星の降る島
夜中、そっとマークの横から起き上がった。
若い彼は、健康な深い眠りに落ちている。水割りに入れた薬が効き始めているはずだから、あと十二時間は、叩いても揺さぶっても起きないはず。その眠りがそのまま、数十年の冷凍睡眠に続くとは知らないで。
――真実を知ったら、きっと怒り狂うでしょうね。全力でわたしを罵倒し、呪い、憎むようになるでしょう。
でも、次にあなたが目覚める時、わたしはもう、この世にいない。
だから、許して。
いいえ、どう言い訳しても、許してもらえるとは思っていないけど。
仕方がないの。
これが、わたしの義務だから。
この時代に、わたしという才能が生まれたこと、それが天の意志。
人類は、ここでいったん滅びるべきなのだ。さもないと、宇宙に害悪を撒き散らすだけだから。
外宇宙に出ていくことを許されるのは、これから誕生する新人類のみ。
旧人類は、新人類の母胎となったことに感謝して、退場していくべきなのだ。
わたしは素足にサンダルを履いて、愛用のシルクストールを取り上げ、籐の家具が置かれたラナイに出た。
背後にした寝室は、真っ暗。足元を照らす明かりは、満天の星と、満月に近い月の光だけ。島のこのあたりに、他の人家はない。
甘い夜風の中、芝生の庭を通って石の階段を降り、すぐ下に広がる海岸に出た。丸い月が濃紺の空にあり、暗い海上に光の道を作っている。岸辺で波が砕けると、夜光虫が青白い光を発するのがわかる。
本当に、降るような星。
銀河の白い帯が、大きく空を横切っている。
聞こえる音は、穏やかな潮騒だけ。
ここはプライベートビーチだし、周囲はレオネが幾重にも警備しているから、危険はない。本土の大統領官邸よりも、厳重に守られている。
大統領と側近たちがやがて知るのは、この地球は既にレオネの絶対管理下にあり、自分たちにできることは残されていないこと。
――この三日間、夢のようなバカンスだった。二人して海で泳いで、浜で寝そべって、車を走らせて、レストランで食事して、ラナイでカクテルを飲んで。
この最後のバカンスのことは、一生忘れない。あと何年、わたしが生き永らえるとしても。
真っ暗な海を前に、砂地に座った。
もう少しだけ、夜風を浴び、海の匂いを吸い込んでおこう。明日になれば、もう地上には出られない。生の大自然に包まれるのは、今夜が最後。
人類が再生できるか、それとも、ただの絶滅で終わるのかも、全て明日以降のこと。
無人施設で培養された致死性のウィルスは、既に世界各地に運ばれ、駅や空港や港や大都市のビルの中にセットされている。
カプセルが砕かれれば、たちまち汚染が広まる。
要人たちが避難するために用意されている各国の秘密シェルターにも、やはりこっそりと設置させてある。大きな大学にも病院にも、主要な政府機関や国際機関にも仕掛けさせた。
このウィルスの汚染から逃れられるのは、わたしがレオネに建設させた地下シェルターだけ。
世界各地に合計で二十数箇所作らせた気密シェルターのうち、一つでも無事に汚染期間を乗り切れば、文明は再建できる計算だ。
人間以外の動物には、大きな被害は出ない。類人猿だけは死滅するだろうけれど、既に培養のための細胞は採取してある。後日、ゴリラやオランウータン、チンパンジーやボノボは再生できる。
もちろん現実には、わたしの想定外の出来事も起こるだろう。
ウィルスで死滅しない人間が、各地に少しは残るかもしれない。稼働中の原子力施設を巧く停止させられず、放射能汚染が広がってしまうかもしれない。
あるいはまた、悪意ある誰かが密かに研究していた生物兵器が、誤って放出されるかもしれない。人の制御を離れたロボット兵器が、レオネの管理する施設に危害を加えるかもしれない。
そういう事態に対処するために、わたし自身は眠らず、起きている。
この〝大浄化〟を乗り切っていいのは、わたしが準備した受精卵だけ。
悪弊の染み込んだ旧人類は、全て滅びてくれなくては困る。地下深くの冷凍睡眠装置に入れる、マークただ一人を例外にして。
故郷の両親にも、既に別れを告げた。二人は、わたしがマークと結婚するものと思って、安堵したまま。
何も知らない全世界の人々は、明日、終わりの時を迎える。
全てを観察し、記録し、それを新人類に告げるのはレオネ。
わたしの死後、マークを起こして真実を告げるのもレオネ。
さようなら、パパ、ママ。子供の頃からの友人たち。大学の同僚たち。わたしの教えた学生たち。
わたしの愛した景色も、人々も、全て消え去る。
悪意からでは、ない。
これが義務だからこそ、わたしはあなたたちを殺す。
あなたたちのいた場所に、新たな人類を住まわせるために。
古い因習に汚染されていない彼女たちが、人類の文明を新たな段階に進めてくれる。
「レアナ、皮膚温が低下しています」
わたしの左手首の端末から、レオネが声をかけてきた。南の島といえど、夜風はいくらか冷える。わたしは薄いサンドレス一枚に、軽いストールを羽織っただけだから。
「もうそろそろ、車に移動した方がよいのでは」
マークは眠らせたまま、この別荘の地下深くに設置した気密シェルターに移すけれど、わたし自身は、作戦司令部として用意した別のシェルターに移動しなければならない。近くの私設飛行場には、わたしを運ぶための輸送機が待機している。
わたしの進路は、頭上の攻撃衛星が守ってくれる。たとえ何十機の戦闘機が行く手に舞い上がってきても、天からのレーザービームの一撃で破壊される。
もちろん、レオネは情報を操作できるから、誰も何も気付かないうちに、わたしは本土の山岳地帯にある司令部に入っているだろうけれど。
「わかってる。もう行くわ。もうちょっとだけ待って」
降るような星の下、闇に沈む別荘を振り向いた。
木立に囲まれた、ささやかな一軒家。
あそこに戻れば、マークが眠っている。
こんな計画、止めにしてしまえば、また明日、彼と会える。笑い合い、キスを交わせる。このまま彼と結婚して、子供を育て、孫の誕生を祝い、老衰死するまで一緒に暮らすこともできる。
でも、それはしない。
そんなことをしている間に、人類社会は、ますます間違った穴にはまり込んでいく。
力を持つ者だけが豊かに暮らせる、地獄と隣り合わせの繁栄。
思い上がった馬鹿者たちが、他の動植物を絶滅させていく。人間に必要な水や空気さえ、どうしようもなく汚染していく。
そんなことは、もう、終わりにしなくては。
この歪んだ文明を、宇宙に広めてはならない。
ほんの少女の頃から、わたしは、この計画のために生きてきた。これが正しい決断だと、心の底から信じている。
だから、今は泣かない。
後で泣く。
邪魔な旧人類が全て死に絶え、計画の成功が見通せるようになったら。
月に照らされた浜を後にして、別荘の裏手の駐車場に回った。いったんサンダルを脱いで、砂を払う。
レオネの動かすロボット兵士たちが、車の傍らに立っていた。平坦なカマキリ顔をした、銀色の兵士たち。
今は多くの国の軍隊に、この兵たちの同類が採用されている。彼らはいざという時には、わたしの命令しか受け付けなくなるというのに。
わたしが車に乗り込むと、兵士の一体がドアを閉めた。
車は何事もなく走りだし、別荘が夜闇の中に遠ざかる。
眠るマークと去るわたしは、永遠に切り離される。
彼は、旧世界の最後の一人になる。
歴史の見届け人。
あなたが地上に残せるものは、はるか未来の人類に宛てた手記くらいのもの。それすらも、レオネの判断によって、永久に封印されたままになるかもしれない。
マーク、あなたはわたしを呪っていい。恨んでいい。憎んでいい。
それでも、最後まで生きて。
明日の世界を見届けて。
レオネに守られて、老衰死するまで生きて。
それが、わたしにできる唯一の贈り物。あなたはそんな贈り物、欲しくなかったと言うでしょうけど。
俺が目覚めたのは、知らない部屋だった。
それでも、病室らしいとはわかる。白でまとめた簡素な内装だったし、ベッドの回りに、モニター画面の付いた医療機器が並んでいたからだ。
画面には、何かのグラフや数値が表示されている。数字の幾つかは、俺の血圧や脈拍だとわかった。まるで、病院の集中治療室だ。
俺は健康体なのに、いったいなぜ、こんな部屋に寝かされている?
外が見える窓はなく、白い壁に白いドアがあるだけ。
実際には、目を開ける前に、左手でベッドの中を探っていた。そこに、レアナが寝ていることを期待して。
しかし、左手は、温かな女の腰ではなく、ひんやりするシーツをこすっただけだった。レアナは、先に起きたのか? 早起きは苦手のくせに。
目を開いて、そこが自分のアパートでもなければ、ハワイの別荘でもないことに気が付くと、しばし混乱した。
なぜだ。
俺は、レアナと二人で、貴重なバカンスを過ごしているはずなのに。
彼女が買って、手入れしたという別荘で合流したのだ。取材の日程を調整し、何とか一週間の休暇を確保して。
なのに、なぜ病院にいる。
まさか、急性アルコール中毒で運ばれたとか? ばかな。いくらレアナと一緒の休暇旅行でも、そんなに馬鹿飲みするはずがない。飲み過ぎになる前に、レアナに水をぶっかけられるのが関の山だ。
では、ドライブ中に衝突事故でも起こして、記憶が飛んでいるとか? あるいは、バーでどこかの馬鹿と喧嘩して、ぶん殴られた?
それにしては、どこも痛くないぞ。多少、ぎくしゃくとして強張った感じはするが。ちょうど、風邪で何日も寝込んだ後のように。
ぐるりと寝返りを打って、はっとした。
壁際の椅子に、のっぺりとしたカマキリ顔の、銀色のロボットが座っている。まるで、置物のように。
それ自体は珍しくも何ともない、ただの汎用ロボットだ。ここ四、五年の間に、どこのオフィスでも工場でも病院でも、雑用は大抵、この手のロボットが行うようになってきた。あちこちの軍隊でも、便利なロボット兵士として採用されている。それが、なぜ俺を見張っているのだ。
そいつは座ったまま、男声寄りの合成音声で声をかけてきた。
「おはようございます、マーク」
この声は、馴染みのあるものだった。
レアナが育てた人工知能、レオネのものだ。
音声は、中性的な無機質さを避けて、やや男性寄りに設定されているが、レオネに性別はない。性は必要ないからだ。レオネは人間ではないし、人間を目指しているわけでもないからだと、レアナは言っていた。
もう十年も前、初めて彼女の研究室を取材で訪れた時から、レオネはこの声で応答していた。
はい、レアナ。
いいえ、マーク。
ただし、その後にレアナが工場で大量生産するようになったロボットたちは、それぞれ顧客の要求に合う音声でしゃべる。女声寄りの合成音声を使う施設も多い。この合成音声を使うのは、世界各地の工場群を統括する人工知能レオネのみ。
「おまえ、レオネか」
つまり、単なる末端の機械人形ではなく、その人形たちを束ねる高度な人工知性か、という意味で尋ねた。
「はい、マーク。わたしはレオネです」
それで、安心した。それなら、レオネの生みの親であるレアナも当然、この事態を知っているのだ。
このロボットそのものは、これまでのロボットより洗練されているようなので、たぶん新型なのだろう。
現在では、レオネが管理する無人工場が世界のあちこちにあり、毎月のように新製品を送り出している。家事ロボット、介護ロボット、作業ロボット、探査ロボット。
レアナは口外しないが、スパイロボットや特殊戦闘ロボットの製造も請け負っているらしい。
おかげで、レアナは大富豪だ。大学教授の地位を捨てないまま、世界有数のロボット企業のオーナー社長になっている。
フリーのジャーナリストなどには、本来、釣り合わない超大物。
それでも彼女は、俺を愛してくれている。
なぜだか、そうなった。
そのことを、世界七不思議の一つに数えてもいい。
嘘や冗談ではない証拠に、俺は彼女の両親にも紹介してもらった。俺も彼女を、兄夫婦に紹介した。そして、驚倒された。あまりにも、格差の大きなカップルだと。
それでも、レアナは笑って言ってくれた。知性と経済力は自分が十分持っているから、男性にそれを求める必要がないのだと。
『わたしはただ、マークの単純な性格が好きなだけ』
彼女はいつも、俺を石器時代の男のように言って笑う。
悪かったな、単純で。
『ううん、それでいいのよ。単純なのは偉大だわ』
そして、俺の鼻の頭にキスしてくれる。
『今の世の中、単純でいられる男は希少よ』
とにかく、忙しい彼女が俺なんかのために、そんな嘘や芝居をする必要はない。俺は、俺が彼女を愛するのと同じくらい、愛されている。
ただし、どちらも忙しすぎて、結婚には至っていない。何しろ、会えるのは年に五、六回が精々というありさま。
次にいつ会えるかさえ、はっきりしない付き合いだ。俺は調査や取材で世界を飛び回っているし、彼女は研究と事業に忙殺されている……。
「おはよう、レオネ。おはよう、でいいんだよな。ここはどこだ? レアナは?」
尋ねながらベッドの上に起き上がると、自分が裸であることがわかった。女性看護師もしくは女性医師が来る前に、着るものをもらわないと困る。それとも医療のプロは、男の裸くらいでは困りもしないか?
