ブルー・ギャラクシー サマラ編
「わたしの昔の男? そんなこと、本当に知りたいの?」
半分面倒がり、半分面白がる顔で尋ねられた時、ぼくは恥ずかしさに赤くなり、返答をためらった。
「え、いや、その……」
迷った挙げ句、正直が一番と決心して言う。
「本当は、あまり知りたくない」
どんな男と抱き合ったのか。どんな風に笑い合ったのかなんて。
「でも、全く知らずにいるのも、嫌なんだ」
サマラがぼくを見ていない時、一人で何かを考えている時……ぼくは不安になる。そのうち、ぼくのことなんか飽きてしまって、ふいと出掛けてそれっきり、なんてことにならないか。
「つまり、その、それもまた、きみの人生の一部だから……ぼくとしては、未来を共有するだけでなく、できれば過去も少しは理解しておきたいと……」
広いベッドに横たわった半裸の美女は、くすくす笑って枕に肘をついている。
「若いくせに、妙に深刻なのよね、あなたって」
こういう関係になったというのに、まだ子供扱いされている気がする。
「そう若くもないよ。中央なら、立派な中年だ」
「でも、わたしたちは、永遠の若さのために、市民社会を捨てたのよ」
「地球を捨てたのは第一世代であって、ぼくたちじゃない」
「そう、わたしたちは、第一世代のおかげで、強化体として生まれることができたの。感謝しないとね」
彼女は起き上がり、ベッドの端に座ったぼくの頭を抱き寄せた。
「そんな連中のことなんか、無理に知らなくていいのよ」
もっと若かった頃のサマラを愛し、愛された男たち。
「どうせみんな、とっくの昔に死んでるんだから。共有する記憶なら、これからいくらでも作れるわ」
ぼくの額にキスすると、彼女は切れのよい動作で床に降り立った。
「さあ、もう行かないと!!」
さっとシャワーを浴びてくると、クローゼットから服を選び、たちまち身じまいを整える。
機能重視の短い栗色の髪に、金茶の瞳。すらりと伸びた肢体を、軍人のような戦闘服に包む。飾りは、宝石のイヤリングと金の指輪だけ。
「資源星系を巡回してくるから、しばらくかかるわ。他組織の艦隊がうろついている情報があるの。それがまだ、どこの組織のものかわからない。こちらが睨みを効かせていないとね」
一族は幾つもの資源星系を確保しているが、それは常に武力で守らなければならないものだ。普段は無人艦隊に警備を任せてあるが、それだけでは、いざという時に臨機応変の対応ができない。
時には人間が現場に行き、無人艦隊とは異なる動きをしてみせるべきなのだ。それを見れば、他組織の艦隊も対応を変える。
「サマラ、やっぱりぼくもいくよ。こっちの仕事は遠隔でも間に合うから……」
ぼくはシャツを羽織りながら、ドアに向かう年上の恋人の後に続こうとする。振り向いた美女が、ぴしゃりと宣言した。
「シレール、あなたは、あなたの持ち場を守るのよ。お互い、できることで一族に貢献しないとね」
正論を持ち出されると、抗議もできない。ぼくの顔を見て、栗毛の美女は軽く微笑んだ。
どこか寂しい色、苦い気配の混じる微笑み。
昔の男たちのことは、まだ忘れていないのではないか。何かあるごとに、胸の中に浮き上がるのではないか。あいつがいれば、頼りになったのに、と。
しかし、今現在、ぼくが唯一の男であることも確かだ。これから先、共に長く生きることができれば、過去の男は全て、遠い思い出になるかもしれない。
「あなたの誕生日までには戻るわ。お利口さんにしてるのよ。ケーキを焼いて、蝋燭立ててあげますからね」
ほら、そうやってぼくを年下∴オいする。千年経てば、ぼくらの年齢差など、誤差の範囲になるはずなのに。
サマラの指揮する戦闘艦隊は、目立たぬよう分散しながらも、違法都市《インダル》の港湾区域から離脱していった。
都市の管制宙域を出てしまえば、何が起きてもおかしくない無法の世界だ。何万という組織の艦隊が行き交い、互いに威嚇し、牽制する。
