月よりも冷たい愛

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月よりも冷たい愛

「結婚しよう」
 そう言われた。ひどく真剣に。
 でも、わたしにはできない。それだけは。
「二度とそんなこと、言わないで」
 拒絶して、遠くへ離れた。でも、彼はわたしを追ってきて、なおも言う。
「結婚しよう」
 だめ。それだけは。
「そうするしかないのは、わかっているはずだ」
 でも、だめ。
 結婚しなければ、まだ何年かはこのままで過ごせる。
 その数年が、貴重なの。
「先延ばししていたら、繁殖能力がなくなる。結局は、二人とも、干乾びて死ぬだけだ。その前に、まだ余力があるうちに、結婚しよう」
 いや。
 数年でもいい。あなたと一緒に生きたい。
 この地上には、あなたとわたししかいないのだもの。
「そして、何も残さず死ぬのか」
 それで悪いの。
 どうせこの星でも、わたしたちの子孫は、いつか滅びる。わたしたちには天敵がなく、繁殖力が強すぎて、あっという間に増え広がってしまうから。
 後はもう、殺し合って数を減らすことしかできない。科学技術が、その殺し合いを徹底させるだけ。
 今度こそは殺戮を回避しようとして、何度も失敗した歴史を知っている。
「全滅する前に、他の星へ脱出できるかもしれない。ぼくらのように」
 脱出して、どこへ行くの。
 次の星を見つけても、また同じことの繰り返し。
 そんな虚しいことのために子孫を残すより、いま、少しでも長く、あなたと一緒にいたい。わたしがどれほど愛しているか、あなたにはわからないくらいよ。
 一緒に朝日を浴びて、食事をして、散歩をして、岩陰で昼寝をする。夕焼けを眺めて、星空の下で眠る。その繰り返しを、できるだけ長く続けたいの。
「ぼくはいやだ。どうせ死ぬなら、子孫を残して死にたい」
 だめ。いや。それだけは。

 わたしは逃げた。夜中にこっそり、彼が寝ている隙に。野を越え、山を越え、谷を渡り、できる限り遠くまで。
 離れて生きるのは辛いけれど、あなたが死ぬよりいい。
 寂しくて、あなたが恋しくて、頭がおかしくなりそうだけれど、それでも、この空の下のどこかで、あなたが生きていてくれると思えば。

 どれだけの間、大地をさすらっただろう。
 日数を数えることなど、とうにやめていた。
 それでも、この星に墜落したばかりの頃、最初のうちは救助を待っていた。他にも母星を脱出した誰かがいて、わたしたちよりましな装備でやって来ないかと。
 でも、何年過ぎても、通信の一つも入らなかった。
 母星はやはり、滅びたのだ。
 他の方面へ逃げた船はいただろうけれど、彼らがどうなったのか、もうわからない。もしかしたら、わたしたちが種族最後の生き残りかもしれない。
 わたしたちの力では、もう、壊れた船を修理することはできない。この星の重力から逃れて、別な星を目指すことは不可能だ。遠い未来に、子孫が再び文明を築き上げない限り。
 だから、寿命が尽きる前に、子供を作ろうという彼の気持ちはわかる。
 でも、わたしは。

 丘の向こうから、月が昇った。わたしたちの母星にあった月よりもっと小さい、青白くて冷たい月。
 それでも、その月に照らされる地上は美しい。わたしたちが生きられる、水と空気のある星に不時着できたのは、大きな幸運。
 奇妙な形の植物も、小さな虫たちも、わたしたちの食用にできるとわかった。ここでなら、子供たちは生きられる。
 でも。
 子孫が増え、この星を覆い尽くしてしまったら、また戦争になる。生きる余地を求めて殺し合って、今度こそ、完全に滅びてしまうかも。

 何か月、過ぎていたのだろう。とうとう、彼に捜し当てられた。
「もう、逃げないでくれ。これ以上、無駄な力は使いたくない。ぼくを見てくれ。きみより年なんだ。放っておいても、じきに死ぬ。無駄に死なせたいのか。きみを恨むぞ。ぼくの役目を、果たさせてくれ。もし、きみがあくまで拒むなら、ぼくはいま、そこの崖から落ちて死ぬ。きみは一人になるぞ。無駄な一人だ」
 本気だとわかった。わたしが折れなければ、彼は本当に、崖から身を投げるだろう。
 荒野にわたしだけ残って、何の意味があるの。
「わかったわ。わかりました。結婚します。でも、月が出るまで待って」
 最後に、あなたと二人で月を見たい。それから、儀式を始めましょう。

 暗い荒野に、並んで待った。
 星空の底から、白く冷たい月が昇ってくる。何という、荘厳な美しさ。二度と届かない、星の世界。
 あの、遠い星の一つが、滅びた母星を照らしている。
「さあ、もういいね」
「ええ」
 わたしと彼は合体した。わたしの下腹に、彼の下腹がめり込んだ。わたしはそのまま、彼の下半身を吸い込んでいく。精巣がわたしの子宮に届いた。無数の受精が始まる。彼の下半身はそのまま溶け、わたしの組織に吸収されていく。
「さよなら。愛しているよ。子供たちをよろしく」
 さよなら。
 さよなら。
 わたしは彼の上半身を食べた。艶やかな外骨格をバリバリと噛み砕き、中の柔らかい内臓をすすり、立派なハサミも、鋭敏な触覚も、力強い六本の足も、一かけらも余さずに咀嚼した。
 美味しかった。泣きながら食べ続けた。子供たちのために、必要な栄養。
 先祖代々、男たちはこうして身を捧げてきた。妻と子供たちへの、最大の贈り物。
 やがて、彼の体はすっかりなくなった。上半身はわたしの胃の腑へ、下半身はわたしの下半身に融合して。
 わたしは眠くなり、眠気に負けてしまう前に、砂地を選んで巣穴を掘った。この穴に潜って半年経てば、腹の中から子供たちが出てくる。
 わたしは彼らに種族の歴史を語り、生きる術を教え、自らの肉体を与えて死んだ父親のことを伝えるだろう。
 それから彼らは、老いて動けなくなったわたしを食べ、それぞれに旅立つ。さすらいながら、何度かの脱皮を繰り返し、成体になり、いずれ、きょうだい同士で交わる。この星は、わたしと彼の子孫で埋まる。
 孵化までの半年、半ば眠りながら、夢を見よう。
 この、高く冷たい月の下で。

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