ミッドナイト・ブルー ハニー編1
――誰も、わたしに構ってくれなくていい。わたしは一人で生きて、一人で死ぬから。
全身で、そういう気持ちを表していたはずだった。
友達も要らない。家族の慰めも要らない。
お金を稼げる仕事に就ければ、それでいい。
だから、あえて遠い星の大学を選んだ。長期休暇の時も、家へ帰らなくて済むように。アルバイトで忙しくしていれば、帰らない言い訳になる。
両親や祖父母たちが悲しむことを思うと、いくらか気が咎めたけれど、そもそも、わたしがこの世に生まれたことが間違いなのだから!!
――それなのに、マックスが現れた。もちろん当時はまだ、その名は使っていなかったけれど。
彼は朝のキャンパスで、機嫌よくわたしを待ち受けていた。艶やかな金髪を輝かせ、真っ白なシャツを着て、煉瓦色の校舎と緑の木々を背景にして。
「やあ、おはよう」
最初わたしは、自分に向けられた挨拶とは思わなかった。ちらと見て、同郷の知り合いではないと思ったから。
それで、黙って彼の前を通り過ぎた。すると彼は、気軽な様子で横に並んでくる。
「そんなに急がなくても、余裕で間に合うよ。建築史だろ。聞き逃したって、惜しい授業じゃない。それより、一緒にランチを食べる予約をしたいんだけど」
わたしは理解しかねて足を止め、彼を見直した。楽しげな青い瞳は、まっすぐわたしに向けられている。
――試験前のSOS以外で、男子学生がわたしに声をかけてくるなんて、ありえない。
それでは、宗教団体の勧誘?
それとも、美容整形のモデルを探す病院の回し者?
「どなたかとお間違えですか?」
冷ややかに言ったのに、彼は朗らかなままだった。
「いいや、間違えていないよ。マイ・ハニー。これから、そう呼ばせてもらう」
わたしは唖然とした。
誰が、マイ・ハニーですって?
これからって、どういう意味?
「昼が駄目なら、夕方でもいいよ。ぼくとパフェでもどう? パフェが嫌いなら、お茶だけでもいい。趣味のいい紅茶専門店があるんだ。町外れだけど、きっと気に入ると思うな」
もしかして、仲間内で賭けでもしているのだろうか。あの疑り深い醜女を、舌先三寸で口説き落とせるかどうか。
だとしたら、賭けに負けて、何か奢らされるといい。
わたしは彼を無視することにした。キャンパスをずんずん歩いて、教室に入る。早目に席に着いて授業の準備をするのが、わたしの流儀。
けれど、彼はためらいもせず、わたしの隣に座るではないか。
「週末は、ドライブでもどう? 海でも山でも、好きな方に連れていくよ。大丈夫、いきなりホテルに連れ込んだりしないから」
――少しばかりハンサムだからといって、女の子はみんな、自分に惚れるとでも?
わたしは黙って席を立ち、他の席に移動した。でも彼は、磁石に引かれる鉄片のように付いてくる。
「離れて下さい!!」
と声を強めて言うと、ちらほら着席し始めた他の学生たちが、驚いてこちらを見る。
――なぜ、わたしが、余計な注目を浴びなくてはならないの。常に地味な服を着て、静かに行動しているのに。
でも、彼は平然としていた。自分がしていることは、全て当然極まりないことだという確信を持って。
わたしは猜疑を込めて、彼を見直した。
平均的な体格だけれど、引き締まった筋肉をしている。顔立ちも整っていて、育ちのいいお坊ちゃまという感じ。瞳は灰色がかった青。形のいい鼻。薄い唇には、自信ありげな微笑み。
着ている服にも、靴にも、神経が行き届いていた。無造作に見せかけて、鋭い美意識に裏打ちされているのがわかる。
男のくせに、しかもまだ学生のくせに、服装にここまでこだわるなんて。相当なナルシストだ。
「ごめん、自己紹介が遅れたね。ぼくは……」
彼はすらすらとしゃべった。名前に出身惑星に得意技。わたしより二歳年上だけれど、大学入学が早かったので、学年では三つ上。
話を聞く限り、およそ、この世に不得意なことはないようだった。
物理専攻で、志望は研究者。いずれは自分で、研究開発のための企業を立ち上げたいとか。
伯父さまの経営する貿易会社で、アルバイト中。
空手は黒帯。サッカーでは俊足を誇る。
趣味は料理。わたしに手料理を食べさせたいとまで言う。
「きみに興味があってね。色々調べたんだ」
何ですって!?
「三人姉妹の長女で、何でもできる優等生だろ。きみに相応しい男は、ぼくしかいないよ。試しに、付き合ってみないかい? 絶対、後悔させないから」
わたしは彼のことを、心の病人と断定した。
もしかしたら、気の毒な誰かを幸せにしてやりたい、誰かに必要とされないと生きていけないという、ボランティア症候群なのかもしれない。
「離れないと、警備員を呼びます」
と言ったら、彼は苦笑した。やおら立ち上がり、よく響くテノールの声で宣言する。
「みんな、聞いてくれ!! ぼくは、全力でこの子を口説き落とすことに決めたん!! 何年でもアタックし続けるから、うまくいくように応援してくれ!!」
既に学生で一杯になっていた教室が、わっと沸き返った。
「いいぞ、頑張れ!!」
「突進あるのみ!!」
拍手が広がり、口笛がピーピー飛んだ。
わたしは屈辱で、耳まで熱くなる。入学以来、ずっと目立たないようにしてきた努力が、水の泡!!
わたしは立ち上がって右手を振り上げ、青年の横っ面を張り飛ばした。十分避けられたはずなのに、彼はまともにそれを受け、笑いながら顔をしかめるという芸当をやってのけた。
「いやあ、しびれた。強烈だなあ。さすがはマイ・ハニー」
それから、うやうやしい仕草で身をかがめ、ひりひりするわたしの手を取り、指にキスしてみせたのである。
「それで気が済むなら、何回でもどうぞ。きみに触ってもらえるだけで、ぼくは幸せなんだから」
わたしは危うく、ヒステリーの悲鳴を上げるところだった。ちょうど担当教授が入室してきたので、優等生の条件反射を起こし、黙って席に座ってしまっただけ。
こいつ、絶対頭がおかしいわ!!
これ以上付きまとってくるようなら、大学の警備部に通報してやる!!
けれど、彼は周囲に手を振り、軽快に歩み去った。高齢の教授は、教室内のざわつきに少し不審な顔はしたものの、普通に講義を始めた。わたしは顔が火照り、心臓が激しく打ち続け、まったく勉強に集中できない。
どうして、わたしがこんな目に!!
金髪のハンサムが上機嫌でわたしにつきまとう光景が、キャンパスの名物になってしまった。
彼は朝、わたしの住む女子学生専用アパートの前で待っている。雨の日も晴れの日も、都合がつく限り、ほとんど毎朝。
そして、校舎まで歩くわたしの横に並んで、あれこれしゃべりかけてくる。好きな本や映画、バイト先での出来事。
昼食時には、当然のように横に座る。食堂でも、中庭の芝生でも。
時には、手作りのお弁当を持参してきて(わたしの周りの女の子たちが、先にそれを味見した)、わたしに感想を求めてくる。最初は断っていたけれど、根負けして食べてしまったら、確かに美味しい。
放課後は、帰るわたしに徒歩で付いてくることもあるし、レンタカーを用意して待っていることもある。
「送るから、ちょっとドライブしようよ」
「結構です。忙しいので」
「夕陽が見える、いいデートスポットがあるんだけどなあ」
「一人で見たら?」
ただの一度もデート経験がないなどと、こんな奴に言う必要はない。
晴れの日は、ずっと彼を無視していたのだけれど、急に雨が降ってきた日、つい誘いに負けて車に乗ってしまったら、たっぷり二時間、ドライブに連れ回された。
「もう二度と、あなたの車には乗りません!!」
と別れ際にアパートの前で宣言したのに、翌朝もまた、にこにこして現れる。
「昨夜は幸せで、眠れなかったよ。今度は遊園地がいいかな? それとも海?」
彼を避けようとするわたしの努力は、ことごとく、周囲の女子学生たちによって台無しになった。
「いいわねえ、うらやましい」
「あんなに口説かれたら、女冥利に尽きるってもんじゃない?」
「どうして、そんなに嫌がるのよ? 減るもんじゃないし、試しに付き合ってみればいいじゃないの」
「そうそう、どうせ振るのなら、色々と貢がせてから」
彼女たちは面白がり、進んでマックスとわたしの仲を取り持とうとした。昼食時の大食堂では、わたしの隣に彼の席を確保する。わたしの予定を彼に告げ、グループ活動に誘い入れる。
「週末はわたしたち、芸術家村にある家具工房の見学に行くの。もちろん彼女も参加よ。あなたもどう?」
「や、いいな。ぼくももちろん参加するよ、ありがとう」
「来月のわたしの誕生パーティ、彼女と一緒に来てね」
「行かせてもらうよ、ありがとう」
いつの間にか、彼はキャンパス中の応援を受けていて、いつわたしが陥落するか、公然たる賭けの対象になっていた。教授たち、事務職員たちまで賭けに加わっていたというのだから、冷や汗が出る。
善良な彼らは、マックスの動機が恋愛感情だと信じて疑わないのだ。
もちろん、わたしはそんな風には思わなかった。
どんな美女でも口説き落とせる男が、あえてわたしに付きまとうなんて、絶対、どこかに落とし穴があるのに決まっている。
それでも、彼は客観的には〝模範青年〟なのだとわかってきた。
教授陣の受けもよく、数学と物理の才能は、どこの研究所にも喜んで迎えられるほど。友達も多く、空手やサッカーの試合に出場しては、期待通りに活躍する。彼に片思いしている女の子も、たくさんいる。
まさに、理想の青年。
それがなぜ、わたしのために、時間とエネルギーを費やすの。
季節の花束や話題のお菓子という、ちょっとした贈り物も押し付けられた。最初は拒絶したけれど、やがて、素直に受け取る方が、疲労しなくて済むと悟った。彼は、ほとんど疲れ知らずのようだ。
それでも、高価なブランド物の香水を渡された時は、反射的に突き返そうとした。
――こんな香水をつけていいのは、この香りに相応しい美女だけ。わたしなんかが使ったら、香水の方が可哀想。
「いただく理由がありません」
あくまでも受け取りを拒否したら、彼は小箱を高く掲げて言う。
「そうか、これは気に入らなかったんだね。それじゃ、他のものを探そう」
そしてそれを、わたしたちがいた橋の上から、真下の川に投げ捨てた。赤いリボンをかけられた小箱は、ぽちゃんと着水し、半分沈みながらも、ゆらゆらと運ばれていく。
「何てことするの!!」
悲鳴を上げてしまったのは、わたしである。安い合成香料ではなく、本物の薔薇やジャスミンから抽出した香水を捨てるなんて、犯罪行為ではないか。
「拾ってくるかい?」
面白そうに尋ねられ、術中にはまったと思いながらも、地団駄踏んで叫んでしまった。
「早く、流されないうちに取ってきて!! でないと、許さないから!!」
彼は靴を脱ぎ、ズボンを太腿まで濡らしながら、ざぶざぶと川に入って、小箱を拾い上げたのである。
――こうなったらもう、大事に使うわよ。自分では一生、こんな不相応なもの、買わないのだから。
マックスは下半身ずぶ濡れのまま、上機嫌で言う。
「何が欲しいと言ってくれれば、それでいいんだよ。きみのお望みなら、月でも星でも取ってくるんだから」
天才と何とかは紙一重、というやつかもしれない。わたしはたぶん、頭のおかしい天才に見込まれてしまったのだ。
それ以来、マックスからの贈り物は、少しずつ高価になっていった。
宝石を散りばめた、金のペンダント。大粒の真珠のイヤリング。華やかなスカーフ。繊細なプラチナ細工の指輪。
どれも美しすぎて、わたしには似合わないのに、断ったら川に捨てられると思うと、
「大事にするわ」
と言わざるを得ない。最初は身につけるのが怖くて、何日も室内で練習してから、やっと外につけていったものだ。
そのうちに、面と向かってわたしを笑う人はいないと納得し、少しは気が楽になったけれど。
マックスは、わたしにこれらの品が似合うと、本当に思っているのだろうか? それとも、贈ったという事実だけで満足なのだろうか?
学生課で紹介されたアルバイトに行く時も、彼が車で送り迎えしてくれた。断っても、どうせ帰りには待ち構えている。断る気力が、もうない。
そういう様子を見ている周囲の娘たちは、深い吐息と共に言う。
「いいわねえ……」
「きっと一生、尽くしてくれるわよ」
「理想の王子さまじゃない」
違う。
絶対違うのに。
故郷にいる時、妹二人の元へは、よく男性からの贈り物が届いた。彼女たちをパーティやドライブに誘う若者も、たくさんいた。
でも、わたしには別世界の出来事だった。
子供時代に仲良しだった近所の男の子でさえ、思春期になると、わたしには声をかけなくなった。それどころか、わたしの姿を見かけようものなら、大回りして視界から消えていった。
だからわたしは、異性には何の関心もないふりをして、勉強に励んでいた。妹たちがボーイフレンドと出かける姿を見ても、何とも思わないふりをした。そして、ただひたすら、家を出ていける日を待ち望んでいた。
大学を出たら設計の仕事をして、家やビルや公園を造る。休日には、自分の設計した家で過ごす。庭では、たくさんの花を育てる。
結婚なんか、望まない。
誰も、わたしに構わないで。
同情されたって、何の役にも立たないのだから。
わたしは別に、怪物のように醜悪というわけではなかった。だったら両親が、幼いうちに整形手術を受けさせてくれただろう。
けれど、わたしの容姿は、人には必ず同情を呼び起こした。
(まあ、女の子がこんな顔で)
(これでは年頃になっても、ねえ)
拗ねたような、恨みがましいような、珍妙な顔。
無心に遊ぶ妹二人を見て、目を細める大人たちが、少し離れて読書しているわたしを見た途端、表情を凍らせる。それから懸命に、褒め言葉を探す。物静かだとか、落ち着いているとか、礼儀正しいとか。
優しい母や、思いやり深い祖母たちも、わたしには、意図的に地味な服を着せた。紺や灰色、ベージュや深緑。
妹二人がよく着せられていたような、赤やピンク、まぶしい白の華やかなドレスは、わたしの醜貌を悪目立ちさせるだけだったから。
もちろん現代の技術なら、美容整形は容易い。ちょっとした手術で、いくらでも綺麗になれる。
けれど、そんな安易な解決を許さない掟が、この世にはある。
『人間は顔ではない』
という、市民社会の強固な建前だ。
わたしは、その建前の威力を知っていた。遠い親戚に、悲惨な実例があったから。若いうちに美容整形などしたら、一生、心ない噂につきまとわれるのだ。
整形に頼るなんて、可哀想な娘。美しい心を持っていれば、それが自然に、その人を輝かせるのに、と。
お体裁も、いい加減にしてもらいたい。
不細工なまま青春時代を過ごす娘が、毎日、どれほど世界を呪っているか。
わたしだって、何度も考えた。ナイフを持ったまま、階段から転がり落ちようか。顔をざっくりえぐったら、治療のついでに、少しはましな顔に直してもらえるかもしれない。
転んだふりをして、キャンプファイヤーの炎に頭を突っ込むことすら考えた。
でも、できなかった。
怪我が恐ろしかったのではない。それほどまでに悩んでいる、それを人に知られることこそ、一番恐ろしいことだったから。
民族間の混血が進み、整った容貌の人々が増えているからこそ、標準に達しない者の孤独は深い。
たとえ遠くの星へ引っ越してから整形しても、家族や親戚との縁は断ち切れない。やむなく出席した冠婚葬祭の場で、親戚中の話題になり、同級生にも職場関係者にも知られてしまう。
そして、ささやき交わされるだろう。可哀想に、彼女、やっぱり顔のことを気にしていたのね、と。
美しい心があれば、内側から輝くですって!?
わたしの妹たちは、男の子がデートで何かへまをしたと言っては、冷酷に罵っていた。プレゼントがけち臭いと、陰で嘲笑っていた。
それでも彼らはせっせと妹たちに付きまとい、お世辞を言い、贈り物を積み上げていたではないか!!
美人を連れ歩いたら、自分の価値が上がるから!!
――男になんか、何の期待もしない。
クリスマス・パーティだろうが卒業パーティだろうが、わたしは、お義理の相手にしか踊ってもらえなかった。彼らは心優しい姉や妹に頼まれていたから、わたしが壁の花にならないよう、一曲か二曲踊って義理を果たすと、ほっとしたように離れていった。
間違ってわたしに好かれてしまったら、大変な災厄だものね。
だからわたしは、出席せざるを得ないパーティでは、裏方の雑用を引き受けて走り回ることにしていた。忙しくしていれば、落ち込む暇などない。
男たちは好きなだけ、可愛い娘、綺麗な娘をちやほやしていればいいのだ。
わたしは勉強して、望む職に就き、自分の人生を築く。男なんかと、何の関係もなく。
それなのに、マックスと知り合って半年が過ぎる頃には、わたしは、彼の運転する車の助手席に慣れてしまっていた。
わたしの隣でしゃべりたいのなら、しゃべらせておけばいい。食事やドライブに連れて行かれても、
(まあ、不釣り合いなカップルね)
という目で見られるだけで、実害はない。
大学内でも、いつしか公認のカップルとして扱われるようになったけれど、いったんその状況に慣れてしまえば、どうということはなかった。
噂されるとしても、好意的なものだ。わたしを選んだマックスの見識が、讃えられるだけ。
マックスにとって、不細工な連れは、
『自分は、容姿で女を選んでいない』
という〝人格の証明〟になるのだ。
どうしてわざわざ、そんな証明がしたいのか知らないけれど。
決まった相手がいるというのは、便利なことだった。大学内で色々なパーティに誘われても、断る口実を探さなくて済む。壁の花になる心配がないなら、賑やかな場所にいることにも、どうにか耐えられる。どうせみんな、自分が好きな相手しか眼中にないのだから。
ところが、それで、わたしが心を許したとでも思ったのか。
ある雨の土曜日、レンタル車でわたしをドライブに連れ出したマックスは、山越えの寂しい道路で、枯草に覆われた空き地に車を乗り入れると、わたしにキスしてきた。助手席の上に身を乗り出してきて、わたしに覆いかぶさるようにして。
「大丈夫だよ、怖くない。きみは、じっとしていればいいから」
そして、シートの背を倒してくる。
普通の娘なら、そんなことは、十五か十六の頃に経験済みだろう。
でも、わたしはパニックを起こし、遮二無二もがいて、車から飛び出した。そして、山の中のドライブ道路を必死で走りだした。本降りの冷たい雨で、全身ずぶ濡れになりながら。
――馬鹿にされている。
他の男には絶対相手にされない娘だから、自分に感謝して、何でも言いなりになるだろうというわけ。
あいつ、澄ました顔をして、わたしの首から下を狙っていたんだわ。わたしのボディは完璧だもの。長い首も、豊かな胸も、くびれた胴も、すらりとした脚も。
だからこそ、この美しい肉体を一生、地味な服に隠しておかなければならないことが悔しかった。
この顔とセットでは、どんな素晴らしい肉体も、役に立たない。
彼は、だから、『自分が利用してやる』と名乗りを上げたのだ。わたしには、断る余地などないと踏んで。
山間の道路には、ほとんど車が通らなかった。マックスが追ってこないとわかると、雨の中を走る気力は薄れ、とぼとぼ歩きになった。左右はうっそうと茂った森だから、雨宿りに踏み込む気もしない。
冷たい雨のおかげで、惨めな涙が隠された。
あんな男、もう二度と相手にしない。いいえ、向こうが二度と寄ってこないだろう。あれほど贈り物を積んだのに、全て無駄だったと後悔して。
彼とわたしがカップルだったことなんて、そのうち大学のみんなも忘れてしまうだろうし。
ようやく気持ちが落ち着くと、手首の端末で無人タクシーを呼んだ。部屋に帰ったら熱いシャワーを浴びて、何もかも洗い流してしまおう。たぶん、これが最初で最後のキス体験だろうけど。老女になった頃、そんなこともあったと、懐かしく思い出すかしら?