留守番に残されたぼくは、心を侵食する不安を振り払うようにして、都市管理の仕事に取り組んだ。一族の若手として、年配者たちから様々な業務を譲り渡されている。
小惑星工場の管理。
気密桟橋の増設計画。
緑地及び繁華街の巡回強化。
管理システムが日々蓄えていく、膨大な情報の整理、分析。
伸びてきている組織はどれか、分裂しそうな組織はどれか。その隙をついて、乗っ取ることはできそうか。
それでもふと、どうしようもない不安がきざす。自分一人の時なら、何をしていても、自分一人の心配だけでよかったものを……
サマラは無事か。
無理などしていないか。
もしも助けを求める通信が来たとしても、既に何百光年の彼方だ。駆けつけるには時間がかかる。
できることなら、比較的安全な、一族の勢力圏内だけにいてほしかった。だが、責任感の強いサマラが、自ら進んで、危険を伴う外回りの仕事を引き受けているのも知っている。
自分が彼女の全てを包めるほどの男でないことを、自分で歯痒く思い、それをまた、傲慢だと考え直したりした。
彼女の方が、ずっと長く生きているのだ。恋も仕事も経験を積み、たくさんの傷を受け、それを風化させて一人立っている。
自分はおそらく、あと何十年も経たなければ、本当には対等な伴侶になれないだろう……
「シレール」
ある朝、不意に、一族の年配者の一人が、センタービルにあるぼくのオフィスに飛び込んできた。通話映像での訪問ではなく、じかの接触というだけで、受ける不吉さは倍増する。
「サマラの船が消息を絶った。こちらの資源星系から少し離れたあたりだ。非常通信を最後に、連絡が取れなくなった。護衛艦隊も全滅のようだ。いま、捜索の船団を向かわせるところだが……」
まさかと思いながらも、ついにその時が来たのかという、重い徒労感があった。
一族の第一世代は、たった一人を残して、既に死に絶えている。宇宙空間での事故、他組織との抗争、不老処置の失敗。
それに続く第二世代も、第三世代も、何人もの死者や離脱者を出している。辺境星域は、さまざまな違法組織の食らいあう激戦区であるからだ。
サマラは第三世代の貴重な闘士だったが、だからこそ、危険な役回りを積極的に引き受けてきた……いつか、自分を超える敵に出会うまで、という覚悟を持って。
ぼくは思ったより落ち着いたまま、捜索の船団に加わった。
もう、何も急ぐことはないのだ。
船そのものが大破したなら、乗っていた者はまず助からない。小型艇で脱出したとしても、敵に破壊されたか、拿捕されたかだろう。
生きて捕まれば、洗脳されるか、売り飛ばされるか。人体実験の材料ということもある。
無駄な望みは持たない方がいい。一族の年配者たちにも、そう言われた。奇跡を期待して、自分の日々を無駄に費やすなと。
冷たい宇宙空間に、やがて、探していた艦隊の残骸がみつかった。
溶けて変形した船体の破片。小惑星に刺さった金属の断片。アンドロイド兵士の一部分。どこの組織だったのか、圧倒的な戦力差だったのだろう。
もちろん、サマラの遺体はなかった。たぶん、爆発で蒸発し、原子に還って飛び散ったのだ。
同行した第二世代の伯父は、あきらめの吐息をつき、ぼくの肩に手を置いた。
「シレール、艦隊の増強を考えねばならん。これまでの戦力では、もはや足りなかったのだ。他組織は、どんどん力をつけている」
その後の慰め事も、全て右から左に抜けた。何もかも、どうでもよかった。自分がサマラに同行しなかったことを、一生悔やみ続けるだろう。
ぼくは臆病で、用心深い。だから、ぼくが一緒にいたら、もっと安全な航路を選ぼうとか、応援を呼んでから動こうとか、生存につながる提案をしていたかもしれないのだ。
なぜ、笑われても、叱られても、同行しなかったのか。
甘ったれの坊やだと、馬鹿にされたくなかったからか。
