喜安朗・北原敦・岡本充弘・谷川稔編『歴史として、記憶として』に寄せて
 
 
一 はじめに
 
 一九七〇年代から八〇年代前半にかけて、『社会運動史』というユニークな雑誌が刊行されていた。大学や学会の発行ではなく「同人誌」という体裁のものであり、おそらく発行部数はあまり多くなかったろうが、そのわりには、当時の若手研究者の間での影響力は相当大きなものだった。この雑誌が廃刊となってから数十年経ち、その存在自体が多くの人から忘れられているのではないかと思われるが、このたび、かつて同誌に蝟集していた歴史家たちを中心として、その仕事を種々の角度から振り返った文章を集めた論集が刊行された(第一部と第二部は当事者の手になるもので、回想もしくは資料記録的な性格が濃く、第三部は同誌にあまり関与しなかった人たちの論評が主となっている(1))。同書が刊行されて間もない二〇一三年六月一五日には、東洋大学で公開書評会が開かれ、かなりの人数が集まった。
 何らかの書物について論じる際、筆者自身がそれにどのような関係を持っているのかを長々と論じるのは、一般論として言えばあまりよい趣味ではない。だが、本書の場合、論者の関わり抜きに「客観的」に論じることがふさわしくない書物だという事情があり、その問題を避けて通るわけにはいかない。私はこの歴史家集団の一員だったわけでもなければ、同誌に寄稿したこともなく、その意味では純然たる部外者である。しかし、大学院時代の先輩たちの多くがこの集団に属していたことから、かなり強い影響を若い時期に受けたという意味では、彼らは私にとって決して無縁ではなく、それどころか非常に近い存在だった。研究生活初期における少し年長の先輩たちは、意識するとしないとに関わらず大きな影響を及ぼすものだが、同時に、その「圧力」からどうやって自己を引き離し、彼らに対する独自性を打ち立てるかという課題も強く意識するため、ある意味では「ライヴァル」的存在でもある。私は「社会運動史」グループに半ば圧倒されながら、何とかして圧倒されまいと悪戦苦闘を続けていたという感覚がある。
 そうした事情のせいか、私は正直に言ってこの雑誌のよき読者ではなかったし、時として反撥したりしてもいた。その感覚は、それから数十年を隔てた今も、完全に払拭されたわけではない。本書に接した感想として、若い時期に親しんでいたものに久しぶりに巡りあったという懐かしさを覚えたのはいうまでもないが、それと同時に、微妙な違和感もないわけではなく、云うに云われぬアンビヴァレンスに引き裂かれる思いをした。公開書評会の場では、大多数の出席者――とりわけ若い人たち――が礼儀作法をわきまえた行儀よい態度をとっていたが、それを見て、かつては「異端児」「反逆者」だった人たちがいまや功成り名遂げた「大家」となっていることに何か皮肉めいた感想もいだいてしまった。誤解のないよう断わっておかねばならないが、私がかつても今もこの雑誌と集団に微妙な違和感を覚えるのは、決して「他人事」的な感覚の故ではない。それはむしろ、若い時期に圧倒的な影響を受けつつ、それに対してどのような距離をとるかを考えあぐねている自分自身への苛立ちのあらわれでもある。
 この小文は、そのようなアンビヴァレンスを前提に、同誌に集っていた年長世代とも、また同誌廃刊後に研究生活を始めた若い世代とも対話を交わしつつ、歴史学のあり方について再考してみようとする試みである。もっとも、年長世代に対しても若い世代に対しても、幾重もの意味でねじれた関係があるため、この「対話の試み」はなかなか本来的な意味での「対話」とはならず、むしろ「どうしてこんなにも対話が難しいのか」を考えるような話になる可能性が高い。そのことと関係して、学術的問題提起でもなければ私小説風のエッセイでもなく、やや中途半端な性格の文章になることについては予めご寛恕を乞うしかない(なお、年長世代にとって自明だったはずの事項が今ではあまり知られなくなっているのではないかと思われることから、その種の事項についてもある程度注釈めいたことを付け加えるが、それほど徹底してはおらず、その意味でも中途半端性を免れない)。
 
二 史学史の流れ――戦後歴史学・社会運動史・社会史
 
 本書は通常の「史学史」という枠には収まりきらないところがあるが、それでも大まかにはそのジャンルに属すると見るのが常識的だろう。そこで、まずその観点から考えてみたい。
 一般に史学史というジャンルについては、いろんな考え方があるだろう。知的世界における一種の流行なのかもしれないし、自分たちの職業的営為を歴史的に考察せずにいられないのは、歴史家の業のようなものかもしれない。私個人についていうなら、自分たちのやってきた仕事それ自体を歴史として見る――つまり、単なる懐旧談ではなく、突き放した目で対象化する――作業に常日頃から心惹かれるものがあり(2)、本書に着目したのもその一つのあらわれである。
 この問題について考える上で念頭に思い浮かぶのは、E・H・カーの「先ず歴史家を研究せよ」という言葉である。周知のところだが、カーは、歴史的事実とは純粋な形式で存在するものではなく、記録者の心を通して屈折してくるものだということを強調し、われわれが歴史書を読む際に最初の関心事は、その書物が含んでいる事実ではなく、その本を書いた歴史家であるべきだと指摘している(3)。この指摘を拡張して考えるなら、過去の歴史家たちが書き残してきたものは、それぞれの時点で、それぞれの歴史家たちが、様々な状況の中で一定の位置取りをしながら歴史について書き記したものの集成であるから、そこにおいて「書かれている歴史」について考える作業と、「書いている歴史家たち」について考えることは表裏一体をなす。後者が史学史に当たるとするなら、それは歴史研究そのものにおいて中核的な意義を持つということになるだろう(4)
 前置きが長くなってしまったが、本書(および公開書評会における多くの参加者の発言)では、「戦後歴史学」→「社会運動史」→「社会史」という図式がしばしば提示されており、それが戦後日本史学史の太い線をなしているように感じられる。もっとも、それがすべてというわけではなく、その図式への修正や異議申し立てもあちこちに散見される。社会運動史の後に社会史がやってきたのではなく、むしろ社会史が部分的に先行していた、あるいは同時的存在だったのではないかとか、一部の社会運動史関係者は社会史に反撥を覚えていたようだが、両者は対立するものではないのではないか、等々である。
