いちいち、探春を呼んで見せたりしない。あの子はまた食欲が失せ、眠れなくなってしまうだろう。
 やがて、それらは、SM映画の撮影や、人間の男たちの気晴らしに使われた、バイオロイドの死体だと知るようになった。
 人間の遺伝子を元に、工場で大量培養される、奴隷種族。
 安く手に入るものだから、簡単に使い捨てるのだ。
 被害者は女子供だけではなく、男のバイオロイド兵士たちもそうだが(彼らは五年の生存期限が来ると、新米兵士たちの射撃訓練の的にされたり、人体実験に回されたりする)、しかし彼らには、同胞の女たちに対して加害者になる側面がある。短い人生の気晴らしに、無抵抗な女たちを餌食にするのだ。
 同じ奴隷階級でも、男奴隷より女奴隷の方が逃げ場がない。
『なぜ? どうして、こんなことをするの?』
 少女時代のあたしは、その疑問を麗香れいか姉さまにぶつけた。
 一族の大人たちの中で、一番あたしを理解してくれた人。
 そもそも、一族の新たな世代は、姉さまが遺伝子設計をして誕生させるのだ。元になった細胞は両親からもらったものだが、そこに最新の強化を施すのは姉さまの仕事。いや、趣味かもしれない。
『人間というのは、そういうものなのよ。強い相手には媚びて、弱い者には暴力を振るうの。ずっと昔から、繰り返されてきたことよ。いつか、それがやめられる時が来るといいのだけれど』
『でも、姉さまは、そんなことしないでしょ。あたしもしないよ』
『ええ、それはね、わたしたちが女だから。男というのは、また別の種族なのよ』
 やがて、獲物が脅えて逃げ回るから面白いのだ、それを狩るのが人間の男の快感なのだ、とわかってきた。
 それはまた、あたし自身が、そういう男たちを狩り始めてから、自分の身で理解するようになったこと。
 森や野原で行われる兎狩り≠見かけると、あたしはそこへ分け入って妨害し、部下を引き連れた男たちを、石飛礫や超切断糸でなぎ倒して回るようになった。そして、傷だらけの兎たちを救助する。

 ――あんたたちは、自分より弱いものを狩るのが楽しみなんでしょ。それじゃ、このあたしがあんたたちを狩っても、文句はないわよね。

 殺す者は、いずれ誰かに殺される。
 それが、この世界の仕組み。
 あたしもたぶん、いつかはそうなるだろうが、その時までは、精々、『悪党の前に舞い降りる死神』でいてやろうではないか。
 あたしのそういう行動に、ヴェーラお祖母さまは渋い顔だったが、最長老である麗香姉さまが、
「あの子には、必要な修行です」
 と認めてくれた。
 一族の元になった科学者集団の地球脱出を導いた最長老の言葉では、現役世代の総帥であるお祖母さまも逆らえない。
 お祖母さまより年上なのに、姉さまという敬称で呼ぶのは、彼女が自分では子供を生んでいないから。
 一族の繁栄と、不老の研究に人生を捧げた女性なのだ。
 おかげで本人も、とうに三百歳を越えていながら、まだ若く美しい。
 しかし辺境というのは、基本的に男の世界≠ナある。
 保守的な市民社会から脱出してきた男たちが、柔順なバイオロイドの美女たちを侍らせ、権力闘争と不老処置を繰り返し、男の天国を追求するところ。
 強い者が意志を通し、弱い者には何も残らない。
『でもね、いつまでも、それでいいはずがありません』
 と麗香姉さまは言う。
『わたしはね、紅泉、あなたに期待しているの。女であるあなたには、男たちと違う戦い方ができるはずです』
 彼女はあたしを理想の戦士≠ニしてこの世に送り出した。
 それならば、あたしは、自分の心の命じるままに戦っていいはずだ。
 使い捨てられるバイオロイドたちを救うことは、十代のあたしには、ちょうどいい修行となった。
 彼らは、人間の命令には逆らえない、逃げて行く場所もない、と思い込まされているだけ。
 あたしは虐殺から救ったバイオロイドたちを、一族の持つ空きビルや小惑星工場に住まわせた。そして、勉強させ、自立して生きていく知恵をつけさせた。
 もっとも、あたしは戦う方が忙しかったので、実際の細かい世話や教育は、きまじめな従兄弟のシレールに押しつけてしまったが。
 やがて、
『この街には、若い女の姿をした死神がいる』
 という噂が流れた。
 兎狩り≠する者は絶え、SM映画の撮影隊も他都市へ逃げた。
 街で遊ぶ男たちが、びくびく周囲を見渡すようになったものである。流しの娼婦など買っていたら、いつ何時、死神に目をつけられるかと。
 そんなざまでは、繁華街の売り上げも落ちる。
 おかげであたしは、一族の大人たちから、ほとぼりを冷ましてこいと言われ、故郷である《ティルス》を追い出された。うちの一族が、流浪の果てに建設した小惑星都市を。
 しかし、既にたっぷり自信をつけていたあたしには、別段、痛くも痒くもなかった。
 麗香姉さまにも、
『世間を見てくるのは、いいことだわ』
 と言われ、予備艦隊を分けてもらったので、
(よっしゃ。武者修行の旅だ)
 と意気揚々、辺境の宇宙に乗り出したのである。
 ただし、《ティルス》にいる限り、あたしは一族の財力に守られていたので、その時まで、生活するのに金が必要だということが、わかっていなかった。
 食料や日用品はともかく、核ミサイルや反物質機雷や強襲艇は安くない。
『一回戦闘をしたら、武器弾薬を補給しなくてはいけないのよ。何週間もかけて一族の工場に戻るのでない限り、他組織の工場から買うことになるわ』
 付いてきてくれた探春に言われて、初めて、金を稼ぐことを真剣に考えだしたのだ。
 あたしって、戦う以外に、何か才能ある?
 押しかけ用心棒でもしようか?
 それとも海賊?
 幸い、長く悩むことはなかった。別の違法都市でたまたま、任務中の捜査官を助けたのだ。
 おかげで、司法局のお抱えハンターとしてデビューすることができた。
 そして、どうやらこれが天職らしい。
 ハンターというのは、法に縛られる正規の捜査官にはできない戦いを引き受ける陰の番犬≠ナある。
 辺境には、大小合わせて百万と言われる違法組織が繁栄しているが、違法組織同士で争う分には構わないというのが、二百億以上の市民を擁する惑星連邦の基本姿勢。
『悪党同士が殺し合って数を減らすなら、好都合』
 なのだ。
 ただし、市民社会に手出ししてきた組織については、あたしのようなハンターをぶつけて叩かせる。
 危険な稼業なので、元々、そうたくさんのハンターはいなかった。
 あたしたちが実績を上げるにつれ、他のハンターたちは次々に引退していったので、現在では、ハンターといえば、ほとんどあたしたちのこと。
 コード名リリス≠ニいえば、子供でも知っている有名人だ。
 その英雄を陰で支えるのは、故郷の一族であり、三つの違法都市を所有する伝統ある違法組織≠ネのだが。
 繊細な探春にとっては、『力が掟』の違法都市で暮らすより、命が尊重される市民社会で過ごす方がいいのだ。そして、騎士であるあたしの横にいる方が。

