レディランサー ドナ編
「それにしても、不思議ですねえ」
あたしが食堂に入っていったら、隣のラウンジで、エディたちの話し声がした。
「親父さんはもてるでしょうに、浮いた噂一つないなんて」
「そりゃ、おまえ、難しい年頃の娘がいるからな。気を遣ってるよ」
あたしは苦笑した。
そのまま仕切りの壁に隠れて、男たちの会話を聞く。
「親父さんに恋人ができて、あいつがむくれたら、大変だろうが」
「それは、わかりますが……」
「俺らだってな、気の毒に思ってるよ」
とジェイクやルーク、エイジが交互に言う。
「あたら男盛りが、何年も独り身で」
「降るようなデートの誘いも、みんな断るし」
「バシムだって、ルカイヤさんに内緒で、結構遊んでるのに」
「いや、あそこはルカイヤさんが寛大だから、許されてるんだよ」
「理想の奥さんですねえ」
こらこら、エディ、何をうらやましがっているか。
……それはまあ、あたしだって考えないでもない。天国のママも、そろそろガールフレンドの一人くらい、許してくれるのではないか。
ただ現在のところ、親父にはあたしが一番だから、あえてよその女性と付き合う気はないらしいのだ。
といっても、最近のあたしは、寄港先では、エディと一緒に遊びに出ることが多い。残された親父は、寂しい思いをしているかも、という反省はしているけれど……
うーん。
あたしから、勧めるべきなのかな? そろそろ、女の人と付き合ってもいいよ、とか。いい人がいたら、再婚を考えれば、とか。
でも、親父本人もまだ、ママの思い出が重いんだと思うけどなあ。
家族の反対を押し切って結婚したのに、わずか十五年で終わった結婚生活。
ママが死んだ時は、がっくりと老け込んでしまい、見るのも気の毒なくらいだった。
だから、一人娘のあたしが親父の船に乗り込んで、ママの代わりに面倒見てやっている……少なくとも、そのつもりなんだけど。
考えているうち、《エオス》は植民惑星《アルテミシア》に到着した。
青い海と緑の大陸に白い雲を散らした地球型惑星で、人口は三千万。入植以来、二百年の歴史がある。二百万人が暮らす惑星首都の他にも、幾つもの都市があり、海や山には素晴らしいリゾートホテルが散っている。
残念なのは、この星に、一日だけしか滞在できないことだ。ここで荷を下ろし、首都のホテルに泊まったら、明日の午後にはもう、次の寄港地に向かわないといけない。
上陸艇で降りた地上港には、特注の製薬材料の到着を待つ、カイテル製薬の男性社員たちが待機していた。古株と新米のペアという感じ。
ところが、コンテナの引き渡しを確認するだけのはずだったのに、その社員たちが言い出したのだ。
「実は、ヤザキ船長、たまたまこの星の支社に、本社の社長が来ております。ぜひ、船長を夕食にお誘いしたいと申しているのですが、いかがでしょう?」
親父としては、あまり嬉しくなかったと思う。あたしと二人で(あたしはエディも誘うつもりだったけれど)、市街に繰り出す予定だったからだ。
ところが、その社長は、親父と同じ大学の卒業生だという。しかも、女性。
「え、ドナ・カイテル? ああ、ここは彼女の会社だったのか!!」
と親父は驚いていた。輸送依頼は支社長の名前で来たから、本社の社長までは気にしていなかったのだろう。
「そういえば、彼女は研究室のホープだったからなあ……そうか、自分で会社を興したのか。てっきり、研究者の道に進むのだと思っていたが」
親父には何か、思い出がある様子。
あたしはぴんときて、若い方の社員に聞いてみた。
「社長さんは独身ですか?」
「はあ、そのはずですが……」
もしかして、学生時代に親父に片思いだった、とかいうパターンかもしれない。今の親父は渋いダンディだが、若い頃の写真を見ると、かなりいかした青年なのだ。
ちょっと、今のエディに雰囲気が似てるかも。
でも、生真面目なエディよりはもう少し、さばけている感じかな?
その女社長が、個人的に親父に再会したいために、あえて貨物の輸送を依頼した、ということかもしれない。
だって、カイテル社からの依頼は、今回が初めてだもの。この星を含む航路には、大手の輸送会社が何社も入っているから、普段、《エオス》がこちら方面の輸送を請け負うことは滅多にない。
「行っておいでよ」
あたしは親父に勧めた。
「あたしはエディと、先にホテルに行ってるから。社長さんとゆっくり、思い出話をしてくるといいよ」
「え、しかし」
「じゃあ、父をよろしくっ!!」
唖然とする親父を迎えの社員たちに託して、あたしはさっさと身を翻した。横にいたエディの腕をひっつかんで。
「ジュン、いいのかい?」
宙港ロビーの雑踏を歩きながら、エディは心配する。
「親父さんが、よその女性と付き合うことになっても……」
「もちろん、構わない。親父と合う女性ならね。さ、あたしたちも街に行こう」
上陸中、あたしの側にも親父の側にも、司法局の護衛が付く。それはいつものことで、既に打ち合わせ済みだから、気にしない。目立たないよう、私服の護衛チームがあたしを遠巻きにしてくれている。
あたしはずんずんとタクシー乗り場に向かい、エディを押し込むようにして、無人車の一台に乗り込んだ。あたしは運転するのが好きなので、運転席に。エディは隣の助手席に落ち着く。
「まずは買い物して、変装するの」
「変装!? どうして!?」
鈍い奴である。
「決まってるでしょ。ドナ・カイテル社長、じかに確かめておかなくちゃ」
万が一、悪い女だったりしたら、大変ではないか。
親父は決して馬鹿ではないが、やはり男だから、女の手管に惑わされないとも限らない。
「そこはあたしが守ってやらなきゃ、ママに顔向けできないもの。変装して、二人をこっそり観察するんだよ」
「なるほど、よくわかったよ……」
エディは座席にもたれ、疲れたようなため息をついた。車は快適な道路を走り、平原の彼方に見える市街を目指す。
「あ、変装が嫌なら、別に一緒に来なくてもいいからね」
《エオス》の他の男どもは、それぞれ遊びに散っている。友人宅とか、同窓会とか、ガールハントとか。エディだって、好きな所に出掛けていい。
「いや、別に嫌じゃないよ!!」
エディは慌てた様子で身を起こす。何しろ真面目だから、上陸休暇中でも、あたしの身の安全に責任があると思っているのだ。
親父が違法組織の〝連合〟に命を狙われているので、娘のあたしもしばしば、誘拐や暗殺の標的になる。でも、そのために司法局の護衛チームがいるのだから。
「ただその、親父さんのデートをこっそり尾行するというのが……」
「ファザコン娘って言いたいわけ?」
いつも、みんなに言われる台詞だ。でも、あたしはとうに自立している。既に義務教育課程を終了し、市民権まで取っているのだから。ただ、グリフィンの懸賞金リストに載っている親父を、守ってやらなくてはと思っているだけ。
「いや、それはともかく……変装って、どんな?」
「それはこれから、一緒に考えてよ」
街で変装材料を買い込み、宿泊予定のホテルの部屋で、それぞれに着替えた。
あたしは腰まである、くるくるの赤毛のカツラをかぶり、エメラルド色のミニドレスを着た。悪趣味すれすれの派手さと言っていい。だからこそ、普段のあたしとは対照的。
ばっちり化粧して、眉も赤茶に染めたから、ぱっと見には、親父だって、絶対あたしとはわからない。普段のあたしは短い黒髪で、油汚れの染み付いた作業着ばかりだから。
もちろん、護衛の人たちには事情を話して、尾行を邪魔しないようにお願いしてある。内心で笑っているとしても、彼らは職務であるから、表向きは厳粛な顔で承諾してくれた。
『まあ、お気の済むように』
エディは金髪を黒く染め、ダークスーツを着て、暗色のサングラスをかけた。いつもは〝気弱なハンサム〟だけど、こういう格好だと〝謎の男〟みたい。かなり、いかしてる。
「すごいよ、かっこいい」
と拍手して褒めると、
「そうかなあ」
と、満更でもない様子。
素直な性格なので、あたしは助かっている。というか、時々、反省している。あたし、都合よくエディを利用しているかも。
「さ、出撃しよ」
親父の位置情報は、あたしの端末で確認できる。案内の社員たちに連れられ、ホテル・マグノリアに入っていた。この首都でも最高級のホテルの一つ。
ドナ・カイテル社長、気合が入っているな。
待ち合わせは、庭園に面したカフェテリアのようだ。社長が登場するまで、社員たちが接待を仰せつかっているみたい。三人でコーヒーを飲みながら、世間話といった様子。
黄昏が迫り、周辺のビルには明かりが灯りだしていた。薄明かりの残るカフェテリアにも、古風なオイルランプが灯されていく。
親父たちが落ち着いた先は、大きな窓を持つ、フランス料理のレストランだった。外の夜景がよく見える。空はすっかり夜の色になって、ビルの明かりが美しい。はるか彼方に、時折、宙港から離陸するシャトルの明かりが見える。
あたしたちは、幾つか離れたテーブルに何とか収まった。照明が控えめだから、親父がこちらを見ても、まずわからないだろう。
「いい店だね。来られてよかった」
とエディが言う。
「うん」
と生返事をしながら、あたしはちらちら、親父たちの席を気にしていた。何を話してるんだろ。何を笑ってるんだろ。
メニューを広げたまま、エディが苦笑して言う。
「ジュン、あまり横を向いていると、怪しまれるよ」
「うん、わかってる」
あたしは前に向き直り、料理を選んだ。いつもなら、あれこれ楽しんで迷うのだけれど、今夜はそんな余裕がない。食べるのに手間取らないものなら、何でもいい。
でも、サングラスの相手と食事というのも、妙なものだ。濃紺のスーツに黒髪のエディなんて、別の人みたい。口を開けば、声も口調も、いつものエディなのだけれど。
料理は美味しかったけれど、常に親父たちの方を気にしているので、いつ食べたかわからないうち、デザートになっている。食事が済んだら、親父たちはバーとかに移動するかな?
やがて、二人が立ち上がった。低く談笑しながら、エレベーターホールに向かう。あたしたちも、少し遅れて続いた。親父の向かった先は……バーではない。中層にある客室階だ。
その階まで、別のエレベーターで行ってみた。でも、どの部屋のドアも閉じて、しんとしている。ただ、物陰にいた司法局の人が姿をちらりと見せて、無言のまま、親父の入った部屋のドアを示してみせただけ。
あたしは会釈を返して、その部屋の前に立った。まだ、夜の八時過ぎだ。まさか、ノックして、
『迎えに来たよ』
と言うわけにもいかない。あたしはこんな、道化のような格好だし。
それでも、しばらく、その部屋の前に立ち尽くした。中の気配は、まったくわからない。親父は室内で、女社長と話し込んでいるのだろうか。まさか、このまま泊まるなんてことは……?
「気が済んだかい?」
エディに言われて、振り向いた。何だか、あたしを哀れむ顔?