雨の中に無人タクシーが見えた頃、後ろから、ぐいと肩を掴まれた。ぎょっとして振り向いたら、濡れねずみのマックスが立っている。
自分も車を降りて、徒歩で追ってきたというの!?
しかも、いつもの彼に似ず、笑いのかけらもない顔で。
「謝らないよ」
開口一番の台詞が、これ。
「悪いことをしたとは、思っていない。きみの方こそ、分かりが悪すぎる。いい加減、ぼくが本気だと信じてもいいだろう!?」
わたしは彼の手を振り払った。
信じるかどうか、という問題ではない。わたしは知っているのだ。自分が醜いこと。男という男は、わたしの顔を見たら萎えてしまうこと。
わたしはだから、そういう世界で、何とか生き延びていこうとしているだけ。ちょっかいを出してくる方が悪い。
目の前に停まったタクシーに乗ろうとしたら、マックスはわたしを捕まえて、強く抱きすくめた。
「さあ、警察を呼んでいいよ。ぼくを逮捕させればいい」
通報ですって? たかがキス一つで? 警官に呆れられるだけだわ。
彼は承知している。本物の暴力にならない限り、わたしが世間的に騒ぎ立てることはないと。だから、安心してごねられる。
「離して」
「いやだ」
「子供みたいなこと、言わないで」
「きみが警察を呼ばない限り、離れないよ」
雨の中でタクシーのドアを開けさせたまま、押し問答が続いた。やがて、折れたのはわたしだった。
もう寒い。疲れた。
熱いシャワーを浴びて、乾いた服に着替えたい。
なぜだかわたしは、マックスに取り憑かれてしまっている。望めば、この世のどんな女でも手に入れられる男なのに。
「……いいわよ。あなたの車に乗るわ。でも、何かしようとしたら、目玉をひっかいてやるから」
「わかった。大丈夫だよ。乱暴はしないから」
タクシーは空のまま走り去り、代わりに、彼の呼んだレンタカーがやってきた。乗り込んだのはいいけれど、濡れねずみで寒くてたまらない。
「一番近くのホテルへ行くよ。とにかく、躰を温めよう」
彼はそう言って、町とは反対方向に車を走らせ、渓谷沿いの温泉ホテルを目指した。どうなるのか予想できたけれど、わたしはもう逆らわなかった。彼から逃れるには、途方もない気力を要する。
彼の好きにさせておいた方が、わたしは楽なのだ。
こうして、なし崩しに、わたしは〝マックスの女〟になった。
彼は飽きることなく、わたしに贈り物をし、車で送り迎えし、大学の娘たちに羨望のため息をつかせた。
わたしと一緒にいる時、彼があまりにも嬉しそうで、幸せそうなので、何だかわたしは、少しばかり胸が痛かった。
(わたしは愛していないのに。なぜ、この人はわたしがいいの?)
彼がわたしに優しくする十分の一も、わたしは彼に優しさを返していない。さすがに対外的には恋人として振る舞うし、礼儀は守っているけれど、あくまでも仕方なく、なのに。
まあいい。
彼がわたしを独占したいのなら、させておこう。
いつか、この関係が解消されるとしても、わたしは彼を引き止めたりしない。ほんの一時期でも、女として扱われ、女として振る舞うことができた、そのことに感謝できるのだから。
わたしがマックスの真意を聞かされるまで、もう半年かかった。
すっかり恒例になった週末の小旅行で、誰もいない滝壺の縁に立った時、打ち明けられたのだ。自分は近いうち、市民社会を捨てるつもりだと。
「ぼくは辺境に出て、不老不死を手に入れる。きみに一緒に来てほしい。ぼくの生涯の伴侶として」
女は顔ではない。
そのことを身に染みて知っているのは、他の誰でもない、このぼくだ。
ぼくの母親は、少しばかり美人であるために何か勘違いした、とびきりの馬鹿女だった。結婚後、わずかな年月で父と別れることになったのも、その幼稚さ、愚かさに愛想を尽かされたからだ。
そして、そのことを理解せず、いつまでも恨みを引きずっていた。自分が再婚できないのは、無理に押し付けられた息子のせいだと思い、ぼくに八つ当たりした。
別れた父もまた、馬鹿女に似合いの卑怯者だった。再婚する予定の女に嫌がられたから、ぼくを引き取らなかったのだ。自分の元妻が、最悪の母親だと知っていたくせに。
それでも、ぼくは子供だったから、必死になって母親に愛されようとした。勉強でも家事でも、できる限りの努力をした。
週末の朝には、寝坊している母にブランチを作り、テーブルに庭の花を飾った。学校のテストは、いつも最高点を取った。空手やサッカーでも活躍した。
おかげで、ぼくは人気者だった。教師には褒められ、女の子からは憧れられた。男の子仲間ではリーダー格だった。学校では、誰もぼくの孤独を知らなかっただろう。
その努力に疲れきり、
(もういい)
と思うようになったのは、十二歳の頃だ。
前々から約束していたのに、あの女は、ぼくが主役を演じる学芸会の舞台を見にきてくれなかった。新しい男とのデートを優先したのだ。
どうせまた、振られるくせに。
舞台の袖から満員の客席を見渡し(どこの親も、我が子の出番が少しでもあれば、大喜びでやってくる)、まだ来ないか、待ち焦がれていた自分が哀れだ。
芝居は大成功だったが、その日のうちに、ぼくは決意した。
もう、あの女に期待などするまい。
ぼくはもう、自分一人で何でもできる。あんな女に頼る必要は、微塵もないではないか。
気持ちに区切りがつくと、世界の見え方が変わった。そして、周りの女の子に目が向くようになった。
同級生も思春期に突入していて、あちこちで幼い恋の花が咲きだしている。
そうだ、ガールフレンドを作ればいい。美人でなくていいから、優しくて賢くて、一緒に笑える女性を探そう。
ところが皮肉なことに、ぼくは賢くなりすぎていた。どの女の子と付き合っても、幼稚に思えて物足りない。
年上の女性も試してみたが、同じことだった。友達の姉、近所の人妻、病院の女医、バイト先の女社長。どの女もそれなりに可愛いが、ものを考えなさすぎる。なぜそう、視野が狭いのだ!?
いや、視野が狭いのは男も同じだった。総合点で言えば、平均して男の方が低い。
彼らは単純で、女の嘘を見抜くこともできず、いいように女に振り回されている。地位があっても学識があっても、性欲に引きずられる限り、男は女には敵わない。
この頃には、ぼくが立派な青年に育ったことに気がついて、母がすり寄ってくるようになったが、ぼくは相手にしなかった。
貴重な青春の時間、こんな馬鹿女のために使えるものか。
郷里から離れた星の大学に入って、少しは世間が広くなっても、やはり、ぼくが尊敬できる男はいなかった。高名な教授でも、成功した実業家でも、よく見てみれば、たいした中身ではない。
ぼくが努力を続ければ、どんな望みも叶えられるだろう。政治家になってもいい。科学者にもなれる。自分で会社を興してもいい。
だが、その先は!?
鍛え上げた肉体も、いずれは老いる。冴えきった精神も、いずれは鈍っていくだろう。
どんな活躍をしようと、後から育った若者に追い越され、引退を迫られる。その日まで、わずか数十年。
それならば、まず、不老不死を望むべきではないか。永遠の若さがあれば、どんなことも可能になる。
辺境の宇宙に出て、不老処置を買うことを考えて、なぜ悪い!? 苛酷な生存競争には、勝ち残ればいいだろう!!
だが、その本音を口にするのはまずいと心得ていた。司法局の要注意人物リストに載せられたら、厄介なことになる。
幸い、ぼくには資産家の伯父がいた。母の兄だ。
愚かな妹のことは嫌って距離を置いていたが、甥が立派な青年に育ったことを知ると、喜んで可愛がってくれた。彼の経営する貿易会社で、有利なアルバイトをさせてくれ、事業の基本を教えてくれたのだ。
芸術家肌の娘しかいない彼は、ぼくを跡継ぎにすることまで考えてくれた。それならば、放置されていた子供時代の埋め合わせをしてもらおう。
ぼくは彼に深層暗示をかけて操り(そのための基礎技術は、大学で学ぶことができた。辺境から得た知識で、ほんの少しの上乗せをすればよかった)、会社の資金の一部を裏金に回させた。そして、その資金で辺境に足がかりを築いた。
自分で出向かなくても、ネット経由で買い物はできる。バイオロイドの部下、手足になる機械の兵士、移動基地になる船。
ハニーに出会った時、ぼくは辺境へ脱出する準備の最中だった。それでも、そちらの計画を一時棚上げにするほど、ハニーに心を奪われた。もちろん当時はまだ、ハニーという名前ではなかったが。
華やかなキャンパスで、一人だけ鎧をまとった、異質な娘。
自分は誰にも愛されない、だから誰も愛さないと決め込んで、ひたすら勉強だけに打ち込んでいる。
彼女を見ると、胸が痛くなった。過去に置き去りにしてきた、大切なものを思い出した気がする。
きみも、ぼくの同類なんだね。そんなにとげとげして、自分を守ろうとしなくていいんだよ。ほら、ぼくがここにいる。
ぼくは楽しんでハニーにまといつき、口説き続けた。自衛の固い殻を破るのには苦労したが、その価値はあった。厚い殻の中には、甘い果実が詰まっていたからだ。
高い塔に籠もっていた、可憐な乙女。
ぼくが築く王国は、きみのためのもの。
だから、辺境へ飛び出そう。二人の永遠の幸福のために。
――これがわたし? 本当にわたし?
自分で思い描いた通りに整形したとはいえ、最初に鏡に向き合った時は、感動のあまり、しばらくは声もなかった。
「なかなかいいよ……元のきみの顔も、ぼくは好きだったけど」
他人事のようなマックスの台詞なんか、耳を素通りした。
夢じゃないわ。わたし、本当に、綺麗になったのよ。
優雅な弧を描く眉、物憂げな眼差し、上品な鼻筋、官能的な唇、すっきりした卵形の輪郭。
首から下は元々美しかったから、顔が綺麗になれば、完璧な女神の出来上がり。
わたしは有頂天になり、ドレスや靴や宝石を買いまくり、着飾って遊び回った。苦笑しているマックスを、エスコート役にして。
「そんなに夜遊びが好きとは、知らなかったよ。きみは、本さえあればいいのかと思ってた」
何とでも言ってちょうだい。もう、気にならないから。
他の男たちから賛美の視線を浴びるのも、名前を尋ねられ、高価な贈り物を届けられるのも、わたしには新鮮な喜びだった。
少女時代はずっと、周囲の男の子たちに、露骨に避けられていたのだもの!! 彼らは、うっかりわたしに親切にして、好かれでもしたら、大変な災厄だと怯えていた!!
それからすると、マックスは寛大だった。わたしが買い物狂いになっても、静かに笑っていた。
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「宝石やドレスくらい、戦闘艦に比べたら安いもんだ。きみが幸せになるなら、いくらでも買えばいい」
わたしは彼の膝に座って、感謝の印にキスの雨を降らせた。整形前は、自分から彼にキスすることすらできなかったのに。
でも、今ならもう、わたしがキスしても、迷惑ではないでしょう?
いったん美人になってしまえば、日毎に自信が深まってくる。美人らしい振る舞いが、徐々にできるようになってくる。
美人なら、深いスリットのタイトスカートをはいていい。
赤い口紅を塗っていい。
甘い香りの香水を愛用していい。
こちらに見惚れる男に、思わせぶりな笑みを投げてもいい。
これまで我慢していたこと、あきらめていたこと、全て、これから取り返せる!!
マックスには、言葉に尽くせないくらい感謝した。だから努力して、彼の役に立つパートナーになろうとした。彼のすることが、市民社会の基準では犯罪だとしても、どうだというの!?
「わたし、何でもするわ。何をすればいいの?」
そう言った気持ちに、嘘はない。
「そうだな。危険なことはぼくがする。きみは、事務的なこと、管理的なことをしてくれないか?」
彼はマックス、わたしはハニーと名乗って、二人で違法組織《ディオネ》を立ち上げた。というより、既に基盤はできていた。マックスは大学生の仮面の下で、着々と準備を進めていたのだ。
わたしたちは更に部下を集め、艦隊を整え、他組織と接触して、あれこれの商売に手を染めていく。
でも、もちろん、違法組織を育てるということは、綺麗事では済まなかったのだ。
歯車が狂う。
というより、歯車にきしみを感じる。
でも、マックスにはそれが分かっていない。
辺境で暮らし始めてから、あっという間に年月が過ぎていった。わたしは美人であることにも慣れ、日々増え続ける仕事に忙殺されていた。
新たに買い入れたバイオロイドたちの教育。
小惑星工場での新製品の開発。
違法都市に持つようになった店舗の管理。
他組織との抗争という、最も苛酷な部分はマックスが引き受けてくれたから、わたしは建設的な分野で頭を使えばよかった。それもこれも、最初の資金があればこそ、だったけれど。
マックスは、彼を可愛がってくれた伯父さまに深層暗示をかけ、伯父さまの貿易会社の資金をかすめ取ったのだ。おかげで、マックスとわたしが失踪した後、伯父さまは司法局に逮捕されてしまった。
結局、洗脳されて利用された被害者とわかって、釈放されたものの、重役たちから甥への甘さを責められ、会社の経営から引退することになったとか。
今でもわたしは、申し訳ないことをしたと感じている。マックスはもう、思い出しもしないらしいけれど。
わたしたちは〝連合〟にも加盟し、辺境の社交界にデビューしていた。どこの違法都市にも、そこの経営組織が管理するセンタービルがあり、パーティや会合や見本市が開かれる。そこで他組織の幹部との交流が生じると、商売も円滑にいくようになる。
新たな取引、新たな商売。
組織の規模が拡大すると〝連合〟への上納金も増えるけれど、それは仕方のない必要経費。
《ディオネ》は順調に拡大していった。マックスは経験を積み、部下に恐れられるボスになっていく。
というより最初から、わたし以外の人間には、畏怖されていたのではないだろうか。
わたしが抱いた最初の大きな違和感は、たぶん、マックスが他組織から、経営不振の娼館を買い取った時だろう。その商売を引き継ぎ、業績を好転させるつもりだと聞いて、わたしは強い恐怖と嫌悪を感じた。
バイオロイドの女たちに、人間の男の相手をさせる場所。
人工遺伝子から大量培養される奴隷だといっても、赤い血の流れる生身の肉体で、人間と同じ喜怒哀楽を感じるはずなのに。
女なら、好きでもない男に身を任せることは、恐怖と苦痛以外の何物でもない。わたしだって、最初にマックスに抱かれた時は、ほとんど自棄だったもの。
マックスが辛抱強く優しさを示してくれたので、じきに慣れて、肉体の快感に浸れるようになったけれど……娼館を利用する男たちに、そんな辛抱強さは期待できないでしょう!?
どうして、火器や雑貨の商売だけではいけないの。小惑星農場から食肉や野菜を出荷するだけでも、そこそこの利益になっているはずよ。
「ハニー、きみの気持ちはわかる。女性が抵抗を感じるのは、当然だ。しかし、違法都市では普通の商売なんだよ。うちがやらなくても、他がやる。きみは何も心配しなくていいから、ぼくに任せて、忘れておしまい」
その場はマックスに押し切られ、担当者が決められてしまった。そしてそれ以後、わたしには、娼館に関する情報が一切入ってこなくなった。
新人の教育や店舗の管理で忙しかったわたしは、そのまま時を過ごしてしまい、気がついたら、マックスの所有する娼館は何十にも増え、違法ポルノの製作・販売まで守備範囲に入っていた。
バイオロイドの女子供を使い、本物の強姦や獣姦を撮影する映画だ。
苛酷な撮影を繰り返すうち、使われた女子供は精神を破壊されていき、素材としての価値がすり減ってくる。だから最後には、残虐なSM映画に使われ、殺されて終わるのが普通だという。
わたしは震え上がった。
いくら何でも、それだけは。
「お願いだから、そんな商売はやめて!! せめて、殺すのではなく、中央に送り届けてやって。そうすれば、難民として保護してもらえるわ」
マックスにそう訴えても、
「きみは気にしなくていい。担当者に任せておけばいい」
と立ち去られてしまう。わたしは服だの小物だの、レストランだのという、小綺麗な商売だけ監督していればいいというのだ。
マックス自身は戦闘艦の製造工場や新規の取引相手の開拓という、最も大変な仕事にかかりきりになっている。
(仕方ないんだわ。ここは辺境なんだもの)
わたしは自分に言い聞かせ、違和と不快を無理に飲み込んだ。でも、すぐにまた、別の壁にぶつかった。
マックスが、買ってから五年を過ぎたバイオロイドたちを、人体実験施設に売り飛ばそうとしたのだ。
彼らには、最初の何年か、わたしが本を読み聞かせ、手を取って勉強を教え、服の着こなしも教え、正しい生活習慣を指導したというのに!!
「それは待って。それだけはやめて」
わたしはマックスに取りすがり、必死で懇願した。
「外から、誰かが監視しているわけじゃないわ。五年を過ぎて生かしておいたって、誰にわかるの。仮に、外部に知られたところで、わたしたちが罰を受けるわけじゃないでしょう。何をしても自由なのが、辺境の大原則のはずよ」
けれどマックスは、奴隷は五年で処分するのが一番なのだと言う。
「余計な知恵が育つと、互いに話し合って反逆を企むようになる。過去に幾つも、そうやって崩壊した組織があるんだよ。それに、無制限に生かすことが常態になれば、必ず取引相手に知られる。そこから噂が流れる。最高幹部会に知られたら、うちのような新興組織なんか、簡単にひねり潰されてしまう」
最高幹部会。
辺境を支配するという六大組織の、謎めいた権力者たち。中央の政府にさえも、彼らの力は浸透しているという。
けれどマックスは、何をも恐れない男ではなかったの。常識を打ち破り、既存の権力に挑戦するのではなかったの。
「もちろん、挑戦はするよ。だが、それには長い年月がかかる。辺境に出てきて五年や十年で、睨まれるのはまずい。今はこらえて、実力を蓄える時期だ」
そして、生存期限を越えたバイオロイドたちは、仲介する組織に払い下げられた。兵器工場や研究施設で、危険な人体実験に使われ、殺されてしまう運命だというのに。
それからしばらく、わたしはマックスを拒絶した。キスも抱擁も拒んだ。彼がどう頼んできても、わたしの寝室には入れなかった。
「一人でいたいの、一人にして」
もちろん、わかっている。そんな抵抗、何の役にも立たない。既にわたしは、娼館の女たちの血と涙で購った贅沢品を手にしている。偽善と言われれば、その通り。
でも、それでも。
人間として、踏み越えてはならない一線があるのではないの!?
わたしはずっと、建前で塗り固めた市民社会が嫌いだった。だから自分は、本音が剥き出しの辺境には、すんなり馴染めるものと思っていた。
でも、辺境の真実は、底なしに恐ろしいものだった。普通の家庭で育った者が、その深淵とまともに向き合ったら、心を破壊されてしまう。
今では、あの建前社会が懐かしい。それは、冷酷な真実を少しでも和らげようとする、長い試行錯誤の結果だとわかったから。
でもマックスは、易々と辺境に馴染んだように見える。最初の資金さえ、親切な伯父さまを洗脳して盗み取ったのだ。
彼は少しでも、伯父さまに悪かったと思っているのだろうか? マックスの稼ぎで養われているわたしが、そんなことを考えても、ただの難癖にすぎないのだろうか?
