ソ連人文・社会科学の社会学(一九八六年執筆の未定稿
 
塩川伸明
 
*ここに掲げる未定稿は元来、一九八六年初夏に執筆し、以後、推敲のいとまのないままに放置していたものである。八六年初夏といえば、ゴルバチョフがソ連共産党書記長になってから一年余を過ぎ、まさにこの頃からペレストロイカが本格化しようとしていた時期である。その後のペレストロイカの展開があまりにも波乱に満ちたものとなり、そのプロセスを追うことに全ての精力をさかざるを得なくなったことが、本稿をそのまま放置した最大の理由である。その後の変化が甚大なものだったことはいうまでもなく、本稿の主題に関わる現実の情勢も大きく変わり、それに関わる各種情報も急増した。その意味で、本稿はおよそアップ・トゥー・デートならざるものになっている。それでも敢えてこの原稿――当時はまだワープロを使っておらず、乱雑な手稿だった――を新たにパソコン入力してみる気になったのは、数十年放置していたものをたまたま発見して懐かしい思いがしたという私情があることは否定できないが、それだけでなく、「ペレストロイカ本格化前夜」という時点における一つの記録という意味があるのではないかという気がするからでもある。
 いま読み直すと、対象の変化も巨大だし、その時点における状況認識――いまからいえば「歴史」の一部――も、いろんな意味で不十分性を免れない(部分的には、その時点で分かったはずの情報の欠落や、事実誤認も含まれる)。もし現時点で同種のテーマに本格的に取り組む人がいるなら、そうした人からは、この程度のことしか考えていなかったのかと言われそうで、恥ずかしい思いもする。それでも、まさにそのこと自体が一種の歴史的記録ないし証言という意味を持つのではないかとも思われる。そしてまた、このテーマに関する研究が管見の限りそれほど進んできたわけではない現状では、この程度のものでもまだ捨て石程度の意味があるのではないかという気がしないでもない。
 いずれにせよ、これは私自身が長いこと放置し、忘れていた旧稿であり、いまの自分と直接つながる作品ではない(文体も、最近の私の文章とは異なったところがある)。初稿執筆後に持続的にこのテーマを温め続けていたわけではなく、認識上の進捗ほほとんどない。そこで、敢えて一切の修正を施すことなく、当時の原稿をそのまま再現することにする。もしこれを踏み台にして、より本格的な研究に進んでくれる人が現われるならこの上ない幸いである。
(二〇一三年一〇月記)。
 
 
 われわれロシア・ソ連研究者は、日頃、ソ連の人文および社会科学者の仕事に様々な意味で恩恵をこうむっている。もちろん、原資料の利用可能性が昔に比べて格段と広がったおかげで、ソ連人研究者の仕事に依拠せずに自力で研究を進める可能性は大幅に増しているし、オリジナルな研究というものはそれを基礎とすべきものであることはいうまでもない。また、ソ連人研究者の書いたものを読んで、種々の不満や歯がゆさを感じることもしばしばである。しかし、そのような留保をつけるにしても、外国研究に携わる者にとってその本国の研究者が発表している業績は、なんといっても無視できない重みをもつ。彼らの仕事にどのような限界・欠陥がまとわりついているにしても、ともかくそこには本国人にしか書けない何かがあり、外国人たるわれわれはそこから謙虚に学ばなければならない。このことは、今更いうまでもなく、多くの同業者にとって共通の確認事項であろう。
 にもかかわらず、われわれはソ連の人文・社会科学者のおかれている社会的・制度的条件について――そしてその中で彼らがどのように模索し、苦悩し、努力しているかについて――ごく表面的にしか知らないのではないだろうか。もっとも、一概に「われわれ」といってしまうのは乱暴に過ぎるであろう。ソ連の研究者と深い親交を結び、彼らの外面も内面もよく知りつくしているような何人かの尊敬すべき先輩・同僚もいないではない。しかし、敢えて単純化していってしまえば、そのような人々の数は今のところごく僅かであり、その人たちがもっている豊かな情報はその他の人々に十分広くは分かちもたれていないというのが実情ではないだろうか。私自身を含めて、多くの日本のロシア・ソ連研究者は、ソ連人研究者が、どのような環境の中で、どのような制約条件を課せられ、どのように模索しているかについて、一定程度の断片的な情報をもっているにとどまり、それ以上深いことは知らないままに彼らの書いたものを読んでいるのだといったら誇張であろうか。
