ブルー・ギャラクシー 帰郷編
「ねえ紅泉、明後日、何の日か覚えてる?」
誘拐された科学者たちを奪回する任務の途上、辺境を航行中の戦闘艦隊の中で、探春が言いだした。
「さあ?」
ラウンジのソファに座って、拉致された市民たちが売られる公開市場のリストを眺めていたあたしは、生返事をした。
「何か約束してたっけ……」
探春をバレエの公演に連れて行くとか、新作ジュエリーの展示会を見るとか?
けれど、そんな平和な予定は、仕事が入れば全て吹っ飛ぶ。そんなことには、探春ももう慣れている。
あたしたちが悪党退治のハンター稼業を始めて、もう数十年。事実上、司法局のエースと言われている。つまり、厄介な事件はみな、あたしたちに回される仕組み。
「違うわ。ヴェーラお祖母さまの誕生日よ」
言われて初めて、思い出した。故郷の人々のことを。
「あ、そうか。誕生日って、毎年あるんだっけ」
「まあ、紅泉ったら」
笑ってもらって、ほっとした。
探春をまめに笑わせるのも、あたしの役目。
でないと、あたしたちの仕事は悲惨の連続なので、探春の神経が保たない。
相手は大抵、テロリストや違法組織だ。ミサイルが飛び交い、機械兵部隊が突入し、死人の山を築かないと、事件が終わらない。
したがって、身内の誕生日などという呑気なものは、例年、仕事のどさくさで忘れることが多い。さもなければ、中央のどこかでバカンス中だから、わざわざ辺境まで戻る気はしない。だから毎年、贈り物だけ届ける手配をして済ませていた。
「頼むよ。何か贈っておいて。カードはいま書くからさ」
こういうことは、探春に任せるのが一番だ。あたしのセンスで何か選んでも、どうせ、趣味人揃いの年輩者たちには気に入ってもらえないし。
「そのことなんだけど、ちょっと屋敷に寄らない? ここからなら、わずかな寄り道で済むわ」
そういえば、そうか。
「前に屋敷に泊まったのは、半年以上前よ。たまには顔を出さないと、わたしたちの部屋、物置にされてしまうかもしれないわ」
まあ、任務の途中であっても、寄り道不可、というわけではない。あちこちの違法都市で行われる公開の競り市の日時はわかっているから、それに間に合えばいい。それに先立つ偵察や準備は、ナギに任せられるのだし。
目当ての科学者を落札した者がわかれば、あとは武力で取り戻す。
最初からあたしたちが落札できれば簡単なのだが、司法局は、それだけの予算を回してくれないのだ。
最高議会の議員たちは、そんな予算を認めたら、違法組織を太らせるだけだと思っている。おかげであたしたちは、またしても死人の山を築くというのに。
「じゃあ、ちょっとだけ、寄ろうか」
と、あたしは同意した。
「それがいいわ。ダイナも喜ぶだろうし、シレールにも会いたいし。おじさまや、おばさまたちもお元気かしら」
探春が嬉しそうに言うので、あたしはちょっぴり反省した。
(帰りたかったんだ)
元々、深窓の令嬢である探春は、《ティルス》の屋敷で満足して暮らしていた。平穏に飽き足らないあたしが、武者修行の旅に出ることになったので(正確には、暴れすぎて追放処分になったのだが)、親友として、同行してくれただけのこと。
「ごめんね。いつもドンパチにひきずり回して」
あたしが手を合わせて拝むと、小柄な従姉妹は、トパーズ色の瞳を細めて微笑んだ。
「いいのよ。あなたは〝正義の味方〟なんですもの。それを手伝えるのは、幸せなことだわ」
うーむ。
本気が八割、皮肉が二割かな?