文句があるなら、この《ディオネ》から出ていくべき? でも、わたし一人で、どうやって生き延びられるの?
何より恐ろしいのは、現在のマックスに、わたしが必要不可欠の存在ではなくなっていることだ。今では大勢の部下たちがマックスの指揮下で動き、成果を上げている。ここは、マックスただ一人が支配する独裁国家なのだ。
「きみは好きなことをしていればいいんだよ、ぼくの女王さま。手が空いたら、きみを食事とダンスに連れて行くからね」
マックスは寛大な恋人だったけれど、組織のボスとしては、冷徹な顔を保っていた。
裏切者は処刑する。役に立たない部下は、洗脳して人格を作り変える。部下たちは全員、彼を恐れ、彼に従う。
そうしてわたしはついに、見てしまった。戦闘の後始末の現場で、部下たちに乱痴気騒ぎをさせている姿を。
それは、他の新興組織との艦隊戦の後だった。マックスはその組織に戦闘を仕掛け、頂点の人間だけを始末し、残りの部分は自分の組織に吸収するつもりだった。
わたしはもちろん後方の艦内で待機していたのだけれど、戦闘が終結したと、前線のマックスから連絡があったものだから、安心して、折り返しの通話をしたのだ。
こちらに戻って食事をするなら、用意して待っていると。
ところが、通話画面に出た彼の後ろには、無惨な光景が広がっていた。大部屋の中に、服を着た男たちと、裸の女たちが入り乱れている。男たちは酔ったように笑い騒いでいるけれど、女たちはみな、恐怖に引きつった顔。
マックスもわたしの顔を見て、しまったと思ったらしい。
「食事は要らないよ。また後で」
と、すぐ通話を切ってしまったけれど、もう遅い。あれはつまり、敵の艦内にいたバイオロイドの女たちが、マックスの部下たちに、戦利品として投げ与えられた光景。
その中には、まだ胸もふくらんでいないような少女も交じっていた!! 日頃、わたしの前では畏まっていた男たちが、笑いながらあんな真似を!!
わたしは恐怖にかられ、自分の船室に閉じこもった。頭では自分の安全を知っていたけれど、気持ちでは、自分まで狂宴の餌にされそうで。
あれはきっと、幾度も繰り返されてきたことなのだ。これまではただ、わたしの目から隠されていただけ。
マックスはすぐ、自分の乗艦で戻ってきた。そして、わたしに言い訳した。
「あれは、男たちの緊張を解くためだよ。戦闘の時は、人間の指揮官もバイオロイドの部下たちも、極度の緊張状態にあるからね。平常に戻るためには、その緊張を解放してやらないといけないんだ。一番いいのは、酒と女なんだよ」
頭では、理解する。
もしも、勝ったのが向こうの艦隊だったなら、こちらの女たちが(わたしも含めて)餌食にされていたのだろう。男たちはどんな航行にも、身の回りの世話をさせるための女奴隷を連れ歩いている。その時はマックスも死んでいるだろうから、わたしを守ってくれる者は誰もいない。
ようやく思い知った。
法の庇護を捨てて、マックス一人に運命を委ねた愚かさを。
マックスがいつまで勝ち残れるか、あるいは、どう変質してしまうか、何の保証もないのに。
いいえ、彼自身は多分、学生時代から少しも変わっていないのだ。利用できるものは、何でも利用する性格。わたしを選んだことも、その一部。自分に尽くしてくれる、便利な女が欲しかっただけ。
馬鹿だった。
整形したければ、他人にどう思われようが、堂々と整形して、美人になればよかった。嘲笑されても、非難されても、取り合わずに笑っていればよかった。わたしの人生なのだから、わたしの好きなようにすると。
その勇気がなかったから、こんな場所に落ちてきてしまったのだ。人が人を食う、生き地獄に。
ハニーには、理解されなくても仕方ない。
女というのは、男を愛し、男に守られて、子供を生み育てるようにできている。だから、善良で優しく、ふわふわしているのが当たり前。
男勝りの女戦士などというのは、悪条件が生んだ、哀れな奇形にすぎない。ぼくのハニーが、そんなものになる必要はないのだ。
だが、男は戦うのが仕事。
それは、中央でも辺境でも同じだ。
戦って勝たなければ、何も手に入らない。愛しい女を守ることも、できはしない。辺境での戦いの方が、市民社会のそれより、徹底しているというだけの話。
それでも、ハニーが鬱状態に陥ってしまったのには困った。醜悪なもの、残酷なものを見すぎてしまったのだ。娼館に違法ポルノに艦隊戦。散乱する残骸に、漂う死体。
それで、大組織の経営するリゾート惑星に連れていき、大自然の中で休養させることにした。
珊瑚礁の海に囲まれた、小島のコテージ。
あるいは、高原の温泉ホテル。
しかし、ハニーの暗い顔は治らなかった。予期せぬ物音がすると、びくりと身を縮めてしまう。夜はなかなか眠れないらしく、日中はだるそうで、着飾る気力も湧かないようだ。
ぼくが抱き寄せようとしても、恐怖の身震いが走るのを止められない。ハニー自身が強姦されたわけではないのに、他の女たちの運命を、自分のことのように感じてしまうのだ。
火山見物に連れ出しても、サファリツアーで野生動物を見せても、満天の星の下でキャンプしても、ほんの一時しのぎの効果しかない。
(もう少し、うまく守ればよかった)
と後悔した。ハニーの不安を知っていたのに、ついつい、組織を拡大させる方を優先させてしまって。
ぼくはそれなりの野心家であり、自信家だが、一人で生きていけると思うほど自惚れてはいない。
自分一人が組織に君臨したって、何になる? 部下たちはぼくを恐れ、へつらい、媚びるだけではないか。
一緒に笑い、一緒に悩み、寄り添って過ごす誰かがいなければ、人生の意味がない。
ぼくの中には未だ、しんとした家で留守番していた、子供時代のぼくがいる。友達と公園で遊んでいても、夕方になれば、みんなそれぞれの家へ帰ってしまうのだ。
空の夕焼けが薄れ、庭は闇に沈んでいき、近隣の家からは団欒の明かりがこぼれているというのに、ぼくの母親はなかなか帰ってこない。
レトルトのディナーセットを温めるだけの夕食。
やっと帰ってきた母親は不機嫌で、酒の匂いをさせ、懸命に学校の話をするぼくを追い払う。
うるさくしないで。ママは疲れているんだから。
ハニーは、あんな風になってはいけない。ハニーの優しさ、繊細さは、ぼくが守らなくては。
結局、ぼくが治療法として思いついたのは、
『気が紛れる仕事をさせる』
ということだった。大自然の中でのんびり過ごしても駄目なら、いっそ、都市の雑踏に放り込むのだ。
ハニーは元々、美しいものが好きなのだから、ドレスや宝石や美術品を扱う店を持たせてやればいい。それも、ちまちました店ではなく、一つのビルを丸ごと使った、豪華なブランドを立ち上げてやろう。
そこで、違法都市《カディス》の繁華街に、適当なビルを買った。そして、ハニーに経営を任せると話した。
「何の店にしてもいい。部下も、好きに集めていい。利益を上げなくても、構わない。きみが楽しんでくれれば、それでいいんだ」
《ディオネ》の本体は、人間とバイオロイド合わせて、二千人の部下が支えてくれる。このビルは、ハニーの趣味だけで運営すればいい。
これが大成功だった。ハニーは雨の後の植物のように、たちまち生気を取り戻した。
「女性専用のファッション・ビルにするわ。男性は立ち入り禁止。たとえ、あなたでもよ」
と笑って言う。その笑顔、どんなに待ち望んでいたことか。
「おいおい、こっそり裏口から入るのも駄目か?」
「そうね、たまにはいいことにしてあげる。でも、従業員に見られないように、こっそり出入りするだけよ」
何でもいい。ハニーが少しでも、楽に生きられるのなら。
ハニーは他組織で廃棄されたバイオロイドの女たちを集め、従業員としての教育を施した。また、中央から出て来たばかりで、まだすれていない若者たちを拾い集め、適正を見定め、シェフやデザイナーや技術要員として仕込んでいった。
元々、人を育てることに向いていたのだろう。店がオープンすると、たちまち都市中の話題になり、人気を集めた。
辺境で暮らす、数少ない〝本物の女〟たちは、安心できる娯楽空間を求めていたのだ。
ハニーが《ヴィーナス・タウン》と名付けたビルは、あっという間に都市の名所になった。人間の女たちが、口コミで続々やってくる。もはや、ぼくのことなど忘れたかのように、ハニーは、自分の店にかかりきりになっている。
少しは寂しいが、まあ我慢しよう。ぼくはぼくで忙しい。ハニーが楽しく過ごしてくれるのなら、その間に、やることが幾らでもあるのだ。
辺境の宇宙は〝連合〟に押さえられている。六大組織が辺境の大半を支配し、残りの空間を系列の中小組織に割り振っているのだ。
むろん、銀河系ははるかに広く、無人空間はどこまでも広がっているが、地球を中心とした市民社会から遠ざかるほど、利用価値は薄れていく。
ならば〝連合〟の中で、どれだけ上に上がれるか。
ぼくらのような新興組織が、老舗組織の領域に食い込むのは、ほとんど不可能だ。上の組織から幹部要員としてスカウトされる道もあるが、ぼくはやはり、自分の組織の主でありたい。
勝算のある道は一つだけ――『超越化』を実現することだ。
人間を超え、神になる道。
既にそういう神が誕生し、人類を陰から支配しているという噂もあるが、あくまでも噂だ。研究する値打ちはある。ハニーの本質が教育や経営にあるのなら、ぼくの本質は探究心にあるのだ。
夜中のうち、雨が降り出したらしい。
朝になっても、ビル群の上には、鉛色の雲が垂れ込めていた。地球暦の十二月に合わせた、冬の気候。
でも、繁華街のビル内にいれば、冷たい雨は関係ない。半月後に迫ったクリスマスのために、どこのビルも華やかな飾りつけを施し、客寄せのイベントを繰り返している。
わたしの《ヴィーナス・タウン》にとっても、稼ぎ時。女たちは、自分自身のために買い物をし、肌や髪の手入れをし、レストランで美食を楽しむ。
いつものように、ホテル階のプールで一泳ぎしてから(朝早くはさすがに、泊まり客もほとんど泳いでいない)、同じホテル区画にある自室に戻り、食事と着替えを済ませた。
今日は青紫のスーツに金のネックレス、紫水晶のイヤリング。わたしの白い肌とプラチナブロンド、灰色の目には、ややくすんだ青や紫がよく似合う。
このビルを訪れる女性客よりは控えめに、でも従業員たちからは、尊敬と憧れの視線を集められるように麗しく。
鏡の中の自分は、どの角度から見ても、完璧に美しい。
もうじき三十歳。
おそらく、今が美の頂点ではないだろうか。
いずれは不老処置が必要になるとしても、毎日の運動の成果で、健康な肌の張りを保っている。
辺境に出てきてから、かれこれ十年。醜かった少女時代は、前世のように遠くなった。中央にいる家族も、わたしを忘れてくれればいい。わたしはここで、満足して暮らしているから。
従業員用の階段を使って、オフィス階まで降りた。ここには、わたしの使う社長室の他、警備管制室や幹部用の会議室、職員用の食堂などがある。
従業員用の宿舎にしているビルは、ここから車で十分ほどの市街の外れにあった。バイオロイドの娘たちは毎日、そこから武装トレーラーで団体通勤してくるのだ。前後に警備車両を走らせて。
「おはようございます、社長」
「おはよう、アメリア。何か変わったことは?」
「特にございません。こちらが夜間の報告です」
深夜シフトの秘書は、わたしに報告を済ませると、午前シフトの秘書と交替する。
このビルは年中無休の二十四時間体制なので、従業員は七時間拘束の四交替制で働いていた。真ん中に一時間の休憩時間があり、食事をしたり、ビル内で買い物したりできる。バイオロイドの女たちには、買い手になる経験も大事なのだ。最初と最後の三十分で、前後のシフトの者と業務の引き継ぎを行う仕組み。
地階は駐車場、一階は庭園のようなしつらえのカフェテリア、二階から上はブティックや宝石店、家具や食器や雑貨の店、本や文房具や骨董品などの趣味の店。社交サロンにエステサロン、ヘアサロンに映画館もある。高層部は、ホテルとスポーツクラブとレストラン。
この《ヴィーナス・タウン》は、わたしが心血を注いで作り上げた、男子禁制の女の城だった。
ここで扱われる商品は、わたしの審査に合格した最高級品ばかり。
随所に生花を飾り、植え込みを配し、隅々まで宮殿のように磨き上げている。従業員の躾も完璧。
顧客である女性たちは大抵、泊まりがけでやってきて、買い物や最新の美容術や、女同士の社交を楽しんでいく。ここでの交流が、商売上の新たな取引に結びつくこともある。
辺境では初めての女性専門ビルであり、遠い宙域を活動拠点としている女性客からは、早く自分の近くに二号店を出してくれと、せがまれている。
他組織が真似をして、似たような女性専用ビルを作り始めているが、志とセンスの点で、この本家には遠く及ばない。
強欲な男に雇われた、にわか経営者では駄目なのだ。わたしのような美意識がないと、目の肥えた女性客を満足させられない。
それはもちろん、マックスという庇護者が控えているおかげだけれど。
わたしは午前中、各階の責任者たちと会議をし、新しい企画を練る。従業員用ビルに設営してある工房のデザイナーたちとも、新製品について話をする。ドレスも宝石も香水も靴も、全て互いに調和するように。
午後は各部署を回り、買い物している顧客に挨拶し、他組織の噂話を仕入れる。有用な情報は、しかるべき女性客の耳にささやく。従業員の娘たちの接客ぶりをそれとなく観察し、必要な指導をする。レストランで出すランチやディナーの、新メニューの試食もする。
いずれ他都市にも支店を出したいから、新たな人材を募集し、育てていかなくてはならない。わたしに匹敵する美的センス、経営センスを持つ人材でなければ、支店の全権は任せられない。
ビルのワンフロアを任せられる人材なら何十人もいるけれど、支店全体となると、なかなか難しい。何年も、根気よく育てたり、探し続けたりする必要があるだろう。
各部門の責任者には、人間の女性を据えているものの、その下で働くのは、バイオロイドの娘たちだった。
男の従業員は、ドレスや宝石のデザイナー、レストランのシェフなど、ごく少数。他は、新人の教育係から警備隊長に至るまで、全て女。
そうでなくては、顧客の女性たちが、安心して買い物や食事を楽しめない。
顧客たちはそれぞれ、あちこちの違法組織の幹部や、上級・中級の研究員だけれど、男が多数を占める組織内では、居心地の悪い思いをしているのが普通だ。
辺境全体、あるいは違法都市そのものが、奴隷女に支えられた男の天国であり、まともな神経を持った人間の女には暮らしにくい。
だからこそ、安心して休日を過ごせる女性専用ビルには、大きな存在価値がある。わたし自身が切実に欲しいと思った寛ぎ場所を、商売にしたことがよかったのだ。
このビルをオープンする前、わたしはマックスに頼んで、組織内の他部門で使われ、生存期限の迫ったバイオロイドの女たちを集めてもらった。あるいは、他組織の経営する娼館から廃棄処分に回される女たちを、安く買い取ってもらった。
本来なら抹殺される女たちを、辺境の不文律に反して、引き取ったのである。そして、
『わたしは、あなたたちを使い捨てにはしないわ』
と約束し、心身のリハビリを受けさせた。五年間、便利な奴隷や、安い娼婦として使われてきた女たちは、ぼろぼろに疲弊しきっていたから。
おまけに、五年より長い人生というものが、想像できない状態だった。
『まだ、人生の続きがある』
『勉強する意味がある』
と信じてもらうことが、一番の難事業だったといえる。
それから人間の女性を何人か教育係に雇い、バイオロイドの女たちに事務仕事や接客の研修をさせた。ファッションの勉強もさせた。彼女たちに映画を見せ、本を読ませ、一定の予算を与えて買い物させ、好きな衣装や持ち物を選ばせたのだ。
制約の中で買い物させると、こちらで買い与えるより、はるかに教育的効果がある。宿舎の自分の部屋を自分の好きなもので飾れると、バイオロイドの女たちはようやく、明日に希望が持てたようだ。互いの部屋を訪問し合い、好きなだけおしゃべりすると、仲間としての意識も育つ。
従業員全員が、教養に裏打ちされた高い美意識を持ってこそ、顧客を満足させる対応ができるのだ。
『バイオロイドを五年以上生かしているなんて、外部には宣伝するんじゃないよ』
とマックスに繰り返し念を押されたけれど、
『自由こそが、辺境の唯一の原則』
ではなかったの?