「もう、いいんじゃないかな」
え。
「親父さんだって立派な大人なんだから、きみがこんなことして、デート相手の品定めをする必要はないんだよ。きみだってもう、父親なしでは何もできない、小さな女の子じゃないだろう?」
優しく、けれどきっぱりと言われた途端、ぶわっと涙が溢れそうになった。
馬鹿だ、あたし。
何だかんだ言って、結局、親父をよその女性に取られるのが嫌なんだ。だから、女社長のあら捜しをしたくて、うろうろして。
何をみっともないこと、してるんだろう。向こうは本当に、大学時代の思い出話をしたいだけかもしれないのに。
ううん。たとえ、それ以上の気持ちがあるとしても、あたしが文句をつける筋合いじゃない。女性からのアプローチにどう対応するかは、親父が自分で決めること。
すると、エディが腕を伸ばしてきて、あたしの肩を引き寄せた。珍しく、ぐいと力を込めて。こちらは、びっくりしてしまう。あたしからエディの腕を取るのではなく、その逆なんて。
「行こう。ディスコにでも行って、ぱっと遊ぼう」
と断定的に言われるのも、珍しい。
「頼りないかもしれないけど、今日は、ぼくがきみの保護者だよ」
そのままエディに肩を抱かれて、エレベーターに乗った。今回は、エディの言うことが正しい。あたしもいい加減、父親離れしなくては。
それにしても、変装のせいかなあ。今日はやけに、エディが大人に見える。元々、あたしより八つも年上なんだから、大人なのは当然なんだけど。
エレベーターを降りてからも、肩を支えられて歩くのが、何だか不思議な感じ。エディなのに、エディじゃないみたい。
「確か、ぼくらのホテルの中に、ディスコがあったよ。そこなら、少し遅くなっても安心だろ」
そのままマグノリア・ホテルの玄関口を出て、夜の街路を歩きだした。車に乗る必要もない。あたしたちのホテルは、歩いても五分かそこら。大勢の市民が、談笑しながら歩いている。あたしの護衛の人たちは、その中にうまく紛れている。
「エディ、踊れるの?」
社交ダンスなら学校で習うけれど、ディスコやクラブで踊るのはまた別だろう。
「別に得意じゃないけど、大学の頃は、たまに友達と遊んだよ」
「たまに?」
「誘われた時にね」
「女の子に?」
「いや、男友達ばかりだよ。試験明けとか、みんなで騒ぐ時に」
「で、女の子をナンパする?」
そんなことをするエディ、想像できないけど。
「みんなはしてたね。気がつくと、ぼくだけ取り残されてたりして」
「うん、それならわかる」
その間もエディはずっと、あたしの肩を抱いてくれている。今日はよほど、あたしがショックを受けているように見えるのだろう。手を離したら、そこらにへたり込むかのように。
とにかく今は、エディの腕に甘えよう。
一人でなくて、よかった。
やけ酒……はまだ飲めないけれど(18歳になるまでお酒は飲まないと、親父と約束している)、何かパンチの効いたものを飲もう。ぱっと気が晴れるような、爽やかな何かを。
「どうぞ、おかけになって」
ドナ・カイテルはわたしをソファに座らせると、テーブルに用意されていたシャンパンをグラスに注ぐ。たぶん、最高級品だ。
しかし、わたしは食事時に、かなりワインを飲んでしまった。これ以上のアルコールは、まずい。
「もう、飲めないよ。そろそろ、宿に引き上げなくてはならないし」
宿泊の予約をしていたホテルは、別の通りにある。ジュンとエディは、そちらに落ち着いているはずだ。ジュンにも護衛チームが付いているから、特に所在確認はしていない。しつこく確認すると、
『親父は、あたしを信用してないの!?』
と怒り出すからだ。まったく、年頃の娘は難しい。
相変わらず洒落っ気はないが、ジュンも十六歳。そろそろ、親離れの時期なのかもしれない。
最近のジュンは、上陸休暇中、常にエディを連れ歩く。というか、エディがジュンに張り付いているのだが。
わたしが最初に、
『節度ある交際を』
と頼んだ通り、エディはあくまでも『同じ船の仲間』という立場を守ってくれている。だが、傍からは、似合いのカップルに見えることも間違いない。知り合いの船長たちからは、
『いい婿さんが見つかったじゃないか』
と言われるようになってしまった……
「あら、出航は明日の午後でしょ。今夜はこのまま、この部屋に泊まって下さればいいのよ」
断れないうち、手にグラスを持たされてしまった。今日はどうも、ドナのペースに巻かれている。
考えてみたら、わたしは女性が苦手なのかもしれない。これまでは、ジュンがいたから、それを理由にして、女性から逃げていられただけか。
「そうはいかない。娘がいるので……」
と言いかけてみたが、
やはり通用しなかった。
「あら、お嬢さんはもう大人でしょ。ちゃんと市民権を取っているんだもの。それに、司法局の護衛も付いているはずだし」
「それはまあ、そうなんだが……」
ドナはわたしの隣に座り、軽くグラスを合わせてきた。
「乾杯。再会を祝して」
間近でにっこりされてしまうと、やはり、形だけでも、グラスに口をつけることになる。
再会はいいのだが、どうもおかしい。
ドナ・カイテルは、こういう女性だったろうか。
大学の同窓生には違いないが、学部も違ったし、それほど親しかったわけではない。彼女と同じ研究室に友人がいたので、出入りする時に、挨拶したという程度。
卒業以来、二十何年も会わずにきたのに、この親しげな態度は何なのだ。
もしかして、わたしが有名人になったので、好奇心から、味見でもしようというわけか。
興味本位で近づいてくる女性は、たくさんいる。そのつもりになれば、毎週でも、違う女性と付き合うことができるだろう。
だが、わたしはそういう女性たちのことは、礼儀正しく退けてきた。
わたしは死んだ妻を愛しているし、娘に言い訳できないような真似をするつもりもない。本気で恋愛するならともかく、遊びで付き合うのは無理だ。
だが、ドナ・カイテルは、そういう女性たちとは違うはずだ。学生時代はひたすら研究に打ち込んでいたし、卒業してからは、自分の事業に邁進してきた様子。社会的には、わたし以上の成功者だろう。なぜ今になって、わたしに接近する必要が?
わたしの気分を察したかのように、ドナは言う。
「警戒しているのね。わたしが違法組織に取り込まれて、あなたを暗殺するとでも?」
つい、苦笑してしまった。違法組織の〝連合〟が、わたしの首に賞金をかけてから、もうずいぶんになる。わたしの友人が、体内に仕掛けられた爆弾で、吹き飛ばされたこともある。
だから今も、司法局のチームが、わたしを幾重にも取り巻いている。ホテルのロビーでも、レストランでも、エレベーターホールでも、常に複数の眼が光っている。
「いや、そんな風には思っていない」
ドナ・カイテルは、懸賞金に釣られる小者ではない。違法組織の甘言に惑わされる馬鹿でもないだろう。
「鈍いのね、相変わらず……」
「?」
ドナは学生の頃も美人だったと思うが、当時はいささか、冷たい美人だった印象がある。何しろ秀才だったから、劣等感を刺激された男たちはみな、こそこそ迂回していたのではないだろうか。
今は落ち着きが増し、優雅で貫禄ある淑女だ。だからこそ余計、今夜の態度が腑に落ちない。
「あなた、覚えていないんでしょうね。学生時代、わたしが研究室の先輩ともめていた時、ちょうど、あなたが来たのよ」
「そうだったかな?」
「先輩は、わたしが彼の発見を横取りしたと思っていたの。もちろん、誤解だったんだけど。口論の挙句、わたしが殴られそうになった時、あなたが助けてくれたのよ」
「そう……だったかな?」
よく覚えていないが、ドナがわざわざ、でたらめを言う必要もないだろう。
「ええ、背中にかばってくれたわ。そして、先輩の腕を止めて、押さえ込んでくれたの。自分が立ち会うから、冷静に話をしろって仲裁してくれた。その後で教授たちが来て、誤解が解けたんだけど」
そう言われてみれば、そんなことがあったかも。
「わたしも悪かったのよ。世間知らずで、生意気で、他人はみんな馬鹿だと思っていたから。たぶん、日頃から、良く思われていなかったんでしょうね。でも、あなたがためらわず、わたしをかばってくれたから。それが、とても嬉しかったの」
まあ、当時の彼女はいかにも、馬鹿に用はない、という態度だったからな。
「それはきっと……男が女を殴ったら、まずいからだろう」
ドナは自嘲を込めて笑った。
「女扱いしてくれて、ありがとう。あの時も、今も、わたしはずっと、他人に嫌われたり、恐れられたりするばかりだから」
それを、今は悲しいと思っているのだろうか。
「そんなことは……ないだろう。きみの所の社員たちは、きみを尊敬しているよ」
それは、今日、短い会話の端々から感じ取れた。
「ええ、他社も恐れる鬼社長ってね」
まあ、それはそうらしいが。
「仕事なのだから、厳しいのは当たり前だろう」
おかげでカイテル製薬は、立派な中堅企業に育ったわけだし。
自分でそう顧みられるようになっただけ、ドナもすいぶん丸くなったのではないか。
いつの間にか、ドナはわたしの横に、ぴったり付いて座っていた。ほとんど、膝をくっつけるようにして。そのうち、シャンパングラスを置いて、わたしの肩にもたれかかる。
「今日は本当に、会えて嬉しかったわ。わたしに時間をくれて、ありがとう」
「いや、何、久しぶりだし……」
やはり、誘惑されている……のか?
鬼社長は事実だろうが、甘い香りのする美女なのも間違いない。こちらも酔っているから、いささか危険だった。おまけにドナは、切ないような吐息混じりでささやく。
「気がついたら、あれから二十年も経っているのよね。いえ、二十五年かしら。ずうっと、仕事ばかりだったわ。私生活なんて、ないようなもの。帰ってきて、寝て、また起きて、出ていくだけ」
「だが、オーナー社長なら、みんな、そんなものだろう」
「男はそれでも、家庭が持てるわ。奥さんが、世話をしてくれるでしょ。子供だって、育ててくれる」
全ての家庭がそうとは限らない。
「うちの船医みたいに、子供をおぶって試験を受けた男もいるがね」
「学生結婚なんですってね。うらやましいこと」
《エオス》の内情まで知っているとは、意外だが……
もしや、ドナは今になって、結婚すればよかったと後悔しているのか?
しかし、結婚自体なら、幾つになってもできる。卵子は若い頃に保存してあるはずだから、子供だって作れるだろう。
まさか、その相手として、わたしに白羽の矢を立てたとか?
それなら光栄だが……唐突すぎて、怖い気がする。なぜ、わたしなのだ?
違法組織に命を狙われている男なんて、厄介すぎるだろう。
この話題に深入りしたくなかったが、ドナは続ける。
「あなたなんか、電撃結婚だったものね。まさに、世紀のロマンスだったわよね」
「それはまあ……たまたま、妻と出会ったから」
マリカが違法組織から脱走してきて、わたしに衝撃を与えたからだ。そして、黒い悪魔から、白い天使に変貌した。
「そのあたりは、ニュースでも、映画でも拝見したわ。当時は、世界中の話題だったもの。でも、奥さまは、数年前にお亡くなりになったのよね」
「ああ」
そのことについては、あまり話したくない。マリカは、本来の寿命よりはるかに早く死んでしまった。あれほど努力して、市民社会に加わろうとしたのに。ジュンだって、どれほど苦しんだことか。
ドナも、わたしの気分は察してくれたらしい。
「それからは、お嬢さんだけが楽しみ?」
と話題をそらした。
「まあ……そんなところかな」
並みよりお転婆で強情で、危なっかしい娘だ。人からはファザコン娘と呼ばれているが、最近では……若い者同士、エディと遊ぶ方がいいのだろう。それで当然とは思うものの、寂しい気持ちは否定できない。
「でも、お嬢さんにも、恋人ができたんでしょ? 何かで見たわ」
エディのことだ。年齢も外見も中身も、ジュンと釣り合いのいい好青年。だがジュン本人は、エディを便利な相棒としか思っていない。色っぽい雰囲気は、まだないのだ。
「そうなればいいが、まだ……」
ぎくりとしたのは、ドナの手がこちらの太腿にかかってきたからだ。そして、そろそろと撫でてくる。これはもう、限界だった。
「あー、わたしはそろそろ……」
「だめ。逃げないで」
ぎょっとした。ドナが大きく脚を開いてわたしにのしかかり、首に腕を回してくる。スリットの入ったスカートが大きくまくれて、薄いストッキングに包まれた脚が丸見えだ。もっと早く、退散すればよかった。
「ドナ……」
乱暴に振りほどくわけにもいかず、熱く柔らかいキスを受けてしまった。温かい掌が、わたしの顔をはさんでくる。唇が動いて、顔中にキスが続けられる。さすがに刺激が強い。長いこと、女性の感触から遠ざかっていたから。
だが、マリカを失った時の苦しみ、死に向かう彼女を見ているしかなかった日々、あんなことに二度と耐えられるとは思えない。再び、誰かと深い関係になるのは怖い。
「申し訳ない。まだ、妻のことを愛しているもので」
ドナの手を取って、静かに顔から離した。ドナは傷ついた目をしたが、それでも苦笑して、わたしの上から降りた。めくれたスカートを直し、ソファから離れて窓辺に行く。市街の夜景を背景にして、わたしに背中を向けたまま言う。
「よくわかったわ。わたしはあなたにとって、全然、女じゃないのね」
既に、あきらめをつけたような態度。
「いや、そういう意味ではなく……きみは美人だし、聡明だし……最高級の女性の一人だと思う……」
「でも、女としては見られないんでしょ」
わたしが困っていると、彼女は決然とした様子で振り向いた。薄く微笑んでいる。
「いいわ、許してあげる。今日はただ、あなたに告白したかっただけ。あの頃から、ずっと好きだったのよ」
いきなりの直球。
それこそ、驚きだ。というより、信じられない。卒業以来、何の音沙汰もなかったのだから。
いや、学生の頃だって、数えるほどしか話したことがない。どこに、何十年も思い続けるような要素があったというのだ。
だが、ドナは真剣な目をしている。
「わたしが馬鹿だったのよ。男なんて、必要ない。恋愛なんて、くだらないと思ってた。自分は社会で成功してみせる、一人で何でもできると思ってた」
ドナの顔は、もう笑っていない。むしろ、怒っているかのようだ。
「その通りよ。わたしは有能で、何でもできる。事業に成功して、地位も手に入れた。お金もある。でも、四十を過ぎて、ようやくわかったの……このまま一人で死んだら、何のための人生なのかって。後悔した時、思い浮かんだ男は、あなただけだったのよ」
そして、真剣な顔のまま、わたしに歩み寄る。
「これから、わたしと付き合ってくれる可能性はある?」
まるで、決闘でも挑まれているかのようだ。ごまかしは効かない。
「それは、難しい……だろうな。わたしは船に乗っているし、きみは会社にいるだろう」
「ええ、でも、あなたが承知してくれれば、休暇を合わせることはできるわ。どこかで落ち合って、何日か過ごすことはできるでしょう?」
しかし、そこまでして会って、何を話す?