どう言われても、しがみつけばよかったではないか。サマラ以上に大切なものなど、ぼくにはなかったのだから。
しかし、もしかしたら、サマラは過去の男たちに呼ばれたのかもしれない、という気もしている。
ぼくが見ていないと思っている時、彼女はどこか遠くを見ていた。心がぼくに戻るまで、しばらく待たねばならないことも、よくあった。
ぼくの元に戻ろうとする気持ちよりも、彼らの元へ行きたい気持ちが、まだ強かったのではないだろうか。
あと十年、一緒にいられたら、きっと、ぼくの方が大きな存在になっていたろうに。
一族の者たちは、わたしの死を納得したという。
「ありがとうございます、麗香姉さま」
これで出発できる。紅泉と探春がいれば、一族の将来は心配ない。いや、一族がどうなろうとも、それはもう、わたしには関係のないことだ。
長い年月、辺境で戦い続けて、わたしは一つの結論に到達した。
人類の不幸は、男がもたらす。
わたしの一族の男たちですら、バイオロイドの女たちや、男兵士たちが使い捨てられる現状を、
『仕方ない』
と認めているのだ。
地位、権力、新しい女。男たちの愚劣な欲望が、果てしない争いの源。
もちろん、男には男なりの可愛さ、純情さがあるが、だからといって、愚かさが免責されるわけではない。男が男である限り、凄惨な争いはなくならないだろう。
わたしは遠い銀河を目指し、そこで女だけの文明を築き上げる。それしか、理想郷に到達する方法はない。
バイオロイドの胚が数十万あれば、一つの社会を築くのに十分だ。長い旅のうちに、まず、わたしが数十人の娘たちを育てる。その娘たちがやがて、次の世代を育てる。
彼女たちは男を知らず、男を必要としない。
女だけで協力し、社会を築く。
船団には、植物の種子や株はもちろん、動物の胚も積み込んだ。どこかで定住することがあれば、地球型の生態系を築く。ずっと船で暮らすとしても、庭園や小農場は楽しめる。
動物たちの繁殖は、クローン培養か胚合成で行うつもりだ。雄と雌がつがう姿を、娘たちに見せることはない。不自然かもしれないが……人類そのものが、とうに自然から離れているのだ。
いったんは近隣の銀河に留まり、新たに大規模船団を建造するが、最終的には、もっと遠方の銀河を目指す。二度と、この銀河の旧人類と関わらなくて済むように。
シレールが自殺したりしないか、それだけがわずかな心残りだが、それは、姉さまが見張ってくれるという。
「あの子はまだ若いから、次の恋ができますよ」
たぶん、そうなる。
それでいい。
シレールを残していくわたしだから、誰にも疑われずに済む。この世界に愛想を尽かし、自分の意志で出ていくなんて。それを隠すことが、育ててもらった一族への、せめてもの礼儀。
移民船団を用意することに協力してくれた麗香姉さまだけが、わたしを見送ってくれた。
「あなたなら、きっとやれるわ、サマラ」
「ありがとうございます。姉さまも、どうかお元気で」
この人もかつて、仲間と共に地球文明圏を捨てたのだ。そして、辺境の宇宙に居場所を築いた。子孫であるわたしは、その辺境から旅立つ。
もちろん、銀河系外への移民は、わたしが初めてではない。既に一族の中からも、他の銀河を目指す移民団が出発していた。
しかし、彼らは大勢の仲間を集め、男女混成で旅立ったのだ。
いかに善意の人々であっても、きっと先で意見の対立があり、争いが起こる。それが、殺し合いに発展するかもしれない。
だからわたしは、わたしだけが絶対の指導者である体制を築くつもりだ。娘たちも、その娘たちも、わたしの判断に従えばよい。
それで失敗するなら、仕方がない。多くの試みのうちの、一つが潰えた、というだけのこと。
他の誰かは、きっと成功する。そこからまた、枝分かれを起こす。
人類はこうやって、永遠に拡散と進化を繰り返すのだろう。