 探春は茶色い髪をゆるい三つ編みにすると、スリップドレスのような寝間着一枚で、あたしの横に潜り込んできた。
 甘い薔薇の香りがするのは、さっき使った入浴剤である。だから、あたしも同じ香りがする。
 あたしも枕を具合よく整えて、明かりを落とした。薄い上掛けの下で、左腕にするりと細い腕が巻きついてくる。
 控えめな胸のふくらみが、腕に押しつけられた。タンクトップの肩には、なめらかな頬がすり寄せられている。
 寝室が二つある続き部屋に泊まっているのだが(有機体アンドロイドである秘書のナギは、控室の簡易ベッドにいる)、今夜はあたしの横がいいと言うもので。
 今日の事件のことで、まだ憂鬱なのだろう。
 あのミオという娘、可哀想に。辺境でなら、すぐさま犯人たちを射殺してやるところだけれど、ここは中央だから、法律に任せるしかない。
「あの子、探春みたいに、男嫌いにならないといいけどな」
 と言ったら、澄ました返事。
「それが、正常な状態よ。男なんて、女を餌食にすることしか考えていないんだから」
 そういうもんじゃない、と思うけどなあ。
「男の方が、女よりロマンチストじゃない?」
 と弁護した。
 女は現実的だが、男は夢想的。だから、大発明や大発見ができる。
 しかし、探春は手厳しい。
「英雄になって、女たちにちやほやされたいだけよ。それを、男のロマンと呼んでいるだけ」
 やれやれ。
「明日は、遊園地にでも行こうか。骨董屋ばかりで、頭の中がカビてきそうだから」
 と笑うと、探春も微笑む様子。
「連れ回して、ごめんなさい。でも、おかげで、お祖母さまの誕生祝いに、ちょうどいいお皿が見つかったし……」
「あたしがさんざん割った皿のことを、少しでも許してくれるといいけどね」
「あれは、いいのよ。金継ぎをして使っているのだから」
「だったら、ねちねち怒らないで欲しかったよ」
「仕方ないわ。本当に、地球時代の貴重品なんですもの」
 と、くすくす笑い。
「ねえ、もう一日だけ、美術館に付き合ってくれない? 明日は、『地球時代の女流画家展』の最終日だから。どうしても、本物を見ておきたいの」
 超A級、またはA級の名品は地球から持ち出し不可だが(他星にあるダ・ヴィンチや北斎やルノアールは、全て精密な複製品)、B級以下の収蔵品なら、厳重な警備の元で他惑星に貸し出される。しかし、その中にも、いい作品がたくさんあるという。
 あたしにすれば、どうせ肉眼では区別がつかないのだから、本物だろうが複製品だろうが、同じことだと思うのだが。
「わかった。じゃ、遊園地はまたにしよう」
 いい年をして何だが、あたしは遊園地が大好きなのだ。
 辺境の違法都市には、年齢不詳の成人男女が護衛兵を連れて歩いているだけで、遊園地もなければ動物園もない。幼稚園もなければ、学校もない。
 あるのはただ、武器や快楽を売る店ばかり。
 油断した者は、命も財産も奪われる。
 そういう無法の荒野で育ったあたしは、中央の市民社会の呑気さが大好きなのである。
 子供の頃、中央製の明るい映画を見て、どれほど学校や遊園地や、植民記念祭のパレードに憧れたか。
 自分が野蛮な辺境に生まれたことを、どれほど悔しく思ったことか。
 しかし、だからといって、自分の生まれを不幸だとは思っていない。
 それどころか、この肉体は天の恵みだ。
 また、辺境の違法組織が全て、悪の組織というわけでもない。
 遺伝子操作や生体改造の研究を通して、不老不死を目指したいという動機で生まれた組織が多いのだ。それが、他組織に張り合うために、徐々に凶悪化していくという傾向はあるにしても。
 惑星連邦がそういう研究に強い規制をかけているため、野心的な科学者たちが、毎年、辺境に流れ出していく、というのが現実。若返りの技術を求めて、違法都市を訪ねる老人も少なくない。
 長期的には、惑星連邦が規制をゆるめることで、辺境と融和していくしかないだろう。
 また、違法組織の側も、市民に憎まれるような極悪非道は控えることだ。市民の誘拐だの、バイオロイドの虐待だの、目障りな政治家の暗殺だのしなければ、あたしに狙われることもないのだから。
 あたしの腕に回している腕から、力が抜けていた。探春はもう、すやすや眠っている。
 もうちょっとしたら、腕を抜いてもいいだろう。このままでは寝返りが打てないので、あたしが辛いのだ。すがりつかれて眠るのは、たまのことだから、構わないのだが。
 男を受け付けない探春にとって、あたしは姉妹であり、親友であり、おそらくは恋人にも等しい存在。
 両親が二度と戻らない旅に出る時でさえ、探春はためらわず、あたしの元に留まった。
 あたしもまた、自分がまだ探検し尽くしていない人間世界を離れる気はしなかったから、《ティルス》に留まり、両親の出立を見送った。
 彼らは遠く離れた別の銀河を目指したから、もう二度と、人類の本体と接触することはないだろう。
 残ったあたしはずっと、それこそ半日と離れずに、探春と暮らしてきている。たまには多少、離れた方が、健康ではないかと思うくらい。
 まあ、明日は目一杯笑わせて、楽しませよう。
 次の任務が来れば、休暇はそこで終わりになるのだから。

6 ミオ

 五日間、入院した。タケルには、郊外での泊まりの仕事だと連絡しておいて。
 退院する時には、一日おきの通院を約束させられた。予定の日時に来なければ、強制的に再入院だと脅かされたから、仕方ない。
 どうせ、気休めなのに。
 わたしが発作的に自殺しないか、それが心配なんでしょう?
 死なないわ。こんなことで。
 そんなことをしたら、あいつらに負けたことになるんだもの。

 専門家チームの元で治療を受けているうち、段々と、事件当日の記憶が甦ってきた。
 お酒と薬物で記憶が封じられたとはいえ、意識的に思い出すことが難しくなっただけで、無意識の領域に残った記憶もあるらしい。
 それが、心理治療によって、浮上してくる場合もあるという。
 ただし、その内容をこちらが選択することはできない。あれは思い出してもいいけれど、これはだめ、と選べるものではないのだ。

 わたしはあの午後、年上の友人であるマレーネ・ファンフリートに呼び出されて、繁華街のカフェに出向いたのだった。
 長いまっすぐな黒髪を肩に垂らしたしたマレーネは、デザイナー物の白いツーピースを着て、相変わらず完璧に美しかった。問題ありのマザコン男性でなくても、どんな相手だって選べるはず、と思ったものだ。
 二時間ほどしゃべってマレーネと別れた後、わたしはそのまま街をぶらついた。収入はほとんど貯金に回しているので、決して贅沢はしていないないけれど、目の保養くらいはしなくては。
 たまたま通りかかった店に、秋冬物の帽子が飾られていたので、ウィンドウに吸い寄せられた。
 枯れた蔓草を編んだような本体に、紫と若緑の葡萄の房がついている、すてきな一点物。いま着ている、薄紫のワンピースにぴったり。
 どうしよう、と悩んだことを思い出した。既に先週、白い毛皮の帽子を買ってしまった後だったから。
 ――これを買って帰ったら、またタケルに言われてしまうわ。姉さん、頭は一つしかないんだよ。帽子ばっかり、なぜそんなに必要なのさ。
 それでも、帽子を買って店から出た時。
 知らない男性に、声をかけられた。はっきり覚えていないけれど、たぶん、道を尋ねられたのだと思う。
 ワン・レイ捜査官が説明してくれた。マレーネがその男性からの希望を受けて、わたしを『見せた』のだ。この子でどうか、と。
 その男性が、わたしにキーワードを言ったらしい。
『迷子の子猫ちゃん。帰っておいで。きみの家はこっちだよ』
 だなんて、馬鹿げた台詞。
 でも、それを聞かされた途端、わたしは正常な意識を失い、ただの操り人形になってしまったのだ。
 あらかじめ、マレーネが、わたしたちモデル仲間に植え込んでおいたものだという。
 ワン捜査官の話では、仲良しグループのみんなでマレーネの部屋に集まって、女だけの宴会をした時のこと。
 わたしたちは全員、ほどよく酔ったところで薬を盛られ、そのまま雑魚寝してしまったらしい。
 その後で一人ずつ催眠用ヘルメットをかぶせられ、マレーネと共犯の男性医師に、深層暗示を仕込まれたのだという。
 キーワードを聞かされてから、わたしは夢見心地のまま、ふらふらホテルについて行ったらしい。
 その男は、自分が楽しむだけでは飽き足らず、仲間を呼んで、総勢五人でわたしを玩具にしたというのだ。おまけに、一部始終を撮影して、それぞれ記念に持ち帰ったのだと。
 前に三度、同じ目に遭ったことも確認された。その時、わたしを買った男たちも全員逮捕され、証拠の映像記録が押収されたのだ。
『それを見せてください。全部』
 わたしはワン捜査官とベイカー捜査官に頼んだ。
『見ない方がいい、後悔するから』
 と言われたけれど、他でもない、このわたしの身に起こったことだもの。知らなくては、正しく怒ることもできないでしょう。
 けれど、中身は想像以上にひどいものだった。翌朝、全身がきしんでいたのも無理はない。
 辺境で作られる違法ポルノは、もっとひどいというけれど。
 しばらく、溶岩のような怒りがおさまらなかった。
 世間では『立派な紳士』で通っている男たちが、よくもこんな下劣なことを。自分の妻や恋人には絶対要求できないことを、ここぞとばかり試したのだ。どうせ翌日になれば、記憶は消えているからと安心して。
 見なければよかった、とも思った。これから一生、思い出しては頭をかきむしるだろう。
 でも、見ないでは済ませられなかったのも事実。
 病院で精神安定剤を処方され、それをずっと飲んでいる。心に一枚、膜がかかったようになって、怒りや悲しみが和らぐのだという。そうしてしのいでいるうちに時間が経ち、自然に落ち着いてくるそうだ。
 それでも、心の底に、苦い澱のようなものが沈んでいく。その沈殿が、毎日、深くなっていく。
 結局、こういうことになるのね。
 いくら自分で自分の誇りを守ろうとしていても、男たちは、わたしを人形のようにしか見ないのよ。
 自分で鏡を見てもわかる通り、わたしは可愛い。
 少女時代から、ラブレター、交際の申し込みが山のように舞い込んだ。
 学校の帰り、しばしば待ち伏せされて、プレゼントを渡されたり、パーティや音楽会やドライブに誘われたり。
 だからこそ、母や祖母、伯母や年上の従姉妹たちからは、繰り返し戒められてきた。
 外見でちやほやするような男たちに、付け込まれてはいけません。
 その警告は正しかった。
 思春期に入ると、わたしはすぐさま思い知った。男というのは、目立つ女を連れ歩いて自慢したがる、幼稚で愚劣な生き物だということを。
 彼らは仲間内で、誰がわたしを『モノにするか』競争しあっているのだ。わたしはモノではないというのに!!
 大学時代に付き合った何人かとも、わたしは、本当の恋人同士にはなれなかったと思う。こちらから別れを告げて、彼らの空威張り、独占欲、そういうものから解放されるとほっとした。
 わたしはもう、男なんか要らない。
 それよりも、もっと他に欲しいものがある。
 小さい頃、毎年のように夏を過ごした祖父母の地所が、わたしの桃源郷だった。
 野菜畑の向こうに広い牧草地があり、山地の雪解け水を集めた美しい小川が流れ、牛や豚、羊や鶏が放し飼いになっている。
 必要な時は、賢い牧羊犬が動物たちを集めて回る。
 丸っこい作業ロボットが何体も、柵や飼料小屋の修理をしている。
 毎朝、草むらの中から、生みたての卵を拾い集めて歩いた。
 自家製のベーコンと合わせて、本物のベーコンエッグを作る。
 パンくずは庭に撒く。小鳥たちが舞い降りてくる。明るいテラスから、それを見るのが楽しみ。
 ただ、衣料品会社が本業の祖父母にとっては、趣味的な農園にすぎなかった。事業でまとまった資金が必要になって、その土地を若い夫婦に売ってしまった時は、どれほど悲しかったか。
 農園は続けるから、遊びに来ていいと彼らに言われたけれど、もう、わたしの天下ではないのだもの。
 いつか、あの桃源郷を取り戻したい。
 いったん売られた土地を買い戻すのは無理でも、他の土地はたくさんあるのだから。わたしは、わたしの夢の農場を作ればいい……

