富田武『歴史としての東大闘争*1』を読む
塩川伸明
今から半世紀前の出来事を、その当事者の一人が歴史家として振り返った著作である。昨年(二〇一八年)から今年にかけては、ちょうど五〇周年という節目だったこともあって、一九六八‐六九年の出来事に関わる著作がかなり多数出た*2。それらの中で本書の特徴をいうなら、当事者としてだけでなく歴史家として書いている点、そのことと関連して、なるべく包括的な全体像を描こうとしている点、そして一般読者向けの読みやすい新書本という三点を挙げることができる。そのおかげで、本書は類書の中でもユニークな位置を占め、この主題に関心をもつ読者にとって有用度の高い本になっている。
本書は全体としては書き下ろしの著作だが、いくつかの個所では以前に発表された文章を一部修正しつつ再録していて、やや論文集的な性格もある。内容的には、「東大闘争論」という性格と著者個人の「自分史」という性格の両面があり、時代的には一九六八‐六九年にフォーカスしつつも、それ以前やその後(今日にまで至る)を包括した長期の歴史をも扱っている。それらは著者にとっては別々のことではなく、一書でまとめて論じることにはそれなりの意義があるが、読者によってはそれらの相互関連が気になるかもしれない。以下では、そうした点に留意しながら本書の叙述を追って見たい。なお、私は富田と個人的に近い間柄にあり、大きな意味では共通するところが多いが、それだけに微細な差異にこだわりたくなるところもある。しかし、そうした富田と私の関係および微細な差異について詳しく掘り下げようとするなら本書への書評という枠を超えた別個の話になってしまうおそれがある。そこで、本稿ではそうした点に過度に深入りすることは避け、ところどころで断片的に触れるにとどめる。
一
第一章は東大闘争の大まかな概観を与えている。二〇〇九年に書かれた論文の再録だが、二〇〇九年というのは今から一〇年前とはいえ、事件当時からは既に四〇年という歳月を隔てており、対象から距離をとって歴史的に見る作業ができやすくなっていた。その間に著者は各種資料を集めたり、考察を重ねたりしていたようで、そのおかげでこの章はきちんと整った形で書かれており、読みやすく、分かりやすい。著者自ら「我ながらよくできていると自負している」(九頁)というのもあながち誇大宣伝ではない。
その上で、どうしてそのようなことが可能だったかを考えてみると、当時の富田の位置が闘争全体を見る上で比較的好適な位置だったという事情が思い浮かぶ。東大闘争当時、富田は既にかなり豊富な学生運動の経験をもつ四年生だった。その経験を通して、彼は年長の助手・大学院生とも、歳下の教養課程の学生たちとも幅広く接触していたようであり、また一時期は全共闘の事務局をつとめたこともあって、いろんな潮流の活動家たちと交流をもっていたらしい。そういった事情のため、富田はいわば闘争全体のハブのような位置にあり、そのおかげで広い見通しを持つことができたということであるように思える。本書が東大闘争論と自分史という二通りの性格をもつということを前述したが、当時の著者がハブのような位置にあったことが、両面の結合を有意味なものとしている。
もっとも、東大闘争――あるいは、より広く全共闘運動――というものが一人一人ごとに異なった性格をもつ運動の総体だったことを想起するなら、ハブも一つではなく、たくさんのハブがあって当然である。本書はあくまでも「ある一つのハブから見た東大闘争像」であり、他のハブから見るなら異なった像が描かれるだろう。それはもちろん当然のことであり、本書の価値を貶めるものではない。ただとにかく、「ある一つのハブから見た像」として説得性があるからといって、他の見地を排除するものではないということは一応確認しておいてもよいだろう*3。
もう一つ考えてみたいのは、当時知っていたり考えたりしたことと後年の知識や考えとの関係という問題である。富田のその後の歩みについては次章以下で自ら語っているが、彼はその当時の言動のいくつかの点を反省したり、再考したりして、ある程度の変容を経験して今日に至っている。そのことはごく当然のことであり、それを曖昧化することなく意識化している点は称賛に値する。そして、そうした変化は「転向」という言葉を連想させるような急激な断絶ではなく、連続性を保ちながらの緩やかな変化だった。それはそれでよいのだが、変化が緩やかであるせいか、本書の記述のうち、どの部分が当時の知識や思考であり、どの部分がその後の再考であるかが必ずしも常に明確にはなっていない。本章のように旧稿を部分的に修正しつつ再録した場合、特にそのことが気になる場合がある。