「紅泉、シレールの様子を見てきてちょうだい。いくら連絡をしても、管理システムに受け答えさせるだけで、本人は屋敷に閉じこもりきりなのよ。ヒルダやオラフたちが会おうとしても、断るというの」
違法都市《ティルス》の屋敷内で、ヴェーラお祖母さまからそう言われた時、あたしはまず眉をひそめた。
たまの帰郷だというのに、暗い話だ。
「まだめそめそしてるんですか、あの男は。サマラおばさまが亡くなって、もう一年近くも経つでしょうが」
何という情けない男だ、と腹立たしい。
互いに、貴重な一族の若手ではないか。
あたしや探春よりは二十歳ばかり年長であるが、同じ第四世代。不老の肉体を持つ一族のうちでは、ほぼ同世代といってよい。
腰の重くなった年寄りたち(外見は若くても、精神は保守化するものだ)を、力ずくで引っ張っていくぐらいの気概がなくてどうする。
現在の版図や繁栄に甘んじているだけでは、一族はあっという間に競争力を失い、他の貪欲な違法組織に滅ぼされてしまう。
だが、探春が横から言った。
「無理もないわ。誰だって、恋人を失えば、そう簡単には立ち直れないわ……」
心からの同情と心配のこもった、優しい声音である。
しかし、あたしにはよくわからない。恋人などいないし、恋愛らしい恋愛をしたこともないからである。
これまでの人生を振り返っても、本当に打ちのめされたことも、絶望したこともない。大抵の困難は、気迫と体力で乗り切ってきた。
両親が探春の両親と共に、移民団を率いて銀河系外に去った時でさえ、その空白にじきに慣れてしまった。そもそも、遺伝子素材提供元という意味での親に過ぎなかったし、元から仕事で留守がちの人たちだったから、元気でいてくれればいい、と思うだけ。
あたしたちの育ての親というなら、ヘンリーお祖父さまとヴェーラお祖母さま夫妻の方だろう。
また、遺伝子設計者という意味なら、最長老である麗香姉さまが製造元である。
「行って、どやしつけてきますよ。頭から水でもぶっかけてやります」
お祖母さまにそう言って、あたしたちは自分の艦隊を率い、《ティルス》から出航した。
艦隊そのものは、統合管理システム《ナギ》が運行させるので、航行であっても戦闘であっても、人間の手はほとんど必要ない。
「サマラおばさまは、第三世代の貴重な闘士だった。だからこそ、残ったあたしたちがしっかりしなきゃいけないのに」
そう言うあたしの言葉に、探春も正面から反論はしない。ただ、
「あなたには、まだ人の心の痛みは、本当にはわからないのよ」
と悲しげに言う。
そりゃ、そうかもしれないけど、そんなこと言われたって、どうしようもない。自分でそう決めて、恵まれた立場に生まれたわけではないのだ。
「あなたは常に、自分を宇宙の中心に据えている人ですものね」
と微笑まれてしまった。
自分の力だけを信じて、どこまでも歩いていけるだろうと言うのだ。
「それじゃ、まるで能天気な鈍感人間じゃないの」
とあたしは抗議したが、探春の顔は、
(まさにその通り)
と答えている。
「だけどねえ、探春だって、恵まれてる立場はおんなじじゃないの」
「そうね……わたしには、あなたがいるから。世界で一番、恵まれているわね」
花開くようににっこりされると、ぐうの音も出ない。
「いやあ、どうも」
と頭をかくことになる。
「でも、だからこそ。もしもあなたを失ったら、わたしもきっと立ち直れないわ」
親友に、悲しい微笑みでそう言われてしまったら、足元に膝をついて手をとるしかない。
「あたしは死なないから、大丈夫。ずっと探春と一緒にいるからさ」
半分は冗談だが、半分は本気だった。
あたしは強い。生まれながらの強化体。不老処置を繰り返していけば、このまま何百年でも、たぶん何千年でも生きられる。
まあ、どこかで何か失敗して、敵に吹き飛ばされない限りは、だが。
失って、立ち直れないほどの打撃を受ける相手など、おそらく探春だけだろう。