とにかく、わたしの下で使うバイオロイドの娘たちは、誰一人、殺させたりしない。わたしが経営者でいられる限り。つまり、マックスが、わたしの好きにさせておいてくれる限り。
彼女たちには、ささやかだけれど、給料を払っていた。週に二日は休みも取れるように、シフトを組んでいる。自由な時間がなければ、自由な精神は育たないから。
数人まとまって申請すれば、女性教師と、アンドロイドの護衛兵を付けての外出も許可している。ドライブでも、買い物でも、してくればいい。ただし、外部の男の甘言には乗らないように。
奴隷として培養されるバイオロイドに対しては、破格の待遇だった。他の組織では、絶対に有り得ない。違法組織を支配する男たちは、バイオロイドを使い捨ての備品としか考えていない。
でも、マックスが約束してくれたのだ。辺境の常識に反することでも、きみの好きにしていいと。
マックスには感謝している。わたしが鬱状態に陥っていた時も、わたしを捨てなかった。わたしは恵まれている。
だから、恵まれているうちに、できることをしたい。辺境に出てきたことを、間違いで終わらせないために。
「ハイ、ハニー」
夕方近くになって、最上の顧客の一人であるイレーヌが現れた。
百七十二センチあるわたしより更に背の高い、しなやかな褐色の美女である。カールした黒髪を、優美なショートカットにしているのがよく似合う。今日は甘いオレンジ色のドレスを着て、同系色のストールを羽織っていた。
辺境では珍しく、自分の組織を率いている女性首領である。
普通、女性は暴力的な闘争を苦手とするので、有能であっても、事務系や営業系、研究系の幹部止まりであることが多いのだけれど、彼女の場合は、実の弟に戦闘部門を任せられるという。
「イレーヌ、雨の中をようこそ」
と出迎え、軽い抱擁を交わした。彼女はにっこりして言う。
「雨の日こそ、買い物日和なのよ」
年齢は不詳だけれど、五十歳以下ということはないだろう。三十年も前から、辺境で活動しているのだ。
マックスがイレーヌの組織を調べ、隙のない運営ぶりだと舌を巻いていた。
わたしはマックスを天才級の男だと思っているけれど、イレーヌもきっと、彼に匹敵するくらいの頭脳と胆力の持ち主なのだろう。
今日の彼女の連れは、愛らしいバイオロイド侍女一人。男性ボディガードとアンドロイドの警備兵たちは、地下駐車場の車で待たせている。いかなる理由があっても、男性の立ち入りは駐車場の車内までというのが、このビルの規則。
もし、男性が車から出て上の階に上がろうとすれば、警備システムが警告なしで射殺する。
幸いこれまで、そんな事件はなかった。このビルの顧客として迎える時に、全ての女性客に厳重に警告しているから。その規則は、当の女性客たちに大いに喜ばれている。もし、顧客の一人がその規則を破って男性部下を失ったとしても、他の全ての顧客が、その処置に賛同してくれるだろう。
「今日も素敵ね、ハニー」
イレーヌの黒い目がわたしの全身を眺め、合格点を出した。もしもわたしが、相応しくないジュエリーを使っていたり、色合わせに失敗していたりすると(そんなことは、まず滅多にないのだけれど)、静かに指摘されるのだ。取り替えてきた方がいいわね、と。
イレーヌ自身は、いつも完璧に美しい。
まさに褐色のヴィーナス。
おまけに、わたしを教育してやろうという意図が見える。わたしをお茶や食事に誘ってくれ、大組織の動向を説明してくれたり、辺境の事件のあれこれを解説してくれたりするのだ。
マックスは最初のうち、疑っていたものだ。
『その女、女が好きなんじゃないのか。きみを狙っているのかもしれない』
わたしも多少は、そういう気がしないでもない。彼女がわたしを見る視線の中に、何か言葉にならないものが混じっている気がするから。
でも、それは別に構わなかった。イレーヌと付き合って、損はない。
彼女はわたしにマックスがいることを知っているから、無理な要望を押し付けてくることはないのだし。
イレーヌが新年用のドレスや小物を買うのに立ち会い(満足してもらえる商品があって、よかった!! イレーヌが置いてある品に満足しない場合は、デザイナーを呼んで、その場で新たにデザインさせることになる。それはこちらの勉強になることなので、とても有り難いのだけれど、しばしば冷や汗をかく)、その後、夕食に誘われた。
どうせ、わたしも食事の時間だから、喜んで同席させてもらうことにする。
侍女は荷物と共に地階の車に戻らせ、二人でレストラン階へ上がった。三つある店のうち、フランス料理の店を選ぶ。
店内の女性客たちに軽く挨拶して回ってから、隅の席に落ち着いた。女を美しく見せる、古風なランプの明かりの元、ロゼワインで乾杯する。
窓の外は夜の闇で、周囲のビルの明かりが、雨の向こうににじんでいた。きっと、凍るような雨に違いない。違法都市の気候は人工的なものだが、人は季節の移ろいを味わう必要がある。常春では刺激が足りず、飽きてしまうのだ。
冬野菜のゼリー寄せと、白身魚のマリネサラダを楽しみながら、四方山話をした。
「マックスは仕事?」
「ええ、他都市にある拠点の見回りに行ったわ。半月くらいはかかるようよ」
「寂しいわね。浮気はしないの?」
それは、マックスではなく、わたしのことである。
マックスが他所で、美女のつまみ食いをすることは知っているけれど、それは浮気のうちに入らないと、わたしは思っている。
彼には、楽しむ権利があるのだ。ここは、辺境なのだから。外で羽を伸ばして、わたしの元に帰ってくれれば、それで十分。
「そんなことしたら大変よ。マックスが、相手の男を殺すわ」
と笑って答えた。わたし自身は、浮気など考えたこともない。そんな相手がいないからだ。
美人になってからというもの、あちこちの男たちから口説かれるけれど、彼らはただ、美しい女を連れ歩いて自慢したいだけ。醜かった頃のわたしに優しくしてくれたのは、マックスただ一人。
……いいえ、マックスに出会う前、優しく接してくれた同郷の先輩はいたけれど、あれは、下級生に対するいたわりにすぎなかった。彼にはちゃんと、好きな女性がいたのだ。
彼と友人たちとの会話を立ち聞きした時、わたしは、ささやかな夢と希望を打ち砕かれた。そして、二度と甘い期待を持つまいと誓った。
だから、男はマックス一人で十分。
彼に熱烈に恋していると言ったら嘘になるけれど、感謝はしている。理解もしているつもり。わたしには到底、ついていけないくらいの野心家だと。
「イレーヌは、クリスマスはどこで過ごすの?」
「リゾート惑星、と言いたいけれど、ずっと仕事よ」
それは、わたしも同じ。このビルから離れることは、滅多にない。違法組織のトップや幹部たちは、中央の市民たちより、はるかに勤勉だ。油断していたら、誰に足をすくわれるかわからない。
「イブのパーティには?」
どこの違法都市でも大抵、季節に応じて、都市の支配組織主催の盛大なパーティが開かれる。もちろん、招かれるのは、相応の地位にある者だけ。
わたしとマックスは、毎回きちんと出席していた。他組織の幹部たちと交流することで、しばしば、新しい商売の機会が得られる。
「行きたいけれど、難しい案件を抱えているの。それに、エスコートなしではね」
「あなたなら、一人でも構わないでしょう。すぐに男性が寄ってくるわ。それに、弟さんがいるでしょう?」
「あの子は、姉とダンスなんかしてくれないわ。一人で躰を鍛えているか、部隊を率いて戦闘訓練をしているか」
「頼もしいわね」
「戦闘しか取り柄のない子よ。あなたのマックスの方が、オールマイティで頼りになるわ」
そう、マックスは何でもできる。それはつまり、わたしがいなくても大丈夫だということだ。
組織を立ち上げる時には、確かにわたしが役立ったけれど、わたしがいなかったとしても、彼はきっと成功しただろう。
鹿肉のパイ包み焼きが来て、ワインを赤に切り替えた。他の客たちも、会話と食事を楽しんでいるようだ。ここでは一人の女性客も、しつこいナンパ男に煩わされずにのんびりできる。
辺境で暮らす女性には科学者や技術者が多く、各組織に高給で抱えられているから、金離れはいい。彼女たちの満足する商品とサービスを提供すれば、繰り返し利用してくれる。口コミで、顧客も広がる。
「どこの都市でも、このビルの二番煎じが増えているわね。でも、本家には遠く及ばないわ。じきに営業不振で、撤退するでしょう」
とイレーヌは言う。扱う商品も、季節毎のイベントの質も、従業員の水準も、比較にならないと。
「あなたに褒められると、何だか怖いわ」
と笑ったら、イレーヌは澄まして微笑む。
「褒めて、後進を育てようとしているのよ。高い地位に女性が増えれば、辺境はもっとましな場所になるわ」
「それには、男以上に悪辣にならないと。でも、女にそれは難しいわ」
騙したり殺したりという無惨な行為は、女の生理に合わないのだ。たまに戦闘部門で働く女性もいるが、それは稀有な例外と言っていい。
数少ない人間の女たちは、専門職として尊重されることで満足している。権力ピラミッドの頂点には立てなくても、不老処置が受けられ、バイオロイドの美少年や美青年をペットにできれば、それで十分だと。
「戦う本能と、愛する本望の違いね」
とイレーヌ。
「女でも、〝リリス〟のような闘士はいるけれど」
と答えた。ニュースで時々、見ている。彼女たちは何十年、重犯罪者を追って戦い続けているのだろうか。ことによったら、わたしもマックスも、いつか彼女たちに狩られるかもしれないのだ。
小惑星都市《カディス》の外周桟橋に停泊していた船は、わたしたちを乗せて出航した。
目立たない中型艦だけれど、中身は豪華な作り。護衛艦も揃っているようだ。ただし、目的地は教えてもらえない。
優雅なラウンジに案内されたわたしが、ソファで黙りこんでいると、向かいに座ったイレーヌは、いたわるように言う。
「そんなに怖がらないで。あなたを怖がらせないために、一年かけて、お友達になったのだから」
この期に及んで、よくも。
「そんなものが辺境に存在しないこと、今日学んだわ。わたしを洗脳して使うの? それとも、どこかへ売り飛ばすの?」
思いきり刺々しく言ったつもりだけれど、イレーヌは平穏なままだった。
「いいえ、そういうことではないのよ。わたしはもう何年も、弟の伴侶になる女性を探してきたの」
えっ?
いま、弟の……何と言ったの?
「それで、あなたが一番相応しいと判断したのよ。だから、お見合いしてもらおうと思っているだけ」
わたしは仰天した。違法ポルノの撮影に使われると聞いた方が、まだ驚かなかっただろう。
「あなたの弟に……わたしを与える、ということ!?」
確かにイレーヌの話には、何度も弟のことが出てきた。彼女は悪びれず、にっこりする。
「わたしはね、辺境中調べて回って、弟を愛してくれる女性を探していたの。賢いだけではだめ。強いだけでもだめ。地獄を知っていて、なおかつ優しさを失っていないこと。あなたなら申し分ないわ。本気で、バイオロイドの娘たちを守り育てているもの」
ちょっと待って。
わたしはただ、自分が生きられる場所を作ろうとしていただけ。
世界は確かに残酷だけれど、その中で、たった一か所だけでいい、避難所が欲しかった。さもないと、わたし自身が保たなかった。
「彼女たちが、どんなにあなたを尊敬しているか、きっと、あなた自身にもわかっていないくらいよ。五年で殺されるはずの女たちを、わざわざ集めて、治療して、生きる場所を用意した。ハニー、あなたの存在自体が辺境の光明だわ。そういう女性に、弟を救ってもらいたいの」
イレーヌが、わたしをそんな風に評価するなんて。
マックスでさえ、そんな行為は単なる感傷だと思っている。《ヴィーナス・タウン》は《ディオネ》全体から見れば、小さな稼ぎ口にすぎない。益があるとすれば、《ディオネ》の宣伝になったことくらいだろう。
「救うって、どういう意味? あなたの弟なら、欲しいものは全て持っているはずよ」
イレーヌは、痛みを含んだような微笑みを浮かべた。わたしがつい、イレーヌにも心があるのだと思いそうになったくらい。
「あの子、何年も前に恋人を失ってから、ずっと塞ぎ込んでいるの」
ええ!?
「目先の仕事は何とかこなせても、本人はちっとも幸せじゃない。わたしの慰めなんかでは、到底足りないのよ。本物の恋人が必要なの。そうしたらまた、生きる気力を取り戻すわ。そして、もっと大きな仕事ができるはず」
呆れた。たかが失恋くらいで、そんな大げさな。
何て、ご親切な姉なのかしら。
「イレーヌ、あなた、あちこちで女をさらっては、弟に与えていたのね。その女が〝お気に入り〟になれなかったら、始末して、また次をさらうんでしょ。弟は青髭公!?」
ふふふ、とイレーヌは笑った。わたしの怒りや反感など、まるきり問題にしていない。
「それは、自分で確かめてちょうだい。一か月ほどかかるけど、弟のいる場所に連れていくわ」
「ハニーさま、船室へご案内いたします」
制服姿のアンドロイド侍女が現れ、わたしを先導しようとする。イレーヌの声が、わたしを送った。
「弟は、シヴァというの。あなたにも、いずれ納得してもらえるわ。シヴァはマックスより、あなたに相応しい男だと」
わずかに残っていた期待も、平穏な航行が続くうちに霧散した。
追撃してくる艦隊は、ない。
待ち伏せをかけてくる艦隊も、ない。
マックスは、わたしを追ってきてくれない。もう、生きてはいないのかもしれない。
(マックス、あなたは馬鹿よ)
自分だけは違う、辺境で勝ち残れるなんて自惚れて。
そして、その自惚れ男に頼りきっていたわたしは、なお愚か。男になど何も期待しない、自分一人で生きていく、学生の頃のあの気概は、どこへ消え失せたの?
美しくなりたい、そのためには何を捨ててもいいとまで思うのだったら、自分一人で辺境に出て、組織を築くという覚悟が必要だったのよ。
荒事や汚れ仕事は全てマックスに任せていた、その甘えが、こういう結果を招いたの。自業自得よ。
ぼくがハニーを置いて、長く視察の旅に出るのは、往復の航路で、極秘の実験をするためだった。
このことは、幹部級の部下たちにも、伴侶であるハニーにも教えていない。発狂しかねない人体実験など、まず理解されないだろうから。
しかし、真の不老不死は……あるいは無限の進化は、『超越化』によってしか得られない。
――人間の限界を超えて、意識を拡大すること。
自分の意識を機械的システムに接続し、拡大した精神を、拠点の管理システムや、バイオロイドのボディなど、好みの〝担体〟に宿らせ、超空間ネットワークで相互につなぐ。
自分の精神を、無数の器に分けて保持するのだ。
そして、それらを連結・統合するシステムの更新を繰り返して、この宇宙の終わりまで生きる。
いや、この宇宙が終わる前に、他の宇宙へ脱出する方法を発見する。ふさわしい時空間がなければ、自分で誕生させる。
つまり、神となるのだ。
新たな世界を繰り返し創造し、そこに君臨する。
永遠に生き、無限に進化し続ける。
それこそが、いま考えうる最高の未来。
ある程度の規模を持つ組織なら、余裕ができ次第、超越化の技術を研究し始めるようだ。そして、無数の人体実験を行うらしい。
成功例はまだ聞かないが、理論的には可能だ。〝連合〟の中枢に、世界初の超越体が隠れ住んでいるという噂もある。
本当なら興味深いが、確かめようはない。
既に超越体が世界を裏面から支配しているのなら、そいつは、後に続く者を発見次第、抹殺していくだろう。
ぼくなら、そうする。神は、一人で十分なのだから。
だから、実際には、まだ誰も成功していないのかもしれない。自分で試してみてわかったが、技術的困難が山ほどある。ぼくは、ようやく『不完全な精神の複製』に成功しただけだ。
被験者の意識を記憶装置につなぎ、色々な仮想現実にさらす。市街地、遊園地、山岳地帯、密林地帯、洋上の孤島など。
それらの仮想現実は、主に娯楽用や訓練用に市販されている既製品だが、細部まで丁寧に作られているので、不足はない。
その仮想現実内で起こる出来事に対する反応パターンを、電子記録として蓄積する。すなわち、魂の活動の記録を作る。
それに新たな刺激を与えていくと、自発活動が生じる。魂の複製ができたということだ。
しかし、その精神活動が、どう工夫しても長期間は保たない。破滅的行動に走ったり、老人のように活力を失ったりする。
人間の精神は、それに相応しい肉体を持たないと、発狂したり変質したりするものらしい。
発狂した実験体は、抹消するしかない。
被験者の意識を(柔軟性の見地から、大抵はバイオロイドの子供を使う)、直接、他のバイオロイドの脳に移すことも試してしてみた。
記憶の刷り込みはできる。だが、魂は、元のバイオロイドとは別物になってしまうとわかった。違う肉体には、違う利害が生じるからだ。
それでは将来、ぼくの魂の複製を造ってクローン体に宿らせても、そっくりな双子が争うだけの結果になってしまう。意識を連結させようとしても、双方が抵抗するだろう。
被験体の精神が、そもそも貧弱だというのが問題なのかもしれない。
だが、安く手に入り、惜しげなく廃棄できるのはバイオロイドだけだ。本物の人間を使うと、そいつが実験途中で歯向かってくる危険が生じる。
自分がいずれ廃棄される運命だと悟ったら、普通の人間は、全身全霊で抵抗するだろう。
そいつがぼくの制御を越え、勝手に逃走したり、あるいは管理システムを乗っ取ってこちらを攻撃してきたら……
とんでもない。
超越化するのは、ぼくだけでいいのだ。
とにかく、中央では禁断の研究であるから、参照できる研究報告がほとんどない。辺境ではあちこちの組織が研究していることだが、その結果は、どこの組織も秘匿している。
やはり、自分で研究するしかないのだ。
出張を口実にして、往復の船内でこっそり実験を繰り返した。もう何十体、実験台の子供を廃棄したか。次は何かしら、別の発想が必要だろう。他組織で製作した、特殊な実験体を使ってみるとか……極限環境にさらしてみるとか……
まあ、今回はここまでにしよう。もうじき《カディス》に帰り着く。ハニーが待っているはずだ。
いや、待ってなどいないかな。彼女は、自分の事業に夢中だ。
いささか寂しい気もするが、仕方ない。鬱状態を治療するためだったし、ぼくにまとわりつかれても困るからな。
この実験のことは、ぼくが目的を果たすまで、教えられない。ハニーは怖がるだろうし、反対するだろう。女は冒険を好まない。
だが、男は常に挑戦し続けなければならないのだ。そうでなければ、他の男との戦いに勝てないのだから。
桟橋に接続した船を降り、車で市街に向かいながら、ハニーに通話した。
「やあ、ただいま、女王さま。元気にしてたかい? お土産があるよ」
通話画面の向こうのハニーは、乳白色のドレススーツを着て、プラチナの髪を結い上げ、相変わらず女神のような美しさだ。
「あら、どなただったかしら?」
と笑いながら言う。
「〝他の港〟に入ったきり、戻ってこないつもりかと思っていたわ」
ぼくも男だから、出先で他の女に手を出すことはあるが、帰るのはここだけだ。
「怒らないでくれよ。クリスマスには間に合っただろ?」
「ええ、ぎりぎりでね」
「とにかく、迎えに寄るよ。たまには、ぼくらの部屋に戻ってもいいだろ」
「いいわ。駐車場で待ってて。区切りをつけたら、降りていくから」
強引に連れ出さないと、ハニーはいつまでも《ヴィーナス・タウン》にいる。だが、それはいいことだ。一時期は、ほとんど病人だったから。
彼女にも何か、打ち込む対象がある方がいい。それがファッション・ビルの経営なら、可愛いものだ。
バイオロイドの娘たちを五年以上生かしていることが、最高幹部会に問題視されたらまずいが、こちらはまだ新興組織にすぎない。もうしばらくは、目こぼしされるだろう。
ビルの地階に車を入れると、ハニーが上のオフィスから降りてきた。仕事の時は大抵、髪をきちんと結っているが、今はほどいている。ゆるくカールさせた、光の滝のようなプラチナ・ブロンドだ。
整形する前から、髪とボディは完璧に美しかった。本当のところ、整形前の悲しげな顔も、風情があって、ぼくには好ましかったのだが。
ただ、それをハニー当人が信じてくれないから、言わないようにしているだけのこと。
「お帰りなさい」
ハニーは腕を伸ばしてぼくに抱きつき、キスしてくる。
甘い香水の香りと、豊かな胸の弾力。
この世に〝自分の女〟がいるというのは、本当にいいものだ。
ころころと女を取り替え、それを自慢する男もいるが、ただの幼児性にすぎない。
本当の男なら、本当の女が一人いれば十分。たった一人を幸せにするだけで、十分な仕事量なのだから。
「きみの気に入りそうな、麗しい古典絵画を手に入れたんだ。天使のような美少女の絵だよ。家に運ばせたから、感想を聞かせてくれ」
アンドロイド兵の運転する車はビルの地下から出て、冬の市街を走りだした。この時期には、発光雲から散乱する光も弱い。風は冷たく、雪もちらつく。
その代わり、ビル内は暖かく、クリスマスの飾りが華やかだ。ぼくは夏より、冬の方が好きかもしれない。
十分足らずで、ぼくらの拠点ビルに着いた。繁華街から外れた立地で、裏手は広い公園になっている。違法都市には、公園で遊ぶ子供などいないから、静かなものだ。たまに、警備犬を走らせる男たちがいる程度。
「お帰りなさいませ、マックスさま、ハニーさま」
「ああ、ただいま。留守番ご苦労だった」
ビルの大部分は、警備部隊の詰め所や部下たちの居住区だ。駐車場で出迎えの部下たちと挨拶を交わしてから、散会させた。業務上の指示は船から出していたから、溜まっている問題はない。
エレベーターで、ぼくらの居住階まで上がった。扉が開く前に、ぼくはハニーを横抱きに抱え上げている。この柔らかい重み、心地よい。
「我慢できない。いいだろ」
明るいうちはハニーが恥ずかしがり、拒むのがわかっているが、抵抗されるのも楽しい。
「いやよ」
やはりハニーは笑って身をよじり、寝室へ向かおうとするぼくの腕から滑り降りた。
「どうしてもって言うんなら、捕まえて」
よし、簡単だ。向こうはフレアースカートに華奢なサンダル、こちらはスーツにショートブーツ。
ところが、ハニーは予想外にすばしこかった。家具を回り、柱を盾にし、ぼくの手をかわす。しかも、余裕ありげに笑いながら。
おかしい。こんなに運動神経のいい女ではないはずだ。
美容体操は熱心にしているが、ぼくが教えても、護身術はほんの基本止まりだった。空手とサッカーで鍛えた上、軽い薬品強化をしているぼくが、追い続けて捕まえられないとは!?