 内実について立ち入った理解をもっているわけではないが、大まかな感想を言わせてもらうなら、社会運動史も社会史も多様な要素からなる以上、それぞれのある部分が別の部分よりも古かったり、新しかったりといったズレがあるのは驚くに値しないし、ある部分が他の部分に対して強く反撥することと、両者の間に大きな共通性があることとは矛盾するものではないだろう。そう考えるなら、上記の図式への個々の修正や異論についてこだわる必要性は、少なくとも私にはあまり強く感じられない。
 私がむしろ関心を引かれるのは、一九七〇年代に大きな光を放っていた「社会運動史」とはどういう特徴を持っていたのか、そしてそれはどのようにして一九八〇年代半ばの終焉を迎えたのか(5)という問題である。そのことを考えるためには、少し前にさかのぼってみなくてはならない。
 『社会運動史』誌発刊に先立つ時期の歴史学(いわゆる「戦後歴史学」)においては、「階級闘争」「民族解放闘争」「人民闘争」などが好んで取り上げられており(6)、そこには現実の政治運動との強い連関性があった。しかし、六〇年安保闘争から若干の中間期を経て六八年をピークとする大学闘争高揚という展開を経る中で、「階級闘争」「民族解放闘争」「人民闘争」等の概念を桎梏と感じる人たちが増え、そうした違和感をバネに、「何か別のもの」として対象に迫ろうとする姿勢が次第に結晶し、それが「社会運動」と言い表わされたのではないだろうか。そして、そこにおける「何か別のもの」をとらえる視線は、やがて人類学との遭遇などを含めて、広義の「社会史」的なものへとつながっていく。その意味では、「社会運動史」と「社会史」は確かに一定の共通性をもつだろう。そのことを確認した上での話だが、前者に「運動」の語があり、後者にないのは、単なる外形的な差異以上の意味をもつのではないだろうか。
 対象を「階級闘争」「民族解放闘争」「人民闘争」などの概念で押さえるか、「何か別のもの」という観点を重視するか、これは確かに大きな違いである。だが、観点はともかくとして、政府や権力に対抗する「運動」や「闘争」を主要な研究対象とする限りでは、「戦後歴史学」と「社会運動史」の間には、ある種の連続性があったように思われる。これに対し、「社会史」は、もちろん「運動」の要素を全面的に排除するわけではないが、ともかくそれを最重要の研究対象とは位置づけていない。ここには明確な差異がある。そこには、おそらく現実世界における「運動」というもの自体の衰退とそれへの関心の後退という時代背景があるだろう。この点については、「社会運動史」グループよりも一回り若い世代に属する小田中直樹が的確に指摘している(二六七‐二六八頁)。「階級闘争」「民族解放闘争」「人民闘争」といった概念だけでなく、そもそも「闘争」とか「運動」というテーマ設定自体があまり流行らなくなったのが、その後の時代の基調であり、だからこそ、「社会史」には「運動」の語が含まれていないということではないだろうか。
 もっとも、その後も「運動」というものが全く無意味になったわけではない。いろんな折に、いろいろな国で種々の「運動」が展開し、それぞれに人々の注目を集めてきた。それらの「運動」がどの程度持続的な意義を持ち得たかと考えてみると、あまりぱっとした展望が得られるわけではなさそうな気もするが、それはともかくとして、とにかく現に種々の「運動」が無になったわけではない以上、かつての幻想的期待に戻るわけではないにしても、それらをどのように観察し、把握するかという問題は、現代史上の論点として残るだろう。
 以上では「社会運動史」と「社会史」の関係を中心に考えてきたが、両者の前に位置づけられている「戦後歴史学」についても簡単に触れておきたい。「社会運動史」にせよ「社会史」にせよ、「戦後歴史学」の後に登場したという自意識を持っている以上、「戦後歴史学」は乗り越えるべきもの――もしくは、既に乗り越えられたもの――という扱い方を多くの論者が示している。ある世代の人たちが自分たちの独自性を強調するために、前世代に対して批判の態度を強く打ち出すのはよくあることだし、にもかかわらず、実際にはなにがしかの連続性・継承性の要素をもっているというのも、珍しい話ではない。先行世代を「あれは古い」といって片付けるのは安易なわざだが、どこがどのように古く、どこをどのように受け継ぐべきかは、もっと丁寧に考えるべき問題だろう。
 この観点からするなら、この集団の「長老」ともいうべき位置にある喜安朗がむしろ「戦後歴史学」からの一定の連続性の要素を明示し、特に江口朴郎の役割を重視している点(八‐一四頁)は注目に値する。喜安が江口の「継承者」ともいえる面をもっていることは、谷川稔論文でも指摘されている(二〇一頁)。もっとも、同じ喜安は別のところで、ある時期以降の江口に対して辛い評価を示し、「江口さんの退化だと思う」とも書いている(7)。私自身は正直に言って江口史学については不案内で、「退化」以前も「退化」以後もあまりピンとこないのだが、とにかくこうした両義的見地が示されている以上、その関連を詰めて考える作業は不可欠ではないだろうか。
 この点と間接的にのみ関わる一つの小さな例だが、北原敦論文には、ファシズム論においてディミトロフの定義からの脱却が重要な意味を持ったことが述べられている(七九‐八〇頁)。私などはディミトロフの「呪縛」を直接経験したことのない世代に属するが、かつてこの問題がもった重みは想像することができ、「そうだったんだろうなあ」と了解することは可能である。だが、問題はそこで終わらない。かつて相当期間にわたって広い範囲の人々の頭にのしかかっていた「呪縛」があったという事実は、それ自体が一個の歴史的事実であり、それこそ「史学史」的研究の対象として然るべきだろう。ところが、北原によれば、この呪縛は「いまでは一顧だにされない」とのことであり、「ファシズムの実態の分析が進むにつれ、研究者の間でのコミンテルンのファシズム論への関心は薄れていった」とある。ファシズム論を研究対象とする限りにおいては、それでよいのだろう。だが、それとは別に、戦後日本の――考えようによっては「戦後日本」と限る必要もないのだが、とりあえずその範囲にとどめておく――歴史学において一時期絶大な権威をふるった「呪縛」なるものをどう対象化するかという課題は、いわば精神史上の独立したテーマとして残るのではないだろうか。