「ずーっと長生きして、死ぬ時になったら一緒に死のうね。探春に恋人ができてなければの話だけど」
すると、従姉妹はにっこりした。
「その心配は、きっとないわ」
まったく、この男嫌いは、どうにか治してやりたいものだ。シレールとは仲がいいが、それは身内だからであって、恋愛対象にはならない。
「でも、わたしが死んでも、あなたは生きていけるわよ」
探春が予言の口調で言った。
「しばらくは泣いてくれるでしょうけど、いずれ元気になるわ。長く落ち込んではいられない人よ。第一、司法局も一族も、あなたを必要としているんだもの」
不吉な予言を聞いたかのようで、あたしは鳥肌が立った。そんなこと、本気で考えたことなんかない。探春が先に死んで、後に残されるなんて。
あたしは、従姉妹の小さな手をぎゅっと握った。
「痛いわ」
と言われるくらい。
「ごめん、でも」
探春がそんなことを考えたというだけで、あたしは心が痛む。
「あなたを守るために、あたしがついているんでしょ。守きれなくて死なせるかもしれないけど、その時はあたしも一緒だから」
探春はふっと笑った。
「ありがとう」
いつか終わりの日が来るなんて、そんなことは考えたくもない。考えたって、止められるものではないのだし。
ああ、わかっている。
シレールには、その悪夢の時が来てしまったのだ。
でも、だからといって、このまま衰弱して死ぬとか、隠者になるとかいうのはやめてほしい。それでは、あたしたちまで暗くなってしまうではないか。
シレールの屋敷は、小惑星都市《インダル》の、広葉樹の森に囲まれた一角にあった。元はサマラおばさまが住んでいた簡素な屋敷で、シレールは後からここに移ってきたのだ。
彼はヒルダとオラフ夫妻、ニナと史郎夫妻など、他の親族たちと共に、この都市の管理運営を任されていたのだが、サマラおばさまの死後は、仕事を全て放棄したきりだという。
ひたすら屋敷にこもり、心配する親族の訪問も拒絶しているとは、情けない。ならば、あたしのことも拒絶できるかどうか、やってみるといい。
「こら、開けないとミサイルかますよっ!!」
武装車で屋敷の玄関前まで乗りつけ、あたしは車から降りて怒鳴った。訪問は、管理システムが伝えているはずだ。シレールが面会を拒否し続ければ、本当に小型ミサイルを撃ってやる。薔薇の垣根のあたりとか、女神像のある噴水のあたりとか。
けれど、
「それはだめよ」
と探春が言う。ショック療法という善意からの行為でも、シレールは余計、心を閉ざしてしまうはずだと。
「じゃ、どうするの」
「まず、わたしが行きます。紅泉、あなたはここにいて」
探春はそう言い、一人で屋敷の中庭に回った。
あたしはおとなしく玄関先のベンチで待ったが、そっと偵察虫を飛ばすくらいはよかろう。虫が捉えた情報は、精度は低いものの、あたしの手首の端末に出る。
庭に面したフランス窓は、何箇所も開いていた。微風がカーテンを揺らす部屋に、黒髪に黒い目の優男がいる。
「勝手に押しかけて、ごめんなさい」
探春はそっと声をかけた。シレールは前に会った時から、だいぶ髪が伸びている。以前から、繊細な詩人といった趣の美男子だったが、それがますます、世俗離れした透明さをまとっているようだ。
「ミサイルは勘弁してほしい」
シレールは答えたが、それも、瓦礫の片付けが面倒だから、という程度の熱意のなさだった。
「いや、もしかしたら、廃墟の中で暮らすのも、いいかもしれないな」
と、かすかな自嘲の笑いを見せる。
「ね、シレール、わたしたち、あなたを心配しているの。いつまでも、閉じこもりきりではいけないわ。少しは外に出て、仕事をしたり、人と話したりした方が、気がまぎれるわ……」
言いながら、探春は、慰めが無力であることを知っている顔だった。
