ミカエラの日記
失敗。野草集めで、つい遠出しすぎ。大木の下で雨宿りしていたら、後ろから顔に布を当てられ、失神。エーテル臭。
夜半、気がついたらこの部屋。
寒い。暖炉はあっても、薪がない。
分厚い一枚板の扉に鍵。
窓は高い位置にあり、届かない。
備品は寝台に便器、テーブル、椅子、水差し。
大幅にお掃除不足。寝具は新調の必要あり。毛布にくるまって朝を待つ。外はまだ雨。
手際からして、婦女誘拐常習犯？
わたしが一晩帰宅しなくても、お父様は気がつかない可能性大。
ベルタかペーターかが気づき、村長に報告して、捜索が始まるのは数日後。
わたしの荷物を一緒に運んでくれたのだけは、誘拐犯に感謝。おかげで、夜明けの薄明りの中、日記が書ける。
扉の下の開口部から、食事の差し入れあり。ワインは一流。料理は三流。塩を使いすぎ。このアンバランス加減は、没落貴族？
かなり遠方の村で、若い娘の行方不明事件が何件かあったのを、いま思い出した。気をつけて情報収集しておくべき。反省。
音の反響からして、高い位置にある囚人部屋。古い城館の一室らしい。
人声、生活の物音なし。料理を運んできた召使い（推定）も、まだ姿を見ていない。
することがないので、スカートを裂いて紐を製作。
脱出、失敗。
寝台を壁に立てかけ、その足に紐をつなぎ、高窓から降りることに成功したが、館そのものが崖の上。
崖から降りるのに手間取り、召使いの男に発見された。
毛深く、衛生度低し。言語不明瞭。
知能が低いらしいが、主人には忠実らしい。
今度はわたしを、地下の穴蔵に閉じ込めた。唯一の窓には鉄格子。居住環境悪し。
散歩を要求したら、中庭に出された。噴水、彫像、かつての栄光の残滓。壁が高く、中庭からの脱出は不可能。
毛深い召使いに指図して、寝具の天日干しと地下牢のお掃除、下着類の洗濯に成功。
わたしを病気にすることは、まずいと理解している様子。
誘拐を命じた主人については、まだ不明。
眠ろうとしている時刻、召使いに地下牢から出された。主人の居間に連行される。
調度はいいものだが、やはりお掃除不足。
使用人が一人きりでは、無理もない。
主人は、予期していたより若い男。多少は教育あり。こんな田舎の城館に籠もっていないで、都会に出て働けばと提案。
却下された。
自分は吸血鬼だからと。
前にさらってきた女たちは、血を吸いすぎて、衰弱死させてしまったという話。
したがって、わたしから血を吸うのは週に一度、少量ずつにすると。
理解不能。
その程度の血液だけでは、大幅に栄養不足のはず。もしくは、動物の血液でも間に合うはず。
豚を飼うよう提案したが、却下。
病気なら治療可能かもしれないから、実験器具と薬品類を揃えるように要求。
彼は最初、わたしの要求が理解できないようだったが、平均程度の知能はあるらしい。説得に成功。血液検査に同意。実験器具は発注すると約束。
実験室の設営。ついでに他の部屋の掃除、寝具類の洗濯。
下男のイーヴォ、命じれば働く。薪割り、家具の移動、床磨き、その他の力仕事をさせた。
器用ではないが、根気あり。教育すれば、向上の見込み大。
わたしが厨房の管理をすることにした。裏庭に、荒れた野菜畑。これから、手入れをすることにする。
イーヴォは狩りの名人と判明。猪を獲ってきた。解体は上手。料理は下手。わたしが引き継ぐ。
ようやく、ワインに見合う、まともな料理。
お父様は、今頃、捜索隊の先頭だろうか。助手のわたしがいなくて、不自由に怒っているに違いない。わたしの価値を認識するべき。わたしの頭脳は、お父様と同等か、それ以上。
実験器具、試薬、専門書の一部が届き始めた。都会に注文したものは、また後日。
実験ノート用意。
自称・伯爵から血液採取。夜中しか会えないのが、不便。
日光に当たると、具合が悪くなるそう。
神経過敏？ 吸血鬼妄想？
参考のため、イーヴォからも血液採取。わたしの血液を参照用とする。
