
谷 村(やむら) 「谷村」が登場する最古の史料とされているのは、『勝山記』の天文元年(1532)の条 で、「此年中、屋村へ御越候て、新屋敷ヲ御立候」とある。(註1) 『勝山記』は、富士御室浅間神社に伝えられる年代記で、富士北麓の中世から戦国期の 動向を知る上で、欠かせない史料である。 同書、享禄3年の条に小山田氏の居館であった中津森館が焼失、そして、2年後の天文元 年、小山田越中守信有によって、屋(谷)村に新たに居館が築かれたことが記されている。 以後、谷村は出羽守信有、信茂と3代50余年小山田氏による郡内支配の拠点となった。 同じく『勝山記』、翌天文2年(1533)の条には、「此ノ年屋村焼く」、また、弘治2年 (1556)から翌弘治3年の条に、小林尾張守、同和泉守らと下吉田衆との争いがあり、小山 田氏の裁決を求めて下吉田衆がしばしば「谷村へ下る」とある。永禄2年(1559)の条には 「谷村之御屋敷普請」とあり、小山田信茂によって、居館であった谷村の屋敷が、改築さ れたことが記されている。 このように、谷村は天文元年に小山田氏の居館が築かれたことにより、郡内の中心地と して、歴史の表舞台に登場することになったといえる。 それでは、それ以前はどうであったのであろうか。 古代には、都留市域の大半は、『和名抄』に記されている都留郡多良郷に属していたと 考えられている。(註2)この多良(田原)郷は、中世以降も引続き、史料中に登場する。 文亀元年(1501)11月15日の武田信昌判物には次にように記されている。(註3) 塩山向嶽寺領之事 右都留郡田原郷深田村之内、光沢分年貢銭廿七貫之在 所、於末代不可有違変者也、仍 証状如件 これは南北朝時代に守護武田信春によって向嶽寺に寄進された「都留郡田原郷深田村之 内、光沢分」の年貢を武田信昌が向嶽寺に安堵したものであるが、同様に文安2年(1445) の武田信重、明応8年(1499)の小山田信長などの安堵状も残されている。 当時の深田村が、どの程度の広がりを持っていたか不明であるが、現在も深田の地名が 残る下谷地区に存在したことは疑うべくもない。下谷地区には、平安時代の集落址である 鷹の巣遺跡滑岩遺跡、道生堀遺跡などが存在し、古代から開けた地であった。(註4) 一方、現在の田原地区も奈良・平安時代の集落址である三の側遺跡に見られるように古 代から開発が進んでいたものと思われる。また、かつて谷村工業高校のグランド付近は「 堀之内」という地名であったといわれており、これは一般的に中世の館址の存在を示す地 名とされていることから、小山田氏が谷村に進出する以前に、すでにこの周辺に誰かの館 が存在していたことを物語っている。(註5) こうしてみると、古代から開発が進んだ田原から上谷にかけての地域や、下谷地域の間 で、南北を山や桂川に挟まれた最も狭隘で、開発から取り残された所に、小山田氏は館を 築いたことになる。ここは、「谷」というイメージそのものといえる地域であり、まさ に、谷の村であった。 また、南側の蟻山の稜線には、尾根切りなどの城郭遺構も認められる他(註6)、桂川を 挟んで勝山城址もすでに小山田氏により要害として整備されるなど、この谷は、外的から 身を守るのに好都合な堅固な地であったのである。 小山田氏によって館が築かれたことにより、郡内の表舞台に登場した谷村は、その後も 鳥居氏、浅野氏、秋元氏などの郡内支配の拠点としての地位を保ち続けたのである。 ◇城下の旧町名 『甲斐国志』には、「文禄ノ頃マデハ上中下ト三町ナリ後別レテ数町トナル(中略)町 ニ入リテ東南ニ行クコト二町許り是ヲ横町ト云フ西南ニ折レテ下町・中町・新町・早馬町 ・上町・下天神町・上天神町・袋町・裏天神町、合セテ十町往昔ノ城下ノママニテ今存セ リ」とある。 同書により、谷村は浅野氏重が在城していた文禄年間、上・中・下の三つの町が存在 し、その後、秋元氏による城下町の整備によって、現在に繋がる町が形成されたことが 分かる。 