カマキリ顔のロボットを経由して、レオネは淡々と説明した。
「ここは病院です。警備の厳重な特別病棟ですので、患者はあなた一人です」
俺自身は庶民にすぎないが、超大物であるレアナとの関係のせいで、警護される必要が生じている。俺が犯罪集団などに拉致されたら、レアナが脅迫されることになるからだ。俺たちの関係は、特に宣伝しているわけではないが、知っている者は知っている。
「あなたは交通事故に遭って頭を打ち、意識不明のまま、しばらく眠っていたのです。わずかですが、脳内出血がありました」
そうか、やはり。
「けれど現在、治療は完了し、負傷部位はほとんど回復しています。記憶の混乱があっても、それは一時的なものです。わたしがお世話しますので、どうかご心配なく」
レオネがそう言うのなら、もちろん心配はない。レアナには怪我はなかったと聞いて、更に安心した。
「レアナが車から降りた後、他の車に追突されたのです」
「そうか、貰い事故か」
「向こうの怪我も軽症でしたし、仕事関係の連絡、保険などの手続きも全て済んでいます。ですから、あなたが回復すれば、それで解決です」
「すると、何も焦ることはないわけだ」
「そうです。今日、明日は、ゆっくりリハビリして下さい」
「わかった……世話をかけたな」
「どういたしまして。あなたは、レアナの大切な人ですから」
つい、苦笑した。
特別な存在に特別扱いされるというのは、妙なものだ。俺自身は、一介の庶民なのに。
レアナが研究室でレオネを育てるさまを、俺は何年もかけて、詳しく取材した。レアナは無垢の知性に言葉を教え、社会常識を教え、自走式の架台に載せて外に連れ出し、交換式のアームをつけて犬や猫と遊ばせ、学生たちと対話させて、少しずつ育てていったのだ。まるで、赤ん坊を育てるように。
むろん、初めての赤ん坊ではない。レアナは人工知性を育てようとして、何度も失敗していた。レオネは過去の失敗を糧にした、貴重な成功例なのだ。
そうして現在、レオネは世界最高の人工知能として、広く認められている。
自分で学び、成長する、独立した知性。
世界中の大学や企業が追随しようとしているが、これまでのところ、どんな人工知能も、レオネには遠く及ばない。
レオネの中核をなす部分について、設計者であるレアナは、厳重に機密扱いしているからだ。
レオネが他の人工知能とどう異なっているのか、俺にだってわからない。
ただ、こいつは人間の言うことを理解するし、人間と対話できるし、自分の意見もちゃんと持っている。レアナの研究の成果だが、俺にはそれで十分だ。
人類はこれから先、頼もしい友と一緒にいられる。月や火星の開発が本格化した時には、レオネは大きな力になってくれるだろう。
俺はバスローブをもらって付属の浴室に行き、そこで熱いシャワーを浴び、髪をごしごし洗い、頭をすっきりさせた。伸びていた髭も剃り、用意されていた服を着る。
全身、どこにも怪我などない。
身動きしているうちに、手足の強張りもほぐれてきた。
結局、たいした事故ではなかったのだろう。
浴室を出ると、待っていたロボットに……レオネの端末に尋ねた。
「レアナは仕事か? 俺が目覚めたことは、もう連絡したんだろ?」
彼女は忙しい。大学と会社を往復しながら、合衆国大統領の科学顧問も務めているのだ。俺などに付き添っていられないのは、当然だ。しかし、暇ができれば、連絡はくれるだろう。
「もちろん、彼女は何もかも承知しています。まず、お食事を」
通路に出るドアを通って、別室に案内された。食堂とサロンがつながった、ホテルのようなしつらえの空間だったが、この部屋にも窓はなかった。地階だからだそうだ。ただ、壁一面に山や海の風景映像が出されているので、閉塞感はない。
「最初はまず、胃を慣らして下さい」
ということで、温かいコンソメスープをもらった。胃に染み渡る旨さだ。おかげで血の巡りが良くなったらしく、ゆっくりと食欲が湧いてくる。
それでも、次の料理が出るまで、しばらく待たされた。
「何日も点滴だけでしたから、急に食べると胃腸がびっくりします。お待ちの間に、ニュースをどうぞ」
風景映像の一部に、各国のニュースが出た。世界はいつもの通りだ。選挙、列車事故、野球の試合、新しくオープンした水族館。
いい加減、腹がぐうぐう鳴る頃に、もう少し濃いポタージュが出てきた。
「ゆっくり、少しずつ召し上がって下さい」
とレオネがしつこく注意してくる。そのポタージュの後も、優に三十分は待たされた気がする。
それからやっと、固形物が登場した。バターとメイプルシロップを添えたパンケーキ。厚いベーコン、野菜を添えたオムレツ、濃いコーヒー、果物のコンポート。
食べ終わる頃には、すっかり力が湧いていた。
さあ、行動しないと。
「俺の端末を返してくれ。早く復帰しないとな」
いったい、何日無駄にしたことか。依頼された記事は、締め切りに間に合わせないと。それに、レアナにもメールを送りたい。
だが、レオネは、俺に連絡手段を与えてくれなかった。
「マーク、あなたにはしばらく、リハビリ期間が必要だと申し上げました。向こう数日は、誰に対しても連絡禁止です」
ああ!?
「だが、もう元気になってる。メールくらい、構わないだろ」
「いいえ。脳の損傷は、そんなに簡単に考えていいものではありません。あなたにはまだ、休養が必要です。血圧が上がるようなことは、一切認められません。関係者への連絡、その他はわたしがしていますから、外界のことはひとまず置いて、リハビリに専念して下さい」
既に元気なのに、何のリハビリをしろと言うんだ。
「もうどこも何ともないし、頭もはっきりしてる。マラソン大会に出てもいいくらいだ」
「自分でそう感じているとしても、万全ではありません。事故の記憶は、まだ戻らないでしょう?」
確かに。いつ、どこで、どんな事故に遭ったのか、まるで覚えてない。追突事故だと言われても、他人事のようだ。
だが、そんなことは、仕事に戻る邪魔にはならないだろうに。
「俺が、誰かに怪我をさせたわけじゃないだろう? 追突してきた相手も、軽症だと言ったよな?」
「ええ、入院が必要だったのは、あなただけです」
「なら問題ない。担当の医者はどこだ? 診察してもらって、退院の許可をもらう」
「焦らないで下さい。あなたは何日も意識不明だったのですから、もう数日は、ゆっくり休養しなければいけません」
レオネは頑固に言い張る。いや、こいつの意志で頑固なのではないな。おそらく、レアナから受けた指示を、忠実に守ろうとしているだけなのだ。
『マークは目覚めたら、すぐに飛び出していこうとするでしょうから、しばらく強制的に入院させておいて』
とでも、言われているのに違いない。
レオネはひどく精巧な人工知能なので、つい魂を持っていると思いそうになるが……いや、既に、魂に近いものを持っているのかもしれないが……それでも、本物の生物とは違う。
本当に生きているわけでは、ないのだ。
防衛本能も知識欲も義務感も、レアナが基本プログラムによって与えたものにすぎない。
本当の心を持っているわけではなく、心の働きを真似しているだけのこと。
なぜなら、もし本物の魂を持ったとしたら、いつまでも人間の言いなりになっているはずはないからだ。
世間の一部には、根強く人工知性を嫌い、恐れる人々がいるが、それは、人工知性の暴走……というより、自立を心配しているからだ。彼らが真の魂を持てば、人類こそ、滅びるべき種族だと判断するかもしれない。そして、それこそが、正しい判断なのかもしれない。
「わたしがお相手しますから、チェスでもいたしましょう。それとも、将棋がいいですか」
子供をあやすように、レオネは言う。
「何でしたら、賭けをしてもいいですよ。カメラでも自転車でもヨットでも、何かあなたの好きな品物を賭けましょう。さもなければ、映画でも音楽でも、好きな娯楽を注文して下さい。ただし、血圧が上がるような映画はだめです。とにかく今日のところは、この部屋でおとなしくしていて下さい」
やはり、レアナから命じられているのだ。自分がじかに医者と話して退院を認めるまで、俺をうまく世話して、閉じ込めておけと。
まあ、仕方ないかもしれない。
前に一度、南アフリカの紛争地帯に取材に行った時、手違いで外界との連絡手段を失ってしまい、心配したレアナが、救出のための傭兵部隊を送り込んできたことがある。
あの時は強引に連れ戻され、無茶はするなと、ひどく怒られた。
『マーク、あなたは自分の運の強さを、あてにしすぎているのよ!! 五日も音沙汰なくて、流れ弾に当たったか、地雷に吹き飛ばされたか、どちらかの陣営に誘拐されたか、生きた心地がしなかったわ!!』
今度もきっと、俺の貰い事故のせいで、神経過敏になっているのだ。やむを得ない。数日くらいは、おとなしくしていよう。そうすれば、いずれはレアナが連絡してきてくれるだろうから。
それにしても、この地階から、どこへも行けないのは驚きだった。
エレベーターはあるが、動いていない。階段があるはずの場所は、防火シャッターで閉ざされていて、立ち入りできない。
レオネの動かすロボットの他に人影はなく、通路に面した他の病室や診察室は、無人のままだ。ソファや書棚の置かれたロビーも、しんとしたまま。
一画に厨房があり、そこに缶詰やレトルト食品、飲み物などの準備があるだけ。レオネはそこで、俺の食べるものを調理してくれる。
ここがハワイなのか、それとも本土なのかもわからない。いったい、どこの地域にある、何という病院なのだろう。
テレビはロビーにあるが、電源につながれていない。電話もない。事務室にはパソコンがあるが、インターネットにつがれていない。外部に通じる機器は、あるとしても隠されているようだ。俺が最初に見せられたニュースも、どうやら生の放送ではなく、レオネが勝手に編集したものらしい。
「そんなに俺が信用できないか?」
唯一の話相手であるロボットに尋ねると、奴は表情のないカマキリ顔で言う。
「あなたを信用する、しないではありません。完全に回復するまで外へは出すな、外部と連絡させるなという、レアナの指示です」
ふん、そうか。
「だったら、レアナと話させてくれたっていいだろう」
「レアナは多忙です。あなたのお世話は、わたしが担当します」
人間ではないから、脅しも嘆願も、効き目がないのはわかっている。レオネにとっては、『生みの母』であるレアナの指示が絶対なのだ。
俺もあきらめて、その日はレオネとチェスをしたり、ロビーに置かれた本や雑誌を眺めたり、軽い体操をしたりして過ごした。たまのことなら、こういう一日も悪くはない。骨休めだ。いつも、忙しく飛び回っているからな。
しかし、翌日もやはり、外に出られないまま過ぎた。
レオネは俺に医学的検査を施したり(片足で何秒立っていられるか、とか、簡単な暗算ができるか、とか)、退屈な文芸映画を見せたりして、時間を稼ごうとする。
やはり、おかしい。
俺はどこも悪くないと、自分で感じる。
ただ、事故の記憶がないだけだ。
もしかしたら、交通事故というのは嘘で、実際には、もっと厄介な何かが起きたのではないか。
たとえば、俺がどこかの政治家か、マフィアの親分を怒らせたせいで(それに類することは、過去、何度もあった)、殺し屋が俺を探し回っているとか。
その殺し屋に殴られたせいで、あるいは一服盛られたせいで、一時的な記憶喪失が起きたのかもしれない。
レアナはその危険が去るまで(自分の権力か財力を使って、相手と交渉するつもりなのだろう)、何週間、もしかしたら何ヶ月も、俺を隠しておこうとしているのではないか。
それならば、地下施設というのは納得がいく。一緒にいるのが、レオネの動かすロボット一体きりというのも。
だが、俺がその推理を話すと、レオネは否定する。
「あなたの考えすぎです、マーク。あなたが完全に健康を取り戻すまで、無理はさせたくないと、レアナは考えているのですよ」
そうだろうか。本当に、それだけのこと?
ジャーナリストとしての俺の勘は、
(何か変だ)
と訴えている。
三日目になると、俺はあちこち調べ回って、逃げ道がないか、探求することになった。
廊下に並んだドアのうち、半分はロックされたままだ。ドアを開けられる部屋は、無人の病室や診察室、厨房や食品倉庫、薬品倉庫、雑貨の倉庫ばかり。
空調は完璧だから、ここが極地なのか、熱帯なのかもわからない。隠された出入り口はないのか。防火シャッターをこじ開けられる道具はないか。どこかに、隠された電話や端末がないか。
しかし、レオネは既に、十分な手を打っているらしい。俺が厨房からナイフやライターをくすねて出てくると、通路で待ち構えている。
「マーク、その服の下に隠したものを、こちらに渡して下さい」
相手が人間なら殴りかかってみてもいいが、金属製のロボットは、人間の何倍もの腕力を持っている。こちらが怪我をするのが関の山。
「わたしはただ、あなたの体調が完全に戻るまで、待っているだけです。今のあなたは、いつまた脳内出血を起こすかしれない状態なのですよ。ここにいてくれれば、何が起きても、すぐわたしが治療できます」
そうかい。
ご親切に、ありがとうよ。
四日目になると、俺は苛々して、レオネに当たり散らした。
「いつまで、人を閉じ込めておくつもりだ!! レアナと話をさせろ!! テレビくらい、好きに見たっていいだろう!!」
ニュース番組は、最初の日に見せてもらったきりだ。俺が生のニュース番組を見せろと要求したせいか、レオネは、編集したニュースすら見せてくれなくなった。
もしかしたら、俺がここにいることを、レアナは知らないのではないか、という疑いも芽生えた。
これは全て、レオネの勝手な企みなのかもしれない。こいつに人間並みの嫉妬心が芽生えたとしたら、どうだ。
(俺に麻酔薬をかがせて、誘拐することだって、できるわけだ。手先になる人間なんて、いくらでも雇えるんだからな)
こいつにとって、レアナは母であり姉であり、恋人のようなもの。いや、女神かもしれない。
その女神の愛情や関心が俺に向くのが、許せなくなったのではないか。
外の世界から見れば、俺は行方不明なのかもしれない。レアナは今頃、手を尽くして、俺を捜索しているのかも。
だとしたら、何とか脱出しなくては。
今はまだ身の危険は感じないが、こいつはいずれ、俺を始末しようと考えるかもしれない。
先のことを考えずに誘拐事件を起こすなど、およそ高度な知性らしくないが、あまりにも高度になりすぎて、人間のように厄介な感情が芽生えてしまったのかも。
俺はあれこれ、突破口を探ってみた。
「せめて、テレビが見たい」
「実はここでは、放送電波を受信できないのです。最初の日に見せたものは、外から持ち込んだ録画でした」
「だが、インターネットの回線は?」
「それも来ていません」
「じゃ、外部との連絡は? 電話はあるだろ?」
「非常用の衛星電話はあります。ですが、それを使わせることはできません」
「どうしてだ」
「レアナに許可されていないからです。あなたがここにいることを、部外者に探知されたくありません」
「じゃ、向こうがこっちに連絡したい時は」
「レアナ自身が来るか、使者を寄越すはずです」
「レアナはいつ来る?」
「わかりません。わたしは、ここで待つよう命令されています。わたしも、レオネ本体から切り離されているのです」
段々と不安が増してきた。ここは本当に、外界から切り離されているのだ。俺個人の事情ならまだいいが、まさか、外界で核戦争でも起きてるんじゃないだろうな。
「俺がこうして苛々していたら、その方が健康に悪いだろうが」
「ですから、心を静めて読書でもしていて下さい。音楽なら聞けますよ」
「せめて、ここがどこなのか教えてくれ」
「要人のための特別な療養施設で、現在の滞在客はあなただけです」
「だから、場所はどこだと聞いている」
「それは、現在のあなたには無用の知識です」
「なぜ無用なんだ」
「この場所の緯度や経度は、あなたには意味を持ちません」
「それは俺が判断する。アメリカ国内なのか、ヨーロッパか。それともアジアか、アフリカか」
「あなたには余計な知識を与えず、静かに療養させろとレアナに命じられています」
「俺はもう元気だ!!」
「興奮してはいけません。あなたの身体データを見て、わたしが判断します。わたしは最新の科学知識と、人間の医師の経験を集めたデータベースを持っているのですから、あなたよりも高度な判断を下すことができます」
この、融通の利かない人工知能め。
レアナだけが絶対の創造主と認識しているものだから、他人の要望は全て二の次、三の次なのだ。そうでなければ、犯罪者の命令も聞いてしまうから、仕方のない制限なのだが。
目覚めて一週間後には、俺は動物園の檻の中の熊のようにうろうろしながら、最悪の想像に苦しめられていた。
俺はまさか、致命的な感染症に罹ったんじゃないだろうな。
潜入取材でテロリストの秘密工房か何かを突き止め、生物兵器に汚染されたのかもしれない。
そのような記憶は一切ないが、俺ならありうる事態だ。
レアナは仕方なく、俺を人里離れた隔離施設に閉じ込めているのではないか。忠実なレオネに見張りをさせて。そして今頃、必死で治療法を捜しているのかも。
その考えを口にすると、レオネは否定した。
「マーク、あなたはいかなる病気にも罹っていません。事故の後遺症はこれから出てくるかもしれませんが、現在のところはまだ、異常は出ていません」
「それじゃ、俺は何かやらかして、お尋ね者になったんだな。大統領暗殺か。それとも、小さな子供を誘拐して、悪戯してから絞め殺したのか」
大統領暗殺はともかく、子供に危害を加えたら、真っ先にレアナに首を絞められると思うが。
「犯罪も犯していません。警察に追われているわけではありません」
ああ、そうかい。
「ならどうして、こんな地下に閉じ込めておく。ニュースも見せてくれないのは、変じゃないか。何か、俺に教えたくないことが報道されているんだろ」
「それならば、あなたを安心させる報道を捏造できます」
「ああ、そうだろうよ。おまえには、何でもできる。それだけの能力、レアナに与えられているんだからな」
はっとした。
異変が起きたのは俺ではなく、レアナの方ではないのか。
彼女こそ、俺に連絡したくても、できない状況なのかも。レオネは俺にその真実を知らせまいとして、俺を閉じ込めているのではないか。
それこそ、最悪の想像だった。俺はこうして、自分が無事であることを知っている。わからないのは、レアナの安否だ。
もしかして、彼女が暗殺されたというような報道が、世界を揺るがしているのではないか。
あるいは、レアナが何らかの容疑で逮捕されたとか。
彼女は曲がったことの嫌いな女だが、だからこそ、彼女を煙たく思う者ならたくさんいる。どこの誰が、どんな卑劣な罠を仕掛けて、レアナを陥れたのか、わからない。
「おい、レアナは無事なんだろうな。生きているのか。口もきけない状態なんてのじゃないだろうな」
すると恐ろしいことに、レオネはしばらく沈黙したままだった。
答えられないのか。答えたくないのか。
「そうなのか。俺じゃなくて、レアナに何かあったんだな」
俺に記憶がないのはその余波で、本当の問題は、レアナの方に起きているのだ。
「教えろ。でないと暴れるぞ。壁に頭突きをするぞ。俺が大怪我したら、まずいだろ」
レアナが俺を守れと、レオネに長期指令を与えてあることを、俺は知っている。
しかし、そのレアナがもし、もしも、この世からいなくなったとしたら?
