2014年     


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 24日【岩屋寺】
【waiwai記】
 一昨日に続いて、四国のみち≪root10≫の一部区間の古岩屋から岩屋寺(第45番札所)のへんろ道を辿ってみることとした。ネットにて入手したルート図によると、古岩屋〜八丁坂入口休憩地(1.0km)〜八丁坂休憩地(0.6km)〜岩屋寺(2.0km)である。先日に続いて相棒はカメラと三脚を持って歩くようだが、さてどうなることか?

四国のみち(愛媛)PDF版【root10(山里のへんろ道)】

  
 いつも寄る久万町にあるコンビニでは昼食の弁当は買わなかった。「どうせ、古岩屋から歩くんだったら国民宿舎・古岩屋荘で昼食にして、その後、歩こうか」と、コンビニではおやつだけを入手したのだった。11時過ぎには古岩屋に着いたが、そんな計画をあざ笑うかのように、古岩屋荘では「今日は団体さんが入っていますので、少々お待ち願います」というような張り出しがある。相棒は「わざわざ弁当を買ってこなかったのに、食べさせてくれないの?」と、フロントマンに食いついている。そのフロントマンは「少々お待ち頂くことになりますが、受付の近くで30分ほどお待ち願います」という事なので、受付表に名前を書いてソファーで待つこととした。結局、25分ほどで昼食のテーブルに着く。

   
 昼食を終え古岩屋の遊歩道を歩き始めたのは、12時20分だった。この遊歩道は過去に数回訪れている。一番の最近の訪問となったのは病気の発覚直前の2013年8月だった。洞窟に安置されている不動明王は、日差しがきつくない日の方が中までよく見える。辺りは落葉も進んでおり、ぎっしりと落ち葉の絨毯に敷き詰められている。路は林道と交わったりしながらも、続いていた。少し歩くと、すっかり沢幅も小さくなってきて目前には左岸から右岸に路が続いていた。

  
 林道にぶつ切りにされながらも、路は明瞭だ。前方に標識が見えるとお遍路さんが先行していった。その標識の場所が≪八丁坂入口休憩地≫で、12時50分だった。へんろ道の案内や四国のみちの標識などがある。先ほど通過したお遍路さんはもう姿は見えなくなっていた。林道風に整備された路は、やがて山道へと変わって行った。もちろん、案内は明確で迷う事は無い。

  
 急坂が続く路は、九十九折れに続いていた。良く整備された道を、小生は相変わらず息せき切っての歩みである。すると、上の方から鈴の音が“チリンチリン”と近付いてきた。鈴の音の主は単独の女性で、走り下りて来たのだった。≪八丁坂頂上休憩地≫へ着いたのは、13時15分だった。ここで相棒は「ちょっと撮影してみよう」と三脚を立て、ザックからカメラを取りだした。

   
 10分ほどに撮影を終え、再び歩き出した。北の方角が見渡せる場所からは顕著な山が垣間見える。その姿から直ぐに石墨山と特定出来た。松山平野からはその姿は容易に認めることは出来ないが、久万の郷から見える山容は実に立派なものだ。所々で植林が途切れた場所では、その日差しにほっとする。この時期は黄葉の灯りが植林の森を照らしている。どこの遍路道も同様に、行く先々にお地蔵さんが置かれている。

   
 細く尾根状になった個所で「ちょっと撮影するから」と、三脚を出した。『あ〜でもない、こ〜でもない』と何枚かシャッターを押している間に、またしても“チリーン・チリーン”と鈴の音が近づいて来た。そのすずの音の主も単独の女性だった。先ほどの女性と云い、今度の女性も小走りで去って行く。これでは“歩き遍路”じゃなくて、“小走り遍路”じゃないか。そこから暫らくの≪33王子≫が祀られている降りにさしかかったのは、14時過ぎだった。そして、またしても鈴の音が降りて来た。今度は、先達と思われるジイサンに連れられた女性二人の三人組だった。私たちが道を譲ろうと除けていた33王子が祀られている場所へと行くようだった。先達は危なっかしいロープに「これを掴んで登るよう」指示していたのだが、山登りとお遍路巡りでは少々歩き方も違っているのだろう。