 このような状態を克服するために先ずもって必要とされるのは、われわれのソ連における同業者たる人文・社会科学者たちが、どのような社会的・制度的条件におかれているかについて、できる限り詳しい情報を、それも可能な限り体系化され整備された形でもつことであろう。いわば「ソ連人文・社会科学の社会学(また過去に向かっては、その社会史)」が必要とされるのである。しかし、それを実現するにはいくつかの困難がある。そこには、ソ連における情報のあり方という問題もからんではいるが、同時に、これはそこに十分眼を向けてこなかったわれわれの問題でもある。
 私はこれまでも折りにふれてこうした問題を考えないわけではなかったが、これを切実に考えるようになったのは比較的最近のことである。実をいえば、ここには、私のソ連滞在がこの面では十分な成果をあげえなかったという苦い経験への反省が関係している。一九八三年に二ヶ月、一九八五‐八六年に五ヶ月(当初は一〇ヶ月の希望であったが、半分に短縮されてしまった)訪ソした際、私は、この点に関して外国では得られない貴重な情報にかなり接することができるのではないかという秘かな期待をいだいていた。その期待は、全面的にとはいわないまでも相当程度裏切られた。いくつか興味深い情報に接する機会がないではなかったが、それらがあまりに断片的であることは、それらをいわば「氷山の一角」たらしめている巨大な氷山そのものについて知り得ないことへの歯がゆさ、欲求不満を一層つのらせることとなった。私自身の人づきあいの悪さを棚に上げていえば、ここには、そもそもソ連を訪問する機会がきわめて限られていることや、ソ連という国がこの点に限らず一般的に情報公開の精神の乏しいことなどが関係している。この小文執筆の一つの動機は、こうした状況への欲求不満に発している。切実に考え始めたのがごく最近であるためごく不十分な覚書にしかならないことを承知の上で、一つの叩き台として、いくつかの手がかりについて試論風に考えてみたい。私の調べ方が足りないために、本当はとうの昔に解決済みである問題をわざわざ遅ればせに考え始めているだけかもしれないし、また重要な手がかりを見落としているかもしれない。そうした点については、予め読者の宥恕を乞うと同時に、建設的な御教示が寄せられることを切に願うものである。
 
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 さて、これまでにこうした問題に目を向け、一定の努力を払った例が全くないわけではない。最も顕著な例は、和田春樹氏が戦後ソ連の歴史学について書いた三本の論文(『ロシア史研究』第二五号、三二号、『社会科学研究』第三七巻第五号)であろう。和田氏がこれを更に発展させて、全面的なソ連史学史論を書かれること、また歴史学の領域にとどまらず、各種の人文・社会科学の領域で同様の仕事が生み出されることを切に願わずにはおれない。
 初めの方でもふれたように、わが国でも何人かのロシア・ソ連研究者は、ソ連人研究者と深い親交を結び、彼らの研究生活――場合によっては私生活も――を内面に立ち入ってよく理解しておられる。そうした方が長い時間をかけて徐々に得られた知識を直ちに全面的に公開してもらって分かちもとうというのは、安易で虫のいい発想かもしれない。しかし、日ソ交流の枠が極度に狭く、またソ連人研究者と内面的にたちいって深く交流することに種々の制約がある現状のもとでは、少なくとも差しさわりのない範囲の情報について、それをより広い人々の共有財産にしていくということも、日本のロシア・ソ連研究を前進させていく上で、一定の役割を果たすのではなかろうか。相当古いものであるが、藤田勇氏が『みすず』一九六五年五、八月号に書かれた文章などは、その貴重な一例といえよう。