 モデル稼業は、そのための資金作りだった。
 長く続けるのは難しい仕事だけれど、売れるうちに、うんと稼いでおけばいいのだから。
 でも、こんなことになっては、二度とカメラの前で微笑んだりできない。自分の容姿を売り物にするような仕事をしていたから、目をつけられたのよ。
 だけど、まさかマレーネが、売春組織の中心人物だったなんて。
 わかっているわ。
 どうせ、不老不死が欲しかったんでしょう。
 短期間に荒稼ぎして、捕まらないうちに高飛びすれば、辺境の違法都市で不老の技術が買えるから。
 でも、そんなの馬鹿げている。
 たとえ不老の肉体を手に入れたとしても、違法組織同士の抗争の中、生き残れるのは、ほんの一握りというじゃないの。
 マレーネに誘惑されて、共犯になったという医師も馬鹿だわ。
 そんな誘いを受けて、大金を払う男たちも大馬鹿よ。それぞれ、家庭があったり、恋人がいたりする男たちだというのだから。
 離婚されて当然だわ。仕事を失い、子供に軽蔑されて、何年も刑務所で苦しむといいのよ……

 わたしは自宅の庭で、木陰のテーブルに座り、インテリア雑誌を眺めていた。いえ、眺めるふりをしていた。
 秋の明るい日差しが、緑の濃い庭一杯に差している。風は涼しいけれど、紅葉や落葉にはまだ早くて、外出には最適の季節。
 でも、病院以外、どこへ出掛けるつもりもなかった。
 モデルクラブにも、体調が悪いのでしばらく休むという、表向きの連絡を入れてある。
 どのみち、社長も事件のショックで倒れたらしい。
 事件はまだ公表されていず、何も知らないモデルや職員たちは仕事を続けているけれど、わたし同様、売り物にされていたモデルたちは、別個に内密の治療を受けているとか。
 首都の外れにある司法局の付属病院には、深層暗示や洗脳に対応する専門家たちがいる。患者が他の患者と出くわさないよう、受付にも工夫がこらされている。これまで、そんな施設があることさえ、わたしは知らなかった。
 両親が他星の祖父母の元へ旅行中だったのが、不幸中の幸い。
 精神安定剤にも、それほどの効果があるとは思えない。思い出す度に、怒りと悔しさで、胸の中がぐちゃぐちゃになる。
 というより、忘れようとしても、ほとんど一日中、彼らにされたことが、頭の中から消えてくれないのだ。
 なまじ治療を受け、記録映像を見たおかげ。
 撮影された映像は、彼らのコレクションになるだけでなく、本物≠ニいうお墨付きで、マニアの間に高値で流れていたという。
 それももちろん、当局に把握される口座を経由するのではなく、希覯本や骨董品のコレクション、古い金貨などで支払われるとか。
 この宇宙時代に、再び物々交換に戻るなんて、おかしな話。
 マレーネの逮捕で、客たちのリストが押収され、便乗して楽しんだ者たちも、映像を買った者たちも、全て逮捕されたというけれど、あまり慰めにはならない。あれを見た者を、全て殺してくれるのでなければ。
 いったん見てしまった映像の印象は、もう消えないのだ。
 記憶を封じるような治療もないではないけれど、それをすると、どうしても家族や友人に異変を知られてしまい、かえってこじれるから、耐えて時間が過ぎるのを待つのが一番だという。
 でも、何年、何十年、黙って我慢すればいいの?
 いつか、平気で思い出せるようになるの?
 そんなこと、ありえないわ。
 マレーネもまた誰かに利用され、操られていた被害者なのだというけれど、それは元々、不老不死を望む野心がくすぶっていたからだわ。真犯人は、その心の隙に付け込んだのよ。
 マレーネには、二度と会いたくない。
 モデルクラブも、ほとぼりが冷めたら辞める。
 あちこちに愛想笑いを振り撒くような仕事、金輪際する気になれない。ミニスカートになるのも、水着姿になるのもいや。
 他星系の類似事件でも、モデルクラブが舞台になったという。容姿を売り物にする仕事は、やはり、いかがわしいことに結びつきやすいのだ。
 こんな事件がなくても、下劣な誘いはいやというほど受けてきた。うちの製品のイメージモデルとして売り出してやるから、愛人になれというオーナー社長。ヌードになれば、破格のギャラを出すというカメラマン。絶対に他人には見せないから、個人的に特殊な写真を撮影させてくれないか、という話もあった。
 全部断ってきたのに、もっとひどい目に遭うなんて。
 あんな奴ら、全員死刑になればいいのよ。
 惑星連邦には、どうして死刑の制度がないの。
 一番重い刑でも、永久隔離だなんて。そんなの、気楽な別荘暮らしのようなものじゃないの。
 わたしに銃があったら、一人一人、射殺して回るのに。
 暗示はもう解いたから、キーワードを聞かされても、二度と正常な意識を失うことはないと、医師たちには保証された。でも、マレーネを操っていた真犯人は、まだ捕まっていない。
 おそらくは、辺境の違法組織が黒幕だろうというけれど、わからないわ。もしかしたら、そいつは普通の市民に紛れて、そこらを歩いているかもしれない。
 わたしの中にも、まだ知らない暗示が埋め込まれているかもしれない。絶対安全だなんて、誰にも保証はできないはずよ。
 それに、あいつらが刑期を終えて出てきて、そこらでばったり、わたしに会ったら……
 ああ、だめ。
 どこか遠くに行きたい。
 誰もいない山の中とか。絶海の孤島とか。
 でも、この先ずっと、隠れ暮らすわけにもいかないし。
 何より、家族に知られないようにしなくては。こんなことを知ったら、パパもママもどんなに悲しむか……