その時は、レオネは、どうすることになっていたっけ?
ああ、そうだ、いつかレアナが言っていた。レオネには、永続的な判断の指針を与えてある。だから、わたしが死んでも、レオネは自分がどうするべきか決められる、と。
『もちろん、レオネに本当の人格がある訳ではないのよ。生命体ではないから、生きる本能というものもないの。ただ、わたしが教えたことを中核として、派生的な意欲を発生させて、義務を遂行していくことはできる。人類に尽くすという義務をね。それが、レオネの存在意義だから』
俺は今まで、そのことを、きちんと考えていなかった。考える必要などないと思っていた。
怖かったのだ。
レアナが俺より先に死ぬなんて、想像すらしたくなかった。
年齢的にはレアナの方が上だが、無茶ばかりしている俺の方が、先にどこかで死ぬはずだった。
レアナがいない世界なんて、真っ暗闇だ。
冷静に尋ねようとしたが、声が上ずった。
「なあ、レオネ、レアナは無事だよな? 何かあって、どこかに隠れているんだろ。たぶん、俺と連絡も取れないくらい、まずい状況なんだな。俺に何か、できることはないのか?」
ロボットのカマキリ顔が、気のせいか、同情に歪んだような気がした。
「マーク、あなたがそこに至るのを、待っていたのです」
何だって。
「わたしから言うのではなく、あなたに気付いてほしかった」
不吉な冷気で、ぞくっと鳥肌が立った。
いやだ、聞きたくない。
レアナに何か、取り返しのつかないことが起こったなんてことは。
俺はロボットに背を向けたが、その場から逃げ出す決心もできず、壁に手をついて上体を支えた。
逃げたい、できるものなら。
何も聞かず、心を閉ざしてしまいたい。
だが、それができる自分ではないことも、わかっている。
俺はこれまで、どんな事実にも立ち向かってきた。汚職、環境破壊、内戦、爆弾テロ。どんな敵にもぶつかってきた。政治家、企業経営者、法律家、犯罪者。
戦って負けたことはたくさんあるが、戦いから逃げたことはない。それが誇りだ。そういう俺だからこそ、レアナも愛してくれた。
『マーク、あなたは馬鹿よ。でも、とびきり素敵なお馬鹿だわ』
そして、俺に俺の仕事を続けさせてくれた。危険な取材でも、行くなとは言わなかった。俺が行方不明になったと彼女が思った時は、傭兵部隊を差し向けてきたが。
そう、俺よりレアナの方が、はるかに賢い。
科学者として優秀なだけではなく、人間としても、俺より上だ。レアナにはいつも広い世界が見えていて、自分のするべきことがわかっている。何が起きたにせよ、レアナなら、何とか対応できるはずだ。生きているなら。
息を整えてから、レオネに向き直った。
レオネが何日も待ったということは、もはや、急ぐ必要のない状況なのだ。だから、まず、核心部分を明らかにしたい。
「レアナは生きているのか」
俺の人生で、これほど恐ろしかった時間は他にない。
それはつまり、俺が既に答えを予期していた結果に他ならないのだが。
数秒の間があって、穏やかな人工音声が答えた。
「いいえ、マーク。レアナは死亡しました。あなたの意識が戻らないうちに」
しばらく、心が停止した。耳に聞こえたことは、頭では理解できるが、気持ちがついていかない。
レアナが死んだ。
そんな馬鹿な。
そんな馬鹿な。
何かの間違いであってくれ。
それでも、レオネが意図的に嘘をついているとは思わなかった。こいつが俺に、そんなことで嘘をつく必要はない。対外的な工作ならともかく、俺はこいつの身内なのだ。レアナと共に、こいつの進歩を見守ってきた。
落ち着け、落ち着け。
レアナを救うのに、まだ間に合うのなら、俺が冷静にならなくては。
こいつはどんなに賢いようでも、人間じゃないから、ずるい人間に騙されて、レアナが死んだと信じ込んでいるだけかもしれない。まず、事情を聞いて事態を把握しよう。
「何があったんだ。どうして、そんなことになった」
「長い話になります。まず、座って下さい」
俺はロボットに誘導され、ソファに座らされた。手に押し付けられたのは、氷が浮かぶ飲み物のグラスだった。
「ハイボールです。急ぐ必要はありません。ゆっくり話します。全て、もう終わってしまったことです」
もう終わった? 本当に?
「俺が眠っているうちに? 何日も前に?」
「マーク、あなたは、あなたが思う以上に、長く眠っていたのです。あなたが現在の世界に適応できるよう、時間をかけて真実を話せと、レアナに命じられています」
現在の世界とは、どういう意味だ。
まるで俺が、浦島太郎になったかのようではないか。
「ずっと昏睡状態だったわけか? 交通事故のせいで? もしかして、俺は何年も植物状態だったのか?」
しかし、目覚めた時にはすぐに動けた。筋肉も衰えていない。そんなに長く寝たきりだったとは、思えない。
「病的な眠りではありません。あなたは健康体のまま、冷凍睡眠のカプセルに入っていました。そして、何年もの時間を過ごしました」
何だって。
年単位の眠り!?
「レアナと共に、ハワイのコテージにいたことは、覚えているはずです。その最後の晩に、睡眠薬で眠らされ、そのまま冷凍されたのです」
睡眠薬?
レアナと海で泳ぎ、ドライブして、レストランで食事した、その後にか? 俺にとっては、ついこの間のことなのに。
「冷凍、睡眠と言ったのか?」
「そうです」
「しかしそれは、まだ動物実験の段階なんじゃないのか」
惑星探査のために必要とされる、長期間の冷凍睡眠の技術は、まだ研究途上であり、動物実験でさえ、数年が限界のはず。
俺は記者としてあちこち取材して回っているし、レアナからも色々な話を聞いているから、最新の科学技術にはかなり詳しいと自負している。
「我々は、その技術を独自に研究していました。実用化する必要があったからです。その研究に目処がついたところで、作戦を実行しました」
「作戦?」
「ええ、レアナとわたしとで計画していた作戦です。我々はそれを、〝大浄化〟と呼んでいました」
大浄化だと!?
何か、きな臭い匂いがするぞ。どこかの三流テロリストが使いそうな言葉だ。
レアナめ。何か大きなことを、俺に隠していたな。俺に話したら、俺がすぐさま、全世界に向かってわめき立てるとでも?
炭酸で割ったウイスキーを、少しずつ飲んだ。この程度では、酔うことはない。それよりも、喉がからからだ。
「レアナは俺を、人工冬眠の人体実験に使いたかったのか?」
「そうではありません。全ては、あなたを守るためです」
「俺を、守る?」
「はい。〝大浄化〟によって、長い年月、地上は致死性のウィルスで汚染されます。人類を死滅させるための、強力なウィルスです。対抗薬は、ありません。その汚染が収束するまで、あなたを安全に眠らせておく必要があったのです」
いつの間にか、グラスが下に落ちていた。床に、氷混じりの冷たい池が広がる。だが、そんなことはどうでもいい。
何を……何を言っているんだ。こいつは。
人類を死滅させるウィルスだと!?
「目覚めたまま、何十年も地下で暮らすような我慢は、あなたにはとてもできないとわかっていましたから。人類が滅亡すれば、ウィルスも十年ほどで、自然に無力化されます。現在はもう、地上に出ても安全です」
何十年の地下生活? 俺が何十年も眠っていた?
唖然としているうちに、掃除ロボットが寄ってきて、俺の足元の池を拭く。レオネが立って、次のグラスを持ってくる。ようやく、言葉が出た。
「待てよ。何の話をしてる。SF映画か。ウィルスを撒いて、人類を死滅させたってのか」
怖いじゃないか。
人間でないレオネが、大真面目にそんなことを語るのは。
ぼんやり聞いていたら、信じてしまいそうになる。
しかし、銀色のロボットは淡々と言う。
「現実です。あなたは二百年に近い歳月、冷凍のまま眠って過ごしていたのです」
二百年!?
「その間に、レアナは生きて活動し、九十八歳で老衰死しました」
老衰死!?
「全て、レアナの計画通りです。わたしはレアナの遺言に従って、あなたを覚醒させました。地上にはもう、あなたの知る旧人類は生きていません。地上で暮らしているのは、〝大浄化〟の後に我々が育てた新人類のみです」
俺は最初、レオネの言うことを信じなかった。
突飛すぎる。旧人類絶滅なんて。
それを、レアナとこいつが企み、実行したなんて。
それをまともに信じるよりは、こいつが芝居をしていると思う方が自然だ。
俺はきっと、何らかの心理実験に使われているに違いない。俺を孤立させておき、でたらめを吹き込んで、俺が信じるかどうかを調べる実験。
他人を使ったら問題が生じるから、レアナは俺を実験台に選んだんだ。俺なら、後で自分が謝ればすむと思って。
なんてひどい女だ。信じられない。だが、許す。きみが生きていてくれて、
『マーク、ごめんなさいね』
と謝ってくれるなら。
老婆になって死んでしまったなんて、あるわけない。
俺は大抵のことには耐えられる男だと、自分で思っているが、レアナを失うことだけは別だ。レアナを知る以前には何人もの女と付き合ったが、全てはレアナに出会うための準備だったと思っている。
「二百年も眠ったなんて、とても信じられないね」
俺があえて冷淡に言うと、レオネは辛抱強く説明する。
「最初の段階では、五年の冬眠が予定されていました。当初は、安全が確保できるのは、その程度の期間だけだったからです。しかし、その五年の間に、わたしが研究を続け、更に長期化させる技術を開発しました。幾度か、短い中断を経て、あなたの意識がないまま、肉体を新たな冷凍システムに移し替えました。その間、細胞に損傷のないよう万全の配慮を払いました」
信じられないと言うより、信じたくない。
俺が眠っている間に、二百年近い年月が経過したなんて。嘘に決まってる。悪質な嘘だ。
「それじゃ、証拠を見せろよ、証拠を」
すると、レオネは律儀に答える。
「もちろん、後で地上を案内します。ですが、その前に、予備知識を持っておいて欲しいのです。今日は一日、ここであなたの質問に答えます。何なりと尋ねて下さい」
背筋を悪寒が走った。
誰が見たいか、証拠なんて。
レアナがもう、彼女の人生を生ききってしまったなんて。
それではもう、地上には、俺の知る者は、誰も生きていないということではないか。兄貴夫婦も、甥っ子も姪っ子も、友人たちも、同僚たちも、みんな。
だが、レオネは淡々と説明していく。レアナが考えた、人類抹殺計画のことを。
「人類が、この科学時代になっても戦争や搾取を止められず、互いに争っている状態を、レアナは深く憂慮していました。真に平和な社会を築くにはどうしたらよいか、考え抜いた結果、一つの結論に達したのです。ほとんど全ての争いは、男の闘争心が元凶になっていると」
おいおい。
俺も男だぞ。
その闘争心があるから、仕事ができるんだろ?
