『歴史の中のロシア革命とソ連』に関する若干の補足と反省
 
 
はじめに
 
 拙著『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎、2020年8月。以下、「有志舎本」と記す)が刊行されてから半年ほどの時間が経った。何人かの方々から批評を受ける機会もあったが*1、その間、私は前著に続く拙著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(東京大学出版会、2021年)の最終仕上げおよび校正にかかりきりだったため、有志舎本について考え直したり、批評に応答しているいとまがなかった。このほど、ようやく『国家の解体』の刊行に漕ぎ着けて、時間的余裕が多少生じたが、たまたまそういうタイミングで有志舎本に関する合評会が催されたことから*2、この機会に同書がどういう特徴や限界を持つものだったかを反省し、あわせて批評にも応えてみようと思うに至った。なお、注1に挙げた一連の批評はそれぞれに観点や力点を異にしつつも、かなりの程度重なりあう問題を出している。そこで、この小文では個々の批評に一対一的に応答する形をとるのではなく、これらの批評に含まれている様々な論点を私なりに整理し直して、拙著では十分詰められていなかった要素を含めて考え直すことを試みたい(合評会の場で出された質問への応答は末尾の「補論 若干の追加的論点」で記した)。
 
1 全般にわたる特徴と限界
 
 有志舎本は「あとがき」にも記したように、比較的最近私が書いた文章を集めた論文集である。相対的に古い時期に属する第3章と第7章でも初出から15年以内であり、それ以外は初出から10年以内の文章である(言い換えれば、全ての章がソ連解体後10年以上経ってからの執筆ということになる)。高齢の研究者が過去の仕事をとりまとめて編む論文集はもっと長い期間にわたる作品を収録することがよくあるが、本書の場合、それほど古い文章を収めることはしなかった。一つの理由は、私がまだそれほどの高齢ではなく、「現役」のつもりでいるからだが、それが全てではない。
 古い時期の研究というものは、「最先端」の研究に比べればもちろん種々の限界や欠点を持つが、史学史的観点からするならば、今や「古い」と見なされるような研究といえども単純に忘れ去るのではなく、それなりの位置づけを与えて再考したり反芻したりすることにそれなりの意味がある――少なくとも執筆者自身にとっては――はずである。私自身、構想の段階では、もう少し古いものも入れようかと考えたこともあった。ところが、この間のロシア・ソ連史研究をめぐる知的環境の変化があまりにも著しいことから、ある程度以上古い作品を収めようとするなら――ペレストロイカ以前のものはもとより、ペレストロイカ期ないしその直後のものでさえも――長大かつ詳細な補足説明を付けないと今では読者に理解されにくいだろうということに気づき、新著準備で忙しい中でそうした作業を行なってはいられないことから、それは断念し、相対的に古めの第3章と第7章に短い「追記」を付けるにとどめた。
 結果として、この論文集に収録した文章の多くは、ロシア革命100周年(2017年)前後の時期の作品ということになった。その時期に私は新著『国家の解体』の準備作業を進めつつあったが、その最中に100周年のアニヴァーサリーにぶつかって、いくつかの文章を書いたり、研究会やシンポジウムで発言したりしたことは、新著準備の観点からは「余計な負担」となったが、新著のテーマを長期的なパースペクティヴの中に位置づけて考える機会になったという意味では、それなりに有意義な作業でもあった。
 そうした事情から、有志舎本は『国家の解体』の背後にある問題関心を色濃く反映するものとなった。それが最もストレートに現われているのは第二部だが、長期の歴史を扱った第一部にも、かなりの程度同様のことが当てはまる。具体的に言うなら、第1章では革命100周年を意識して「1917年」についてもある程度論じたとはいえ、「1991年」との意外な共通性という論点を特に重視した(「補論」の2も参照)。また第2章では、現代を「ポスト社会主義の時代」と捉えた上で、それでもソ連史について考えることの意味がどこにあるのかという問題を取り上げたが、ここでもソ連末期の「改革」およびその挫折の意味という問題を重視した。逆にいえば、1920-40年代のネップ、スターリン時代、独ソ戦などといった大テーマについてはほとんど触れずに済ますことになった。もちろん、これらのテーマがどうでもよいなどと考えているわけではない。私自身、不十分ながらそうしたテーマについて以前に取り組んだことがあるし、その後も他の研究者たちによって進められている新しい仕事を尊重している。ただ、現在の私の問題意識からするなら、それらのテーマについては私自身の旧稿や他の人たちの仕事に委ね、とりあえずの焦点をソ連末期に置きたいという思いがあり、それがこのような組み立て方に反映したわけである。
 現在の私の問題意識を直截に反映している第二部について考える前に、最後に配置した第三部についても簡単に触れておきたい。史学史というジャンルは私の中心テーマではないが、それでも、この間ずっと私の脳裏に一貫してあったものである。内容的にはまだまだ不十分なものではあるが、第7章と第8章はそれなりに力を込めて書いたものだし、第9章は短文ながら愛着があり、できることならば今後発展させたいという思いがある。
 第8章のE・H・カー論について簡単に補足するなら、この章の一つの眼目は、カーをドイッチャー寄りかつマルクス主義寄りに解釈する溪内謙の見地への異議申し立てにあった。カーは冷戦期の英米言論界における主流的動向への反抗心から相対的に「親ソ的」であるかに見える態度をとったが、その「親ソ」性――あるいは、「反・反ソ」性――は、ドイッチャー的な革命的理想主義に基づくものではなく、彼一流のリアリズム――どこまで本当にリアルだったかは争われるにしても、とにかく彼の自意識としては――に基づいていたというのが私の解釈である。このようなカー観は、私自身の現在の問題意識を反映している*3
 
