谷 村 館(やむらやかた)


 小山田氏は戦国中期まで現金井の中津森館を居館としていた。
「勝山記」天文元年(1533)条に「
此年中屋村へ御越侯て、新屋敷ヲ御立」とあ
り、小山田越中守信有は享禄3年(1530)の中津森館の焼失後、谷村に館を新築、
以後谷村館は出羽守信有・信茂と3代50余年にわたる小山田氏郡内支配の本拠となっ
た。
 天文2年に新館は早くも焼失、信有は同年に新築した甲府の屋敷に移住しているが
(同書)、これは一時期的なもので、のち谷村館は再建されたと思われる。
 同18年8月6日の旦那願文(熊野那智大社文書)には谷村の住人として竹井与衝門
がみえる。弘治2年(1556)から翌3年にかけて小林尾張守・同和泉守らと下吉田
衆との間に争いがあり、裁決を求めて下吉田衆は谷村へしばしば押掛けている。(勝山
記)同書永禄2年(1559)条にみえる「
谷村之御屋敷普」は、谷村館の修築とみ
られる。
 小山田氏最後の当主信茂は、天正10年(1582)3月織田・徳川連合軍の軍門に
下ったが、同月24日に織田信長の命によって甲府善光寺の傍らで妻子らとともに誅殺
された(「甲斐国志」など)。これによって小山田氏は滅亡し、谷村館はその主を失っ
た。
 同年の天正壬午の乱の際には、都留郡に入った北条氏忠らが小山田氏旧館を拠点とし
国中に攻め入ったが、黒駒(現御坂町)での戦いで徳川軍の鳥居元忠に敗れて谷村へ逃
帰っている。(同書など)。小田原北条氏との和睦後、徳川家康は郡内を家臣鳥居元忠
に与え、同18年まで谷村に在城させた。
 谷村館の位置は現上谷三丁目の長安寺付近、あるいは上谷1丁日の都留市役所ないし
は谷村第一小学校の辺り伝えられるが、「甲斐国志」は小山田氏館跡を江戸期の上谷村
新町の北西としているが、「
天正壬午以来更々領主居城ノ地ナレバ、地形モ相変ジテ其
ノ跡不詳
」とも記している。一方、同書は下谷村の蜂火台跡を此レ小山田繁栄ノ頃、
急ヲ郡中二告ゲシ蜂火台ナルベシ
」と記す。現在下谷の蟻山に遺構が残るが、これを蜂
火台でなく小山田氏の居城とし、その西麓の現中央三丁目の円通院から護国神社付近を
谷村館の推定地とする説もある。
【詳しく知りたい人】
 都留市史 通史編 1996 都留市史編纂委員会
 
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