二人の娘が車で引き上げていくのを、ぼくはバスローブ姿で二階の窓から見送った。確かに、仕事だけは再開しなくてはなるまい。
口より手が早い紅泉に、好感を持つのは難しいが、それなりに活を入れてくれたといえる。
死ぬなら潔く死ね、生きるならしゃっきりしろ、それは確かにもっともだ……
後追い自殺、というのも、まるきり考えなかったわけではない。しかし、生きる意味を失った時に、あえて死ぬ意味も見つけにくいのだ。
時間が経てば腹は減る。喉は渇く。トイレにも行きたくなる。入浴しないのも気持ちが悪い。ただ生物的な本能に従っているだけで、ずるずると時間は過ぎる……
確かに、サマラが見ていたら、ぼくを殴りたいだろう。そして、苦笑できる自分に感心した。
こうして少しずつ、傷は風化していくというのだろうか……
***
割り振られた仕事は、するようになった。といっても、まだ皆に気を遣ってもらっているらしく、一人でできる事務作業や、遠隔で済む監督業務が多かった。
都市の統合管理システムを通じて指示を送れば、誰かと顔を合わせなくても過ごせる。警備や保守管理の実務は、アンドロイド部隊が問題なくこなせるのだ。
人間の部下との面談や、他組織との折衝のような、神経を使う対人業務からは外された。以前の仕事量からすれば、三分の一以下だろう。
気怠い半隠居状態が続き、それに慣れてしまった。紅泉たちは中央星域と辺境とを行き来して、悪党狩りのハンター稼業に忙しくしている。
あの二人は、二人でいれば幸せで、無敵なのだ。
季節が幾つも過ぎ、木々は裸になり、曇天に小雪が舞うようになった。
違法都市にも四季があるのは、人間が飽きやすいからだ。衣替えをしたり、季節の行事をしたりしないと、退屈すぎるのだろう。
ぼくもまた、独りの暮らしの中で、それなりのリズムを刻んでいた。朝、起きて、午前中に仕事を片付け、午後には散歩や運動をし、夜は読書をする。
その声に気がついたのは、歴史書をめくりながら、ぼんやりと暖炉の火に当たっていた時だった。室内が寒いわけではないが、冬は炎を見るのが好きなのだ。
外の木枯らしの中に、猫の泣き声のような声が混じる。錯覚かと思っていると、また聞こえる。
おかしな話だ。庭の端から先は森林なので、鹿や猪や山猫などが迷い込むことはあるが、大抵は警備システムが追い払う。山猫が、仔猫でも生み捨てたのか。
ぼくは立って、テラスから中庭を見渡した。闇の中、テラスの端に、見慣れない籠のようなものがある。中に、何か動くものが詰まっているようだ。
血の気が引いた。
まさか。
そんなはずは。
だが、慌てて駆け寄って確かめても、やはりそれは、生きた赤ん坊だった。淡い緑の毛布に包まれて、涙で濡れた顔を赤くし、か細い泣き声を立てている。
「いったい何なんだ!!」
ぼくは籠を持ち上げると、急いで室内に運び込んだ。暖炉の前の、一番暖かい場所にそっと置く。
いくら布にくるんでおいても、冬の夜ではないか。こんな小さな赤ん坊を戸外に放置するなど、一族の者たちは何を考えている。
人の気配と暖かさに安心したのか、泣き声はいったん収まった。赤ん坊は大きな目をきょろきょろさせて、新たな居場所を探るかのようだ。
他でもない。大姉上が新しく作った赤ん坊だろう。
噂に聞いていた通り、くるくるの赤毛に緑の目をしているし、そもそも一族の者でなければ、警備厳重なこの屋敷の敷地に入れるはずがないのだ。
しかし、文句をつけるのは後のことで、とにかく温め、ミルクを飲ませるなり、おむつを替えるなり、世話をしなければならないだろう。
ところが、いったん離れようとした途端、赤ん坊がぐずりだした。最初はひくひくと、しゃくりあげるようだったが、やがて、火がついたようにけたたましい声になり、新しい涙を流し、全身をつっぱらせて反り返る。
ぼくは背中に火がついたような気分になり、慌てて手を伸ばした。
眠いのか? 空腹なのか? それともおしめか?