 これはもちろん、それ自体としては小さな問題に過ぎない。だが、敢えて大風呂敷を広げた暴論をさせてもらうなら、江口朴郎の統一戦線論が「戦後歴史学のマルクス主義から柔軟にはみ出しているところ」があり(九頁)、「包容力のある、いわば『大乗的』な認識だった」(二三五頁)とされるのは、まさにコミンテルン第七回大会の人民戦線戦術を一つの重要な発想源とし、ディミトロフの系譜上に位置するからではないだろうか。ファシズム理解にとっては桎梏でしかない議論が、幅広い人々――歴史家だけには限られないが、歴史家も含む――を結集させ、彼らを柔軟に結びつける上では大きな役割を果たしたとするなら、そのことの意味をどのように歴史的に理解するのか、これは考えてみるに値する問題ではないだろうか。この問題は、より広くいえばマルクス主義一般の評価へとつながっていくが、その点は第四項で改めて考えることにする。
 
三 「現代史と時間感覚」という観点から
 
 一口に「史学史」といっても、それはかなり多様なものを含みうる。ヘロドトスとか司馬遷といった遠い昔の歴史家を取り上げて、彼らとその作品について考える作業もあれば、本書のように、比較的近い時期の歴史研究――その主人公の多くはいまでも存命である――を取り上げる場合もある。この観点から言えば、本書は現代史に属する一つの作品と見ることができる。すべての歴史は現代史であるという観点からすれば、文字通りの現代史ともっと古い時代の歴史とを殊更に峻別する必要はないのかもしれないが、私のように現代史に取り組んでいる人間にとっては、「現代史は他の歴史に対してどういう特殊性をもつのか」という問いは切実な意味を持っている。
 私が特に注目したいのは、歴史を書いたり読んだりする人にとっての「現在」と書かれる対象としての「過去」とが相対的に近く、また、その距離感自体が急速に変化していく――一年前のことが一〇年前のことになり、二〇年前のことになる中で、距離感が大きく変わっていく――ということである。世代という観点から言っても、現代史の対象は、ある世代にとっては自分自身が目撃した「同時代史」であるのに対し、ある世代にとっては生まれる前に起きた「遠い過去」だという違いがある。この問題に関し、私は「現代史における時間感覚」という文章を書いたことがある(8)。そこでは事件・歴史家・読者という三者の間の時間的距離関係を問題にしたが、史学史となると、「史学史的研究の対象となる歴史家」と「史学史的研究の遂行主体たる歴史家」とが分かれるから、相互関係はより一層複雑となる。事件・先行する歴史家・後続する歴史家・読者という四者の間での複合的な時間的距離感およびその変遷を見定めることが必要となるわけである。
 抽象的な書き方をしたが、具体的に考えてみよう。「社会運動史」グループのうちの比較的年長世代は一九三〇年代生まれで、私よりも十数歳年長ということになる。彼らが歴史研究を始めたのは一九五〇年代後半から六〇年代にかけてのことであり、それが『社会運動史』誌発足の前史をなす。本書第一部、とりわけ加藤晴康論文と北原敦論文は、それぞれに異なった視角からその時期の状況をヴィヴィッドに描いている。一九五〇年代後半から六〇年代にかけてといえば、私はまだ小・中学生ないしせいぜい高校生だったから、当時の社会情勢に関する直接の記憶はない。しかし、高校時代の私は「大人の世界」を垣間見ようとして、「大人」向けのいろんな文章を断片的に読みかじり、その世界にあこがれていた経験を持つので、加藤や北原が書いている事柄は、何となくこんな風だったのではないかという想像をめぐらすことができる程度には身近である。彼らよりも更に年長たる喜安朗についても、ある程度まで同様のことが言えるし、より若い一九四〇年代生まれの人たち(本書第二部に寄稿)に至っては、より近い存在と感じられる。このように、「直接は知らないが、何となく想像がつく」という程度の近さを感じるのは、彼らと私の年齢差がせいぜい十数年程度だという事情によるところが大きいだろう。
 では、もっと若い読者の場合はどうだろうか。たとえば一九八〇年代後半ないし九〇年前後に生まれた世代を取り上げるなら、「社会運動史」グループの歴史家たちは彼らよりも四、五〇歳程度年長であり、『社会運動史』が刊行されていた時期やその前史に当たる時期は、彼らが生まれるよりも二、三〇年程度前のことということになる。では、この「四、五〇歳程度年長」、「生まれるよりも二、三〇年程度前」という時間的距離はどういう意味を持つだろうか。私の場合に置き換えて考えるなら、「四、五〇歳程度年長」といえば一九世紀末ないし二〇世紀初頭あたりに生まれた世代となり、「生まれるよりも二、三〇年程度前」の出来事といえば両大戦間期の世界ということになるが、これはどちらも実感的想像をするには遠すぎる対象である。だからといって、そうした対象を理解することが不可能だというわけではない。どんなに遠い過去であっても、あれこれの方法で想像したり理解したりしようとするのが歴史学の営みである。だが、歴史家ならぬ一般人が、殊更に歴史研究ということを意識しなくても「これは自分で見て知っている」「これは直接は知らないが、何となく見当がつく」という感覚を持てるのが同時代史だとするなら、その感覚が届く範囲にあるかどうかが同時代史かどうかの岐かれ目ということになる。
 もちろん個人差というものがあるから、あまり簡単に一般化することはできないが、自分より十歳程度年長の人というものは、直接対面するかどうかに関わりなく、とにかくその背中が見えるところにあり、何とかして追いつこうとしたり、なかなか追いつけないことに歯がみしたりする相手である。また自分より二、三〇歳程度年長の人は、自分の親や先生に当たることが多いから、親・先生という存在になぞらえて理解することになりやすい。これに対し、四、五〇歳以上年長ともなると、多くの場合、自分の先生よりももっと歳上で、伝説上の人物――存命だとしても、なかなか顔を見ることもできず、いわば写真や肖像画を通してだけ見知る――という感じになる。実物の顔や背中ではなく写真や肖像画だけを通じて知るという意味では、遠い昔の人物とあまり変わらない距離感になるかもしれない。