確かにあたしは、自分でこれが正しいと信じて、違法組織や暗殺犯と戦っているが、その過程では、何千人、何万人殺してきたかわからない。
確かに、あたしが行動しなかったら、助けられなかった人はもっと多いと思うけど。
死んだ誰彼にしてみれば、あたしは迷惑な殺し屋でしかない。恨みもきっと、山ほど買っている。
「ダイナはいい子にしてるかな」
と、話題を変えた。一族の末っ子であるダイナは、あたしたちにとって、妹のようなもの。
「今度の誕生日で、十四になるのよ。早いわね」
「ほんとだ。ついこの間、生まれたような気がするのにね」
あたしたちが遊びに行くと、ダイナは跳ね回って喜んでくれる。しかし今回はもう、あたしに飛びついて、だっこやおんぶをせがむことはないだろう。
十四歳なら、そろそろ淑女として振る舞えるはず。
ダイナは無邪気なおてんば娘だが、育ての親のシレールが、厳しく躾けている。
ダイナがいずれ、一族を守る戦士になってくれるはずだ。本当は、従兄弟のシヴァがいてくれればよかったのだが。
あいつは二十歳前に家出したきり、行方が知れない。生きているのか、死んでいるのかもわからない。
初恋の探春に好かれなかったこと、一族の商売に反発したことで、出ていったのだ。彼がいてくれれば、あたしたちはもっと安心して、故郷のことを忘れていられるのに。
あたしたちの育った違法都市《ティルス》は、辺境でも歴史の古い大都市である。さまざまな組織の船が出入りし、繁華街に様々な物資を運び込んでいる。
武器弾薬、機械兵、バイオロイド、食料、贅沢品。中央から誘拐されてきた市民が売られる、公開市場もある。
そういう商売の上がりが、都市を経営するうちの一族を富ませているわけだ。
うちの一族も、れっきとした違法組織なのである。かなり良心的な組織ではあるとしても。
だから、旧友であるミギワ・クローデル司法局長にも、あたしたちの出身地は教えていない。出入りする時は、気を遣って大回りし、船を乗り換えるなどの偽装を行っている。
一族の最長老、麗香姉さまは、今回、姉妹都市の方へ出掛けているというので、姉さまの専用小惑星は素通りし、直接《ティルス》のある小惑星に向かった。
船を外周桟橋に付けると、車で上陸する。いったん繁華街のビル群に紛れ、その地下から、屋敷へ通じる地下トンネルに入るのがいつもの手順。
違法都市の地下には、普通、インフラ用のトンネルに混じって、秘密のトンネルが張り巡らされている。その中を通れば、部外者に出入りを知られることはない。車の移動自体は探知できたとしても、車内に誰がいるかまでは判別できないはずだ。
屋敷は繁華街から距離のある、広大な森林地帯の中にあった。地下トンネルから地下駐車場に車を乗り入れ、階段を通って玄関ホールに上がる。
「ただいま帰りましたあ」
と呼びかけた。帰宅の知らせは入れておいたから、誰か出迎えてくれるのではないか。
と思っていたら、頭上から声が降ってきた。
「姉さま、お帰りなさーいっ!!」
同時に、声に主が降ってくる。なんと、三階の回廊から飛び降りてきたのである。
ダイナは着地と同時に両手をひらめかせ、数条の銀光を飛ばしてきた。
これが他人の仕業なら、触れずに避けるところだが、ダイナは家族である。いくらおてんば娘でも、家の中で爆発物や毒物は使うまい。
探春を背中にかばいながら、飛んできた銀光を手刀で叩き落とした。それらは床に散って、カン、キンと音を立てる。
銀のティースプーンだった。ナイフやフォークでないだけ、ましだ。
「こら、危ない!!」
あたしが叱ると、深緑色の上品なワンピースを着た赤毛娘は、嬉しくて仕方ない、という顔で抗弁する。
「だって、姉さま、隙があったら、いつでも攻撃していいんでしょ。あたしが勝ったら、戦闘艦くれるのよね」
確かに、そういうことを言った記憶はあるが。事実、何度も、こういう奇襲を受けてはきたが。
「お祖母さまの前ではよしなさい、と言ったでしょうが」
ダイナはしまった、という顔をして、大きな緑の目で、奥へ通じる廊下を見やった。
秋らしい枯れ葉色のスーツを着た優雅な美女が、こちらに歩いてくる。ふんわりしたショートカットの金髪、青い瞳に合わせたサファイアのイヤリング。
四十歳前後にしか見えない貴婦人だが、実年齢は二百歳を越えている。三つの違法都市を経営する一族を従える、切れ者の総帥である。
「久しぶりだこと。お帰りなさい」
ヴェーラお祖母さまは、まずお気に入りの探春に微笑みを向けてから、あたしとダイナに鋭い視線を向けてくる。
「家の中でサーカスの真似事はやめてちょうだい、と言ったはずだけど?」
ええい、まるで、あたしがそそのかしたかのように。
