宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』*1
私は宮地尚子という人をそれほどよく知っているわけではないし、ある時期まで名前を聞いたこともなかった。そういう私が宮地に関心をいだいた最初のきっかけは、『現代思想』2011年12月臨時増刊号(総特集・上野千鶴子)における上野千鶴子との対談「セクシュアリティはいかに語り得る/得ないのか」を読んだことにあった。これは丁々発止という言葉がぴったり当てはまる対談で、あちこちに興味深い個所があるが、中でも次の個所が特に眼にとまった。
上野 女という経験のなかには、どんなに身近な男とも共有できない何かをどんなに疎遠な女とも共有できるという感覚がありますね。ないですか?
宮地 それは全然ないです。
上野 ないですか。ああ、本当。
宮地 なんでそう思えるのか。
上野 むしろ、なんでそう思えないのか(笑)。
(中略)
上野 この人も女だというだけで、私と同じ苦労をしているんだよね、という共感は持たないと?
宮地 思わない。だって、同じ苦労をしていないかもしれない。
上野 女であるという一点だけで、どこかで苦労の共通点があるとは?
宮地 思わない。
上野 ああ、そう。私の方が集団的アイデンティティが強いですね*2。
宮地は上野よりもおよそ一回りほど年下で、多くの点で上野から学び、その考えを引き継いでいるようだが、この個所では真っ向から対立している。しかも、上野から「私の方が集団的アイデンティティが強い」という言葉を引き出しているのは見事という感じがした。
宮地という人は医学部で学んで医者となりながら、ハーヴァード大学の法学部にも留学した経験を持ち、理系・文系双方の素養を持ちながら、精神科医として臨床を担当し、トラウマ被害者の回復支援に当たっているようである。本書はそのような経験に基づきつつ、トラウマ問題を扱った書物である。
トラウマをもたらす悲惨な出来事は多種多様である。戦争、内戦、ホロコースト、奴隷制、民族浄化、性暴力、セクシュアル・ハラスメント、児童虐待等々。これらはそれぞれに性格を異にする出来事で、十把一絡げに論じることはできないが、ともかく多くの人が打ちのめされ、命を落としたり、辛うじて生き延びても圧倒的な経験の重さに言葉を失ったりするという点では共通している。こうした出来事の中には、ジェンダーに関わるものとそうでないものとがあるが、性暴力のように直接ジェンダーと関わるもの以外でも、どちらかというと女性が被害者となるケースが多いことを思うなら、トラウマ問題はかなりの程度ジェンダーと関わっているということになりそうである。男性が被害者になるケースももちろん多数あるが、とにかく相対的に多くの被害者が女性であるとき、男性は加害者でないまでも傍観者となりやすい。そうした立場の差異を踏まえつつ、この問題についてどのように語るべきか、あるいはむしろ語らない方がよいのか――これは簡単には答えられない難問である。トラウマ被害者に対してケアの精神で接するべきだというのは素朴な直感として当然のことのようにも思えるが、いざ立ち入って考えるなら、それは決して簡単ではなく、むしろ絶望的に難しいようにも思える。
本書はこのような難問を正面から取り上げて、精神科医として臨床に取り組んできた経験から、何とかして道を見いだそうとした作品であるように思われる。そして、表題に示されるように、「環状島」という比喩的表現が全体を貫く重要なカギとなっている。「環状島」とは、「内海」と「外海」の間にドーナツ状に存在している島を指している。その島には山があり、内海から尾根に向かっては「内斜面」があり、尾根から外海に向かっては「外斜面」がある。このモデルにはいくつもの意味があるが、何よりも先ず取り上げねばならないのは、深い内海に沈んだ犠牲者たちは発言することができないということである。何事かについて考える場合、中心に近い位置にいる人ほど事態をよく知っていて、発言しやすいと思われがちだが、実は中心そのものにおいては、当事者は死んでいたり、その痕跡さえも抹殺されたりしていて、自己を主張することはできようもない。そこからやや離れた「波打ち際」まで来てはじめて、なにかを語ることができる。
このことは、トラウマについて語ったり考えたりする際につきまとう困難性と関わる。トラウマの重い被害者は、その経験を語ることができないことが多い。それほど重くない当事者とか、その身近にいる人、あるいは支援者、研究者、ジャーナリスト等が語ることがよくあるが、それはどこまで真に迫っているのかという疑問にさらされる。
それだけではない。