 他方、欧米では、周知のようにソ連の人文・社会科学のいくつかの領域に関する個別研究があるが、それと同時にもう一つ注目すべき点として、ここ十数年の間に大量に出国した元ソ連人インテリによって、内側からソ連学界を描いた著作がいくつか発表されていることがあげられる。私自身がまだ参照していないものを含めて、それらを列挙するならば、次のようなものがある。先ず歴史学の領域では、既にかなり有名になっているものであるが、ネクリチの回想(А. Некрич. Отрешись от страха. Лондон, 1979)。経済学の領域では、かつて中央数理経済研究所にいた著者によるAron Katsenelenboigen, Soviet Economic Thought and Political Power in the USSR, Pergamon Press, 1980. 社会学の領域では、D. Shalin, "The Development of Soviet Sociology, 1956-1976." Annual Review of Sociology, vol. 4 (1978); Ilya Zemtsov, IKSI: The Moscow Institute of Applied Social Research (text in Russian), Soviet and East European Research Centre, Hebrew University, Soviet Insitutions Series, No. 6, 1976など多数。なお、法学の領域では、一九八一年に出国したオリンビアード・ソロモノヴィチ・ヨッフェがおそらく最大の大物であろうが、出国後にいくつかの著作を出してはいるものの、ソ連法学界の内情に直接ふれてはいないようである。もちろん、これらは、出国した人々によって書かれたという一事に端的に示されるバイアスが含まれていることは否定できない。しかし、比較的最近までソ連学界の内部にいた人々による証言は、その点を考慮してもやはり貴重なものといわなければならないであろう。
 これに対して、ソ連内部で活動している研究者自身が彼らの研究環境について書いたものは、これよりも一層「内から」のものといえるはずのものであるが、量的にも質的にも不十分というのが実態であるように思われる。もっとも、公式的な説明に類するものは、探せばかなりあるであろう。しかし、その中から有意義な情報を選り分けるのはなかなか骨の折れる作業である。なお、公式的説明の集大成的なものとして、いささか古いが、ユネスコの発意によりソ連科学アカデミーによって編集されたSocial Science in the USSR, Paris and The Hague: Mouton, 1965がある。同種の、もっと新しいものがあるのか否かは知らない。
 また、概して、ソ連人は欧米人に比べ回想を書くことが少ない。これも彼らの内面世界を知る上で一つの障害であろう。いくつかのソ連人学者によって書かれた回想類がないわけではない。しかし、彼らの書いた研究書を――単に祖述したり、個別的データを拾ったりするのでなく――その行間を読んで真に読解するのが容易でないように、あれらの回想類もまたそう簡単に読み解けるものではなさそうである。従って、こうした文献をいかに探し出すだけでなく、いかに利用するかもまた真剣に考えるべき一つの課題となろう。
 
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 研究者の内面にたちいった深い理解というものは、いずれにしてもそう簡単に得られるものではないが、より外面的なデータ――所属機関、その機関の全体的位置・組織構造、その中での個々人の位置、生年等々――についてはどうであろうか。これらは、もちろん直ちに研究者の内面を明らかにするものではないが、それについて考えるいくつかの手がかりを与えてくれるものではあろう。たとえば、ある人の生年(従って世代)がわかれば、その人が研究者として育った時代環境について、おおよその推測をめぐらすことができるし、所属機関である種の大がかりな組織替えがあったということがわかれば、それが研究者にとってどのような意味をもったかについても想像をめぐらすことが可能となる。