  
 修験の岩がある「逼割禅定(せりわりぜんじょう)」へは、門の鍵を借らないと行けない。その前で中年ペアがなんやら話していたが、相棒も早速その仲間に加わっていたのだった。それは「先日、女優の誰やらがここへ登っていましたね」との話しかけで「あぁ〜、おしんの小林綾子さんね」と話は続くのでした。私はオバサンどうしの会話には参加出来ません。

  
 山門に降りて来たのは14時40分だった。山門脇には
≪第45番岩屋寺
 弘法大師以前に法華仙人という女修行者が籠って
 いたといわれます。鎌倉時代、一遍上人が参籠したこ
 とで有名です。四国巡拝の道筋が南予の海辺から瀬
 戸内の海岸へ移る転回点を占めています。
  海抜650mに位置し、寺名は勿論、「七鳥」の地名、
 「海岸山」の山号そのままに大自然との一体感を味わ
える霊場です。≫との立て看板がある。

 
 山門にある石碑には
≪当山の縁起は 弘仁6年(815年=平安時代)に、弘法大師がかつて修行の霊地を求めて投げていた明王鈴の音をたよりに当山に巡錫されて
 
   「山高き 谷の朝霧 海に似て 松吹く風を 波にたとえん」

       と詠われ 山号を 海岸山岩屋寺(かいがんざんいわやじ) と名づけ、自ら不動明王を刻んで開封されたものであります。
 ※海岸山は山中の霧を海にたとえて詠まれたものである。

   本 尊    不動明王 弘法大師御作
   開 基     弘法大師 
宗 派 真言宗豊山派≫と記されている。 

  また、≪弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は、山中で神通力を備えた法華仙人という女性に出会う。仙人は空海に帰依して山を献上する。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立して本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊とした≫と伝えられている。

  
 さて岩屋寺を後にして四国のみちは古岩屋トンネルの道路と違って続いていた。しかし、その道を見付けれないままに旧道を歩いて行くと川向こうにそれらしき路を発見。しかし、その路は藪に覆われた道で、橋の袂には
≪お知らせ
 この先の四国のみちは
 大規模落石のため通行止め
 としております。
 ご迷惑をおかけしていますが、
 県道を迂回していただきます
 ようお願いいたします。
    愛媛県≫  との標識が掛けられていました。再びの古岩屋には16時に帰り着いたのだった。

  
 そして帰路、畑の川集落では田圃の中の“かかしコンクール”が出迎えてくれた。


 22日【三坂峠】
【waiwai記】
 今日は『四国のみち』(四国のみち(しこくのみち)は、四国全域にある歴史・文化指向の国土交通省ルート(約1300km)と、長距離自然歩道構想に基づく自然指向の環境省ルート「四国自然歩道」(約1,600km)からなる遊歩道である。起点はなると公園の孫崎展望台の横に設置されている。終点は徳島県板野郡板野町。以上、Wikipediaより)の奥久谷から三坂峠の遍路道を歩いてみることにした。路は御坂川沿いに、桜集落まで車を利用し、デポする場所を探して・・・が、集落の入り口付近で迂回路の表示とガードマンが案内している。そのガードマンは、奥久谷から三坂峠へと向かう道へと誘導したのだった。

四国のみち(愛媛)PDF版【root12(旧道三坂峠を下る道)】


 結局、桜集落への入り口は車では乗り入れないようなので、適当な場所に車をデポした。集落の入り口には遍路道の案内と、“坂本屋”の案内もある。相棒が「お接待しているかも?」と話しかけてきた。また道路脇には常夜灯が建っている。集落入り口の工事中の場所は、道路の半分ぐらいが崩落していて修復作業中だ。

  
 ここで集落の中を通る『四国のみち』は、遍路道だ。既に、11時になっていた。暫らく進むと前方に“坂本屋”の看板が見えて来た。近づくと中から「あっ、お遍路さんが来た。どうぞ、お茶でも飲んで行って。」と言われたが「私達はお遍路さんじゃありません。遊びにきているので・・」と応えたのだが、どうも様子が変・・ NHKのTVクルーが取材に来ていたのだった。結局お茶とみかんを勧められて、休んで行く事となった。

  
 10分余りの休憩を終え、三坂峠へと出発。するとすぐ先でお遍路さんがTVクルーを従えて降りて来た。「あれだけ後を付けられたら嫌じゃなぁ〜」と言いながら、見送った。少し行くと道端の、ここかしこにお地蔵さんが建てられている。相棒が「さっきお接待で頂いたみかんを食べよう」と、祠で休憩とした。小休後、再出発は11時40分だ。ここまではコンクリートの道だが、ここからは山道になる。

  
 路は植林の中に続いている。ケヤキだろうか、立派な木が道端に立っている。開けた場所で振り返ると、いつも三坂峠へ上がる時に使う“奥久谷”からの道路を走っていると見える顕著な形をした岩山が見えて来た。この辺りから路が明るくなったのは、落葉樹が多くなったせいだ。上の方で『ガァ〜』と音がしているのは、チェーンソーの音だろうか?

