ソ連最後の外相ボリス・パンキン
塩川伸明
一
ボリス・パンキンという名前を聞いてピンと来る人はあまり多くないかもしれない。一九九一年八月二八日から一一月一九日までの三ヶ月弱、ソ連外務大臣をつとめた人である(なお、彼の退任と入れ替わりに、ペレストロイカ前半期に活躍した元ソ連外務大臣シェワルナゼが復帰したが、時を同じくして外務省は対外関係省と改称したので、正式名称として「ソ連外務大臣」を名乗ったのはパンキンが最後ということになる)。パンキンのことがあまり広く知られていないのは、その在任期間が短かった他にもいくつかの理由がある。そもそもこの時期にはソ連という国家が終わりに近づいていることが多くの人に感じとられており、国際政治におけるソ連の重みも低下していたから、ソ連外交が注目を浴びる度合いは、かつてシェワルナゼがその職についていた時期に比べて大幅に低下していた。一一月にシェワルナゼが復帰したのは、政治基盤を弱めていたゴルバチョフが最後の支えとして要請したもの――パンキンはこの「大物」を引っ張り出すために退任を余儀なくされた――だが、その趨勢を覆すことはできなかった*1。
パンキンはもともと政治家あるいは外交官としての経験はあまりなく、主にジャーナリストとして活動していた。ソ連では国内の仕事で上司ににらまれた人が一種の「島流し」のような形で外交畑に送られるという慣行があり、彼はブレジネフ末期の一九八二年にスウェーデン大使として外国に送られた(九〇年にはチェコスロヴァキア大使に転任)。一定期間の大使経験をもつとはいえ大物外交官というわけではなかった彼が外務大臣に起用されたのは、一九九一年八月クーデタ時のベススメルヌィフ外相の態度が不鮮明でクーデタ支持を疑われたために急遽更迭が決まり、しかもクーデタの最中にクーデタ糾弾の態度を明確にしたソ連大使は彼一人だったことから他に候補がいなかったという事情によるものであり、本人にとっても不意打ちの指名だった。
こういった事情を考えるなら、そもそもあまり重みのなくなっていたポストに、たいして大物でない人がついたというだけのことであるように見え、その活動があまり注目されてこなかったのも無理からぬことと思えてくる。彼は一九九〇年代に回想を出しているが*2、私の知る限り、この回想もあまり広く注目された形跡はない。私自身、自分が外交を専門としてこなかったせいもあって、この回想の存在は大分以前から知っていながら、それを読んでみようという気にはなかなかならなかった。ところが、刊行後二〇年以上経つこの作品をともかくも読んでみると、それなりに面白いところがいくつかあるということに気がついた。以下の小文は、彼の回想を読んで知ったり、読みながら考えたりしたことを大雑把なメモとしてまとめたものである。私の専門が外交史でないためピント外れなところがあるかもしれないが、ソ連という国の最終局面について考える上である程度参考材料になるように思えたことが小文の執筆動機である。本格的な論文ではないので、あまりよく分かっていない事柄についての根拠不十分な推測も含んでおり,あくまでも試論だということを断わっておく。
パンキンは外相退任後に駐英大使(先ずソ連の大使、次いでロシアの大使)になったが、ロンドン着任後まもない時期のインタヴューで、これまで三ヶ月間のソ連外相としての経験に関する本を書くつもりだと語ったところ、相手はそんな本を書くことにどういう意味があるのかという懐疑をあらわにしたという(p. 13)。しかし、本人は大国の消滅過程について記録しておくことには重要な意味があると信じて、懐疑的反応にめげることなく、この本を書いた。そこには、自分のなしたことが無意味だったはずはないという自尊心ないし自己正当化の要素もあるのだろう。それはそれとして、つい最近まで「二つの超大国のうちの一つ」だった国が急激にその座から滑り落ちるというプロセス自体が興味深い歴史研究の対象だと考えるなら、その時期にその外交を担った人の証言は歴史の一コマとしての意味をもっているように思われる。
二