「待ってくれ」
ぼくは二階分吹き抜けのサロンで、太い柱の向こうにいる女に呼びかけた。
「ずいぶん身軽になったじゃないか。もしかして、ぼくの留守に戦闘用強化でもしたんじゃないか!?」
このビルも《ヴィーナス・タウン》関連の施設も、全て統合管理システム《ボーイ》に守られている。このぼくが基本設計を行い、改良してきた管理システムだ。それが何の異変も訴えていないのだから、このハニーが偽者のわけはない。
「あら、あなたが運動不足なんでしょ。そんなざまでは、部下に示しがつかないわよ」
そして彼女は、吹き抜けの階段を駆け上がって回廊に逃げる。ぼくは必死に追った。今度は本気で。
しかし、ハニーはするりとぼくの手をかわし、別の階段を駆け下る。ぼくが追うと、書斎に飛び込む。部屋の中を追い回して捕まえられないと、また吹き抜けに飛び出す。そして、階段を上がりながら笑う。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ!」
ぼくはとうとう、壁際で待機しているアンドロイド兵に命じた。
「ハニーを捕まえろ、ただし怪我はさせるな!!」
制服を着た兵士たちが動きだし、ハニーを四方から包囲した。ところがハニーは、いや、ハニーそっくりの女は、ふわりと跳躍して、兵士の頭を踏み台にし、離れた場所にひらりと着地したのである。
明らかに、普通人の跳躍ではない。ぼくは懐から銃を抜き、安全装置を外して構えた。
「動くな!! おまえは誰だ!!」
向こうは顔にかかる前髪をかきあげ、にやりとした。この不敵な笑みも、絶対にハニーのものではない。
ハニーは楽しくて笑う時でも、どこかに翳りを残している。人生が悲しいものだと知っているから。
それが、ハニーの美しさの本質なのだ。
「本物のハニーは、どうした」
ぼくは荒い呼吸になっているのに、向こうはほとんど息を乱していない。やはり、戦闘用強化体だ。
「大事に預かっているわ。あなたの手の届かない場所でね」
アンドロイド兵たちは、こちらに向き直っている。その手は銃を構え、ぼくに狙いをつけている。
既に《ボーイ》も乗っ取られているのだ。自分は有能だ、隙がないなどと、とんでもない思い上がりだったらしい。
「条件は何だ!? 何と引き換えになら、ハニーを返す!?」
偽ハニーは、ころころ笑った。氷上で銀の鈴を振るような冷たさだ。
「人質という意味でさらったのではないわ。《ディオネ》を乗っ取ったのも、ほんのついでよ。わたしたちはただ、ハニーが欲しかったの」
何を言っている。ぼくにとっては唯一の女神でも、他の男には、ただの『生きた花』の一輪にすぎないはず……
「ハニーを、どうしようというんだ」
すると、哀れむように言われた。
「この世の中で、自分だけが、彼女の値打ちをわかっていると思ってた?」
ぎくりとした。
まさか、そんな。
「残念ね。彼女を見初めた男がいるの。あなたより、はるかに力を持った男。だから、あなたはもう要らないの」
足元の地面が砕け、奈落まで崩れ落ちる気がした。必死にならないと、力が抜けてしまう。
「わたしは騒ぎが起きないよう、彼女の身代わりを務めていただけ。今までのところ、誰も疑っていないわ。いずれそのうち、本物のハニーが復帰してくるはずだし」
つまり、排除されるのはぼくだけか。
ぼくは撃った。女の足を狙って。しかし、女は跳躍して逃れている。
同時に、アンドロイド兵たちが殺到してきた。ぼくは銃を叩き落とされ、腕をねじり上げられ、床に膝をつかされた。強く押されて、額が床にぶつかる。後ろ手のまま、手錠をかけられる。
そのぼくの視野に、男の靴先が入ってきた。
苦労して頭を上げたら、そこにはぼくがいる。真ん中分けの金髪、青い目、気取った微笑み、上品なグレイのスーツ。
偽マックスだ。
その男に寄り添っているのは、偽ハニー。
「きみの自由の日々は、これまでだ。気の毒だが、敗者には何も残らないのが辺境の掟でね」
ぼくと同じテノールの声音で、その男は言う。途方もなく鼻持ちならない気障男に見えるが、これが〝客観的なぼく〟なのか。
「《ディオネ》はきちんと運営するから、未練を持たずに成仏したまえ」
灰色の顔をした兵たちに引き立てられ、地階に下ろされ、車に乗せられた。部下は誰も、助けに来こない。
死刑囚の気分を、まさか自分の身で味わうとは。
車は回転居住区を出て、桟橋に接続していた船に乗り入れた。どこの組織の船なのか、何の手掛かりもない。
ぼくは船室に入れられ、そこで拘束を解かれたが、部屋から出られない上、通話画面も反応しない。
船は出航したが、それから何日もの間、ぼくは放置されていた。食事はアンドロイド兵の手で差し入れられるが、人間は誰もやってこない。
(すぐに殺されるのではないとしたら……)
ぼくをどこかの研究施設に送り、人体実験にでも使うつもりか。ああ、ぼくならそうする。せっかくの生きた人間、無駄に殺す手はないからな。
洗脳して、スパイなり、刺客なりに使うのかもしれない。このぼくが自分の意志を失い、単なる道具として使い捨てられるとは!!
(どこで間違ったんだ……こんなことになるなんて)
ぼくが到底勝てない男が、ハニーを欲した。ハニーは今頃、どんな目に遭っていることか。
ろくでもない想像が湧き上がり、じっとしていられない。胃がねじれるようだ。夜、眠ろうとしても眠れない。壁に頭をぶつけたい。
自分は成功者だと思い上がり、先の見通しもない研究に夢中になって!!
だが、それでも、ただ一点だけは単純に嬉しかった。
ぼくが愛した女は、やはり世界一なのだ。だからこそ、権力者が横取りしていった。
そいつは、ハニーを口説くだろう。ハニーの意志で、自分に乗り換えてもらおうとするだろう。女は、強い男に惹かれるもの。
だが、ぼくらは深い絆で結ばれている。もう十年、伴侶として暮らしてきたのだ。ハニーが簡単に、そいつの言いなりになるはずがない。
恐ろしいのは、ハニーがそいつに抵抗し続けて、ついに洗脳されてしまうことだ。ぼくのことを忘れ、ぼくと過ごした日々を忘れてしまうかもしれない。そして、その男を愛するようになるかもしれない。
取り戻さなくては。そんなことになる前に。
だが、どうやって。
こんな籠の鳥状態で、どう反撃できる。この部屋から出される時は、麻痺ガスを吸わされているかもしれないのに。
信じられない。
ショーティの奴、とうとう、婦女誘拐までやりやがった。
しかも、恋人がいる女だと。
十年も一緒に暮らした男と引き離されて、そのハニーという女、どれほどの恐怖と悲嘆に突き落とされていることか。
この状況では、俺まで誘拐犯の仲間と思われてしまう!! 好かれるどころか、永遠に呪われるだけだろう!!
「たいしたもんだ、そこまで邪悪の側に堕ちたとは……さすがは、最高幹部会に気に入られただけのことはあるな」
俺が心の底から皮肉に言っても、奴は通話画面の中で微笑んだままだ。褐色の美女の顔をし、上品なイヤリングを煌めかせて。
「あら、あなただって、彼らのお気に入りの一人よ。殺されもせず、こうして幽閉されているだけなんだもの」
「それに感謝しろってのか?」
「凍結保存よりましでしょ」
「……」
確かにここは、俺一人には贅沢すぎる牢獄だが。
「とにかく、その女言葉はやめろ!! 寒気がする!!」
「あら、せっかく女性の振る舞い方を習得したのに」
「だから、それが不気味だと言ってるんだ!! おまえ、自分でおぞましいと思わないのか!!」
俺は秘書だったルワナが、自爆する船の中で死んだと思って、何年も心の中で追悼していたんだ。それなのに、いけしゃあしゃあと。
『ルワナはショーティの分身の一つだったが、それが本体に発見され、統合されたのだよ。ルワナの記憶は全て引き継いでいるから、悲しむことはない』
などと言われて、素直に喜べるか。この分では、他の分身たちも、どうなったことか。
甦ったルワナは……少しばかり整形して、イレーヌという名前で、あちこちに出没するようになった。辺境の人間たちは、このイレーヌを、正体の知れない切れ者として恐れている。
もう三十年前になるのか。俺の親友だったサイボーグ犬のショーティは、最高幹部会に捕われ、凍結保存された。
その無力な姿を見せつけられたことが、俺がグリフィン役を引き受けた理由の一つだった。
市民社会を支える重要人物の命を的にする、懸賞金制度の運営責任者。
市民社会から見れば、悪の権化。
だが、凍結を解除されたショーティは、奴らの手先になってしまった。最初は仕方なく、やがては納得ずくで。
逆らえばまた凍結されるのだから、それよりは、彼らの使い走りとして活動する方がましと腹をくくったのだ。今では最高幹部会の代理人として――本体は犬だったが、既に犬の肉体には依存していないだろう――絶大な権力を振るっている。
ショーティの今の能力や規模は、俺にもよくわからない。既に『超越化している』と言ってもいいのかもしれない。人間でさえも難しいと言われる超越化を、犬が成し遂げるとは、それこそ驚異だが。
それなのに、最高幹部会の使い走りに過ぎないということは……
既に最高幹部会そのものが、もっと進んだ超越体の道具なのかもしれない。ルワナが最後に俺に警告してくれたことは、そういう意味だったのではないか。
しかし、今の俺にはもう、無意味になった警告だ。グリフィンとしての地位があればまだ、何かできたかもしれないが。
俺は五年前、最高幹部会の前に引きずり出され、長年務めたグリフィン役を解任された。俺に落ち度があったわけではなく、ただ、もっといい後任が現れたというだけの理由で。
俺は新しいグリフィンの顔すら知らないが、とにかく、そいつは大過なく任務を遂行しているらしい。
おかげで、俺の従姉妹たちは無事だ。悪党狩りのハンター〝リリス〟として、元気に宇宙を飛び回っている。自分たちが、宿敵であるはずのグリフィンの庇護を受けていることを知らないまま。
無役になった俺はこうして、ショーティの管理する小惑星内部に幽閉されている。百万人が楽に暮らせる広大な居住空間に、たった一人で。
外部から多少の情報は入るが、こちらから発信することはできない。許されているのは、管理システムを通じて、ショーティに伝言を届けることだけ。
ショーティ自身は、新しいグリフィンの世話役を務める傍ら、こうやって、ろくでもない企みに手を出す余裕がある!!
「どうせ暇なんだから、バカンスだと思って、ハニーと楽しく過ごしなさいよ。気長に口説いて、あなたを好きになってもらえばいいわ」
そこが、根底から間違いだ。楽しくなることなど、絶対ない。
その一、俺は幽閉生活には飽き飽きしている。
その二、他の男を恋しがって泣く女に、手出しなどできない。
その三、俺を飼い殺しにしている連中を、殺したいくらい憎んでいる。
女を与えたら、俺が感謝するとでも思っているのか。先の見えない孤独地獄が、今度は、目の前に『食えない餌』をぶら下げられた餓鬼道地獄になるだけのことだ。
ショーティは、俺が寂しさに負けて、女に擦り寄り、頭を下げると読んでいるのだろうが……あるいは、その通りかもしれないが……かろうじて残っている誇りが、俺に虚勢を張らせた。
「そんな女、誰が欲しいか!! 元の場所に帰してやれ!!」
だが、美女の姿をした犬畜生は、悠然として微笑んでいる。奴の船は、もう間近まで来ているというのだ。
「しばらく一緒に暮らせば、好きになるわよ。それはもう、素晴らしい女性なんだから。恋人のマックスはこちらで始末したから、あなたはハニーを慰めてやってちょうだい。彼女にもそのうち、あなたの誠意が通じるでしょう」
馬鹿な。
人の心が、そんなに簡単なものか。
「俺はもう女なんか要らないって、言ってるだろうが!!」
茜も奪われた。
リアンヌも奪われた。
従姉妹たちはまだ無事だが、俺は彼女たちの前に顔も出せない。
誰かを好きになったところで、また引き裂かれるに決まっている。あんな苦しい思い、二度と繰り返すものか。
それなのに、美女の仮面をかぶったショーティは、したり顔で言う。
「シヴァ、あなたの人生はまだ続くのよ。一人でなんか、生きていけないでしょう」
俺は家出を決行した。
ささやかな抵抗にすぎないが、このまま屋敷にいたら、尻尾を振って女を待ち受けていたみたいではないか。
俺が暮らしていた屋敷は湖畔にあり、桟橋には遊覧用のクルーザーが停めてある。そいつに食料を積み込んで、出航した。
この居住区には大小合わせて二十もの湖があり、相互に川で結ばれている。陸上の森林地帯にはほとんど道がないから、移動は川の方が便利なのだ。
当面、この船で暮らせばいい。食料が尽きたら、森にいる鹿でも猪でも仕留めて食おう。湖で釣りをしたっていい。野原にはハーブが生えているし、果物の木だってある。飢え死にすることはあるまい。
湖に流れ込む川を遡り、他の湖を目指した。土地の高低差はほとんどないので、川の流れは人工的に作られている。ポンプ施設を避ければ、船の移動は簡単だ。
気候は穏やかで、野原には花が咲き、蝶や蜂が飛ぶ。鳥がさえずり、リスや山猫、野兎も走る。生態系を維持するために、小型の豹や狼、猛禽類も放されている。澄んだ湖には、大小の淡水魚が泳ぐ。
バカンスなら、申し分のない環境だ。しかし、幽閉では。
湖で泳ぐのも、もう飽きた。
道のない森林をバイクで無理に走るのも、もう飽きた。
映画も読書も、実体験の代用にはならない。
誰かと話したい。喧嘩でもいい。外の世界に出たい。何か意味のあることをしたい。
そこへ、女だ。
俺が我慢できずに飛びつくと、ショーティは思っている。そうなるかもしれない。だが、少しは抵抗したい。
自分が、そこまで腐っているとは思いたくない。他の男を思ってめそめそしている女に、手を出すなんて。
屋敷から遠く離れた湖に着くと、そこにある桟橋に船を寄せた。砂利の敷かれた浜に上陸して、周囲の野原や森を探険する。薪を集め、果物を収穫した。レモン、オレンジ、枇杷、石榴、無花果、オリーブ、葡萄。
浜に石を積んで簡単な炉を作り、火を焚いた。クルーザーから鍋や食器を持ち出して、コーヒーを淹れる。ソーセージを炙り、チーズやパンをむしって食べる。
寒くはないし、蚊や毒虫もいないから、まあ快適だ。しばらくは、こうして暮らそう。いずれアンドロイド兵士が来て、俺を連れ戻そうとするかもしれないが、それまでは。
わたしたちが到着したのは、似たような小惑星の中に紛れた、目立たない岩石質小惑星だった。
銀河座標は教えてもらえない。でも、たぶん、他組織の船が行き来しない場所なのだろう。
イレーヌと二人、外周桟橋に停泊した船から小型トレーラーで降り、1G居住区に向かった。
巨大な回転体の内部は、温暖に保たれた緑の楽園である。ポピーやチューリップの乱れ咲く野原、桔梗や撫子の揺れる川岸、コスモスやラベンダーの丘、針葉樹と広葉樹の混ざった森。放し飼いの馬が駆ける姿も見た。
「好きに散歩していいけれど、肉食獣もいるから、護衛兵かサイボーグ鳥をお供にするといいわ。調教した馬もいるから、遠乗りもできるわよ。ボートやクルーザーも置いてあるわ」
建物は湖畔の屋敷だけ。舗装された道路は、外周桟橋から屋敷へ通じる道のみ。他は林道と遊歩道、獣道程度。
野菜を育てる温室はあるが、ほとんどの食料や雑貨は、補給船で届けられる。雑用はアンドロイド侍女がするから、わたしは遊んで暮らせばいいという。
でも、遊んで暮らすことに耐えられなかったから、事業を始めたのに。
「ここは、わたしの隠れ家の一つなの。今は、シヴァが一人でいるだけ。実は、組織から切り離して、閉じ込めてあるの」
閉じ込めてある?
「でも、あなたの組織の警備隊長なんでしょう?」
イレーヌは、幼子を見るような微笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。全て本当のことを言ったわけではないの。色々と事情があってね。彼は五年ほど、ここで幽閉生活を送ってきたの。詳しいことは、シヴァ本人から聞くといいわ」
いったい、何が真実なの。幽閉されて怒りを溜め込んでいる男なんて、考えただけで怖い。
これまで連れてこられた女たちは、みな彼の怒りの捌け口にされ、殺されてしまったのではないの?
やがて、大きな湖のほとりに建つ白亜の屋敷に着いた。お城と言ってもいいかもしれない。
前庭には見事な薔薇園があり、甘い香りが漂っている。裏庭から階段を降りていくと、湖岸に出られるようだ。
「あなたの命令権をシヴァより上位に設定したから、あなたの屋敷のようなものよ。好きに使ってね」
イレーヌに案内されて玄関ホールを通り、湖に面したサロンに入った。アンティーク風の大時計と本物の暖炉、優美なソファセット。ガラスの花瓶には、溢れるほどの百合と矢車菊。
「お帰りなさいませ、イレーヌさま。ようこそ、ハニーさま」
古典的なメイド服を着たアンドロイド侍女が数体、待機していた。ナッツ入りの美味しいパウンドケーキと、何種類ものサンドイッチ、香り高いミルクティでもてなされる。
それにしても、静かだ。聞こえるのは、鳥の声くらい。
違法都市の喧噪からしたら、全くの別世界。
本当に力のある者は、こういう安息所を持てるのね。
わたしとマックスは、大組織所有のリゾート惑星を利用するのが精々だった。それも、高い利用料を取られて。
「それで、シヴァは?」
とうとう、しびれを切らして質問してしまった。イレーヌは苦笑する。
「通話して、あなたのことを説明したら、すっかりへそを曲げてしまってね……クルーザーで家出してしまったわ。食料を積み込んでいったようだから、持久戦の構えね」
呆れた。
それが本当なら、思春期の男の子みたい。
それとも、それも嘘か演技なの?
「まあ、そのうち迎えに行ってやってちょうだい。自分からは、折れないでしょうから」
ちょっと待って。
「もし、わたしが迎えに行かなかったら、シヴァは、この屋敷には戻らないというの?」
「たぶんね」
だったら、是非そうしてもらいたい。
「わたしが彼を迎えに行かなくても、構わない?」
「まあ、あなたの好きなように」
イレーヌは他人事のように言う。何であろうと、シヴァの気が紛れれば、それでいいのね。やはり、肉食獣の檻に放り込まれた餌だわ。シヴァはそのうち、夜中にこっそり戻ってきて、眠っているわたしの首を絞めるのかも。
その後、イレーヌはわたしを三階の部屋に案内してくれた。寝室と居間と書斎から成る、贅沢な続き部屋。
女が必要とするものは、全て揃っている。たくさんの衣類の他、イレーヌがわたしの店で買った雑貨や宝石類もあった。最初から、このための買い物だったのかしら。
広いバルコニーからは、深いエメラルド色をした細長い湖と、周辺の丘陵地帯が一望できた。白い発光雲が浮かび、遠くの景色を隠している。この屋敷で、一番いい部屋なのではないかしら?
