弁護士佃克彦の事件ファイル

「石に泳ぐ魚」出版差止事件

PARTV

 Aさんは、柳美里さんや出版社を相手に、「石に泳ぐ魚」の改訂版の出版差止と慰謝料の支払いを求める訴訟を提起し、その審理は東京地方裁判所民事38部で97年3月から始まりました。

柳美里さん側の主張

 こちら側は訴訟で、「石に泳ぐ魚」の副主人公の属性はAさんそのものであり、読者はこのモデルがAさんだと受け止め、この副主人公について書かれていることがAさんのことだと思ってしまう、だから、副主人公について書かれている種々のひどい記載は、Aさんに対する名誉毀損やプライバシー侵害、そして名誉感情侵害につながる、と主張しました。
 これに対して柳美里さん側は、文学論のような反論を展開してきました。
 いわく……「石に泳ぐ魚」は純文学である。純文学は、作者の世界を呈示するものである。だから、仮に小説の登場人物に実在するモデルの要素があったとしても、それは作者の世界の存在であって、実在する人物とは別である。極論すれば、作者の実生活をそのまま書いていても、それが純文学である限り、現実世界とは異なる世界を書いたものなのだ。したがって、「石に泳ぐ魚」の副主人公の属性がAさんのそれと同じだとしても、Aさんとは別の世界、作者の世界の存在なのだから、Aさんに権利侵害が起こることはありえない。……
 さて、皆さんはこの主張をどのように受け止めるでしょうか。柳美里さん側の主張は一見筋が通っているようにみえますが、つまるところ、“「石に泳ぐ魚」は純文学だ”という一般論を唯一の拠りどころとするものです。
 しかし、「純文学」とは何なのでしょう? なぜ「石に泳ぐ魚」は純文学といえるのでしょう? そもそも、なぜ「純文学」だと、“実生活をそのまま書いても現実世界と別だ”といえるのでしょう? はたまた、
 重要なのは、その小説がいかなるジャンルに分けられるかという一般論ではなく、小説の中の具体的な記載であるはずです。その具体的な記載において小説の芸術的な昇華が十分であれば、もちろん読者の誰も小説から現実の人を意識しないでしょう。しかし、具体的な記載において現実の引き写しのような書き方であれば、読者は、モデルとされた現実の人を意識して読むことになるでしょう。
 これは結局、読者がその小説をどのように読み、受け止めるかによってしか決められないことです。そしてこの「石に泳ぐ魚」の場合、この副主人公を読者はAさんしか読みようがない、というのが我われの主張なのです。
 書く側でいくら自分の作品が「純文学」だと標榜しても、問題は中身であり、その中身を読んで判断するのは読者なのです。

出版社の主張

 出版社は柳美里さんとはまた別の反論をしてきました。
 いわく、…「石に泳ぐ魚」のテーマは、「困難に満ちた〈生〉をいかに生き抜くか」ということである。そして、「困難に満ちた〈生〉をいかに生き抜くか」という命題は、人間にとって普遍的で重要な問題であり、社会の正当な関心事である。テーマが社会の正当な関心事である以上、この小説に不法行為は成立しない。…
 たしかに、「社会の正当な関心事」である限り名誉毀損の責任は生じない、という法理論はあります。たとえば「政治家○田△夫が××商事からわいろを受け取った」という事実は、社会全体で問題とすべき事柄であるという意味においてまさに社会の正当な関心事なので、○田△夫さんに関してメディアがこの事実を報じても名誉毀損の責任を負わない、ということになります。
 しかし、「社会の正当な関心事」かどうかは、政治家のこの例のように、具体的な事実がこれにあたるか否か、という問題なのであって、小説やルポルタージュの一般的抽象的なテーマがこれにあたるかという問題ではありません。それにそもそも、「石に泳ぐ魚」のテーマが「困難に満ちた〈生〉をいかに生き抜くか」であるということ自体、執筆者側の単なる主観に過ぎないといわざるを得ないでしょう。

 訴訟ではこのような当事者双方の応酬が何度も続けられました。そのような主張の応酬が続けられていた最中の95年11月、Aさんに追い討ちをかけるような事件が起きました。柳美里さんによる「表現のエチカ」の執筆です。

つづく

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