具体例を挙げよう。一九六八年一一月に大河内執行部に代わって登場した加藤執行部は学生とのある程度の対話ないし交渉の姿勢を示した。だが、結局、その交渉は全共闘との間では成り立たず、民青および「クラス連合」といったストライキ解除派との間だけの交渉(一九六九年一月一〇日、秩父宮ラグビー場での「七学部集会」)ということになった。しかし、そこに至る前の段階では、大学執行部は全共闘との間でもある程度の交渉を試みていた。一一月一八日の「公開予備折衝」は失敗に終わったが、その後も、水面下で秘かな接触が続いていた。その接触には複数のルートがあったのかもしれないが*4、今日よく知られているのは、総長特別補佐だった坂本義和と助手共闘のリーダー格だった最首悟の接触――結果的には不調に終わったが、かなり遅くまで続いていたらしい――である*5。こうした接触は、今でこそよく知られているものの、当時は非公開だったから、それを知っていた人はごく少数だったはずである。さて、富田はどうかというと、闘争本格化以前の段階で坂本義和のゼミに出ていたことがあり、また闘争本格化後は最首とも頻繁に会っていたようである。両当事者の双方と知り合いだった富田が坂本と最首の接触を知っていたのか、またそれをどう思っていたのかが気になるが、本章では明示的に述べられてはいない。一一月一八日の「公開予備折衝」に触れた個所では当時の直感と「いま思えば」という点が分けて書かれているが(二一‐二二頁)、長めの付記で坂本=最首のパイプに触れた個所(三七‐三八頁)では、やや一般論的な記述になっていて、当時の富田の思考とその後の変遷が明確に読み取れるような書き方にはなっていない*6。薄い新書本でそこまで掘り下げるのは無理だったのかもしれないが、やはり気になる点である。
二
第二章は東大闘争本格化以前にさかのぼった富田の自分史が中心になっている。東大教養学部時代や法学部進学直後の状況に関する記述も興味深いが、私の関心を特に強く引いたのは、高校時代を扱った第3節である。富田がカトリック系の栄光学園という学校の出身だということは以前から聞き知っていたが、中学二年生の時に入信したこと、その後、マルクス主義に接する中で相当の葛藤を経てキリスト教から離れたが、既存のマルクス主義哲学にも飽き足らず、唯物論を受け入れないままのマルクス主義者という自己規定をとるに至ったという経緯は、本書ではじめて知った。非正統的なマルクス主義というだけなら、当時あまり珍しくないものだったし,実存主義とマルクス主義の結合論などは流行でさえあったが、中学生という早い時期にキリスト教に帰依した上で、高校から大学初年次にかけて葛藤を経つつマルクス主義に接近するという人格形成史はかなりユニークなものと感じられる。
さらに、著者の実弟がカトリック入信にとどまらず、司祭になると思い詰め、学校の教師とも関係が悪化し、ついには精神を病むに至るという経過の記述には重いものがあり、読んでいて思わず襟を正させられた。私の個人的感想としては、第二章第3節は本書の中で最も引きつけられる節である(弟の話は第四章第1節にも出てくる)。
こういうわけで、この部分は自分史として価値が高いが、それだけに東大闘争論との関係が気になる。前述したように、富田は東大闘争渦中においては「一つのハブ」のような位置にあり、そのおかげで、自分史的記述と東大闘争論がかなりの程度重なり合っていた。しかし、高校時代とか大学初年次――東大闘争が始まったのは富田が四年生になってからだから、法学部進学後の三年生時代もここに含まれる――については、そもそも「ハブ」という概念が成り立つ余地がない。後に運動に参加することになる人々の生育史・人格形成史はそれこそ千差万別であり、それぞれに興味深い自分史たりうるが、それを東大闘争論に一般化することは難しいだろう。「活動家の中にはこういう人もいた」ということは言えても、それが活動家の趨勢を代表しているなどということは言えそうにない。もちろん、そのことは本章の価値を貶めるものではなく、一個の自分史としては十分に興味深いものである*7。ただ、東大闘争論としてまとめられている本書全体の構想とは多少の乖離があるのではないかという気がしてならない。
三
第三章は闘争に一段落がついた一九七一年の時点で富田が書いた「総括」文書をもとにしている。
この章の冒頭に、「思えば、東大闘争はあまりにも重かった」という一句がある(八八頁)。おそらくこれは当時のものではなく、今日の時点で書かれたのではないかと思われる。私自身はこの言葉に共感するが、当時の運動参加者たちを広く考えた場合、あまり「重く」なかった人も数的には多かったのではないだろうか。もちろん、重いか重くないかは単純な二者択一ではないし、重さをどのように測るかも一義的ではない。ただとにかく著者のように「あまりにも重かった」と述解する人が大多数とは言えないのではないかという気がする*8。また「重かった」人たちにしても、「どのような意味で重かったか」は人それぞれであり、簡単には一般化できない*9。
それはさておき、本章の中心部分は当時の文章を生かして書かれているため、本書の中では最も読みにくい。文章が生硬であるだけでなく、いろんな潮流への批判が出てくるのだが、それらの潮流に関する予備知識のない読者には、何を言いたいのかがよく分からない(私は全読者平均からいえばかなり予備知識がある方だと思うが、そういう私でも何を指しているのかよく理解できない個所がかなりある)。広汎な一般読者向けの読みやすい本という本書の性格からすると、この章はその意味で異例である。それでも敢えて本書の中にこの章がおかれたことには独自の意味があるように思われる。推測になるが、ある時期まで運動に没入していた富田がそこから離れ、しかし「転向」という言葉を想起させるような全面離脱ではなく,志を保ちながら独自の活動を続けようとするに至る転機にどのようなことを考えていたのかは著者の自分史において大きな節目をなし、だからこそその節目の記録を残しておこうと考えたのではないだろうか。