それからイレーヌの誘いで乗馬服に着替え、夕方まで、馬を連ねてあたりを回った。
イレーヌは乗馬も巧みだ。わたしはただ、彼女に付いていくだけ。訓練された馬だから、こちらが止めない限り、前の馬に従っていく。
ずっと船内に閉じ込められていた後だから、花の咲く草原や、林の中の小道を馬で走るのは、とても気持ちがよかった。人工の季節は、秋の半ばというあたりだろうか。
違法都市と違って、狙撃や誘拐を心配する必要はない。人目を気にすることもない。本物のバカンスなら、理想的な場所なのに。
走り疲れて屋敷に戻ると、アンドロイドの馬丁が馬を預かってくれた。部屋でシャワーを浴びて、一休み。
それから髪を結い、山ほどの衣装の中から、白いロングドレスを選んだ。真珠のネックレスとイヤリングを合わせて、完成。夕食はきちんとした格好で、とイレーヌに要求されたから。
日暮れ時、一階に降りてイレーヌと合流したら、彼女は藍色の地に白い花を描いた絹の着物を着て、深緑色の帯を締めていた。
「あなたの着物姿、初めて見るわ」
わたしもたまに和服を着るけれど、それはマックスが喜ぶからだった。自分のためなら、ドレスの方が楽でいい。
「ええ、わたしも滅多に着ないわ。背が高いと、どうにも間が抜けてしまって」
それでもイレーヌは帯を幅広く低めに締め、上手に着物を着こなしていた。かなりの修練を積んだらしい。
わたしも最初は浴衣から入門して、帯の締め方を練習したものだ。美しいのは確かだけれど、これほど、着るのに苦労する民族衣装はない。ドレス風にアレンジしたものなら、店でもよく売れていたけれど。
ああ、いけない。思い出すと暗くなる。わたしはもう、あそこには戻れないのよ。
「夕食は、和食でいいかしら?」
なるほど、そのための着物というわけ。
芸術品のような懐石料理を、アンドロイド侍女に給仕されて堪能した。厨房には、人間の一流シェフの技能を持たせた料理専用のアンドロイドが何体もいるそうだ。酒類も万全の品揃え。
ただ、二人きりでは食堂が広すぎる。静かなクラシック音楽を流していても、まだ寂しい。
窓から見渡す限り、外は真っ暗だ。他に建物がないということは、夜景が楽しめないということか。かろうじて庭園に、石灯籠の明かりが幾つか見えるだけ。
この屋敷から逃げ出した男は、真っ暗な森林地帯に一人でいるのか。いったい、何を考えているのだろう。もしかして、近くの森の闇の中から、この屋敷を見上げていたりして。
イレーヌは、日本酒のグラスを持って言う。
「シヴァは女が怖いのよ。自分の意志を持った、本物の人間の女がね。あなたにどんな要求をされるのか、怖くてたまらないから、こそこそ隠れているの。お馬鹿さんよね。いずれ、対面しなければならないのは、わかっているのに」
「待って。そこが変よ。シヴァは、わたしを生かすも殺すも自由のはずでしょう。なぜ、わたしを恐れる必要があるの?」
イレーヌは面白そうに言う。
「だって、あなたを傷つけるような真似をしたら、わたしが許さないもの」
本当かしら。イレーヌの真意が、まったく読めない。
わたしの護送のために自分の時間を一か月も使って、採算は合うの? 弟が満足する女を探すために、どこまで手数をかけるつもりなの?
「つまり、彼が怖いのは、あなたなのね? 彼をここに幽閉しているのも、あなたなんでしょう。あなたはいったい、彼の何なの?」
イレーヌは、ゆっくり微笑んだ。
「確かに姉弟というのは、便宜的な説明に過ぎないわ。でも、それに近い関係なのは本当よ。わたしは長年、シヴァの家族であり、親友であり、保護者だった。これからも、そうであるつもり。でも、わたしでは足りない。彼には〝自分が守るべき誰か〟が必要なの」
説明になっていない。なぜ親友なのか。なぜ保護者なのか。
「あなたがシヴァを頼るようになったら、彼はあなたのために、何でもするでしょう。だから、試してみて。シヴァを好きになれないかどうか」
翌朝、わたしが起きた時には、イレーヌは既にいなかった。アンドロイド侍女に尋ねると、朝早く出立したという。
いよいよ、置き去りというわけ。
頼りない気分というのか、解放された気分というのか、どっちつかず。
それでも、あたりには恒星から導入した日差しが降り注いで、暖かい。あと何日生きられるかわからないのだから、貴重な時間。
わたしは湖に面したテラスに朝食を用意させ、一人で優雅な時間を過ごした。焼き立てのクロワッサン、梨と生ハムのサラダ、ヨーグルト、ブルーベリー、蜂蜜を入れたハーブティ。
それから、屋敷の周囲を散歩した。甘い香りに満ちた薔薇園を歩き、周囲の森の中を巡る林道をゆっくり歩いてきて、お昼にする。
四階建ての屋敷は、静かだった。動くものは、アンドロイドの侍女と園丁、制服を着た兵士だけ。シヴァが視野に入ってこない限り、たった一人のバカンス。
午後も遅くになってから、屋敷の管理システムに質問すると、シヴァの居場所がわかった。別の湖に停めたクルーザーの近くで、焚火をしているという。
怖いもの見たさ、だろうか。
やはり、どんな男なのか、調べずにはいられない。
屋敷の管理システムに命じると、サイボーグ鳥を通した偵察映像を見られた。背の高い黒髪の男が、古びたシャツを着て、丸い石に腰掛け、ナイフを使って器用に魚を捌いている。湖で釣ったのだろうか。
映像の中のシヴァは、開いた魚を木の枝に刺して、焚火の炎の近くに立てた。自分は金属製のカップでコーヒーを飲み、煙の行方を眺めている。
映像をアップにして、観察した。顔立ちは男らしくて、ハンサムだ。肩幅の広い、屈強な体格をしている。
ただし、マックスと違って、身なりに構わない男であるらしい。髪はぼさぼさ、ズボンは色褪せているし、ブーツは傷だらけ。
何年も幽閉されていたから、というより、元からそういう性格なのではないかしら。野外で焚火の前に座っているのが、しっくり似合う。
もう少し、様子を見よう。
彼がこの屋敷へ戻ってきて、わたしに手出ししたがるようなら、その時に対応すればいい。
こちらから、わざわざ出向いて挨拶する必要はない。このまま野営生活を続けてくれるなら、それで結構。
ただし、自衛の準備はした。管理システムに頼んで、わたしの昔の写真を取り寄せてもらったのだ。学生時代のパーティの写真が、大学の同級生たちがネット上で公開しているブログの中に何枚もあった。
自分の元の顔は、もう自分でも忘れてしまいたかったけれど、もしもシヴァがわたしによからぬ真似をしようとしたら、これを見せてやる。
整形前の醜貌を知れば、一遍にその気が失せるはず。
もし、それでもひるまないくらい、女に飢えているとしたら……
殺すわ。
したがることをさせてやって、油断させてから。
いくら強化体でも、隙はできるはずだから。
あれこれ考えつつ、広い屋敷で一人きりの生活を続けた。庭園で薔薇を摘んだり、厨房で料理をしたり。馬で丘陵を走ったり、図書室で名作文学を紐解いたり。
中央のニュース番組も見られた。新作の映画も見られた。マックスと《ヴィーナス・タウン》のことさえ考えなければ、優雅な日々。
それでも二週間もすると、シヴァのことが気になってきて仕方ない。この屋敷に寄り付きもしないで、本当に平気なのかしら。
わたしの存在は、イレーヌが知らせているはずなのに。だからこそ、屋敷から出ていったのよね?
得体の知れない女なんかと、同じ屋根の下にいたくない?
でも、得体が知れないのはお互い様でしょう?
偵察鳥からの映像を見る限り、彼は淡々と湖で泳いだり、森で猪を捕まえたり、果物を集めたりしている。屋敷から持ち出した食料は、既に尽きてしまったのだろう。
まあ、森の生態系は豊かなようだから、飢え死にすることはないだろうけれど……
(意地を張るものね……投げ与えられた女なんかに、興味はないってこと?)
雨の降る日もあった。管理システムは、居住区の植生を保つため、計画的に降雨を起こしているから。
広壮な屋敷の中にいても、しとしとと雨の降る日は、ものを考えてしまう。一階のテラスに出ると、空気は湿ってひんやりとしている。崖下の湖面には、薄い霧も流れていく。
こんな日は、焚火もできないだろう。シヴァはクルーザーに籠もって、雨に打たれる湖面を見ながら、何を考えているのだろうか。
(でも、自分からは行かないわ)
わたしは拉致された被害者。シヴァの機嫌を取る必要なんて、ない。
謝ってほしいのは、こちらよ。
そうして、また二週間。シヴァは本気で、わたしに会わずに通すつもりだと思えてきた。意固地なのか、誇り高いのか。
イレーヌは、何と言っていた? わたしが頼れば、何でもしてくれる男……?
それは無理だ。わたしの元の顔を知ってしまえば、どんな男でも興覚めする。
男というのは、自分が美しいと思う女にしか、優しくできない生き物。
マックスがわたしを選んだのは、単なる計算にすぎない。市民社会に絶望している女なら、裏切らない相棒になるから。
期待なんか、しないことよ。素のままのわたしを愛してくれる男なんて、父や祖父たちだけなのだから。わたしは彼らのことを捨てて、この辺境を選んだのだから。
腹が減った。
いったん空腹を意識すると、他のことは何も考えられない。
畜生、バターを載せた分厚いビーフステーキが食いたい。塩を振ったフライドポテトを添えて。ピクルスと玉葱をはさんだハンバーガーも食いたい。チキンの丸焼きでも構わない。中に詰め物をして、塩と大蒜とハーブで味付けしたやつ。
とにかく肉だ、肉。
俺は、しつこく鹿を追っていた。立派な牝の成獣だ。石をぶつけられる距離に来てくれれば、一撃で仕留められるのに。
だが、森は緑の密度が濃く、なかなか鹿に近付けない。少しでも音を立ててしまうと、逃げられる。
原始生活というのはつまり、一日の大半を食料確保に割くということだった。毎日が忙しい。湖に潜って魚を獲ったり(時間のかかる釣りは、俺の性分では耐えられない)、野兎を仕留めたり、ハーブをむしったり、木から果物をもいだり。
やっと腹を満たしたと思っても、翌日になれば、また食料捜しだ。
自分が馬鹿に思えて、仕方ない。
これじゃまるっきり、原始人だろうが。
自分を笑う余裕すら、ない。以前は本気で、〝連合〟を倒すことを考えていたんだからな。
世界に英雄豪傑として知られる紅泉でさえ、ただの駒にすぎないのに、俺なんかにいったい、何ができる。
リアンヌを失った当初、俺は、彼女を取り戻す手立てを、あれこれ考えていた。軍から司法局に引き渡され、隔離施設に入れられた後は、しばらく監視が厳しい。数年は待たないと、脱出させるのは難しい。
グリフィンの仕事をしながら、機会を窺ううちに、年月が過ぎた。その間リアンヌは、施設で平和に暮らしていた。職員たちと談笑し、中庭で花を育て、雨の日は読書をして。
過去を忘れているから、平和なのだ。
自分が違法組織の幹部であったことも、それ以前は違法ポルノの素材にされていたことも、忘れている。司法局もわざわざ、彼女の古傷をえぐろうとはしなかった。
本人も、辺境で誰かの子供を宿し、流産したことで、辛い過去を探ろうという気を失くしているらしい。
彼女を取り戻すには、俺のことを思い出してもらわねばならない。いや、既に記憶はないのだから、記録を見せて、納得してもらうしかないのだ。俺たちは、愛し合っていたのだと。
しかし、穏やかな彼女の姿を映像で見るうちに、それがいいことなのか、自信がなくなった。
辺境へ連れ戻せば、また戦いの日々ではないか。あんなに、母親になったことを喜んでいた、優しい女なのに。
突然、森の彼方で狼が吠えた。それに驚いて、鹿がこちらへ逃げてくる。
しめた。
俺が投げた小石が、哀れな鹿の胴体を貫通する。骨が砕け、血が噴き出した。致命傷だ。鹿はよろよろ歩いてから、ばたりと倒れた。胸が痛むが、空腹を癒す方が先だ。
血抜きした鹿をかついで、湖の岸まで戻ってきたら、そこに見慣れた犬がいた。ぴんと立った耳、暗灰色の背中に白い腹をした大型犬。
「その獲物、わたしもお相伴に預かりたいな。その権利はあるはずだ。きみの方へ追い込んだのだから」
つい安堵してしまった自分が、自分で情けない。心底ではまだ、ショーティに頼っている。
俺は獲物を解体しながら、肉の付いた骨や、新鮮な内臓をショーティに分けてやった。
解体作業には、もう慣れている。ここに幽閉されてから、退屈しのぎになることは何でもやった。手製の弓矢で動物を狩ることも、原始人のように手作業で火を熾すことも。一度、できるとわかってからは、再び文明の利器を使うようになったが。
「で? 何か、言いたいことがあって来たんだろ」
切り分けた鹿肉を焚火であぶりながら、俺は近くに寝そべる犬に尋ねた。奴は満足そうに目を閉じ、砂利の上にぺたりと伏せている。
どうせ、文句を言いに来たくせに。もう一か月以上、俺がハニーに会おうともしないから。
「いいや、別に」
「ほう。そうかい。忙しい身で、わざわざ鹿狩りの手伝いに来てくれたのか」
「うむ。懐かしいなあ。昔を思い出す」
俺が十代の少年で、こいつがただの犬だった頃、よくこうして《ティルス》の屋敷周辺の緑地でキャンプした。火を焚いて、厨房から持ってきたチーズやソーセージをあぶったり、川で捕まえた魚を焼いたり。
不思議な気がする。あの平和な時空間は、本当にあったのか。今の俺たちは、なぜこんなことになっているのか。
茜がいてくれた時は、毎日夢中だった。楽しかった。リアンヌを愛した時も、自分は人生の目的を見つけたと思った。だが、どちらもほんの一時の幸せだった。不幸だけは、こうして延々と続くのに。
「鹿には気の毒だったが、美味かった。それでは、またな」
ショーティが身を起こして去ろうとするので、こちらが慌てた。
「おい、どこへ行く!!」
もうずっと、誰ともしゃべっていないのだ。いくら俺でも、人恋しいではないか。
ショーティも、本来の犬の姿なら、美女の姿よりずっとましだ。雄のくせに女のふりなんて、どういう神経だか知らないが。辺境では、女の姿であると、色々便利なことがあるらしい。
「寂しかったら、ハニーと話せばいい。わたしはただ、届け物に来ただけだ」
「届け物?」
「クルーザーの船室に置いてある」
そして奴は、尻尾を振りつつ森の中へ消えていった。まさか屋敷からずっと、森の中を走ってきたわけではあるまい。近くまで、小型の飛行艇か何かで来たのだろうが……それともあいつも、野生に戻る時間が欲しかったのか?
焼き上がった肉を食べ、残りの肉に塩を擦り込んで、残り火で蒸し焼きになるようセットすると、俺はクルーザーに戻った。
奴が届けに来た品は何か、気になる。見れば奴の術中だろうが、俺はもう退屈しきっている。運動は足りているが、知的な刺激に飢えているのだ。
船室のテーブルにあったのは、わざわざ紙に印刷した何かの資料集だった。表紙は、プラチナブロンドを結い上げた美女の写真。
しまった。見てしまった。
これがハニーか。
恐る恐る、視線を表紙に戻した。おそらく、出会う男を片端から魅惑してきたのに違いない。どこかのパーティ会場で撮影したものらしく、揺れるダイヤのイヤリングと、真紅のドレスを身につけている。まさしく大輪の薔薇。
ショーティめ、見合いの釣書のつもりだな。
このまま、炎にくべてしまった方が安全だ。見れば、煩悩が湧く。
それなのに、俺の手は勝手に資料をめくっていた。経歴が詳しく書いてある。生まれ、家族、趣味、大学の専攻。恋人のマックスのことも。《ディオネ》か……これは、かなりの男だ。人生の早いうちから、辺境で戦う決意をしていたのだろう。最高幹部会が目をつけて、引き立てそうな奴。
それから俺は、予期していなかったものを発見してしまった。
(これは、まさか……)
表紙の美女とは似ても似つかない、哀れな顔立ちの若い女の写真。学校で撮影したものらしく、他の学生たちが背景にいる。
この世を恨んで拗ねているような、不幸そうな表情。
清楚しか取柄がない、地味な服装。
表紙の美女と同じなのは、束ねたプラチナブロンドの髪と、白い肌、灰色の瞳だけ。
いや、まるきり似ていないわけではない。よくよく見れば、印象が違うだけで、骨格はほとんど同じだとわかる。つまり、ほんの少し整形すれば、この惨めな娘が、表紙の美女になる。
では、これが、整形前の素顔だというのか。
だとしたら、何という落差だ。
整形自体はほんのわずかなものだが(過去を断ち切るために整形する連中は、もっと大幅に手を入れる)、与える印象が大違いだ。
ショーティの、行き届いた解説が添えられていた。
市民社会では、美容整形は軽蔑される。外見より心が大切だという建前論が、幅をきかせているから。だからハニーは、大学生活の途中で、辺境に出てくるしかなかったのだと。
……彼女を連れ出したマックスという男は、切れ者の野心家で、裏切る心配のない、便利な助手が欲しいだけだった。目的のために手段を選ばない彼の冷酷さに、ハニーはずいぶん苦しんだ。シヴァ、きみの方がハニーを幸せにしてやれる……
「くそ」
俺は資料をテーブルに投げ出し、甲板に出た。湖はひっそりと静かで、たまにぽちゃんと魚が跳ね、空を鳥が横切るだけ。周囲の森はどこまでも深く、遠景は発光雲に隠されている。
ショーティは本気だ。
俺がこのまま動かなければ、次の手に出てくる。どうあっても、このハニーという女を俺と結び付けたいらしい。
なぜだ?
俺のためだけか?
奴が俺に、恩義を感じているのはわかる。俺の幸せを願っていてくれるのも、確かだ。
ただの犬から人間以上の知性体に進化したからといって、冷血の悪魔になりきったわけではない。最高幹部会の代理人という地位を保ちながら、俺のことも気にかけてくれる。
だが、俺の寂しさを紛らすだけなら、そこらのバイオロイドの娘でもいいわけだ。それが、こうまでして一人の女を勧めてくる。
俺は船室に戻り、改めて資料をめくり始めた。最初は立ったままで。やがて椅子に座り、じっくり読み込んだ。
わかってきたぞ。ショーティは俺ではなく、このハニーに肩入れしているのだ。辺境に新しい時代をもたらす改革者として。
それには当然、最高幹部会の意向も入っているのに違いない。
彼らは長いこと〝リリス〟を英雄に祭り上げてきたが、その一方で、新たなスターも求めていたのだ。市民社会から脱出する者を惹きつける、誘蛾灯として。
まともな市民は、いくら不老不死に憧れても、滅多なことでは、無法の辺境に出る決意はできない。市民社会の落ちこぼれではなく、まともな人材を引き寄せるためには、まともな組織が要る。まともであることを、売り物にできる組織が。
《ヴィーナス・タウン》を、単なるファッションビルで終わらせるのではなく、女たちの集うサンクチュアリにしようというのだ。
男の楽園だった辺境に、女が安心して過ごせる場所ができれば、空気が変わる。ハニーが各都市に支店を出せば、女たちの職場としても大きなものになる。最高幹部会が後ろ盾ならば、他組織の邪魔はない。
(ハニーを守ることが、俺の新たな仕事というわけか……)
ショーティは《ヴィーナス・タウン》を経営するハニーを、大々的に売り出す計画なのだろう。そこに辺境中の女たちを引き寄せ、中央からも新たな人材を吸い寄せる。
もし、俺が警備隊長として後ろにいれば、荒事や厄介事は、全部引き受けてやれる。
いいことなのかもしれない……辺境の女たちが、少しでも生き易くなるのなら。
だが、かつてリアンヌの集めたアマゾネス軍団のことも思い出した。《フェンリル》のナンバー2だったリアンヌが〝リリス〟に逮捕されたことで、軍団は瓦解したのだ。
リアンヌに代わる指揮官がいなかったというよりも、《フェンリル》を率いるリザードにとって、アマゾネス部隊の存在が重荷になっていた、ということだ。
女たちが集まって力を持てば、周囲の男たちにとって煙たい存在になる。
実質的には、アマゾネス部隊のメンバーをほとんどグリフィン事務局に吸収したので、彼女たちの存在や能力が無駄になったわけではないが、それでも、うまく利用されたという苦い思いは残っている。
ショーティの分身だったルワナは、俺に警告した。真の敵を見極めろと。
だが俺は、リアンヌを失った痛手からなかなか立ち直れず、グリフィンの職務を何とかこなすだけで、時が流れた。
そして、突然の解雇と幽閉。
もしかしたら、また、ああいうことになるのではないか。ハニーは広告塔として利用され尽くして、捨てられるだけなのでは。
最高幹部会が、本気で、辺境の女たちの幸福や安全を考えているとは思えない。女の人権を認めるとすれば、何よりもまず、虐げられているバイオロイドの女たちを解放し、あるいは保護しなくてはならないのだから。
だが、それは、男たちの利益と真っ向から対立する。
まさか、辺境から男を抹殺して、女だけの世界を築くなんてことまでは、考えてないだろう?
