春の庭
誰も信じてくれないだろう。俺だって信じない。他人が報告したことなら。
だが、それでも警察には、本当のことを話しておく。担当の警官たちに嘲笑われようと、同情されようと構わない。
公式な記録にしておけば、いつか誰かが……俺と同じ経験をした男が、見てくれるかもしれない。そこから少しずつ、真実が広がっていくかもしれないからだ。
この世には、人間の常識を超えた何かが存在するという真実が。
俺はここ数年、廃墟の写真を撮っていた。
人のいなくなった炭坑町、見捨てられた鉱山、工場跡……
廃墟には、滅びの美というものがある。
人の残した痕跡が崩れ、風化し、自然に飲み込まれていくさまは、寂しさと共に、ある種の感嘆を呼び起こす。
大自然の力は、人の力を遥かに超えるのだ。人間など、地球の表面をわずかに引っ掻くだけの存在でしかない。
それでもなお、懸命に足掻き、何かを創ろう、残そうとする意志は、貴重なものだと思っている。俺が、誰に頼まれたわけでもないのに、しつこく世界中の廃墟を記録して回っていることにも、たぶん、意味はあると。
車を走らせて、その工業団地に向かった時は、冬の初めだった。何もない乾いた荒野の真ん中に、人工的に作られた工業都市だ。
水は、かなりの深さから汲み上げていた。最盛期には二万人を超す人々が働き、生活していたという。
しかし、重金属による土壌汚染がマスコミに取り上げられ、社会問題になった結果、工場は閉鎖され、人は去った。
だから、現在は完全に無人の廃墟のはずだった。俺は数日分の水と食料を愛車に積み込んで、荒れ果てた道路をはるばる走ってきた。
そして、期待していた通りのものを見た。
窓の割れた工場、立ち枯れた街路樹、錆びたシャッターの降りた商店、あちこちに積み上げられたままの資材、乗り捨てられたバイク、無秩序な廃材の山……
そういった風景を撮っているうちに、ちょっとした丘の上に出ていた。そして、灰色の工場と宿舎の連なりの中に、信じられないものを見た。
緑の区画がある。
無彩色の光景の中、そこだけ深い緑が茂っているのだ。工場群と、それに隣接する宿舎区域の間に、ぽっかりと、そこそこの公園くらいの緑の面積がある。
最初は、昔の公園がそのまま残っているのだと思った。地下水の汲み上げだけが、自動で行われているのだと。
だが、車で近付いていくと、それは公園というよりは、邸宅の敷地のようなものだとわかってきた。すっきりした白い屋敷が中央にあり、周りはよく手入れされた庭園になっている。
生き生きとした緑の木々、ちろちろと水を流している噴水、くねった小道を彩る色とりどりの花……
俺は植物には詳しくないが、チューリップやパンジー、薔薇や百合やアネモネという有名な花は見分けられた。その他にも何十種類か何百種類、知らない花が咲いている。明らかに、丹精されている庭だ。
次に思ったのは、変わり者の金持ちか、芸術家が住んでいるのか、ということだ。ジョージア・オキーフが砂漠の中にアトリエを構えたように、廃墟の美と静けさを愛する者が、わざわざここに引っ越してきたのかも。
だが、重金属汚染のことを思い出した。
汚染された土壌とわかっていて、わざわざ、その上に屋敷を建てるか? 風が吹けば、有害な金属混じりの塵が吹き上がるというのに?
俺だって、三日より長くいるつもりはない。
あちこちにひびの入った道路に車を停めて、屋敷の周りを囲む腰丈の塀に近寄った。侵入者を阻む、高いゲートなどではない。子供でも超えられるくらいの、低い板塀を巡らせているだけだ。
おまけに、木戸まである。どうぞ入って下さいと言わんばかりに、掛け金すらかかっていない。
俺はしばらく塀の外をうろうろして、緑の庭園を窺った。誰かいないのか。
レモンやオレンジやオリーブの木があり、豊かに実をつけている。大木の枝からは、ブランコが下がっている。甘い香りがするのは、ジャスミンの茂みからだ。庭に突き出したテラスには、白いテーブルや椅子が置いてある。
明らかに、住む意志のあるしつらえだと思うのだが……
「どうぞ、お入りになって」
横合いから静かな声をかけられた時は、ぎょっとした。
低い塀の内側に、花を抱えた女性が立っている。さっき見渡した時は、誰も見えなかったのに、いつからそこに。
しかも彼女は、俺と同じ東洋人に見えた。長い黒髪に黄色い肌、柔らかな顔立ち。
いや、それ以前に、今の言葉は日本語だ。こちらは混乱してしまい、うろたえてしまう。
「あの、失礼……写真を……廃墟の写真を撮っている者です。まさか、こんな所に人がいるとは……」
この大陸を旅している間、ずっと英語かスペイン語だったから、日本語の頭に戻るのに、少し時間がかかる。
「ええ、びっくりなさったでしょうね。よくわかります」
彼女は悪戯好きの少女のように、ほんのり微笑んでいた。しかし、年齢は三十を超えているだろう。いや、四十を過ぎているかもしれない。女性の年齢というのは、よくわからない。