「トラウマ被害者に深く関わるのは、激しい感情をかき立てられることである。世の中にこんなひどいことがありえるのかと衝撃を受け、社会や人間が信じられなくなることもあれば、逆に被害者が嘘をついているではないか、大げさに言っているのではないかと疑いたくなってしまうこともある。支援者として、救世主のような使命感を感じさせられるかと思えば、全くの無力感や絶望感にうちのめされることもある。(中略)。研究者としては、事実を明らかにするために、当事者やコミュニティがそっとしておきたい事実を知らずに掘り起こしてしまうことがある。何気ない質問によって、かろうじて傷を覆い隠していたかさぶたや薄皮を剥がしてしまって、当事者から激しい感情をぶつけられることもある。(中略)。たんたんとトラウマ被害者と関わりつづけるのはたやすいことではない。(中略)。当事者とは違って「逃げる」という選択肢がある分、支援者や研究者が関わりつづけること、つまり支援者や研究者としてサバイブしつづけることはより難しいとも言いうる。そして支援者の消滅は、しばしば当事者のサバイバルの可能性の消滅と直結する。そう、加害者が傍観者にのぞむのは、何もしないことだけなのだから」(7-8頁)。
「環状島」というモデルは、このような困難性を踏まえて、だからといって何もできないわけではないと考えるために提出されている。「内海」の現実には誰も迫ることができない。だが、そのことを必ずしも否定的に捉える必要はない。「見えないもの、聞こえないものがあることに気づけば、そこから逆に、たくさんのことが見え、聞こえてくる」(9頁)。
関係者たち――当事者、その身近な人、支援者、研究者等――は、それぞれ内斜面にいたり、外斜面なりにいたりして、また異なる高さにいる(これは固定的なものではなく、状況によって変わりうる)。各人がどのような位置にいるかを自覚することは、その発話が無軌道なものになってしまうのを防ぐのに役立つ。往々にして「中心に近い者ほど発言する権利がある、すべきである、しているに違いない」という思い込みが人々の思考を縛り、「生き延びた者が語ってよいのか」とか「当事者の声を非当事者が代弁してよいのか」といった批判・非難がなされる。たしかに、代弁者が当事者の声を奪ってしまうことがあるのは事実だが、だからといって支援者が萎縮して口をつぐんだり、その場を立ち去って傍観者になってしまうなら、それもまた当事者が声を発する機会を奪ってしまうことになりかねない。それよりも、「環状島」の構造を直視し、どこにいる人はどこまでの発言をすることができるかを考えた方がよいということが指摘されている(15-16頁)。
本書はこのような考えに立って、トラウマ被害者の傷の重さや、被害者と支援者の関係について、「環状島」モデルを敷衍しつつ、多面的に論じている。そこでは「重力」「風」「水位」などが複雑に交錯する。「環状島」は最初から存在したわけでもなければ、成立後ずっと同じ形を保っているわけでもなく、さまざまな当事者の行動によって生まれたり、変容したりする。こういう変容の諸側面について、著者はさまざまな当事者の経験や発言をリアルに紹介し、問題の複雑さを克明に論じている。ここでは、そうした内容に深入りすることはできないが、特に眼にとまったいくつかの点に触れておきたい。
本書の一つの特徴は、物事を一直線に捉えるのではなく、多面的な考察を心がけている点にあるように思われる。その一つの例として、第7章のポジショナリティ論が挙げられる。
ポジショナリティとは、ある発話をする人がどういう立場にいるのかという問題を指している。たとえば、アフリカの女性のかかえる問題について、欧米や日本のフェミニストが発言するとき、現地の女性やその地域の専門家から、「あなたたちは「同じ女性」として雄弁に語るけれども、実は「第一世界の女性」であって、必ずしも当事者性を共有しないのではないか」という批判が浴びせられることがある。「環状島」の比喩でいえば、「外斜面」にいる欧米や日本のフェミニストに対する「内斜面」からの問いかけということになる。ポスト・コロニアリズムはこれまで中立とか普遍的と見なされてきた判断や知識が、ある種の特権を前提にしていることを暴き出し、先進国・中上流・男性・白人・健常者・大人といった視点からの判断や知識でしかないことを指摘してきた。ポジショナリティの概念はこの点を問う上で重要な意味を持つ。
このようにポジショナリティ論の意義を確認した上で、著者はそこにはいくつかの構造的な危険性や陥りやすい罠もあるという。その「罠」は多岐にわたるが、たとえば、ポジショナリティ論は「外斜面」にいる人を批判対象とすることで、結果的に彼らを「外海」に押し流してしまうのではないかとか、「強者のなかの弱者」「弱者の中の強者」といったグレーゾーンを無視してしまうことになるのではないか、といった例が挙げられている。そのような罠があるからといって、ポジショナリティの問題を無視してよいというわけではない。そのことを確認しつつ、問う側も問われる側も「全面的同一化」の幻想や願望を持たず、互いの他者性を認め合うこと、健全な「部分的同一化」を行ないながらも、「一部了解不可能性」をも抱え込むことが重要だと論じられている。