 繰り返しになるが、そのような遠さがあるからといって、相手を認識することが不可能だとか、その営みが無意味だということになるわけではない。ただとにかく、そのような距離感を明晰に意識して、どうやったらそのギャップを超えた対話ができるかと考えることが、時間を超え世代を超えた相互コミュニケーションを図る上で大事なのではないかというのが、ここで言いたい点である。年長者の側が自己の過去について書くときにも、年少者がそうしたものを読む際にも、それぞれにそうした距離感を測りながら書いたり読んだりしないわけにはいかない。もっと近い間柄の場合には、あまり詳しい説明をしないでも、何となく「ああ、あのことか」という感じで了解されるようなことを、より遠い間柄では、敢えて言語化しなくてはならない。
 本書の刊行は、そうしたコミュニケーションのための貴重な第一歩たり得るだろう。だが、まだまだなさねばならないことは多く残っているとも感じる。この小文自体、そのようなコミュニケーション促進のためのささやかな捨て石のつもりである。
 
四 「知の社会史」という観点から
 
 本書の公開書評会の席上、私は「史学史」という枠にこだわるのではなく、経済学なり法学なり社会学なり政治学なりその他いろんな分野の研究の歴史にまで視野を広げて、いわば戦後日本社会思想史の一環として、「諸学の歴史」ともいうべき作業を試みてよいのではないかという趣旨のことを述べた。その問題提起を私自身が十分具体化できるというわけではないが、簡単な思いつきを書き連ねてみたい。
 具体的な一例として、一九四六年創立の民主主義科学者協会(略称、「民科」)というものを挙げることができる。この団体は、いまでは知る人も少なくなっているし、私自身、民科最盛期よりも大分後に大学に入った世代なので、それほどよく知っているわけではないのだが、とにかく一時期には相当大きな影響力を誇る団体だった。政治的には日本共産党とつながる団体だったが、戦後初期の同党がいまでは想像しにくいほどの威信と影響力を持っていたことのあらわれとして、この団体には、自然科学・人文科学・社会科学の諸分野にまたがって、広範な研究者たちが結集していたようである(「ようである」などと及び腰の表現をとるのは、当時のことを直接知っているわけではないからである)。高名な日本史家、石母田正はこの民科の書記局員を務めていたとのことだから、これは歴史学にも深く関わる存在だったはずである。
 民科の影響力が最も大きかったのは、おそらく一九四〇年代後半から五〇年代半ばくらいのことであり、その後、種々の事情から衰退局面へと転じた。この衰退には、各分野における学問内在的な事情と、学問と政治の関係(日本共産党の政策におけるジグザグ)とが複合的に絡まっていただろう。また、後者についても、日本国内における独自の事情――一時の武装闘争路線から、一九五五年の第六回全国共産党協議会(六全共)における自己批判に象徴される党内闘争の展開――と、国際的な要因――最大の衝撃として一九五六年のソ連におけるスターリン批判と同年のハンガリー事件――とが複合的に作用していただろう。そうした諸要因を丹念に解きほぐしていくことは、今後の大きな課題として残っている。
 いずれにせよ、一九六〇年前後には民科は解体状況に陥り、かつての威信は過去のものとなった(本部の運営体制が崩壊したのは五七年とのこと)。しかし、その後も、一部の部会は個別の活動を続けた。私の知る範囲でいうと、二つの部会が長期の持続性を発揮した点で特筆に値する。その一つは民科法律部会で、これは驚くべきことに、いまでもその名を守って活動を継続している(9)。また民科歴史部会は「歴史科学協議会」への改称(一九六七年)を経てその後も存続し、『歴史評論』誌を刊行している。ということは、「民科」総体はいまでは遠い過去の存在となっているにしても、その後継団体は今なお「現役」の団体として、日本の歴史学の中で一定の位置を占めているわけである。もちろん、かつてと現在の間には種々の変遷があるだろうから、過去からの経緯だけで現在のことを安直に裁断すべきではないが、かといって、そうした経緯を全く忘れ去ってよいとも思えない。
 『歴史として、記憶として』に戻ると、この論集では、『歴史学研究』がしばしば「パルタイ」(日本共産党のこと)と直結した形で言及され、『社会運動史』はそれに対抗する位置にあったとされている。しかし、「パルタイ」とより密着していたのは『歴史評論』の方であり、『歴史学研究』はいわば正統左翼とリベラルの共同戦線のような様相を呈していた――そして、その「共同戦線」の端っこの方には「新左翼」的傾向も含まれ得た――というのが実態に近いのではないだろうか。「社会運動史」グループは、一面で『歴史学研究』に対抗意識を持ちながら、時として協力したりしてもいたことが本書各所で触れられているが、そうした対抗をはらんだ提携ともいうべき関係は、もっと丁寧に振り返られるべきだろう。また、『史学雑誌』はこれらとは全く異なる性格のものだが、とにかく高い「権威」をもつ、いわばアカデミズムの中枢ともいうべき位置を占めていた。「社会運動史」は一方で既存アカデミズムのあり方を批判しつつ、他方で、その中で小さからぬ位置を占めていたことが本書でも断片的に述べられているが、この点についても特に掘り下げた議論はない。そして『歴史評論』については、私の気づいた限りでは、本書中にほとんど全く言及がない。ある世代までの人たちにとっては、これらの相互関係は自明で、言わずもがなだったのだろうが、広義左翼内での主導権争いともいうべきこの構図が今では過去のものとなり、若い世代にはあまりピンとこなくなっているだろうことを思うなら、そうした構図をきちんと振り返った上で、その意味について改めて考えていく作業が必要だろう。何もかもを一挙に論じろと要求するのは無理な話だから、本書がそこまで踏み込んでいないのは無理からぬことだとしても、今後の課題としては、「知の社会史」という観点からこれらを総合的に描き出す必要があるように思われる。