 世代ということに関してもう一言いえば、たとえば、もはや死に絶えつつある世代であるが、革命前夜に既に自己形成を一定程度始めていた人たちを考えることができる。彼らはあるいは学業よりも地下革命運動に熱心なボリシェヴィキであり、あるいは労働運動に関与したメンシェヴィキであり、更にはいわゆる「ブルジョワ社会科学者」であったかもしれない。後二者の場合、二〇年代にはボリシェヴィキに転向した者と、「非党員専門家」として活動した者とにわかれる。いずれにしても、三〇年代‐五〇年代前半には辛い日々を送った可能性が大きい。しかし、そのブランクをこえて五〇‐七〇年代に再び活躍したような人も少なくはない(文革後の中国でも同様の例があると伝え聞く。この比較も興味深い論点である)。これよりはもう少し若い、今世紀初頭‐革命前後生まれの世代――生きていれば七〇‐八〇歳代になる――もまた、三〇‐五〇年代前半の日々を成人として過ごしているわけで、直接に「いわれなき弾圧」をこうむった人に限らず、そのような体験を免れた人にしても、自らの同僚がそうした目にあうのをどのような感情をいだきながら見守っていたかは、ほとんど語られることのない、しかしソ連科学史の重要な一ページであろう。こうした点について深く突っ込んだ理解を得ることは極度に難しいが、それでも研究者の世代別一覧表と各人のごく大ざっぱな略歴でも明らかになれば、それはそれで大変興味深いものになろう。
 生年に限らず外面的データというものは、一つ一つをとってみれば無味乾燥なものであるが、それらを大量かつ系統的に集められれば、そこから面白い観察を引きだすことも可能になるかもしれない。先に「ソ連人文・社会科学の社会学(あるいは社会史)」ということを述べたが、もしそのようなものができあがるとしたら、右に述べたような外面的データの大量かつ系統的な収集ということは、さしあたりその最も基礎的な作業ということになるはずである。
 研究機関および研究者個々人に関する諸種の外面的データというものは、一部の特殊な例を除けば特に秘密とされる性質のものではなく、従ってソ連についてもこの種のデータを個別的・断片的に入手することは難しいことではない。しかし、問題は、それがまさしく断片的なものにとどまり、系統的なものとなっていない点にある。何とかして、もっと系統的な情報を手に入れるすべはないであろうか。いくつかの手がかりをあげながら考えてみたい。
 先ず研究機関については、個々の研究者に比べれば数が少ないだけに、大ざっぱな概観的データを得ることは相対的には容易である。たとえばСправочник телефонов научных, учебных и дошкольных учреждений Московской телефонной сети. 1985. М., 1985というものがある。標題の示すとおり、モスクワの研究・教育機関を、アカデミー所属研究所・大学から小学校・幼稚園に至るまで網羅的に並べ、住所と電話番号を示したものである。それ以外の情報(内部構造・所長等)を含まず、またモスクワに限られてはいるが、刊行年からしてこの種の最も新しい情報を集めたものといえよう。
 右の電話帳よりはやや情報が古くなるが、より網羅的にデータを集めたものとして、アメリカのケナン研究所の編集したSoviet Research Institutions Project, 3 vols. and a supplement, 1980-81がある。これは三巻あわせて一七〇〇頁にも及ぶ大冊であって、人文・社会科学の一五の分野にわたって、それぞれの学問がソ連でどのような発展を遂げてきたかについての簡単な解説に始まって、アカデミー関係研究所・大学、党関係・政府関係の、知られている限りあらゆる研究機関を、それもモスクワ、レニングラード、キエフ、ノヴォシビルスクといった大都市のみならず、ソ連全土の都市にわたって徹底的にリストアップしている。記載事項は、住所、電話、上部機関、所長名、簡単な歴史、よく知られている研究領域、等であって、ごく簡単な記載にとどめられているものも多いが、有名な研究所・大学については時として五‐六ページにも及ぶ解説が付されている。時々、記載さるべき事項が空欄になっていることもあるし、一九八一年以降の変化は当然のことながらふれられていない(たとえば社会学研究所所長リャブシキンからイワノフへの交替、アガンベギャンのノヴォシビルスクからモスクワへの移動、プリマコフの東洋学研究所所長から世界経済国際関係研究所所長への移動、中央数理経済研究所の分割、等)。しかしともかく、この徹底した情報収集には脱帽するほかない。なお、同書の冒頭に、編集に協力した人々への謝辞があるが、ここには延々三ページにわたって三〇〇名以上の人名があがっている。その中にはもちろん欧米の研究者や、現在欧米に住んでいる元ソ連人も含まれるが、少なからぬ数の人が現にソ連に住み、活躍している学者である。またワシントンのソ連大使館にも感謝の念が述べられている。本書にもられているのが、特に秘密とされる情報でない以上、それをソ連人学者がアメリカに提供することに何の不思議もない。不思議なのはむしろ、このようなものがアメリカ出る前に何故ソ連で出されなかったかということであろう。