学生時代、もしわたしがドナを好みだと思っていれば、自分から口説いたはずだ。
それをしなかった。
しようとも思わなかった。
当時のわたしは、もっとふわふわ、キラキラした女の子たちに魅せられていた。今のわたしになら、ドナの知性や意志力の魅力もわかるが、だからといって、休日に自分の生活圏を離れて、わざわざ落ち合おうとまでは思わない。それなら、娘と遊ぶ方がいい。
ジュンが他の男に奪われてしまうまで、たぶん、わずかな年月しか残っていないから。
「申し訳ないが、現在のところ、女性と付き合うつもりはないので……きみに限らず、他の誰とも」
ドナはふっと笑った。冷徹な秀才の素地を見せて。
「ええ、そう言われるのはわかっていたの。あなたには、お嬢さんが一番ですものね。でも、万に一つの希望を懸けて、確認してみただけ。はっきりしたので、迷いがなくなったわ。ありがとう」
では、あきらめてくれたのか?
その時、ドナの姿が傾いた。いや、傾いたのはわたしだ。ソファから転げて、床に崩れ落ちた。なぜか、起きられない。手足の力が抜けている。
「心配しないで。ただの睡眠薬だから」
だが、護衛チームがいる。体温や脈拍などに不審な変化があれば、この腕の端末を通して、警戒信号が発せられる。
ドナの手が伸びて、わたしの左手首から通話端末を外した。何かのケースに入れ、カチリと嵌め込む音。準備してあるのか、何もかも。ドナがすることなら、抜かりはないに違いない。辺境への脱出も。
「お休みなさい、ダグラス。何も心配しなくていいわ。あなたを違法組織に売るなんて、わたしは考えていないから」
では、何を企んでこんな真似を?
口を開く力は、既になかった。わたしは、泥のような眠りに引き込まれた。
あたしはエディとディスコで遊んだ後、ホテルの客室で熟睡した。エディは同じ階の、別の部屋にいる。
空腹で目覚めた時は、もう日が高い。親父の端末の位置表示を確かめたら、まだホテル・マグノリアだ。
(結局、ドナ・カイテルの部屋にお泊まりか……)
苦いものはあったけれど、仕方ない。客観的に見れば、親父はまだ若いのだ。どんな顔をして、このホテルに帰ってくるのか知らないけれど、冷静に、素知らぬふりで迎えてあげなくては。
もし、交際が進んで、再婚まで行くことになったとしても、認めるしかない。親父の人生だもの。
身支度して、エディと一緒に朝食にしようと思っていたら、司法局の護衛チームから連絡があった。
「ミス・ヤザキ、申し訳ない」
え、何。
「お父上が、行方不明です。ドナ・カイテル氏の姿も消えました」
親父の護衛チームは、一晩中、親父がドナ・カイテルの部屋にいるものと信じていた。事実、親父の端末は何の異常もなく、親父の位置を示していた。
だが、朝の九時過ぎになって、念のため、護衛チームが親父に予定を尋ねる通話をしたら、返答がなかった。慌ててホテルの部屋に踏み込んだら、そこには、ダミー装置に嵌められた端末だけが残っていたという。
「だけど、皆さんで見張っていたんでしょ?」
「無論です。エレベーターも階段も、窓も、バルコニーも、その階からの出入りは、全て見張っていました」
「じゃあ、二人はどこから消えたの!?」
結局、隣の客室に通じる隠し扉があったことが判明した。抜け道は更にその隣まで通じ、そこから、下の階の客室に降りられるようになっていた。
当日、それらの部屋を予約していた客たちは、それぞれ、名義を利用されただけだったり、カイテル製薬からの商談で呼ばれ、夜中まで社交クラブで接待を受けていたりしたことも判明した。
ドナ・カイテルは空の部屋を通過して、親父を地下駐車場まで降ろしたのだろう。アンドロイドのボーイが大型の荷物を運ぶ姿なら、誰に見られても不審がられることはない。
「地下にも護衛はいましたが、車の出入りが多く、一台ずつ確認することはしていませんでした」
という話。
まあ、大型のホテルで、全ての出入りを精密に監視するのは無理だ。ましてホテルの管理システムが、警備モニターに偽の情報を表示していたなら。
ホテルが内装の工事をしたのは半年も前のことで、その時から、抜け道が隠されていたらしい。ホテルの管理システムも、その時に乗っ取られていた。通常の業務に支障がなければ、人間の従業員たちは、そんな工作には気付かない。
改装工事を請け負った会社に調査の手が入ったが、社員は誰も、そんな企みには関与していなかった。会社の管理システムを通じて、現場の作業用アンドロイドが操られていたらしい。おそらくは何者かが、遠隔で、二つの会社の管理システムを乗っ取ったのだ。
いくら優秀でも、ドナ・カイテル個人には無理。
そんな細工ができるのは、辺境の違法組織くらいのもの。有力組織なら、日頃から市民社会に魔手を忍ばせている。
「ドナ・カイテルの奴、何年もかけて準備してたんだ……」
懸賞金のかかった親父を違法組織の〝連合〟に売って、自分は不老不死を手に入れる。そういう筋書きだ。
ことによったら、懸賞金制度の元締めである〝グリフィン〟と、話がついていたのかもしれない。それならば、逃走のために、どんな援助でも受けられる。
今頃二人は、辺境へ向かう船の中だろう。
市民社会にはもう、彼女の欲しいものは、何も残っていなかったのだ。
目を覚ました時、自分がどこにいるのか、わからなかった。
簡素な内装の、知らない部屋だ。ただ、移動する乗り物の一室ということは、感覚でわかる。客船にしては、愛想の足りない部屋だが。
それに、このパジャマは何だろう。ぼくはいつも、裸で寝るのに。
ベッドから降りて、附属する浴室に行き、用を足し、顔を洗った後、鏡を見て、ぎょっとした。
誰だ、これは。
この、こちらを見ている中年男は。
しばらく鏡を眺め、手で自分の顔に触り、胸や腹に触れて、ようやく、自分自身の姿なのだと納得した。
しかし、いったい何だ、この老け方は。
うっすらと髭の伸びた、辛気臭い中年男ではないか。
顔立ちは自分のものだが、顔の輪郭が、はっきりとたるんでいる。肌からは張りが消え、腕や脚の筋肉も落ちている。髪にはちらほら、白いものが混じっている。肥満体ではないが、余計な脂肪が一巻きついた、という感じの鈍重さ。
眠っている間に、誰かに老けメイクでもされたかと思ったが、そうではない。全身が醜くたるんでいる。
だが、ぼくは大学生だぞ。
まさか、一晩で中年男になるはずがない。
もしや、何かの病気でこうなったのか。
それとも……恐ろしい想像だが……中年男になるまでの記憶を失ってしまった、とか?
はっと気がついて寝室に戻り、ニュース番組で日付を確認した。
愕然とする。
二十年以上、未来の日付ではないか。
いや、今が現在なのだ。この中年の自分が、現実なのだ。
「ダグ、起きたの? 気分はいかが?」
どのくらい、呆然としていたものか。ドアが開いて、知らない女が入ってきた。ショートカットにした茶色い髪、金茶色の目をした中年女性だ。白いブラウスに真珠のネックレス、紺のタイトスカート。
背が高くて姿勢が良く、かなりいい女ではあるが、ぼくの二倍くらいの年齢であることは確かだ。
いや、違う。
ぼくの肉体年齢からすれば、同じくらいの年齢の相手。今は、ぼくも中年なのだ。
「失礼ですが、どなたですか」
と問うと、その女性は、悲しさとあきらめの混じったような顔をする。
「やっぱり、わからないのね。ドナよ……あなたの妻よ」
妻あ!?
中年男になっただけでなく、結婚まで!?
ぼくが唖然としているのを見て、彼女は説明する。
「ダグラス、あなたは病気で、記憶が混乱しているのよ。ゆっくり説明するから、こちらにいらして。まず、お食事にしましょう」
「待ってくれ」
ドナという名前には、覚えがある。それに、この女性の声にも聞き覚えがある。
「まさか、ええと……ドナ・カイテル?」
空手仲間のジャックと同じ研究室にいる、つんけんした秀才女の。
大学でも有数の才女だというが、ひたすら研究だけに没頭し、他人に興味を持たない
ことがありありわかってしまうので、周りからも敬遠されている。いや……されていた。
「ええ、そう……そのドナよ」
彼女は微笑んだ。寂しそうに。
ぼくが中年男になっている以上に、信じられない。
あの、お高い秀才が、よりによって、ぼくの妻だなんて。
そのドナに着替えを出してもらい、身支度してから通路へ出て、他の部屋に移動した。やはり、船の中だ。しかも客船ではなく、機能優先の輸送船。
「他には誰もいないから、気兼ねしないで」
確かに、人の姿は見えない。人が少ないだけか、それとも、本当にドナとぼくだけなのか。
「ここは、どのあたり?」
彼女は銀河座標を答えた。かなり辺鄙な領域だ。何だって、こんな場所に。おまけに、定期航路からも外れているという。
「きみが、パイロットの資格を持っているのか?」
レンタルの輸送船を借りるのにも、パイロット・ライセンスが必要だ。B級なら筆記試験だけで取れるが、それでは決まった航路だけしか飛べない。
「いいえ、違うわ。資格を持っているのは、あなたよ」
「ぼくが?」
確かに、A級ライセンスを取るための勉強はしているし、夏休みのアルバイトで貨物船にも乗った。だが、まだA級の試験は受けていない……実務経験が足りないと、受験資格がないから……
いや、既に試験を受けたのか? それを、ぼくが忘れているだけ?