しかし、このおてんば娘があたしを慕い、せっせと武道の修行に励んでいることは、お祖母さまから見れば、あたしの〝悪影響〟なのだろう。
「申し訳ありません」
あたしはダイナの頭を片手でぐいと押し下げ、自分も頭を下げた。
何といっても、おしめを替えてもらった相手である。小さい頃の泣きべそもお漏らしも、全部知られているのだから、今のあたしが市民社会の英雄だなどと威張ったところで、無駄なこと。
「まあ、いいでしょう」
あっさりお許しが出た。
「せっかく帰ってきてくれたのだから、小言はなしにするわ。さ、いらっしゃい。あちらに、お茶の支度をさせています」
女四人、連れ立って、屋敷の中央通路を歩いていった。中庭に面した窓からは、赤やピンクの薔薇の植え込みや、白い花をつけた山茶花の木立が見える。
お茶の時間が終わると、三人で散歩に出ることになった。
あたしはワンピースの上に革のジャケットを着て、姉さまたちについていく。
シレール兄さまの趣味で着せられている、膝丈のお嬢さまワンピースは、森林探検や駆けっこや木登りには、あまり向かないのだが。
あたしとしては、日々、もっと動きやすいミニドレスを着たいのだ。でも兄さまは、頑固に長めの丈を押し付けてくる。
『気品ある動作を身につけるため』
ということだけど、気品はスカート丈とは関係ないと思う。紅泉姉さまなんか、ミニスカートが似合って、かっこいい。鍛えた長い脚には、惚れ惚れしてしまう。
あたしもいつか、かっこいい美女になれるといいんだけどな。
ただ、鏡を見ると、そこには
〝大きなびっくり目〟の自分がいる。どうもあまり、華麗とか、かっこいいとかいうタイプにはなれそうにない。
そもそも、赤毛の癖っ毛というのがね……。
あたしの遺伝子設計をした麗香姉さまは、
『あなたは最高水準の強化体よ。頭脳と肉体のバランスは絶妙だわ』
と言うのだが、外見に関しては、もうちょっと別の選択をしてくれた方がよかった気がする。
まあ、この姿で十四年近く生きているから、もう慣れてはいるんだけど。
秋とはいえ、小惑星内部の人工空間内のことだから、たいして寒くはない。
長い茶色の髪を垂らした探春姉さまは、ミルクティ色のワンピースの上に、薔薇色のショールを羽織っていた。優雅で神秘的なお姫さまのよう。
金褐色の髪を垂らした紅泉姉さまは、白いカシュクールブラウスに黒いミニスカート、黒革の上着。顔には黒いサングラス。背が高くてグラマーだから、正体不明の姐御という感じ。
屋敷の中庭から外庭に抜けて、周辺の森を散策するための遊歩道に入る。あちこちに散っていたサイボーグの番犬たちが、何頭も寄ってきてお供してくれる。
屋敷から見えない所まで来ると、あたしは紅泉姉さまの背中に飛びついた。
「姉さま、おんぶ!!」
「これ、あんたもう、十四になるんでしょうが」
「それは来年だもん。あたしまだ、そんなに重くないし」
「重さの問題じゃないけどな」
それでも、姉さまはあたしをおんぶしてくれた。嬉しい。きっともう、来年はできなくなるだろう。
十四歳になったら、大人の入口という気がする。
十五歳なら、たぶん、若い淑女。そうなっていなければ、恥ずかしい。
だから、子供のようなわがままが言えるのは、もう今だけなのに。
シレール兄さまなんか、最近は全然、甘えさせてくれない。あたしは前のように、兄さまにくっついてホラー映画を見たり、兄さまのベッドに潜り込んで寝たりしたいのに。
『淑女は、そんなことはしないものだ』
と言われて、追い払われてしまう。
それで当然、とお祖母さまは言うけれど、それにしても冷たい気がする。
前は付ききりで教わっていた勉強も、課題だけ指定されて、一人でやっておきなさい、と言われることが多くなった。
つい、ひがみたい気分になる。
あたしはもう、兄さまの〝一番大切なもの〟じゃないのかな。
兄さまが一族の仕事に復帰して、忙しくなったので、顔を合わせるのは朝食と夕食の時だけ、ということが多くなってきた。
せめて、友達がいればいいのに。
この屋敷に子供はあたし一人だから、遊び相手がいない。大好きな紅泉姉さまだって、たまにしか帰ってきてくれないし。
あたしが生まれる、少し前のこと。
他組織との抗争で、シレール兄さまの恋人だった女性が死んだ。船ごと吹き飛ばされ、死体も残らなかったという。
正確に言うと、その人……サマラおばさまが死んだから、麗香姉さまがあたしを誕生させたのだ。一族の遺伝子を素材にし、改造を加えて、カプセル内で培養した。
一族は人数を増やさない主義なので、誰かが死んだ時だけ、次の子供の誕生が認められる。
不老の一族が子供を作り続けたら、あっという間に人数がふくれ上がって、統制がとれなくなるからだ。
