田 原 郷(たはらごう)
 室町時代からみえる郷名。「和名抄」にみえる都留郡多良郷の後身とみられ、現都留市の桂川中流域一帯に比定される。
 応永33年(1426)8月11日の関東公方御教書
(江戸文書)によると、江戸大炊助憲重は「甲州田原陣」での忠節を賞せられている。関東公万足利持氏は意に従わない武田信長追討のため一色持家を派遣し、持家は甲斐に進軍して同年8月15日に大月に陣を構えたから(同年9月「善波憲有軍忠状写」諸州古文書)、信長の勢力下にあった田原陣へ持家軍が攻め込んでの戦いであったと考えられる。その結果武田信長は降伏し、鎌倉府に出仕している。
 なお建暦三年(1213)5月7日、和田義盛の乱による論功行賞により志村次郎に「坂東田原」が与えられたが(
吾妻鏡)、これが古郡氏の旧領だったとすれば当郷をさす可能性が高いとされる。
 文安2年(1445)1月15日の武田信重寺領目録写(
甲斐史料集成稿)にみえる「田原郷深田村ノ光沢分」の年貢銭27貫文は、南北朝時代に守護武田信春によって向嶽寺(現塩山市)に寄進されたもので、以後長禄2年(1458)8月28日の跡部景家証文(向嶽寺文書)、明応8年(1499)9月24日の平信長寄進状、文亀元年(1501)11月15日の武田信昌判物などによって安堵され、向嶽寺領として長く維持された。天文24年(1555)に武田晴信〔信玄)が「塩山寺領田原・四日市場」を安堵し(同年5月17日武田晴信書状写「小山田信有が同19年2月5日の過所で向嶽寺の四日市場までの通行を認め、永禄12年(1569)11月19日の武信玄判物でも「田原之内弐拾七貫文」を安堵している。

【詳しく知りたい人】

  都留市史資料編 古代・中世・近世�T 1992 都留市史編纂委員会

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