ここで取りあげるソ連最後の数ヶ月とは一九九一年八月のクーデタから一二月のソ連解体までの時期だが、クーデタが失敗に終わったことですべては決まった、その時点でもうソ連という国はなくなったも同然だ、という漠たる感覚が多くの観察者たちの間に広まっている。そのため、その時期のソ連については、外交に関しても内政に関しても詳しい議論がなされることがほとんどない*3。確かに、ソ連国家は八月政変で大きく揺さぶられ、そのままでの存続はほとんどありえないという感覚は広く分かちもたれるようになった。だが、「そのままでの存続はありえない」ということと、「ではどうなるのか」という問いとは別の話である。いくら前者が自明でも、それがすべてというわけではなく、後者は独自の検討対象として追求する必要がある。
クーデタが失敗に終わった八月末から九月初頭にかけての十数日間、とりあえず暫定的なソ連国家体制を再建してその後の再編ないし改革の方向性を探るため、ゴルバチョフ、エリツィン、そして一連の連邦構成共和国首脳たちの間で種々の会談がもたれた。そして、それらの上に立って第五回臨時ソ連人民代議員大会が九月二‐五日に開かれて、「過渡期の権力機関」というものがとりあえずつくられることになった。この時期もその後も、ゴルバチョフ、エリツィン、その他の政治家たちは種々の対抗関係を持ち、複雑な駆け引きを展開したが、直ちにソ連という国家を別々の独立国家に分解してしまうのではなく、緩やかな一体性を保ちながら再編・改革を進めていこうとする限りでは、とりあえず最小限の合意が形成された(但しバルト三国のみは例外で、九月六日にソ連国家評議会が独立を承認したことで、その枠外となった)。
この時期に目標とされた再編・改革の大まかな方向性は、政治面での民主化(リベラル・デモクラシー化)、経済面での市場経済化、連邦体制に関する分権化(連邦=フェデレーションの枠内での分権化、国家連合=コンフェデレーション、共同体=コモンウェルスなどといった選択肢が想定された)、そして対外面では、欧米をはじめとする世界各国との友好・協調関係が想定された。こうした目標はこのとき突然提起されたわけではなく、それまでの数年間のペレストロイカの中で次第に広く共有されるようになっていたものだが、その実現が困難だというだけでなく、そもそも理念のレヴェルでの抵抗ないし反撥の動きも持続していた。だが、八月クーデタが失敗に終わり、ソ連共産党も解散に追い込まれたこと(八月二四日のゴルバチョフ声明)により、こうした目標への政治的抵抗は壊滅的に弱まり、少なくとも公的言説のレヴェルに関する限り、これらの目標への原則としての反対や抵抗はほとんどありえなくなった。だからといって、これらの目標の実現が簡単になったというわけではなく、それらをどのような形で実現していくかについては数多くの論争や困難性があった――そして、結果的にいえば、その多くが挫折した――ことはよく知られている通りである。ただとにかく、「そのままでは存続し得なくなったソ連」が新しい方向に向かって困難な歩みを踏み出そうと試みたのがこの時期だったということである。
新任の外相となったパンキンは、このような「生まれ変わろうとしているソ連」の外交を担当することになった。それだけでなく、ソ連の国家機構の大部分が壊滅状態に陥る中でともかくも機能し続けている数少ない官庁の長として、彼は内政にもある程度関与した。前述した第五回ソ連人民代議員大会で定められた「過渡期の権力機関」で最重要の意思決定機関と位置づけられた国家評議会はゴルバチョフ大統領および諸共和国の最高公職者(大統領あるいは最高会議議長)たちを正規メンバーとして構成されたが、その他に、辛うじて活動し続けている重要官庁たる外務、国防、KGB、内務の四省の長もそれに出席していたということがパンキンの回想に物語られている(p. 243)。もっとも、もともと政治家ではなかった上に外国出張がちだった彼が実際に内政に関与する余地が大きかったというわけではない。ただとにかく、最高レヴェルでの議論の模様を見聞きする立場にはあったということになる*4。