シレール兄さまは絶望して、仕事も何も放り出し、《インダル》の屋敷に籠もってしまったという。誰の慰めも受け付けず、このまま衰弱して死ぬか、それとも自殺するか、と心配されたらしい。
どうしたら、生きる気力を取り戻すか。
一族の、貴重な若手を失わずにすむか。
麗香姉さまは、赤ん坊だったあたしを使うことにした。あたしの養育は、一族内の他の夫婦に託すはずだったのに、急遽、シレール兄さまに変更されたのだ。
紅泉姉さまと探春姉さまが呼ばれ、冬のさなかだというのに、あたしを籠に入れ、シレール兄さまが籠もった屋敷の庭に置いてきたのだという。
『ひどいじゃないの、あたしが凍死したらどうするの!!』
と後から話を聞いたあたしが抗議したら、
『ちゃんと隠れて見てたよ。シレールが出てきて、あんたを拾うまで』
と紅泉姉さま。
兄さまも、最初は迷い猫でもいるのかと思ったという。違法都市の緑地には山猫もいるし、狼もいる。誰かが捨てたペットもいる。本物の赤ん坊とわかった時は、腰を抜かすほど驚いたと。
それでも、泣きわめく赤ん坊を前にして、ようやく正気が戻ったらしい。ミルクだおしめだと動いているうち、死ぬつもりだったことは忘れてしまったようだ。
麗香姉さまからは、
『シレール、あなたにダイナの養育を任せますよ。他の者は、一切手伝いませんから』
という通達が来たという。一族の最長老の言葉である。シレール兄さまも、やむなく覚悟を決めたらしい。
何しろ根が真面目だから、やるとなったら、とことんやる。育児書を調べ、適温のミルクを用意し、おしめを替え、沐浴させる。あたしが眠くてぐずる時は、眠るまで抱いて静かに揺する。
兄さまは屋敷に籠もりきりで、あたしを育てた。あたしが這うようになれば、家中調べて回り、危険箇所をなくしていく。あたしが気に入った絵本があれば、何十回でも読み聞かせる。
そうして、兄さまは立ち直った。あたしが物心ついた頃にはもう、完璧な教育係になっていた。
あたしに読み書きを教えてくれ、お絵描きをさせてくれ、人形で遊んでくれ、夜は枕元で絵本を読んでくれる。
あたしは、兄さまに甘えきって育った。
料理は手作り、おやつも手作り。
冬の夜は、兄さまに抱っこされて眠る。
たまに、紅泉姉さまと探春姉さまが遊びに来てくれ、外界のことを教えてくれる。
ある年齢になってからは、他の一族が暮らす《ティルス》の屋敷に引っ越した。そして、お祖母さまやお祖父さま、他の親族たちから、色々なことを教わるようになった。
そして、シレール兄さまは、少しずつ一族の仕事を引き受けるようになった。あたしの基礎教育は、もうじき終わるからと言って。
「ダイナ、そろそろ降りてちょうだい」
横を歩いていた探春姉さまに言われ、はっとした。
実は、この小柄で物静かな姉さまが、あたしは一番怖い。紅泉姉さまがハンターとして成功していられるのは、この探春姉さまの冷静な補佐があるからなのだ。
もしも怒らせたら、ヴェーラお祖母さまより怖い、という予感をあたしは持っている。
その予感のせいで身を慎んでいるから、〝恐怖の正体〟を見なくて済んでいるだけのこと。
「はいっ」
あたしはすぐ、紅泉姉さまの背中から降りた。
「おや、聞き分けがよくなったね」
と紅泉姉さまは笑うけど、知らぬが仏。何といっても、探春姉さまに愛されている当人だから、呑気でいられるのだ。
紅泉姉さまが若い頃、チンピラ相手に暴れすぎて、この《ティルス》から追放処分になった時、深窓の令嬢だった探春姉さまが、
『わたしも行きます』
と迷いなく宣言したのは、なぜなのか。
他人にははっきり見えることが、肝腎の紅泉姉さまには、よくわかっていないのではないだろうか。
別に一生、わからなくてもいいのかもしれないけれど。
探春姉さまが、この状態に耐えられる限り。
やがて、あたしたちのたどっていた小道は、幅三メートルほどの小川にぶつかった。
対岸にはまだ森が続いているけれど、そこはもう、一族の敷地の外である。この小川が境界線なのだ。
絶対に、一人で川を越えてはいけません、と教えられている。
あたしに同じ年頃の友達がいないのも、学校へ行けないのも、ここが無法の世界だから。
あたしは一族の大人たちに守られているけれど、屋敷の外では、バイオロイドの奴隷たちが無残に使い捨てられている。違法組織同士が競い合い、殺し合っている。
辺境は、弱い者には地獄なのだ。
それでもあたしは、一族の大人たちから、
『無邪気な末っ子』
でいることを望まれている。
彼らは、忘れているんじゃないだろうか。自分たちが子供だった時のこと。