「とにかく、お腹が空いているでしょう?」
食堂には、ぼく一人分の食事が用意されていた。パンケーキとベーコンエッグ、トマトとハーブのサラダ、ヨーグルト、果物、オレンジジュース、コーヒー。
「わたしはさっき頂いたので、あなたお一人でどうぞ。わたしはコーヒーだけ付き合うわ」
食欲はあったのだが、それでも、いつもの半分くらいしか食べられない。
「それでいいのよ。年齢相応の量よ」
テーブルをはさんで、ドナは穏やかに言う。
「ぼくは何歳なんだい?」
と恐々尋ねた。
「四十七歳……わたしは、あなたより二つ下」
ほとんど、老人と言われたに等しいショックだ。五十近いなんて。それでは、あとはもう、余生しか残っていないではないか。気持ちはまだ、二十歳なのに。
「本当に、そんな歳になっているのか」
「ええ……わたしたちが大学生だったのは、もう四分の一世紀も昔のことよ」
彼女もまた、ぼくの知っている〝ぎすぎすした才女〟から変貌している。優しい言い方をする、落ち着いた淑女になっているのだ。年月が経過したことは……認めるしかない。
「ええと、その……」
ぼくの感覚では、ぼくの母くらいの年齢の女性だ。どんな風に話しかければいいのか、態度に困る。
「ぼくが、きみと、その、結婚していると?」
「ええ、そうよ。大学を卒業してから、三年後に結婚したの」
ドナは左手を上げ、プラチナの指輪を見せる。
ぼくも自分の左手を見た。同じデザインの指輪がはまっている。指輪を少しずらしたら、くっきり痕が残っていた。いかにも長年、この指にあったかのように。
「ぼくはまったく、覚えがないんだけれど……」
「それは仕方ないわ。ひどい事故に遭ったんだもの」
「事故?」
「というより、事件ね。最初から話すから、聞いてちょうだい」
場所を移して、互いに椅子に座り、向き合った。
「あなたは大学卒業後、軍に入ったの。昇進して、士官になったわ。でも、長くはいなかった。大組織には、向かない性格なのよ。何度も上層部と喧嘩して、見切りをつけたの。その後、自分で輸送船を買って、事業主になったわ」
へえ、と自分で感心する。確かに、船が好きなのは事実だが。せっかく入った軍を辞めたとは、勿体ない。ぼくはそんなに、こらえ性がなかったのか。
「仲間を集めて、あちこち飛び回って、仕事は何とか軌道に乗ったのだけれど……去年、運悪く、違法組織の船とぶつかったのよ」
何だって。
「そいつらは何かの目的で、中央に侵入してきたのね。あなたは捕まって、洗脳されかけたの。彼らはあなたを市民社会に戻して、手先として利用する予定だったんでしょうね。あなたの次は、あなたの仲間の番だったでしょうけど、彼らは危ういところで助かったわ」
彼らは……どんな仲間か覚えていないが……無事で済んだらしい。
「ぼくは……」
「あなたも、完全に洗脳されてしまう前に、軍に救出されたのよ。ただ、その洗脳のせいで……本来の記憶を、部分的に消されてしまったのね。そして、新しい記憶を植え込まれる前に、救助されたの」
そんな馬鹿な。
二十何年もの記憶が、そんなに綺麗に消されてしまうなんて。
だが、確かに、そんなことでもなければ、この肉体と記憶のギャップが説明できない。
「病院では、色々と治療法を模索したわ。何とか、記憶を取り戻せないか。でも、あなたは混乱が激しくて、幾度も心の発作を起こしたの。洗脳作業が中断されたことが、悪かったのね。暴れたり、ドクターに殴りかかったり、治療を拒絶したり」
全然、まったく、記憶にない。
「それで、仕方なく医療カプセルに入れて、しばらく眠らせていたの。治療法が確立するまでの、応急処置として。でも、結局、これという治療法がないのよ。それまでに色々試したことが、全て失敗していたし。催眠療法を試したこともあるわ。治療されたこと、覚えていない?」
「わからない……」
まるっきり、覚えがない。他人の話のようだ。
「その方がいいかもしれないわ。治療の間、ずっと苦しんでいたもの」
何度も鎮静剤を打たれたり、あれこれの薬剤を試されたりしたことで、余計、具合が悪くなっていったという。
「いま思い返すと、ろくでもない治療だったわ。いいえ、治療という名の実験だったかもしれない。市民社会の技術で、辺境の精神操作を取り消せるはずがなかったのよ」
ドナはずいぶん、病院に対する不信感を持っているようだ。
「で、今は? ぼくたちは、この船でどこへ?」
別の病院へ向かっているのか、どこかで保養しようとしているのか。
「わたしもね、あなたの記憶を取り戻す方法を、色々考えたの。それで、結局、中央では、打つ手がないとわかったの」
まさか。
「辺境へ行こうっていうんじゃ、ないだろうね」
ぞっとした。本当の話なのか。この船に、他に誰もいないというのなら。
「それしかないと思うのよ。記憶の操作や何かでは、辺境の方がずっと進んでいるわ」
「無茶だよ、そんな。ど素人が、のこのこ辺境へ出ていったって」
「ええ、危険はわかっているわ。でも、あなた、今の自分に自分で耐えられる?」
この、たるんだ中年男の肉体に?
確かに、気持ちが暗くなる……人生を盗まれたようで、腹立たしい。しかし、ぼくの記憶はもう、消されてしまったのではないか。この現実に、慣れるしかないだろう。
「子供時代のことや……大学生活のことは覚えてる。卒業した記憶は、ないけど」
「記憶を想起するためのリンクが、部分的に切れているのだと思うわ。辺境でなら、何か方策が見つかると思うの」
「だけど、辺境で、ぼくたち二人きりで、どうやって……」
ドナは笑った。半分、自嘲のように。
「あなたは忘れているでしょうけれど、わたし、お金ならあるのよ。辺境では、お金次第で、何でも買えるんだから」
金で買うというのか。辺境での安全と、ぼくの記憶を取り戻す方法を。
その晩は、目覚めた寝室で、一人で寝た。
何もかも、他人の話のようで、実感がない。
だが、ぼくが中年男になっているのだけは事実。
腕立て伏せをしても、腹筋をしても、
空手の型を演じてみても、思うように肉体が動かない。明らかに、体力が落ちている。
四十代としては健康なのだと思うが、頭が覚えている肉体の感覚と、ギャップがありすぎる。
それにまた、ぼくをいたわるドナの優しさは、肌で感じられる。
学生時代の彼女は(それは、つい昨日のことのようだが)、話す言葉も鋭く、いちいち尖っていたが、今は成熟して、穏やかだ。結婚したというのが本当なら、ぼくはどこかの時点で、彼女の優しさに気づいたのだろう。
だが、それにしても、すっきりしない。
本来の道を外れて迷子になっているような、何か大きな忘れ物をしているような、あやふやな気分だ。。
これが、記憶を操作それた後遺症なのか。
翌日もまた、話の続きを聞いた。
ドナは、病院からぼくを盗み出したのだそうだ。医療カプセルで眠ったままのぼくを、貨物のコンテナに詰めて、軌道上の船に運び上げた。最初は個人用のクルーザーに乗せ、途中でこの輸送船へ移した。
この船は、違法組織から買い入れたものだという。軍の追跡を振り切ったと確信してから、初めてぼくを覚醒させたのだそうだ。
「よく、そんな無茶をしたなあ」
まるで、映画のようではないか。
「そりゃあ、あちこちにお金を撒いたもの」
ドナは自分で製薬会社を興し、それで成功したのだそうだ。その財産の大半を密かに辺境に移し、そこに腰を落ち着けて、ぼくの記憶を取り戻す方法を探すという。
「たとえ記憶が戻らなくても、あなたが苦しまないで過ごせるようになれば、それでいいのよ」
「しかし、そんなことをしたら、二度と市民社会に戻れないじゃないか。きみだって、きみのご両親と二度と会えないことになる」
違法組織と取引すれば、立派な犯罪者。
しかしドナは、構わないという。
「わたしにとっては、あなたがいる場所が家なのよ」
ぼくの隣に座って、ぼくの肩に頭をもたせかけてくる。ぼくの手を取って、そっと撫でてくる。
これが、嘘や演技とは思えない。それならば、ぼくはずいぶん、愛されているのだ。
「わたし、後悔しているの。夫婦なのに、一緒にいる時間が少なすぎたわ。あなたはずっと辺境航路を飛んでいたし、わたしは自分の会社にかかりきりだったでしょう。何度もあなたに、子供が欲しいと言われたのに、つい、先延ばししてしまって」
子供がいれば、ぼくの記憶を取り戻すのも、もっと楽だったのではないかと言う。あるいは、子供にパパと呼ばれれば、記憶の欠落があっても、耐えられたのではないかと。
ドナがあまりにも悲しげなので、こちらはつい、慰めることになってしまう。
「子供なら、これからでも作れるじゃないか」
正直、まだ、ドナが自分の妻だということが、実感できていないのだが。
「そう思ってくれる?」
ドナは少し慰められたような顔をしたが、しかし、辺境で子育てというのは無理がある。映画や小説でしか知らないが、組織同士が互いに争い、殺し合っている無法地帯ではないか。
「今からでも遅くない。市民社会に戻らないか。ぼくの記憶は、そのうち戻るかもしれないだろう。戻らなくても、きみがいてくれれば、暮らしていけるだろうし」
しかし、それに関しては、ドナは頑固だ。
「わたしは科学者よ。あなたの治療法は、とことん探したわ。あなたのためには、辺境に出るのが一番なの」
「だけど、記憶が戻らなくても、生きてはいける」
軍での経験も、輸送船稼業の経験も、全て失くしているが、少なくとも、大学生レベルの知識は残っている。ここからまた学んで、何かの仕事をしていけばいいだろう。
「でも、あなたはわたしと結婚していたことも、忘れているわ。今のあなたから見て、わたしはただの〝おばさん〟でしょう?」
即座に『違う』とは言えなかった。おそらく、そのことが、ドナを一番傷つけているのだ。『見知らぬ中年女』を見るような、ぼくの顔が。
「若者の精神状態のままでは、中年のわたしを愛してくれるのは、無理なのよ。だったら、わたし、若返りを試すわ」
「ドナ……」
「本物の不老処置は、辺境でなければ受けられないのよ。あなたも若返れば、ちょうどいいわ。わたしたち、また、出会いの頃からやり直せるでしょう?」
可哀想に、ジュンはよく、泣き腫らした目をして起きてくる。
人前では、努力してしゃんとしているが、親父さんのことが心配で、あまり眠れていないようだ。
軍や司法局の調査でも、依然、ドナ・カイテルと親父さんの行方は掴めていない。
会社には、手掛かりは残っていなかった。協力者も見つからなかった。
どうやら、カイテルの個人的犯罪であるらしいのだ。どこかの違法組織の助けは借りたかもしれないが、計画そのものは、自分一人で練り上げたのだろう。
ぼくたちも最初は、カイテルが親父さんに懸かった懸賞金目当てに、グリフィンと取引したのだと思った。男か女か不明だが、辺境のどこかにいる、懸賞金制度の運営責任者だ。
だが、それならば、すぐにグリフィンから全世界に向けて、公式発表があるはずだった。長年の標的だった翔・ダグラス・矢崎船長を、ついに捕えたと。
だが、そのような発表がないまま、もう半月になる。
「ドナ・カイテルは、単に、親父さんを独り占めしたかっただけなのかもな」
とルークが言う。エイジも頷いた。
「二十五年間、ずっと片思いだったのかも」
だとしたら、女の執念は恐ろしい。
「親父さんに交際を迫って、断られたもんで、誘拐に走ったのかもな」
とジェイク。
「でも、あらかじめ細かく準備していないと、こんな見事な消え方はできないですよ」
「その準備をした上で、親父さんに迫ったんだろ。親父さんが色仕掛けで陥落すれば、それで済んでいたのかもな」
仕事の上では、きわめて有能な女性だとわかっている。それが、片思いの男性をさらうために、ありったけの知恵を絞ったのか。
「親父さんが、うまく彼女をなだめられればなあ。自首させることも、できるかもしれないが」
「そんな器用な真似ができないから、さらわれたんだろ」
「モテるのも、時によりけりだな」
「まったく、女の思い込みは怖い」
ジュンが食堂に現れると、みんな、ぴたりと話をやめる。そして、そそくさと散っていく。
「そうだ、俺、コンテナの点検、やり残してたんだ」
「上陸艇の整備、まだ残ってた」
ジュンは彼らを見送り、椅子に座って、ため息をつく。もう、怒る気力もないようだ。
「何か飲む?」
「うん、それじゃ、ココア……」
ぼくがココアを作って出すと、ジュンは疲れたようにカップを持つ。
たぶん、軍も司法局も、二人の行方は探せないだろう。いったん辺境に消えてしまったものは、何かよほどのことがない限り、浮上してこない。
顔を変えてしまえば、あるいは肉体を乗り換えてしまえば、たとえ違法都市の街路で家族がすれ違っても、見抜けはしないのだ。
《エオス》は、予定通りの仕事を続けていた。貨物を受け取り、移動する人を送り届け、研究基地に物資を届けて、また母港に戻る。親父さんがいなくても、決まった仕事は入ってくる。ジェイクが船長代理でいれば、何の不都合もない。
ジュンとしては、仕事などキャンセルして、辺境に親父さんを探しに行きたいだろうが、それは無理だった。
あてもないのに、どこを探すというのだ。
辺境には何百もの違法都市があり、たくさんの人間とバイオロイドが行き交っている。違法組織の基地なら、何十万あるかわからない。
ドナ・カイテルはとうに姿を変え、どこかに潜伏しているだろう。親父さんのことは、厳重に閉じ込めているはずだ。