この時期のソ連外交の課題がどういうものだったかを象徴的に示す事例は、欧州安全保障協力会議(CSCE)の人権会議のモスクワにおける開催が予定されていたという事実である。ほんの数年前までの感覚でいえば、国際的な人権会議をモスクワで開くというのは悪い冗談としか受け取られなかっただろう(それから四半世紀を経た今でも同様)。CSCEのヘルシンキ宣言(一九七五年)に関してブレジネフ政権が最重要視したのは戦後国境の安定性ということであり、人権条項は本気で受けとめられてはいなかったというのが定説である。ところが、ペレストロイカの中で冷戦終焉を進めるようになったソ連外交は、NATOとワルシャワ条約機構の対抗を超える制度としてCSCEを重視するようになった。ゴルバチョフはヘルシンキに続くCSCE会議(「ヘルシンキ‐U」)の早期開催を強く主張していたし(一九八九年一一月に提唱、九〇年一一月にパリ会議として実現)、統一ドイツのNATO帰属にぎりぎりまで抵抗したのも、NATOとワルシャワ条約機構がともに性格転換を遂げて解消する中で新たな欧州安全保障の柱となるのはCSCEないしその後継機構であるべきだという考えによっていた。そうした中で、CSCEの人権会議をパリ、コペンハーゲン、モスクワの順で開くということも決まっていた。その当時、西側の政治家たちの間にはまだソ連への不信が残っており、モスクワでの人権会議開催についても懐疑の念があったようだが、ともかくモスクワ会議の準備作業は進みつつあり、一九九一年九月九日という開催日も決まっていた。ところが、その予定日の数日前に八月クーデタが起き、果たしてこの会議が予定通りに開かれるかどうかも怪しくなった(pp. 60-63)。
クーデタ自体は短時日のうちに失敗に終わったが、多数の政府高官がそれに関与していたため、ソ連の国家機構全体が大きく揺らいだ。外務省もその例に洩れなかったし、皮肉なことに、この会議の組織委員会議長はクーデタに連座したヤナーエフ副大統領で、彼は直ちに逮捕され、解任された。そういう混乱の中で外相になったパンキンは最初の仕事として、モスクワ人権会議を予定通り開催するかどうかを決断せねばならなかった。一方からいえば、こういう大混乱の時期に欧米諸国の外相たちを招待するというのは非現実的であるように見えた。しかし、クーデタを敗北させたこの時期こそ、世界に対してソ連の変化をアピールする絶好の機会だと彼は考えた。彼はゴルバチョフに電話をかけて、予定通りの開催を主張した。これに対してゴルバチョフは、原則的に賛成だが、進行中の第五回人民代議員大会を見届けないと確定できないと語った(前述のようにこの大会で「過渡期の権力機関」がとりあえず定められたが、それがまだ決まらない段階では「過渡的なソ連」という存在自体がどうなるか不確定だった)。そのため各国大使館に、人権会議を予定通り開催するけれども、その正式確定は人民代議員大会後だと通知することになった(pp. 95-96)。
結局、CSCE人権会議は人民代議員大会終了後の九月一〇日にモスクワで始まった。この会合でパンキンは外交デビューし、欧米諸国の外相たちと親交を結ぶ最初の機会をつかんだ。なお、このときCSCEは人権会議に先だって、バルト三国の正規メンバーとしての受け入れを決定した。その直前にソ連国家会議がバルト三国の独立を承認したことがそれを可能にした(バルト三国は直ちに独立国としてこの会議に参加した)。また、元政治囚だったコヴァリョフがソ連代表団の共同議長となったことも、ソ連の大きな変化を象徴した(pp. 98-100)。こうして、この会議はとにかくも「新しい(もしくは、新しくなろうとしている)ソ連」が欧米諸国と協調して新しい外交を進めようとしているという印象をつくりだす機会となった。
三
人権会議に続くパンキンの重要な舞台は国連総会への出席だった(九月一七日から)。彼はこの場で、「生まれ変わったソ連」をアピールし、さらなる改革のための支援を要請した。ここで問題なのは、欧米諸国は原則としてはソ連の改革を歓迎していたものの、それをどこまで支援するかは不透明だったことである*5。援助を供与する側からすれば、慈善事業ではないのだから、民主化さえすればいくらでも援助するなどということはありえなかったのだろうが、そうした態度がソ連および後継諸国の側にどういう心理的後遺症を残すかへの配慮が乏しかったように見える。なお、パンキンの回想には、このときサッチャー元英首相が私人として出席し、西側諸国首脳にソ連への態度を変えるよう説得を試みたとある(pp. 181-182)。