「姉さん」
 背後から声をかけられて、はっとした。タケルが庭に出てきたのね。
「なあに」
 わたしは笑顔を作り、五つ年下の弟を振り向いた。わたしと同じ、天然のウェーブがかかった黒い髪。黒い瞳。わたしより少し濃い色の肌。
 タケルは子供の頃から、近所でも有名な美少年だった。それがようやく、美青年になりかけたところ。この子はモデルなんかに興味がなくて、幸いよ。
「いい天気だから、ドライブに行かないかって、パーシスが。海辺を走ったら、きっと気持ちいいよ」
 パーシス・ウェインは近所に住む幼なじみで、わたしより三つ年上。大学の博士課程で、生体工学を専攻している。
 褐色の肌に金茶色の髪をした、背の高い理知的なハンサム。
 タケルの恋人でもあった。
 男同士のカップルではあるけれど、少年時代からの仲で、いずれ結婚するものと、周囲にも広く認められている。
 わたし自身は、二人を祝福しながらも、なぜわざわざ男同士で、といくらか納得しきれない面もあった。
 大学生になったばかりのタケルは、まだ少年のような頼りなさを残しているけれど、素直で明るい子。その気になれば、いくらでも女性と交際できるはず。
 でも、当人がきっぱり、女性は恋愛対象にならないと言うのだ。
 ただパーシスの方は、女性とも付き合っていたことがある。どうやら、どちらでもいける、らしい。
 姉としては、二人の味方になってやり、応援するしかなかった。この現代でもまだ、同性同士の組み合わせに、顔をしかめる市民はいるのだから。
 その彼らが、
『姉さん、最近、ずっと元気ないんだ』
『失恋でもしたかな。それとも、仕事の悩みか』
 とひそひそささやき、心配しているのはわかっていた。仕事を休んでいるのだから、言い訳できない。
「わたしはいいわ。二人で行ってらっしゃい」
「でも、そうやって暇にしてるんなら……外に出たら、気分も変わるよ」
 タケルの心遣いは嬉しい。でも、人と一緒にいて、元気なふりをする気力がない。笑うにも、しゃべるにも、相当なエネルギーが要るのだと初めてわかった。
「生理痛なの。お腹痛いのよ」
 と眉をひそめて言うと、さすがにひるんだようで、
「あ、ごめん。それじゃ、ぼくたちだけで行くね」
 とそそくさ、庭先の木戸から外へ出ていく。
 植え込みが邪魔をして姿は見えないけれど、どうやらパーシスが、すぐ前の歩道に車を寄せていたらしい。
「ミオは行かないって?」
 と尋ねる声が聞こえた。タケルが低い声で説明すると、納得したようだ。やがてパーシスの車は、住宅街の静かな道路を走り去る。
 いいわね、あなたたちは幸せで。
 一人になると、また重いため息をついてしまう。
 モデルクラブの一割ほどが、わたしと同じ被害に遭っているらしい。でも、誰がそうなのかは教えてもらえなかった。
 ソルハやルーシェン、ミランダやネルは無事だったかしら。それとも今頃、部屋に閉じ籠もって泣いているかしら。
 どうしよう。通話して、様子をうかがった方がいいのかしら。被害者の会でも結成する?
 だめ、そんなことできない。
 どんな目に遭ったかなんて、担当の医師グループと、ごく少数の司法関係者以外、誰にも知られたくない。
 しばらく、旅行にでも行こうか。パパやママには、失恋だとでも思わせておいて……
 ところが、青空からオレンジが降ってきた。
 まるで狙いすましたように、わたしの飲みかけのグラスを倒し、テーブルから落ちて芝生の上を転がる。
 わたしが驚いて椅子から上体を起こした時、
「きゃー、ごめんなさぁい」
 背の高い生け垣の外から、陽気な声がした。聞き覚えのある、深いアルトの声。
「手が滑っちゃって。誰か怪我しませんでしたか」
 木戸に廻って、気軽く覗きこんできた顔に見覚えがあった。暗色のサングラスをかけた、背の高い女性。
 たくましい肩に、高く盛り上がった胸を見て、階段で助けてもらったことを思い出した。
 長い金褐色の髪を肩に垂らし、青と紫の横縞のシャツに、カーキ色のパンツを合わせている。古代のアマゾネスの扮装をさせ、槍と弓矢を持たせたらたら、ぴったりだろう。
 でも、こんな偶然てあるのかしら。この首都には、五十万人もの市民がいるというのに。
「大丈夫ですけど、あの、あなたはもしかして……」
 向こうも、わたしを覚えていたらしい。サングラスを外して、親しげな笑顔になった。
「おや、いつかの貧血の子か」
 瞳は深いサファイア・ブルーで、正統派の美人顔である。
「もう元気になった? 無理なダイエットなんか、しない方がいいよ」
 榊原先生は守秘義務を守ってくれ、差し障りのない説明で彼女たちを帰らせてくれたのだ。
「あの時は、お世話をかけてすみませんでした」
 と頭を下げて挨拶した。
「貧血と寝不足が重なっていたもので。きちんとお礼も言わず、そのままになってしまって……」
「元気になったんなら、それで十分。ところで、地元の人ならちょうどいい。道を聞きたいんだけど」
「はい? どちらへ?」
「どこでもいいの。ぱーっと遊べるとこ。どこへ遊びに行こうか、迷ってたんだ」
 どこでもいいと言われても。
「あの、それでしたら、観光ガイドをご覧になった方が……」
 そこで彼女は、あっと叫んだ。わたしはびくりとする。
「ごめん! 飲み物を台無しにしたらしいね」
 グラスは芝生に落ちて、ジュースは地面に吸い込まれている。
「あ、いえ、別に……」
「よし、お詫びに何かおごるわ、一緒においで」
「ええっ!?」
 ジュースくらい、台所にいくらでもあるのに。
 気がついた時には手をとられ、外の道路に連れ出され、自動運転のタクシーに押し込められていた。病院へ連れていかれた時と同じ、有無をいわさぬ早業。
「あの、困ります。わたし、外出の支度もしてないのに」
 と抗議しても、
「ああ、そのままで十分可愛いよ」
 といなされてしまう。
 確かに、お気に入りのピンクのワンピースだったけれど、ただの普段着。家は管理システムが留守番をするから、無人で問題はないけれど。
「自己紹介しようか。あたしはサンドラ。サンドラ・グレイ。あなたは確か、えーと、えーと……名前は、聞いてなかったかな」
 濃いサファイア色の瞳でじっとみつめられると、逃げ場がない。
「ミオ‥‥‥ミオ・バーンズです」
「そうだったね、よろしく、ミオ」
 いきなり、ファーストネームで呼ばれてしまった。それでは、こちらもサンドラと呼ぶべきなのかしら。
 ミス・グレイなどと言ったら、気取っていると言われて、背中をばしばし叩かれそうな気がする。
「あの、いま、どこへ向かっているんですか……」
「ちょい待ち。地図を見るから。ふうん、遊園地があるのか。よし、まずはそこ」
 とサンドラは車に命じる。交通管制システムとリンクした無人タクシーは、最適の道路を選んで静かに走る。
「あの、飲み物なら、そこらの喫茶店でも……」
 遊園地は郊外だわ。車で三十分はかかる。そんな遠出はしたくない。
 でも、遠回しの拒絶など、このサンドラには通用しなかった。
「どうせなら、お昼をおごるよ。でも、食事にはまだ早いから、その前に、遊んでお腹を空かせておこう」
 と勝手に決められてしまう。どうやら、いつもこうして、人を巻き込む人らしい。
 でも、この人と連れの女性が、わたしを強引に医療機関へ連れていってくれたから、全てが明らかになったのだ。
 それを思うと、余計なお世話……とは言えない。きっとこの人は、この調子で、あちこちの人に好意の世話焼き≠しているのだわ。
 他にすることもないので、まじまじ、隣の座席のサンドラをみつめた。
 長い金褐色の髪は、光を受けると、黄金を溶かしたような色に輝く。
 耳にはサファイアらしき、宝石のイヤリングをきらめかせている。瞳と同じ、美しい海の色。
 よく見ると、モデルクラブにも滅多にいないような、端正な美人である。それなのに、バンカラな印象が強いのは、態度があまりにも強引だからだろう。
 わたしが脱力している間に、彼女はすらすらしゃべった。この星へは従姉妹と二人、旅行で来ているという。
「あの時、一緒だった方ですか」
 わたしの帽子やバッグを拾ってくれた人だ。サンドラとは対照的に、小柄で静かな人だった気がする。
「そうなんだけど、ヴァイオレットは美術館巡りに行っててね。あたしはそういうの、興味ないからパスしたの」
 そうでしょうね。
「今日は久々に、パーッといきたいわ。何日も骨董屋巡りに付き合わされて、頭の中にカビが生えそう」
 従姉妹のヴァイオレットという女性は、渋い好みらしい。骨董屋巡りなんて、素敵だと思うけれど。
「さあ着いた。まずはあれに乗ろ」
 遊園地の前で車から降りたと思ったら、真っ先にジェットコースター乗り場に連れていかれた。
 怖いのは苦手だと言っても、聞いてもらえない。
 三百六十度回転の連続に、池への突入、コースの逆進。