 民科という団体について私自身それほどよく知っているわけではないにもかかわらず、ここで敢えて民科を取り上げたのは、戦後日本思想史あるいは社会科学史におけるマルクス主義の再考といったテーマに関わると考えるからである。
 かつて日本の社会科学全般に大きな影響力をふるったマルクス主義が、その限界や問題点を指摘されるようになり、遂にはむしろ否定論が優勢になるという推移は、それなりに理由のあることであり、私自身もマルクス主義復興論を唱えるつもりはない。だが、その上で、今度は距離を置いて、それこそ「歴史として」マルクス主義的社会科学を対象化することができるのではないだろうか。にもかかわらず、そうした作業はこれまでのところあまりなされていないように感じる。本書は全体として、「戦後歴史学」にも、そのバックボーンをなすマルクス主義に対しても批判的だが、その一部には、やや安易な批判ではないかと感じさせるところがなくもない。かつて猛威をふるったものに対して批判的態度をとること自体はよいが、それが過去のものとなった以上は、いつまでも死者に鞭打つ行為を続けるのではなく、もっときめ細かい分析が必要なのではないか。
 いわずもがなだが、マルクス主義的社会科学には多様な潮流が含まれ、決して一枚岩ではない。スターリン批判を経た一九六〇年代以降は、それまでの正統解釈を種々の形で批判する新潮流も多数現われた。これはいまから五〇年も前のことであり、マルクス主義の多様化は半世紀以上の歴史を持っている。そうやって登場した新潮流のどれもが、今となっては限界をもっていたと言えば言えるから、そのうちのあれこれを殊更に持ち上げるつもりはない。ただとにかく、歴史的事実として、単数ではなく複数のマルクス主義があったことは確かであり、とすればそれらを歴史として振り返るときにも、そうした複数性を念頭におくことが不可欠だろう。
 日本のマルクス(主義)経済学が講座派と労農派に大きく二分されることはよく知られている(細かくいえば、この両派のどちらにもいろんな分岐があったし、そのどちらにも属さない独自の潮流もあったが)。ところが、歴史学の世界では講座派が圧倒的な影響をふるったため、歴史学に関してマルクス主義を振り返るといえば専ら講座派が論じられることになりやすい。本書でも同様である。それはそれで理解できることだが、講座派批判だけで満足しているなら、講座派的でない潮流はどうなのかという問題が抜け落ちることになる。
 歴史学の世界とは対照的に、少なくとも東京大学を中心とする東日本の経済学の世界では、かつての労農派の系譜を引く宇野弘蔵の経済学が、マルクス(主義)経済学――余談ながら、彼ら自身はマルクス「主義」経済学という呼称を嫌って、「主義」の語のない「マルクス経済学」という言い方を採用していた――の主流というべき位置を占めていた。この経済学を歴史に適用する試みはそれほど多かったわけではないが、それでも全くなかったわけではない。
 私ごときに本格的な解説能力があるわけではないが、宇野経済学の一つの眼目は、帝国主義段階における資本主義の純粋化傾向の逆転という指摘にあった。この観点に立つなら、講座派が「資本主義化(≒近代化)の遅れ」ととらえたものは、帝国主義段階における資本主義の構成要素であって、単なる「遅れ」ではないということになる。これは、後に流行する世界システム論や従属論をある意味で先取りするところがあり、世界史における共時性を重視する観点とも共通するところがある。この観点をどう評価するかという問題は、講座派だけを相手取ったマルクス主義批判よりも広い射程を持つのではなかろうか。
 このように書いたからといって、私は宇野経済学が現代に生きるものだとまで持ち上げるつもりはない。一時期影響を受けたのは事実だが、やはり今となっては、講座派とは別の意味で限界をもっていたと考える。ただとにかく、これも日本思想史上の一コマとして記録しておくべきではないかということである。
 
五 全共闘運動ないし新左翼運動との関わり
 
 ある研究者がどのような政治的経験を持ったかということと、その人の研究とを直結するのは安直な議論になりやすく、避けるべきである。だが、それにしても、この歴史家集団のうちには、とりわけ青春期に何らかの形で政治運動と関わった経験の持ち主が多いことは事実だし、その点は当事者たちにとっても、暗黙にではあれ何ほどか意識されていたはずである。とすれば、単純な政治還元論の愚を警戒しつつも、この問題を全く無視するわけにもいかないだろう。
 一般に世代論というものは、ある程度当たっている面と、「世代にすべてが還元されるわけではないのに、それで割り切ろうとするのは乱暴だ」という面とがある。同じ時期に生まれ育ち、同じ事件に同年齢で出くわした人たちも、その事件にどのように対したかはそれぞれに異なっているし、後になってそれをどのように振り返るかとなると、もっと多様である。具体的にいって、一九六〇年代末の大学闘争高揚時に大学生だった人たちはしばしば「全共闘世代」と呼ばれるが、彼らが全共闘運動にどのように関わったか、後にそれをどのように振り返っているか――もしくは忘れ去っているか――はそれぞれに多様であり、決してひとくくりにできるものではない。にもかかわらず、同世代の人たちは同じ時期に同じ出来事にぶつかったという限りでは一定の共通性をもつということも否定しがたい。ぶつかった上で、どのような関係を持ち、どのような態度をとったかは一様でないが、とにかくぶつかった世代とぶつからなかった世代、あるいはその出来事の起きた時点で若者だった世代と中年以上の歳に達していた世代とでは、やはり時代感覚が異なる。こういうわけで、世代論の限界をわきまえた上で、ある世代の経験というものを想定し、そうした世代的経験を持った人たちの知的軌跡を考える作業はそれなりに有意味だろう。