そろそろ夏服に着替えたい。客室探険、古い衣服を発見、手入れにかかる。
自称・伯爵は日光が苦手。夏は活動可能時間が短く、遠出できないという。
昼間は、地下室のどれかで眠っているらしい。その場所、わたしには内緒。就寝中、わたしに殺されると思っているらしい。
まさか。貴重な実験材料。
伯爵の血液を注射した兎を観察中。詳細は実験ノート。
イーヴォの運動能力計測。最高水準運動選手並み。金持ちの護衛に最適。
ただし、お風呂好きにしなくては、採用されないだろう。
明日、川で洗ってやる予定。
イーヴォのしつけ、順調。わたしの命令に従うことに、慣れてきた。
犬と同じ。こちらが主人だと、わからせればよい。
この城の前領主だった伯爵が、いつの間にか吸血鬼化していたという話。
遠縁だったレナルドは、だまされて呼び寄せられ、吸血され、仲間にされたという。ウィルス感染？
長寿化、強健化の効果あり。
レナルドは、もう百年以上、生きているという。
彼の血液、不老薬として商品化の可能性あり。
欠点は、日光過敏症が伴うこと。
夜会好きの、上流のご婦人たちなら、気にしないかも。
現在は、前伯爵の残した美術品や宝石類を売り食いしているという。
前伯爵、半世紀前、女狩りに出たまま、帰還せず。失敗して、死亡の可能性大。
吸血の相手は、なぜ女限定なのか？
レナルド、経営感覚なし。
このままでは、いずれ売るものはなくなる。
この城をホテルにと提案、却下。
人間が怖いらしい。わたしのことは、どうやら、あてにしている様子。哀れな主従の行く末、考えてやらなくては。
お父様はしばらく、わたしなしで苦労すればよい。男尊女卑の考え、少しは改まるかも。
レナルドに実験食を試食させた。血液以外に、受け付けられるものは何か。
生の豚肉、鶏肉、兎肉、不可。嘔吐。
野菜類、不可。嘔吐。
果物、かろうじて消化可能。ワインは好き。葡萄の季節になったら、試食させよう。
消化能力の著しい低下、治療可能か？
固形物が食べられない体質となると、不老薬として売り出すのは無理かも。食べる楽しみを失うのでは、上流のご婦人たちも考えるだろう。
レナルド、気力減退。
励ましたが、死にたいと言う。放置したら、太陽の下に飛び出して、自殺するかも。
少しなら、わたしの血をあげてもいい。
わたしまでウィルス感染すると、研究上困るので、注射器で採血。ワインに混ぜて、飲ませた。
おかげで多少、元気になった様子。
イーヴォは別種のウィルス感染のよう。
彼らの血液を注射した兎、体質の変化がはっきりしたので、そろそろ治療実験にかかる。
素晴らしいお天気。花と薬草摘み。
レナルドは青空の下に出られないので、お供はイーヴォだけ。楽しいピクニック。
夜、レナルドに話をすると、うらやましがる。青空を見たいと。
画材を注文することにした。レナルドに、絵を描くことを勧めるつもり。何か気晴らしがないと、彼が落ち込む。
強盗に襲われた。わたしの失敗。城から離れすぎ。
強姦寸前でイーヴォに助けられたけれど、2人組の強盗は死亡。頭蓋粉砕。内臓破裂。死体は埋めて処理。
その前に血液、内臓、実験用に採取。
レナルドが慰めてくれた。基本的に紳士。
吸血鬼化していなければ、平凡に暮らしていただろう。結婚して、幸せに。
自分は神に呪われていると言うので、神などいないと断言した。
お父様もわたしも、無神論者。
神などいたら、誰も苦しまない。
人々を救うのは、科学精神のみ。
レナルドが夜中のうち、新聞を手に入れてくれた。わたしは行方不明とされ、捜索体制は大幅に縮小されている。
お父様は心配しているだろうけど、レナルドとイーヴォを置いていけない。二人とも、頼りなくて。
お父様に手紙を書くことにする。恋人と駆け落ちして、幸せにやっていますと。
レナルドに頼んで、離れた土地から投函してもらう。彼は夜中なら、かなりの速度で走れる。
吸血鬼とキスするって、変な感じ。