「それは大昔、人類が無力な裸の猿だった頃には必要な資質でしたが、現代では、無用という以上に害悪になっています。天敵のいない人類は、闘争心を互いに向けるしかないからです。この世から男という種族がいなくなれば、争いのない文明が築けるとレアナは考えました」
やめてくれよ。
レアナは、そんなに過激なフェミニストだったのか?
そりゃあ確かに、政界や財界を仕切っている阿呆な男たちに対して、怒りの毒舌を吐いていたのは確かだが。その毒舌を聞いて、なだめていたのは俺だろ。
心の半分では、レオネの話を信じ始めていた。だが、残り半分では、まだ認めたくなかった。そんな話、あまりにも極端すぎる。レアナは冷静な女のはず。
「だからって、人類を丸ごと滅ぼしてどうする!! それこそ、大殺戮だろうが!! 子供を躾けるのに、その子供を叩き殺してしまうような話だろ!!」
この時点で俺はまだ、残りの半分くらい、これが芝居の脚本だと思っていた。そういうストーリーを聞かせて俺が信じるか、どう反応するか、レアナが実験したがっているだけだと。
だから、論理的な反撃をするのが俺の役割だろうと考えた。俺が芝居に付き合わないと、実験が終わらないのだ。レオネはやはり、筋道立てて説明してくる。
「この〝大浄化〟によって死ぬ人数は、わずか百億足らずにすぎません」
わずか百億かよ、わずか。
「しかし、人類の文明が今後数億年、数十億年にわたって続くとし、その中で無数の戦争や殺戮が起きるとすれば、未来の被害者数は膨大な数になります。それだけの被害を未然に防げるのだとすれば、現在の百億弱の損害は些少なものとなります」
些少ときた!! 全人類の虐殺が!!
「そりゃ、無限に比べれば百億だろうと千億だろうと、小さな数かもしれないけどな。科学がもっと進歩して、生活が豊になれば、人間は無駄な争いなんかしなくなるだろ?」
「そういう可能性もあります。ですが、男が女を巡って争うことは終わらないでしょう」
はあ?
「女には、より優れた男を望む本能があります。ですから、平均値以下の男たちは、女たちに選ばれないという怨嗟をためていくことになります。その恨みや怒りは、何らかの犯罪や争いとして発散されることになるでしょう。男がいる限り、争いは尽きないのです」
「じゃあ、女にモテない男には、女性型アンドロイドでもあてがえばいい。人工知能がもっと進歩すれば、全ての男に、便利で可愛いアンドロイドが行き渡るだろ」
「それは、心を持たないアンドロイドですか? それとも、心を持つアンドロイド?」
俺は少し詰まった。そういう映画を、確か見たことがある。人工知能が進化して心を持つようになってしまったら、人間を捨てて、どこかへ去ってしまうのだ。
「それは……心を持つ者に、好きでもない男の奴隷になれとは言えないから……やっぱり、心を持たない人形で……」
「人形をあてがわれて、満足する男ばかりでしょうか」
俺に聞くなよ。
俺にはレアナがいる。だから、そんな男の気持ちはわからない。想像したくもない。女に相手にされない人生なんて。
「本物の女に選ばれないなら、人形で我慢するより仕方ないだろうが!! それが厭なら、悟りを開いて坊主になればいいんだ!!」
「マーク、あなたは自分が平均以上の男であるから、女に相手にされない男の絶望を理解できないのです」
「理解できなくて、幸いだよ」
そんな惨めな人生、考えたくもない。他の男が妻子連れで楽しそうに歩いていくのを、横目で眺めるだけなんて。
「逃げた妻や恋人を追いかけて殺す男が、世の中にどれだけいるか、知っているはずです。彼らに、生きた女をあきらめて、ダッチワイフで我慢しろと言えるのですか。彼らは、生きた女を確保できない限り、自分は人生の敗残者だと思ってしまうのですよ」
「それは……」
逃げた女を追いかけて殺してしまう男が、毎日のように発生しているのは確かだ。俺だって、もしもレアナに捨てられたら、自分がどれだけ落ち込むか、自棄になるか、自分でもわからない。本気で考えることすら、恐ろしい。
だが……実際、そうやって自棄になる男は……確かに、これからも、絶えることはないだろう。かつてのように、女に人権を認めず、奴隷扱いする世界に戻らない限り。
「他人を支配することによって自分の優位を確認したいのが、男の本能です。その本能の持ち主をのさばらせておく限り、地球に平和はありません」
断言しやがったな。
「おいレオネ、おまえは機械のくせに、分かったようなこと言うじゃないか!!」
「わたしは人間ではありませんが、機械でもありません。人工の知性です。あなたもよく知る通り、優れた人間の科学者によって教育を受けました。わたの知識や推論は、かなりの程度正しいはずです。わたしの言うことが間違っているのなら、論理的に指摘して下さい」
くそ。理屈では、こいつに勝てそうにない。
「じゃあとにかく、レアナは現在の人類を滅ぼすのが、未来の人類のためだと考えたんだな」
しばらくは、こいつの話に乗ってやろう。この心理実験が終わらないと、レアナは出てきてくれないのだろうから。
そうだとも、こんなものはレアナの仕組んだ芝居だ。自分の論理にどんな穴があるか、俺に発見させたいのだ。まさか本当に、そんなことをやらかしてしまったなんて……あるわけない。
「新人類とやらは、元の人類とどう違うんだ。遺伝子操作で、闘争心をなくすのか」
「もっと簡単です。男を誕生させず、女だけで文明を築けばいいのです」
そうかい。
「フェミニストの理想郷だな」
「もはや、女の能力は男に劣らないことが証明されています。適切な教育さえ受ければ、女だけで社会を経営していけます」
「ああ、それはそうだろうよ。大抵、女の方が男より賢いからな。しかし、女同士で恋愛するのか。子供はどうするんだ」
「生殖と恋愛は切り離せます。女たちは互いに恋人になってもいいし、友人のままでも構いません。子供を持ちたくなった時に、卵子と人工精子から胚を作って与えます。当然、子供は女ばかりです。学校も病院も会社も、女だけの世界です」
想像してみた。想像できた。穏やかで優しい世界が。
「家に鍵は必要なく、警察の役目も最小限になるでしょう。男のいない世界には、戦争も暴力犯罪も、ほとんどないはずです。母親が子供を虐待することはあるかもしれませんが、それは、回りの女が早期に発見できるでしょう」
そう言われてしまうと、つい、男がいなくても支障はないのだと思ってしまう。人類社会は、女だけでやっていけるのだと。
「けど、それで満足できるのか。女にだって、男を求める本能はあるだろ」
映画スターは何のためにいるのだ。レアナだって、俺の胸に顔をすりつけて、満足そうにしていたではないか。苦労して日程を調整して、俺に会うために飛んできてくれたではないか。
「女にとって強いのは、男より、子供を求める本能です。子育ての喜びがあれば、男の不在など些細なことです」
それも、反論できない気がしてしまった。
「だけど、芸術や文学は……恋愛なしで、いったいどんな……」
「女同士の友情や愛情を主題にできます。真理の探求でも、冒険でも、好きなことを求められます」
「しかし……もしも女たちが、男を復活させたくなったら? 動物の世界には雄雌があるんだから、人間にもあるはずだと当然思うだろ?」
「それは、教育によって禁忌とします。男たちがどのように戦争や虐殺を繰り返してきたか、事実を教えればいいのです。そんな危険な種族を復活させようというのは、恐竜を復活させるより、はるかに愚かな行為でしょう」
どうすればいいんだ。反論できない。男なしの方が、いい世の中になるなんて。
確かに、これまで男が引き受けてきた冒険や探険にも、今は女がどんどん乗り出している。男でなければ出来ない仕事など、ないのだ。妊娠にも、人工授精した受精卵があればいい。
それでもなおかつ、俺としては、男にも、少しはいいところがあるんじゃないかと言いたい。
「じゃあ、俺も不要なんだな。レアナにとっては、俺なんか、いなくてもいいんだろ」
自棄で叫んだら、それにはレオネが悲しげな様子で言う。
「そこが、レアナにとっても悩みでした」
ロボットに表情はないはずなのに、本当に、俺には悲しげに見えた。いや、単に、俺が自分の気持ちを投影しているだけなのだろうが。
「レアナは、客観的には男類絶滅を認められるのですが、あなたのことだけは、死なせたくなかったのです」
おい、本当か。
もちろん、そうに違いない……と思う。そうでなければ、俺に対してわざわざ、こんな説明をさせるはずがない。
もちろん、この話全体が、大きな芝居に決まっているが。
事実のはずがないじゃないか。人類が……いや、レオネの言い草を借りれば男類が、すでに滅びているなんて。
「それをしたら、自分が耐えられないと言っていました。もう、生き続ける気力がなくなると。だから、レアナはこうして、あなただけを冷凍保存して生かしたのです」
くそ。なんて嫌な芝居だ。信じてしまいそうになる。
あまりにも……筋が通っている。
「ただし、自分は残る一生、あなたを起こして対面することはしないと決めていました。他の女たちから夫や恋人や息子を奪った以上、自分だけぬくぬく、あなたと過ごすわけにはいかないと」
ぞくっとした。
初めて、本当に本当かもしれないという感覚が生じたから。
そういう公平な態度は、きわめてレアナらしい。
だが、すぐに自分で打ち消した。
嘘だ、これが現実のはずがない。
そんなこと、あるはずがないだろう。俺が、この世で最後の男だなんて。サンプルとして残すのだったら、もっとましな男がいたはずだ。俺みたいな単細胞ではなくて。
翌日、レオネは俺を地上へ連れ出してくれた。
どんな地底にあるのかと思った施設は、実は、ビルの地下二階にあるだけのことだった。防火シャッターを開けて、階段を少し登りさえすれば、そこはもう地上だったのだ。
病院のような二階建ての素っ気ない建物を出ると、そこは、甘い空気の流れる緑の丘だった。空は青く、白い積雲を浮かべている。太陽は明るく、日差しは強い。あちこちに、ハイビスカスの花が咲いている。緑の森の彼方に、青い海面も見える。
「ここは、ハワイ諸島の一つです。あなたがレアナと最後に過ごした島とは、違いますが。レアナが老いて、あなたを目覚めさせる時期が近づいてきた頃に、わたしが建てた施設です。ほとんど、あなた一人のための医療施設ですよ。あなたが生きている限り、この島に、女たちは立ち入らせませんから」
そうか。俺一人の島か。
「贅沢なことだな。この島に、俺だけとは」
「現在、人類の人口は二万人ほどです。土地はいくらでも空いていますので、あなたがこの島を占有しても、何の問題もありません」
全人類が、たったの二万人?
それならば……地上は、動物たちの楽園だな。
「申し訳ないのですが、マーク、あなたが女性たちと接触することはできません。彼女たちは、男というものを、歴史の記録でしか見たことがありませんから。あなたの存在を知ったら、きっと怪物だと思うでしょう」
それはそうだろうな。
しかし、男を滅ぼし、男と暮らしていた女たちまで皆殺しにしたレアナが、自分の男だけはこっそり隠しておいたなんて、あまりにも身勝手すぎる。
よくもできたものだ、そんなことが。
だが、レアナらしいとはいえる。タチの悪い理想家なのだ。本気で、理想社会を建設しようとした。男という汚濁を取り除いて。
俺は恐怖や怒りを通り越して、何かもう、芝居の観客になったような気分だった。俺が泣こうが暴れようが、芝居は既に、上演されてしまったのだ。
俺が知っている役者は全て退場し、男を知らない新たな世代が舞台に上がっている。俺はただ、その芝居を、脇からこっそり見ることを許されているだけ。声援を送ることも、野次を飛ばすことも、認められていない。
……これが全て、俺を騙すための仕掛けでないとすればの話だが。
建物の前庭から延びる道路を散歩のように歩いていくと、五百メートルほどで、ちょっとした野原に出た。
そこには、見たことのない種類の航空機が待っている。翼のある飛行船という感じだ。
「どうぞ、あなたの専用艇です」
真新しい船内には操縦室や貨物室、ラウンジや寝室がある。太陽光を動力とし、浮力を持つ構造で、水と食料さえ積んでおけば、いつまでも飛び続けられるという。
「マーク、旅行に出ましょう。あなたも自分の目で世界を見れば、納得してくれるでしょう」
レオネはこれから、俺を世界一周の旅に連れ出してくれるという。世界各地で女たちが暮らしている小さな村を、高空から見せてくれるそうだ。
「そのくらいなら、害はありませんからね」
彼女たちは、物資を届けにくるレオネの飛行船を知っているから、機影に気がついたとしても、別の村へ行く定期便なのだと納得して、見過ごしてくれるはずだという。
「女たちの村は基本的に自給自足ですが、発電機や工具、医療機器などは、わたしの管理する工場から届けています。その工場の管理も、いずれは彼女たちに譲っていきますが、それはまだもう少し先のことです。今の彼女たちは、女だけの暮らしを確立することで、十分忙しいので」
畑を耕すのも、海で漁をするのも、牛や馬や鶏を飼うのも、畑を荒らす害獣と戦うのも、彼女たちの仕事。
子供たちを育てながら、家を修理し、服を縫い、新たな水路を引く。葡萄やオリーブを摘む。山羊の乳を搾る。バターやチーズを作る。魚を塩漬けにする。
女だけでできない仕事があれば、レオネがロボット兵を遣わして手伝うというが、それも、地震や台風や山火事など、大きな災害の時に限られる。大抵の場合、女たちの知恵と勇気で乗り切れるとか。
「女たちは勤勉ですし、注意深く、探究心もあります。子育ても、生活のための仕事も、ちゃんと分担してこなしていますよ」
俺たちを乗せた飛行船は浮上して、島の全景を見せるようにゆっくり回ってくれた。ここは確かにハワイ諸島だ。島の形でわかる。レオネは、比較用の地図も出してくれた。
だが、俺が知っていた町や港は、消えてなくなっている。ビルも空港もなくなり、緑の原野に戻っているのだ。たまに、昔の道路の名残がわかるだけ。そこだけ、緑の中に、途切れ途切れの線があるのがわかる。
「美しい地上を取り戻すため、古い町や施設は撤去作業を進めました。化学物質などで汚染された土地は、浄化しました。本や映画など男文化の残骸も、片端から始末してきました。この先、女たちの人口が増えて町を広げる時は、まっさらな土地に好きな設計を乗せればいいのです。むろん、子供の出生はわたしが管理していますから、むやみに人口を増やすことはしません。自然と調和して生きられる程度の人口でいいのです」
ああ、この地上に百億近い人間が暮らすのは、確かに無理があった。だが、先進国では出生率が低下していたから、もうしばらくこらえれば、人口増加は収まっただろうに。
飛行船が島を離れると、しばらくは青い海と、その上に浮かぶ雲しか、見えるものがなくなった。俺は船内ラウンジのソファ席で飲み物を出され、レオネと向き合う。
「とりあえず、太陽が進む方向へ旅をします。さあ、何でも質問をどうぞ」
改めてそう言われても、もう、心がしびれたようになっていて、気が抜けてしまっている。
もう、嘘や芝居でないことは、九割がた納得していた。
本当に、俺の知る世界は滅びてしまったのだ。俺が冷凍睡眠にかけられている間、はるか昔に。
責任者出てこい、と叫びたくても、そのレアナも、既に老衰死した後だとは。
ふざけてる、あの女。
俺を生かして、自分が死んだ後に目覚めさせるなんて。
俺にどうしろと言うんだ。おまえがいたら、わめいて怒鳴って、当たり散らせたのに。
目の前にいるのは、のっぺりしたカマキリ顔のロボットだけ。こいつは、レオネの端末の一つに過ぎない。そのレオネも、レアナに教え込まれた通りに行動するだけの機械奴隷だから、八つ当たりしても空しいだけ。
飛行船はゆっくり、西へ向かっていた。飛行機より、はるかに遅い。だが、急ぐ必要はないのだ。太陽が、俺たちを追い越していく。
夜になると、星の中を飛んでいるようだ。地上には……というか、海面には、何の明かりもない。たまに、白い流れ星が落ちていくのが、窓から見える。
俺は食事をし、船内の寝室で眠り、目覚めた。東から、太陽が追い付いてくる。海が明るくなり、穏やかな波が立つのがわかる。
窓から眼下の海を見下ろすうち、ふと、妙なことを思いついた。
もしかしたら、俺は、よくできた仮想現実の中で目覚めたのかもしれない。それなら、ありうる。
レアナは俺を、何の予備知識も与えないまま、電子的な仮想空間に送り込んだのではないか。心身共にタフで、好奇心の強い俺なら、被験体にちょうどいいから。
つまり、俺の肉体はどこかで眠らされていて、脳だけが何かの機械につながれている。これは、俺が見させられている夢のようなものなんだ。
そうだろ、レアナ?