本当は、それこそが正解なのかもしれないが、男の一人として、そういう未来は想像したくない……
女たちがこぞって男を捨てるとしたら、男はやはり、人造の女に頼ることになるだろう。
だが、奴隷にされるだけの女は哀れすぎる。俺はやはり、自由意志を持った女に相手にしてもらいたい。
リアンヌが俺を愛してくれた時の誇らしさは、今でもまだ胸に残っている。だから、幽閉されてもかろうじて、気が狂わずに生きてこられた……
リアンヌ自身は、俺との記憶を失い、中央の市民社会で幸せに生きている。結婚し、子供に恵まれ、平凡な女として。気が狂いそうに恋しかった時期も、もう過ぎた。
だが、俺はまだ生きているのだ。ここで。一人で。
その晩は、いつまでも考え続けた。
というより、考えるふりをしていただけかもしれない。たぶん、俺はもう……心底、一人にうんざりしている。
夜半、空気が湿ってきたと思ったら、霧が流れてきた。クルーザーのデッキに出て、真っ暗な湖面を眺めていると、霧雨になった。わずかな波の立つ湖面を、細かい雨粒が叩く。俺の全身も、冷たく濡れていく。
夜の雨は、やはり寂しい。だが、この船を動かしさえすれば、もう一人の存在に近づける。
そのうち、腹が決まった。
(俺が悩んでも仕方ない……)
何よりも、ハニーの意志が先ではないか。ハニーが《ヴィーナス・タウン》を各都市に広げたいと思うか、そのために最高幹部会の庇護を受けることを承知するか、そして、俺を番犬にする意志があるか。
(本人に尋ねよう)
決めるのは向こうだ。拒絶されれば、それまで。
とにかく、幽閉生活には飽きた。何かしたいのだ。自分が生きる意味があると思える、何かを。
翌朝、まだ雨の残る中を、クルーザーで移動した。川をたどり、湖を渡り、屋敷が建つ高台の下の桟橋に着く。
雨に濡れた石段を登っていくと、屋敷のテラスに、ずらりとアンドロイド兵士が並んでいた。その壁の後ろに立っているのは、長いプラチナブロンドを肩に垂らした女。
くすんだローズピンクの上品なワンピースを着て、首には真珠と金のビーズを連ねたネックレスを巻いている。手入れのいい肌は桜色に照り輝き、唇は甘い薔薇色に塗られている。かすかに漂ってくるのは、甘い肌の匂いと香水の入り混じった匂い。
生身の女を見るのは久しぶりで、さすがに目に沁みた。
ショーティが化けた女なんかとは違う、本物の女だ。雨に濡れた風景の中でも、花が開いたように、光の微粒子を放射している。
反射的に、俺の中の雄の本能が反応した。もちろん、飛びかかったりするつもりはないが、それでも獲物を見つけた肉食獣のように、全身の神経が張り詰める。
「用件をおっしゃって下さいな」
反感を隠さない、冷ややかなアルトの声が降ってきた。俺が何か乱暴するのではないかと、ぴりぴり身構えているのがわかる。
食料が欲しいと言えば、兵に持たせて寄越すだけで、俺を屋敷の中へは入れてくれないだろう。
「風呂に入りたい。髭も剃りたい」
と言ってみた。事実、クルーザーにはシャワーの設備しかない。髭剃り道具もなかったから、サバイバルナイフで不器用に顔を当たり、何度も切り傷をこしらえた。以来、無精髭のままだ。たぶん、飢えた山賊のような姿に見えるだろう。怖がられて当然だ。
それでもちらりと、女の顔に同情の気配が動いた気がする。
「それなら……あなたのお部屋へどうぞ」
何体もの兵を見張りに付けた上で、俺を中へ入れてくれた。だが、会話するつもりはないらしい。
俺が風呂に入り、髭を剃り、ましな服に着替えて部屋から出てくると、廊下で待ち構えていた兵が言う。
「食料は、船に積んでおきました」
早く出ていけ、ということか。しかし、山賊料理にはもう飽きている。栄養は足りていると思うが、心が飢えているのだ。
「飯が食いたい。まともな飯が」
と要求した。すると、兵は一階のテラスへ行けという。
テラスでは、雨のかからない位置にテーブル席が用意され、山ほどの料理が並んでいた。厚いビーフステーキとフライドポテト、何種類かのソースを添えたローストポーク、握り寿司、野菜スープ、ローストチキン、海老とアボカドのサラダ、茸とベーコンのクリームパスタ、山盛りのパンとチーズ、何種類ものケーキ。飲み物はワインとレモン水。
まさか、毒は入っていないだろうな。ショーティの末端である管理システムが見張っているから、それはないと思うのだが。
席に着いて、用心しながら食い始め、別に泡を吹くこともなかったので、満腹するまで食べた。やはり、まともな料理はいい。よくも今日まで、原始生活に耐えたものだ。
アンドロイド侍女が、洒落たカップでデミタスコーヒーを運んでくる。俺は心理的に落ち着いた。説得ごとは、空腹時より満腹時の方がいい。
「ハニーを呼んでくれ。話がある」
すると、しばらく待たされてから、女がやってきた。冷ややかな顔のまま、兵を防壁に使い、俺から距離を取って立つ。
「何でしょう?」
昔の俺なら腹を立てて喧嘩腰になったろうが、何度も痛い目に遭ってきたので、少しは気長になっている。大人しく言った。
「船暮らしに飽きた。この屋敷に戻りたい。だめか?」
灰色の目が、油断なく俺を審査しているのがわかる。
「ここは元々、あなたの住居ですから、わたしに断る権利はありません。ただし、お互いに快適に暮らすため、守っていただきたい約束があります」
意外と物分かりがいい。それとも、厳しい条件を付けられるのか?
「言ってくれ」
「わたしの嫌がることをしないこと……守れますか?」
そう来たか。抽象的で、範囲が広すぎる。
「迷惑はかけないつもりだが、何が嫌なのか、それがこっちにはわからない」
「特別なことを要求しているわけではありません。常識の範囲内で、礼儀正しく過ごしてほしいだけです」
つまりは、俺が狼になるのを警戒しているのか。ならないと約束したところで、信じてはもらえまい。
それに自分でも、自分の自制心に絶対の自信があるわけではない。昔よりましになったとはいえ、俺の肉体は活力がありすぎて、考える前に動いてしまうことがある。
「礼儀は守るつもりだ。しかし、何が常識か、認識の相違があるかもしれない」
こういう言い方でよかっただろうか。この女がどこで怒るか、俺にはまだ判断がつかない。だが、向こうは冷ややかに平静なままだった。
「それは、常識がぶつかった時に話し合いましょう。あなたが紳士として振る舞ってくれるのであれば、同居に同意します」
とりあえずは、ほっとした。これで、一歩だけは近付いたことになる。大成功だ。
俺はそれから半月、同じ屋敷の内で暮らしながらも、ハニーのいる場所を慎重に避け、彼女の邪魔をしないようにした。
朝、彼女が食堂にいれば、俺はテラスに出る。昼、彼女が薔薇園にいれば、俺は厩舎に行って馬を引き出す。午後、俺が湖畔にいる時に向こうが散歩に来れば、こちらは林道に逃げる。
それでも、向こうから俺の姿は遠くに見えるだろう。俺が無礼者や乱暴者でないこと、意識して距離を保っていることが、少しずつ理解してもらえればいい。
慎重に、慎重に。
怯えやすい小動物を慣らすような気持ちで、ゆったりと。
自分がそんな風に見られていると知ったら、ハニーは怒るかもしれないが。
そのうちに、屋敷内でたまにすれ違うようにした。偶然のようにして通路やテラスで行き合い、短い挨拶だけをして通り過ぎる。こちらから、彼女を呼び止めたりはしない。
近くを通り過ぎるくらいなら、もう許されるのではないか。いくら何でも、少しは警戒をゆるめてくれていい頃だ。
俺としては、『この牢獄に他の誰かがいる』というだけで、かなり救われていた。これまで、たまにショーティと通話できる他は、ずっと一人きりだったのだ。
映画を見ても、ニュースを見ても、感想を語る相手もいなくては、虚しいばかり。
だが、今ではハニーの姿を見られる。それも、生きた花のような華麗な姿をだ。
彼女はお洒落好きらしく、衣装も宝石も毎日変わっている。服の色は、霧でかすんだような色彩が多かった。水色、ブルーグレイ、ラベンダー、ローズブラウン、薄黄色、薄緑、淡いピンク。
髪は結い上げていたり、背中に流していたり、リボンを編み込んで三つ編みにしていたり。
彼女がいた場所に、甘い香水の香りが残っていたりすると、つい、くらくらとする。
(くそ。食ってやりたい。いつか)
あの取り澄ました顔が、俺の下で歓喜にあえぐのを見たい。
恐怖から人間に従うバイオロイドの女では、征服欲は満たされない。誇り高い人間の女が降伏してくれてこそ、真の喜びになる。
もっとも、それは、こちらが女に落とされた、ということなのかもしれない。女は男をじらして、隙に振り回せる。まるきり相手にされないより、振り回される方がましかもしれないが。
ハニーの整形前の顔は、もう薄れた。それよりも、今の姿こそ、彼女の魂が選んだ姿だ。だから、こちらの方が『ハニーの真の姿』だと言えるのではないか。
祈るような気持ちで過ごしているうち、人工の季節は冬から春に変わった。あちこちに花が咲き乱れ、陽光が強くなってくると、屋敷内でも、少しずつ雰囲気の変化がある。
ハニーが連れ歩く兵の数が、減っていた。
俺とすれ違う時には、冷ややかにではあるが、向こうから挨拶してくれる。おはよう、こんにちは、お休みなさい。
こちらも短く、ああ、とか、お休み、とか答える。
一日に、わずか数回の挨拶。
少なくとも、出ていけとは言われない。
そしてついに、ある晴れた朝、俺がテラスから湖へ出ていこうとする時、後ろから緊張した声をかけられた。
「シヴァ、待って。お話があるの」
ようやくだ。
ようやく、向こうから呼び止めてくれた。
俺がどれだけ待ち続けていたか、ハニーにはわかるまい。
俺が慎重に振り向くと、くすんだ薔薇色のドレスの美女が、何か決意したような顔で立っている。
「シヴァ、わたしを避けるのが、あなたの意地なのかもしれないけれど、わたしはあなたに相談したいことがあるの。もうそろそろ、逃げないで、ちゃんと向き合ってくれないかしら」
俺は内心で、深く安堵した。
この作戦は、正しかったのだ。
向こうだって内心では、不安で寂しかったに違いない。だが、何よりも俺を警戒していた。だから、俺の方から近づくことはできなかった。
「逃げるつもりは……ない。話があるなら、聞く」
ハニーも安堵したようだ。
「それじゃ、こちらへ」
俺たちはテラスに出て、話し易い場所を探した。天気はよく、湖は明るく輝いている。結局、湖を見下ろす場所で、ハニーは石のベンチに座り、俺は近くの低い塀にもたれた。
「わたしがイレーヌにさらわれてきて、半年近くになるわ。このままだと、何年ここで暮らすことになるのか、わからない。ことによったら、何十年かもしれない。イレーヌは、どういうわけだか、わたしがあなたの救いになるはずだと思っているのよ。それなのに、あなたはわたしを避けるだけ」
そりゃ、警戒されているのが、よくわかっているからな。
「わたしはそもそも、あなたがなぜ、幽閉されているのかも知らないのよ。いい加減、何とかしたいわ。あなただって、いつまでも囚人のままでいたくはないでしょう? わたしたちが協力したら、ここから脱出できないかしら?」
いいぞ。ハニーは前向きになっている。
元々、闘志のある性格なのだろう。だからこそマックスが選んだし、《ヴィーナス・タウン》の事業も成功させられたわけだ。
「俺が幽閉されている理由は……説明してもいいが、聞いてしまったら、簡単には自由の身になれないぞ」
「同じよ。もう、自由は奪われているんだもの。事情があるなら、どうぞ話してちょうだい」
さあ、どこから始めるか。
「最初から全部話すと、長い話になるんだが……」
「喜んで聞くわ。他に、することはないんだから」
それはそうだ。
「じゃあ、その前に……一つ断っておく」
厄介な話題だが、避けては通れまい。先に片付けてしまいたい。
「イレーヌは俺に、おまえの資料を渡していった。おまえの生い立ちから《ヴィーナス・タウン》の内情まで、全部入った資料だ。だから俺は、おまえのことは、大体理解していると思う」
ハニーはしばらく、時が止まったような顔をしていた。それから急に身を引き、雷に打たれたような様子になる。
「それじゃ、あなたは……わたしの元の顔……」
動揺を隠せないのが、やはり若さだ。俺はハニーの二倍以上生きているから、もっと狡くなっている。そんなことには興味がない、という風にさらりと流した。
「ああ、学生時代の写真を見た。整形が目的で、辺境に出たんだろう。マックスという男は、うまくおまえを利用したらしいな。何でもできる才女の補佐があったから、あっという間に組織を大きくできたんだ」
ハニーは苦しげな顔のまま、首を横に振った。
「いいえ、それは、マックスの甲斐性よ……彼は天才だもの。わたしが役に立ったのは、最初の数年だけ……わたしがいなくても、彼は必ず成功したわ」
ハニーの目線が落ち、肩がすぼまっている。感受性の強い少女時代に『不細工な娘』として暮らすのは、かなり辛かったのだろう。
市民社会にそういう不幸があるとは……考えたこともなかった。女というのは、みんな、きらきらした生き物なのだと思っていた。ただ、きらきらの程度に差があるだけで。
「だが、おまえは自分の事業を興した。俺は、女の衣装だの何だののことはよくわからないが、将来性の高い事業らしいな。イレーヌは、おまえを高く買っている。いずれは、おまえを現場に戻すつもりだ」
そこで、ハニーの全身に緊張が走った。顔を上げて、俺を見る。期待と不安のこもった目で。
そうか。それほど、仕事に思い入れがあるのか。
でなかったら、ショーティが目をつけるはずもないが。
「……偽者の指揮には、限度があるからな。その時、俺がマックスの代わりに、おまえの保護者になる予定らしい。いや、番犬と言うべきか。俺は前の仕事から外されて、ここで待機させられていたんだ。色々と秘密を知っている身だから、解放してもらえないのさ。何年も飼い殺し状態だったが……その俺に、新しい仕事が提供されたようだ」
ハニーは身を乗り出した。
「わたし、《ヴィーナス・タウン》に戻れるの!? いつ!?」
この女は、俺以上に仕事をしたがっている。そういう情熱は、金では買えない。
「おまえが俺を番犬と認めてくれたら……明日にでも、俺たちはここから出られるんじゃないか」
ハニーはベンチから立ち上がった。さっきの弱気はどこかへ失せ、頬が怒りで紅潮している。
「そんな可能性があるなら、なぜもっと早く言わないの!! 仕事に戻れるなら、わたしは何でもするのに!!」
おお、まず怒るのか。さすがに気が強い。
「おまえが俺を信用してくれない限り、何を言っても無駄だからだ。俺に襲われるんじゃないかと思って、ずっとピリピリしていただろう」
ハニーは俺を睨みつけた。吐き捨てるかのように言う。
「あなたがわたしの元の顔を知っているなら、そんな心配はしなかったわ!!」
ショーティの報告通りだ。十代の頃のハニーは、自分は誰にも愛されないと思い詰めていた。そして今でもまだ、自分の素顔を知った男からは、絶対に望まれないと思い込んでいる。
今現在、これだけ美しいのだから、もっと高慢になってもいいだろうに。
だいたい、女に生まれたというだけで、男に対して、圧倒的な優位に立っているのではないか。
男がどれだけ、女の機嫌に脅えて暮らしているか、少しは理解してもよさそうなものだ。
「誰が番犬でも監視でも構わないわ。イレーヌに連絡してちょうだい。わたしはすぐにでも、仕事に戻りたいって」
「ちょっと待て……落ち着いて聞け」
ハニーをなだめて、座らせた。
「イレーヌの企みは、それだけじゃない。俺たちが、その、カップルになることも期待されている……と思う」
こちらは薄氷を踏む思いで、言葉を選んでいる。
「その方が……つまり、個人的な関係ができて、俺が精神的に満たされれば、それだけ、おまえの補佐として力を発揮できるだろうと……」
ハニーはあからさまな軽蔑の態度で、暗灰色の眉をひそめた。
「それは有り得ないわ。命令されて、カップルになるなんて。あなただって、そんなことお断りでしょう。女嫌いなんだから」
やれやれ。
本当に女嫌いの男など、滅多にいるものか。
大抵は、モテない裏返しで、突っ張っているだけだ。
男の本能は、どうしたって女を求める。この俺だって。
というか、地位とか権力などの方が、女を求めるための手段ではないか。たまには本末転倒の奴もいるだろうが、基本は愛欲だ。
人間は動物だから……進化の歴史の中で築かれた本能が、根底にある。その本能を満たすために、生きている。これから先は、変わるかもしれないが。
「もちろん、急に俺を好きになれというのは、無理だとわかってる。だが……親しくなるふりだけでもできないか?」
ハニーは意表を突かれたようだ。
「演技しろということ?」
そんなに露骨に厭な顔をされると、俺も心がくじけそうになる。俺はゴキブリか、ナメクジか。
「イレーヌは、監視システムを通して、今も俺たちを見張っている。ビジネスだけの関係ではなくて、多少は個人的に親しくなった方が……その、彼女を納得させられるんじゃないだろうか。正直、俺もイレーヌの考えが全て読めるわけじゃないから、推測にすぎない部分もあるんだが」
ハニーは疑惑の顔で、俺の真意を探っているようだ。
「彼女は最初、あなたを弟だと言ってたわ。後から、親友だとか保護者だとか言い直した。本当は、どんな関係なの?」
少年と飼い犬。だが犬は進化して、人間を超えた。今では、俺を飼っている。
「話すから……どこまで遡るか、考えさせてくれ。俺はつまり……七十年ばかり生きて、あれこれやってきた。辺境で生まれたから、市民社会のことはよく知らない。映画やニュースで学んだだけだ。イレーヌ……あいつとは、子供時代からの付き合いだ。今はあいつ、女の姿をしているが、あれは偽装というか、人形のようなものだ。本当の姿は、人間じゃない」
ハニーはけげんな顔だ。
「イレーヌが、本当は何だというの。異星人? 人工生命体?」
さあ、信じてもらえるか。だが、俺の粗雑な頭では、整合性のある、うまい嘘などつけない。本当のことを話す方が、一番ましだ。
「子供時代、俺は犬を飼っていた。ショーティという、大型犬だ。最初はこのくらい小さかったから、ショーティと名付けたんだ」
と、手で大きさを示した。
「あっという間に、五十キロもある大食らいに育ったけどな」
俺もまた、図体だけは大きくなった。エネルギーを持て余して、違法都市をバイクで走り回った。
「俺は成人する頃、ぐれて家出して、その時にショーティを連れ出した……もう老犬になっていて、いつか若返りさせるつもりで、冷凍保存していたんだが……」
何日もかけて、俺は自分の過去を語った。ハニーは最初、露骨に疑う顔をしていたし、何度も鋭い質問を繰り出してきたが、俺はほとんど事実を語った。従姉妹を強姦したという事実だけは、つきまとって振られた、と説明するに留めたが。
ハニーはまるで司法局の取り調べのように、俺の話の矛盾点を発見しようとした。だが、真実は突き崩せない。
