| 小 俣 周 仙(おまたしゅうせん) 小俣家は新町に住み(現屋台展示庫西側新町駐車場)明治末年まで5代にわたり医者として多くの村民を救済した。 初代周仙は、若くして江戸に出て幕府典薬頭半井成高に入門して医術を学び、宝暦年間に谷村に開業した。(初代周仙天明8年11月没。2代龍庵文政元年12月没。3代周仙天保5年11月没。)4代周仙は、上吉田浅間神社の祠官竹尾肥後の2男で、15歳のとき3代周仙の養子となり、江戸に出て幕府の典薬半井成美に入門し、また西洋医学を研究して養父の後を嗣いだ。 明治2年郡内地方は飢饉に見舞われ、飢による病が多発した。周仙は病人に薬を与えて手当し郡内各村に及ぶ350余人の人命を救済した。また、余暇には無事庵という塾を開き、天保5年より明治4年に至るまで、38年間に及んで200余人の子弟を教育した。 明治8年には山梨県に出仕し、歴史地誌の編輯に参与したが、惜しくも病にかかり、10月9日、貴子年59歳で没した。 5代嗣子龍庵は、父の後を継いで医者となり、明治10年医務取締となりこの道に専念したが、明治40年7月に没し、継業5代にして終った。 小俣周旋の石碑が、普門寺境内に建立されている。これは、明治10年10月三周忌の命日に門弟により建立されたものである。 |
| 【詳しく知りたい人】 小林貞夫 『都留のいしぶみ』 1985 |