  
 やがてヘヤピンの落ち葉の個所に立派に黄葉した木(かえで類であろう)があり、その側には記念碑や案内板があった。その標識には“鍋割坂”と命名されていた。もう、12時半になっていたのだが、高度計を見ると600mを越えていたので、峠まで登ってから昼食とすることとした。

  
 ヘヤピンを曲がると、その先に作業中の人が居た。先ほどのチェーンソーの音の主だった。道に被さった木の間伐をしているようで、松山市内が一望できる場所を開いていた様子だった。そのオジサンは「あそこらへんに松山城が見えるんですが、今日は霞んでいてよう判らんね」などと、案内してくれる。また聞きもしないのに、「こちら(久万高原町)に夫婦で帰省して来たので、“まだ若いのでボランティアでもしたらいい”と言われて、道の整備をしている」と、言い「私ももう80歳になるので、引退をする年なんじゃけど・・」と次々に話しかけられるのでした。その間、“チリンチリン”の鈴の音がしてお遍路さんが降りて来た。結局、登りに会ったお遍路さんは二人だけだった。

  
 オジサンに「先を急ぎます」と別れて歩くと、直ぐに三坂峠に躍り出た。その看板には『≪三坂峠≫(標高720m) 伊予と土佐を結ぶ土佐海道にある急峻な峠です。江戸初期に久万の聖人山之内仰西によって拓かれました。明治二十七年に三坂新道(国道33号)ができるまで、この道が松山と久万を結ぶ主要道でした。峠からは松山平野が一望でき、茶屋もあり、久万山馬子や四国遍路をはじめ多くの旅人が行き交ったことが絵図からも分かります』と、四国巡礼名所図會(寛政12年)の図が描かれている。もう、12時45分になっている。坂本屋さんでは、三坂峠まで“一時間ほどで・・”と言われたが、病後の体ゆえ、一時間半は要した。
  
 三坂峠にあった眺望良好のレストラン『あうん』が閉店して久しいようだ。玄関のドア越しに覗くと松山市が一望できた。新三坂道路が開通してもう二年となるのだが、新道が出来る以前から閉店していたのかどうかはっきりとはしない。旧レストランの玄関で20分ほどの昼食休憩のあと引き返すこととした。13時20分だった。


 降りは淡々と歩くのみで、チェーンソーのオジサンにも挨拶だけで先を急いだ。登りの際にも休んだお堂で、コーヒータイムとした。そして、往きに寄った坂本屋には朝方お遍路さんについて降りてきた方のクルーが居た。単独の女性のお遍路さんに会わなかったか?と聞かれたが、やはり絵になるのはそういう人なんだろう。私たちのような歳のペアなどには興味が無いのだ。車は三坂峠に置いているそうだが「どうするの?」には、誰かが取りに戻るとの事だ。「貴方たち若いし、一時間ちょっとで戻れるから、歩いて戻ったら・・」と言ったのだが、迎えの車が来たようだった。工事中の道路の崩落は、自然災害でもなく崩れたそうだ。住宅の被害が無い分だけでも良かったと言える。愛車のデポ場所に戻ったのは14時50分だった。


 18日【天狗の庭】
 おっちゃんが皿ヶ嶺に行こうかと言うのだが、まだまだ一気に山に登るのは不安だと、天狗の庭を散策する事にした。

  
 いつものコンビニで、おっちゃんは相変わらず助六寿司を買い私はチーズとトマトのバジルチキンご飯を買う。上林集落を過ぎて林道に入るカーブの所で拡幅工事をしている。そこから少し行った所ののり面も工事中だ。水の元には一台も車は停まってなかった。丁度12時になったので、日当たりのいい所で弁当を食べる。