2 第二部をめぐって――「軟着陸」路線の評価
 
 さて、有志舎本の中で最も大きな位置を占めているのが第二部であることはいうまでもない。そのうち「第二部へのまえがき」および第3章は長期の歴史の中に末期のソ連を位置づけようとする試みであり、第一部や第三部と第4−6章を結びつける狙いをもっている。そして、全体の中心的な位置を占めているのは第4-6章(量的に最大なのは第6章*4)だということは見ての通りである。これまでにあらわれた各種論評(前注1)も、この部分に力点をおいた批評を提出している。これ以外の章にも私なりの独自な思いつきの要素がなくはないので、それらを無視されるのはやや寂しい気もするが、とにかくこの部分に即して集中的に批評が出されるのは当然のことである。
 ソ連史の遅い時期に力点をおくということは、ソ連体制およびソ連国家がどのようにして終末を迎えたかという問題*5への関心を中心に置くという意味を持つ。なお、いま「どのようにして」という言葉を使い、「なぜ」という言葉を使わなかったのには理由がある。一般論として、「どのようにして(How)」という問いと「なぜ(Why)」という問いは、密接な相互関係にあるとはいえ、単純に同一視することはできない。前者への回答は、生起した事実およびそれにまつわる言説やイメージをなるべく精密に、かつ分かりやすく整理した形で提示する作業によって果たされる。この「分かりやすく整理した形」ということの中には因果関係の要素もある程度含まれるが、それを正面に出すわけではない。因果関係自体を前面に押し出すのは「なぜ」の方である。では、この両者の関係についてどう考えるべきだろうか*6
 「単なる事実の羅列は意味がない。因果関係を解明してこそ有意味な議論となるのだ」ということがよく言われる。確かに、もし明快な因果連関を打ち立てることができるなら、それに越したことはないかもしれない。それを求める欲求も強い*7。しかし、複雑な事象の塊である歴史においては、明快な因果関係を突き止めることができないことが多い。結果的現実を生み出すのが単一の原因であるとは限らず、様々な原因が複合的に絡み合っていることも多い。また、「結果的現実」と思われていたものが実は単一ではなく複合的であって、それぞれに異なった原因――これも複数ある――が対応するということもある*8。「サイエンス」風の社会科学においては、対象を特定の角度から切り取って、その限りにおける因果関係を論じることが目指されるが、複合的な現象をその複雑性のままに捉えようとする歴史学においては、「なぜ」ということを完全に無視するわけではないにしても、とりあえず「どのようにして」という問いに答えることが中心課題となる。そして、「どのように」という問いを突き詰めることは、当初単純に見えた現象を腑分けして、いくつかの異なった問いに分解することを可能にする。ある程度の確度で因果を論じられるのは、そのように分解された問いに対してであって、腑分けを欠いた漠然たる主題について因果を定立しようとするのはしばしばミスリーディングである。
 以上に述べたような考慮に基づき、有志舎本では「ソ連体制およびソ連国家はどのようにして終末を迎えたか」という問いに対して単一の答えを出すのではなく、重層的に論を積み重ねる作業を試みた。第3章で「後期社会主義」という概念を出し、第4章で「ペレストロイカの初期・中期・末期」という区分を出したのは、単なる時期区分の問題にとどまるものではなく、「どのようにして終末を迎えたか」という問い自体が時期によって様相を異にし、異なる問題状況が積み重なって終末に至ったのではないかという仮説を背後にもっている。
 ソ連の終末は必然だったか否か、それは自然な成り行きという意味での「自壊」だったのか、他の道がありえたか等々の問いがしばしば出されるが、これはそもそも無限定に答えられる問いではない。ソ連史の全体を念頭におくのか、そのうちの「後期社会主義」の局面に注目するのか、「後期」の中でもペレストロイカ開始後を取り上げるのか、さらにペレストロイカの中でも初期、中期、後期(さらには最末期)のどの局面に注目するかによって答え方が異なってくる。有志舎本の組み立ての背後にあったのは、このような発想だった*9
 さて、第3章で論じたように、「後期社会主義」においては、イデオロギーの空洞化・儀礼化が強まった。だからといって、イデオロギーが単純に無意味化したというわけではない。儀礼には儀礼なりの意味があり、それなりの強靱性を保持していたから、これが直ちに危機をもたらしたわけではなく、むしろあたかも「永遠に続く」かのような受容が常態化していた。しかし、空洞化に伴う内的信念の脆弱化は、新たな条件の下で驚くほど急速に体制が終末に向かうことの背景をなした。つまり、正統性が掘り崩され、内的に脆弱化していながら、その脆弱性がなかなか表面化せず、外面的安定性を保持するという奇妙な二面性がこの時期の特徴をなしていたということになる。
 そのことを大きな背景として、その後の急激な変化がどのように進行したかを考えるのが第4-6章の課題となる。そこにおいては、ペレストロイカを一つのものとみるのではなく、短期的に様相を異にする諸局面の連鎖として捉えるべきではないかという考えを提起してみた。
 先ず、ペレストロイカの初期と中期を分けて考えるのは、「社会主義改革(あるいは社会主義の再生)」がそのものとして完結することができず、「脱社会主義化をはらむ体制転換」へと移行したことに着目するからである。前者がその枠内にとどまり得なかったということは、指令経済と一党制を柱とする従来型の社会主義体制を部分的な改革や修正によって再生させることはできなかったということであり、その意味では、「社会主義体制の改革/社会主義の再生は不可能だった」という言い方に理がある。
 もっとも、「社会主義」という言葉は定義次第で融通無碍に解釈できるので、この言葉を最大限に広く定義するなら、かつて「社会主義」と考えられていたものをほとんど全て放棄しても「まだ社会主義の枠内だ」と言って言えないわけではない。これは言葉の定義次第であり、定義に関わりなく正しいとか正しくないと決められるような事柄ではない。一般に言葉というものは狭義・広義・最広義など、種々の定義がありうる。研究者が分析概念として言葉を使うときには、あまり広すぎる定義は無内容になりやすいことに注意すべきだが、学者以外の人々の実際の言葉遣いとしては非常に広い定義で使われることがよくあるという事実を視野に入れないわけにはいかない。特に政治家は、あえて非常に広い定義をとることによって、異なるものを「同じ」であるかに見せかけるレトリックを利用することがある。研究者は自分の分析概念としてはこれに幻惑されるべきでないが、研究対象としてはそういうことがあるという事実を確認しておく必要がある。ゴルバチョフが遅い時期まで自分は社会主義の理念に忠実だと言い続けたのも、その典型例である。
 ペレストロイカ中期以降の「改革派」が目標としたのは、もはや従来的な意味での「社会主義」の再生ではなく、市場経済を基本的に受容した上での(広義の)社会民主主義への転化とリベラル・デモクラシー型政治制度の採用とまとめることができる。これとセットにして、対外面では面子を失わない形での冷戦終焉が目指された。これらは従来の体制と原則的に異なった体制への移行を目指しつつ、それをできるだけ混乱とコストの小さい形で実現しようと試みたという意味で「〔体制移行の〕軟着陸」路線と呼ぶことができる。別の比喩でいうなら、「社会主義の安楽死」路線――旧来の社会主義体制から事実上離脱しながら、そのことの露骨な明示を避けることによって抵抗を最小限にとどめようとする――ということができる。
 次に考えなくてはならないのは、「中期」から「後期」への転化である。引き続き「軟着陸」路線が追求され、かつ拡大したという意味では、中期と後期は連続している。ただ、それが具体化されていくにつれて、種々の困難性が表面化し、左右両極からの批判も高まったのが後期の特徴である。いま「左右」という言葉を便宜的に使ったが、何が「右」で何が「左」かは見方によって異なり、ある観点から「右」とされる立場が他の観点からは「左」とされることもあるので、この言葉遣いにとらわれるのは適切でない。この時期の対立の基本構図は、「社会主義の安楽死」路線に対して、「安楽死などではなく、一挙に殺害してしまえ」という立場をとるいわゆる急進派と、「安楽死ではなく、あくまでも社会主義再生を目指すべきだ」という立場をとるいわゆる「保守派*10」がゴルバチョフの中道路線を挟み撃ちにしたということになる。この攻防は1991年の8月政変で頂点に達した。
 さて、「軟着陸」の実現が極度に難しかったこと、また結果的に成功しなかったことは明らかである。私は有志舎本でも『国家の解体』でも、ペレストロイカ中期から後期にかけて「軟着陸」路線が各種の困難をかかえながらも一定期間模索されたことについてかなり詳しく書いたが、それは「成功したはずだった」と考える――いわゆる「未練論」に立つ――ことを意味するわけではない。この路線の実現が完全に不可能だったとまで言えるかは微妙だが、とにかく成功可能性が非常に低かったことは明らかであり、それが実現しなかったことを「惜しいチャンスを逸した」と残念がるわけではない*11。ここは一連の批評との関連で重要な点である。
 「軟着陸」とその挫折という論点については、富田のフェイスブック上の感想でも触れられているし、川端のブログはかなり突っ込んでこの問題を論じている。川端は社会主義改革の試みに限らず、より広く「現実政治における中道路線の困難性という問題」を取り上げて、これはソ連あるいは社会主義改革に関心を持つ人だけの問題ではないと指摘している。「体制がすでにボロボロになっていたという旧ソ連固有の問題ではなく、より普遍的な困難」であり、「そのようにとらえると、ソ連解体期の問題は、旧ソ連だけの特殊な問題ではなく、現在でも、多くの諸国で多くの政治勢力が直面しうる問題だ」というのである。これは私自身そう考えていながら十分表現し切れていなかった点なので、このように指摘してもらえたことは大変ありがたかった。
 「軟着陸」路線への着目は、歴史研究における価値評価という微妙な問題とも関わる。過去に起きた現実に対して、「もっとよい道」がありえたかどうかを考えることは「未練論」に陥りやすい。しかし、他の可能性が一切ありえなかったという必然論――あるいはむしろ宿命論――に立つなら、硬直した歴史の見方になってしまう。ここで必要なのは、ありうべきオルタナティヴを念頭におきつつ、しかし、「よりよきオルタナティヴが実現したはずだ(それが実現しなかったのは、残念な偶然に過ぎない)」とする未練論をも斥けることのはずである*12。大きな犠牲と混乱を伴うハードランディング――現実に起きたのはこれだった――に比べるなら、より小さな犠牲とコストで体制転換を乗り切る「軟着陸」の方が「よりよい」ものだったと考えるのは別段おかしなことではない。そして、そうした「よりよい道」を探ろうとした人たちの営為を跡づけて、記録することも無意味ではないはずである。ただ、そうした人たちの成功可能性を過大評価するなら、現実離れした空論になる。私はゴルバチョフだけでなくシャフナザーロフやチェルニャーエフといった補佐官たちの提言をかなり重視したし、それ以外にも何人かの知識人が、紛争を煽るよりも合意による解決を求める提言をしていたことを有志舎本および『国家の解体』の各所で紹介した。しかし、そうした提言が実現する可能性が高かったという描き方は避け、その種の提言は無力なものにとどまったことを指摘した。たとえ現実政治的には無力だったにせよ、より理性的な道を提言する人がいたというのも一つの歴史的事実であり、「これが実現したはずなのに」という未練意識なしに、とにかくそうした提言があったということを一つの事実として書き記すことにはそれなりの意味があるのではないかという意識がその背後にあった*13軟着陸に関して、「補論」の4も参照)。
 