ジュンにもそれはわかっているから、耐えている。そして、待っている。ぼくもジュンも、口には出さないが、一つの可能性を考えていた。
アイリスだ。
この事件は、辺境にも知られている。アイリスなら、何か情報を掴んで、こちらに知らせてくれるかもしれない。
だが、アイリス一族が、辺境でうまく生き延びているのかどうか。それすらも、ぼくたちには知りようがないのだ。
誰に言われなくても、わかっている。分の悪い賭けだということは。
わたしがどれほど隠そうとしても、下手な言い訳を繰り返しても、ダグラスはやがて、真実に気づくだろう。そして、怒るだろう。わたしが彼を、最愛の娘から引き離したのだから。
それでも、少しでも、わたしを哀れと思ってくれないか。
真実が発覚するまでに、彼がいくらかでも、わたしに対する好意を持ってくれたら……そこに、わずかな望みを懸けていた。
ただ、その望みが実現する可能性は、かなり低い。
破局が訪れても、仕方ないという覚悟はしている。
そうなったら、それまでのこと。
わたしはそれまでの時間を、精一杯楽しむから。
若い頃は軽蔑していたことを、今になってこんな風に求めるとは、自分でも笑ってしまう話だけれど。
でも、ダグの衣類を整えたり、食事の支度をしたり、一緒にお酒を飲んだり、隣に座って肩にもたれたりするのが、気持ちいい。かさかさに乾いていた心が、しっとり潤う気がする。
好きな男に寄り添う。
その男のために、何かする。
本当はこれこそが、女の本能に適う暮らしなのだろう。
四十を過ぎてから、仕事だけの暮らしが、つくづく虚しくなってきた。
恋人もいなければ、これといった趣味もなく、親しい友人がいるわけでもない。たまに誰かの家に招かれ、ペットや子供のいる賑やかな暮らしを見せられても、その温かさは自分のものではないのだ。若い部下たちからは、密かに鬼社長と呼ばれているのを知っている。
自分は一人。
若い頃はそれが当たり前で、いつも未来の計画に夢中だったから、別に寂しいとは思わなかった。
でも、このままでは、すぐに老女になってしまう。
生理の量も少なくなった。髪の毛も細くなっている。アンダーヘアも薄くなり、地肌が透けて見えるようになった。若い頃はあんなに、濃く茂っていたのに。
運動をして、贅肉はつけないように努力しているけれど、肌の張りは戻ってこない。懸命に手入れをしても、若い娘の横に立ったら、くすんでいるのがはっきりわかる。
だったら、賭けてもいいでしょう。
若返って、好きな男を手に入れる。
これからは、辺境で自分の組織を育てていく。
ダグも、遠慮がちではあるけれど、肩を抱いてくれるようになった。頬や額に、お休みのキスをしてくれるようにもなった。
でも、まだ、それ以上のことは望めない。
青年時代の意識に戻ってしまった彼には、わたしははるか年上の、枯れかけた中年女にすぎない。
彼が中年の意識の時に誘惑しても駄目だったのに、こうなっては、なおさら無理。
グリフィンから伝えられた記憶封鎖の技術は有効だったが、彼の気持ちをわたしに向けさせることは、また別の話なのだ。
けれど、違法都市に着いて、若返りの処置を受けたら、きっと変わってくる。二人して学生時代の肉体に戻れば、感じ方は変わってくるはずなのだ。
あの頃は、内側から溢れてくる性欲に悩まされていた。生理の前など、胸が張って、自分でちょっと乳首に触れただけでも、びりびり感じて止まらなかった。勉強を中断して、いったん自己処理しなければ、集中力を取り戻せなかったものだ。
野心に突き動かされていたわたしでさえ、自分の肉体の欲望を封じるのに苦労していたのだから、男の側は、もっと激しい衝動に襲われるはずだ。
最初はそれでいい。
衝動で、わたしを抱いてくれれば。
心の絆は、その後から育てられる。だって、他にはいないのだもの。辺境で、彼が心を許せる女は。
「眠れないのか?」
声をかけられて、はっとした。ラウンジのソファで、ずっと考え事をしていたのだ。ダグはさっき、自分の船室に引き取ったと思ったのに。彼もやはり、あれこれ考えて、眠れないのだろう。
「何か飲むかい? 持ってくるよ」
お酒はまずい。酔ってしまって、うっかり余計なことを言ってしまったら、これまでの嘘が台無しになる。
「そうね。ホットミルクを……ちょっとだけ、お砂糖を入れて」
すると彼は気軽に厨房に入り、温めたミルクにバニラの香りをつけて、持ってきてくれた。娘を持つ父親だけあって、家事にも慣れている。
彼の妻も、きっと生前、こうして優しくしてもらったのだろう。違法組織から脱走できただけでも幸運なのに、こんな男性に出会い、助けてもらったなんて、何という奇跡。
でも、そのために彼女は特殊な能力を捨て、逆改造の処置を受けることを決意した。そのことが、彼女の命を縮めてしまったのだ。何が幸運なのか、本当にはわからない。
「ありがとう」
ソファに並んで座り、甘いミルクを飲んだ。それだけのことが、とても贅沢で、胸が詰まる。こういう時間、あとどれだけ過ごせるだろう。
船は何事もなく、辺境の宇宙を飛んでいる。一隻だけのように見えるかもしれないけれど、実際には、密かな護衛が付いていた。
辺境の権力者の一人、グリフィンの保護下にある以上、航行には何の危険もない。これから到着する違法都市でも、居場所は確保されている。
でも、そのことはダグには内緒。
本当は、もっと別の道があったのかもしれない。こんな苦しい芝居ではなく、もっと素直な道が。
学生の頃、もう少し、柔軟になっていたら。
好きだと自覚した時に、素直に行動していたら。
お茶に誘うくらいのこと、あの頃の不器用なわたしでも、しようとすれば、できていたはず。
それができたら、次は食事。次はドライブ。
そうしたら、ダグと結婚していたのは、本当に、わたしだったかもしれないのだ。辺境生まれの戦闘兵器ではなくて。
もちろん、努力を重ね、仕事で成功したことは、良かったと思っている。それがあるから、辺境でも生き残っていけるという自信がある。
でも、恋愛や結婚や出産を、最初から全否定しなくてもよかったのに。
若い頃は、そんな余裕がなかった。精一杯張り詰めて、全力で戦っていた。男という男は、ライバルもしくは路傍の石ころに過ぎなかった。
その戦いの間に、若さは失われた。今ではもう、高価なドレスを着ても、宝石のネックレスを巻いても、特注の化粧品を使っても、若い娘の輝きに勝てはしない。男の欲望を掻き立てることも、難しい。
彼らは、若い女にしか反応しないのだ。
いえ、若くて可愛い女。
わたしは可愛くなかったし、今でもそうはなれない。男を怖れさせ、逃げ腰にさせてしまう強い女。
「ねえ、ドナ」
向かいに座って、ダグが言う。
「もう一度、考えてみないかい。ぼくの記憶が戻らなくても、二人で暮らすことはできるだろ」
彼は、あくまでも良識的だ。
若い頃から、そうなのだ。
自分の中にきちんとした軸があって、それがブレない。だから、不利な戦いにでも立ち向かう。わたしが尊敬できる、数少ない男。
「無理に違法都市を目指さなくても、大丈夫だよ。きみがぼくを病院から連れ出したことなんか、たいした罪じゃない。違法組織と接触したことだって、情状酌量してもらえる。今からでも、引き返すことはできるだろ」
いいえ、できないのよ。
わたし、あなたに大嘘をついているんだもの。
市民社会に戻ったら、わたしは誘拐犯として逮捕され、あなたは娘のものになってしまう。そして、二度と会うこともできなくなる。
辺境に出れば、たとえあなたの愛情が得られなくても、不老処置は買うことができるわ。
それに、わたし、グリフィンと取引しているの。最高幹部会の代理人。懸賞金制度の主宰者。
正体の知れない人物ではあるけれど、辺境に出ることを考えた時、金目当ての弱小組織と取引するよりも、はるかに確実だと思ったわ。
グリフィンは目先の利益のためではなく、現在の社会状況を維持するという大きな目的ために動いている。硬直した市民社会を、実力のある違法組織が取り巻くという構図。
あなたを連れて《アルテミシア》から脱出するために、グリフィンの力が必要だったのよ。
あなたをわたしの組織内に隠しておけるなら、それでいいという約束を取り付けているわ。
市民社会は、ヤザキ船長という英雄を失う。彼の命を奪わなくても、違法組織を束ねる〝連合〟としては、それで十分だと。
その約束を、どこまで信じられるかわからない。でも、わたしはそれに賭けた。賭けないことには、あなたを手に入れられない。
「ごめんなさい。もう、引き返すことはできないわ。行く先には、拠点まで用意してあるの。動かせる財産は、全てそこに注ぎ込んだわ」
ふう、と彼はため息をつく。
「まあ、きみがそういう人だということは、もうわかっているけどね……」
「他人の意見を聞かない頑固者、でしょ」
ほとんどの他人は、わたしより頭が悪いのだもの。そして、その事実を認めることすらしない。不老処置が買える時代になったのに、黙って老いていくなんて。
「ミルク、美味しかったわ。ありがとう。お休みなさい」
わたしの船室へ引き上げようとしたら、ダグは咳払いして、照れたように言う。
「ええと、その……よかったら、一緒に寝ようか」
びっくりして、思わず立ち尽くしてしまった。
とっさには、言葉が探せない。
それから、驚きすぎたかと反省する。夫婦という設定なのだから、素直に喜ぶべきなのかも。
「ダグ、それはとても……」
「いや、あの、そうしたら、何か思い出すかもしれないと思って。きみが厭でなかったら……」
ああ、そうなのね。治療の一環のつもりなの。
それはそうよね。彼の目に、わたしが性的対象として映るはずがない。二十歳の頃でさえ、駄目だったのだから。
でも、それでもいい。この人の隣で眠ってみたい。この人の体温や、寝息を身近に感じてみたい。今はまだ、それ以上は望まないから。
でも、もしも、それ以上のことが起きたら……
準備だけは、してきた。わたしに男性経験がないのを、悟られないように。その芝居が通用するどうかは、これから、どこかの時点で判明する。
「嫌だなんて。嬉しいわ」
すると彼は腕を差し伸べ、わたしを抱き寄せてくれた。広い肩。無骨だけれど、優しい手。
やっとだわ。
たったこれだけのことが、どんなに遠い目標だったことか。
男だったら、最悪、好きな女を強姦することもできる。
でも、女は、好きな男に同情してもらうしかない。自分が、相手の好みでなかったら。
「ごめんよ。何も思い出せなくて。きみにばかり、苦労をかけるね」
精一杯、努力していることがわかる態度。夫婦だと聞かされたものだから、記憶がなくても、懸命に夫婦になろうとする。
「そんなこと……あなたといられるだけで、わたし、嬉しいんだから」
何て間抜けなの。
わたし、あなたを騙しているのに。
でも、本当のことは絶対言わない。あなたの娘は、もう大きいのだもの。《エオス》の仲間がいるし、彼女に惚れ込んでいる青年もいる。
だからあなたは、わたしがもらう。
わたしなりに、最大限、あなたを大事にするのだから。
このまま親父さんが戻らなかったら、どうなるだろう。
待ちの時間が過ぎていく。不思議なほど平穏に。
親父さんがいなくても、《エオス》への仕事の依頼は途切れなかった。誘拐事件のことは市民社会中に知られているので、みんな同情的だ。優先的に、いい仕事を回してくれたりする。
ジェイクもすっかり、船長代理に慣れたようだ。むしろ、親父さん狙いの事件が起きないだけ、平和ともいえる。
ただ、ジュンが笑わないだけだ。
いや、お義理の笑いは浮かべるが、それも、誰かがいる時だけ。自分一人と思っている時は、視線を落として何か考え込んでいる。
あてがなくてもいいから、辺境に捜しに行きたいと思っているのだろう。しかし、それは無謀だとわかっているから、口には出さないだけ。
「ジュン、プリンパフェを作ろうか?」
「夕食は、何がいい?」
「お勧めの映画があるんだけど」
ぼくはあれこれと世話を焼き、ジュンの気を紛らわせようとする。ジュンもぼくには、優しい顔を向けてくれる。
「心配かけて、ごめんね」
とんでもない。生きてジュンの傍にいられる、それ以上の幸福はぼくにはない。
爆破された《トリスタン》で一人だけ生き延びたことも、軍を辞めて放浪していたことも、今では、ジュンに会うためだったと思える。
「ねえ、二十五年も片思いなんて、本当にあるのかなあ」
ジュンは食堂のカウンター席で、プリンとアイスクリームと生クリームを盛ったパフェを食べながら、遠い目をする。
「だって、学生時代にも、卒業後も、親父とは、ほとんど交流がなかったっていうんだよ? あたしだって、彼女の噂なんか、親父から聞いたことないし」
それは既に、マスコミ各社が報道している。当時の同級生たちの証言、カイテル製薬の社員たちの証言。
ドナ・カイテルが、男性であれ女性であれ、誰かと親密な交際をした形跡はない。部屋に誰か男性の写真を飾っていたとか、休日に男性と会っていたとか、そういう証言もない。
本当に、仕事だけの半生だったようだ。
「誰にも言わずに、心の中だけで思っていたのかもしれないよ」
あまり、そういうタイプの女性には見えなかったが。
いや、違うのかな。他人に弱みを見せない分だけ、心の中では純情なのかもしれない。
もしかしたら……ちょっと、ジュンに似ている?