 「社会運動史」グループを大まかに三つほどの世代に分けるとするなら、第一世代(一九三〇年代生まれ)の場合、スターリン批判およびハンガリー事件の衝撃と六〇年安保闘争――そこでは、日本共産党に対抗する共産主義者同盟(ブント)が大きな役割を果たした――の経験が大きな意味を持っただろう。これは戦後日本左翼運動史の文脈でいえば、いわゆる「新左翼」が生まれつつあった時期ということになる(10)。次いで第二世代(一九四〇年代前半生まれ)が大学生活を送った六〇年代半ばはしばしば「谷間の時期」などと言われるが、それでも、日韓条約反対闘争やヴェトナム戦争反対運動があった。そして、第三世代(一九四〇年代後半生まれ)が大学に入学した直後に、まさに全国で大学闘争が高揚し、全共闘運動が盛んになった。それから数年後、大学闘争が沈静化して、大学が「正常化」していった一九七〇年頃から「社会運動史」グループの活動が始まるのだが、その時期には直前の出来事の記憶がまだ生々しく、その「残り香」のようなものはあちこちに感じられたはずである。
 このような経緯を確認するのは悪しき政治主義とのそしりを招くかもしれない。そのおそれは確かにある。私とても、こうした事実から性急に何らかの結論を主張しようという気はない。だが、現に少なからぬ当事者たちがこのような「政治」への関わり――それは必ずしも直接的・全面的参与を指すわけではなく、もっと屈折したものを含む――を意識していたのが事実であってみれば、それを無視するのも妥当ではない。
 しかも、全共闘運動の一つの大きな要素として、既存の学問・学界・学者・アカデミズムのあり方への根底的な批判があり、「大学解体」「自己否定」が叫ばれたりしたという事実がある。こうしたスローガンは、振り返っていえば現実離れした空論だったと片付けられるにしても、その時点においてはそうした問題提起が多くの人々の心を揺さぶっていたこと自体が一個の歴史的事実だったということは否定しがたい。
 そのことの受け止め方は人によって異なっただろうが、その時点で大学院生だった人たちにとってとりわけて重い意味をもったのではないかという気がする。当時既に大学で教職に就いていた人たちにも、もちろんいろんな悩みや迷いがあっただろうが、彼らにとってはその職を放棄するという道は――ごく少数の例外を別として――考えられなかったろうから、選択の余地は限られていたのではないか(あくまで推測に過ぎないが)。逆に、もっと若く、大学に入って間もなかった人たち――私自身、この年代に属する――の場合、学問や学者のあり方への批判を口にはしても、所詮は抽象性を免れず、それが自分自身にとってどういう問題を突きつけることになるのかということが、当時から十分明確に意識されていたわけではない。これに対し、当時大学院生だった――ないし、もうすぐそうなろうとしていた――人たちは、まさしく批判の対象としていた学問のあり方が彼らの眼前にあり、その対象とどう闘うのか、あるいは妥協――場合によっては敗北――するのかが厳しく問われていたように思われる。いってみれば、彼らは既存の学問に関わる制度そのものを否定しようとする「アウトサイダー」的態度をとりながら、現実に研究者となっていくためには、学位取得・留学・就職・研究実績作りなどの節目ごとに制度への妥協を迫られ、「インサイダー」化せざるを得なかったのである(11)
 本書のいくつかの個所で述べられているところだが、東京大学大学院の国際関係論コースでは、全共闘派の大学院生が修士論文提出拒否闘争をしばらく続けた後、これ以上提出しないでいると退学になるという時点で、苦渋の選択と内部論争があったようである(六四、八五‐八六頁)。また、谷川稔論文には、「当時京大L共闘〔文学部共闘会議のことだろう〕に参加した者にとって、院進学は終生拭い去れない負い目、背教の十字架」であり、「留年や院浪人して『禊ぎ』できなかった筆者には、特注の針のむしろが待っていた」とある(一八八頁(12)
 これほど尖鋭な状況が突きつけられたのは一部の例にとどまるのかもしれない。場合によっては、学生運動に理解を持つ教官の下で、比較的穏和な条件が保持されていた例もあるだろう(後注17参照)。それにしても、「アカデミズムの作法」そのものに反逆しようという姿勢は多くの人に共通していただろうし、そのことは、山本秀行の言葉を借りるなら、「自分たちが批判していたことが、わが身にふりかかってくるという『ブーメラン的状況』」(一一六‐一一八頁)という問題意識を突きつけただろう。既存学界への強烈な対抗意識があり、それでいながら微妙な協力・提携もあったということについては、本書のいくつかの個所で断片的ながら触れられている。
 『社会運動史』が終刊となった一九八〇年代半ばは、現実の「運動」が衰退して久しく、前述の「残り香」さえも消えつつあった時代だった。それに加えて、多くの関係者が大学に教職を得て、アカデミズムの世界に一定の位置を占めるに至っていたことも、終刊の直接の原因とはいえないまでも、遠い背景になっていたのではないか――このように想定するのは部外者の僻目だろうか。
 こういうことを記しておきながら自分のことを隠しているのはフェアでないので、私自身の場合について書いておく。私は学生運動に長いことこだわった後に、通常より大幅に遅れて大学を卒業して、一九七四年に大学院に入った。その頃には、もうすっかり「大学正常化」が完了しており、かつての「反逆者」の大半が「転向」を済ませていたから、もう一人が遅ればせに「転向」したからといって、それが殊更に話題になる状況ではなく、谷川のような「特注の針のむしろ」には遭わずにすんだ。それでも、ときおり人々の視線に「暗黙の糾弾」を感じることはあり、それは心に突き刺さる棘として残った。「暗黙」の糾弾である以上、それに対して答えるということもあり得なかったが、この棘を忘れずにいることが自分に課せられた宿題だという思いはずっとあった。後に最初の著作を出したときに、私はそのあとがきで、「学術書」にはふさわしくない心境告白めいた文章を書いた(13)。普通ならこの種のことは公けにしないのが「大人」の態度だろうが、それでも現にあった事実を隠すのは潔くないという思いがあったからである。むやみやたらと私小説じみた心境告白を公けにするのははしたないことだという感覚は私にもあり、べったりとした告白めいたことはその後、基本的に繰り返さないようにしている。それでも、大なり小なりそれに関わりのあることを書く機会が何度かなかったわけではなく、これも「棘」の意識のなせるわざである。