3 「冷戦の終わり方」をめぐって
 
 前項では主として国内体制の改革について論じたが、これと並行するもう一つの大きな問題は、第6章で論じた「冷戦の終わり方」という論点である。池田のブログおよび藤澤の書評がこれを特に重視しているほか、上垣も地政学と価値観の関係という形で問題にしている*14。また、板橋拓己は有志舎本刊行以前に書かれた論文で、前々著『冷戦終焉20年』に触れつつ、「冷戦の終わり方」に関する私の見方を補強する論を展開している*15。以下では、これらをうけて、冷戦終焉についての私見を、前著で説明が足りなかった点の補足を含みつつ、改めて敷衍してみたい。
 私の書き方が十分明快でなかった面もあるが、「冷戦の終わり方」について改めて考えてみるなら、@相互接近と和解としての冷戦終焉、A「威厳を保った整然たる後退」、B「算を乱した壊走」の3通りに分けて考えるのが適切と思われる*16。ゴルバチョフの当初の願望は@だったが、ある時期以降、その不可能性が明白になった。その意味では、これを幻想と批評するのは正しい。もっとも、これが可能だということをゴルバチョフが信じなかったなら、そもそもこのプロセス全体が始まることもなかったろう。従って、これは幻想だとしても、歴史に一定の役割を演じる有意味な幻想だった。そのことは改めて確認しておくに値する。
 @が行き詰まった後の選択はAとBということになるが、この段階では主導権は欧米側にあったから、ソ連側の対応の巧拙もさることながら、欧米の政治家たちがAをどこまで容認しようとしたか、それともむしろBを選好したのかという問題を考える必要がある。最も重要なアメリカの場合、レーガン期およびブッシュ期にそれぞれ国務長官を務めたシュルツとベイカーはAを重視していた。逆にBを鼓吹した急先鋒はチェイニー――ブッシュ(父)時代の国防長官、後にブッシュ(子)のもとで副大統領――だという点で衆目の一致がある。1989年初頭にブッシュ政権が発足した直後にしばらく対ソ政策が定まらない時期が続いたが、その後、チェイニーは対ソ外交から外された模様である。その後のブッシュ政権で重要な位置を占めたスコウクロフト(安全保障担当の大統領補佐官)はB寄りの立場をとっていた。こうしてブッシュ大統領は、Aを主唱するベイカーと、Bの立場に立つスコウクロフトの上に乗って、両者の間でバランスをとっていたように見える*17
 西ドイツの場合、コール首相(キリスト教民主同盟)とゲンシャー外相(自由民主党)の間に連立政権内の微妙な差異があり、ゲンシャーは時として最重要の政策決定から排除されたりしたが、とにかくゲンシャーはA路線の代表者だった。ソ連外相シェワルナゼにとって主たる交渉パートナーだったアメリカのベイカー、西ドイツのゲンシャーがともにA路線をとっていたため、この二人を信頼した彼は、米独がAをとってくれるものと期待していたようだが、それが本当に米独の外交政策の基調であるかには不確定性があった。その他、イギリスのサッチャーおよびフランスのミッテランも、ゴルバチョフにAの余地を与えるべきだと考えていた。このように欧米の主要政治家たちの態度が統一されていない中で決定的な位置を占めたのはブッシュおよびコールだが、二人とも必ずしも一貫しておらず、ブッシュはベイカーとスコウクロフトの間で揺れていたように見える。あえて推測するなら、ブッシュは主観的にはAを目指し、それが実現できると考えていたが、ソ連情勢に対する読み間違いのために、AのつもりでいながらBになってしまったのではないか。この仮説に立つなら、ゴルバチョフが「威厳を保った整然たる後退」を成し遂げることができずに「算を乱した壊走」に至ってしまったのは、ブッシュやコールがソ連情勢を読み誤ったことを一つの大きな要因としていたように思われる*18
 