この世に、『無邪気な子供』なんてものは、存在しないのだ。子供の頭の中は、どうやったらうまく生きていけるかという、未熟な計算で一杯なのだから。
「川に沿って、歩いていこう」
と紅泉姉さまが言う。敷地をぐるりと回ったら、かなりの距離だ。夕食までの腹ごなしには、ちょうどいい。
広葉樹はかなり葉を落としているけれど、針葉樹も多いから、森は見通しが利かなかった。ゆるいカーブを曲がった時、あたしは予期しなかったものを発見してしまう。
「姉さま、あれ!!」
川の水量はたいしたことないけれど、真ん中あたりで、腰ほどの深さはある。その川の向こう岸に、子供が二人、血まみれで倒れていた。
あたしより小さく、十歳かそこらの年齢に見える。全身の傷は、撃たれたものではなく、切り裂かれたもののよう。
一人は土手の上に倒れ、もう一人は半分川に沈んで、上半身だけが土手の草むらにひっかかっている。白いシャツに紺のトラウザーズという姿からして、バイオロイドの小姓らしい。ということは、十歳に見えても、培養カプセルを出て、数年というところだろう。
「車を呼んで」
紅泉姉さまはそう言うと、軽く跳躍した。倒れていた子供を一人ずつ抱え、二回、こちら岸へ飛んで戻る。
身軽な行動だった。川を飛び越えるだけなら、あたしだってできる。でも、したことはなかった。一人で川を越えるなんて、ありえない。
探春姉さまが、かがんで子供たちの脈を見た。
「どちらも助かるわ。すぐ手当てするから」
傷は、どうやら犬に嚙み裂かれたものらしい。近くの小道まで、医療設備のある車が迎えに来た。敷地の境界線は常にセンサーで監視されているから、探春姉さまの合図一つで、屋敷の管理システムが無人の車を寄越すのだ。
逆に言うと、指図がなければ、管理システムは、この子たちが息絶えるまで放置した。やがて肉食の獣が来て、死体を食い尽くしただろう。
姉さまたちは、アンドロイド兵士に子供たちを託した。そして、治療と身柄についての指図を終えた紅泉姉さまが、こちらを振り向いた。
「さて、散歩に戻ろうか」
え。
車は小道を遠ざかる。この件は、これで終わりでいいの!?
「あの、調べないの? 他に倒れてる子供がいないか、とか。何の事件があった、とか」
姉さまたちは、揃ってあたしを眺めた。まるで、知らない子供でも見るかのように。
「あたしたちに、何の関係が?」
「わたしたち、今日は休日なのよ」
あたしは凍りついた。何も言えなかった。地面に杭で打ち止められたように。
姉さまたちに、無限に甘えていいわけではないのだ。
〝正義の味方〟にも、限度はある。
故郷に戻って寛いでいる時に、余計な仕事をしょいこむなんて、したくなくて当たり前。強化体だって、休みは欲しい。
「ごめんなさい」
やっとで、それだけ言った。
調べたければ、そして他の被害者を助けたければ、自分で動くしかないのだ。少女時代の紅泉姉さまが、バイクで屋敷を抜け出し、夜の街でチンピラ退治(もしくは喧嘩の練習)をしていた時のように。
紅泉姉さまは、バイオロイドを虐待している人間たちを見たら、その場で叩きのめしていたという。
違法都市での喧嘩は、すなわち殺し合いである。
相手が十人であっても、アンドロイドの護衛兵に取り巻かれていても、姉さまはひるまずそれを繰り返して、ついには〝死神〟と恐れられるようになった。
当時、この《ティルス》の繁華街で遊ぶ男たちは、バーで飲む時も、娼館に出入りする時も、びくびくと周囲をうかがうようになっていたという。
でも、繁華街から客足が遠のくのは、都市経営の観点からは困ったこと。
『いい加減になさい。この都市を廃墟にするつもりですか』
お祖母さまに叱られても、紅泉姉さまは自分のしたいことを貫いた。
『あたしに見える場所で、女子供をいたぶるのが悪いんですよ。馬鹿は死ななきゃ治らない』
追放処分だと言われれば、はいそうですかと、あっさり故郷を後にした。そして、たまたま他都市で出会った司法局の捜査官を助け、彼女の任務を完遂させた。
その結果、違法強化体であっても司法局に信頼され、幾つもの依頼を果たし、今では市民社会にフリーパスで入れる英雄となっている。
自分で行動し、自分で責任を取る。
それをまず、あたし自身がやってみせなければ、いつまでも末っ子のまま。姉さまに認めてもらうこともできない。
「姉さまたち、ごめんなさい。あたし、ちょっと外を見てきます」
そして、地面を蹴って川を飛び越えた。
短い距離だけれど、あたしにとっては大きな跳躍。
枯れ葉の積もった地面の感触は、元の岸辺と何も変わらない。ただ、外部の人間がこの境界線を越えようとしたら、まず警告が発せられ、次に、あちこちに隠された防衛塔からの射撃を受ける。