横 町 陣門から真すぐ南北方向に延びる道の両側を横町という。横町の名称は、 下町、中町、新町など東西方向(タテ)に延びる町並みに対して、南北方向(ヨコ)に 建ち並ぶことから、そう呼ばれるようになったものと思われる。 宝永元年(1702)の「谷村城下町絵図」(註7)にも横町の名が認められ、享保10年 に制作された「城跡地地割絵図」(註8)には、41軒の家並み(茅葺家屋34軒、板葺家 屋7軒)が描かれている。横町の東側山麓には、西涼寺、専念寺,東漸寺の3か寺が建 ち並び、その南東側に位置する御獄神社が横町の産土神となっている。 横 町 横町は、現在は八朔祭りに加わっていないが、嘉永2年の「祭礼定式」には、「祭礼町方 供奉順」の中の第7番目に「横町 幡警固」として、その役割が記されている。(註9) 下 町 『甲斐国志』によれば、文禄以前より下町の名は存在していたとされる。一番 東側(富士山方向をカミと呼ぶのに対して大月方向をシモと呼ぶ)に位置することから、 下町と呼ばれるようになったものと思われる。城跡地地割絵図には、28軒(茅葺きのみ) の家並が描かれており、かつては、桂川淵の源正稲荷周辺まで下町の区域であったとされ る。 八朔祭には、「付祭屋台、尤休之年は幡警固にて供奉」したことが嘉永2年の祭礼定式に 記されている。屋台は葛飾北斎の下絵による飾幕によって豪華に彩られたものである。 下 町 仲 町 同じく『甲斐国志』によれば、文禄以前より仲(中)町の名は存在していたとされる。 下町と上町の間に位置することから、仲(中)町と呼ばれるようになったものと思われる。 城跡地地割絵図には、42軒(板葺きのみ)の家並が描かれている。 仲町も八朔祭には、「付祭屋台、尤休之年は幡警固にて供奉」したことが祭礼定式に記 されており、この屋台後幕は、鳥文斉藤原栄之の下絵によるものである。 仲町は、生出神社の氏子であるが、大神宮(仲町大神宮)の祭礼も執り行なっている。 仲町は、横町、下町と共に下谷村を構成した。 仲 町 新 町 文禄年間以降、新たにできた町という意味から新町と呼ばれるようになったも のと推察される。 「谷村城下絵図」には、下町、中町、上町と共に、新町の町名が記されており、秋元氏 の城下町づくりに伴い分出し、新たに成立したものと思われる。「城跡地地割絵図」に は、43軒(板葺きのみ)の家並が描かれている。 八朔祭には、「付祭屋台、尤休之年は幡警固にて供奉」したことが「祭礼定式」に記さ れている。 新 町 早馬町 谷村城の馬場が置かれていたことから、付けられた町名であるとされる。 「谷村城下絵図」には、早馬町の町名は認められないことから、天領期になって成立 した町と思われる。 「城跡地地割絵図」には、現在の区域に14軒の板葺き家屋と、18軒の茅葺き家屋の家 並びが描かれている。 八朔祭には、「付祭屋台、尤休之年は幡警固にて供奉」したことが「祭礼定式」に記 されており、屋台は平成元年地元の手で修復された。 上 町 文禄以前より上町の名は存在していたとされる。秋元氏の城下町整備に伴 い、街道沿いに連なって街村状に町屋が形成され、最も、上(富士山側)に位置するこ とから上町と名付けられたものと思われる。 「城跡地地割絵図」には、44軒の家並が描かれている。 上町は金山神社が産土神であるが、八朔祭の祭礼行列には幡警固の役として加わってい た。 下天神町・上天神町・裏天神町 町名は、鍛冶屋坂の天神社にちなむものであ る。 鍛冶屋坂の天神社は、天文13年(1544)に、小山田出羽守信有から天神社祢宜に宛て られた文書に「かち屋坂天神宮之林、不可切者也」(註10)と見えることなどから、戦 国期にはすでに存在していた。 この天神社から、街道に至る道を挟んで、上(富士山)側を上天神町、下側を下天神 町といい、上天神町の南側を裏天神町といった。 下天神町は生出神社であり、八朔祭の祭礼行列には付祭行列を担っていた。