4 ゴルバチョフ評価をめぐって
 
 以上、「軟着陸」路線――国内ではコストの小さな方式での体制転換(旧来の社会主義体制の「安楽死」)、対外的には面子を失わない形での冷戦終焉――の成否という問題について論じてきたが、それと絡みつつも相対的に別個の問題として、個人としてのゴルバチョフ評価についても考えておきたい。これは池田のブログが特に重要視している点である。池田の批評は長文のものだが、論点がやや拡散していて、単純に同意とか反対とかいう風に割り切った答え方をすることができない。そこには、「ごく大まかにいえば一応当たっている」と感じる個所と、「やや性急でスウィーピングに過ぎる」と感じる個所、そして「これは誤解だ」と言いたくなる個所が複雑に絡み合っている。多岐にわたる池田の批評を我流にまとめ直すなら、@これまで指導者中心史観を批判してきた塩川が第6章では自ら指導者中心史観に立っているのではないか、Aということは、すなわちゴルバチョフ中心史観ではないか、Bそれはゴルバチョフが勝っていればよかったのにという未練史観を意味するのではないか、という3点にまとめられる。これら3点は池田においては一体のものと捉えられているようだが、実は微妙に異なる。@とAに対しては、「ごく大まかにはそのように見られる面があるが、それだけではない」という答え方になるのに対して、Bに対しては、断乎として否と答えたい(この点につき、「補論」の1も参照)。
 まず、池田も認めるように、第6章は外交史であることから、どうしても指導者中心の議論にならざるを得ない*19。但し、ゴルバチョフだけでなく、アメリカではレーガン、ブッシュ、ベイカー、スコウクロフト等をとりあげ、ソ連ではシェワルナゼ、チェルニャーエフ、ファーリン等、西ドイツではコールとゲンシャーを重視しているから、@とAとは同じことではない(相対的にゴルバチョフの重みが大きくなったのは、ことの性質上やむを得ない)。そして、Bについては、前述したように、「軟着陸」路線の成否について詳しく論述することは「それが成功するはずだったのに」という未練論に立つことを意味するわけではないから、この点に関する池田の批判は明らかに不当である*20
 路線や政策を離れた個人としてのゴルバチョフ評価についても補足的に論じておきたい。よく「ゴルバチョフは国外では高く評価されてきたが、国内では評価が低い」と言われる。しかし、このような対比はスウィーピングに過ぎ、正確でない。国内でも国外でも、時期によってかなり大きな評価の揺れがあった。先ず最初のうちは、「模様眺め」ともいうべき態度――留保付きでの慎重かつ相対的な評価――が内外とも優勢だった。その後、1988‐89年頃になると、ソ連国内でも人気が高まったし、国外(欧米や日本)では「ゴルビー・ブーム」が生じた。しかし、ペレストロイカ末期になると、国内では幻滅が急速に広がり、ゴルバチョフ支持率は1990年の間に急落した*21。ロシアにおけるゴルバチョフ評価が低いという通念が当てはまるのはこの時期以降のことである。国外についていうと、その後の評価は一様でない。マスコミおよび一般国民は一挙に関心を失い、ほとんど忘れかけたが、たまに思い出す場合にはかつての肯定的イメージを保存していることが多い。しかし、ロシア・旧ソ連諸国の動向を追い続けている観察者の間では、国内での評価急落に影響されて、わりと批判的な見地が優勢となっているように見える。日本でも、「あの当時はゴルバチョフの理想主義的空論に幻惑されていたが、冷静に考えてみると、ゴルバチョフの指導は場当たり的で、まるで評価できない」といった見方をする人が増えた。
 私自身についていうと、ペレストロイカの初期から中期くらいまではかなりの程度ゴルバチョフおよびペレストロイカの進行に共感をいだいていたが、次第にその矛盾に注目するようになった。その後、ペレストロイカを歴史として見るようになる中で、肯定か否定かと単純に割り切ることのできない諸側面をなるべく総合的に視野に入れるよう努めてきた(かつて親近感をいだいていた頃の名残のようなものがあることを否定するものではないが、それに引きずられることを努めて抑制してきた)。従って、現在の私は単純なゴルバチョフ賛美論にも否定論にも与しない。ただ、一部の「ロシア通」の人たちの間に見られる「かわいさ余って憎さ百倍」的な非難の噴出に対しては、一線を画したいという気分がある。前注3で、「あたかも「親ゴルバチョフ的」であるかに見える」スタンスと書いたのは、そのような風潮への対抗という趣旨である。とはいえ、それはあくまでも行き過ぎた非難に歯止めをかけるという趣旨であって、積極的にゴルバチョフ擁護論を説こうというつもりはない。
 ゴルバチョフに対して向けられる批判には雑多な種類のものがある。ペレストロイカの目標自体が不十分もしくは非現実的だったという見方と、目標はよかったのだが戦術や人事に問題があったとか、個人としての不決断や動揺を重視する見方とがある。目標の解釈にしても、あくまでも社会主義の枠内に囚われていたとする見方と、その枠を超えようとしてはいたが、それが途中で挫折したという見方がある。「民主主義」との関係でいえば、当時の「民主派」はゴルバチョフが民主主義に背いて権威主義に傾斜しているという非難を浴びせたが、逆に、必要な権威行使を避けすぎた弱い指導者だったとか、理想主義的に過ぎてマキアヴェリズムを欠いていたとする観点もある*22。これら各種の批判はそれぞれに当たっている面がある。ただ、そうした欠陥を免れることがそもそも可能だったろうかという疑問もないではない。巨大な変動の時代に大国の最高指導者の役割を演じた以上、様々な問題が指摘されるのは当然のことであり、理想化も悪魔化も避けながら全体像を描くのは至難の業である。
 ゴルバチョフ評価と裏表の関係にあるのはエリツィン評価である。一つの有力な評価として、「マキアヴェリズムを欠き、理想主義的に過ぎたゴルバチョフvs猪突猛進型で強い破壊力を持つエリツィン」というイメージがある。これはごく大まかにいえば当たっているところがある。だが、ゴルバチョフもときとしてマヌーヴァーをしたり、権謀術数に頼ったりしている――そのために理想からの逸脱を批判された――し、直情径行のイメージのあるエリツィンも、意外に柔軟性を示したり、妥協的になったりした――そのことは「民主派」内での亀裂と論争を生み出した――ことがある。そのことと関係して、両者の対抗関係は一方的に高まり続けたのではなく、歩み寄りの試みとその破綻を何回も繰り返すというジグザグを経ながら終末へと至った。このことは『国家の解体』で詳しく跡づけたとおりである。そのことをどう評価するかも微妙だが、とにかくそうした複雑性を窺わせる意外な情報については、なるべく丁寧に紹介するよう努めた。これは「両者の和解の試みが結実していればよかったのに」という未練論を述べるためではなく、現実の歴史過程の複雑性を浮き彫りにしたかったからである。
 
     *
 
 全体を振り返ってみて、有志舎本はいろいろな限界をかかえたものではあるが、『国家の解体』準備の最中にそれを適切なパースペクティヴの中に置くための刺激になったという意味で、私にとってはやり甲斐のある仕事だった。この本をめぐって多くの人から批評を受け、反省と再考の機会を得たのは幸いなことだった。それらの方々に厚い謝意を表したい。
 