なめらかな肌と、たるみのない輪郭をしているが、深い落ち着きのようなものがあるから、小娘でないことは確かだ。
「せっかく遠くからいらしたのでいすら、どうぞお入りになって。お茶でも差し上げましょう」
その途端、痛切に喉が渇いていることを意識した。肌も乾いている。ずっと荒野を走ってきたのだ。緑の庭に入れば、きっと空気も柔らかいことだろう。
俺はまるで聖域に入るかのように、慎重に木戸を開けた。花に囲まれた小道が奥へ続いていて、少し先に、白いワンピースの女性が立っている。たぶん、この屋敷の女主人。
「さあ、こちらへ」
まるで何かに騙されているような、しかし、どうしても吸い寄せられてしまうような、不思議な心地のまま、俺は庭の奥へ案内された。
小道の左右には、色々な花が咲き乱れている。ピンクや白、薄紫や黄色。
外界は冬だというのに、ここだけ春のようだ。もう夕方近いはずなのに、ミルク色の明るさに包まれている。
小道は何度も枝分かれして、屋敷のあちこちへ通じているようだ。外の乾いた空気と違って、この庭園には湿度がある。水と緑の匂い、花の香りに満ちている。
俺はテラスに招かれ、紅茶やケーキを振る舞われた。
なぜこんな所に住んでいるのか、他に誰かいないのか、聞きたいことは色々あるのに、なぜか舌が固まったようで、巧く話せない。
その代わり、向こうが穏やかにしゃべっていく。
「昔は、こうではありませんでした。人々は自分たちから、捧げ物を持ってきたものです。今の人間たちは、昔の人間たちが知っていたことを忘れています。土を汚しても、水を汚しても平気でいる。自分たちは賢くなったと思って、自惚れているのでしょう。それでも、時折、何かを探してやってくる者がいます。今日のあなたのようにね。そうすれば、わたくしも、喜んで客人を迎えられるのですよ。昔、そうしていたようにね……」
その不思議な屋敷に泊まったのは、たった一晩だけだった。
だが、夢だったとは思えない。夢ならば、こんなにくっきり、心に刻まれるはずがない。夜中、女主人が当たり前のように、俺の寝室にやってきたことも。明け方まで、彼女の長い黒髪と、柔らかな肌に溺れたことも。
翌朝、俺は、
「必ず戻ってくる」
と約束して、その屋敷を離れた。彼女は戻って来いとも言わなかったが、戻って来るなとも言わなかったから。
ただ、
「道中、気をつけて」
と俺を送り出してくれただけだ。悪戯心を隠しているような、深い微笑みで。
俺はすぐ、彼女の元へ戻るつもりでいた。あれこれの雑用や事務手続きを片付け、安心して長居できるようになったら、すぐに。
他のことは全てどうでもよくなっていて、とにかく、彼女の元に居続けたかった。そのための手筈を整えるだけのつもりだった。
しかし、車を走らせて都会に戻り、空港で搭乗券を求めた時に、異変に気がついた。
俺は丸々一ヶ月、時間を失っていた。
母国では、俺が『行方不明』になっていると、家族や友人が騒いでいるというのだ。
さっぱり理解できなかった。不思議な女性に出会ったことは確かだが、意識の断絶などなかった。なかったはずだ。
だが、国に戻ると結局、俺は友人に付き添われて警察に行くことになった。警察では、家族の訴えを受けて、俺が何か事件に巻き込まれたのではないか、あちこちに照会していたというのだ。
何度も噛み合ない問答を繰り返した挙句、担当者にあきれ顔で言われた。
「まるで、浦島太郎ですな」
それでようやく、何か常識では推し量れないことが起きたのだと悟った。
改めて海を渡り、車を走らせて、廃墟の工業団地に行ってみたが、彼女の屋敷は跡形もなかった。どこもかしこも枯れて渇ききっていて、庭園があったような気配すらなかった。
友人たちは、俺が麻薬か何かで、記憶喪失や記憶の混乱を起こしているのだと言う。だが、俺にとっては現実だった。現実と地続きの体験だった。ミルク色の靄に包まれてはいるが、幻覚などではない。
それから色々と悩み、しまいには超常現象の本まで読み漁り、とうとう、一つの言葉に行き着いた。
『聖婚』……
それは、古代の王や巫女が、年に一度、神と婚姻する儀式だという。神の持つ力を分けてもらい、新たな一年の豊穣を約束してもらうためだ。
俺が出会ったのは、忘れられた女神だったのかもしれない。春の女神。大地の女神。命を育む女神。
だが、神々の方でも、人間の尊崇の念を必要とすることがあるのではないか? 人に忘れられた神は、薄れて消えてしまう運命なのではないか? だから、時には誰かを招くのではないか?
たぶん、もう二度と会うことはできない。
俺にとっては、生涯ただ一度の奇跡。
それでもまた、俺は廃墟を撮りに行く。記録を残す。
いつかまた、他の若者が選ばれて、女神に出会うかもしれない。
人が神を思い出したら、世界は変わるかもしれないのだ。