普通の男の人としたことないから、比較できなくて残念。
いえ、比較の必要なし。
兎の実験、継続中。レナルド兎にイーヴォの血液、イーヴォ兎にレナルドの血液。うまく中和できるかどうか？
兎を観察中。
キスも練習中。レナルドが吸血欲に負けそうになったら、わたしの血液を入れたワインで落ち着いてもらう。
新たな発見あり。男性機能の喪失。
性欲が、吸血欲にすり替わってしまっている。やはり、売り物にはならないかも。
性欲なしで長生きは、本末転倒では。
吸血ウィルス、欠点多すぎ。
レナルドが男性機能を取り戻してくれないと、わたしが欲求不満。
イーヴォには、雌狼の恋人がいると判明。意志の疎通はともかく、混血は可能なのか？
警察が調査に来た。強盗の足跡をたどっている様子。
わたしが出るわけにはいかないので、イーヴォが対応。主人は留守とごまかしたが、疑われたかも。
村人と付き合わない貴族なんて、怪しすぎ。
夜中、レナルドに相談。ここを売って、もっと北の土地に逃げた方がいいかも。
彼は他の土地を怖がる。吸血鬼と知られたら、殺されると。
内張りをしっかりした馬車なら、昼間でも移動可能？
兎に変化。食欲なし。脱力。
兎が衰弱。イーヴォもレナルドも心配顔。
兎、一羽を残して全滅。
簡単に見つかる治療法はないらしい。この一羽だけ、なぜ回復したのか。新たな兎を捕獲してもらうこととする。
何ということ。
警察に踏み込まれ、救出されてしまった。
お父様は、わたしが悪い男に騙されたのだと思っている。
レナルドは、イーヴォが馬車に乗せて逃走。試しの内張りに、どれほど効果があるか。これから夏なのに、昼間の逃亡は危険。
二人とも、誘拐犯として手配された。
お父様に実験ノートを見せ、説明。説得成功。
吸血鬼化を起こすウィルスの研究、再開。
お父様、人体実験の実験台を志願。好きな研究を永遠に続けるため、長生きを希望。食欲も性欲も、要らないという。
保存しておいたリカルドの血液、わたしが知らないうちに注射。
せめて、猿か犬で実験してからにして欲しかった。
お父様、昏睡状態。
お父様、昏睡続く。
お父様、死亡。
血液の量が、不適切だったのか。保存のために添加した試薬が、まずかったのか。
しばらく秘匿のつもりが、女中のベルタに知られ、村に広まった。葬儀をせざるを得ない。皆には、東洋の怪しげな強壮剤を飲んだためと説明。
手順にやかましいお父様だったのに、動物実験をせず、いきなり自分に使うなんて。
老いて、気が急いていたためか。
血液採取、保存。
葬儀。疲労。
疲労取れない。片付け、やる気が起きない。
どうしたらいいか、わからない。ロナルドとイーヴォに会いたい。
一人が苦手。
こんなに、お父様に頼っていたなんて。
村で噂。夜中、広場で、とても大きな狼を見たと。
胸が苦しい。じっとしていられない。神様。
わたし、無神論者なのに。
馬車で旅をする支度をした。巨大狼の噂をたどりながら、進む予定。
不思議な狼の目撃例、各地にあり。家畜は襲わないのに、人里に出没する。
聞いた限りでは、イーヴォが姿勢を低くして、疾走する時の様子に似ている。
家の始末に手間取るうち、父の旧友、レムスキー博士の訪問。思い出話。泊まっていただく。
久しぶりの日記。ようやく、日記をつける余裕ができた。
レムスキー博士の証言、新聞で確認。抜粋。
『……悲鳴に驚いて行ってみると、窓は割れ、家具は倒れていました。ミカエラ嬢の服の切れ端が、窓ガラスにひっかかっていただけで、誰の姿もなく……』
警察では、巨大狼に襲われ、拉致されたものと断定。村から離れた森の中で、血染めの衣類を発見。
これで、わたしは世間から退場できた。
あとはレナルドとイーヴォと、厚く内張りした馬車に乗り、もっと北の国へ行く。一年の大半、雪に閉ざされる国へ。お供は、大きな雌狼。
研究の続きは、そこでゆっくり。
別に、二人が治癒しなくても構わないから。