 
補論 若干の追加的論点
 
 有志舎本の合評会では、二人の書評報告者(前注2)の他、多くの出席者たちから種々の疑問が出された。また、これとは別だが、4月3日に『国家の解体』の出版記念討論会があり、その場でも多くの関連質問が出された。ここでは、それらのうちからいくつかを取り上げて、簡単に応答を試みたい。
 
1 合評会における私の報告の中でわりと大きな位置を占めていた池田への反批判については、当然ながら池田から再反論があった。
 「未練史観」という言葉を池田自身は使っておらず、池田の塩川批判をそのようなものと受け取ったのは私の解釈である。合評会における池田発言は、自分は塩川を「未練史観」として批判したわけではないと述べた上で、塩川がゴルバチョフらの意図の説明に多くの頁数を費やしていることに批判的に論及した。それが「未練史観」批判とどう異なるのかの説明はなく、依然として理解できないところが残る。
 確かに、拙著ではゴルバチョフに限らず主要登場人物のいだいていた意図を可能な限りきちんと跡づける――もちろん、「何が真の意図だったか」はそう簡単に確定できるものではないが、とにかく可能な範囲で跡づけようと試みる――ことをそれなりに重視した。だからといって、それを最重要課題としたわけではなく、他の種々の課題と並んでということではあるが、従来あまり知られていなかった側面が資料から窺える場合にはそれなりに紙幅を割いた。これはごく当然のことであって、そのこと自体を批判されるいわれはないはずである。もちろん、意図がそのまま実現したはずだと想定したり、実現しなかったのは残念だといった感慨をもらしたりするのは学問的な態度ではない(それを「未練史観」というのではないだろうか)。しかし、そうした想定や感慨抜きに、登場人物の意図について記述すること自体が批判されるべきだとは思えない。推測になるが、池田は現実政治において結実した行為をこそ最重視すべきであり、結実しなかった意図やそれに基づく行為はあまり重視するに値しないと考えているのかもしれない。それはそれで一つの見識だが、普遍性を主張できるものではないだろう。
 
2 合評会における地田の書評報告は種々の論点に手広く触れていたが、ここでは、有志舎本の第1章で中途半端に触れた「1917年」論について、簡単に補足しておきたい。
 かつて、伝統的には、1917年に起きた二つの革命のうちの2月と10月のどちらが重要かという論争――というか、基本的観点の違い――があった。大雑把に言うなら、10月を重視するのはソ連正統史観の他、それを批判しつつも「社会主義革命」の意義には共鳴する潮流であり、2月革命を重視するのは、ロシアの自由主義的発展の可能性に期待する潮流ということになる。しかし、近年の動向は、そうした「2月か10月か」という論争自体を相対化する方向に向かっているように思われる。2017年の100周年アニヴァーサリーにおけるロシアの論調はもちろん多種多様であって、一つの公式見解に収斂したわけではないが、2月と10月の区別にかかわりなく全体として「悲劇」とする見方が有力だったと伝え聞く。拙著第一章はそうした最新の動向を知る直前の時期に書かれ、やや中途半端なところがあるが、とにかく2月と10月のどちらの方が重要かという論争とは距離を置き、むしろ2月から生まれた臨時政府体制がどのようにして10月に行き着いたのかというプロセスの問題に力点をおいた。それはソ連時代末期におけるペレストロイカの開始と展開がどのようにしてソ連解体に行き着いたのかという問題意識と呼応関係にある。
 なお、地田報告は1917年論の背景としての「近代化」や「市民社会」についても問題を提起していたが、これらの点については旧著『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』(勁草書房、1999年)、第V章第2節で詳論したので、そちらを参照していただきたい。
 
3 同じく合評会における松嵜の書評報告は、ソ連解体後の現代ユーラシア政治の分析に携わっている研究者の立場から、歴史の一部としての現代史を論じることが現状分析にとってどういう意味を持つかという問題を提起した。これはにわかには答えにくい難しい問題だが、とりあえずは『国家の解体』の「あとがき」で、ごく簡単な見通しを示そうと試みたので、その要点をここに再現しておきたい。
 数十年前まで実在していた現実というものは、跡形もなく消え去ってしまうわけではない。たとえば、昨今「新しい冷戦」ということが盛んに取り沙汰されているのは、かつての「冷戦」の記憶が今なお人々の意識のなかに焼き付いており、現在の「新しい冷戦」がそれとどこまで、どの程度似ているのかという問いが有意味なものとして意識されていることを物語る。国際関係の緊張の高まりと対応するかのように、各国ごとの政治に関しても、一時期進むかに見えた「民主化の波」が後退して、「権威主義化の波」がやってきたという議論も盛んだが、これはペレストロイカおよび冷戦終焉の時期に流行した「民主化」論を反転させたかのごとき様相を呈している。かつて進んだ「民主化」が何らかの理由で「後退」に転じたのか、それともむしろかつての「民主化」論自体に陥穽ないし錯誤がはらまれていたのではないかなど、さまざまな観点があるが、いずれにせよ現在の状況について考える上で、当時に関するイメージ――大なり小なり変容や思い込みを含んだ、必ずしも正確とは限らないイメージ――が一定の影を落としていることは確かである。一般に「近い過去」は単純に消え去るものではなく、その記憶や残像が大なり小なり今日の人々の意識に焼き付いているものである。そのイメージと過去の現実の間には種々のズレがはらまれているが、そうしたズレ自体がその間の変動の一種独自な反映であり、その有意味性も時代状況に規定される。そのように考えるなら、「近い過去」は「現代」の一つの構成要素をなしているといえるのではないだろうか。
 