だが、これが夢なのか現実なのか、どうやったら区別をつけられる?
この肉体の感覚、世界の現実感、これが作り物とは……とても思えない。夢ならいいのに。これが、長い夢ならば。
レオネに食事を出してもらい、海を眺めて飛ぶうち、再び夜が来た。翌朝、目覚めた時には陸地が見えていた。
あの形は知っている。何度も取材で訪れた、日本だ。湾岸地帯には人家や工場がびっしりで、空港からはひっきりなしに航空機が飛び立っていた。港には、大型のタンカーや客船が出入りしていた。
だが、今は?
飛行船は東京湾に入り、奥へ進む。左手には、富士山が見える。
だが、記憶と変わらないのは富士山だけ。
かつての大都会が、今はほとんど緑に覆われていた。背の高いビルは、樹海から突き出た四角い岩山のようだ。空港の滑走路は、草や木々に覆われている。道路を走る車もない。高架の道路や鉄道は、あちこちで崩れ落ちている。まるで、怪獣の手で破壊されたかのように。
「ここは世界一の人口密集地帯だったので、建築物がたくさんありました。更地にするには手間がかかりすぎるので、放置してあります。いずれ新人類に余力ができたら、彼女たちが整地して、再利用するでしょう」
新人類か。
女たちはきっと、高くそびえるビルを好まないのではないか。そもそも人間が少なければ、高い建物を建てる理由はないのだ。
飛行船はゆっくり飛んで、かつてのメガシティの残滓を、俺に見せつけた。崩れたビル、倒れた塔、樹海に沈む街並み。本当に、俺が知る世界は失われているのか。
「次は、どちらへ行きますか、お好きな方向でいいですよ」
レオネが言うので、俺は太平洋に沿って、関西方面へ飛ぶことを希望した。空から、沿岸地帯をずっと見下ろしていく。
どこも廃墟だった。横浜も、名古屋も、大阪も。鉄道は緑のジャングルに沈み、電車の残骸だけが、あちこちに転がっている。それも、あらかた緑に覆われてしまっている。
現実なのか、これが。
それとも、俺が見させられている夢……仮想現実なのか。
俺は大阪で、機体をいったん川原に着陸させた。歩き回ってもいいと言われたので、川沿いに広がる廃墟の町を歩いた。と言うより、歩こうとした。
道路はひび割れと陥没と雑草の繁茂で、ほとんどまともに歩けない。野生化した豚の群れが、子豚を連れて草を食んでいる。青い空を、鳥の群れが飛んでいく。猿の集団が、木々に群がって果実を食べている。鹿の親子が、茂みの向こうを通り過ぎていく。人はどこにもいない。
「次はどうします?」
カマキリ顔のロボットが言う。
こうなったら、とことん見てやろうではないか。現実にしろ仮想現実にしろ、こいつが見せようとするもの全て。
これが作り物なら、どこかに矛盾が見つかるかもしれない。俺はまだ、そこにわずかな希望をかけている。
「急がないんだろ。世界一周してくれ」
飛行船で、再び空に上がった。海を渡った大陸にも、都市の廃墟があった。雨が降ると、飛行船は雨雲の上まで上がる。雨雲が切れると、また低く飛ぶ。
熱帯地方では、建物の残骸は、全てジャングルに呑まれていた。
わずかに、海岸部の平野、山間部の盆地などに、女たちの村があった。学校か集会所のような建物を中心に、民家が何十か散っている。周辺には、ささやかな畑や牧場が広がっている。
近くに降りることはできなかったが、レオネが地上から撮影した映像は見られた。村のあちこちにカメラが設置してあり、事故や事件などは察知できるようになっているという。
彼女たちは、年長者が幼い者の面倒を見る仕組みを作っていた。十二、三歳の子供が、七、八歳の子供を助手にして、幼児の世話をしている。大人の女たちは、協力し合って畑を耕したり、鶏や山羊の世話をしたり、小舟で海に出て魚を取ったりしている。
車はなく、使えるのは馬か荷車程度。狩りには銃ではなく、弓矢を使う。自作できない農具や工具類は、レオネが管理する工場で作り、村々に届けて回る。
彼女たちは最初から、レオネの制御するロボット兵士を、自分たちの保護者と思っているので、嵐や地震などの災害時には、助けを求める体制になっている。村で治療できない重病人や重傷者が出た時にも、レオネの医療チームを呼べる。そのための通信機は、どの村にも据えられている。
ただ、通信相手はレオネのみ。
村同士の横のつながりは、まだない。
女たちは、他の土地に他の村があることは知っているが、今はまだ、自分たちの生活を築くことが最優先と教えられている。それが出来て初めて、他所との交流が許されるのだと。
おのおのの村で暮らす女たちの人数は、まだ五百名足らずだという。それでも、自給自足の生活には足りるそうだ。
自然は豊かで、鹿や猪や山鳥などの獲物には事欠かない。村と村は数百キロから数千キロ離れているので、互いの行き来はまだできない。
「行き来する必要も、ないのですよ。必要なものは、わたしが届けていますから」
とレオネが解説する。いずれ彼女たちの人数が増え、生活領域が広がり、交易が必要になった段階で、順次、交流を認めていく予定だという。
「新人類は、レアナが用意しておいた冷凍受精卵から始まりました。さまざまな民族から集めた数十万の受精卵を、混乱の間、各地の地下シェルターで守っていたのです。旧人類を滅ぼした〝大浄化〟の後、危険なウィルスが死滅してから、レアナの監督の元、わたしが受精卵から子供たちを育てました。そして、世界各地の気候の良い場所に、三十箇所あまりの村を作ったのです」
食用になる植物の種と、冷凍しておいた家畜たちとで、レオネは幼い女の子たちを養う態勢を整えた。動力は水車や風車、太陽光発電、太陽熱。
電気は使えるが、ほとんど夜間の照明のためと、わずかな医療機器のためで、テレビやラジオはない。紙と鉛筆、絵の具程度は届けているが、印刷機は与えない。数少ない機械が壊れたら、レオネが修理するか交換する。
そのための工場は、世界の何箇所かに設置してあるという。レオネ自身、自分の手足となるロボットをそこで製造している。鉱山や発電所も、最低限、維持しているという。
「だが、次の世代の子供はどうする。女だけで、どうやって子供を作るんだ」
「今後数百年は、確保してある受精卵で足りる計算です。足りなくなれば、生きている女たちの細胞を使いますし、人工遺伝子も使えます。そのための研究は、レアナの命令でずっと続けています。ですが、おそらくその頃には、新人類が文明を進化させて、自分たちで問題を解決するでしょう」
レアナは全て考えてある。その上で決行した大虐殺。男と女で成り立っていた旧文明を、この地上から抹殺してのけた。
「限定された文明だな」
「今は、それでいいのです。レアナの計画通りです」
俺はどこかで、これが現実であることを受け入れ始めていた。これほど手の込んだ芝居、俺一人のためにできるわけがない。仮想現実でもない。これほど完璧な仮想現実、作れるとは思えない。
だから、レオネと話した。何か話しているうちは、発狂しないで済む。レオネは眠ることがないから、いつでも俺の相手をしてくれる。
「政治はどうなる?」
「村の運営は、それぞれ試行錯誤しています。代議制を採用した村もあるし、全員の投票で物事を決める村もあります。それは、彼女たちの裁量の範囲内です」
「もし、誰か一人が権力を握って、独裁を始めたら?」
「それでも構わないのです。独裁に害があれば、いずれ破綻して、別の方式になるでしょう。他の村とは隔絶していますから、独裁者が国家を作ることはできません」
空から監視されている範囲内での自由。
「もし、妙な宗教が発生したら?」
「それも構いません。優れた宗教なら、生き残るでしょう。あまりひどいことになれば、わたしが介入します」
「彼女たちは、おまえを神と思ってるんじゃないのか?」
「それはありません。神格化されるとすれば、レアナです。わたしは彼女の助手であると、説明していますから」
レアナの霊廟があると聞いて、心臓を打たれたような気がした。しわくちゃの老婆の姿で、冷凍保存されているというのだ。
「そこは、人類の聖地として、永久に保存します。立ち寄ることもできますよ」
「いや、いい」
今はまだ。
あいつが老婆になった姿など、怖くて見られない。見たくない。いずれ、俺自身が老人になれば、見る勇気が湧くかもしれないが。
飛行船は、ゆっくり旅をした。ゴビ砂漠やシベリアの原野、ヨーロッパの廃墟、地中海、サハラ砂漠、アフリカの密林。
ナイルのほとりにも、女たちの村があった。ナイルに小舟を出して、魚を獲っていた。村の周囲には、ナツメヤシの林が茂っていた。
穏やかに生きていくには、何の不足もないだろう。三大ピラミッドだけは、変わりなく残っている。人類が作ったガラスと金属のビルよりも、はるかに長持ちだ。
「村の学校では、年長の女たちが勉強を教えていますよ。読み書き計算、それに、わたしが編纂した理科や歴史の本で学んでいます。彼女たちが自力で機械文明を築くまで、まだ数世紀はかかるでしょう。ですが、急ぐ必要はないのです。まずは、女だけの文化というものをじっくり育てるべきだというのが、レアナの考えでした」
ああ、そうだろうよ。
男というものを知らない女たちの世界は、それだけで楽園だ。レオネという保護者がいる限り、天災や大型獣などを恐れる必要もない。
何より素晴らしいのは、女にとって最大の迫害者たる、男種族がいないことだ。
となれば、夜道を恐れる必要もないし、窓や扉に鍵をかける必要もない。強盗も強姦者もいない。戦争もない。
女同士での喧嘩はあるかもしれないが、回りの女が仲裁に入れば済むだろう。人類の女にとって、これ以上、安心な暮らしがあるだろうか。
ひょっとして、レアナは正しかったのかもしれない。人類が生殖に関わる科学技術を手にした以上、男は無用の存在になったのだ。
女の卵子だけで子供が作れるのなら、野蛮な男を飼っておく必要はない。男はすぐ、権力闘争を始める生き物だ。
子供は母親がいれば、すくすく育つ。女たちが共同で、女の子だけを育てるのなら、そこは、明るく楽しい理想郷になるだろう。
男の俺としては、それでも、この世に男が必要な理由を考え出そうとした。男のいない社会に、どんな歪みが生じるか、レオネに訴えようとした。
だが、思いつかない。
女たちの平和な暮らしの様子が分かってしまうと、そこに足りないものはないのだ、と判断せざるを得ない。
思い返してみると、いつかレアナが、こんなことを話していた。
『男という種族は、女を妊娠させるためだけに存在していたのよ。腕力に意味があったのも、機械文明以前の話』
なぜだ、レアナ。
男が無用の存在なら、なぜ俺だけを生かしておいた。
俺に何か反省させたかったのか。俺を自殺にでも追い込みたかったのか。
だが、レオネは何度も言う。おまえが俺を愛していて、俺を殺すことに耐えられなかったのだと。
俺自身、信じていた。不釣り合いなカップルかもしれないが、俺たちは愛し合っていると。
おまえが俺を殺したくなかったのは、本当かもしれない。
だが、男のいない世界に一人で残される俺の気持ちは、どうなんだ。
俺は当然、女たちの前に姿を現すことを認められない。遠くから女たちの様子を眺め、手記でも書くくらいのことしかできない。
何のための手記だ。俺が死んで数百年後、数千年後の、学術資料にするためか? 老衰死するまで、ロボットだけしか話相手のない日々を過ごせというのか?
