あかとんぼ  作詞 三木露風  作曲 山田耕筰

           ゆうやけこやけのあかとんぼ
         おわれてみたのは、いつの日か


           山の畑の桑(くわ)の実を
          子籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか

          十五で姐(ねえ)やは、嫁にゆき
          お里のたよりも、絶えはてた

          ゆうやけこやけのあかとんぼ
          とまっているよ、竿(さお)の先

        

文部省唱歌にもなっている有名な歌ですね。「おわれて」というのは、「おんぶされて」という意味なのですが、情景つきで、よりわかりやすく表現するなら、「あたり一面を赤くそめるようなような夕焼けのなか、赤とんぼが飛んでいる。おんぶされて観たのは、いつのことであっただろうか。」となります。そして、この姐や(ねえや)というのは、お姉さんのことではなく、歌の主人公の家に奉公にきていた、いわば「お手伝いさん」の女性のことであると、されています。この人が「15歳でお嫁にいく」のですから、この女性(ひと)は、当時すくなくとも15歳未満、おおむね小学校高学年12歳前後の子供ということになります。
主人公は、この姐や(ねえや)におんぶされて、上の絵のような情景をみていたことを、この歌にしたのか?
については、いろいろ議論があるようです。文面からは、想像ですが、12歳前後の少女が幼き子をおんぶして、あやしながら夕暮れ時に竿の先にとまる「あかとんぼ」を見せているという、古き「日本」の情景が思い浮かびます。私も、和田典子さんが書かれた「三木露風、赤とんぼの情景」(1999年発行、在庫はもう僅少である)を読む前までは、「この姐や(ねえや)におぶってもらって、赤とんぼをみていた」と思っていました。しかし、彼女が書かれたこの本で、およそ3歳で母親から別離する運命にあったこと、いつも山のむこうにいってしまった母親に会いたいと思って、一人山の畑にいたこと、そして『樫の実』に初めて発表された「赤蜻蛉(あかとんぼ)」の最初の文体は、以下のようなもので、現在の歌になっているものとは、違ったものであったことを知り、実は「負われていたのは」母親で、彼はそれを思い、歌にしたのだ、と思うようになりました。

赤蜻蛉(あかとんぼ)
夕焼、小焼の、山の空
負われて見たのはまぼろしか

山の畑の、桑の実を、
小籠に摘んだは、いつの日か

十五で姐や(ねえや)は嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた

夕やけ、こやけの赤とんぼ
とまってゐるよ、竿の先

夕焼け時に、母親と桑の実を摘んだ幻のような幸福な時間、それを露風はずっと恋し、その幻をみるように,思いあこがれたのでしょう。
大人になって、ふと、夕焼けの窓の外を眺めたとき、一瞬その「思い」が数十年の時空を経て、回想シーンとなってよみがえり、この詩を書いたと想像できます。

「十五で姐や(ねえや)は嫁に行き」とありますから、母親のみならず、自分をいたわってくれた姐や(ねえや)までもが、十五で嫁にいってしまい、露風は、二回目の孤独を味わうことになる。初めて発表された文体からは、そのように想像できます。
「姐や(ねえや)」の存在も大きく、いっしょに、「山の畑の桑の木から、実を摘み取り、小籠にいれた」、「こんな風にして、遊んでもらった」のかもしれません。、夕方、赤とんぼの舞うのをみると、今でもこんな光景が鮮明に脳裏によみがえる。主人公はこのようにして、幼きころをすごしたということなのでしょう。秋深まっていくこの時期に、赤とんぼの舞う姿をみるとき、この歌を口ずさみ、人それぞれなんらかの思い出が回想される点で、この歌は大変、すぐれた作品であるとおもいます。最近、インターネット上でもこの歌についての、さまざまな議論があるようです。背景には、失われつつある「日本の古き良きもの」を、もう一度見つめなおそうとか、作者の歌にまつわるエピソードが意外と未知のままで、一般に知られていないという現実があり、当時の社会情勢の中の人々の気持ちに触れてみようとする、新しい潮流があるように思います。


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