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小山田弾正(おやまだだんじょう)
小山田氏の一族。「勝山記」には、天文4年(1535)8月22日武田信虎と今川氏輝は、甲斐・駿河国境万沢口で合戦がおこなわれ、今川軍の救援のため北条氏綱は、2万4千の大軍を率いて都留郡に侵攻。これに対抗して、小山田越中守信有勢、信虎の弟勝沼居住の武田左衛門大夫信友勢合計2千で対抗したが多勢に無勢のため甲州勢は敗れ、この時小山田弾正も討ち死にしたと記されている。また、弘治2年(1556)の条には、下吉田の在地寄子と小林氏の争いがあり、在地の寄子たちが、境の弾正を後ろ盾に、谷村の小山田信茂のもとへ訴えたことが記されている。
小山田弾正は、境の弾正とも呼ばれ、境村(現在の都留市境)には、弾正屋敷があったとされる。
「甲斐国志」には、弾正屋敷は村の中間境天神の乾二町ばかりにあり、宅地およそ一町後ろは桂川により東面に表木戸というところがあったとされる。天正2年の境天神棟札には倉見・境の主平朝臣有誠とあり、これが小山田弾正の実名である。また、甲陽軍艦に弾正は小山田信茂が組下にて駒井右京亮と共に駿州深沢の城に出張して北条と対陣していたとされる。天正10年(1582)の小山田本家滅亡後は、北条軍に属したとされる。
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