だから、あの子供たちは、こちら岸に上陸できなかったのだ。警告の段階で、立ちすくんだはずだから。そして、追ってきた犬に捕まり、攻撃された。務めを果たした犬は、とうに飼い主の元へ戻っているだろう。
「おいで」
と命じると、屋敷の警備犬の一頭がやはり、川を飛び越えてあたしに従う。この子が、犬と子供たちの匂いをたどってくれる。
あたしは声を張って、向こう岸の姉さまたちに言った。
「夕食までには戻りますから!!」
たぶん。できたら。
「ダイナ!! おやめなさい!! あなたが関わる必要はないことです!!」
非難を込めた探春姉さまの声は聞こえたけれど、紅泉姉さまが戻れと命じる声は聞こえなかった。そして、あたしと警備犬は、子供たちの来た方向を逆にたどって走りだした。
林の中に、草を踏み倒した跡がある。土の地面にも、足跡がある。
これは、きっと〝兎狩り〟だ。
生存期限の来たバイオロイドたちを野に放ち、新兵たちに跡を追わせ、虐殺させる。処分と訓練を兼ねて。
まだ狩りが続いているなら、誰か生き残っているかもしれない。何人かくらいは、救えるかも。
犬に匂いをたどらせ、数キロ走った。ここはもう公共の緑地だから、誰が何をしていても、咎められることはない。無制限の自由というのが、辺境の基本原理。
やがて森が切れて、ちょっとした草地に出た。あちこちに岩が突き出していて、その岩の一つに、青いメイド服を着た若い女の死体がもたれかかっている。
近寄って確かめたが、もう死んでいた。全身ずたずたで、首が不自然な角度に折れ曲がっている。
(ごめんなさい。間に合わなくて)
手を合わせ、心の中で謝った。
あたしが屋敷で呑気に暮らしている間に、すぐ近くで、こういうことが起こっている。川を越えてしまったら、たちまち、こういう現実にぶつかってしまうのだ。
だから小さいうちは、
『絶対に川を越えるな』
と言われていた。
でも、いつかは越えないと、あたしはきっと大人になれない。
それが、今日、この時なのだろう。
少し先で、また女の死体を見つけた。二人いて、やはりメイド服で、
強姦された痕跡がわかる。
いったん息を整えた。冷静に。冷静に。
辺境で暮らす人間たちは、こうやってバイオロイドを使い捨てる。今日、この女たちを殺したバイオロイドの兵士たちも、五年後には、新しい兵士たちに殺される。さもなければ、人体実験の材料にされる。
シレール兄さまや、他のおじさま、おばさまたちは、『見て見ないふり』をする。それが違法都市というものだから、と。
でも、紅泉姉さまは『何かしよう』とした。たとえ、自己満足にすぎなくても。あたしも、そういう大人になりたい。
そのまま林の中を前進すると、やがて、迷彩の戦闘服を着た男たちのたむろする草地に出た。
全部で四人。腰にはガンベルト。その男たちの一人が地面に膝をつき、低い姿勢でリズミカルに動いている。その肩の上に突き出た女の足を見れば、何をしているのか見当がつく。周囲の男たちは、順番待ちか。
「やめなさい!!」
あたしが叫ぶのと、兵たちの周囲の偵察虫が警告するのと、どちらが早かったか。
男たちは振り向いてあたしを見たけれど、ぽかんとしたままだった。明らかに、バイオロイドの新兵だ。この世に生まれて、まだ数週間というところ。
培養中に基本知識を植え込まれているだけだから、あたしの出現をどう理解していいのか、わからないのだろう。主人に命じられたことは、たぶん、組織内で使っていたバイオロイドたちの始末、それだけだろうから。
あたしはそのまますたすた、彼らに近付いた。
周囲を飛び回る偵察虫に全身のスキャンをされても、構わない。あたしは飛び道具を持たず、腕に通信端末のついた腕輪をはめているだけだから。この腕輪すら、屋敷内では意味がなく、ただ、大人になるための準備として形式的にはめているだけ。
「その女から離れて、横に立ちなさい。武器は、地面に置きなさい」
ようやく、兵の一人が不服げに言った。
「あんたは、俺たちのご主人さまじゃない。俺たちに、何か命令する権限はない」
それでも、あたしが〝人間〟だと認めているから、あたしに暴力を向けることはない。主人に命令されない限り。
「あなたたちの主人は、今日から、あたしです」
なるだけ偉そうに、宣言した。あたしがこいつらの主人を退治すれば、そうなる。
兵たちは動揺した。それから、やっとで反応した。
「こいつは敵だ!!」
それは正しい。でも、あたしは彼らが銃を構えるまでに、彼らの間をすり抜けていた。
枯れ葉の積もった地面に、四つの上半身がずり落ちる。それから、残った下半身が倒れた。血が激しく噴き出して、踏みしだかれた枯れ草を染めていく。
さすがに、凄まじい切れ味だった。
超切断糸。