富田が属していた「フロント(社会主義学生戦線)」という組織――上部団体は「統一社会主義同盟」――は、いわゆる構造改革派に属し、当時の左翼運動の中でいえば、相対的に穏健な団体だった。上部団体に知識人を多数かかえていたのも特徴で、『現代の理論』という雑誌がその主要なフォーラムをなしていた(この辺の事情は第二章で述べられている)。しかし、そのフロントは大学闘争の中で急進化し、「レーニン主義化」するようになった。富田はそうした変身に批判的だったとのことだが、それでも組織内にとどまり、一時期は「専従」にさえなった(この経緯は第四章で述べられている)。このような著者の精神史において重要な意味をもつ転機に書かれたものだということが、本章に独自の価値を与えている。もっとも、渦中に書かれた文章をもとにしているため、その「転機」の内実を距離をおいた地点から整理したり分析したりする作業はなされておらず、そのことも本章の読みにくさの一因であるように感じる*10。
この章の主要部分はノンセクト・ラディカル論にあてられている(日本共産党=民青および構造改革派にも触れられているが、いずれもノンセクト・ラディカルとの対比で取りあげられる形になっている)。その姿勢は「共感と批判を込めて」という章の副題に示されている。当時の様々な潮流のうちで特にノンセクト・ラディカルを取りあげて主題化すること自体、共感ないし期待があればこそであり、批判は期待の裏返しであるように思われる*11。
一口に「ノンセクト・ラディカル」といっても、その中にはいろいろな傾向の人たちが含まれており、極端にいえば「一人一党」だった。「ノンセクト」というと、あたかもいかなる党派にも属していないかの印象を与えるが、少なくとも早い時期に大きな役割を果たした年長の人たち(助手あるいは大学院生)は以前に何らかのセクトに属したことがあったはずだし、そこから離脱した後も、何らかの形で組織再建を試みていた人たちも多かったはずである。「組織再建」といっても、明確な形をとったわけではないし、既存の党派によく見られたセクト主義への反撥もあって、より緩やかなネットワークを志向していた人が多いだろうが、とにかく何の党派性もないわけではなく、それぞれに独自な党派性を持っていたというのが実態だろう。「ノンセクトという党派」というと一種の形容矛盾になるが、まさしくそういう形容矛盾の言葉によって指し示されるような特徴をもっていたのが「ノンセクト・ラディカル」だったのではないか。本章の第1節は、そうした多様な潮流のうち当時目立っていた部分を取りあげて、批判を加えている。この個所は当時の具体的状況を知らないとよく分からないという印象があるが、富田にとっては、相対的に近いからこそ苛立ちも覚えるという感じで批判を繰り広げたのではないかと思われる。
同じ章の第3節では、富田自身が属していたフロント(構造改革派)がノンセクト・ラディカルによって乗り越えられたという認識が示されている。もともとフロント活動家として出発した富田がノンセクト・ラディカルの影響をも受けつつ立場を変容させたことの窺える個所である。第1節と第3節をあわせていうなら、フロントを含む既存の諸セクトに批判的になりながら、ノンセクト・ラディカルの一部に見られたあれこれの欠陥に対しても批判をいだき、それらを超える新しい路線を模索する姿勢がここに示されているということになる。それは同時に「大学への復帰」とも重なり、学究生活と実践運動をどのように両立させるかという問題意識にもつながる。それが実際にどのような形をとったかが、これに続く第四章の主題となる。
四
第四章では東大闘争以後の時期の富田の歩みが述べられている。富田はこの時期のはじめの一〇年間は大学院に籍を置き、一九八八年以降は成蹊大学の教員として、一貫してソ連政治史研究に携わってきたが、それと同時に、精神障害者運動、身体障害者運動、女性差別反対運動、在日外国人の権利擁護運動、さらにはシベリア抑留関係者の体験発掘および伝承と慰霊の活動などといった種々の実践運動への関与を続けてきた。「革命運動」からは離れて、それでもある種の理念を手放すことなく、地道な実践運動を続けるのはもちろん敬服すべきことであり、富田のこの姿勢には感嘆するほかない。私など、原則的には似通ったような考えをいだきつつも、具体的な実践運動にタッチすることなしに過ごしてきた者としては叱咤される思いがする。
そういうわけで、安易な批判など許されないのだが、本章を読んでいていくつかの疑問が浮かばないわけではない。本章に見られる富田は実践的活動と研究活動の「二足の草鞋」を履いていたわけだが、はじめのうちは前者の方に軸足を置いていたのが、ある時期から後者に軸足を移したように見える。その一つの契機は大学教員に就職したことに伴い、研究教育上の義務が重くなったことにあるだろうが、それがすべてなのか、それ以外にも何らかの内的転換の契機があったのではないかという疑問が浮かぶが、その点については何も語られていない。
また、富田は単に専任教員となっただけでなく、ある時期以降は学部長職をはじめとする管理職にも就くようになった。いわば「大学当局」を代表する立場に立つようになったわけである。そのような立場に立ちつつ、それでもかつての大学闘争時の志を捨てまいとするにはどうすればよいのかというのは深刻な問題だったはずである。
