曹洞宗補陀山普門寺は、源頼朝が征夷大将軍となった翌年の建久4年(1193)富士の巻狩をした折に武家の守りとして祀堂を建てたのが始まりとされている。開山は、宝鏡寺六世宗葩大和尚で、永正年間(1504〜20)の創立といわれ、慶長16年(1611)に、天台宗の慈香寺と一緒になり、本堂、十王堂、絵馬堂、山門、鐘楼堂が完備し名刹となった。慶安2年(1649)と、明治3年に火災で全焼し、現在の本堂は明治20年に再建されたものである。
本尊の観世音菩薩は、鎌倉時代のもので運慶の作といわれ、郡内33番観音霊場第1番の札所で御詠歌に「補陀洛や岸うつ波は普門寺の大慈大悲のみ声なるらん」と詠まれ、7月10日の縁日には参拝者でにぎわっている。昭和57年5月境内に慈母観音像が建立された。
雨宮六園の基
六園は姓は源、名は之といい、字は天賜六園と号した。津軽藩の儒臣であったが、沼津藩主水野出羽守に招かれて抱えられた。その後、ゆえあって雨宮氏の家名を継ぎ、甲府微典(きてん)館の教授をしていたが、嘉永4年(1851)に招かれて谷村興譲館の教授となった。
六園は経義に通じ、詩文をよくし、教師としての声望が高く、興譲館の名声は大いにあがり、学生は510名に及んだ。文久2年(1862)9月8日、多くの門弟に惜しまれ74歳で没した。
墓の表には「興譲館中谷有道居士」と記され、学校名を冠した戒名にその名声を偲ぶことができる。墓は、昭和50年9月25日市の記念物に指定された。 |