 「社会運動史」グループの多くの人が共有していた一種の心的態度として、既存のアカデミズム、とりわけそこにおける権威主義への強烈な反逆精神をいだきながら、研究(者)の世界と全面的に絶縁するわけでもなく、複雑なアンビヴァレンスをいだきながら新たな研究スタイルを模索したという点がある。その点だけは、この集団の部外者たる私も共有している。このような小文を草しているのも、そのような思いがあるからこそである。
 
補論:西洋史研究と日本史研究
 
 「社会運動史」グループはごく少数の例外を除き、ほとんどもっぱら西洋史研究者たちからなっている。近代日本史の松沢哲成が強烈な問題提起をしたということが本書の各所で触れられているが、それが具体的にどのような研究につながったのかは明らかでない。また、元来ロシア革命を研究していた長尾久が、日本の中の民族問題へと方向転換を宣言したのも『社会運動史』誌上においてのことだったが(14)、その転換後の日本研究が本誌に公表されることもなかった。
 私は西洋史研究についても日本史研究についても部外者であり、それぞれの動向およびその相互関係についてこれといった見識を有しているわけではない。ただ、ごく漠然たる感覚としてであるが、両者の間には奇妙な乖離があるのではないかという気がする。あくまでも素人的な問題提起としてであるが、その点について補論として書いておきたい。
 私が西洋史研究と日本史研究の雰囲気の違いのようなものを意識するようになったのは、一つのエピソード的な出来事をきっかけとしている。一九九四年刊のある著作で、私は「今日、教条派・正統派〔マルクス主義者〕は、ごく少数残っているとはいえ、もう全く問題にならない存在であり、揶揄的な言い方を許してもらえば『歴史記念物』として博物館に保存したいくらいである。そのような部分を批判することには、私はさしたる意味を見いださない」と書いたことがある(15)。新聞紙上の書評でこれを取り上げたある日本史研究者は、自分の研究領域では正統派はまだ大きな影響力を保っており、これを「博物館行き」とあしらうのは釈然としないと指摘した(16)。この書評者は私にとって未知の人だったが、私は同紙書評欄担当気付で同氏に手紙を送り、少なくとも東大西洋史周辺で私の知る限りでは、正統派左翼よりも「新左翼」的な傾向の方が主流だと思うということを書いた。すると、書評者から返事が来て、西洋史がそういう状況だということは初めて知った、日本史との違いを痛感する、というようなことが書かれていた(17)
 その後も、ときおり似た感覚をいだく機会があったが、特にその感を強めたのは、須田努『イコンの崩壊』という書物に接したときである。同書は日本史の領域における戦後歴史学の反省に取り組んだものであり、その限りでごく大まかにいえば、西洋史研究とも共通するところがあるし、その企図は一応了解できる。にもかかわらず、読後にいくつかの違和感が残った。著者は「戦後歴史学」は一九八九‐九一年に社会主義国家の崩壊に対応することができず、そのことでその役割を終えたと主張するのだが(18)、私の感覚では、現存社会主義にせよそれを「進歩」の基準とする歴史観にせよ、一九八九年よりもずっと前から疑問にさらされていたはずなので、「何で今頃になって?」という疑問を覚えずにはいられなかった(19)。そのことと関連して、一九八九年に先立つ一九七〇‐八〇年代の歴史学を「人民闘争史」を中心に描いていることについても、大きな違和感があった。一九七〇‐八〇年代といえば、まさしく『社会運動史』と重なる時期だが、後者の眼からは「教条主義的」として論敵扱いされていたであろう(20)潮流――雑誌で言えば『歴史評論』に代表される――が、同書では主流的な扱いを受けているわけである。
 この本の著者である須田は、最近、あるシンポジウムで史学史をめぐる報告を行なったが(二〇一二年一二月二日、成蹊大学)、そこでは「戦後歴史学から社会史へ」ともいうべき構図が示されていた。両端だけをとってみれば西洋史研究とあまり変わらないが、その途中経過に大きな違いがあるという感じである。当日、私は須田に、『社会運動史』をどのように位置づけるのかと質問してみたが、それへの回答は、これまで視野に入っていなかったが、質問を受けてこれから勉強したい、というものだった。
 上に書いたのは、歴史学の状況を詳しく知っているわけではない人間の漠然たる思いつきに過ぎない。本論集に戻るなら、日本史関係のものは極小だが、唯一の例外ともいうべき成田龍一論文は、日本史では『社会運動史』に匹敵する動きが乏しかったとして、次のように述べている。一九八〇年前後にいくつかの形で「正統派」への違和感が提起されたとはいえ(21)、「正統派」の影響はまだ強いものがあった。そのことの背景にある一つの事情として、「『社会運動史』グループの大多数に相当する世代……が、日本史研究では陥没している」ことを挙げることができ、そのことは「一九八〇年代以降の日本史研究と西洋史研究との差異をつくりだす、一つの要因‐理由」であり、それは「『六八年』に象徴される一九七〇年前後の社会運動・学生運動に起因している」、というのである(三〇六‐三一一頁)。
 この成田の整理は、私が漠然といだいていた推測と大まかに重なる。とすれば、日本史研究と西洋史研究は、全体としての相互関係はともかくとして、少なくとも「社会運動史」に関わる局面では相当大きく隔たっていたことになる。とはいえ、両者が全く無縁だというわけでもなく、いくつかの接点もある以上、こうした乖離を意識化した上で相互の対話を交わしていく作業も、今後の大きな課題となるのではないだろうか。
 
(二〇一三年七月)

(1)喜安朗・北原敦・岡本充弘・谷川稔編『歴史として、記憶として――「社会運動史」1970-1985』(御茶の水書房、二〇一三年)。
(2)戦後日本のロシア史研究に即した試論として、塩川伸明「日本におけるロシア史研究の五〇年」『ロシア史研究』第七九号(二〇〇六年)、より自分自身の研究歴に引きつけたものとして、「《ユーラシア世界》研究と政治学」『国家学会雑誌』第一二六巻第七=八号(二〇一三年八月)。