一般論になるが、ある種の志を貫こうとしつつ、しかし具体的な環境の中でそれをストレートにそのまま実現することもできないという現実の中で、「許される妥協」と「これ以上の妥協は許されない」ということの間に線を引きながら生きていくことには大きな困難がつきまとう。おそらく富田は様々な局面でその種の困難に直面し、際どい選択や決断を迫られながら、その道を歩んできたのだろう。それはさぞ大変な人生だったろうと推測されるのだが、本章を読むだけでは、その困難性や富田の選択の意味があまり明確に浮かび上がらないような印象がある。
小さな一例だが、ロースクール(法科大学院)導入時の経緯がある。当時、成蹊大学法学部長だった富田は、成蹊大学にもこれを導入すべきだとの立場に立ち、「設立に消極的な学内の一部を説得し」、一部では「強引だ」と陰口をたたかれながらも、設立を推進したという(一四四頁)。この個所では、学生運動や政治活動の経験が大学運営にも役だったということが、誇らしげな筆致で書かれている。他方、第一章では、日本の法科大学院制度は「設計ミス」だったという評価が示され、「当時の成蹊大学法学部長として思い至らなかったことの反省」が述べられている(四〇頁)。この二つの個所がどういう関係にあるのかが気になるのだが、一四四頁では四〇頁のことが想起されていないため、その時期にどのような悩みがあったのかはあまりよく分からない*12。
いま挙げたのは小さな個別例に過ぎないが、やや一般化するなら、ここには次のような問題があるように思われる。ある時期以降の富田は、研究者・管理者・実践者という三つの顔を持っていたわけだが、この三者は常にうるわしい調和的関係にあるわけではなく、時として深刻な矛盾や緊張関係に立ったりしたはずである。富田はそうした緊張関係に耐えて、種々の悩みや迷いをかかえながら、その都度、相対的に有意義と思われる選択をしてきたのだろう。そのような推測が一応成り立つとして、本書の記述の表面にはそうした悩みや迷いが明示的には描かれておらず、むしろ明快な文体で快調に書き進んでいる観がある。読む人によっては、「この著者はおよそ悩みや迷いとは無縁な、ひたすら明るい人ではないか」と感じるかもしれない。
しかし、実際には悩みがなかったわけではなく、一見それがないかに見えるのは、本書があえてそういう書き方を選んだからなのかもしれない。一般読者向けの新書本という性格を考慮したのかもしれないし、個人の内心における悩みをさらけ出すのははしたないという「美学」のようなものもあるかもしれない。もっとも、本書が純然たる自分史であったなら、むしろ迷いや悩みを前面に出す書き方がふさわしいとも考えられる。富田がそういう書き方をとらないのは、本書が部分的に自分史的な要素を含みつつも、全体としては今なお社会問題への実践的関心をいだいている著者の「社会運動はいかにあるべきか」に関する考察――あえてやや強くいうなら方針提起――という性格の書物として書かれているからではないだろうか。運動の方針提起が狙いだとするなら、そこに種々の困難性や悩みがつきまとうのは当然だとしても、あまりそのことを表に出すのはふさわしくないという戦略的な発想があるのではないかという気もする。この点は本書全体の性格に関わるので、後で改めて考えてみたい。
本章ではその他、各種左翼運動への批判(=自己批判)やソ連史についても言及があるが、これらの点は次章で大きな位置を占めているので、その個所でまとめて考えることにしたい。
五
第五章は大学闘争に関する従来の研究の検討にあてられた第1節と「歴史家の見方」と題された第2節からなる。重要な個所なので、それぞれの節に分けて検討してみたい。
まず第1節で主たる検討対象として取りあげられているのは、小熊英二『1968』、安藤丈将『ニュー・レフト運動と市民社会』、小杉亮子『東大闘争の語り』の三著である。これらのうち小熊著に関する個所では小見出しに「批判」とあり、安藤著と小杉著に関する個所の小見出しは「批評」とある。どの著作にも長所と欠点があるという論述ではあるが、第一のものについてだけは欠点の指摘に力点がおかれていて、論争の姿勢が明白になっている*13。
三著のうちで最も高く評価されているのは小杉著である。小杉は大勢の当事者へのインタヴューに基づいてその著作を書いているが、富田自身がその中で大きな位置を占めていることを思えば、それも当然であるように見える*14。もっとも、富田は小杉著をやや自分に引きつけすぎて解釈しているのではないかという疑問も浮かばないではない。一つの例として、「戦略的政治」と「予示的政治」という小杉の主要概念に関する富田の解釈について見てみよう。「予示的政治」とはあまり耳慣れない用語だが、「社会運動の実践そのもののなかで、運動が望ましいと考える社会のあり方を予め示すような関係性や組織形態、合意形成の方途を具現化し、維持すること」を目指すような運動のあり方だというのが小杉の説明である。現実の例と対応させるなら、「戦略的政治」的発想は民青系や一部の新左翼系学生の語りの中に多くあらわれ、「予示的政治」の方はノンセクト系学生や一部の新左翼系学生から聞かれたという*15。富田はこれをうけて、「予示的政治」はノンセクト・ラディカルによって追求された、そしてそれは闘争敗北後も形を変え、別の場で生かされた、と記している。さらにそれに続けて、富田は小杉著の意義の一つとして、「予示的政治の可能性を提示したこと」を挙げている(一七二‐一七三頁)。ということは、富田は「戦略的政治」よりも「予示的政治」を良しとし、それが萌芽的に出現したことを東大闘争の意義と考え、またそれを掘り起こした点に小杉著の意義を見ているかのようである。