糸はするすると腕輪に引き込まれ、自動洗浄されながら、元の位置に格納される。二年前、この腕輪を紅泉姉さまにもらってから、稽古していた成果。
殺したくはなかったけれど、火器を持った男を四人同時に始末するには、これしかやりようがなかった。
兵に犯されていた女は、ようやく上半身を起こしたところだ。殴られて腫れ上がった顔のまま、呆然とあたしを見る。典型的なバイオロイドの、整った美貌である。
「あなた、名前は」
「リ、リームです」
「では、リーム、今日からあたしが主人です。後で迎えに来るから、ここにいなさい」
「は、はい」
これでよし。あなたはもう自由の身だから、主人なんてものはいないのよ、ということは、後で教えてやればいい。
あたしはそこを立ち去り、五百メートルほど離れた場所で、兵たちの本隊に出くわした。
木々の間に開けた空き地だ。偵察虫から警告が行ったのだろう。兵たちが武器を構えて、こちらを狙っている。大型の警備犬も、三頭いる。
その向こうに、一行の指揮官らしい人間の男がいた。豊かな茶色い髪、大柄な体格。毛皮をあしらったジャケットを着て、黒いゴーグルをかけている。
あたしに火器があれば、彼らは問答無用で撃っていただろう。でも、超切断糸だけだから、その射程外にいる限りは余裕がある。
「これはこれは。可愛らしいお嬢さん。それとも、二百歳の魔女なのかな? 今日からきみが、こいつらの主人だって?」
と指揮官が、嘲る態度で言う。
「あなたがバイオロイドの虐殺をやめないのなら、そうなります」
そこで、男は首をかしげた。何か考える風に。
「噂は聞いたことがある。昔、この《ティルス》に、女の死神が出たってな。でも、それはもう何十年も前のことだ。その死神が、復活したのか?」
何も教えるわけにはいかない。
「昔のことは知らないわ。あたしは自分の主義でやってるだけ。これ以上誰も殺さず、引き上げなさい」
男は少し間を置いてから、低く笑いだした。
「別人らしいな。その死神なら、たぶん、話をする暇はくれなかっただろうよ」
殺気を感じて、前へ飛んだ。
あたしのいた場所に、銃弾が降り注ぐ。
横から、あたしの連れてきた犬が、兵たちと犬たちに飛びかかった。迂回するよう命じていたのだ。
その隙をついて、持っていた小石を左手で投げた。切断糸の射程外にいた兵士は、それで吹き飛ぶ。こちらの犬と絡み合った警備犬たちは、犬に任せたけれど。
間を置かず右手で切断糸を振るい、残りの兵を倒した。指揮官の男はあたしを撃とうとしたけれど、恐怖で狙いが定まらない。強化体の速度を、甘く見ていたのだろう。
あたしは体当たりしつつ、銃をもぎ取り、よろめいた男を殴り倒した。まだ無事でいた警備犬には、気の毒だけど、石を投げて片をつけた。
ここまで、あたしには何の怪我もない。服は多少、血で汚れたけれど。
内心では、安堵していた。
アンドロイド兵士を何十体もスクラップにして、稽古をしてきた成果。
あたし、紅泉姉さまには敵わないけれど、かなり強い。
「ふぁ、ふぁれ」
指揮官の男は顎を砕かれていて、まともにしゃべれない。血まみれの顎を手で押さえたまま、哀願してきた。
「らすけれ、くれ」
なんて弱いのだろう。戦闘力さえ奪えば、別に殺すつもりはないので、後は勝手に引き上げてくれればいい。
ところが、喉にちくりと痛みを感じた。
手で触れたら、何か刺さっている。
血まみれの男が、手に指輪をはめているのに気がついた。もしかして、毒針の発射装置か何か。
まずい、と思いながら右手を振るった。視野が狭まっている。男の首が転がり落ちるのは見えた。でも、あたしも膝から崩れ落ちた。世界の上下がわからない。
頭が冷たい地面にぶつかった。
あたし、もしかして、死ぬの。
死ぬって、こんなに簡単なことだったんだ。
自分が強いと思ったなんて、なんて馬鹿だったんだろう。シレール兄さまが嘆く声が、聞こえるようだ。
『だから、自惚れるなと言ったのに!!』
まあ、初陣はこんなものだ。
あたしと探春は、距離をおいて尾行していたから、すぐ救助に向かった。偵察虫やサイボーグ鳥の援護も付けておいたから、ダイナが気づかず、避けられなかった攻撃も、何とか防げたのだ。
突然決めた挑戦にしては、かなり、上出来だったのではないか。
戦法上、まずかった点も幾つかあるが、今日のこの体験から、ダイナが何かを学んでくれれば、それでいい。
まあ、後でシレールには、苦情を言われるだろうけど。
『ダイナにそんなことをさせるのは、まだ早すぎるだろう!!』
とか何とか。
しかし、本人が自分で決意して動いたのだから、今日がその日だったのだ。
サマラ、どうかダイナを守ってくれ。
まだ、きみの所へ連れていかないでくれ。