この後もしばらくのあいだ、パンキンは欧米諸国の外相たち、中でもアメリカのベイカー国務長官およびドイツのゲンシャー外相と緊密な提携関係を保って外交を進めた。もっとも、彼らの基本的な考えはほぼ合致していたものの、パンキンに対してどちらかといえば指図がましい、あるいは「上から目線」的な態度をとることがあり、それが彼を苛立たせた。そこには、パンキン個人がキャリアの浅い新人だったという事情と、ソ連という国に対する不信の残滓の双方が関与していたように見える。後者については、これ以前からの経緯がある。一九八九年末‐九〇年の時期に冷戦終焉へと向かう米ソ交渉のなかでアメリカの政治家はしばしば「西側的価値」という言葉を口にしたが、ゴルバチョフは、自由・民主主義・人権などはわれわれの価値でもあるのに、それを「西側の」と呼ぶべきではないと抗議した*6。同様にパンキンも、ベイカーに対して、後者の提示する一連の方針は内容的には異論ないが、それは「アメリカの理念」ではなく「われわれの理念」でもあると述べ、あなた方がわれわれから譲歩を引き出したかのように記者たちに言うのはやめてほしい、私は以前から同じ考えをいだいていたのであり、既成事実を突きつけられたという形をとることには耐えられないと述べた(pp. 105, 112-114)。
たとえ基本的方向としての目標に異論がないにしても、それを「外国からの指図」のような形で提示されることは、パンキンやゴルバチョフだけでなくソ連国内の多くの人々にとって自尊心を傷つけることであり、時として反撥のもととなった。この時点ではパンキン個人もソ連外交もアメリカや西欧諸国との共同歩調を重視していたが、国内には秘かな反撥や不満も潜在しており、それはやがて後の時期に拡大していくこととなる。一九九〇年代後半のNATO東方拡大以降、そしてプーチン時代に顕著となる米ロ間の新たな対抗は別個に考察すべき主題だが、協調が最も強く打ち出されていたこの時期にも秘かな反撥や不満が潜在していたことは記憶に値する(前述した経済援助をめぐる不満もこれに重なった)。
とにかくベイカーとゲンシャーは、NATO諸国、ソ連、独立したばかりのバルト三国、そして中東欧諸国をすべて包括する北大西洋協力会議(NACC)という新しい機構の設立構想を一〇月にパンキンに提示した。彼はチェコスロヴァキア大使だった時期にワルシャワ条約機構解散の決定採択に立ち会ったことがあったが(一九九一年六月、プラハ)、この提案を魅力的なものと考え、それをゴルバチョフに伝えた。ゴルバチョフには別のルートから、このゲンシャー=ベイカー提案はナイーヴな民主派を欺すための罠だという考えが吹き込まれていたようで、ゴルバチョフは迷いを示したが、パンキンはゲンシャーとともに彼を説得することに成功した(pp. 123-125)。こうして、ゴルバチョフのゴーサインを得て、北大西洋協力会議が発足することとなった(一九九一年一二月に正式に発足)。結果的に、NACCは期待されたほど重要な役割を果たすことにはならなかったが、とにかくNATO諸国、まだ存在していたソ連、ソ連から独立したバルト三国、ソ連から自立しつつあった中東欧諸国が一つの国際機構に結合して友好・平和・協力関係を樹立するという、後から振り返るならおよそ非現実的なユートピアとも思えるシナリオが、この時点ではある程度思い描かれていたということになる。
四
この時期のソ連外交はまた、いくつかの重要な地域紛争の調停においてもそれなりの役割を果たした(あるいはそう試みた)。国際的地位を大きく低下させていたとはいえ、少し前まで「二つの超大国のうちの一つ」と見なされていた地位を生かして、アメリカとともに世界の他の地域への影響力を行使して紛争調停と和平工作を進めようという考えをゴルバチョフはいだいていた。一つの事情として、当時のゴルバチョフは内政上のイニシャチヴをエリツィンに奪われていたが、その分、外交に没頭して、諸外国の高位政治家たちとのパイプを生かした国際場裡での活躍を求めたという面がある。具体的には、中東、(旧)ユーゴスラヴィア、カンボジアの三つが主要な例となった。
これらのうち最も大きな位置を占めたのは中東和平問題である。パンキンは国連総会出席後まもない時期にイスラエルおよびいくつかのアラブ諸国を訪問した。このとき彼は、一方ではソ連=イスラエル国交を樹立し、他方では、ソ連が一定のパイプを持っていたいくつかのアラブ諸国に働きかけて中東和平交渉のための準備工作を進めた。こうした工作をうけた中東和平会議は一〇月三〇日にマドリードで始まった。これはゴルバチョフとブッシュが共同主宰したものだが、実務的にはパンキンとベイカーが主要な役割を果たした(pp. 197-229)。中東和平がこれでもって大きく前進したわけではないにしても、とにかく和平交渉を続けることが確認され、ソ連外交はそこにおいて重要な役割を果たすというイメージを保持した*7。