4 有志舎本とは別だが、『国家の解体』出版記念討論会で出された多数の質問のうち鶴見太郎の問題提起は、ソ連解体後の混乱と衝突があの程度で済んだのはユーゴスラヴィア内戦などを念頭におくなら「まだしもまし」であり、一種の軟着陸とも言えるのではないかという論点を含んでいた(記憶に頼って書いているので、言葉遣いはこの通りではなかったかもしれないが、そういう趣旨の問題提起と受け取れた)。
 この論点は、この小文で重視した「軟着陸」およびそれと対をなす「ハードランディング」という言葉で何を意味するかという問題と関わるので、ある程度立ち入って補足を試みたい。「軟着陸/ハードランディング」という表現は比喩的なものなので、それを具体化するためには、いくつかの側面に分けて考える必要がある。以下、3つの側面に分けて考えてみるが、どれも「もしハードランディングが避けられて軟着陸が実現できたなら、その方がよかったという感想が自然に浮かぶが、それは実際には極度に難しく、望みはあまりなかった」というのが大まかな共通点となる。
 まず政治面でいえば、体制転換を進めるに当たって、「目標は手段を正当化する」といわんばかりの「逆向きのボリシェヴィズム」的発想による革命的突撃の手法に訴えるのが「ハードランディング」路線であり、合意形成や法的手続きをなるべく尊重するのが「軟着陸」路線ということになる。両者はともに目標としてリベラル・デモクラシー化を掲げていたが、転換の途上においてもその原則に沿おうとする(「軟着陸」)か、革命的変革である以上は「例外」的な非常措置が正当化されると考える(「ハードランディング」)かの違いである。次に経済面についていえば、市場経済移行を目標とするという一般的合意を前提した上で、いわゆる「ショック療法」――一挙の価格自由化とハイパーインフレ、緊縮財政と社会福祉削減などを伴う――によるか、それともショックをなるべくやわらげるため、広義の社会民主主義的発想に立ち、社会的合意の尊重を重視するかという論争があり、前者が「ハードランディング」、後者が「軟着陸」路線ということになる。
 ここまでは比較的簡単だが、同盟/連邦再編については話がより複雑になる。ペレストロイカがある程度進んだ段階では、従来の集権的な連邦国家をより分権性の高い同盟ないし共同体に再編すべきだという限りでは大多数の関係者間に大まかな合意ができつつああった。この合意をゴルバチョフと諸共和国代表の交渉を通して具体的な条約や関連協定にまとめあげようとしたのが「軟着陸」路線だが、大まかな合意はあっても、それをどう具体化するという点では異論が続出し、交渉は難航した。なお、ここにおける異論は必ずしも《中央vs諸共和国》という構図ではなく、むしろ諸共和国間に複合的な対立があった点に注意が必要である。とにかく同盟条約交渉が難航する中で、それを一挙にご破算にして、内実の不確定なまま「独立国家共同体」を宣言するという手法がエリツィンとクラフチュークによってとられた。実はこの二人の間にも、またもう一人の参加者たるシュシュケヴィチとの間でも種々の異論が残っていたが、それを伏せたまま同盟条約交渉が葬られることで「軟着陸」構想は流産に終わった。ロシアとウクライナの間でも、またそれらと中央アジア諸国の間でも複合的対立がありながら、それを表沙汰にして調整するのではなく、調整作業抜きで一気に同盟条約交渉を葬り去ったことは諸国間の経済結合を短期間に断絶させ、各国とも経済の急激な低下を経験した。これが「ハードランディング」ということの意味である。
 もっとも、以上はあくまでも比喩であるため、観点を変えてみるなら、「それほどハードではなかった」と見ることもできないではない。ユーゴスラヴィア各地で起きたような流血の内戦がソ連全土で起きるという状態を想定して、それとの比較でいえば、「最悪の事態は避けられた」「完全な軟着陸ではないまでも、それに近かった」という言い方ができないわけではない。そういう見方はそれなりに可能だが、ただそれは1991年12月にエリツィン、クラフチューク、シュシュケヴィチがソ連解体宣言を発したときにとった戦略のおかげというわけではなく、別の理由によるということを確認しておかねばならない。
 ソ連解体が全面的な内戦を伴わなかった理由として最も大きいのは、それまでの連邦制国家構造において連邦構成共和国という地位を持っていた単位が名目的にもせよ「主権国家」という体裁を付与されていた事実と関係する。もちろん、これは内実の伴わないフィクションだったが、ペレストロイカの過程でフィクションに内実が与えられたことにより、一種の「受け皿」が形成されたことが解体過程を相対的にスムーズなものとした。これに対して、連邦構成共和国という地位を持たなかった地域で紛争が起きた場合には、決着がより困難であり、往々にして流血の内戦が起きた。チェチェン、ナゴルノ=カラバフ、アブハジア、南オセチア、沿ドネストル地域などはその典型例である。
 さらにいえば、連邦構成共和国間の利害対立にしても、平和裏の決着という帰結が当初から確定していたわけではなく、時として「あわや」と思わせる危機感が持たれた事例もあった。それがきわどく回避された理由については別個の研究が必要だが、とりあえず思いつく点としては、1991年には既にユーゴスラヴィア内戦が始まっていたことから、「あのようになることだけは避けねばならない」という意識が政治家たちに強く作用したことが考えられる。ユーゴスラヴィアの連邦制とソ連の連邦制は共通する面とそうでない面とがあり、その精密な比較は今後の興味深い課題だが、前者で先に大きな悲劇が起きたという事実が後者における同様の悲劇の回避――といっても、全面的な回避ではなく、部分的には避けられなかったのだが――に貢献したという関係があるのではないかと思われる。
 
5 同じく『国家の解体』出版記念討論会で小森田秋夫は、かつてペレストロイカを現状分析の対象としていた時期から同じ主題を歴史研究の対象とするという時間的経過の中でどのような視座の変化があったかという問いを提出した。これは重要な問いである。
 人によっては、どこかの時点で決定的な視座転換を経験したとか、何らかのクルーシャルな資料に接してドラスティックに見方を変えたというようなことがあるかもしれない。しかし、私の場合、どこかで決定的な変化があったということはなく、どちらかというと淡々として作業を進めてきたという感覚がある。それでも、あれこれの新資料に接したり、他人の研究から示唆を受けたり、自分の草稿を見直したりしているうちに、少しずつ見方が変わってきた面はもちろんある。そして、そうした変化は、個々には比較的小さなものだとしても、それらが長い期間にわたって積み重ねられていくうちに、その累積結果としては、当初よりもかなり隔たってきたように感じられる。
 かつてペレストロイカを現在進行形で観察していたときには、当然ながら、あれこれの動きに共感したり、危惧を覚えたりしたし、様々な関係者たちに共感したり反撥したりしていた。ただ、当事者ではなくあくまでも外部からの観察者だという自覚があり、「こうすべきだ」とか、「こんなことをするのは馬鹿げている」といった論評は控えてきた。そして、自分が共感する動き――主として、いわゆる「改革派」――に対しては「ひいきの引き倒し」にならないよう、その中の否定的側面を見落とすまいと努めたし、逆に反撥する部分――主として、いわゆる「保守派」――に対しては彼らにも彼らなりの論理があるのだということを認識しようと努めてきた。そうはいっても、それは「心構え」のレヴェルにとどまり、どうしても眼前で急転回する事態に翻弄されて、「泣くな、笑うな、理解せよ」という箴言――元はスピノザらしいが、トロツキーの好んだ言葉――を守れずに、大喜びしたり泣きたくなったりしたことも稀ではない。大まかにいって、1989年秋の東欧激動や「ベルリンの壁」開放あたりまでは大喜びする面が大きかったが、その後、ペレストロイカが一種の転機を迎える中で次第に懸念が強まり、固唾を呑んで見守るような心境になっていった。
 1991年8月クーデタの時期にモスクワに居合わせたのは偶然だが、クーデタが短期間のうちに失敗に終わり、ソ連共産党が一挙的解体に追い込まれるのを目にする中で、「これでペレストロイカは終わった」という感慨が強く湧いた。そして、今やペレストロイカが終わったからには、これまで現状分析の対象としてきたものを今度は歴史研究の対象としてもよいのではないかという考えが生まれた。多くの同業者のうち現代に力点をおく人はソ連解体後の旧ソ連諸国の現状分析を続け、歴史に力点をおく人はずっと古い時代の研究に向かったが、私はそのいずれでもなく、「歴史としてのペレストロイカ」研究を始めたということになる。それ以来、長い年月の間に、種々の新資料を見つけたり、他人の研究から啓発されたりする中で、少しずつ見方の変化が生じたのは上述の通りである。
 これも先述したように、自分が共感する動きに対しては「ひいきの引き倒し」にならないように注意し、自分が反撥する部分にも彼らなりの論理があるのだということを認識しようと努めるという姿勢は当初からのものだが、当時は「心構え」に過ぎなかった姿勢が長い作業の継続の中で次第に内実を与えられてきたように感じる。だからといって、かつて共感していた「改革派」はまるで駄目だったとか、かつて反撥していた「保守派」の方こそが正しかったのだというような極論に走るのでもなく、できるだけ多面的なアプローチを通してバランスのとれた見方をするよう心がけてきた。不十分ながらもそれがある程度進展したのは、多数の資料のおかげであるだけでなく、時間の隔たりによって、かつては熱く胸を騒がす対象だった出来事が、もはや「よしかれあしかれ過去のものだ」と見えるようになってきたという面も大きい。「歴史として見る」とはそういうことではないだろうか。
 もっとも、完全に距離を置ききって、何の共感も反撥も懸念も覚えなくなったということではない。もしそのような感覚になってしまったなら、そもそも研究意欲も持続しないだろう。かつて胸を騒がしていた当時の感覚を何ほどか残しながら、それに左右されることがあまりなくなり、できるだけ多面的でバランスのとれた像を淡々と描写するのが目標だという風になってきた。それがどこまで成功しているかは自分で云々すべきことではなく、まさしく読者の審判に委ねるほかない。
 