また、上 天神町と裏天神町は金山神社の氏子であるが、八朔祭の祭礼行列には幡警固の役として 加わっていた。現在、裏天神町は上天神町と同じ自治会となっているが、産土神は大室 神社とされる。この、下・上・裏天神町の区域は、「谷村城下絵図」、「城跡地地割絵 図」の双方の絵図にも、街道に沿って南側に2本、南北方向にも同じく2本の通りが設け られ、通りに沿って家並町が描かれている。 これは、横町から新町までが、街村状に町が連なっているのに対して、長方形状の街 区が形成されている。 早馬町・上町・下天神町・上天神町 袋 町 「城跡地地割絵図」に、下天神町の南側に、行き止まりの細い通りが描かれ ており、8軒程の茅葺きの家並みが描かれている。これが袋町で、路地は行き止まりで袋 小路であったことによる。(註11) ◇城下由縁の地名 谷村には、旧町名の他にも城下町にちなむ地名が、現在も認められる。 大手通り 裁判所前の通りを大手通りという。谷村城の表門が置かれたことからの 呼び名である。谷村城は、宝永元年(1704)、秋元氏が川越に転封の際、建物、石垣、 堀など跡形もなく、ことごとく破却されたため、当時の威容を偲ぶことはできないが、 「谷村城下絵図」には、大手通りに石垣と門が描かれている。 三の丸 市役所から高尾公園までの、家中川と桂川の間隙に谷村城が築かれていた。 『甲斐国志』には、市役所付近から本丸、二の丸、三の丸が、横に連なっていたことが 記されている。 高尾公園の東側に、明治36年谷村電灯株式会社によって三の丸発電所が建設された が、この三の丸も谷村城の三の丸からきた地名である。 家中川・寺川・中川 秋元泰朝が、寛永10年(1633)、上州総社より秋元泰朝 が郡内に入部し、城下町の整備がおこなわれたが、この折り、生活用水の確保や、潅漑 のため、谷村大堰が開削された。十日市場から、南側に迂回し、山付を通り寺町を流れ る寺川、ほぼ真っ直ぐ城下に至り谷村城の堀となる家中川、寺川と家中川の間を流れる 中川の三つの川が、谷村を流れている。家中川は、秋元家家臣の屋敷地を流れているこ とから、名付けられたとされる。 宝永元年(1704)、秋元氏が川越に転封となり、家臣団の屋敷破取り壊されて、畑へ と姿を変え、これを家中畑と呼ばれたのも、同じ理由からである。 鍛冶坂 上天神町から三吉・開地方面に至る坂を鍛冶屋坂という。鍛冶屋坂は、天 文13年(1544)の小山田出羽守信有文書にも認めれ、また、源頼朝の富士巻狩りの折、 弓矢の制作を命じられ、谷村の鍛冶屋七郎左衛門が、数百本を献納したところ、その矢 が世にも稀な程切れるということで、稀代の姓を賜り、以後この付近が鍛冶師の集落と して栄え、鍛冶屋坂の地名が生まれたとする伝説も伝えられている。いずれにしても、 中世にまで遡る地名といえる。 陣 門 「谷村城下絵図」には、横町側からの城下への入口に門が描かれており、 チンモン(陣門)と記されている。ここは、城下町への往来の監視と警備がおこなわれ たところで、現在の横町の交差点に位置する。ここに、堀の役割となる水路が東流し、 幅九尺、長さ2間の石橋が架けられていた。 註1 『都留市市資料編 古代・中世・近世T』163頁参照 2 『都留市市資料編 古代・中世・近世T』4頁参照 3 『都留市市資料編 古代・中世・近世T』38頁参照 4 鷹の巣遺跡『都留市市資料編 地史・考古』508〜534頁参照 5 川鍋定男『都留市市通史編』第三章村の成り立ち295頁 6 『都留市市資料編 古代・中世・近世T』209〜211頁参照 7 『都留市市資料編 都留郡村絵図・村明細帳集』11頁参照 8 『都留市市資料編 都留郡村絵図・村明細帳集』13頁参照 9 『都留市市資料編 近世U』 130〜137頁 参照 10『都留市市資料編 古代・中世・近世T』 51頁参照 11 安藤千鶴子「谷村の町並み」『郡内研究 第8号』85頁 |
| 【詳しく知りたい人】 奈良泰史「谷村城下町の地名」『郡内研究第10号』 2000 都留市郷土研究会 |