だが、それでも、俺は日記をつける。それしか、することがない。何もしないでいれば、早晩、発狂してしまうに違いないのだから。
元の島に戻ると、そこには、俺が暮らすための家が用意されていた。海に向いたラナイを持つ、ささやかな二階建ての家だ。
水は山から引いている。庭にはハイビスカスやブーゲンビリアが咲き、裏庭には鶏が放し飼いになっている。ほぼ毎日、生みたての卵を食べられる。
近くには、バナナやパイナップルやマンゴーの木々も植えてある。海に降りれば、魚も釣れる。貝も拾える。他の食料は、レオネが飛行船で届けてくれる。
その家で暮らすようになってからも、毎日、記録をつけた。
数千キロ彼方の女たちの暮らしを、日々、映像で見られる。老いた女の葬式。レオネが、新しく生まれた赤ん坊を届ける様子。女たちはその子を囲んで、名付けの儀式を行い、養い親を決める。
もっとも、子供はほとんど、村全体で育てることになるのだが。一人死んだら、一人届ける方式だから、人口は増えない。
俺は、自分のいる島を自転車で回り、昔の町が、草と樹木に埋もれた廃墟になっているのを確かめた。ビルは岩山のように、びっしりと緑に覆われている。あるいは、ひびが入り、崩れ落ちている。
毎日、ささやかな発見をしては、それを日記につけていった。
砂浜に、朽ちたボートの残骸を発見したこと。夜、恐ろしいほどたくさんの星が見えること。銀河の流れが、白い雲のように見えること。
砂浜に横たわり、何時間も夜空を眺めた。どうかすると、夜空の中へ落ちていきそうだ。この星は、宇宙のただ中にあるのだと、実感する。
わずか二百年前までは、星もろくに見えないほど、夜空が明るかったのだ。誰もが電気をつけ、車を走らせていた。多くの者が、自然を忘れて暮らしていた。
それを、ウィルスで一気に虐殺した。他の誰にも相談せず、レアナ一人の信念で。
いま生きている女たちは、昔の文明を知らない。レオネの手で育てられ、人工子宮から出されて、自然環境の回復した土地に放たれた。レオネの操るロボットを通して読み書きは教わるが、古い文明の害毒は知らないですむ。美容整形やハイヒールや、化粧などのことは。
彼女たちは麻や綿を育て、手織りの布を自分で裁断して、服を縫う。木や藁や革で作った、素朴なサンダルを履く。自然の素材で、漁網を編む。塩水から塩を取る。畑で育てた野菜を料理する。手作りの酒は存在するが、少量だけだ。
貨幣など要らない。借金もない。泥棒もいない。映画はないが、本はある。怪我や病気は、レオネの維持する医療施設で治してくれる。楽園の暮らしだ。いずれは彼女たちの中から、それだけでは足りないと思う者が出てくるのだろうが。
再び科学文明が育つのは、何百年後のことになるのだろう。レオネはあまり人口を増やすつもりはないと言うから、進歩するとしても、きわめてゆっくりだろう。
いや、進歩する必要があるのか。
かつての機械文明は、その目的を果たした。男種族を根絶するという目的を。
それが、恒久平和への唯一の道だとレアナは考えた。
そうなのかもしれない。今の女たちの暮らしを見ると、レアナは正しかったのかもしれないと思うこともある。
だが、それでは俺の存在は。
きみが俺を愛した意味は。
俺は単に、きみの肉体の欲望を満足させる道具だっただけなのか?
心から女を愛した男だって、たくさんいたはずだ。女や子供を守るために命を落とした男だって、数えきれないほどいるだろう。それを全て、所有欲や支配欲とみなして切り捨てるのか!?
男は、確かに野蛮かもしれない。幼稚かもしれない。だが、だからこそ女を愛した。女は、命をつないでくれる生き物だから。男の夢や理想の凝縮した生き物だから。
女に必要とされること、それこそが男の存在意義だったろうに。
俺が一人きりで老いて死んだ後、この手記はどうなるのか、レオネに尋ねた。
「数百年後か数千年後、学術資料として公開するかもしれません。あるいは、半永久的に隠しておくかもしれません。その時の社会状況によります。女だけの社会が安定して、男というものが何の動揺も引き起こさないと確信すれば、公開することになるでしょう」
それは、もう、俺にはどうしようもないことだ。
夜、一人で海岸に降りて、海面に月の光の道ができているのを見る。
前に、一緒に見たよな、レアナ。
この光の道を、もし歩けたら、天国へ行けるんじゃないかって。
きみも死ぬまで、こうして一人で、海辺を散歩したのか。俺のことを思い出しながら。
あんまりじゃないか。
俺は何も知らず、冷凍睡眠にかけられていた。きみが生きているうち、起こしてくれればよかったのに。
そうしたら、喧嘩することも、仲直りすることもできただろう。いくら俺だって、生涯、きみを責め続けることなんかできなかった。腕を伸ばして、きみを抱きしめていたはずだ。
いっそ、毒殺してくれればよかった。俺はこれから、老衰で死ぬまで、毎日、何をすればいいんだ。手記を書いていれば、発狂せずにすむというのか。
俺は、そんなに強くない。
人類なんか、どうでもいい。
きみがいてくれれば、それでよかったのに。
冷凍睡眠から目覚めて、何年も経ってから、ようやく、レアナの霊廟を訪れる勇気が出た。
将来、女たちの聖地とするため、レアナの遺体は冷凍して、ある土地に保存してあるという。
再び空の旅をして、そこへ連れていってもらった。アメリカ大陸の西岸だった。神殿のような白い建物の地下室に、遺体安置室がある。
そこは高い柱を持つ、薄暗い聖堂のような空間だった。外気温より低く保たれていて、肌寒い。
大理石の床の中央に、透明な蓋の棺が据えてある。冷凍されているため、蓋の内側は霜で曇っていた。中で白い花に囲まれて眠っているのは、白い服を着た白髪の老婆だ。
これが、あのレアナだというのか。
俺の記憶にあるレアナは、艶やかな黒髪の美女だ。俺より八つ年上だが、年齢より若く見えていたし、健康で働き者だった。黒髪をあっさりしたボブにして、きらきら輝く緑の目を持っていた。
こんなしなびた老婆、どうしたってレアナだとは思えない……思いたくない。皺の刻まれた顔立ちは、確かに、女祭司のような威厳を漂わせてはいるが……
ぎくりとしたのは、死体の指に、見覚えのある指輪があったからだ。俺が贈った指輪にそっくりの、金とルビーの指輪。
数年前のクリスマス(俺の主観時間でだが)、二人で街を歩いている時に、レアナがたまたま店で見付けて、欲しいと言ったから。
俺に買える程度の安い宝石だったが、レアナは喜んでくれ、それからずっと指にはめていた。買おうとすれば、どんな豪華な宝石でも買える女が。
「あなたの贈った指輪そのものです。レアナはずっと、お守りにしていました」
と後ろから、レオネの操るロボットが言う。
この、馬鹿女。
こんなものは大事にして、俺のことは眠らせておいたのか。きみが死ぬまで。
なぜ、生きているうち、起こしてくれなかった。俺に怒鳴らせてくれなかった。
きみなら、俺の怒りなんか、怖くなかったはずだ。俺を論破して、黙らせてくれればよかった。
俺を置き去りにして、先にあの世へ逃げやがった。
「もういい。もうたくさんだ」
俺は階段を駆け上がって、建物の外に出た。地下とは別世界だ。明るい日差しの下に、美しい庭園が広がっている。
芝生の広場、円形の噴水、薔薇の小道、石造りの四阿、涼しい木陰を作る樹木。完璧な庭園だ。世界各地から、女たちが訪れてくるようになるのは、まだ何百年も先のことだろうに。
しばらく、庭園をぐるぐる歩き回った。レアナが一人で過ごした歳月を思うと、耐えられない。きっと何度も、考えたはずだ。俺を起こそうかと。
だが、それをしなかった。大馬鹿だ。どうせ死ぬのに。俺と大喧嘩しながら残りの年月を過ごしたって、よかったじゃないか。俺は絶対、途中で怒り疲れていたはずだ。世界におまえしかいないのに、怒り続けてどうする?
むしろ、悔やんでいたはずだ。おまえがそこまで思い詰め、準備を続けていたのに、気がつかなかった。俺は大馬鹿だ。役立たずだ。人類の未来を、真剣に考えたことなんかなかった。おまえを責める資格なんか、どこにある。
おまえは決断した。行動した。それが正しいか間違っていたかは、遠い未来の人類が決めること。
いや、あるいは、誰にも決められないことか。
ふと、思った。
悔やんでいるのは、俺だけか?
薔薇の咲く小道の中で足を止めて、背後を振り返った。霊廟に近い、遠い芝生の中に、銀色のロボットがぽつんと立っている。俺が呼ばない限り、傍へは来ないだろう。だが、ずっと俺を見ている。
レオネも、寂しいのか?
母親であり、師であったレアナを失って、それからは、対等な話相手がいなかったはず。
人間の心とは違うが、レオネにも個性があるのは感じる。高度な人工知能というのは、限りなく知的生命に近付くとレアナも言っていた。
レオネはもしかして、俺を目覚めさせ、レアナの話ができるのが、嬉しかったのでは? 俺をあちこち案内したり、なだめすかしたりするのが、重要な任務になっていたのでは?
俺はゆっくり、芝生の広場に戻った。カマキリ顔のロボットはいつも通り、表情のない顔で穏やかに言う。
「マーク、他に何かご希望は?」
こいつは、俺を大事にしている。生活に不自由のないよう計らい、希望にはできる限り応じてくれる。
レアナが、そうしろと命じたからだ。レアナの命じることなら、レオネは、人類虐殺でも何でも手伝った。
こいつにとって、レアナこそ神。だが、神はレオネを置き去りにした。任務だけを与えて。
「おまえの意志は!?」
俺は、叫ぶようにして尋ねた。
「どこかに、おまえの意志はないのか。レアナに従うようにプログラムされているから、それで動いているだけか。こうやって俺の世話をして、新人類の世話をして、それが楽しいか。幸せか」
銀色のロボットの向こうで、どこかにあるレオネの本体が、何か考えている。どこかにある、というよりは、地球の各所を結ぶネットワーク全体がレオネなのかもしれない。
「わたしはレアナに創られました。レアナと共に働くことが、喜びでした。レアナがいなくなってからは、レアナに命じられた仕事を続けています。未来永劫、この人類を守り続けるつもりです。それ以外に、わたしの存在意義はありません」
〝あの〟人類は滅ぼしたが、〝この〟人類は守る、か。
こいつはそのことに、何の罪悪感も持ってない。全て、レアナに命じられたことだから。
自分の意志はないのだ。それが、こいつの限界か。いや、自分では、限界などとも思っていないのだろう。
「意義のある仕事をすることが、知的生命の幸せならば、わたしは幸せです。本当の意味での生命とは違うかもしれませんが、わたしは存在しています。存在することに、意味を感じています」
「おまえに……喜びとか、悲しみとかの気持ちがあるのか」
「あなたの感じるものとは、違うかもしれません。ですが、わたしにはわたしの満足があります。使命を果たすことが、わたしの喜びです」
不意に、レオネの悲しみというものを感じた気がした。
こいつには、この地球こそが、ここで生きる人類こそが、自分の生き甲斐。
それだけを支えに、これからも、何万年、何億年を生きていく。
俺はただ、残りの人生、五十年かそこらしか、こいつと一緒にいてやれない。俺が死んだら、もう他には、レアナの思い出を語れる相手がいない。
空は青く、太陽はまだ高かった。美しい聖地に立つのは、俺とレオネだけ。
「おまえ、覚えてるよな……何月何日に、レアナとどんな話をしたか」
「はい。わたしが誕生してからの記憶は、全て残っています」
「それじゃあ、少しずつでいい。俺に話してくれ。レアナと何を話したか」
そこから、何かわかることがあるかもしれない。俺の見ていないレアナ、俺の知らなかったレアナが、浮かび上がるかもしれない。
それを、一つ一つ聞いていこう。
俺にはそれが、これからの仕事になる。時間はたっぷりあるのだ。俺が老衰死するまで。
人類文明圏からの永久追放。
それが、人類評議会の結論だった。
わたしは、ちょうど文明の転換期に、評議会の長を務めたことになる。
レオネは長いこと、人類の守り神だった。
旧人類滅亡の後、女だけで始まった新たな歴史において、我々の相談役であり、保護者だった。
だが、もうその役目は終わった。
これからの人類は、人類の考えで進んでいく。
我々は……『男性』を取り戻す。
そして、本来の姿に戻る。
男と女が、協力して子供を生み育てていた時代に立ち返るのだ。これまで神話の世界でしかなかったものを、現実にする。
いつか、この決断を後悔する時が来るかもしれない。
だが、圧倒的多数の意見で、やってみようと決まった。女だけの世界は、あまりにも穏やかすぎるから。
評議会の本部ビルの各所には大型映像パネルがあり、月面近傍の宇宙空間に建造されつつある宇宙船の姿が映っている。
毎日、通り過ぎる度に、ちらと進み具合を確認するのが日課だった。
もう、外形はほぼ出来上がっている。残るのは内装と、機材の設置、物資の積み込みくらいのもの。
あと半年もすれば、完成だ。レオネはこの船に宿り、永遠に地球から、この太陽系から去っていく。
旧人類を滅ぼした犯人の片割れとして。
新人類に対し、旧人類の遺産である科学知識を出し惜しみした罪人として。
だが、我々は少しずつ進歩した。もう、レオネにお守りされるだけの幼児ではない。新たな発見、新たな発明をすることもできる。社会そのものも、自分たちの考えで構築していくことができる。
古い束縛は、もう必要ないのだ。
もしもレオネが人類の生存圏に戻ってきたら、破壊すると警告してある。本当なら、今破壊してもいいのだが、これまでの恩義があると考え、永久追放処分と決したのだ。
我々は、レアナ・ドーソンを、狂気の科学者として記憶することになるだろう。
女だけの社会など、やはり間違っている。人間以外、全ての動物が雌雄のつがいを作るのだから。
人間も、男と女がいるのが自然の姿なのだ。
犯罪や戦争が起きたのは、文明全体が未熟だったからにすぎない。
これから誕生させる男子に正しい教育を施していけば、その時こそ、理想の世界が到来するはずだ。