骨子だけを簡略に紹介したので、やや折衷論的な印象を与えたかもしれない。だが、著者がこのように論じる背景を考えるなら、問題の深刻性、コミュニケーションの極度の困難性を痛いほど知るからこそ、一本調子の議論を避け、隘路を縫って進むことの重要性を説いているのではないかと感じられる。そのことは、さまざまな論者の議論を取り込むに際して、その重要性を十分に尊重しながら、全面的に一体化するのを避け、個々の点では異論も唱えるという態度にも示される。この小文の冒頭で、上野千鶴子との対談における鋭い異論を紹介したが、そこでも書いたように、宮地は上野の議論を高く評価し、多くを受け継いだ上で、個別の点で異を唱えている(本書では上野のいくつかの著作が肯定的文脈で言及されている)。このようにべったり肯定でも全否定でもない態度をとるのは、著者の姿勢の基本と関わっているように思われる。
本書は最後の方で、研究者の位置について論じ、その意味と限界について語っている。そこでは、研究者の位置が、@ヘリコプターに乗って上空から観察する、A現地に赴いてフィールド調査を行なう、そしてB当事者が研究者になる、という三つのパターンに分けられ、その有意義性と悪用可能性が論じられている(第9、10章)。著者によれば、トラウマをめぐる知は「支配者」側にも「加害者」側にも利用されうる。悪用できないような知など、たいした知ではない。だからこそ、研究者、専門家、知識人は自分の知的営為のおかれた文脈や波及効果を意識する必要があるということが結論的に指摘されている。
この個所を読むと、私自身がこの問題にどのように関わるのかということも意識しないわけにはいかなくなる。私はこれまでの人生で何回か、「小さめのトラウマ」ともいうべき体験をしてきたが、運に助けられて、それほど重い後遺症を引きずらないで済んできた。身近な人で深刻なトラウマをかかえている人は何人かおり、そういう人と接触すると、こちらまで気分が重くなり、深いところに引きずり込まれるような思いをするが、そうした人のことについては、ことの性質上、ここで私が書いたり語ったりすることはできない。
それとは全く別に、遠いところで起きたトラウマ的な現象の話を見聞きすることもよくある。私はある時期まで、そうしたテーマに正面から取り組むのは荷が重すぎると感じて、手を出すことを控えてきた。だが、ある時期から、私の研究対象地域でものすごい悲惨な事件が次々と起きて、それらに眼をつぶっていることはできそうにないと感じるようになってきた。1990年代の旧ユーゴスラヴィア各地での内戦はその早い例であり、また1999-2000年にモスクワに長期滞在した時期にはチェチェン紛争が拡大して、毎日のようにテレビで悲惨な報道を見る経験をした。そうした報道を目にしていると、いたたまれない気持ちに襲われ、これを無視することはできないと考えるようになった。とはいっても、「民族浄化」とか「テロとの戦い」といった事態を直接の研究テーマとしたり、現地に身を投じたりすることはできず、かなり遠いところに身を置きながら、とにかくある程度関わりのある事柄について調べたり、書いたりするようになった。『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦』という拙著は、不十分ではあるが、そのような試みの最初の産物である*3。そして2022年にウクライナ戦争が始まると、これは私の本来の研究領域ではないと思いつつも、だからといって取り組まないわけにはいかないと感じて、おっかなびっくり種々の角度から観察し、発言するようになった*4。
先に紹介したように、宮地は研究者の位置を三つのパターンに分類している。この分類が万全かどうかはさておき、私の位置は、敢えて言うなら「上空観察者」に近い。ヘリコプターに乗った上空観察者は、なるべく幅広く全体像をつかもうと試みることができるが、遠くに逃げて、関心を捨ててしまうこともできる。対象の重さに圧倒されて、そうしてしまいたいという誘惑を常に感じながら、だからこそ逃げてはいけないと自分を叱咤激励することになる。このような私の関わり方は、具体的な問題を抱えている人たちと臨床的に接触する仕事を続けている宮地とは大きく異なっているが、そのような差異を踏まえつつ、本書からは学ぶところが多い。
(2024年8-9月)
*1宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房、2007年、新装版、2018年)。
*2『現代思想』2011年12月臨時増刊号、168-169頁。
*3塩川伸明『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』(有志舎、2011年)。
*4塩川伸明「ペレストロイカとウクライナ――ロシア・ウクライナ戦争の歴史的理解のために」『歴史学研究』2023年6月号、編著『ロシア・ウクライナ戦争――歴史・民族・政治から考える』(東京堂出版、2023年9月)、「ウクライナ戦争の序幕――2014年前後/2010年代後半/2020-21年」http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/IntroductionUkrainianWar.pdf など。