そっくり返る赤ん坊を籠から取り出すのは、時限爆弾を扱うかのように恐ろしかった。こんなに小さいくせに、むずかる勢いはすごい。下手をしたら、手の中から取り落としそうだ。
絨毯の上で、前開きの服をそっと脱がせ、まずおしめを確かめる。
生まれて初めて、女性の局部を明るい光の中で見たことになるのだが、何らかの感慨を覚えるゆとりはなかった。おしめは吸水性だろうから、おしっこだけなら不快感はないはずだ。やはり、大きい方か。
これだ。ミルクしか飲んでいないだろうに、緑色のべとべとしたものが噴出している。
とっさに浴室に走り、タオルを湯で濡らして戻ってきた。噴出が終わるのを待って、赤ん坊の尻を拭き、ありあわせの柔らかい布で下半身を包み直す。
いや、これでは、ずるずるほどけてくる。何かで留めなくては。ピンの類は危ない気がする。たとえ、安全ピンという名前であってもだ。書斎に、粘着テープか何かなかったか?
悩みながらあれこれ動き、ようやく赤ん坊に服を着せ直して、ほっとした。
気がついたら、服の胸元に刺繍で文字が入っている。ダイナと読めた。これが、この子の名前なのか?
ご機嫌は直ったようで、このまま寝てくれそうな感じもするが、今度はいずれ、空腹で泣き出すのではないか。
厨房にはどんな食材でもあるが、さすがに赤ん坊用のミルクの用意などない。普通の牛乳で間に合うのだろうか。いや、それなら、赤ん坊用が製品として存在するはずはない。きっと、必要な成分が違うのだ。
しかし、違法都市で、そんなものを売っているのかどうか。管理責任者の一人であるくせに、ぼくには見当がつかなかった。違法都市には成人の男女が多く、子供は、奴隷として働ける年齢のバイオロイドしかいないはず。
通話画面に取りついて、都市の総合管理システムを呼び出した。このシステムは、一族に仕えてくれる執事のようなものだ。何か頼めば、アンドロイド兵なり人間の職員なりを通じて、用を果たしてくれる。
「赤ん坊に必要なものを、一揃い調達してくれ。売っていなければ、作らせてくれ。まずは、赤ん坊用のミルクだ。それから、衣類とおむつ」
そして、都市の経営責任者であるヒルダ夫妻を呼び出した。とにかく、この赤ん坊のことを相談しなければ。
だが、管理システムが無常に却下してきた。
「今後一週間は、お取り次ぎできません」
ニナ夫妻も同様だった。つまり、ぼく独りで何とかしろということだ。これはやはり、一族の長老たちが仕組んだことだと考えるしかない。
腑抜けたぼくに、活を入れようというのだ。生まれたての赤ん坊を押しつけることによって。
「いいのかねえ、本当に、こんなことして」
赤ん坊を捨てる役を引き受けたあたしは、数キロ先の森の中で、探春に向かってぼやいていた。中型の武装トレーラーの車内である。
はるばる故郷まで呼び出されたと思ったら、麗香姉さまに、こんな役を命じられて。
「何も、赤ちゃんを独り身の男に預けなくても、ねえ……何かあったら、どうするわけ?」
姉さまから赤ん坊を受け取り、ここまで運んでくるだけで、あたしは十分に情が移っている。
森の中に車を止めたまま、これ以上シレールの屋敷から離れられないのだ。管理システムを通して彼の様子を見ているのは、何かあったら、ただちに奪い返すつもりでいるからだ。
「麗香お姉さまと、ヴェーラお祖母さまが決めたことよ」
探春の方が、いさぎよく心配を止めていた。
「シレールには、生きる目的が必要なの」