パンキンはまた、解体しつつあるユーゴスラヴィアの内戦――この時点ではクロアチアにおける政府側とセルビア人勢力の間の内戦――に関連して、クロアチアのツジマンとセルビアのミロセヴィチをモスクワに招いてゴルバチョフが和解を仲介するという構想をゴルバチョフに提案した。この構想に基づくモスクワ会談は一〇月一五日に実現した。ミロセヴィチとツジマンははじめのうちよそよそしい態度をとっていたが、次第に打ち解けて話しあうようになり、直ちに停戦してあらゆる問題について話し合う交渉を始めるという趣旨の共同コミュニケを発表することになった。ツジマンとミロセヴィチは和平交渉をソ連、アメリカ、ECが組織するよう要請した。翌日、このコミュニケは世界中に伝えられ、二日後にアメリカとECがこれを支持する声明を発して、内戦収拾の展望が開けた*8。しかし、その同じ日にボスニア議会は独立を決議し、これに反対するセルビア人勢力が議場から退席したため、クロアチア内戦収拾と入れ替わるようにしてボスニア内戦が勃発することとなった(pp. 191-194)。
カンボジア和平についてはあまり詳しいことが書かれていないが、とにかく一〇月二三日のパリ和平会議にパンキンは出席して、和平協定に調印した(p. 273)。
五
これまで見てきたように、パンキンはその短い在任期間を通じて、国内では民主化・市場経済化・分権化が進むことを期待し、国際場裡では「生まれ変わったソ連」像を諸外国にアピールして欧米諸国からの協力および支援を仰ぐ一方、中東・(旧)ユーゴスラヴィア・カンボジアの紛争調停に貢献することでソ連の国際的地位と威信を確保しようと試みた。これはもちろん、あくまでも「期待した」「試みた」ということであって、「実現した」ということではない。結局、彼はその努力が実を結ぶのを見ることなく外相の座を去ることとなったし、彼が仕えた「ソ連」という国家そのものもまもなく消滅した。そうした結果から見れば、彼の営為は無駄骨だったようにも見える。それでも彼は、自分が目指した目標自体は正しかったし、その実現を目指して努力したことも無意味ではなかったと考えているように見える。
クーデタ後の暫定的ソ連体制の出発点となった第五回人民代議員大会については前述したが、パンキンの回想はこの大会について次のように書いている。この会合の画期的意義はまだ理解されていないが、将来の歴史家たちはそれを認識するだろう。この大会で予定された構造はもっと長く存続するに値したはずであり、それは民主体制へのもっと円滑な、痛みの少ない移行をもたらしたかもしれない(pp. 89-90)。彼がこのように考えるのは、ソ連という国が大幅な再編・分権化を施されながらもとにかく存続し、その「再生ソ連」(もはや「ソヴェト」でも「社会主義」でもない新しい同盟国家)が上記の意味で望ましい方向に向かっていくことを期待したからである。
逆にいえば、ソ連国家そのものの解体はそうした期待に背くものだった。彼がそう考える理由はあまり体系的には説明されていないが、いくつかのものがあったことが回想から読み取れる。一般論として分解よりも統合を良しとする発想――ここで統合の模範と考えられているのは、当時EUへの衣替えを進めようとしていたヨーロッパ共同体である――がその一つであり、ソ連解体後に誕生した独立諸国が偏狭な民族主義に向かったことがもう一つである。国際面では、ソ連という大国の消滅に伴って、世界的影響力を持つ超大国はアメリカ一つだけになったが、これも歓迎すべき変化ではなかった。更に、ソ連解体の決定は三つのスラヴ系共和国首脳の密談という非立憲的方法――一種のクーデタ――によっており、それは法治主義の原則にもとるものだった。共産党と闘った人たちは盥とともに赤子を流して、諸民族の共通空間を破壊してしまった、というのが彼の考えである(pp. 264-272)。