 さんざん悲鳴をあげてしまい、ぐったりしてしまった。こんなものに乗るの、何年ぶりかしら。
 それなのに、次はお化け屋敷へ連れ込まれた。怖いのは嫌いなのに。
 屋敷というよりは、小型の城館だった。窓が塞がれているので中は薄暗く、照明は点々とある松明だけ。
 通路は迷路のようになっていて、あちこちで隠し扉をくぐり、武器を探し(聖水や十字架、数珠や榊の枝、小型のハープ。適切なメロディで、幽霊が成仏してくれる)、立体映像の幽霊や、ロボットの吸血鬼を退治しないと脱出できない。
 またしても悲鳴。闇から延びる手。上から垂れる血。鏡の奥の怪物。
 心臓がどきどき、ばくばく。
 ふらふらになって出てくると、次は自由落下タワー。
 きゃあきゃあと叫び続けて、すっかり疲れ果て、喉が渇いた。わたしはどうして、こんな目に遭っているのかしら。
「あはは、遊園地じゃ死にやしないって」
 サンドラはけらけら笑って言う。この世に、怖いものは何もないみたい。
「あの、もうそろそろ……」
「ああ、お昼だよね。レストランへ行こう」
 違うのに。
 けれど、サンドラが連れていってくれたのは、遊園地からしばらくドライブコースを走った場所にある、かなり豪華な店だった。ランチだから平服でいいけれど、夜だったら、正装でないと入れないはず。
「あの、こんないいお店でなくても……」
「いいから、好きなものを注文おし」
「でも、わたしは……」
「ダイエット中なんて言ったら、怒るよ。女の子は、ちょっとふっくらしているくらいでいいの。ミオは、もう数キロ太っても大丈夫」
 そういう自分は、引き締まった筋肉質のくせに。
 でも、さんざん悲鳴をあげたせいか、わたしもお腹が空いていて、お箸で食べるフランス料理がとても美味しかった。
 塗りのお椀で出てくるグリーンピースのスープ、帆立とキウイのサラダ、蟹のクリームコロッケ、鹿肉のステーキ。
 小さな焼き立てのパンも、しっとりして弾力があって、ついお代わりしてしまうほど。
 ここしばらく、食欲がなくて、適当なもので済ませていた反動かもしれない。久しぶりで、満腹するまで食べた。デザートには、洋梨のコンポートとミルクティ。
 驚いたのはサンドラの食欲で、わたしの三倍近い量を注文して、わたしと同じ早さで食べ終えている。男性に負けない体格なので、食欲も男性並みで無理はないけれど。
「ごちそうさま。美味しかったです」
 と心から言うと、サンドラは、紅茶のカップを持って微笑んだ。
「それはよかった。いま初めて、普通の笑顔になったね」
「えっ。そうですか」
「うん、今朝は能面みたいだった」
 はっとして、つい頬を押さえてしまったら、笑われた。
「その顔を見たら、連れ出した値打ちがある。さて、腹ごなしの散歩に行こうか」
 店の周りの散歩なら、と軽く考えたのが間違いだった。近くの川へ連れていかれ、救命胴衣を着せられ、川下りのボートに乗せられたのである。
「あの、わたし、ボートなんて……」
「いいから、座っておいで」
 二人で一隻に乗り、サンドラがオールを握る。舟の分類はよく知らないけれど、観光ボートというよりは、カヌーに近い軽量タイプだった。
「ベルトで固定してもいいんだけど、まあ、ひっくり返ってもミオは泳げるでしょ」
「あの、できれば、転覆しない方が……」
「大丈夫、川に落ちるのも楽しいよ」
 わたしには、そうは思えない。
 桟橋付近では静かだった水面が、たちまちかなりの流れになった。軽いボートは流れに乗って、どんどん川を下っていく。
 でも、サンドラのオールさばきにはためらいがなく、的確だった。浅瀬だろうが、岩の隙間だろうが、ちょっとした滝だろうが、巧みにすり抜けてくれる。これなら、任せておいて心配なさそう。
 天気がいいので、水しぶきを浴びるのも楽しかった。小さい頃に両親とタケルとで、湖でボート漕ぎをしたことを思い出す。
 見渡すと、水面がきらきら光り、川の周囲の緑が美しかった。日差しが熱いと思ったら、川の水をすくって顔や頭にかければいい。
 他のボートの漕ぎ手たちが、岸辺で休んでいる横を手を振って通り過ぎたり、難所でひっくり返ってずぶ濡れになった人たちが、インストラクターに車で迎えに来てもらっていたり。
 でも、わたしはサンドラに任せきりで、安心だった。このままずうっと、海まで下っていきたいくらい。
 しばらく忘れていた。こんな風に、大自然の中で過ごすこと。
 自分の農園が欲しくて働いていたのに、いつの間にか、お金を貯めることばかりに夢中になって……マレーネのことも見抜けなくて……わたし、いったい、何をしていたんだろう。
 暗くなりかけた気持ちを、サンドラが引き戻してくれた。
「どう、気に入った?」
「はい」
 と心から答えられたのは、サンドラ自身が楽しんでいることが、よくわかったから。サンドラの人生は、きっと毎日、こんな風に楽しいことばかりなのだろう。多少、厭なことがあっても、きっと気合で吹き飛ばすのではないかしら。
「それはよかった」
 とにっこりされて、少し不思議な気分になる。サンドラは、わたしが能面みたいな顔をしていたから、気分転換に連れ出してくれたのかしら?
 やがてボートを降りた所は、観光牧場の入り口だった。ボートと救命胴衣は、そこで係員が引き取ってくれる。
 ここから車で帰るのね、と思っていたら、とんでもない。
「さ、次行こうか」
 と肩を押され、更衣室へ入れられて、フレアースカートのワンピースから、レンタルの乗馬服に着替えさせられた。
 そして、黒馬の背に追い上げられ、薮あり川あり斜面ありの難関コースを走らされることになる。
「あのう、でも、わたし」
「ちゃんと乗れてるじゃないの。経験あるんでしょ」
 と茶色い馬にまたがるサンドラ。彼女は自分の服のまま。
「ありますけど、でも」
「ほら、ちゃんとあたしについてこないと、迷子になるよ」
 サンドラは、馬にも慣れていた。わたしだって子供の頃、祖父母の農場でさんざん馬に乗っていたのに、そんな素人レベルでは追いつかない。わたしが苦労する斜面や悪路も、サンドラは軽々と越えていく。
「待って、とても無理」
 と叫ぶと戻ってきてくれて、笑いながら助けてくれる。
 一度など、急斜面で馬からずり落ちそうになったわたしを、片手で軽々と抱きとめてくれ、元の位置に押し上げてくれた。
 おまけに、高い枝に咲く白い花を見ると、
「何の花だろ」
 と言いながら、ひょいと馬の背に立ち上がり、そこから枝に登って摘んできてくれる。
 猿のように身軽、と言ったら悪いかしら。
「どうぞ、お姫さま」
 と、うやうやしく差し出されたので、つい顔がほころんでしまった。乗馬服のボタンホールに差した花は、ほんのり甘い香りがする。
「あなたって、ターザンみたい」
 わたしが言うと、サンドラはあははと笑った。
「それはまあ、お誉めの言葉と受け取っておくかな」
「あ、ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
 女性に向ける言葉ではなかった、と反省する。
「いいよ、いつも言われてるんだ。色気のないオトコ女って」
「そんなこと……」
 強く否定できないのが、やや申し訳ないけれど。
 でも、サンドラはさばさばと言う。
「まあ、モテない大女にも、いい点はあるよ。何をするにも、男に邪魔されなくて済む」
 そうかもしれない、と思ってしまった。大学時代、キャンパスの端から端へ歩く間に、どれほどの男性に声をかけられ、デートを断る手間をとらされたか。
 冷たく断れば、お高く止まっていると言われるし、優しく断ろうとすれば、脈があると思うのか、しつこく食い下がられる。
 この人ならいいかも、と思ってデートを承諾すると、たちまち恋人気取りになる。うっかり気を許そうものなら、肩に腕を回されたり、キスされたりしてしまう。
 そしてまた、男たちは、それを仲間に吹聴するのだ。まるで、高山に登ったことを誇る登山家のように。
 彼らの征服ごっこには、とても付き合いきれない。
 馬を進めながら、サンドラは言う。
「うちのヴァイオレットなんか、あっちでもこっちでも男に口説かれて、半分、男性恐怖症だもの。だからいつも、あたしの背中に隠れたがるんだ」
「あの人が、男性恐怖症なんて」
 よく覚えていないけれど、品のある理知的な女性だったように思う。
「いや、恐怖というより、嫌悪、軽蔑かな。何度か、しつこい男に怖い目に遭わされたものだから。もちろん、そいつらはあたしが撃退したけど」
 そうか、わたしだけではないのね、と馬上で思った。
 わたしだって、できるものなら誰かの背中に隠れたい。もう二度と、あんな目には……
 心に広がりかけた鉛色の雲を、慌てて打ち消した。
 せっかく、遊びに連れ出してもらったのよ。余計なことは考えない。この時間を、目一杯楽しむこと。きっと、いい治療になるわ。

