| 矢作部(やはぎべ)宅雄 大化改新以前は、矢を作ることを職とした品部(しなべ)であったものが、改新後公民に編入せられたもの。 天平宝治5年(761)12月23日の『正倉院文書』(資料1)に、矢作部宮麻呂の名が見え、都留郡散仕として、逃げた仕丁の替わりをを都へ伴ってゆく付き添い役をしたというのである。この、「散仕」は、郡司に次ぐ階層に位置し、郡務に関与したのではなく、国衙に勤務して国務に従事した。国衙での勤務形態は、続労制に基づくもので、続労銭を納めることによって国府に上番し、国司の命によって官符や省符を逓送する役を果たしたとされる。 矢作部宮麻呂も矢作部という部姓氏族で無位であることから、立郡以来の郡領の譜代家ではなく、続労銭を納めて国府に上番し、国務に従事していたと考えられている。 宮麻呂から100年後の貞観14年(872)、都留郡大領外正六位上矢作部宅雄・少領外従八位矢作部毎世に姓矢作部の連を賜わったという記事が『三代実録』(資料2)に見える。宮麻呂とこの宅雄・毎世との関係はこれだけでは、不明であるが、同姓の矢作部であり、宮麻呂との系譜が想定される。 都留郡散仕宮麻呂の国府での活躍とその子孫の労力とが実って矢作部は都留郡の郡司となり、それが二世以上続いて労効譜代の資格を獲得し、立郡以来の譜代家を圧倒し、郡の長官・次官をともに矢作部で独占するという体制ができあがった。 ただし、この新しい郡の支配者も、矢作部という部姓のままでは7世紀以来の部民階級の子孫であることを示していることになり、部内に対しても押さえがきかず、立郡以来の譜代家に対しても肩身の狭い思いをせざるえず、官に奏請して矢作部連の姓を賜わり、立郡以来の譜代家に劣らぬ有姓者の列に加わり、名実ともに都留郡の支配者としての地位を確保した。 (資料1) 甲斐国司解 申貢二上逃走仕丁替一事 坤宮官廝丁巨麻郡栗原郷漢人部千代年丗二左手於疵 右同郷漢人部町代之替 以前。被二仁部省去九月丗日符一称。逃走仕丁如レ件。国宜下承知。更 点二其替一。毎レ司別レ紙保良離宮早速貢上上者。謹依二符旨一。点二定替 丁二貢上如レ件。仍録二事状一。附二都留郡散仕矢作部宮麻呂一申上。謹解。 天平宝字五年十二月廿三日 従七位上行目小治田朝臣朝集使 正六位上行員外目桑原村主足床 従五位下行守山口忌寸佐美麻呂 仁部省充石山寺奉写般若所 天平宝字六年二月三日従六位上行少録土師宿禰 従六位下守少丞当麻真人永嗣 (『正倉院文書』正集一八) 【解説】 皇后宮官職の台所雑役夫であった漢人部千代が逃走してしまったので、代替に指名された同姓町代を、国衛がなんらかの便で上京する都留郡司の下役(散仕)の矢作部宮麻呂に付けて送致するというのである。令の規定によれは、地方は中央に対して、正税の地租を納めるという以上に、実際に物や人を貢納すべきであった。 千代の「左手於痕」という記載も、服属して奉仕に上京した人物の蕨を特定するという中央政府の意志の表われであろう。彼らがどのような原則で指名されていくのかはわかっていないが、都で三年間の生活を送る衛士・采女・仕丁は、防人や庸・調の送致の人々とも異ったものであった。発掘された平城宮址木簡に「□斐国山梨郡力美郷丈部宇 万呂六百文」(天平宝字八年十月)という記事がある。 逃走したくなるような生活であったと同時に、六百文の仕送りが可能な人々でもあったわけである。 都留郡散仕矢作部宮肺呂が、どのような便で上京したのかもわからないが、都留市三ノ側遺跡から出土した「和鋼開称」も、記念メダルではなく、あるいはこのよぅな形で交換の仲立ちをしたものかもしれない。 (資料2) 貞観十四年三月廿日庚寅。甲斐国都留郡大領外正六位上矢作部宅 雄。少領外従八位上矢作部毎世。賜二姓矢作部連一。 (『日本三代実録』巻廿一) 【解説】 都留郡の郡司の長である大領矢作部氏の姓を、連に進めたというのである。 平安時代に入ってからの地方有力者賜姓の史料は散見するが、政治的にはほとんど意味がない。矢作部は、日下部や丈部(はせつかべ)などと共に、律令以前から畿内の勢力進出を象致するような姓で、次第に地方の有力者として登場するのである。 さきの天平宝字五年の史料で都留郡散仕矢作部宮麻呂が、都留郡の有力者としてはじめて登場するが、以来譜代郡司として郡の有力者であったのだろぅ。古代の郡司は、いわゆる官吏として国内を転勤したりするのではなく、その地の有力者から選びとるものであった。 また、租税などの負担も、実際には郡司が在地の首長として引き受けて、定量を国衛や政府に差し出したもののようである。おそらく矢作部氏もそのような在地首長的な存在であったろうが、この氏族名をもっては武士団として後世に発展していないし、後世に残された痕跡もほとんどない。 |
| 【詳しく知りたい人】 都留市史資料編 古代・中世・近世1編 1992 都留市史編纂委員会 大月市史通史編 1978 大月市史編纂委員会 |