「それにしたって……ずっと仕事だけで生きてきたんなら、自分一人で辺境に脱出して、不老不死を手に入れればいいのに。なんで、親父を巻き添えにするの」
すっかりわかるとは言えないが、少しは想像できる。以前のぼくも、そうだった。自分が本気の恋愛をしていないことを、特におかしいとも、寂しいとも思わなかった。
でも、それは、不幸を知らなかったからだ。
未来はずっと輝かしいもので、自分にはあらゆる可能性があると思っていた。だから、何も焦っていなかった。
《トリスタン》と仲間たちが吹き飛ばされ、クレール艦長を失って初めて、この世の残酷さを思い知ったのだ。
命は尽きる。
幸せは終わる。
だから、一日一日が奇跡の連続なのだ。
灰色のトンネルをとぼとぼと歩いていたら、ジュンを見つけた。初夏の白百合のような少女。
その時から、ジュンがぼくの全てになっている。恋というのは、明日、失うかもしれないと思うからこそ、輝くのだ。
ドナ・カイテルが、どんな気持ちだったのかは知らない。でも、仕事にかまけて、気がついたら人生の後半にさしかかっていた。その時、挫折を知らない秀才の人生に、初めて後悔が忍び寄ったのかもしれない。
自分は、女としての幸せを投げ捨ててきたと。
「自分の人生を振り返ってみたら、きっと、たった一人しかいなかったんだよ。懐かしく思い出せる男性は……」
「だからって、親父をさらって脅迫するの? 脅されたって、愛情なんか湧かないよ」
「同情なら、生まれるかもしれない」
「あの女が、泣き落とし? それこそ、お笑いだね」
とジュンは辛辣だ。
マスコミの報道から浮き上がったのは、強い意志を持つ有能な女性だ。確かに、泣き落としは似合わない。でも、恋しい男性に対しては、しおらしい顔を見せるのかもしれない。
もし、いつかジュンが、ぼくにそういう面を見せてくれたら……ぼくに泣いてすがってくれたりしたら……どんなに嬉しいだろう。
「何年かかっても、親父が生きて戻れば、それでいいけどさ」
しかし、バシムやジェイクたちは、内心で考え始めているだろう。このまま、親父さんが戻らなかったらと。
歴史の古い違法都市《インダル》。
小惑星内部に築かれた都市には、百万近い人間とバイオロイドが暮らしている。辺境では、一級都市の一つに数えられるという。
市街区のゆるやかな丘陵地帯には、砂色で統一された建物が点在しているが、そのうちの一つが我々の居場所だった。円形のドーム型施設が三つ、通路で連結された形をしている。
ぼくがいるのは、そのうちの一番小さなドーム内だった。
ここは、ドナとぼくの個人的住居になっている。円環状の施設の中央に広い中庭があり、木々が茂り、花が咲き乱れている。エメラルド色に輝くプールもあれば、緑の中を巡る遊歩道もある。昼間は半透明のドームを通して、人工の日差しが降り注ぐ。
他の二つのドーム施設ははるかに大きく、それぞれ仕事用と、職員の居住用ということだった。既に、何十人かの人員は集めているという。
ドナはそちらのドームへと行き来して暮らしているが、ぼくは住居ドームに閉じ込められたままだった。
身の回りの世話をしてくれるアンドロイド兵士やアンドロイド侍女は、そのまま、ぼくを監視する見張りになっている。他のドームへの通路は、決して通してもらえない。
「ダグ、あなたは、組織の仕事に関わらなくていいの。それより、のんびり休養していてちょうだい」
どうやら、大学生レベルの知識や技能しかないぼくでは、違法組織の立ち上げの役に立たない、ということらしい。
外見は中年男だというのに、中身は小僧か。
情けない。
困難なことは全部ドナにさせて、ぼくは毎日、ぶらぶらしているだけとは。
「いいえ、あなたがいてくれるだけで、わたしは力が湧くのよ」
ドナは実際に、薬品による予備的な若返り処置を始めているらしい。わずか数週間のうちに、目に見えて、肌が張ってきた。顔色も明るくなり、服装も若向きになってきている。
煉瓦色のスーツから、オレンジ色のスーツへ。
深緑のドレスから、金色のドレスへ。
下着すらも、より扇情的になってきた。それはまあ、鑑賞する身としては、嬉しくないとは言えない。元から美人だし、スタイルもいいのだから、着飾ってくれることは、別に構わない。
「わたしが自分の身で効果を確認したら、あなたにもしてあげる」
ということだ。
それにしても、まさか、自分が違法都市で暮らすことになるとは。そして、若返り処置を受けることになるとは。
辺境に出るというドナを、断固として止められなかったのは、自分の判断に自信が持てなかったせいが大きい。
二十歳以降の記憶がすっぽりないのだから、社会経験はゼロに等しい。何年も社長業をしてきたドナの判断に、どう反対していいのか、わからなかったのだ。
二十歳の常識では、辺境なんて、狂気の沙汰だ。だが、ドナには十分な計算ができているらしい。ぼくらがこの都市に到着した時には、既に拠点も用意されていたし、最低限のスタッフもいた。ドナのことを、
「マダム」
と呼んで出迎えた人々だ。秘書、護衛、技術者。
ドナは追加で採用する人材の面接をしたり、職務を割り振ったり、必要な資材の手配をしたりして、毎日、忙しく働いている。
ぼくはといえば、まるきり子供扱いだ。
「あなたは心配しなくていいのよ」
の一言で、留守番に回される。
中央のニュースを見ようとしても、アクセスが制限されていて、一部しか見られない。他に許されているのは、娯楽映画程度のもの。
学術書や古典文学は読めるし、温水プールで泳ぐことも、花の咲く庭園の外周を走ることもできるが、どうにも充たされない。
中年の肉体といえど、健康だから、それなりに何かしたいのだ。
それでも、知恵と経験が足りない以上、ドナの方針に逆らうことはできない。ぼくが何か無茶をしたら……たとえば、ここから抜け出して他組織に捕まったりしたら……せっかくのドナの努力を、台無しにしてしまうかもしれないのだ。
夜になると、ドナが戻ってくる。そして、ぼくと差し向かいで夕食をとる。
彼女は疲れているようだが、満足そうだ。今日はあれをした、これをしたと話してくれる。本来、仕事好きなのだ。
「何といっても、自前の技術が大切よ。研究部門に力を入れるわ。それには人材が大事だから、優秀な研究者を集めるつもりよ」
「警備担当には、軍人上がりの青年を新たに雇ったわ。反逆なんて考えないように、監視はするけどね。商売向きの頭はしていないから、ここに落ち着くと思うのよ」
「バイオロイドというのは、本当に下働きの役にしか立たないのね。教育を考え直さないと、戦力に数えられないわ」
そして、夜更けになると、ぼくの腕の中で満足そうに目を閉じる。ぼくは彼女の髪に鼻をつけて、甘い匂いを嗅ぐ。
若返りの処置が進むにつれ、ドナは大胆になってきた。
「ねえ、触ってみて。張りが戻ってきたわ」
と、ぼくの手をあちこちに導く。そして、嬉しそうにすがりついてくる。ぼくの胸を撫で、引き締まった太腿を、ぼくの脚の間に入れてくる。するとぼくも昂ってきて、〝夫の義務〟を果たすことになる。
当初はどちらも遠慮がちで、ぎこちなかったが、だんだん、馴染んできた。
ドナが歓喜の叫びを上げてくれると、こちらもほっとする。
ぼくが夫婦生活の記憶を失ったことで、ずっと辛い思いをしていたのだろう。若さを取り戻さなければ、ぼくの愛情も戻らないと、思い詰めていたらしい。
ぼくはもう、それほど、ドナを〝おばさん〟とは思わなくなってきているのだが。
自分自身がすすけた中年男であることに、もう慣れ始めているのだ。
毎日、鏡の中に、たるんだ顔の自分を見る。ジョギングしても、空手の稽古をしても、記憶のようには躰が動かない。ちょっと食べすぎると、胃がもたれる。夜更かしすると、翌日が辛い。そして、そういう自分の衰えに馴染んでいく。
忘れているだけで、ぼくはちゃんと、この年齢まで生きてきたのだ。だから、肉体が中年の自覚をもっている。それが、精神にフィードバックされる。
それに、二十歳以降のことを、完全に忘れきっているわけではない。
ぼんやりと、何か思い出しそうな気もするのだ。
こうやって、温かな誰かを抱いて眠ったことが、あるような気がする。長い髪をし、素晴らしいくびれを持った、女らしい誰か。
ドナ自身は、髪を長くしたことなどない、と言うのだが。
小さな家の前庭で、芝生の上に、ブランコを据えたような気もする。
そのブランコで遊ぶ子供は、近所の子なのか。
ぼくはその子を抱き上げて、小さな手が顔を撫でる感触に、笑い出したのではなかったか。
その子と手をつなぎ、散歩や買い物に行ったのではなかったか。
ただ、そういうイメージは、古い映画か前世の記憶のような、かすかで頼りないものだ。気にしなければ、それで済んでしまう程度のもの。
だが、ドナだけは今ここにいる。ぼくが忘れた年月、ドナは全部覚えているのだ。
盛大な結婚式に集まった参列者。二人でクルーザーから見た夕陽。休暇を過ごしたホテル。カイテル製薬の創立パーティ。資金を借りて買った船。
たくさんの写真や、動画の記録を見せられた。全ての場面に、ぼくたち二人がいる。二十年以上も連れ添って、この現在にたどり着いたのだ。
それなら、それでいい。
ドナが二十歳の姿に戻らなくても、ぼくには大切な妻なのだ。
ついに、待っていたものが来た。
アイリスからの連絡が。
親父が誘拐されてから、四か月目に入ったところ。
こちらから、アイリスに連絡したわけではない。そんなことは、危険すぎる。あたしの身辺は、今も司法局に守られているのだ。それは、あたしの行動が監視されているということでもある。
ドナ・カイテルが親父をグリフィンに引き渡したわけではないなら、どこかで自分の組織を育てているはずだ。既存の組織を頼ったのでは、すぐに親父を取り上げられてしまい、グリフィンに引き渡されてしまうだろうから。
やはり、アイリス一族は無事だった。さすがは『宇宙最強の叔母さん』。それらしき新興組織のリストを、密かに届けてくれたのだ。
このうちのどれかに、ドナ・カイテルと親父がいる。
なら、片端から当たるだけのこと。
百万はある違法組織のうち、たったの十あまりに絞れたのだから、どうということはない。たぶん、辺境に出れば、アイリスとも接触できるだろうし。
エディと相談して、言い訳を考えた。どうやって、これらの組織に的を絞ったか、みんなに説明しなくてはならない。ジェイクたちが納得しない限り、あたしを辺境には出してくれないだろう。
「ドナ・カイテルの性格分析とか、心理分析とかして、見当をつけたというのはどう?」
「それはもちろん、ぼくも分析はしてみたけどね。新興組織なら毎年、何万と生まれるんだ。ここまで精密な当たりをつけたと言い張るのは、さすがに苦しいな」
とエディ。
「じゃあ、リストを水増ししよう。二百か三百の候補なら、あたしの勘だと言い張れるよ。実際には、その中の十だけ当たればいいんだし」