昏々と眠るダイナを前にして、わたしは祈っていた。
この子が死ぬのを見るくらいなら、その前に自分が死んだ方がましだ。
ダイナはまだ、死ぬには早すぎる。
人殺しを経験するのも、早すぎる。ダイナの精神が、それで歪んでしまったら、どうしてくれるのだ。
紅泉め。
自分が戦闘狂だからといって、ダイナまで同じように考えるとは。
この子は、悪党狩りのハンターになどならなくて、いいのだ。
そんなことは、やりたい者がやればいい。
成人したら、都市の管理仕事をしてくれれば、それでいいではないか。
だが、しかし……
この子が紅泉に憧れるのを、わたしは止められなかった。
この子は才能と体力がありすぎて、普通の勉強やスポーツでは物足りないのだ。どこまでも、困難を突破しようと突き進む。
こんな風に遺伝子設計した、最長老が恨めしい。
だが、ダイナの明るさ、無邪気さは、その才能と体力に裏打ちされているのも事実。
わたしはこれからもずっと、この子を見守り続けるしかないのだろう。それに疲れ果てるのが先か、この子が死ぬのが先か、それは知りようがないが。
目を覚ました時は、屋敷の医療室にいた。
ただし、集中治療カプセルではなく、普通の医療ベッドだ。ということは、十分に回復しているということだろう。
控えめな補助照明の下で、そろそろと右手を持ち上げ、指を折り曲げてみた。ちゃんと動く。腕輪は外されているけれど。
そっと首に触れてみたら、毒針の刺さったあたりが、保護シールに覆われていた。もう痛みはない。少しかゆいだけ。
ゆっくりと起き上がり、裸足で床に降りた。裸だったけれど、ベッドの横に椅子があり、バスローブがかけてあったので、それを羽織る。
いま、何時だろう。ここには窓がないから、時刻がわからない。お腹の空き具合からすると、夜になっているのは間違いない。もしかすると、丸一日くらい
寝ていたかも。
すると、隣室から兄さまが入ってきた。昼の服装のままだ。
長い黒髪は、ほどいて背中に垂らしている。仕事の時は、一つに束ねているのが普通だ。一族の中で、ただ一人、長髪の男性。なぜ長髪にしているのかは、教えてくれない。姉さまたちに言わせると、何かの〝願掛け〟らしいのだけれど。
「気分はどうだ」
と静かに尋ねられた。悪くない。少し目眩はするけれど。
「もう大丈夫。あたし、毒で倒れたのよね?」
強化体といえども、全ての毒物に勝てるわけではない。
「紅泉たちが尾行していて、すぐに治療してくれたから助かった。全身の血液を、おまえの保存血液と入れ替えたんだ」
うわあ。
もしかして、かなり危ない状況だったのかも。
「ごめんなさい。勝手なことをして。反省してます」
「反省?」
兄さまは冷ややかだった。貴族的な美男子だから、冷ややかに振る舞うと、似合いすぎて怖い。ブルー・ブラッドという言葉を思い出すくらい。
「おまえが、反省などしているものか」
と決めつけられた。
「紅泉と同じだ。気分だけで動く。何でも、好きにするがいい。成人まで生きられなくても、おまえの命だからな」
その通り。
翌朝は、いつもより一時間早く起きて、たっぷりの朝食をとった。朝ご飯は禁止されていない。アンドロイド侍女に注文して、ステーキを何枚も焼かせ、昨夜の分まで、むさぼるように食べた。もう、いつも通りの活力だ。
スープにライスにサラダ、山盛りの果物までお腹に収めた頃、兄さまが食堂にやってきた。仕事に行くのだろう。髪を縛って、紺のスーツ姿だ。
「おはよう。昨日はごめんなさい」
明るく挨拶すると、兄さまはちょっと、たじろいだみたい。あたしがもっと、落ち込んでいると思ったのかな。
「すっかり元気なようだな」
「うん、毒も抜けたし」
明るく元気でいることが、一族の末っ子に期待されることだと、あたしはわきまえている。それに、自分でも、落ち込んでいるのはつまらない。
「兄さま、あたしもっと勉強して、修行して、一族の戦力になるようにするから、期待してね」
と、にっこりしてみせた。
この屋敷での基礎教育が終わるのは、たぶん十七歳か十八歳くらい。あと、ほんの数年のことだ。そうしたら、一族の仕事を任されて、実地研修ということになる。
兄さまはテーブルに着き、アンドロイド侍女に給仕されながら、そっけなく言った。
「成人前に死なないように、気をつけることだ」
「はいっ」
皮肉な言い方をするのは、兄さまなりの愛情とわかっている。
紅泉姉さまと探春姉さまもやってきて、朝食の席に着いた。
「食べたら発つよ。仕事が待ってるから」
「はい。いってらっしゃい」
あたしもいつか、仕事に行くんだ。どんな仕事かは、まだわからないけれど。それまでの貴重な数年、もっと修行しておかなくては。