 研究機関については右のもので、ほぼ完全に近く情報が整理されている。一つだけ付け加えておくと、研究機関の内部組織については、主だったものについては相当詳しく書かれているものの、それでも完全ではない(つまり、代表的な部があげられているだけで、他にも未知の部がありうるといった記載になっている)。この点は、ソ連で秘密にされていることなのかどうか、私はよく知らない。おそらく、はっきりと秘密扱いされているのではなく、ただ何となく情報を出し惜しんでいるといったところではなかろうか。たまたま知りえた一例についていうと、アカデミー系のある研究所については、その部構成と各部長が一覧表の形でわかっている。このような例がもっとふえれば、われわれの知識はより確実なものとなろう。ゴルバチョフ書記長が就任以来力説してやまない「グラースノスチ(公開性)」がこの面にまで及ぶことを願わずにはいられない。
 
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 研究機関に比べ、個々人についてのデータは、個別的・断片的にならともかく、系統的・網羅的に収集するのは相当困難である。あるいはソ連でそうしたものがあるかもしれないが、私は寡聞にして知らない。欧米ではいくつかの人名録があり、一定の範囲で有用なものであるが、私の目にふれたものは、どれも完全には程遠い。代表的なものは、こういうものを使わねばならないとは残念な話であるが、アメリカCIAの編集した人名録(Directory of Soviet Officials, Washington, DC)である。これは何巻にもわかれ、党および政府の連邦および共和国レヴェルでの要人が相当の比重を占めているが、そのうちの一巻が科学・教育関係にあてられている(私の知る限りこの巻は一九八〇、八三、八四、八五の四版がある)。しかし、その収録範囲は基本的にアカデミー会員(正・準)および諸研究所長・副所長クラスどまりであって、その意味ではたかが知れている(もっともその範囲内で生年月日を含めて徹底的にデータを並べているのは役に立つことは立つ)。
 これに比べ、ラジオ・リバティ編の『ソ連経済学者・社会学者・人口学者人名録』(Краткий перечень экономистов, социологов и демографов по сферам их деятельности. 1985. タイトルだけでなく中味もロシア語である)は、表題の三分野に限定されているという面はあるにしても、その範囲内ではかなり多くの人々をあげ、しかもわりと詳しい解説(生年、入党年、主たる経歴等)を――もちろんわかる範囲内で――つけている。こうした人名録がもっと他の分野についてもあらわれ、かつ収録範囲も更に広がれば、先に述べたデータの系統的収集という課題は相当程度はたされることになるわけであるが、その見込みはどのくらいあるのであろうか。なお、一九八五年以降逐次刊行されているSoviet Biographical Series, by J. L. Schererも、その第一巻第三号(一九八五)をアカデミー関係にあてている。
 このようにいくつかの人名録があるとはいえ、その収録範囲・記載事項ともに限られており、到底これらだけで十分とはいえない。アカデミー会員や研究所長のような「大物」は別にして、もっと多くの人々について様々なデータを拾い集めるという作業は、公式の研究機関の制度について情報を集めるよりもはるかに骨の折れる作業なのである。ひょっとしたらアメリカのどこかの機関のコンピューター作業によって先をこされるということもありえないわけではないが、当面はわれわれ自身が手工業的にデータを集める作業をしてみるほかないのではなかろうか。