小杉著の中には確かにそうした解釈を可能にするような個所があり、富田の解釈が間違っているというわけではない。しかし、小杉著をよく読むと、いささかニュアンスを異にした個所もある。そこでは、戦略的政治と予示的政治は本来的には相補的関係――あるいは「対立しつつも共存可能」――であるはずであり、にもかかわらず現実には種々の事情から対立関係に立ってしまったという指摘がある。そして、東大闘争の参加者たちがその後も何らかの社会運動に携わっていたことを論じた個所では、戦略的政治への志向を維持した例、予示的政治に関与し続けた例、両者の間を往復している例が挙げられている*16。ということは、富田と違って小杉は戦略的政治よりも予示的政治の方がよいという価値判断をとっているわけではない――少なくとも、そのような判断を前面に押し出しているわけではない――ということになる。
富田の戦略的政治観はまとまった形で提示されてはいないが、全体的ニュアンスとしていえば、戦略的政治につきまといがちな独善性、セクト主義、利用主義、更には暴力行使への傾斜などといった負の側面を強調して、それよりは予示的政治に未来を見るという発想をとっているという印象を受ける*17。戦略的政治が現にしばしばそうしたマイナス面を伴っていたのは確かであり、そのことを思えば、これは理解できる心情である。だが、では戦略的政治抜きでの社会運動というものがありうるのだろうかという疑問も湧く。富田は予示的政治をノンセクト・ラディカルと結びつけているが、先に述べたようにノンセクトにもある種の党派性があり、そこには戦略的発想も浸透していた。こう書くと、富田はそれは当時のノンセクトの限界だと答えるかもしれない。だが、およそ一切の党派性も戦略性もない運動というものがありうるかと考えると、それはあまり現実的でないという気がする。半ば冗談、半ば本気で言わせてもらうなら、私の知る富田という人は非常に戦略的発想に長けた人――だからこそ、共同研究組織者・大学管理者・実践運動家として有能――である。あるいは、彼にとって戦略的発想があまりにも自然だからこそ、そこにとどまってはいけないと考えて、あえて戦略的政治より予示的政治を良しとする考えを打ち出しているのかもしれない。それはそれで、一つの考え方として分からないではない。ただとにかく本書の記述は、この問題に関する特定の価値判断を前面に押し出すものになっていて、小杉著との関係では「読み込みすぎ」との印象を受ける。
いま述べた点と関連するのが、「新しい社会運動」評価の問題である。「新しい社会運動」とは、古典的な労働運動・社会主義運動と区別される種々の住民運動、フェミニズム、エスニック・マイノリティの運動、差別反対運動、環境保護運動などを指す。その特徴としては、脱物質的価値観への傾斜、草の根志向、公私の区別への疑義提出などといった点があり、またその担い手は労働組合や社会主義政党ではなく、個々の具体的問題ごとに結集した「市民」の緩やかなネットワークであることが多い。古典的労働運動・社会主義運動と「新しい社会運動」の対比は「戦略的政治」と「予示的政治」の対比とピッタリ対応するわけではないが、ある程度重なりあうところがある。そして、富田の筆致は、古くさい労働運動・社会主義運動よりも「新しい社会運動」の方が未来を指し示すという感覚を表出しているように見える。一九六八‐六九年当時にそうした運動が確固として登場していたわけではないが、それでも当時の運動のなかに後の「新しい社会運動」につながる要素があったという考えに立って、「大学闘争を一九七〇‐八〇年代「新しい社会運動」の前史とみる視点」が明示的に打ち出されている(一四頁)。
ところで、小杉著にはこの問題に関連する興味深い指摘がある。小杉は社会運動の歴史を考える上での困難性の一つとして「史観」の問題を挙げている。それは、ある運動から他の運動へという変化を発展段階的に捉え、「より新しいと思われる運動の望ましさ」を前提して、それとつながる要素を特権化する一方、それ以外の要素を軽視することによって多様な運動の諸相を捉え損なってしまうのでないかという問題である。小杉は「新しい社会運動史観」もその一例であるとし、その具体例として山本義隆の著作と並んで他ならぬ富田の旧稿(本書第一章の母体となったもの)も挙げている*18。富田はこの批判を意識していないわけではなく、一六七頁でこの点に触れている。しかし、この批判をうけて富田がどう考え直したのかは明らかでない。本書は全体として、まさに「新しい社会運動史観」を体現した著作のように見える。それはそれで一つの見識であって、それでいけないというつもりはない。ただ、小杉による「史観」批判をどのように受けとめたのかを知りたいところである。
六