 
( 2021年3-4月)

*1順不同だが、これまでのところ下記のようなものが目にとまった(以下、全て敬称略)。
川端望のブログ(2020年9月5日)。https://riversidehope.blogspot.com/2020/09/2020.html?fbclid=IwAR2C4F7ohj61JL90TJOaziLGbgU2u0la7Puxw257Fj8arrjDBpeHbNj11J0
池田嘉郎のブログ(2020年8月23日)。https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/260881/e4d34c4cb5f49d2b11e44e3719db201a?frame_id=562436&fbclid=IwAR2GhCjaSaaPmdOQL50T7YJ3Cz_QPixotOgKZYhxl-46VxqT5R2Vm3g-22s
藤澤潤の書評(『週刊読書人』2020年11月6日)。
上垣彰のフェイスブックへの書き込み(2020年8月28日)。https://www.facebook.com/akira.uegaki/posts/3106320379495068
富田武のフェイスブックへの書き込み(2020年8月27日)。https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1245626392436684&id=100009680050548
*2冷戦研究会で2021年3月31日に開催(オンライン)。評者は地田徹朗、松嵜英也の両氏。この小文はこの合評会のために準備した報告ペーパーに若干の補訂を施したものである。
*3後で立ち戻るが、池田嘉郎のブログは私に対し、ゴルバチョフの「社会主義再生」的理想主義に共鳴しているのではないかという疑念をかけている。後に述べるような事情から、私のスタンスがあたかも「親ゴルバチョフ的」であるかに見えることは否定しない。しかし、それはカーの場合と似て、理想主義への共鳴ではなく、リアリズム的見地――どこまで本当にリアルかについては議論の余地があるにしても、とにかく自意識としては――に基づいている。なお、池田はフェイスブックへの新しい投稿(2021年3月10日)では、『国家の解体』を読む前の予感として、塩川は溪内と違って「社会主義再生」論に基づく立論をしてはいないだろうと述べている。これは半年前のブログとトーンを異にするかにみえるが、真意は不明である。
*4第6章が最も長くなったのにはやや特殊な事情がある。私はもともと外交や国際関係にはあまり力点をおいてこなかったが、ペレストロイカ期のことを研究するからには冷戦終焉過程を視野から外すわけにいかないと感じるようになり、ここ数年来、不十分ながら外交史・国際関係史にも手を伸ばすようになった。そうした模索の産物がこの章だが、私の元来の関心の中心ではなかったために「試論」という性格が濃厚である。『国家の解体』でも、この問題は主要テーマについて論じる上での一つの背景程度にしか扱っていないが、この第6章はその「背景」を現時点でできる限り敷衍してみたという位置づけになる。
*5「ソ連体制の終わり」と「ソ連国家の終わり」は密接な相互関係にあるが、決して同じことではない。一般論として、ある国の体制が変わっても、その国家の外枠は変わらない――国名や憲法原理は変わるかもしれないが、それでも「同じ国」と見なされる――というのは大いにありうることである(現に、多くの旧社会主義国はそうである)。ソ連の場合、体制の基本理念と国家統合が緊密な関係にあったため、前者の転換は後者にも響く意味を持ったが、それでも、体制を転換しつつ「同じ国」にとどまる――もはや「ソヴェト」「社会主義」ではない国として――可能性が論理的にありえなかったわけではなく、実際、末期にはそのような方向への模索がしばらく試みられた。結果的にその試みは成功せず、国家の解体に行き着いたが、体制の終末はそれよりも早い時期に事実上の決着がついていた。つまり、「体制が終わった時期」と「国家がなくなった時期」は同じではなく、後者は前者よりも後のことである。この問題は『国家の解体』の主要テーマであることから、有志舎本で主題的に論じることはしなかった。
*6一通り脱稿した後に仕入れた生かじりの知識によれば、「物理学はHowという疑問には答えるがWhyには答えない」という説があるらしい。もっとも、この説は複雑な解釈論争にさらされているようで、それをどう受けとめてよいのかは何とも言えない。細谷暁夫『寺田寅彦『物理学序説』を読む』(窮理舎、2020年)参照。これは自然科学と人文社会科学にまたがる学問論や哲学の問題であり、ここで立ち入れる範囲を大きく超えている。ここではただ、一見したところ明白なWhyという問いはいったい何を意味しているのか、因果律とは何かということ自体が簡単には解きほぐせない大問題だということを確認するにとどめたい。これに対して、Howはより明確な問いであり、それに堅実に答えていくことがWhyについて考える上でも重要なステップとなるではないかというのが、本文の趣旨である。
*7東京大学出版会が『国家の解体』のために作成したパンフレットでは、最も大きな見出しが「大国はなぜ消滅したのか?」となっている。「どのようにして消滅したのか」というよりも「なぜ」という表現を使った方がインパクトが大きいということなのだろう。
*8「大きな結果が生ずるには、大きな、目立った原因があるはずだという思いこみを捨てねばならない」と主張する議論として、三谷博『明治維新を考える』(有志舎、2006年、後に岩波書店、2012年)。同書については、塩川伸明ホームページの「読書ノート」欄に私の論評を載せてある。
*9ペレストロイカの初期・中期・後期への区分とは別だが、ソ連全体の歴史についても、長期・中期・短期という異なる観点の積み重ねが必要だということについて、塩川伸明『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、2010年、第V章参照。なお、本文でいう「ペレストロイカ末期」とは1990-91年頃を指すが、その中で1991年8-12月は「最末期」ということになる。「体制」は「末期」の段階で事実上の終末に行き着いていたが、「国家」が解体したのは「最末期」のこととなる。
*10いわゆる「保守派」の中にも種々の論者がいるが、その多くは、ペレストロイカ以前の体制への回帰を求めるという意味での「保守」ではなく、社会主義再生論堅持の立場に立っていた(たとえば、市場とか自由選挙とかをそれ自体として否定するのではなく、その「行き過ぎ」に歯止めをかけようという態度)。