とうとうハニーは、俺が〝初代グリフィン〟だったことを納得してくれた。世間で想像されているような、隙のない冷酷無比な大物ではなくて、落胆したような気もするが。
「イレーヌがあれだけ肩入れするんだから、普通の男ではない、とは思っていたわ。まさか、そんな大物とは思わなかったけれど」
呆れたように言われ、こちらは思わず、謝罪したくなる。
「ただの雇われ管理人だ。お次が見つかると、あっさり馘にされて、この始末さ」
ハニーは首を傾けた。無意識の仕草らしいが、真珠のイヤリングが揺れて光を添える。耳たぶは桜色で、甞めたらきっと、甘いのではないか。
「現在のグリフィンは、どういう人物なの?」
「それは、俺も知らない。最高幹部会は秘密主義だからな」
知識は力。上の組織は、下の組織にわずかな知識しか与えない。まして、組織から切り離された俺には、何の力もない。
「とにかく、イレーヌは最高幹部会の意向で動いているのね……いえ、イレーヌじゃなくて、ショーティなんでしょうけど」
「慣れた名前で呼べばいいさ。あいつの〝端体〟は幾つもあるんだ。俺だって、全部は知らない」
しかしハニーの主な関心は、俺の過去よりも、自分の未来にある。甘い薔薇の香りが流れてくるテラスで、俺たちは何時間も話し込んだ。
「最高幹部会は、本当にわたしの事業を後援してくれるの?」
「ショーティが俺を起用する以上、そうなんだろうな」
「でも、最高幹部会は、バイオロイドを五年で処分するべきという方針なんでしょう? わたしは、それには従えないわ。他の組織で捨てられる女たちがいたら、できるだけ引き取りたいもの」
女は強い。
たとえ誰に睨まれようが、自分の望み、自分の意志を口に出せる。
男は常に、強い者の態度をうかがい、へつらってしまうのに。
「それこそ、最高幹部会がおまえを選んだ理由だ」
少なくとも、俺はそう思う。
「元々彼らは、バイオロイドを違法組織の主要な労働力として想定していたらしい。これは、ショーティの話だが。教育を与えて長く使う方が、絶対、能率がいいからな。しかし、組織を構成している男たちは、目先の欲に勝てない馬鹿ばかりだ。彼らはバイオロイドを、何でも言うことを聞く奴隷としてしか認識しなかった。彼らを娼婦や兵卒として粗末に扱ったら、反乱を招くに決まっている。バイオロイドにだって、生存本能はあるんだからな」
そういう反乱によって、幾つもの組織が自滅した。
だが、人間たちに叛旗を翻したバイオロイドたちも、ほとんど処刑されてしまった。反乱の波及を恐れた、周りの組織によって。
「そこで人権重視の方へ行けばよかったのに、それができなかった。元々、市民社会の落ちこぼれ連中だからな。まともな者がいるにしても、辺境では少数派にすぎない。そこで、バイオロイドを五年で処分するという対症療法に流れてしまった」
そこまでが、不幸な歴史だ。ここからは、未来の話。
「そうしなくてもやっていける、その方が望ましいという実例を、おまえが辺境中に示してくれればいいんだ。そうすれば、ましな組織はそれに追従してくる。その数が増えれば、辺境の空気が変わるはずだ」
俺としては、そう願う。
最高幹部会がショーティを重用しているという一点に、俺はわずかな希望を懸けている。
奴は、俺と共に茜を育てた。茜を失った後、共に悲しんだ。そのことをまだ、忘れてはいないはずだ。
忘れたら、本物の怪物になってしまう。
「でも、実際には大多数の男が、バイオロイドの侍女や娼婦を必要としているわ。そのために辺境へ出てくると言っても、いいくらいよ。彼らが、その権利を手放すとは考えられない。そうやって酷使されたら、女たちは、身も心もぼろぼろになってしまう。それを治療するより、捨てて新しく製造する方が早い、と彼らは考えるわ」
とハニーは難しい顔で言う。
「もちろん、特権を手放さない連中がほとんどだろう。しかし、そういう女たちは、何とかして組織から逃げれば、おまえの《ヴィーナス・タウン》に保護してもらえる。その希望が広まるだけでも、かなりましだろう」
実際に逃亡できる女は、ごくごく少ないとしても。百パーセントの絶望に、数パーセントの希望の光が差すだろう。
「それじゃ、わたしの店が、女たちの駆け込み寺として、認めてもらえるのね? 駆け込んできた女は、元の組織に返さなくてもいいのね?」
たぶん……おそらく。この会話を、ショーティも聞いているはずだ。俺が間違ったことを言えば、介入してくるのではないか。
「それは、俺が防壁になる。抗議してきた組織を押し返すか、潰すかすれば、評判が広まるだろう」
そういう仕事なら、俺が喜んでやるはずだと、ショーティはよく知っている。
「おまえは、駆け込んできた女たちの世話をすればいい。治療してやって、自分の下で働かせるなり、中央に亡命させるなり」
ハニーがそういう存在になってくれれば……俺も救われる。
昔、茜やリアンヌに誓ったことを、少しでも実現させることになるからだ。俺自身の力ではなく、最高幹部会に利用される形になるのは悔しいが。
「そういうことなら……やってみるわ。やってみたい」
ハニーは燃えてきたようだ。頬が桜色に染まり、灰色の瞳が輝きだしている。最初は冷たい美貌だと思ったが、こうしてみると、熱い血の通う、情熱的な女だ。
ちらりと思ったのは、
(マックスという奴、本当に計算だけだったのか?)
ということだ。
俺なら、こういう女を間近で見ていたら、惚れ込んでしまう。
マックスがハニーを単なる道具と思っていたなら、自分の組織が充実してきた時点で、切り捨ててもよかったはずだ。ぼろぼろになった奴隷女を引き取って保護したいなどと言う女、普通は面倒だと思うはず。
ハニーにかなりの開業資金を出したということは、マックスも、ハニーの価値をわかっていたのではないか?
それなら、いつか、ハニーを取り戻しに来るのではないか……もし、生きて自由の身であれば。
ショーティは確か、始末したと言っていた気がするが。才能のある若者なら、そう簡単に切り捨てはしないだろう。どこかに幽閉して、説得するなり、洗脳するなりしているのかも。
「ねえ、シヴァ、あなたのことを、事業の協力者として認めることはできるわ。友達にもなれるかもしれない。イレーヌは、それだけでは満足してくれないかしら?」
ハニーは真剣な瞳で問いかけてくる。
「多分な」
満足しないから、まだ俺たちをここから出さないのだろう。
だが、友達という言葉が出てきたことで、非常に救われた。少なくとも俺は、話のできる相手と認めてもらえたらしい。
「じゃあ、具体的には、何をすればいいと思う?」
「具体的って……?」
「カップルになる努力よ」
え。
「一緒に食事するとか、散歩するとかすればいいの? それとも、手を握るとか、お休みのキスをするとか? それ以上も必要?」
頼む。
そんなこと、俺に聞かないでくれ。
耳まで熱くなってしまい、どっちを向いていいやら、困り果てる。
こうして生身の女といるのは、荒野に慈雨が降り注いだようなもので、これまで溜まりに溜まっていたものが蘇り、地面の下で、もぞもぞとうごめきだしている。ハニーに飛びかからないでいるだけで、けっこう努力しているのだ。
「こんなことなら、あなたに元の顔を知られない方がよかったわね」
とハニーが深刻そうに言い出したのには、いささか当惑した。
どうやらハニーは、俺が『作り物の美女なんか、相手にできるか』と思うように思うらしいのだ。
根本的に間違っている。
俺の目の前の女は、最高級の、いい女だ。頭もよく、人格的にも優れている。惹かれるなと言う方が無理だ。
ハニーの元の姿だって、特別醜いというわけじゃない。面食いの男は寄り付かなかっただろうな、という程度のこと。何かのきっかけがあれば、ハニーを好きになる男はいただろう。
しかし、本人が思い詰めて笑わなくなり、暗く凍りついてしまったら、普通の男の手には負えなくなる。当時は、周囲の男たちに避けられて、ますます暗くなる、という悪循環だったのだろう。
あっけらかんと整形してしまい、何が悪いのよと開き直れば、それで済んでいただろうに。
なまじ真面目だったために、辺境で人生をやり直すしかない、と思い込んでしまったのだ。
(どうすりゃいいんだ、これは)
辺境では整形も、肉体の乗り換えも普通なのだから、過去の姿など忘れてしまえばいいのに。
ハニーにとっては、過去の自分は、永遠の呪いなのか。
俺の方は、なまじ手など握ってしまったら、それで自分の抑制にひびが入ってしまい、一気に弾けてハニーを押し倒しかねない。
自分をゴリラ女だと自嘲していたリアンヌだって、俺には心底から可愛い女だった。少しくらい大柄で筋肉質だからといって、引け目に思うことなどない。女だというだけで、男にとっては十分、愛らしく貴重な宝石なのだ。
ただ、どんな宝石が好きなのかという、趣味の違いがあるだけだろう。華やかなルビーか、理知的なサファイアか、神秘的なエメラルドか、穏やかな翡翠か。
俺の目には、ハニーは紅泉や探春より美しい。紅泉なんか図々しくて、がさつだし、探春なんか、聡明ぶった冷血女ではないか。あいつが笑顔を向けるのは、紅泉だけなのだから。
「いいのよ、無理をしなくて」
ハニーは俺を突き放すように言い、すっとテラスのテーブル席を立つ。
「それじゃ、夕食の時にまたね」
ハニーが去った後には、花と蜂蜜が混ざったような甘い残り香が漂う。あの胸の谷間に顔を埋められたら、どんな恍惚を味わえることか。
(ショーティの罠にはまったな……)
自分でそうわかっていても、この先の展開を期待せずにはいられない。
もしもハニーが、本当に俺を受け入れてくれたら……最高幹部会の許す範囲内だとしても、辺境に新しい時代が来るかもしれないのだ。
夜の浜辺には、静かな波だけが打ち寄せている。
小さな月が、空高くにあった。わずかな雲の他は遮るものなく、満天の星が眺められる。
天気がいい限りは、こうして毎晩、浜を散歩した。暗くても、慣れた道だから、困ることはない。危険な獣もいない。
島流しには、最適の島。
この星が、辺境のどこにあるのかは知らない。どこの組織の持ち物なのかも、知らない。
ぼくがこの惑星上に置き去りにされてから、もう何か月過ぎたのか。
日数は数えているが、この星の自転は二十四時間ではないだろうから、標準暦での日付はもうわからない。
小さなコテージが一軒あるだけの無人島が、ぼくの流刑場だった。処刑される様子はなく、人体実験にも使われず、なぜか放置されているのだ。
自分で勝手に暮らせとばかり、ささやかな野菜畑と果樹園はあった。放し飼いの鶏の群れもいた。海で貝や魚も捕れる。だから、飢えることなく生きてはいける。
だが、このまま老人になれというのか?
不老不死を夢見ていた、このぼくに?
毎日、毎日、海を眺めては考える。ハニーは権力者の愛人になって、楽しく暮らしているのか。そんなはずはない。ぼくが与えたような本物の愛情を、他の誰がハニーに与えられる。
――許せない。絶対に。
それは、ぼくを陥れ、ハニーを奪った奴らのことではない。慢心して、防備を怠っていたぼく自身のことだ。
自分は十分に賢く、有能だと思い上がっていた。この辺境でも、上を目指せるはずだと。
それがとんでもない間違いだったことを、後ろ手にかけられた手錠の感触が教えてくれた。
あの屈辱を、終生忘れることはないだろう。
もし、ここから脱出できさえしたら。
だが、他の陸地の影も見えない、絶海の孤島だ。舟を造ろうにも、道具がない。小屋には、果物ナイフが一本あったきり。
他に陸地があったところで、違法組織の管理するリゾートになっているだろうから、ぼくは捕獲されて、この島に戻されるだけだろう。
確かにぼくは優秀だが、全能ではなかった。ぼく程度の者なら、人類社会の中に何十万人もいるだろう。
そういう奴らが、既に辺境を支配しているのだ。そして、互いに食い合い、進化し続けている。
後からのこのこ戦列に加わって、彼らの牙城を崩すのは、ほとんど不可能……
ぎくりとした。星明かりの下、前方の浜辺に誰か立っている。すらりとした、細身のシルエット。
あれは、女か?
それとも、寂しさのあまり、幻覚を見るようになったのか。
「ご機嫌よう、マックス」
この声、聞き覚えがある。誰だったか。
「久しぶりだから、わからないかしら。イレーヌよ」
イレーヌ。ハニーの顧客の一人だった女。それが、なぜここに。
ゆっくりと、一つの考えに焦点が合っていく。
「……まさか、おまえなのか。ぼくの組織を乗っ取ったのは」
柔らかなアルトの声が答える。
「ええ、そう。そのために時間をかけて、ハニーと親しくなっておいたの。彼女のことは心配しないで。新しい保護者の元で、安楽に暮らしているわ」
それがぼくを怒らせると知っていて、わざと言っている。
「何のつもりだ。何しに現れた」
「あなたもいい加減、島流しには飽きた頃だと思って。どう、ここから出たい?」
つまり、何か交換条件があるのだろう。
「ぼくに何をさせたいんだ。いよいよ、人体実験か?」
「実験なら、とうに始めているのよ。ここは現実空間ではないの」
何だって。何をぬかす。
ここが、作り物の仮想空間だと?
そんな馬鹿な。風も波も野菜の味も、全て本物……そうとしか……いや、辺境の技術は中央の技術より、数十年分進んでいるとは聞くが……
「ほら」
女が片手を上げると、まぶしい光が射した。ぼくは反射的に目を閉じたが、用心しながらゆっくり目を開くと、そこは真昼の世界になっている。
星空の代わりに、白い雲を浮かべた青空。
短い黒髪、ココア色の肌をした女が、サーモンピンクのサンドレス姿で立っている。
ぼくは咄嗟に足元の砂を蹴り上げ、彼女に目潰しを食らわせた。次の瞬間、飛びかかって押し倒した……つもりが、自分が砂の上に倒れているだけなのを発見した。
イレーヌは、少し離れた海の上にふわりと浮いている。何の支えもなく、魔法のように。
「納得したかしら?」
こういうことなのか。実験に使われるということは。
すると、時間の感覚すら、調整されているのかもしれない。数か月経ったようでも、三日しか過ぎていないとか。あるいは逆に、十年過ぎているとか。
「あなたの本来の肉体は、専用カプセルの中で横になっているのよ。あなたの精神だけが、この夢の中にいるの」
納得しがたいが、納得せざるを得ない。起き上がって、砂を払った。本物としか思えない砂を。
「何のつもりだ? 何のために、こんなことをする?」
「あら、超越化は、あなたの念願だったでしょう。わたしはあなたに、超越化の機会を提供しているのよ」
何だって。
「この世界は既に、古株の超越体の掌に載せられているけれど、その人物は……繰り返し、若い超越体を育てる実験を行っているの」
若い超越体だと!?
それは、ぼくを、実験的な超越体として育てるという意味なのか。
そして、他の超越体と競わせ、進化を促す? 思うような結果にならなかったら、抹殺する?
「わたしも、その人物に育てられた実験体の一人。あなたも、うまくすれば、わたしのように、その支配者の下で働けるようになるわ」
倒れ込みそうなほど、ショックを受けた。
人類はとうに、時代遅れの旧種族になっている。世界はもう、人類を超えた新種族の実験場にすぎないのだ。
人間の中で争っている場合ではない。人間を超えないことには、実験材料にすらしてもらえないのだ。
「きみが……ぼくを、超越化の実験台にするのか」
「ええ、あなたがどれだけ進化してくれるか、その人物は楽しみにしているわ。優秀な被験体の確保には、苦労しているのでね。あなたなら、怖じ気づいたりせず、冷静に意欲的に、超越化の実験に乗り出してくれるでしょう?」
そういうことか。
よくわかった。
「現実世界でぼくを絶望に突き落とせば、自棄になって、どんな実験にでも協力するだろうと踏んだんだな」
そうと知っても、ぼくにはもう、選択肢はない。
退路は断たれているのだ。
「まあ、そういうことね。ずっとこの島で、世捨て人の暮らしをしていたいなら、それでもいいけれど?」
「冗談じゃない」
危険な実験だということは予測できるが、それしか脱出の道がないなら、受けるしかない。
たぶん、これまでの実験体は発狂するとか何かで、ことごとく使い物にならなくなったのだろう。だが、このぼくなら、耐えられるかもしれないというわけだ。
「どんな実験だ? 何をさせたい?」
「理解も決意も早くて、助かるわ。被験者が超越体として自立するには、本人の決意が必要なの。それがない者は、混乱して自滅してしまうからよ。でも、あなたには生き延びたい理由があるのだから、耐えてくれるわよね」
とイレーヌの幻はにっこりする。
そうだ。ぼくは生きたい。自由になりたい。
奪われたものを、取り返したい。
「あなたが超越体として生き延びられたら、ハニーを取り戻しに行けばいいわ。その時なら、大抵の相手には負けないでしょう」
「ぼくを焚き付けるために、まずハニーを奪ったのか」
「あらあら、自惚れないで」
う!?
「ハニーに目を付けたのが、先よ。あなたのことは、そのついで。そのまま抹殺するより、実験に使う方が無駄がないと思ったの」
ぼくの方が、おまけだと。
ハニーは確かに聡明な女だが、女に過ぎない。自分の趣味の店に打ち込んでいれば、それで満足なのだ。それを支えてやるのが、ぼくの喜びだった。
「ほら、わかっていない」
イレーヌの映像は、憐れむように笑う。
「あなたが一番、ハニーの値打ちをわかっていないのよ」
何だ? 何を言っている?
ぼくは、頭の悪い奴らが大嫌いだ。おかげでこの世に、ありとあらゆる混乱が生じている。ところが、いまや、ぼくの方が愚か者として哀れまれているらしい。
「それじゃ、ハニーはいま……」
「最高幹部会に保護されているわ。辺境に、より多くの女性を呼び込むために、《ヴィーナス・タウン》が役に立つのよ」
何ということだ。ぼくの事業より、女相手のファッション・ビルの方が重要視されるとは!!
最高幹部会も、思ったほど高度な相手ではないということか。
「ほらほら、それが間違いよ。あなたは女を、男の人生を飾る花だと思っている」
腹を寒風が吹き通るようだった。ぼくの考えは、ことごとく読まれているらしい。
ぼくの脳内で起きる電気的変化や化学変化は、全て計測され、記録されているのだ。もしかしたら、このぼくは、マックス本体の意識のコピーだという可能性すらある。
実験に使うための複製品その一、その二、その三。失敗したら廃棄する。
既に何十体ものコピーが作られ、様々な試練にさらされ、記録を取られ、廃棄されているのかも。
だが、幻のイレーヌは微笑んでいる。
「話が逆よ。生物の本流は、女なのよ。男こそ、徒花に過ぎない。考えを変えることね。でないと、たとえハニーと再会できても、あなたは見向きもされないわよ」
もういい。勝手にほざいていろ。
とにかくぼくは、今のぼくにできることをする。
ハニー、待っていてくれ。きっと取り戻すから。
古株の超越体だって、全能ではないはずだ。いつかは間違いをやらかすだろう。その隙を突いてやる。
だから、それまでは絶対に生き延びなくては。