第五章の第2節に移る。この節は左翼運動の「負の遺産」の解明を課題とし、とりわけ暴力の問題を重視している。そこでは日本の各種左翼運動およびソ連史の諸局面における暴力の頻出が取り上げられ、それを批判的に克服すべきことが強く主張されている(この問題は第一章や第四章でも触れられていた)。
暴力をいとわしいものと感じ、何とかしてそれをなくしていきたいと考えるのはごく自然な心情である。私もできることならば暴力や流血など目にしたくないと考えるタイプの人間である。他面、人類の歴史は暴力に満ち満ちている。民主主義が広まったと通常考えられている二〇世紀の歴史も、革命・内戦・テロル・ジェノサイド・集団的追放等々の大量暴力で彩られてきた*19。では、こういう現実をどのように見つめたらよいのだろうか。
富田は歴史家であるだけでなく政治学者でもあるが、政治学者としての富田は常日頃から暴力や軍事の問題を冷徹に論じる姿勢の必要性を強調している。戦後日本の知識人の多数派が平和主義的心情を重視するあまり軍事の問題から目を逸らせてきたことを批判し、もっと積極的に軍事史を論じるべきだというのは富田の持論である。軍事といえば、組織された暴力の極致であり、大量の人命を奪う可能性を内包した領域だが、それをただひたすら疎ましがったり、忌み嫌ったりしているのではなく、冷徹に分析対象とする必要性を説いているわけである。ところが、その富田が革命運動やソ連史における暴力に関しては、冷徹さを失って道義的憤慨の口吻を示しているように見える。これは一体どういうわけだろうか。
ここで私がどういうことを問題にしているのかを多少敷衍してみたい。一般論になるが、大量暴力現象に関わる当事者は加害者・被害者・傍観者に分かれる。加害者はさらに指令者・執行者・イデオローグなどに分かれる(さらにいえば、加害者と被害者が入れ替わったりする場合もあり、それは事態を一層複雑にする)。さて、そうした当事者たちから時間的・空間的に離れた地点に位置する人が当該事象を知ったときの反応はいろいろあるかもしれないが、最も自然で素直な直観的反応は、「被害者たちは何とひどい目に遭ったのだろう」という同情あるいは慨嘆、そして「加害者や傍観者は何とひどいやつらだ」という憤激だろう。これはごく当然のことであって、何ら批判されるべきことではない。そのことを断わった上での話だが、そうした感情的反応だけでは大量暴力現象の歴史を深く理解することはできないし、できることなら再発を防ぎたいという狙いにも十分応えることはできないのではないか――ここに極めて深刻な問いがある。
人類の歴史において大量残虐現象が何度となく繰り返されてきたのは、「非人間的」とされる行為を「普通の人間」が犯してしまう――命令したり、実行したり、正当化したり、見て見ぬふりをしたりする――ことがあるからではないか。そして、自分自身もひょっとしたらある種の状況下では加害者になったり、傍観者になったりしてしまう可能性があるのではないか。そうした問題を考えようとするなら、加害者や傍観者の思考法や心情を内在的に理解しようと努めることも必要なのではないか。もっとも、これは際どい試みである。ミイラ取りがミイラになって、加害者や傍観者の立場も分かるという免罪論に通じてしまう懼れもある。そうした危険性を意識しつつも、歴史を理解しようと思うなら、やはりそこに踏み込まなくてはならないのではないか。
いま書いたような一般論について、おそらく富田は原則論としては賛成してくれるのではないかと思う。そして戦前戦中の日本軍国主義とかナチ時代のドイツについて考える際にはそのような態度が必要だと考えることだろう。ところが、ソ連史に関しては彼はそういう接近をとろうとせず、道徳主義的憤激をあらわにしている。これは彼にとってソ連史――および日本の左翼運動――が今なお完全に客体視できる対象ではなく、どこかしら「恥ずべき身内」という感覚があるからではないだろうか。その感覚は分からないではないし、私にとっても他人事ではない。だが、この節のタイトルを「歴史家の見方」と銘打つからには、そういう感覚を少なくともいったんは括弧に入れる必要があるのではないだろうか。私が富田と同業者であるために評価が辛くなりすぎているのかもしれないが、本書におけるソ連史への言及は「歴史家として」という言葉にはふさわしくないものと思われてならない。
やや個別的な例になるが、この節には、ペレストロイカ期の新資料公開――赤色テロルをレーニン自ら指令したことを示したもの――によって「レーニン観を変えた」と記した個所がある(一七九頁)。しかし、富田がかつて属していたフロントという組織はもともとレーニン主義に批判的だった潮流のはずである。今から半世紀前の左翼諸派は、大まかにいえばスターリン批判を共通項としつつ、「レーニンから疑え」とする潮流と「レーニン主義はスターリン主義とは異なる」という潮流に大別され、フロントは前者の方に属していた。もっとも、一九七〇年前後の時期には諸潮流ともこぞって「左翼」性を誇示しあう状況が生じ、フロントを含む「非レーニン主義派」も「過激化」「レーニン主義」化していったが、その時期に富田はそうした「左傾」に批判的で、組織内異端分子だった。そのような経緯を思い起こすなら、富田は一貫してレーニン主義には批判的だったということになるはずである。その富田がこんなにも遅い時期になって「レーニン観を変えた」というのはやや理解しがたいところがある*20。確かに、一般的に批判的だということと赤色テロルまで直接指令したと認めることの間には一定の距離があるだろう。それにしても、ここに述べられている衝撃は、富田が遅い時期まで引きずっていた思い入れの反映であり、対象を徹底して突き放して見てはいなかったことのあらわれではないだろうか。