辺境に出て、違法組織に喧嘩を売るには、《エオス》のみんなの協力が要る。いくら何でも、あたし一人では違法組織と戦えない。
いや、エディは最初から、
「きみ一人では、どこへも行かせないよ。ぼくも必ず一緒だからね」
と言ってくれているけど。
みんなを集めて相談したら、意外とあっさり、認めてくれた。
「俺らが反対したら、おまえ一人で行くつもりだろ」
とジェイク。もちろん、そうだ。
「仕方ねえな」
「俺たちだって、親父さんを取り戻したいのは同じだよ」
「まあ、やるだけのことはやってみよう」
ルークもエイジもバシムも、とうに覚悟は決めていたみたい。
幸いなことに、軍が協力を申し出てくれた。予備艦隊を貸してくれるというのだ。運行責任者と共に。
これで、かなり本格的な戦闘ができる。
《エオス》が引き受けていた仕事は、他の輸送船が手分けして肩代わりしてくれることになった。これで、半年やそこらは行動できる。
待ってて、親父。
いま、助けに行くからね。
退屈というのが、こんなに辛いものだとは。
朝起きて、食事をして、運動したら、他にもう、することがない。ひたすらドナの帰りを待つだけの、軟禁生活。彼女は組織の立ち上げで、忙しい日々を過ごしているというのに。
本を読んでも、映画を見ても、さっぱり心が入っていかない。
世間から隔離されているからだ。
この違法都市《インダル》に到着して以来、このドーム基地から外に出られない。ドナの他に、しゃべる相手もいない。
かろうじて何回か、ドライブに連れ出してもらうことはできたが、その時でも、車から降りることは許されなかった。
ドナはこうと決めたら、とことん厳格なのだ。中央の状況が知りたくても、ニュースを制限されている。
確かに中年男の肉体だが、まだ老人ではない。それどころか、意識としては青年なのだ。何か意味のあることをしたい。
ドナのために料理をするのも、食卓に花を飾るのも、別に構わないが、それだけでは、あまりにも虚しいではないか。
ある日、とうとう、ぼくはドナに向かってわめいてしまった。
「きみはぼくを病人扱いするばかりで、ぼくに何も教えてくれないじゃないか!! なぜ、ニュース番組まで禁止するんだ!! 何を見たって、市民社会に帰れるわけじゃないんだから、構わないだろう!!」
ドナはショックを受けたようで、迷う顔になった。
「中央のニュースを見せたら、あなたが帰りたくなるだろうと思って……」
「どうせ記憶がないんだから、別に恋しいことなんかないよ!!」
両親や祖父母、妹、弟たちは元気だと聞いている。それなら特に、ぼくがいなくても構わないだろう。心配はさせていると思うが、ドナの行動は、ぼくの記憶を取り戻すためとわかっているはず。
ただ、活力の行き場がなく、苛々するのだ。
いくら美しい庭園があっても、ジムやプールが揃っていても、外界への出口が閉ざされているなら、牢獄と変わらない。
「せめて、きみの仕事を手伝わせてくれ。ぼくにだって、何かできることがあるはずだ」
「そうねえ……」
ドナはしばらく考えた末、提案してきた。
「それなら、バイオロイドの教育をお願いしようかしら……何人か、こちらに住まわせるから、基礎的な勉強を見てやってくれる? 人間の助手が務まる程度の、一般教養を仕込んで下されば……」
組織内の雑用をさせるため、他組織の培養工場から、子供のバイオロイドを買い入れたという。
それは、市民社会でなら忌むべき犯罪だが(人工の生命といえど、心はあるのだから人身売買だ)、辺境の違法都市では、当たり前の経済行為にすぎない。
ドナがバイオロイドを真っ当に扱うと約束し、人間の部下たちが虐待しないよう見張ってくれるなら、それは何とか許容範囲だとぼくは思った。
「教育内容は、ぼくに任せてくれるね?」
「ええ……でも、この組織から脱出して当然、みたいなことは言わないでね」
「言わないよ。ぼくだって、ここから外に出られないんだから」
話し合いの結果、三人のバイオロイドがぼくの元へ連れて来られた。いずれも、十二歳前後に見える子供たちだ。
一人は金髪の少年で、アランと名付けられていた。
次は黒髪の少女で、ミナ。
三人目は茶色い髪の少女で、マイラ。
実質的には三人とも、幼児のようなものだ。培養カプセルから出されたばかりで、最低限の基礎知識しか持っていないからだ。
「よし、三人とも。これから、一緒に勉強する仲だ。友達になろう。ぼくはダグラス。ダグでいいよ」
正式には翔・ダグラス・矢崎だが、友達はダグと呼ぶ。
「あのう、マダムには、ダグラスさまと呼ぶようにと、言われています」
と彼らは言う。
「じゃあ、ドナが様子を見に来た時だけ、そう呼べばいい」
彼らは不安そうに、顔を見合わせた。
「そんなことをして、いいのでしょうか」
「いいんだよ。きみらの教育係はぼくなんだから」
ドナがぼくを愛していることは、とうに身に染みている。彼女がこんな無茶をしたのも、ぼくに嫌われたくないためだとわかっている。
ぼくが記憶を取り戻すか、自分が若返るか、どちらかでないと、ぼくの愛が失せると思い込んでいるのだ。
しかし、人間は慣れる。
毎日、ドナを見て、声を聞き、夜は寄り添って眠るのだから、ぼくにとって、今のドナは十分に美しい。
ぼくも少しずつだが、若返りの処置を受け始めているから、いずれ肉体はもっと引き締まり、ドナと釣り合いのいい夫婦になるだろう。
記憶が戻らなくても、生きていくのに支障はない。
だから、辺境で生きるために違法組織を築こうなんて、そんな無理をしなくていい。
いずれ、ぼくの愛情が変わらないとドナが確信を持ってくれたら、二人で市民社会に戻ればいいのだ。
その時のためにも、非道なことは、なるべくしない方がいい。ぼくらが市民社会に戻る時は、この子たちも連れていけばいいのだ。
子供たちに勉強を教えるという使命ができたおかげで、毎日が張り合いのあるものになった。教材を揃えたり、運動を日課にしたり、一緒に料理をしたりしていると、飛ぶように時間が過ぎる。
「よし、うまくできたな」
上手に焼けたオムレツや、ほどよく味付けできた野菜炒めを前にして、誇らしい顔をして立つ子供たちが可愛い。
手近にいたミナの頭を撫でた時、ふと、
(覚えがある)
という気がした。誰かの頭を、こうして撫でた記憶がある。それも、ミナのようなまっすぐの髪ではなく、少しカールした、癖っ毛の頭。髪の間から指を抜く時、その指をくるんと撫でていく髪の感触が、はっきり甦った。
妹や弟の記憶ではない。子供時代、あの子たちの頭を撫でたことはない。いったい、誰の頭を撫でた記憶だろう?
(それにしても、ぼくは子供が好きなんだな)
改めて、そう思った。それがなぜ、長い結婚生活の間に、子供を作ろうとしなかったのか。ドナは自分が忙しかったから、と言っていたが、彼女が社長なのだから、そのくらい、どうにでも都合をつけられただろうに。
他にも色々、納得のいかないことはある。
ぼくの好きな料理の幾つかを、ドナが知らなかったこととか。
ぼくの家族のことで、ドナが理解していないことがあったとか。
それにまた……ここへ来る船の中で、初めてドナを抱いた時、
(慣れていないな)
と奇妙に感じたことを覚えている。
夫婦なら、何百回も繰り返した行為のはず。それなのに、ちょっとしたキスや愛撫でまごついたり、びくりと跳ね上がったり。
うまく姿勢が取れなかったり、過剰に反応したりすることもあった。
単に、こちらが記憶を失っているせいで、元より下手になり、ドナに余計な配慮をさせただけなのか。
大学時代の前半、それなりに女の子と付き合ったから、一応の技術は会得したと思っているのだが……
もちろん、それでも、ドナがぼくを大事にしてくれることは間違いない。ぼくが抱き寄せると、忙しくても、疲れていても、喜んで全身を預けてくれる。
愛情と信頼がなければ、こんな風に繰り返し、ぼくに抱かれることはないだろう。
今はもう、彼女の肉体の反応も、すっかり馴染んだものになっている。
このまま暮らしていけるなら、それでいい。少なくとも、何年かは……
子供たちを同じドームで寝起きさせるようになってからは、毎朝、彼らと一緒に朝食を作る。
料理は、非常にいい勉強になるからだ。手先を使うし、段取りをつける能力や、美的感覚を養う訓練にもなる。
そして、ドナも含めて五人で食卓を囲む。子供たちは食べ盛りだから、それを見ているだけでも楽しい。
ドナを仕事に送り出すと、こちらは勉強にかかる。計算問題を解かせたり、本を読ませたり、絵を描かせたり、電子工作をしたり。
昼食を済ませると、午後は庭園で遊ぶ。縄跳びを教えたり、ボール投げをしたり、芝生に転がって昼寝をしたりする。
おやつを食べてからは、映画を見せる。外の世界を教えるためだ。
市民社会には、学校があること。
赤ん坊もいれば、老人もいること。
培養された奴隷はいないこと。
アランたちは限りなく質問をしてくる。どうして。どうして。どうして。答えるのに懸命になっているうちに、人工の夜が来る。
それから三人で、夕食の支度にかかる。手分けしてハンバーグの種をこねたり、サラダを作ったり、盛り付けをしたり。ドナが帰ってくる頃には、素晴らしい食卓が出来上がっている。
夜は、子供たちを寝かしつけてから、ドナの部屋へ行く。
「子供たち、どう?」
「いい子にしてるよ。勉強熱心だ。あと半年くらいしたら、かなり役に立つようになるだろう」
だが、ぼくはこの子たちを、違法組織の下働きで終わらせるつもりはない。市民社会に連れて帰って、再教育施設に預け、ちゃんとした市民に育ててもらうつもりだ。
それを口には出さなかったが、ドナは薄々、察しているらしい。ぼくが本気で、違法都市の住民になりきるつもりはないと。
問題は、二十歳以降の記憶の有無ではないのだ。ぼくには、ぼくなりの個性というものがある。それはもう、幼児の頃からはっきりと。
その個性が、違法組織や違法都市を嫌っている。弱肉強食の無法の世界に、自分が耐えられるとは思えないのだ。
いつかは、何とかしなければならない。
だが、そのためにはまだ時間がかかる。ドナがぼくの見識を信頼してくれるようになったら、それで初めて、方向転換ができるのだ。
ささやかな平穏は、突然に破られた。ある朝、ドームの屋根が爆破され、瓦礫と共に、戦闘用機械兵の一団が降下してきたのだ。
「ドナ!!」
子供たちと朝食の支度をしていたぼくは、エプロン姿のまま、ドナの寝室に走った。彼女を連れて、地下通路から逃げようと思ったのだ。非常時の心構えとして、それだけはドナから聞いている。
子供たちは、先に地下通路に行かせた。ドナはまだ、身支度をしている時間のはず。
だが、庭園に舞い降りた機械兵が、屋内にも侵入していた。彼らは撃ってこそこなかったが、ぼくの行く手を塞ぐ。咄嗟に庭園に飛び出し、植え込みを突っ切ってドナの部屋を目指した。
ところが、後ろから、若い女の声が響いた。
「親父、こっち!! もう大丈夫だよ!!」
えっ!? 誰が親父だって!?