 元の観光牧場に戻って馬を係員に返し、更衣室で着替えてから、わたしはサンドラの腕のひっかき傷に気がついた。
 乗馬用の手袋ははめていたけれど、サンドラは暑がりらしく、シャツの袖を大きくまくっていたから。もしかしたら、木に登った時かもしれない。
「ね、怪我してるわ。消毒しなきゃ。待ってて」
「えっ、いいよ、このくらい」
 嬉しい。初めてサンドラがたじろいだ。
「だめ、黴菌が入るかもしれないわ」
 わたしは係員から薬箱を借りてきて、なめらかな蜂蜜色の皮膚についた、細長い傷の消毒をした。
 自分が人に何かできる、というのが嬉しい。確かに、たいした傷ではなかったけれど、念のため、保護シールを貼っておく。
「どうも」
 と言いながら、サンドラは照れるような顔だった。
 何だか可愛い。
 女の人というよりも、どこか少年のようで。
 男性から見れば、それが色気のなさ、なのかもしれないけれど。
 でも、色気というのは何なのだろう。
 もしもそれが、男性に付け込まれる隙のことなら、わたしはそんなもの要らない。ない方が幸せだと思う。
 そもそも、こんな甘ったるいピンクのワンピースを着るのも、心根として間違っているのかもしれない。サンドラのように活動的な格好で、しかも青や緑という寒色を選ぶべきなのでは。
「あら、サンドラって、両方の腕に端末はめているの」
 気がついて、わたしは尋ねた。普通はみんな、利き腕でない方に通話端末をはめるのに。
「ああ、左はそうだけど、右は訓練用の重りだよ」
 サンドラは、銀色の腕輪をはめた左右の手を挙げてみせた。
「左右で同じ重さになるよう、左にも鉛を入れてあるけどね」
「ええっ、鉛?」
「空手をやってるんだけど、やっぱり男の腕力には及ばないからね。まあ、気休めだけど、少しでも強くなろうとしてるわけ」
「ふうん、そうなの」
 わたしも今度から、そういう心掛けを持つべきかもしれない。せめて、女性向けの護身術講座に通うくらいは。
「ねえ、わたしにもできるかしら、空手って」
「そりゃ、みんな自分のペースで稽古すればいいんだから、誰だってできるよ。ただ、強くなるには、それなりの素質が要るけど」
 わたしにそれがないことは、人に聞かなくてもわかる。
「サンドラには、素質があるのね」
「ま、多少は」
 その言い方は、かなり自信がある人のもの。
「どのくらい強いの?」
「うーん、どのくらいと言われても……」
「煉瓦とか瓦とか、割れるの?」
「ああ、そういうものでいいのか。どこかで見かけたら、割ってあげるよ」
 と軽い微笑み。
「ほんと? 楽しみ。約束ね」
 すると、サンドラは優しく微笑む。まるで、小さな子供でも見るかのように。
「そんなことが楽しいなら、いくらでも見せてあげるんだけど」
 一瞬、何かが心に触れた。
 わたし、いたわられている。
 ただの行きずりの優しさで、ここまでしてくれるものではない。
 わたしは牧場の出口で立ち止まり、サンドラをじっとみつめてしまう。するとサンドラも、不審そうに立ち止まる。
 こうなったら、聞かないわけにはいかない。
「あの、サンドラが今日わたしの家に来たのは、本当に偶然なの?」
 するとサンドラは、濃い金褐色の眉を曇らせ、ややためらう様子。でも、結局は、正直に話すことに決めたらしい。
「えー、つまり、ドクターからミオの名前を聞いていたものだから……つい、気になって。あの時、あんまり辛そうだったから。ただの貧血じゃなくて……何か悩みがあるのかと」
 わざわざ、わたしを心配して来てくれたのだ。名前がわかれば、特に隠していない限り、住所は検索できる。わたしの場合、モデルとしても、そこそこ知られていることだし。
「余計なことだったら、ごめんね。無理に連れ出して、悪かったかな」
「ううん、そんなこと……」
 わたしは少し、感動していた。当たり前だけれど、世の中は、悪いことばかりではない。
「ありがとう。わたし一人だったら、どこへも出なかったはずだから。今日はずいぶん、気晴らしをさせてもらったわ」
 サンドラは、ほっとした様子である。
「それならよかった。次はどこへ行きたい? ミオの好きな所へ連れていくよ」
 何だか、お姫さま扱いされているようで、むずむずする。
 でも、悪い気分ではなかった。わたしが喜ぶとサンドラ自身も嬉しい、ということが伝わってきたから。
「それじゃ、動物園、いい? もう何年も行ってないから」
「よし、お安い御用」
 再び車に乗った時には(自動走行できるタクシーでも、サンドラは運転が好きだからと運転席についた)、だいぶ気持ちがほぐれて、助手席で楽しくおしゃべりできるようになっていた。医師や捜査官以外の誰かと話したい気持ちが、たまっていたのだと思う。
「わたし、弟がいるから、よく弟の手当てをしたのよ。男の子って、自転車でもローラースケートでも、無茶をするのよね。あの子、大学でも、人力飛行機を作るクラブに入っているの。テスト飛行をやっては、何度も墜落して。いくら防御服を着ていても、怖いでしょ。よく懲りないものだと思うわ」
 すると、ハンドルを握るサンドラは俄然、興味ありそうな顔になる。
「ミオの弟は、大学生か。恋人いる? あたしみたいなタイプは嫌いかな?」
 わたしはつい、笑ってしまう。
「まさか、サンドラには釣り合わないわ。まだ十七だもの」
 けれど、サンドラは餌を嗅ぎつけた狼のように、熱心に言う。
「あたしは年下でも全然、構わないよ。紹介してくれない?」
 申し訳ないと思ったけれど、わたしは苦笑してしまう。
「実は、恋人がいるのよ、あの子。幼なじみと将来を誓い合ってるの」
 すると精悍な長身の美女が、傍目にもわかるほど落胆する。わたしは可笑しいのが半分、気の毒なのが半分。
「じゃあ今度、わたしの友達で、よさそうな誰かを紹介するわ」
 と約束した。パーシスの知り合いなら、サンドラに釣り合う人がいるのではないかしら。サンドラは三十歳くらい?
「まだしばらく、この星にいるんでしょ。サンドラの好みのタイプは?」
 すると青い瞳の美人は、真剣に考える様子である。
「うーん、基本的にはハンサムが好きだけど、中身がよければ、外側はどうでもよくなるからなあ。でも、中身が気に入るかどうかは、しばらく付き合ってみないとわからないし。あたしって、一体、どういう男が好きなんだろ。芸術家かな。スポーツマンかな。それとも学者……軍人タイプ……」
 と運転しながら悩んでいる。
「これまで好きになった人は、どんなタイプなの」
「それが、色々なんだよね。気弱な美青年とか。マッチョのマザコン男とか。でも、一度もうまくいったことがないの」
 と、深刻なため息をつく。
「まあ、一度も?」
 つい問い返してしまったら、サンドラは傷ついた子供のような顔になる。
「あたしって、ほら、がさつだから……気をつけてはいるんだけど、つい……全然可愛くないし、色気もないし……大食らいも悪いのかも……冬眠明けのヒグマとか言われてさ。いや、言うのは主にヴァイオレットなんだけど」
「まあ」
 あの食欲を形容するには、確かにふさわしいかも。
「いいよね、ミオみたいに可愛い子は。あたしなんか、この身長だけで敬遠されるもん。いい歳して、一遍も恋人ができたことがないなんて、笑い話だよね」
 自嘲のように言うので、こちらが慌ててしまい、懸命に慰めることになる。
「そんな、悪い方に考えないで。サンドラはすてきよ。たまたま、相性のいい人に会わなかっただけよ。これから、いくらでもチャンスがあるわ。まだ若いんですもの」
 わたしだって、最後のボーイフレンドと別れてから、男っ気なしだし。
 そこで、またしても鈍い痛みが広がった。相手を恋人と思い込む暗示なんて。キーワード一つで操られてしまうなんて。
 だめ、考えない。忘れるのよ。
 事件はもう、捜査官たちに任せておけばいいの。
 わたしは、自分の生活を立て直さなくちゃ。