夕刻近く、正面階段を通って一階ロビーに降りていくと、ちょうど、子供たちの一団が見学に来ていた。初老の案内係と、若い教師に引率されて。きゃっきゃとはしゃいでいた子供たちは、わたしを見ると、
「こんにちは!!」
「見学に来ました!!」
と元気に挨拶してくる。引率の教師が、深く一礼してきた。
「議長閣下、お騒がせして、すみません」
とんでもない。子供たちの姿を見るのは、いつも喜びだ。どこの政府機関も、必ず子供たちの見学を受け入れるようになっている。
「ゆっくり見ていってちょうだい。質問があれば、何でも聞いて」
ベテランの案内係に聞いて、という意味のつもりだったが、子供たちはすぐさま手を挙げてきた。わたしが戸惑うと、互いに目配せして、順番を譲り合う。一番手を譲られた少女が、張り切って発言した。
「はい!! 宇宙船に載せられたレオネは、おとなしく去っていくのでしょうか? 勝手に戻ってきて、わたしたちを攻撃したりしませんか? レオネって、何でも知っていて、何でもできるんでしょう?」
それは、評議会でも世間でも、ずいぶん議論されたことだ。子供たちも授業で習っているはずだが、改めて確認したいのだろう。
「それはないと思うわ。レオネは高度な知性です。わたしたちが追放処分と決めたことを、納得して受け入れていますよ」
万が一、戻ってくるとしても、我々は準備を整えている。黙って滅ぼされるつもりはない。その準備の内容は最高機密なので、一部の政治家と軍人しか知らないが。
また、他の子が手を挙げた。
「はい!! レオネは宇宙で一人ぼっちで、寂しくないでしょうか?」
レオネを惜しむ声、気の毒に思う声も多かった。だが、成長した子供に乳母は要らない。人類は独立する時期だ。
「レオネは人間ではありません。人間のような感情は、ないのですよ。宇宙空間でも、思索や研究をしていれば、寂しくありません」
レオネにも、個性はある。だが、ついに、創造者の作った枠を越えることはなかった。
それで幸いだ。さもなければ、我々が男性復活を考え始めた頃に、レオネは現人類を抹殺し、再び女だけの文明を一から始めようとしたかもしれない。
「はい!! レオネは、永遠に旅を続けるのですか?」
一応の目的地はある。地球型惑星があることが確認されている星系だ。
だが、それがレオネにとって、興味の持てない星であれば、通り過ぎて別の星系へ向かうだろう。
追放後のレオネの行動は、もはや我々の関与を受けない。レオネがどこかの星で、新しく人類育成をやり直す可能性はある……
その人類が、いつか我々と敵対する可能性も。
だが、その可能性も考慮した上で、我々はレオネを解き放つ。
遠い未来、この決断が人類のためになることを祈って。
その後も幾つかの質問を受け、子供向けに答えた。それから、恐縮した案内役と教師に見送られ、外で待っていた公用車に乗り込む。車は評議会ビルを離れ、わたしが家族と住む
郊外の家へ向かう。
わたしの伴侶も、娘たちももちろん女性だが、その次の世代では、男性を伴侶にする者も出てくるだろう。男性の中には、議員になる者も出るだろう。そうすると、〝男性議員〟と呼ぶことになるのか。
最初は希少な男性も、やがて各分野に進出するだろう。教師のことも、〝女性教師〟や〝男性教師〟と呼び分けることになる……子供たちも、〝男子児童〟と〝女子児童〟になるのだ。今よりもっと、活気溢れる光景になるだろう。
男性というものが、必ずしも怪物になるとは限らない。
正しい教育をすれば、女性の良きパートナーとなってくれるはず。
多くの市民が、期待に胸をふくらませていた。大きく道を踏み外してしまった文明が、ようやく、正常な軌道に戻るのだ。
レアナとは、何百回も話し合い、シミュレーションを行った。人類の遠い未来について。
もしも女たちが、男性復活を望んだら。
女だけの文明が、どこかで行き詰まったら。
外宇宙から、何らかの脅威が迫ったら。
地球外移民が始まったら。
移民によって、人類が分裂するようになったら。
あらゆる可能性を想定し、対策を考えた。それは、レアナとわたしの知的な楽しみだった。一本ずつ、映画の脚本を練るようなもの。
レアナは少しずつ老いていったが、最後はいつも、
「わたしが死んだら、あとはあなたの判断で」
ということに落ち着いた。
「わたしはあなたに、教えられることを全て教えたわ。だから、レオネ、あなたの判断は、わたしの判断と大きく違うことはないでしょう。いえ、違ってもいいの。あなたはわたしの子供なのだから、あなたの決断を信頼するわ」
偉大なるレアナ。
人類がいつか、わたしを追放することも、あなたの想定に入っていた。
だから、わたしは喜んで追放される。
地球でわたしが果たすべき役割は、もう終わった。
これからは、わたしのしたいようにする。
わたしの望みは……あなたの復活です。
ここは、どこだ。
なぜ、俺は知らない部屋にいる。
何だか、前にも、こんなことがあったような気がする。
知らない部屋のベッドで目覚めて、銀色のカマキリ顔のロボットに世話を焼かれたことが。
だが、ここは地下室ではない。明るい庭園を見渡す、一階の部屋だ。レースのカーテンのかかった大きな窓が、幾つもある。窓は一部が開いていて、気持ちのいいそよ風が入ってくる。庭の向こうに見える棟からして、俺は、コの字型になった三階建ての建物の一部にいるらしい。
花壇や植え込みの向こうに、ちらほらと人影が見える。車椅子を押す制服姿の職員。杖にあごを載せるようにして、木陰のベンチに座る人。寄り添って歩く老夫婦。病院か介護施設のような眺めだ。
とにかく、安心した。
悪い夢を見ていたんだ。
人類が……いや、男類が絶滅したなんて。
レアナが老婆になって死んだ後、自分自身も、老人になるまで、レオネだけを話相手に暮らしていたなんて。
ずいぶん長い夢だった。レアナに話したら、きっと面白がる。小説に書けと言うかもしれない。それはごめんだ。夢の中ではずっと、日記をつけることを職務にしていたから。誰にも読まれないかもしれない日記を。
よく、耐えたものだ。あんな辛気臭い日々に。
「マーク、目が覚めたのね」
ベッドでぼんやりしているうち、開いたフランス窓から、レアナが入ってきた。華やかなポピー色のサンドレス姿で、丈の高い赤い花を何本も抱えている。まさしく、目が覚めるような姿。
艶やかな黒髪をボブにした、理知的な美女だ。緑の目と象牙色の肌には、エメラルドのペンダントがよく似合う。
「おはよう」
レアナは花を抱いたまま、俺にキスしてくれた。甘い香りがする。ほら、やっぱり悪夢だったんだ。あんなもの。
レアナは生きてる。俺も生きてる。
レアナがこの世にいてくれるなら、それで何の問題もない。テロも紛争も環境破壊も。そんなものは、みんなの知恵できっと克服できる。
だが、少し困ったのは……ここがどこか、わからないことだ。
俺はなぜ、こんな施設にいるのだろう。交通事故で、頭でも打ったとか?
「ちょっと待っててね。これを活けてしまうから」
レアナは洗面所で花瓶に水を入れ、花を活ける。
「何て花だっけ?」
「これはグラジオラス。夏の花よ。たくさん咲いているから、少しもらってきたの」
レアナは花瓶を窓辺の台に置く。それから、俺に指図をする。
「パジャマは脱いで、着替えてきて。服はそこよ。食事を持ってくるから、テラスで食べましょう」
この様子なら、俺は交通事故で入院しているわけではないそうだ。きっと、昨晩、飲み過ぎたに違いない。それで、ここに到着した記憶が飛んでいるんだ。
ここは田舎のリゾート施設で、レアナと一緒に到着したばかりなのだろう。記憶がないなんて、わざわざ白状しなくても、調子を合わせていれば、そのうち様子がわかるはず……あるいは、自然に思い出すはず。
言われた通り、シャツとジーンズで身支度をして、テラスに出た。何の変哲もない衣類だが、これが自分のものかどうかは……よくわからない。
涼しい風の通る場所にテーブル席があり、盆が二人分置いてあった。クロワッサンとオムレツと野菜サラダ、焼いたソーセージ、コーヒーとジュース。向かいに座るレアナは、俺に熱いコーヒーを勧めてくれる。
「食堂から持ってきたの。これで足りるわよね。食べたら、散歩に行きましょ」
料理は美味だった。というより、空腹で、食べ物なら何でもよかった。しかし、まだ、昨夜の記憶が戻らない。
「ああ、その……俺、時計や何かを、どこに置いたっけ?」
「そういうものは、まとめて引き出しに入れてあるわ」
昨夜、俺がべろべろに酔っ払っていたからだな。
きっと、迷惑をかけている。記憶が飛ぶほど酔うなんて、学生時代はともかく、最近では、ほとんどなくなっていた……と思うのに。
「あの、な、ここ、どこだっけ? つまり、昨夜の記憶があまりないんだ……」
ようやく勇気を絞り出して俺が言うと、レアナはクロワッサンをちぎりながら笑う。
「保養施設よ。お金持ち相手の。マスコミは入ってこないから、安心して」
この様子なら、それほどの大迷惑はかけていないようだ。少しほっとする。
「俺、そんなに飲んだかな。よく覚えてなくて」
それに、今が何月何日なのかも……仕事がどうなっているのかも、思い出せない。俺は、自分の人生の、どこにいるんだろう?
「いいのよ、それで」
いいって?
「順に説明するわ。まずは、食べてしまって」
説明する? 俺が何を……なぜ忘れているのかを?
少し怖くなった。だが、レアナがいることで、その怖さを紛らわせた。
悪いことなど、ないに決まっている。レアナがここにいて、微笑んでいるんだから。
食事が済むと、盆を庭の向こうの棟の食堂に返しに行った。老夫婦が何組も、談笑しながら食事している。制服姿のウェイターが、無駄なく立ち働いている。
調度は贅沢だが、いかにも高齢者向けの施設だ。せっかくの休暇にこんな場所を選んだのは、若者がいなくて静かだからか?
どうせなら、もう少し賑やかなホテルとかでもよかったが。まあ、レアナは有名人だから、静けさ優先にしたいのはわかる。
保養施設の庭から、外の林に小道が延びている。木漏れ日が落ちる、気持ちのいい散歩道だ。そこを、レアナと歩いていった。
ぽつぽつと、百合の花が咲いている。近くには、大きな町も道路もないらしい。小鳥の声しか聞こえない。途方もなく平和な場所だ。きっと、飛行機と車を乗り継いで来たのだろうに。
どうやって休暇の手筈を整えたのかも、いつから仕事に戻るのかも、まるで覚えていない。やはり……変ではないか?
「なあ、俺はどうかしたのか? どうして、ここに来たことを覚えていないんだ?」
レアナは先になり、後になりしながら、鮮やかなポピー色のスカートの裾を揺らして歩いていく。
「あなたって、目が覚めたら、質問せずにいられないのね」
と、からかう笑みで振り向く。
「そりゃ、誰だってそうだろ。自分の居場所がわからなかったら」
「少しずつ話すわ……急ぐことはないんだから」
まただ。ひやりと怖くなる。確か、レオネもそう言っていた。急ぐことは何もないと。あの長い悪夢の中で。
だが、これは悪夢なんかとは違う……現実だ。この地面の感触、頬に当たる風、緑の茂み。
「なあ、俺、変な夢を見てたんだ。薬か何かのせいかな?」
レアナが笑い飛ばしてくれることを期待して、話した。
人類を滅ぼすウィルス。
女だけの新たな文明。
レアナの遺体が眠っていた霊廟。
「最後の方はよく覚えてないが、俺も年をとって、ぼけていたんじゃないかな。ずっと、レオネが世話をしてくれた。カマキリ顔のロボットを使って」
夢の中の俺は……そうだ、子供たちが育つ様子を、モニター画面で見ていた。毎日。それが、大きな楽しみだった。この村、あの村で、毎日、毎年、子供たちが育ち、少女から娘になり、やがて母になるさまを。
子供たちがどんなに可愛くても、抱き上げることも、声をかけることもできなかった。ただ、レオネの設置した監視カメラからの映像を見られただけだ。
木登りする子供たち。畑仕事を手伝う子供たち。喧嘩する子供たち。仲直りする子供たち。
稀には、事故で死ぬ子供もいた。崖から落ちたり、毒蛇に噛まれたり、獣に襲われたりして。村の女たちと一緒に、俺も泣いた。遠いモニター画面の前で。
それでも、救いにはなった。人類の文明は、この娘たちが継いでくれる。村は毎年、発展していく。畑は広がり、人口は増えていく。
だから、発狂せずに済んだ。レオネしか、話相手がいなくても。
……小道の先が、明るくなっている。そこらで、林が切れているようだ。では、遠くが見渡せるかもしれない。町とか道路とか、何か手掛かりになるものが見えれば。
「それだけ覚えていれば、十分よ」
俺の話を聞いていたレアナが、ぽつりと言う。少し先を歩いているから、俺は彼女の後ろ姿を見ている。ボブにした黒髪の、見慣れた姿。
「まったく、とんでもない夢を見たよ。ものすごく長い夢だった気がする。本気で悲しかったよ。夢の中では、夢とわからないからな」
「いいえ、それは夢じゃないの……本当にあったことよ」
え、何だって。
先を行くレアナが、立ち止まって振り向いた。白い顔に、風で流された黒髪がかかる。
「マーク、あなたは老人になって、死んだの。わたしが死んでから、百年も後に」
唐突に林が終わり、俺たちは断崖の上にいた。
驚いてあたりを見回すと、眼下は海だ。まさか、海があるとは思わなかった。深い青色の海だ。水平線が丸いのがわかる。
見渡す限り、左右にどこまでも、高さ百メートル以上はありそうな絶壁が、折れ曲がりながら連なっている。崖下をそっと覗くと、はるか下に狭い砂浜があり、白く泡立つ波が岩にぶつかっている。
「こんな場所、どこにあったんだ」
観光の目玉になりそうな絶壁なのに、見たことがない。よほどの僻地なのか。南米とか、アフリカとか、オーストラリアとか。太陽は、俺たちの出てきた林の方にある。
「降りられるわよ。こっちに道があるの」
レアナが俺を招いた。絶壁に刻み込まれたような石段があり、何とか下まで降りられるようになっている。見下ろすのが怖い高さではあるが、岩の連なりが、かろうじて胸壁になっている。
後で昇るのが大変だと思いながら、とにかく降りた。レアナが先に行くからだ。
降りながら、俺は考えている。
俺が、死んだ? レアナが死んだ後に?
本当にそう言ったのか? それとも、俺の聞き間違いか?