七
最後に、本書の基本性格について考えてみたい。これまで見てきたように、本書には複数の構成要素がある。分けていうなら、@半世紀前の出来事としての東大闘争に関する、つとめて包括的たらんとした歴史叙述、A富田武というユニークな個性を持つ人間の自分史、B今なお社会問題への実践的関心を失っていない著者の「社会運動はいかにあるべきか」に関する考察の三つとなるだろう。これらは著者においては相互に無関係な事柄ではなく、だからこそ一書としてまとめられたわけだが、読者にとっては、それらはどういう関係にあるのか、それらの間での重点の置き方はどうなっているのかということが気になる。
私自身の読後感をいえば、これらのうち最も大きな位置を占めているのはBではないかという気がする。@は純然たる過去に関する歴史像提出というよりも、そこからどのような教訓を引き出して現在につなげるかの考察の素材としての性格が濃い。それは「一つのハブ」から見たものとして、それなりに包括性の高いものではあるが、それ以外にも別のハブがあるかもしれないことを意識していないのは、他の視点ではBにうまくつながらないと考えられたからではないだろうか。またAの要素は本書の主要部分というよりは、@やBにリアリティーを付与する限りで部分的に取り込まれる形になっている。そう考えるなら、三つの要素はBを中核とし、それへ向けて全体が組み立てられているというのが本書の基本性格ではないかと考えられる。
もちろん、それはそれで有意味な企図だし、そこから学ぶところも多い。ただ、これが「歴史として」論じるゆえんなのかと考えると、疑問がないわけでない。読者のうち、「歴史としての東大闘争」や富田の自分史に特に強い関心を寄せる人は、@やAでそれらが論じられながらもBに従属する感じになっていることを残念に思うかもしれない。もっとも、それは一冊の新書本に対する要望としては過大な要求、文字通りの望蜀の念というべきだろう。
いろいろと注文の多い書評になってしまったが、それというのも、本書に刺激されるところが大きかったからこそである。薄い新書本ではあるが、ずっしりと重い読後感を残す書物だと感じる。
(二〇一九年二月)
*1富田武『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(ちくま新書、二〇一九年)。
*2網羅的ではないが、ここ一、二年ほどの間に出た文献としてさしあたり思い浮かぶだけでも、東大闘争関連のものとして、小杉亮子『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』(新曜社、二〇一八年)、座談会「東大闘争50年――「確認書」の意義と今日の大学」『季論21』第四二号(二〇一八年秋)、和田英二『東大闘争――50年目のメモランダム』ウェイツ、二〇一八年、折原浩『東大闘争総括――戦後責任、ヴェーバー研究、現場実践』未来社、二〇一九年、日大闘争関連のものとして、三橋俊明『日大闘争と全共闘運動――日大闘争公開講座の記録』彩流社、二〇一八年、真武善行『日大全共闘1968――叛乱のクロニクル』白順社、二〇一八年、日仏にまたがる回想として鈴木道彦『私の1968年』閏月社、二〇一八年、より広い運動史一般として、10・8山崎博昭プロジェクト編『かつて10・8羽田闘争があった』(寄稿篇および記録資料編)、合同フォレスト、二〇一七‐一八年、大野光明・小杉亮子・松井隆志編『運動史とは何か――社会運動史研究1』新曜社、二〇一九年、高田武『地下潜行――高田裕子のバラード』社会評論社、二〇一八年などがある(筆者未見のものを含む)。
*3この点にこだわるのは、後述の「史観の問題」――ある特定の「史観」に立つがゆえに、それに適合的な部分を特権化する反面、それにそぐわないものを切り捨てるという問題――と関わるからである(後注18参照)。
*4私は後年、ある元東大教授が坂本=最首ラインとは別個に水面下での交渉を試みたが不調だったという回顧談を聞いたことがある(断片的な聞きかじりで、記憶が不正確であるおそれがあるので、実名を挙げるのは避ける)。
*5坂本義和『人間と国家――ある政治学徒の回想』下、岩波新書、二〇一一年、第一一章、小杉、前掲書、二五〇‐二五三頁参照。また、直接この問題に深入りしているわけではないが、清水靖久「銀杏並木の向こうのジャングル」『現代思想』二〇一四年八月臨時増刊号(丸山眞男特集)にも参考になるところがある。
*6自分自身のことについて立ち入るのは本稿の趣旨ではないが、富田との対比で私のことに触れておくなら、私はその当時はこういう接触があったとは全く知らなかった。もし知っていたなら、当時は、「そういう闇取引は許せない」と考えただろう。それから長い年月を経て考えると、この交渉不調の後にあまりにも大きな犠牲と後遺症を残す「玉砕」がやってきたことを思うなら、ある程度の限定的「成果」を得て矛を収めるという道がとられていた方がよかったのではないか――実際問題としては、それは非常に困難であり、ほとんど不可能だったろうが――という感想をいだくが、当時はそういうことは思いもよらなかった。