(3)E. H. Carr, What Is History, Reprinted with a new introduction by Richard J. Evans, Palgrave, 2001, pp. 16-17 (邦訳『歴史とは何か』岩波新書、一九六二年、二七頁)。
(4)いまや古典となっているカーの歴史論を手がかりに「歴史とは何か」について考えようとする試みは数多い。たとえば、デイヴィッド・キャナダイン編『いま歴史とは何か』(ミネルヴァ書房、二〇〇五年)、喜安朗・成田龍一・岩崎稔『立ちすくむ歴史』(せりか書房、二〇一二年)などがある。私自身は、『《20世紀史》を考える』(勁草書房、二〇〇四年)の第V篇「歴史の方法」や、『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』(有志舎、二〇一一年)の第九章「カーの国際政治思想」などで論じてみた。
(5)『社会運動史』が一九八五年に終刊となった時点で、この歴史家集団に属する人たちはまだかなり若かったから、彼らはその後も数多くの業績を発表してきた。しかし――これはあくまでも部外者の遠くからの観察にとどまるが――特定の雑誌に結集して一種の熱気をもって活動していた時期と、その後に各人各様の業績を生み出した時期は、単純に同一線上で見ることはできないのではなかろうか。この小文では、終刊後のことはさておき、この雑誌が小さいながら強い磁力のようなものを発していた時期およびその終焉過程に主たる関心を払う。
(6)厳密に言えば、「人民闘争」の語が多用されたのはもう少し後の時期のことだが、ここではその問題には立ち入らない。
(7)前掲『立ちすくむ歴史』一六一‐一六七頁。
(8)『アリーナ』(風媒社)第一〇号(二〇一〇年)所載。この論文は私のホームページ(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/)のうちの「これまでの仕事(1)」のページの当該項目に全文をリンクして読めるようにしてある。
(9)このようにだけ書くと、およそ時代錯誤的な古くさい存在が生き残っているというイメージを与えかねないが、私はそうは思わない(だからといって、私自身がこの団体にシンパシーをいだいているわけではないが)。その代表的な存在の一人である藤田勇は、自らは正統左翼の立場を維持しつつも、「ブルジョア法学者」とも「新左翼」系の論者ともきちんと対話することのできる稀有な人である。そうした人がいたということが、この団体が生き延び得た一つの大きな要因だったのではないかというのが私の推測である。
(10)研究ノート「スターリン批判と日本」、および大嶽秀夫『新左翼の遺産』への読書ノート(いずれも私のホームページ〔URLは前注8〕に収録)参照。
(11)本書収録の木村靖二論文は「インサイダーとなったアウトサイダー」と題されている。この表題を見た私は、てっきり本文で書いたような事情が触れられているのだろうと思い込んだ。しかし、それは早とちりで、木村が論じているのは全く別の種類のことである。
(12)直接の関わりはないが、京都大学では竹本信弘(ペンネーム滝田修)という人(当時京大経済学部助手)が「過激派」事件への関与の容疑で指名手配され、この竹本に大学当局がどのように対応するかは、長期間にわたって大問題だったようである。竹本は経済学部所属だったから、文学部と直接関わったわけでないにしても、研究テーマがローザ・ルクセンブルクだった以上、内容的には歴史学とりわけ社会運動史とも無縁でなかったはずである。東大でローザ・ルクセンブルクに取り組んでいた柏崎千枝子が全共闘運動経験後に学界から離れていったこととあわせて、日本におけるローザ・ルクセンブルク研究は政治に翻弄されてきた歴史を持つことになる。これもまた「知の社会史」の一局面として記録しておきたい。
(13)塩川伸明『社会主義国家と労働者階級』岩波書店、一九八四年、あとがき。
(14)長尾のこの問題提起は、後続世代に当たる私にも無視できないものだった。前掲「日本におけるロシア史研究の五〇年」五‐六頁参照。
(15)塩川『社会主義とは何だったか』勁草書房、一九九四年、二五一頁。
(16)『朝日新聞』一九九四年一〇月二日(今谷明)。
(17)なお、本書の谷川稔論文は、東大文学部の西洋史研究室では「学生運動に偏見をもたない指導教官〔柴田三千雄〕のもとで、西洋史研究室での知的ヘゲモニーを保ち続けた」と指摘し(ここでいう「知的ヘゲモニー」は大学院修了後に他の諸大学に就職していったことを含むだろう)、このようなことは他大学では考えにくい状況だったとしている(一九〇頁)。学界全体でいえば、東大西洋史およびその周辺の方が特異だったということなのかもしれない。
(18)須田努『イコンの崩壊』(青木書店、二〇〇八年)、三頁。
(19)やや細かくいうなら、「一九八九年」(ベルリンの壁開放、冷戦終焉)をどう受け止めるかということと「一九九一年」(ソ連解体)をどう受け止めるかということとは分けて考える必要がある。現存社会主義をそれ以前から批判的に捉えていた人たちにとって、前者は歓迎すべきことでこそあれ、ショックを受けるようなことではない。しかし、後者はそれ以外の要素を含んでおり、そこには歓迎できないものが多々あった。この問題に関しては論じるべきことがたくさんあるが、ここで立ち入ることはできない。とりあえず、塩川伸明『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』(勁草書房、二〇一〇年)参照。
(20)前掲『立ちすくむ歴史』一七二‐一七三頁における喜安朗発言参照。
(21)その一例は、「日本共産党の『党派性』と対峙する『党派性』を掲げての運動史の提起」(雑誌『運動史研究』三一書房、一九七八‐八六年)であり、もう一つの例は、近代日本史研究に特異な位置を占める安丸良夫で、彼は柴田三千雄やヨーロッパ社会史・社会運動史の成果を積極的に吸収していたという。余談ながら、不勉強な私は安丸の仕事については数冊の本を読んだにとどまり、その全容や研究史上の位置などには不案内だが、あるところで拙著に言及してくださっているのを見出して、その視野の広さに驚いた記憶がある。安丸良夫『現代日本思想論――歴史意識とイデオロギー』岩波書店、二〇〇四年、二一〇‐二一一頁。