 動物園は楽しかった。
 強化ガラスのトンネルの中を歩いて、外の草地で寝そべるライオンや、木の上でくつろぐゴリラの親子を間近に見られる。
 木々の間を、小型の猿が運動会のように飛び渡っていく。
 大きな池では、象やカバが水浴びしている。優雅なフラミンゴも舞い降りる。
 他の客は恋人同士や、家族連れが多かったけれど、わたしも何だかデートのような気分になってしまった。サンドラがまるで男の人のように、あれこれ気を遣ってくれるから。
 ゆったり構えているように見えて、実はとても細心なのだ。
 爬虫類のエリアは飛ばして、他へ回ろうか。
 何か買ってくるけど、アイスがいいかジュースがいいか。
 ミオはここの木陰で座っておいで。
 わたしはつい、騎士に守られるお姫さまの気分になってしまう。サンドラが、本当に男の人だったらいいのにな。ああ、でも、そうしたら、女性に取り巻かれてしまって、わたしの元へなんか来てくれないわ。
 日暮れには、サンドラはわたしを家の前まで送り届けてくれた。いつもの一年分くらい、一気に遊んだ感じ。
「今日はありがとう。楽しかったわ」
 最初は竜巻に巻かれたような気がしたけれど、実際には、とても優しい竜巻だった。
「煉瓦が見当たらなくて、残念だったけど」
 にやりとするのは、たぶん腕自慢の証拠。
「それは、別の機会にとっておくわ。まだしばらく、バカンスなんでしょ。また、今日みたいに遊んでくれる?」
「いいよ、いつでも。ミオが遊びたくなった時に、声をかけてくれれば」
 タクシーは走り去り、わたしは夕闇の歩道に立ったまま見送った。できれば、夕食も一緒にしたかったけれど、そこまでは甘えすぎよね。
 いいわ。ホテルを聞いておいたもの。遊びに行ってもいいわよね。もう、友達になったんだもの。

