小 山 田(おやまだ)氏
 小山田氏は、坂東八平氏の一つ秩父氏の分れで、秩父重弘の子有重が武蔵多摩郡山田庄を拠点として小山田氏を称したのに始まる。
 建久元年(1190)11月7日、頼朝成人後初めて、武士団を引き連れて京都へ上洛する折りの上洛軍の行列に小山田四郎・五郎の名が見える。
   7番 平山小太郎、樟田小次郎、古郡次郎
  28番 武田太郎、遠江四郎、佐竹別当
  29番 武田兵衛尉、越後守、信濃三郎
  30番 浅利冠者、奈胡蔵人、伊豆守
  57番 小山田四郎、三浦平六、小山田五郎             
 その後、畠山一族、和田義盛の乱 小野横山系図に荷担したことにより、畠山、和田、横山、古郡らと共に関東の小山田氏の名は、認められなくなる。
【郡内小山田氏】

 郡内小山田氏の系譜については、「甲州郡内小山田氏の系譜」(『郡内研究第2号』)が小山田了三氏によって発表されている。以下これを紹介する。
 郡内小山田氏の初代は、小山田有重の子六郎行幸で、祖母(小野孝兼娘)が祖父重弘と結婚する時、持参した都留郡田原の私領を、有重から行幸に相伝され郡内小山田家が誕生したとされる。 

 小山田氏の存在が史料の上からも明らかになるのは、小山田弥次郎信澄からである。
 
8代 小山田弥次郎信澄 初名義明、明徳2年娘が武田信昌に嫁し、信重の母となる。 桂林寺の開基となる。
10代 小四郎信美 初名重吉、応永21年家督を継ぐ。広教寺の地蔵菩薩座像の座底には「明徳元年6月16日重吉在歳23才」とあり、これは信美の初名重吉と年齢も一致するという。
 
12代 弥三郎信光 父は弥太郎信実(儀山)。娘は武田信昌に嫁し、信恵・縄美の母となる。
 
13代 孫三郎信長 耕雲。
 
14代 弥太郎信隆 徹山。永正5年12月戦死。武田信縄・信恵兄弟の争論が起き、今川・北条両氏と結んだ従兄の武田信恵に与力する。永正5年信綱の子信虎と戦った信恵・縄美兄弟は敗れる。信隆は、その後も両国の後押しを受け、信虎と対崎し、同年極月の棒ケ峰の合戦では初戦、信虎軍に勝利したが、深夜に急襲されて討死。
 永正5年(1508)12月 極月5日国中にて合戦あり、都留郡人数負る也)小山田弥太郎殿打死、同心の打死に限り無し。然らば、工藤殿、小山田平三殿韮山へ御出仕なり。小笠原孫次郎死。「勝山記」
 
15代 孫三郎信有 初名平三、越中守、契山。母は葛山氏、永正8年武田信虎の妹を妻とする。
 
16代 出羽守信有 初名藤丸、桃隠。天文21年戦死。
 
17代 弥三郎信茂 初名鶴千代丸、出羽守、武山。天正10年3月没。

  上 大泉寺参道  下 小山田城址  小山田有重・行重供養塔
【詳しく知りたい人】都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
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