 そのような作業の素材となりうるものには、いくつかの種類がある。まず、既にあげた一連の人名録に載っているものはそれを利用することができる。またソ連の学術雑誌は、それぞれにスタイルが異なっているが、ともかく執筆者紹介を載せているものが少なくない。丁寧な例は、Социологические исследованияで、これは肩書き・所属・主著、この雑誌に以前いつ登場したかなどが記されている。これほど丁寧ではないが、とにかく執筆者の肩書きおよび所属を明らかにしているものも多い。しかし、学位しか示されていなかったり、何の紹介のない雑誌もある。漠然たる印象論をいえば、少しずつ執筆者紹介が丁寧になる傾向にあるようではある(ただ、相当詳しい場合でさえも、肩書きがただ○○研究所セクトル長とだけあって、具体的に何というセクトルの長であるのかを示したものがほとんどないのは残念である)。またソ連ででている各種の事典、年鑑類からもいろいろのデータを拾うことができるが、それらに載っているのはもちろん「名士」だけである。
 欧米で出ている人名録は、現存の人しかあげていないものが多い。「今」、そして「明日」どうなるかに関心が集中しているからであろう。しかし、「ソ連人文・社会科学の社会」を考えようとするなら、故人についてのデータも無視できない。それに、故人についての方が、現存の人についてよりもデータを得やすいという利点がある。周知のように、一定程度以上有名な研究者であれば必ず死亡直後に関係雑誌に死亡記事が載り、その中に略歴も記載される。これは、一つ一つをとってみればたいした情報を伝えないものであっても、それらを集積すれば非常に有用なものとなる可能性がある(余談だが、死亡記事の重要性は、つとに欧米のクレムリノロジストの注目するところである。しかし、もちろん彼らは主として政治家の死亡記事に注意を集中しており、社会科学者・人文科学者の動静にまでは目を配っていないようである)ソ連の各種学術雑誌数種類をここ二〇‐三〇年分ばかり並べて、その死亡記事の中にもられた個人データを集めるだけでも、戦後ソ連で活躍した主立った学者たちについての、ある程度まで系統的な情報が得られることになるだろう。
 今一つ注目してよいのは、学位(博士候補および博士)に関する情報(取得年・分野・テーマ・学位授与機関)である。ソ連人は概してあまり個人データを積極的に公表しようとしないので、生年のような単純なデータさえはっきりしない人が多い。しかし博士候補号取得年がわかれば、特殊な経歴をたどった人を別にして、およその生年を推定することできる。生年(従って世代)は、先にもふれたが、その人の育った時代環境を知る上で重要な手がかりである。そして、周知のように、レーニン図書館の学位論文部には、一九四五年以降のあらゆる学位論文が原則としてすべてカード化されている。従って一定の労力と時間をかければ、学位号に関するかなりの量のデータを集めることができることになる。
 
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 まだこの他にも様々な手がかりがあるであろうが、私が今の段階で思いつくのはこの程度のものである。いずれも特に新奇なものではない。ただ必要なのは、それらを粘り強く追いかけて系統的に収集することである。おそらくそれは相当の根気と時間を必要とするであろう。「ソ連人文・社会科学の社会学(あるいは社会史)」を本格的に手がけようとする人が現われて一定期間その仕事に専念してくれれば何とかなるかもしれないが、そうした人が現われず、他の専門をもった人間がいわば本業の傍らにやるにしては手間のかかりすぎる仕事である。そうした状態の中で唯一考えられるのは、多くの人が協力して少しずつ自分の知っている情報を交換しあい、今後も長期間にわたって情報収集と交換を続け、それを徐々に体系化していくといった道である。私がこの試論を書いた一つの動機は、これは自分一人でやりとげるには大きすぎる作業であり、むしろこうした共同作業を広く呼びかけることの方が大きな意義を持つのではないかと考えた点にある。この小文が一つのきっかけとなって、そうした共同作業がいつか実現する日が来るならば望外の幸いである。
 
(一九八六年七月)