振り向くと、庭園の草花を踏みしだいて、戦闘用装甲服の兵士が立っている。大型の銃を持ってはいるが、その銃口は地面に向いている。その兵士が、こちらに手を差し伸べる。
「ほら、来て、すぐ脱出するからっ!!」
その声が、ぼくの母や妹の声によく似ていたから、驚いたのだ。しかも、女兵士はぼくに呼びかけている。いかにも当然という態度で。
そこへ、屋内からドナが転げ出てきた。白いブラウスにタイトスカート姿だ。仕事に行く時は、いつもきちんとしたスーツ姿だが、今朝は上着を着る暇も、イヤリングを選ぶ暇もなかったらしい。
「ダグ!!」
ぼくはドナに駆け寄り、抱きしめた。
「こいつら、どこの組織だ!?」
すると装甲服の兵士が、母に似た声で叫ぶ。
「親父、そいつから離れてっ!! 何て言って騙されたのか知らないけど、そいつが誘拐犯だよっ!! こっちへ来てっ!!」
声は若く、元気で愛らしい。なのに、パパでもなく、ダディでもなく、親父?
ドナは、ぼくにしがみついている。ぼくの胴に、両腕を回して。だが、後ろから機械兵が手を伸ばし、ドナを捕まえた。あっという間に、引きはがされる。
「ドナ!!」
ぼくの方は、装甲服の女に捕まえられた。もがいてドナの方に行こうとしたら、叱りつけられる。
「抵抗しないでよっ!! こっちは急ぐんだからっ!!」
あまりにも、母と妹に似ていた。その言い方が。それにまた、兵士に連れ去られていくドナの顔に、はっきりと敗北の表情が浮かんでいたこともある。これまでドナの顔に、あんな表情を見たことはない。
(もう、無駄だわ)
と悟り、あきらめたような。
ぼくは地下通路に降ろされ、そこで車に押し込まれた。
「子供たちは? 三人いたはずだ」
ぼくが尋ねると、装甲服の女は仲間に連絡する。
「バイオロイドの子供らしい。そっちで捕まえた? よし、じゃ、船で」
襲撃も撤退も、あっという間だった。わけがわからないまま、ぼくは船に収容され、違法都市《インダル》を後にしたのである。
装甲服の中から出てきたのは、若い娘だった。ぼくの母によく似ている。癖のある短い黒髪、小麦色の肌、くっきりした眉の、きつい美人顔。
その娘が、足を踏み鳴らすようにして、ぼくを罵倒した。
「親父の馬鹿!! 大間抜け!! 女に甘いから、こういうことになるんだよっ!! よくもよくも、こんなに手間をかけさせてっ!! どれだけ苦労したと思ってるの!! 軍にまで迷惑かけてっ!!」
こちらはただ、呆然としているしかない。この怒り方、ヒスった時の妹にそっくりだ。
「落ち着け、ジュン」
怒る娘を止めてくれたのは、金茶色の髪をオールバックにした、大柄な三十男である。
「親父さんはどうやら、何かの記憶操作を受けているらしい。まず、バシムに任せて診察してもらおう」
それから、ぼくを見て言う。
「忘れてるのかもしれませんが、俺たちは親父さんの部下ですよ。俺は副長のジェイク。この子は、あなたの娘のジュンです」
娘と言われても、さして驚かなかったのは、既に見当がついていたからだ。この子は、自分に近しい者に違いないと。
それに、あの髪。
短くて、くるんとして、指で梳いたら、きっとあの感触だ。夢うつつに何度も浮かんできた、ブランコの子供。
「それで、ドナは? ちゃんと無事なのか?」
娘がまた何か叫ぼうとするのを、ジェイクという男が動作で止めてくれた。
「ドナ・カイテルは逮捕しました。いま並走している軍艦の方にいますが、誘拐犯として、司法局に引き渡します。あなたは彼女に誘拐されて、今日まで行方不明だったんですよ」
それでは……ドナがぼくにニュースを一部しか見せず、外界から隔離していたのは……そういう訳なのか。
それから医療室へ連れていかれ、大男の医師に出会った。
「バシムじゃないか!!」
ついこの間、大学対抗の空手の試合で出会ったばかりだ。試合の後の宴会で、すっかり意気投合した。いや、実際にはそれは、四分の一世紀も前の話だというが。
しかし、バシムはほとんど変わっていなかった。若いうちから老成しているタイプの男だからか。
「色々あってな、おまえの船で医者をやってる。とにかく、診察させてくれ」
バシムに出会ったことで、かなり落ち着いた。色々な事情も、彼が説明してくれた。
ぼくが、この《エオス》の船長であること。
大恋愛の末、結婚したこと。
マリカという妻は、何年も前に亡くなっていること。
一人娘のジュンが、船乗り見習いとして、輸送船《エオス》にいること。
今回は軍との共同作戦で、ぼくの奪回計画に乗り出したこと。
ニュースでは、ぼくの誘拐事件が大きく報道されていたこともわかった。ぼくはどうやら、有名人になっているらしい。違法組織の〝連合〟から、首に懸賞金を懸けられるほどの。
それから、バシムに連れられ、船の食堂に行った。エプロンが似合う金髪の青年が待ち構えていて、食卓に座らせてくれる。
「親父さんの好物を用意しました。ゆっくり召し上がって下さい」
確かに、旨そうな料理ばかりだ。しかし、向かいの席には黒髪の娘が座り、食いつきそうな顔でわたしを睨んでいる。
「ほんとに、全部忘れているの? あたしのことも? ママのことも?」
写真はバシムに見せられた。軍時代の写真、《エオス》を買った時の記念写真、仲間に囲まれた結婚式の写真、幼い娘を抱いた自分と妻の写真。
マリカというのは、プラチナブロンドに青い目の、素晴らしい美女だった。もう一度、まっさらな状態で出会っても、きっとまた恋をするだろう。
だから、信じられた。この娘がわたしの娘であり、この男たちがわたしの仕事仲間なのだということは、本当なのだ。
「すまない。思い出せないんだ」
すると、娘はぷいと横を向く。
「まったく、もう……世話、焼かせてくれて……ほんとに……」
そして、悔しそうな顔のまま、ぼろぼろ涙をこぼす。金髪の青年が慌てて駆け寄り、ナプキンを差し出した。
「ジュン、大丈夫だよ。親父さんの記憶は、きっと戻るから……」
その途端、娘は堤防が決壊したような大泣きをし始めた。
「薄情者!! ママのことまで、覚えてないんだ!! あんな女に騙されて、平気で暮らしてたなんて!!」
子供のようにわあわあ泣いて、金髪青年の胸に抱き留められる。そして、優しく背中を撫でられる。
「ジュン、ちょっと向こうへ行こう。ね?」
そして、娘は青年に慰められつつ、しゃくりあげながら、厨房の方へ消えていった。わたしは唖然として、それを見送っている。
わたしの娘には、既に騎士がいるらしい。わたしの出る幕など、全然ない。
「無理もないんですよ。ジュンはずっと、気を張っていましたからね」
ジェイクと名乗った男が、苦笑して言う。何でも、ぼくを捜すため、軍の協力を得て、それらしい新興組織にぶつかり始めてから、三つ目の大当たりだったとか。
その新興組織のリストも、ジュンが自分であれこれ調べて作り上げたというのだから、切れ者の娘である。ひょっとしたら、ドナより大物かもしれない。
「とにかく、親父さんが無事でよかった。こっちにも怪我人は出なかったし。上々の結末ですよ」
そう……だろうか。これで、解決? 隙間風が吹くような、こんな気分のままで?
ぼくはまだ、夜中や明け方、ふと目が覚めると、横にドナを探してしまう。手で探り、誰もいないと悲しくなって、なぜなのかと思う。
ドナは重犯罪者として刑を受け、遠い星の隔離施設に移送されてしまった。あのまま暮らしていても、別に悪くはなかったのに。
単にドナが、ぼくに真実を言ってくれればよかったのだ。あなたと二人で、若返って暮らしたかったのだと。
結局、親父の記憶が何とか戻るまで、三か月以上かかった。
物理的な記憶消去ではなく、化学薬品による記憶障害だったので、徐々に効果が抜けていったのだ。
細かいことで、まだ思い出せないこともあるけれど、そんなことはどうでもいい。あたしが娘だということさえ、納得してくれれば。
ドナ・カイテルは裁判を受け、刑が確定して、とある植民惑星の隔離施設に収容された。思ったより軽い刑だったのは、誰も殺していなかったことに加え、親父が熱心に弁護したからだ。
自分は、何の危害も加えられなかった。バイオロイドの子供たちにも、ちゃんとした扱いを認めてくれたと。
人生の半分に及ぶ記憶を奪われ、辺境に拉致されたことが、危害ではないとは、あたしには思えないのだけれど。
あたしたちが一緒に連れ出したバイオロイドの子供たちは、三人揃って再教育施設に落ち着いた。これから時々、親父と一緒に様子を見に行けばいい。いずれ、相応しい養子先が見つかるだろうから、心配はない。
問題は……親父がまだ、ドナ・カイテルを恋しがっているということだ。
あたしには言わないけれど、雰囲気でわかる。自分の部屋から、毎日のように、彼女と通話しているらしい。面会に行くには遠いけれど、通話ならできるから。
騙された結果とはいえ、何か月も夫婦として過ごしたというのだから、未練は分からないでもないけれど……
どうしても、釈然としない。
あたしは彼女とは、中央への帰還中に一度、会っただけだ。
『あなたには負けたわ、お嬢ちゃん』
と皮肉な笑みで言われた。
『変装してまで、パパの後を尾けてくるファザコンですものねえ』
こちらは、血液が怒りで沸騰した。エディに肩を押さえられていなかったら、拳を振るっていたかもしれない。拘束されている人間を殴ったりしたら、こちらも犯罪者だ。
あたしはどうしても、冷静に対応できないことがわかったから、もう、彼女には会わない方がいいと思っている。
彼女がずっと親父を好きだったことは、何とか理解した。本筋は、
『辺境に出て、若返りたかった』
ということだろうけど、
『若返って一緒に暮らす相手は、ダグしかいない』
と思っていたことは、納得した。
だけど、いきなり誘拐はないでしょ。
しばらく交際して、親しくなって、それからでも遅くなかったはず。
「卑怯だよ。記憶を消すなんて。だいたい、そんなに好きなら、もっと前からアプローチしてればよかったじゃない。ママが死んでから、何年も経ってるんだから。ていうか、そもそも、大学時代に告白すればよかったじゃない」
そうしたら、親父はママと会わず、あたしは生まれなかったかもしれないけれど。
《エオス》の男どもは、総じてドナ・カイテルに同情的だった。
「そこまで慕われたら、愛しいよな、やっぱり」
「いい女だし」
「たいした行動力だ」
やっぱり、女には甘い。
世間では、悲劇のロマンスみたいに噂してる。
『あのドナ・カイテルに、それほど惚れ込まれるとは、さすが矢崎船長』
という評判なのだ。
「じゃあ何!? はるばる取り戻しに行ったあたしが、二人を引き裂いた意地悪娘みたいじゃない!?」
あたしが怒っていると、エディが苦笑で慰めてくる。
「きみが正しいよ。誘拐は犯罪だからね。ただ……」
ただ、何?
「もしかして、ドナ・カイテルが刑期を終えた時は、親父さんが……」
やだ。
そんなこと、考えたくない。
親父がいそいそ、花束を持って彼女を迎えに行くなんて。
そして、天下晴れて恋人同士になるなんて。
「でも、それは、親父さんが決めることだからね」
うう。
ドナ・カイテルと再婚するなんて言われたら、どうしよう。あたし、絶対、彼女とは仲良くなれない。
バシムが笑って言う。
「その頃には、ジュンも父親離れしてるさ」
だから、あたしは別に、病的なファザコンなんかじゃないというのに。
親父に相応しい女性が現れたら、ちゃんと祝福しますとも。ただ、あのドナ・カイテルがその相手だとは、あんまり思えないだけなんだから。