7 探春

イラスト

 

 わたしは川を見下ろすホテルにいた。
 手紙を書く用事を済ませてしまうと、あとは買ったドレスや着物に袖を通してみたり、刺繍の続きをしてみたり、他星系のニュース番組を見たり。
 でも、一人ではつまらない。映画を見るにしても、食事をするにしても、紅泉がいてくれないと。
 その紅泉は、ミオ・バーンズの様子が気にかかるから、ちょっと偵察してくると言って、出ていったきり。
 こちらから通話しては邪魔かもしれないと思って、向こうからの連絡を待っていた。やはり、つききりで遊ばせたり、笑わせたりしているのかしら。いつも、わたしにそうしてくれているように。
 まあ、一日くらいなら、紅泉を貸してあげてもいい。
 つい、皮肉に考えてしまった。
 通りすがりの娘のことさえ、それだけ親身に心配する紅泉が、もし、従姉妹のわたしが受けた被害を知ったら、どうするだろう。
 わたしに乱暴した従兄弟を探して殺してくれ、と頼んだら、殺してくれるだろうか。
 それとも、あいつも気の毒な奴だよ、とかばうだろうか。
 何十年経っても、わたしはまだ、悔やんでいる。苦しんでいる。
 あの日、母屋から離れた実験小屋などに、わざわざ差し入れを届けるのではなかった。
 シヴァは元々、無口でぶっきらぼうな男の子で、わたしは苦手だったのだ。大人たちに頼まれたから、仕方なく、パイやサンドイッチを詰めたバスケットを持って行っただけ。
 改造途中のバイクや銃器の並んだ、男の子の城だった。すぐに立ち去るのも失礼かと思って、少し棚の工具や武器類を見ることにしたのが悪かったのだろうか。
 急に後ろから抱きつかれ、押さえ込まれた。床に押し倒され、ワンピースの前を引き裂かれ、スカートをまくり上げられた。
 あの時、手近な工具を振り回してでも、噛みついてでも、彼の目玉をえぐり出してでも、戦えばよかったと思う。
 殺したって構わなかったのに。
 でも、当時のわたしはほんの子供だった。年上の従兄弟の不可解な攻撃がただ恐ろしく、どうしていいかわからなかった。体格の差も大きかった。彼は、紅泉よりも大柄だったのだから。
 わたしのわずかな抵抗など、彼には痛くも痒くもなかっただろう。ただ痛く、恐ろしいだけの行為だった。
 あんなことをして、彼は本当に楽しかったのか。どうしてまた、わたしを餌食にしなければならなかったのか。
 たまたま手近にいたから?
 自分はもう、一人前の男だと証明したかったから?
 後になってから、彼はわたしが好きだったのだと聞かされた。でも、あれが好意の表現ならば、男という生き物は狂っている。彼らには、愛と支配の区別がついていないのだ。
 引き裂かれたわたしは、口もきけなかった。ぼろぼろの服のまま、血を流して母屋にたどり着き、驚いた大人たちに保護された。
 シヴァはただちに拘禁され、きつく叱責され、説教され、その後、遠くへ追いやられたけれど、わたしは何日も部屋から出られなかった。
 お祖母さまたちが配慮して、紅泉には生理痛だと言い繕ってくれたけれど、わたしは繰り返し繰り返し、枕を濡らして泣いていたのだ。
 シヴァの育ての親である麗香お姉さまが謝ってくれても、他の女性たちが慰めてくれても、もう手遅れ。
 わたしは二度と、元の自分に戻れない。
 子供だった日々は、あまりにも早く終わってしまった。忘れようとしても、気にするまいとしても、繰り返し心の中が真っ暗になる。
 汚い。
 穢された。
 自分の肉体の内側をえぐり出したいような嫌悪感。
 食べ物が喉を通らない。努力して食べても吐く。苦しくて眠れない。やっと眠れても、まだ暗いうちに目を覚ましてしまい、そのまま朝になる。
 苦しさのはけ口を探して、自分の服やスカーフ、ハンカチを何枚も引き裂いた。指に血がにじむほど、細かく細かく、しつこく裂き続けた。
 本当なら楽しいはずの少女時代、何年も続いた地獄の苦しみ。
 あんなことがなければ、違法都市の暮らしとはいえ、わたしも紅泉と同じように、明るい少女でいられたろうに。
 ああ、いや。
 明るいホテルの部屋にいながら、わたしは頭を振って思う。
 男なんて、みんな死ねばいい。
 そうしたら、どんなに世の中が明るく、すっきりするだろう。凶悪犯罪はなくなる。女はみんな、伸び伸び暮らせるようになる。新しく生まれる子供は、みんな可愛い女の子。
 もちろん、優しくしてくれるお祖父さまや伯父さまたち、繊細な神経を持つ従兄弟のシレールもいるけれど、それでもなお、男という種族が呪わしい気持ちは消せない。
 それなのに、紅泉は。
 わたしの前でも、平気で男性を口説く。からかう。陽気に笑う。もてないと言ってぼやく。
 わたしのことを、困った男嫌いだと思っている。世の中にはいい男もいるのだから、前向きに恋人を探せばいいと勧める。
 無理もないとは思う。必死で紅泉に事実を隠し続けてきたのは、わたし自身なのだから。
 でも、とても打ち明けられなかった。あまりに惨めで。
 わたしに乱暴した従兄弟は、こいつなら踏みつけても平気だと思ったのだ。おとなしくて弱いから、泣き寝入りするだろうと、男らしく・・・・計算したのだ。
 子供の頃の取っ組み合いを通して、手強いことがわかっている紅泉のことは、慎重に敬して避けていた。わたしは見下されたのだ。
 たとえ紅泉が事実を知り、同情してくれても、同じ立場に落ちない限り、決して本当にはわからないだろう。この悔しさ、この惨めさは。
 それにまた、紅泉には、こんな苦しみを知ってほしくない。紅泉こそ、わたしの太陽なのだから。
 わたしが共感できるのは、だから、ミオ・バーンズやエレーナ・ソワソンのような、同種の被害を受けた女性のはずだった。
 けれど、今回はためらいを感じる。
 ミオがあまりにも美しく、可憐な娘だから。
 紅泉があの娘に、特別な同情や関心を持つとしたら、それが怖い。
 仕事の上では役に立つ助手でいたつもりだけれど、わたしは根底では、紅泉に甘えていた。
 表面ではわたしが食事の世話をしたり、衣類の整理をしたり、室内を片付けたりしているけれど、それは、紅泉を引きつけておく罠のようなもの。
 紅泉がわたしなしではいられないよう、わざと依存させているのだ。わたしが、紅泉なしではいられないから。
 他の誰かが紅泉に近づこうとすると、自分が途端に、狡猾な意地悪女になることは自覚していた。
 だから、一族の末娘のダイナは、紅泉になつく分だけ、わたしを怖がっている。紅泉に会うと手放しで喜び、はしゃいで甘えるけれど、わたしが黙ってみつめると、そそくさと離れる。
 探春姉さまは、いつも静かで、にこにこしているけど、本当は怖い人、と見抜かれているのだ。
 そうに違いない。紅泉の関心を奪う誰かがいれば、飲み物に毒を入れることすら想像するのだから。
 崖から突き落としてもいい。
 雪山で、雪崩に埋めてしまってもいい。
 紅泉が、自分はもてないとぼやくのは、一部には、わたしのせいもあるのだ。紅泉が気がつかないうち、紅泉に好意を持つ誰彼を、わたしが追い払ってきたのだから。
 中には、ミカエルのように、自発的に退いた者もいたけれど。
 でも、これからだって追い払うわ。
 わたしと紅泉の間に入ろうとする者は、誰だって許さない。
 わたしは刺繍用の枠にはさんだ半襟を横に置き、秘書のナギにお茶の支度を命じた。
「はい、ミス・ヴァイオレット」
 市民社会にいる間、わたしの呼び名はヴァイオレットだった。他の偽名を使うこともあるけれど、あまり頻繁に呼び名を変えると、うっかり屋の紅泉が呼び間違えるから。
 黒髪の美青年の姿をした有機体人形は、柔和な微笑みを浮かべて、いつも通りに紅茶を淹れ、ケーキを並べる。
 本物の男性だったら、とても身近に置けないけれど、これは、わたしたちの艦隊の管理システムが動かす端末なので、安心な助手である。命令なしでは、決まり切った仕事の他には何もしない。
 それにしても、紅泉は何をしているのかしら。もう午後も遅いのに、連絡も寄越さないで。
 紅泉の端末の位置情報を調べたら、動物園にあった。どうやら本当に、ミオ・バーンズとデートらしい。
 本当は、わたしと遊びに行くはずだったのに。
 味のないケーキを食べ、苦いお茶をすませてから、思い立ち、ホテルの一階に降りてみる。レストランの他に、ブティックが何軒か入っていた。ドレス、スカーフ、帽子、靴。
 気持ちが晴れない時には、買い物が特効薬だった。既に衣装も宝石も山ほど持っているけれど、新しい品を見るだけで気分が変わる。
 しばらく店内を歩いているうち、後ろから声をかけられた。
「あのう、失礼ですが……ここに泊まっていらっしゃる方ですよね」
 まだ学生のような、世慣れない赤毛の青年だった。懸命な様子でにこにこしている。
「あのう、ぼくもここに泊まっているんですが、先日から、その、綺麗な方だな、と思って見ていたんです。もしよろしかったら、お茶でもいかがですか。食事でしたら、いい店にご案内します」
 わたしは、そっとため息をついた。紅泉と離れると、すぐこれだ。虫除けに、ナギを連れてくればよかった。
「せっかくですけれど、用がありますので」
 礼儀を保って冷ややかに言い、すぐに店を離れる。
 昔から、わかっていた。どうやら自分には、男を引き寄せる何かがあるらしいと。
 公園を歩いていても、町角で何かを眺めていても、オープンカフェに座っていても、護衛の紅泉がついていない限り、すぐに男が寄ってくる。お茶だの食事だの、どこかを案内するだのと言う。
 二人、三人までなら、落ち着いて礼儀正しく断れるけれど、五人、六人と続くと自分が惨めになり、泣きたくなる。
 だから、紅泉が側へ戻ってくると(大抵、気に入ったハンサムを追いかけては、ふられてすごすご戻ってくるのだ)、ぎゅっと腕にしがみつくことになる。
『もう、わたしから離れないでちょうだい』
 お気楽な紅泉は、
『ごめん、ごめん』  と謝ってくれるものの、次のハンサムが通りかかると、懲りずにアタックに行ってしまう。
 それはともかく……
 わたしの内にあって、男たちを引き寄せるもの。
 それはどうやら、色気というものらしいと、ある時点で気がついた。
 別の言い方をすれば、不幸の影、だろうか。
 悲しげな女というのは、しばしば彼らの性欲を刺激するらしいのだ。
 『女の色気』とは、つまり『暗さ』のこと。
 あるいは『弱さ』、『隙』といってもよい。それがある女は、獲物にしやすい。
 たとえばライオンが、ガゼルの集団を外からつけ狙う時、どんな個体に目をつけるか。
 その群れの中で、最も弱そうな一頭を狙うのだ。間違っても、最も元気な一頭を狙ったりすることはない。
 つまり、わたしは『手頃な獲物』に見えるのだ。
 自分では、決して不幸なつもりはないのに。いやなことがあっても、きちんと頭を上げて歩いているつもりなのに。
 彼らは紅泉のような、強い生気を発散する女には寄っていかない。自分の手には余る獲物だと、わかるからだろう。
 そして、わたしにたかってくる。まるで、ケーキの一片に群がる蟻のように。

 ――従兄弟に襲われてから半年後。
 ようやく元通りに食事ができるようになっていたわたしを、今度は、通りすがりの男たちが襲った。銃で脅し、自分たちの車に引きずり込もうとした。笑いながら、面白半分で。
 わたしを守ろうとした番犬は、簡単に撃ち殺された。ほんのわずか、一族の敷地から出てしまったばかりに。
 その時に感じたものは、足元の地面が消えて、奈落へ落ち込むような絶望だった。
 この世界には、底がない。
 家の中でも外でも、安心できる場所はどこにもないのだ。
 生きている限り、女はどこでも餌食にされる。
 それならもう、この世にいても仕方ないのではないか。女として生きていくことに、絶望しかないのであれば。
 けれど、そこへ飛び込んできたものがあった。怒り狂った野獣のような凄まじいものが、たちまち男たちを蹴り飛ばし、なぎ倒したのだ。
 見慣れた縞のTシャツに、ジーンズ姿。
 わたしと同い年の少女でありながら、大人の男たちを問題にしないほどの気迫と膂力。
 わたしは感動した。
 紅泉は自分であれ、従姉妹であれ、女が餌食にされることなど断じて認めないのだ。
 ――そうよ。戦えばいいんだわ。
 戦って、常に勝てるとは限らないけれど、黙って餌食になるより、はるかにいい。
 それなのに、自分の蹴りが二人まで即死させたと知って、紅泉は震え始めた。それは、身内の大人たちからの叱責を恐れたから。
 おてんばがすぎる、といつも叱られている自分が、ついに一族内での居場所を失くすのではないか、と脅えたらしい。
 わたしは笑いたくなった。
 そんなこと、気にしなくていいのに。あなたは、わたしの魂を救ってくれたのだから。
 三人組のチンピラのうち、まだ息のあった男の頭に、わたしはとどめの石を振り下ろした。
 紅泉はびっくり仰天していたけれど、わたしはもう平気。
 殺しても構わないのだ。自分が蹂躙されるくらいなら。
 黙っていたら、男たちは平気でこちらを踏みつける。暴力で肉体を犯すということは、魂を殺す行為に等しい。
 なぜおとなしく、殺されなくてはならないのだ。
 わたしには、生きる権利がある。幸福になる権利がある。
 それを侵害する者は、死ねばいいのだ。そんなことをするのは、人間以下のケダモノなのだから。

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