小さな子供だけが、彼の魂を揺り動かすだろう、というのだ。
「一切の援助なく、自力でダイナの世話をする。そのまま時間が経てば、きっといい変化が起こるわ」
「そうかなあ」
あたしとしては、今からでも、赤ん坊を取り返したい。
ヒルダ夫妻なり、ニナ夫妻なり、安定した夫婦が育てるのが、一番いいことに決まっている。
そうでないなら、あたしと探春が二人で育てる方が安心ではないか。
ハンター稼業など、しばらく休んでもいいのだし。
何も、半分世捨て人のようなシレールなどに、無理やり生き甲斐など持たせなくてもいいではないか。
憂鬱な顔のままでも、生きてはいるのだ。
どうやら、仕事もこなすようになったし、自殺を図る気配もない。あとは、自然に元気になるまで、放っておけばいいだろう。
一族の長老たちも、賢いのか阿呆なのか、わからない判断をするものだ。
「シレールは本来、手先も器用だし、責任感も強い人よ。彼に任せて、わたしたちはホテルに引き上げましょう」
探春が言っても、あたしは首を縦に振らなかった。
「あたしは今夜一晩、ここにいるよ。何かあった時、すぐ駆けつけられるようにね。別の車を呼ぶから、探春だけ、ホテルで休みなよ」
しかし、探春もまた、あたし一人を森の中に残しては、心配で立ち去れないらしい。
「付き合うわ」
と言って席を立ち、簡素な厨房でディナーセットを温めて運んできた。
移動基地にもなるトレーラーであるから、シャワーも使えるし、簡易ベッドで眠ることもできる。一族の経営するホテルには及ばないが、数日過ごすくらいは我慢できる。半分、覚悟はしていたことだ。
都市の管理システムに位置情報開示を禁じてあるから、シレールがこの車に気づいて、怒鳴り込んでくることはないだろう。
いや、怒鳴り込む元気があるくらいなら、心配ないか。
「まったく、繊細な男って面倒くさい」
食後のハーブティを飲みながらぼやくと、探春が微笑んで言った。
「いずれそのうち、ダイナと遊べるようになるわ。シレールがちゃんと育ててくれるから、わたしたちは時々、遊びに行けばいいのよ」
「そうかなあ」
「管理システムの支援があれば、男性一人でも、十分子育てはできるわ」
「それはそうだろうけど……」
「子供が欲しいのなら、あなたが産むっていう手もあるのよ」
うーん、別に産みたいわけじゃない。赤ん坊は、目の前にいれば可愛いと思うが、他に色々とすることもあるし、あえて創り出す気はしない。遺伝子操作で頭を悩ますなら、なおのこと。
あたしのような闘士がいいのか、探春やシレールのような頭脳派がいいのか。それとも、両方を欲張るのか。それがはたして、幸せな人生につながるのか。
あたしのように、じっとしていられず、冒険を求め続けるというのも、問題がある。家出したきりのシヴァのように、反抗心がありすぎるのも不幸だ。
「王子さまを探すのが先だよ。子供を作るにしても、人工精子なんてつまんない」
「あら、それじゃあ、永遠に無理そうね」
と従姉妹は愛らしくにっこりする。
「意地悪!!」
冬の森の中で、夜は更けていく。いつか、そんなこともあったねと、笑い話にできる日が来るといい。
あたしたちは三日、森で待機してから引き上げた。中央では司法局が、ハンターの帰還を待っているのだ。
サマラ編 了
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