*7たまたま知った別の例として、川上徹・大窪一志『素描・1960年代』(同時代社、二〇〇七年)における大窪一志の自分史的記述がある。大窪は高校時代には数学少年、実存主義、そして社青同解放派の先輩の影響など雑多な経験をもちながら、大学では民青系の活動家となった(小杉、前掲書では、彼が匿名ながら重要な民青指導者として登場する)。彼はその後、他の多くの東大民青活動家たちとともに「新日和見主義者」事件に連なって日本共産党から離れたが、東大闘争の渦中においては全共闘と敵対的な関係にあったから、全共闘中心の東大闘争論においては「敵役」として以外には登場の余地がないということになる。そういう人の精神形成史が意外なほど私と共鳴するものを多く持っていることを知って私は驚嘆した。これも「一つの自分史」として興味深い例だが、それが東大闘争論とどう結びつくかは――少なくとも全共闘中心に考える限り――簡単には論じられない。
*8小熊英二『1968』上・下、新曜社、二〇〇九年には、比較的「軽い」感じで運動に参加した人のことを取りあげたとおぼしい個所が各所にある。そうした事例を当時の活動家全般に直ちに一般化するのは性急だし、「重い」実感を持つ人たちから「これはわれわれの実感と合致しない」という反撥を招くのも当然である。ただ、実際問題として、そうした「軽い」感じの参加者がかなりいたというのも一つの事実ではないかと思う。そのことをどう考えるかはもちろん別問題である。
*9自分自身のことについて詳論するのは本稿の課題ではないが、富田との比較において私のことに触れておくなら、私にとっても「あまりにも重かった」という感覚がある。しかし、どのような意味で重かったかといえば、その内容は富田とは相当大きく異なる。私が富田に対していだく曰く言い難いアンビヴァレンスは、一面において「重さ」の感覚を共有しながら、他面において「どういう重さか」が異なるためである。
*10本文にも書いたように富田はフロントの急進化に批判的だったようだが、それでもなおしばらくの間、その組織にとどまり続けた。第三章のもととなった文章は一九七一年七月時点のものということだが、第四章によれば富田が「専従」だったのは一九七四‐七八年とのことである。つまり、一九七一年にフロント批判の立場を明らかにしてからも、組織の「指導部」にいたことになる。その時期にどういう葛藤をかかえながら富田が組織内活動をしていたかまで書いてほしかったというのは、あまりにも多くを要求することになるだろうか。
*11この章では他の諸セクト(共産主義者同盟=ブント系の諸派、革共同中核派および革マル派、社青同解放派=革命的労働者協会、第四インターナショナル日本支部その他)は一切取り上げられていない。おそらく、これらはそもそも批判にも値しないという判断から度外視されたものと思われる。その価値判断に異を唱えるつもりはないが、当時の運動の中でそれなりの位置を占めていた諸潮流を無視するということは過去の歴史の再現という観点からは問題なしとしない。この点は後述する「史観の問題」と関係する(後注18参照)。
*12もう一つの小さな例として、「私の、東大闘争時とは正反対のように見える「大学の自治」「学問の自由」擁護の言論」という個所があり(一二四頁)、この辺ももう少し詳しく説明してほしいところである。
*13私見を言うなら、小熊『1968』は大著であるだけに、長所も短所もそれぞれ多岐にわたる。富田による短所の指摘はそれなりに当たっているが、もう少し丁寧に考えるべきであるにもかかわらず、やや議論が性急ではないかという印象を受ける。前注8のほか、同書への私の読書ノート(塩川伸明ホームページの「読書ノート」欄収録)および「再論」(同「新しいノート」欄収録)参照。
*14ついでながら、私自身も小杉のインタヴュー対象者となったが、私の語りは同書には出てこない。小杉『東大闘争の語り』に関する私の批評文(塩川伸明ホームページのうちの「新しいノート」欄に収録)の注2を参照。
*15小杉、前掲書、二一‐二三、三七四‐三七六頁(強調は原文のもの)。
*16小杉、前掲書、二三、三七四‐三九九頁。
*17本章ではなく次の章だが、「従来の「戦略的政治」は行き詰まった」と書かれた個所もある(一八二頁)。
*18小杉、前掲書、六‐八頁および二六頁の注2(これは道場親信の問題提起をうけたもの)。より詳しくは、小杉「「史観」の困難と生活史の可能性――一九六〇年代学生運動研究の経験から」大野道明・小杉亮子・松井隆志編『運動史とは何か――社会運動史研究1』新曜社、二〇一九年参照。
*19二〇世紀ヨーロッパの歴史を「内戦の時代」「炎と血の時代」と捉えるエンツォ・トラヴェルソ『ヨーロッパの内戦――炎と血の時代』(未来社、二〇一八年)参照。
*20なお、章末にレーニンの民族自決論は今でも意義を認めると記した個所があるのにも目を引かれた(一八三頁)。私はレーニンのありとあらゆる諸側面を全面否定すべきだという考えには同調しないが、民族自決論についてはむしろもっと批判的に再検討すべきだという考えに傾いており、ここのところは評価が大きく分かれる。