*11ソ連およびその継承諸国に即してみる限り、(広義の)社会民主主義への転化という形での軟着陸が極度に難しく、ほとんど成功可能性がなかったのは明らかだが、これはむしろソ連以外の諸国を視野に入れた一般論で考えるべき論点となる。ヨーロッパのいくつかの国では、市場経済および政治的リベラリズムの基本的受容を前提した上で、種々の傾向の社会民主主義の実践が現に試みられた例があるから、それらまで含めた最広義の社会主義がおよそ一般に不可能な幻想だと決めつけることはできない。もっとも、ヨーロッパ以外の諸国ではそうした試みは微弱であるし、そのヨーロッパでも近年では社会民主主義の退潮が目立つことを思うなら、全世界的に見てもどちらかといえば悲観的な観測に分がありそうに見える。もっとも、これはソ連史を離れた一般論であり、本論からいえば余計な脱線である。
*12未練史観とオルタナティヴ論の違いについて、有志舎本の第8章のほか、塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、2004年、第11章でも述べた。「補論」の1も参照。
*13最近現われた藤澤潤「ソ連のコメコン改革構想とその挫折――一九九〇‐九一年の域内交渉過程を中心に」『史学雑誌』第130編第1号(2021年)は冒頭で「ゴルバチョフの構想は全くの絵空事というわけでもなかった」と指摘した後、しかしその試みは結果的に失敗に終わったと述べて、1990-91年におけるコメコン改革ないし後継組織設立をめぐる交渉過程を詳しく跡づけて、コメコンは東欧革命に伴って直ちに自然消滅したのではなく、諸アクターの複雑な動きの交錯が絡み合って解散へと行き着いたということを明らかにしている。この見方は私の見地と近い。また、文脈は異なるが、上垣彰は、「市場ボルシェヴィズム」のオルタナティヴと想定される「穏健なリベラリズム」は現実には実現しなかったが、それが将来的に根付く可能性が絶対にないとは言えないと論じている。上垣彰「「グローバル・リベラリズム」とロシア――上からの啓蒙の実験」村上悠介・仙石学編『ネオリベラリズムの実践現場――中東欧・ロシアとラテンアメリカ』京都大学出版会、2013年。
*14価値観の対立という論点にこの小文で立ち入ることはできない。この言葉でどういうことを意味するかが最大の問題点だが、この点はこれまであまりきちんと論じられていない。かつての古典的冷戦期において「社会主義陣営」は全世界の未来を指し示すという自己意識を持っていたのに対し、今日のロシアも中国もそのような自己意識を持っているようには見えない。むしろ、「自由と民主主義という普遍的価値」を称揚する諸国こそがそうした価値観を自分たちの独占物としているのではないかとの疑念もあるが、この問題をここで論じることはできない。
*15板橋拓己「ドイツ統一交渉と冷戦後欧州安全保障秩序の端緒」『国際政治』第200号(2020年)。
*16AとBの対比については有志舎本の167頁で触れたが、@とAの違いは明示的に論じてはいなかった。前項で使った「面子を失わない形での冷戦終焉」という表現を利用していうなら、@とAは外形的にいえば、いずれも面子を失わないという意味での共通性がある。そのため、@からAへの目標移動は外見的に目立たない形をとってなし崩しに進める余地がある。ゴルバチョフがどこまで自覚的だったかは定かでないが、彼は事実上、その目標を@からAへとずらした――しかし、結果的にはそれに成功せず、Bへと追い込まれた――と考えられる。この問題に関し、不十分ながら、『国家の解体』738-743頁も参照。
*17レーガンの対ソ政策アドヴァイザーをつとめ、1987-91年には駐ソ大使となったマトロックの二冊の回想は、彼がAの立場に立っていたことを示している。Jack Matlock, Jr., Autopsy on an Empire: The American Ambassador's Account of the Collpase of the Soviet Union, Random House, 1995; Id., Reagan and Gorbachev: How the Cold War Ended, Random House, 2004.日本の研究者では、ベイカーとスコウクロフトの路線闘争を重視する吉留公太とこれを軽く見る志田淳二カの間に見解の相違がある。吉留公太「ドイツ統一交渉とアメリカ外交――NATO東方拡大に関する「密約」論争と政権中枢の路線対立」上下、『神奈川大学国際経営論集』第54号、55号(2017-18年)、志田淳二カ『米国の冷戦終焉外交――ジョージ・H・W・ブッシュ政権とドイツ外交』有信堂、2020年。
*18メアリー・サロッティは、現実にとられたドイツ統一方式を「プレハブ・モデル」(既存の構造を東に拡張する)と名付け、これは当時の現実の中では最も成功可能性の高い選択肢を巧妙に選んだことを意味するが、他のモデルが絶対に不可能だったとまでは言えないと指摘し、またプレハブ・モデルの一環たる統一ドイツのNATO帰属はロシアをヨーロッパの外に放置することを意味したが、そのことへの自覚の弱さが後に禍根を残したと指摘している。彼女の著作はソ連についての踏み込みは弱いが、アメリカ、西ドイツ、東ドイツについては相当詳しく、参考になる(但し、残念ながら邦訳はよくない)。Mary Elise Sarotte, 1989: The Struggle to Create Post-Cold War Europe, new and revised edition, Princeton University Press, 2014.塩川伸明ホームページの「新しいノート」欄に原書および邦訳書のそれぞれに関する批評を載せてある。
*19なお、『国家の解体』は外交史ではないが、政治史中心になったので、これもかなりの程度指導者を重視することになった。その一つの理由として、豊富な資料が残されているのは高位の政治家の言説である場合が多く、その紹介にかなりの紙幅を割いたという事情がある。それでも、可能な場合には、それ以外の人々の営為にもなるべく触れようと試みた。それが不十分だということは認めるが、それは現段階でのやむを得ざる限界だと考えている。
*20池田は「〔塩川は〕ゴルバチョフの希望的観測を共有してしまっている」と書き、さらに、「端的にいえば、社会主義の再生というゴルバチョフの試みに対して、塩川が基本的に共感をもっているからなのではないだろうか」とするが、これが誤解だということは前述の通り。ついでにいえば、冷戦終焉に関する私の見方はかなりの程度、マトロック、サロッティ、吉留公太らの影響をこうむっているが、彼らは決して「社会主義再生」の立場から論じているわけではない。
*21多数のデータがあるが、代表的な例示として、塩川『冷戦終焉20年』131頁のコラムE、また『国家の解体』743頁参照。
*22マキアヴェリズムの欠如を特に強調するのはジェリー・ハフである。Jerry Hough, Democratization and Revolution in the USSR, Brookings Institution Press, 1997.塩川伸明「二つのゴルバチョフ論」東京大学出版会『UP』上下、1999年1月号、2月号参照。ソ連解体の決定的瞬間にゴルバチョフが実力行使を避けたことについては、『国家の解体』2189頁参照。