 
 12時25分に天狗の庭に出発。作業道の急坂で早くもおっちゃんの息があがる。おっちゃんが先日、主治医の先生に言っていたのがこのことなのか・・・心肺機能が弱っているのだな。咲き終わった白いホタルブクロの下の方に新たな蕾が出来て花が咲いている。マムシ草の赤い実が残っていた。

  
 天狗の庭は、木々の葉も落ちて明るくなっている。

 
 林道に上がると、『林道工事中、立入禁止』の看板がある。8月に上林峠までの登山道を歩いた時に下にこの林道が見えたので確認をすることに・・・自己責任で少し行って見ることにした。トラックとユンボが道路脇に停まっているが、作業員の姿はない。

  
 この林道は新たに作ったのではないのが、古い石垣があることでわかる。上林峠の下の辺りを少し過ぎたあたりで林道は終点だった。この辺りには植林はあまりされてないのに、林道の整備をするのは何故なんだろう。林道の途切れたずっと向うには植林帯があるので、そこまで伸ばすのだろうか。結局、往復20分で元の分岐に戻って来る。林道脇のツチアケビはまだ健在だ。

  
 新たに整備された林道をそのまま上林林道に出て、風穴へと上林林道を歩く。道路から見上げると、今の時期だからこそ見える立派な大木が聳えている。風穴の紅葉は丁度良い具合だ。

  
 風穴にも、一台の車も停まっておらず人もいない。ベンチでコーヒーを入れて飲み、ゆったりとする。

  
 駐車場横のトイレ脇のドウダンツツジの紅葉が真っ赤だ。風穴から水の元の登山道も、今の季節は歩きやすい。堰堤の所に『あぶないから 入ってはいけません』と書かれている看板が立て掛けてあるが、前からあったかな〜。14時25分に車に戻る。2時間ほどの散策だった。帰路、車のテレビ番組で、高倉健さんが悪性リンパ腫で11月10日に亡くなっていたと言っている。おっちゃんと同病なのだが、悪性リンパ腫にもいろいろな種類があり、健さんの闘病の事については、マスコミには明かされいないようだ。


 16日【滑川渓谷】
 おっちゃんが10月24日に退院し、私の「精霊の森 森遍路」写真展の巡回展、東京・大阪を終えフジグラン松山(10月30日〜11月3日)での地元開催も終わった。諸々の後片付けも済んだのでそろそろ身体を動かしたい・・・。ここ二日は寒さが半端なかったので家にこもっていたが、小春日和の今日、山は無理(主治医にきつく言い渡されている)でも滑川渓谷の遊歩道ならと出掛ける。

  
 10時にコンビニで助六寿司を買い、まずは道前道後第三発電所のイチョウ並木に行ってみる。先客のカメラマンが一生懸命に撮影中だ。潰れた銀杏を踏むと臭い。ロケハンを済ませ滑川渓谷に車を走らせる。途中の渓谷の紅葉はまあまあの色付きだ。

  
 車を時々停めて、徒歩で散策。下仲屋の光明寺のイチョウがちょうどいい具合だったので見に行く。何年前か、大阪から帰省した際にも寄り道をした神社だったが、この下にある趣のある学校は新しくなっていたようだった。滑川渓谷の手前の道路脇のカーブミラーでツーショット。

  
 滑川渓谷の駐車場は満杯だろうと、途中の道路脇に駐車していると、車が下りて来たので聞いてみる。私が出たので開いているとの事で駐車場に停める事が出来た。渓谷に下りるまでの紅葉は色づいているものの、渓谷の中は日当たりが悪い為か全然色づいていない。日曜日とあって、観光の家族連れとかカップルはボツボツ来ているんだけど、賑わってはいない。

  

 渓谷の中は土砂で埋もれたのか以前の面影はないな〜。おっちゃんは遅れ気味だ。やっぱり、まだ体力が弱っているのだな。ヘモグロビンは12.7(正常値13.5〜17)と大分回復しているんだけど・・・。日当たりの良い所でお昼にしようと奥へ行くも結局なかった。奥の滝の近くで持ってきたお湯でインスタントの味噌汁を作り助六寿司を食べる。12時30分に奥の滝から帰る。熊の爪の辺りから左岸沿いの植林帯の道を辿ると、駐車場側のトイレの横に出た。

 自家末梢血幹細胞移植をして最初の散策だから、これぐらいで丁度良いよね。おっちゃん!