聖徳太子(しょうとくたいし)

 用明天皇の第2皇子。母は穴穂部間人皇女。名は厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)。聖徳太子は、諡名。上宮王ともいう。おばにあたる推古天皇の摂政として内外の政治を整備した。
 推古11年(603)冠位十二階を定め、翌年には、十七条憲法を制定。国史の編纂を行い、同15年(607)小野妹子を隋へ遣わし国交を開き、大陸文化の導入につとめた。特に、仏教興隆に尽力し、「三経義疏」を著わし、法隆寺・四天王寺を建立するなど多くの業績をのこした。

  甲斐の黒駒に乗る聖徳太子

 太子社の聖徳太子像
 富士急行線長者町(つる4丁目)踏切りの手前を右に入ると太子社がある。太子社の祭神は、黒駒に乗った聖徳太子の木像で、製作年代は不明である。現在の社殿は、昭和47年に建てられたもので祭礼は4月15日に行なわれている。
 徳重の地名の起こりは、もとこの地に徳重長者という豪族が住んでいたことによると伝えられており、この徳重長者の屋敷神として祀ってあった聖徳太子像が現在の太子社の祭神といわれている。 
 付近には、長者が馬を飼育したという「お厩」あとがあり、「桜久保」「桜馬場」の地名が残っている。昭和10年頃、太子堂近くの田から高さ30p程の「徳重」と刻んだ年代は不明だが御影石が出土したといわれている。現在、このあたりを長者町とよんでいるのは、この徳重長者の伝承からである。          
 『扶桑略記』には、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って、富士山の上に至った伝説が記されている。
 聖徳太子は臣下に命じて全国より書き馬を求めたところ、名馬の産地甲斐より烏駒という体が黒い馬が献上されてきた。太子は大いに喜びさっそく、舎人に調教を加えさせて、やがて試乗してみたところ、たちまち雲に浮かんで東方に走った。3日ののち帰ってきた太子は臣下に向かって、我はこの馬に乗って雲を踏み、霧をはらって直ちに富士山の上に至ったが、転じて信濃にも行った。飛ぶことまさに雷震のようで、まことに神馬であるといったという。
 馬上の聖徳太子像は、勝山村の卸室浅間神社をはじめ、富士山七合目の「駒ヶ岳」にも祀られている。

   太子社の聖徳太子像