とにかく、結果的にいえば、パンキンが在任中にいだいていた希望は実を結ばずに終わった。では、どうしてそうなったのかが問題となるが、この点についてもあまり体系的な議論はない。ただ、各所で様々な政治家たちの個人的欠陥が指摘されている。中でも重要なのはゴルバチョフとエリツィンの個人的ライヴァル関係である。パンキンはこの二人のどちらともとりたてて険悪な関係ではなく、二人の協調が望ましいと考えていた(彼がソ連の大臣だった関係上、直接の上司はゴルバチョフだったが、ゴルバチョフはエリツィンの合意を得ない限り内政上の決定を下すことのできない状況におかれていた)。だが、八月政変後の短い期間演出された二人の協調関係は極度に脆いものだった。そこには二人の個人的性格が関係していた。パンキンによれば、ゴルバチョフは決断が遅く、そのため多くの問題に関して後手に回った。また八月政変後には威信が大きく落ちており、「過去の人」と見るしかなくなっていた。他方、エリツィンは決断力があり、政治的直感に優れていたが、粗野で、過度の飲酒癖があり、また権力欲に振り回され、法的手続きを軽視する傾向があった。この二人がこうした欠陥をかかえ、互いに相手を敵視したことが悲劇の大きな原因だったと彼は考えているように見える(pp. 253-257, 271など)。
更に、この二人以外の諸共和国指導者たちについていえば、彼らの大半はもともと共産党官僚であり、かつては中央に追随していたが、今や大衆運動に追随して独立論を煽るようになっていた。彼らがそうしたのは人民の声に従うというよりも日和を見ていたに過ぎない、彼らはそのことによって自己の共産党幹部としての過去をごまかしたのだ、と彼はいう(pp. 252-253, 257)。
このように国内の様々な政治家の欠陥を批評するだけでなく、パンキンは外国のパートナーについても若干の批判めいたことを――それほど明示的にではないが――記している。ベイカーやゲンシャーらがソ連側の事情を十分理解せず、時として一方的な態度をとることがあり、そのことがソ連国内の反撥を招く結果となったという点については前述したとおりである。
このように見てくると、彼の議論は一種の「未練史観」であるようにとれる。本来なら末期のソ連は過去の欠陥を克服して望ましい方向に進むことができたはずなのに、それが実現しなかったのは様々な政治家たちの個人的欠陥のせいだ、という議論であるように見える。彼自身はそう考えているのかもしれない。それは彼のような経験をもった人の感情としては自然なところがある。しかし、彼の議論をそういう風なものとしてだけ受け取るのはあまり生産的ではない。
一般論になるが、「歴史におけるif」は「未練史観」――もし誰それがもう少し上手に立ち回っていたなら悲劇は防げただろうといったような――と同一視されがちである。しかし、そうした感情的未練論とは別に、歴史の進行というものが一義的に定まっているわけではなく、様々な節目で複数の選択肢から特定の道筋が選ばれながら進んでいくと考えるなら、「歴史におけるオールタナティヴ」を考えることは歴史を立体的に見る上で有意味な作業となりうる。言い換えれば、それは「未練」論から離れた形でifを考えることになる*9。パンキン自身はやや未練史観に傾いているようにみえるが、そうした感情論から切り離して、彼の記述をオールタナティヴ論の素材として読むことは可能ではないかと思われる。
パンキンの回想におけるあれこれの人物に関する批評や個々の事件の解釈はやや表面的に感じられるところもある。また、事実経過に関して細部でのケアレスミスなどもあって、十分に精密な書物とはいえない。それでも、ほとんど注目されていない一時期に関する内側からの証言として、歴史を多面的に見る上での興味深い素材とはいえるだろう。
(二〇一九年六月)
*1ロシア共和国政権が正式にソ連外務省の接収に乗り出したのは一二月一八日のことだが、シェワルナゼの回想によれば、早くも一一月二八日にはソ連対外関係省の財産をロシア外務省に移管するという決定が送りつけられてきたという。Э. А. Шеварднадзе. Когда рухнул железный занавес. Встречи и воспоминания. М., 2009, c. 220-221.彼が対外関係相になってから一〇日も経っていない時点のことである。
*2Boris Pankin, The Last Hundred Days of the Soviet Union, (tr. from Russian), I. B. Tauris, 1996.ロシア語版もあるようだが未見。以下では、この回想に関わる個所は本文中に括弧して英訳書の頁数を記す。