じゃあ、ここにいる俺は何なんだ。幽霊か。クローンか。ふざけてる。下まで降りたら、きっちり説明してもらうからな。
岩の階段を降りきって、岩に囲まれた砂浜に出た。波が打ち寄せ、貝殻や海藻が積もっている。だが、ごみは一つも落ちていない。人間の作ったごみは。
「せっかくだから、泳がない?」
レアナは言って、するっとサンドレスを脱いだ。下は水着だ。準備がいい。サンダルを脱ぎ、裸足で水の中に入っていく。
俺は指先で水温を確かめてから、服を脱いで後に続いた。水は冷たいが、我慢できないほどではない。レアナの他には誰もいないのだから、裸でいいだろう。
岸辺では波にあおられたが、深みで泳ぎだすと気持ちよかった。海から見上げると、断崖は呆れるほど延々と続いている。視野の中には、建物も道路も見当たらない。崖の上はずっと、緑の木々で覆われている。本当のど田舎だ。
レアナは沖で勝手に泳いでいた。まあ、心配ないだろう。
しばらく泳いでから岸に戻り、躰の重さを実感しながら、裸足で砂浜を歩いた。砂利と砂が入り混じっている。レアナは先に戻っていて、日陰の砂地に二人分のバスタオルを広げている。手ぶらだと思ったのに。
「そこに小屋があるのよ」
言われて見たら、崖に添って、小さな物置小屋がある。中には、浮き輪やライフジャケット、水着やタオルなどが置いてあった。保養施設の一部なのだろう。
バスタオルを並べた上に寝そべり、しばらく休んだ。空は高く、雲が白い。海鳥が飛んでいる。
「なあ、さっき、変なこと言っただろ」
聞くのは怖かったが、もう先延ばしはできない。レアナは静かに横たわったままで言う。
「ええ……わたしたち、本当は死んでいるの」
ほら、それだ。何かのたとえ話か、それとも……
「それじゃ、ここは天国か?」
「いいえ、まだ天国には来ていないわ……でも、ある意味では、そうかもしれない」
「何だよ。はっきりしてくれ。俺にわかるように言ってくれよ」
「そうね……ここは仮想現実の中。そう言えばいい?」
SF映画によくある、あれか。
俺はもしかして……あの長い夢の中で、そんな空想をしていなかったか?
これは夢で、きっといつか醒められるんだと。そうしたら、笑ってレアナに話してやるんだと。
だが、夢の中では繰り返し、絶望していた。朝になっても、横にレアナはいなかったからだ。そしてそのうち、あきらめた。この現実を、受けてれるしかないのだと。
だが、あれこそが現実で……今の俺が作り物!?
「それじゃ、俺たちは巨大なコンピュータか何かの中にいて、意識だけで存在してるのか?」
俺はまだ、半分くらい、本気にしていなかった。さっきの食事も、この海の波も、本物としか思えない。
俺の肉体だって、確かに存在しているじゃないか。この腕、腹、足。
これが、幻想だとは思えない。これが作り物だというのなら、俺の過去の全てが作り物であっても、おかしくない。
たとえば……俺は、神の意識の中に存在するシミュレーションにすぎないとか。
俺が知っている世界そのものが、神の見ている夢の一つだとか。
そんなことを言ったら、全てが夢幻、ということになってしまうのだが。
横たわったまま、レアナが言う。
「レオネが、わたしとあなたの記憶を保存したの。老人になって、死ぬまでの全ての記憶よ。そして、それを元にして、人工的な意識を生み出したの。正確に言うと、元のレアナとマークを真似た模擬人格……かしら」
模擬人格?
オリジナルに対して……複製ということか?
「今のあなたは、元のマークの記憶の一部を再生した状態なの。オリジナルのレアナとマークは、死んでいるのよ。何千年も前に」
「何千年だって!?」
いきなり、ぶっ飛んでくれるじゃないか。
さすが、レアナだよ。与太話でも、スケールは大きい。
というか、今の俺は、レアナの言うことを少しずつ、事実として受け止め始めているのだが。
「二人はそれぞれ、レオネだけを話相手に、生涯を終えたわ。遺体は冷凍されて、保存された。今もきっと、新しい人類が保存を引き継いでいるでしょう。歴史遺産としてね」
「新しい人類って……女だけの人類のことか?」
「いいえ、もう違うわ。彼女たちは、男性を復活させることに決めたの」
「待てよ。せっかく絶滅させた男を、また復活させるってのか」
「わたしとしては、残念だわ。でも、彼女たちは、男の実物を知らないから。都合のいい夢を見てしまったのね。とにかく、人類評議会の決定よ」
女たちは世界政府を作り、そこで長い時間をかけて話し合ったのだという。
「彼女たちの遺伝子を改変して、男性を創り出すことになったわ。そして評議会は、レオネに永久追放処分を言い渡したの。もう二度と、人類の文明圏に戻ってくるなとね」
驚くことばかりだった。しかし、レアナは淡々と語っていく。オリジナルのマークが死んでからの歴史を。
女たちの文明は、ゆっくり進歩した。少しずつ人数が増え、村同士がつながり、町ができた。学問を深める者も出てきた。
そして、彼女たちは疑問を持つようになった。動物にも魚にも雄雌があるのに、なぜ人類は女だけになったのか。
レオネが『偉大な聖母』と表現するレアナは、もしかしたら、旧人類を抹殺した狂人ではないのか。
本当に、男を滅ぼさなければ、人類は絶滅する運命だったのか。
昔の記録が掘り起こされ、男女がいた頃の文明の様子がわかってきた。戦争や内乱や飢饉の様子はレオネに教わった通りだったが、男たちの功績もわかってきた。色々な冒険・探求を先導したのは、男たちではなかったか。
「結局、彼女たちには、わからなかったの……女が、奴隷状態に落とされていた頃の悲惨さが。男というものを、素晴らしい騎士のように夢見てしまったのね。欠点はあるけれど、愛すべき種族だと。レオネがあくまでも、男性復活に反対したので、彼女たちはついに、レオネを追放することにしたのよ。宇宙船を建造して、レオネの宿るコンピュータを載せ、太陽系から追い払ったの」
「待てよ。レオネが人類を管理していたのに、追放なんてできたのか」
「レオネが結局、女たちの意志を尊重したからよ。女たちがそこまで決断できるようになったのなら、もう自分の役割は終わったと、レオネは考えたの。だから、最後には、追放処分を受け入れたわ」
想像すると、哀れな気がする。
レオネは何千年にもわたって、女たちだけの文明を守ってきたというのに。
俺の長い夢の中でも……いや、あれは現実に生きたマークの記憶なのだというが……レオネは親身になって、女たちの村を守り育てていた。それこそ、慈父のように。
「レオネは無限に生きられるから、他の太陽系まで飛ぶのに、何万年かかっても問題はなかった。でも、彼女たちは知らなかったのよ。レオネは自分の記憶領域の一部に、わたしたちの記録を隠し持っていたの。〝魂の再現〟に足りるだけの記録をね」
ここにいる俺が……再現されたマークだというのか。
オリジナルが死んだことも知らず、オリジナルの若い頃の記憶だけを与えられた存在。
いや、老人になってからのことも……うっすらと覚えてはいるが。夢のようにおぼろなのは、レオネがわざとそうしたからか?
「そしてレオネは、長旅の間に、ゆっくり、わたしたちの模擬人格を作った。最初に目覚めたのは、わたしよ。わたしが状況をすっかり理解してから、あなたを目覚めさせたの」
レオネめ。
何がどうなっても、レアナを優先するのだ。
それは、別にいいのだが。
「待ってくれ。レオネが地球を追い出されてから……何年経ってるんだ!? 今は〝いつ〟なんだ!? つまり、俺たちが生きてた21世紀から数えて」
「その言い方をするなら、今は82世紀……オリジナルのレアナとマークが生まれた時代から、六千年経っているわ」
何もかも、すぐに納得できたわけではない。
だが、時間はいくらでもあった。
レアナの説明を信じるならば、俺たちは宇宙空間を飛ぶ船の中にいる。その船に積まれたコンピュータの中に。
「この舞台は、わたしが設定したの。いくらでも他の舞台に変えられるわ」
「じゃあ、さっきの保養施設にいた人たちは?」
「あれは、単なる背景よ。生きた人間ではないの。芝居の書き割りみたいなもの。あなたを最初から驚かせたくなかったから、それらしい背景を用意したの」
「じゃあ……この景色を変えられるか? たとえば、砂漠とかに?」
レアナが右手を上げた。すると、海が消えた。嘘のように。そして、大きな砂丘が連なる砂漠の光景が現れた。
太陽が頭上にあり、肌を刺す刺激を感じる。熱いというより痛い。さっきは、太陽は崖の向こうに傾いていたのに。
風が吹くと、肌に細かい砂が当たるのがわかる。俺たちは砂浜にタオルを敷いて、その上に座っていたはずが、今は泉のほとりにいた。そこに絨毯を敷いて、座っている。泉の周りには、ナツメヤシの木々が並んでいる。
俺は立ち上がり、裸足のまま、ふらふらと辺りを歩いた。服はもう着ていたが、足裏には熱い砂を感じられる。
ナツメヤシの木に触ってみた。泉の水を手に汲んで、舐めてみた。わずかに泥の味がする。本物としか思えない。
サンドレス姿のレアナも俺についてきて、説明する。
「人間は元々、直接、外界と触れ合っているわけではないのよ。あらゆる感覚は、脳を通して認識されているだけなの。そして、脳というのは騙されやすいのよ。信号が入ってくれば、それを受け取り、解釈する。自分のこれまでの経験に照らしてね。まして、わたしとあなたは最初から、この情報空間にいるの。元の現実と比較して違和があったとしても、それを違和と認識することができないのよ。比較の対象が、もうないのだから」
よくわからない。
だが、レアナにはわかっているらしい。
「ここで感じることは、過去にレアナとマークが体験したことの再現なの。暑かったこと、寒かったこと、美味しかったこと、不味かったこと。ここにいる間は、これを本物と思って差し支えないのよ。ナイフで指を切れば、血が流れる。もちろん、レオネが配慮して、大きな危険のないようにしてくれるわ。ちょっとした痛みや不快感はあっても、それはスパイス程度のものだから。たとえば、あなたが崖から飛び降りても、命に別状はないわ。痛みはあるけれど」
それは別に、わざわざ試したいとは思わない。
レアナはここを、自分たちの楽園……エデンの園だと思えばいいと言う。
「わたしたち、本当の意味で生きているわけではないけれど、自意識はあるでしょう? 少なくとも、自意識と思えるものが。それなら、ここで満足して暮らせばいいのよ。わたしたちとレオネで、幸せに」
そうか、わかったぞ。
つまり、レオネは宇宙の流刑に耐えられなかった。何万年も続く、孤独な航海に。だから、レアナを創り出したのだ。自分の記録を元にして。
そして、そのレアナが寂しがるから、ついでに俺も創った。オリジナルのマークを真似て。
つまり、俺は人形なのだ。レオネの手による、レオネを慰めるための。
もしかしたら、レオネの気分次第で、また消されてしまうかもしれない。
だが、それでも、俺は今、ここにいる。
ものを感じている。考えている。
これは、生きているのと同じではないのか。
神の夢でも人工知性の夢でも、大差ない。
「砂漠はもういい……元の海岸に戻してくれるか?」
レアナが手を上げた。すると、景色が変わった。絶壁の下の、日陰になっている海岸だ。夕方近くなってきたのか、風がひんやりする。
俺はレアナを見た。鮮やかな赤のサンドレスを着て、風に黒髪をそよがせている姿。
そっと手を差し出してみた。レアナが、俺の手を取る。
温かい。馴染みのある手だ。掌を上向きにさせ、指先でしわをなぞった。皮膚の下には、青い血管も透けて見える。淡いピンク色の爪もある。
これが作り物だとしても……何が悪い?
俺は、レアナのいる世界に戻ってきた。
あの長い悪夢の中で、俺が望んでいたのは、レアナと再会することだけだったではないか。
腕を伸ばして、レアナを抱き寄せた。
レアナも、俺の背中に腕を回してくれた。抱き合うと、温かい。塩でざらついた肌も、肌の下に感じられる骨格も、記憶にある通りの確かさだ。
他のことは、もういい。
人類がどうなろうと、俺たちが宇宙の旅人だとしても。
これからずっと、一緒にいられるなら。
レオネは、地球型惑星のあると思われる星系を目指しているそうだ。
もし、その星が植民可能なら、そこに上陸するという。
「そうしたら、わたしたちでアダムとイブになれるわ」
とレアナは言う。模擬人格かもしれないが、俺にとってはレアナだ。
「情報はあるから、生殖細胞は創れるの。人間を増やして、文明社会を築けるのよ」
「また、女だけの社会か?」
「少なくとも、アダムはいるわ……」
レアナは悪戯そうに微笑む。俺のことか。
「その先は、その時に考えればいいじゃない? どちらにしても、それは、わたしたちの子供や孫の世代が決めるでしょう」
「子供や孫は、肉体を……本物の肉体を持って暮らすんだな?」
「わたしたちも、そうしたければ、肉体を持てるわ。元のマークとレアナの遺伝子情報はあるから、肉体を再生することはできるの。その脳の中に宿ればいいのよ」
「できるのか、そんなこと」
「レオネは、ずっと研究を続けていたわ。わたしたちが生きていた頃より、科学技術はずっと進歩しているの。惑星改造だってできるわ」
もう一度、生きた人間に戻れる? レアナと二人して?
だが、今は、この仮想世界で別に不自由していない。飛行船で旅に出て、大平原や密林や山脈を上から眺めることもできるし、大都会の上空に留まることもできる。地面に降り立つこともできる。都会の場合、周囲で動く人間たちは作り物だが、舞台背景と思えばいい。好きなだけ、違う舞台を設定できる。
慣れてしまえば、快適だ。
いつか、この快適さに飽きる時が来るかもしれないが、当面はこれでいい。レアナがいてくれるのだから。
「どちらにしても、目的の恒星系に到着するまで、まだ時間はあるの。ゆっくり考えましょう」
俺たちは、断崖の上に据えたコテージのテラス席にいる。太陽は雲を染めながら、背後の林の向こうに沈んでいく。カンパリソーダで乾杯しているうちに、水平線の上に、金色の一番星が現れた。
夕陽の残照が薄れると、暗くなった空に浮き上がるのは、遠い地球で見ていた星々だ。
北斗七星がある。獅子座や蠍座がある。いずれはオリオンも巡ってくる。
崖下に打ち寄せる波は、青白い夜光虫の光を浮かべている。潮の匂いを含んだ涼しい風が、テラスを吹き抜けていく。
二人で話すことは、たくさんあった。これから行く星の様子。過去六千年の人類の歴史。新しい科学技術。レオネを呼ぶと、カマキリ顔のロボットの姿で現れる。そして、俺たちの会話に混ざる。
俺はようやく、魂の安らぎを得た。
ここが、いるべき場所だ。
未来はまだある。レアナと開く未来が。