*3私は十数年前の旧稿でこの時期のソ連の政治過程について論じた。塩川伸明「ソ連解体の最終局面――ゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフの資料から」『国家学会雑誌』第一二〇巻第七=八号、二〇〇七年(近刊拙著でより本格的に論じる予定)。この旧稿以外にこの時期を集中的に論じた研究はほとんど存在していない。管見の限り稀な例外として、Serhii Plokhy, The Last Empire: The Final Days of the Soviet Union, Oneworld Publication, 2014, Paperback Edition, 2015があるが、これにも私としてはいくつかの不満を感じる。
*4なお、外務大臣としてのパンキンが取り組まねばならなかった課題のうちには、クーデタに同調した外交官たち――その中には彼と親しかった人も含まれた――の資格審査にあたることや、各国大使館に配置されていたKGB人員を一挙に削減することも含まれた(pp. 63-66, 152-155, 262-263)。これらは外相としての仕事であると同時に、ソ連の政治構造全体に関わる課題でもあった。
*5これはこの時期に始まるものではなく、以前からの経緯があった。一九九〇年のドイツ統一をめぐる国際交渉過程で、米政権は統一ドイツのNATO帰属をソ連に認めさせるための重要な梃子として経済援助供与を考えていたが、その経済援助を実際に負担するのは西ドイツであってアメリカではないという態度をとっていた。一九九一年七月のロンドン・サミット――まだメンバーでないゴルバチョフがとにかく出席を認められて、改革支援を訴えた――でも、言葉以上の支援が与えられることはなかった(そのことはゴルバチョフの国内における地位に大きな打撃となり、少し後のクーデタへの一つの伏線ともなった)。クーデタの失敗は、今度こそソ連が本当に旧体制と手を切ったことを示す最大の証拠だとソ連側は考えたが、だからといって直ちに潤沢な援助が供与されるということにはならなかった。少し後のことになるが、一二月にソ連を解体に追い込んだエリツィンは自分に惜しみない援助が与えられるのは当然だと考えたが、この期待も満たされなかった。こうした態度はソ連/ロシアの側に、「いくら自分たちが民主化しても、西側はわれわれを助けてくれない」という不満を蓄積させ、後の国際対抗への背景となった。
*6Михаил Горбачев. В меняющемся мире. М., 2018, c. 133-134; Конец Эпохи. СССР и революции в странах Восточной Европы в 1989-1991 гг. Документы. М., 2015, c. 102-103, 168.
*7なお、このマドリード会議はソ連国内における政治闘争が大詰めを迎えようとしている時期のことであり、欧米諸国の政治家たちはゴルバチョフの地位の不安定性について重大な懸念をいだいていることを隠さなかった。他面、ゴルバチョフを追い詰めつつあるエリツィンに完全に乗り換えることにも躊躇いがあり、当面ゴルバチョフがソ連国家維持に成功することを期待するという態度を示した(それがいつまで続くかには疑問符がついたが)。そのことはエリツィンの態度を一時的に慎重化させる効果を持った(この直前にエリツィンはソ連外務省の人員を一〇分の一にまで削減するという方針を明らかにしていたが、この直後に撤回した)。塩川「ソ連解体の最終局面」一〇八‐一一七頁参照。
*8通常、クロアチア内戦収拾の決定的転機は国連事務総長特使ヴァンスの仲介による一一月二三日の和平合意だったと見なされている。月村太郎『ユーゴ内戦――政治リーダーと民族主義』東京大学出版会、二〇〇六年、七二頁。パンキンは一〇月のモスクワ会談についてのみ触れ、月村は一一月のヴァンス合意だけに触れているため、両者の相互関係は明らかでない。
*9「未練史観」については、E・H・カー『歴史とは何か』岩波新書、一九六二年、一四一‐一六〇頁の議論がよく知られている。これとオールタナティヴ論の異同については、塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、二一五‐二一九頁参照。