《書評》河合信晴『物語 東ドイツの歴史――分断国家の挑戦と挫折』
一
かつての東ドイツというと、何となく「スターリニズムの優等生」というイメージがあり、ソ連・東欧社会主義圏諸国の中でも特に教条主義的で、硬直的だ――近隣のポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアなどに比べても、目立った改革の動きに乏しい――というような先入観があって、知的関心対象となる国という気があまりしなかった。ドイツ統一直後にはシュタージ(国家保安省)に関する情報が氾濫して、ますます暗いイメージが広がり、食指が動かなかった*1。
この状況は一九九〇年代以降、かなり変わってきた。ジャーナリスティックな報道および世間一般の関心は統一からしばらく経つうちに退潮したが、それと入れ替わるかのように、社会科学や歴史学の観点からする東ドイツ研究が急速に増大してきた。もともと日本にはドイツ研究者は昔から大勢いて、分厚い層をなしていたが、現代史に関心を持つ人の大半は、統一以前の時期には西ドイツに関心を集中させ、東ドイツにはあまり目を向けようとしなかった。ところが、東ドイツが過去の存在となった一九九〇年代以降、原資料公開が一挙に進んだことにも助けられて、東ドイツ研究がにわかに活況を呈するようになった。本書巻末の「参考文献」のうちの「日本語文献」の項目には、一九九〇年以降に刊行された本が多数挙げられており、この分野の活況ぶりが窺える(本書でも、至る所でそうした研究成果が紹介されている)。では、そうした新しい研究およびその成果を生かした本書は、どのような東ドイツ像を出しているのだろうか。
本書につけられた帯には、「壁の向こうは恐怖に満ちた監視社会だったか」という言葉がある(「恐怖に満ちた監視社会」という部分が特に大きな活字で印刷され、「だったか」という部分は小さな活字になっている)。最後の「か」という一文字がなければ、まさにそうだったという意味になって世間一般の常識と合致するが、「か」の一文字はその常識に挑戦するかのごとくである(ただし、疑問符は付されていない)。そうだったというのか、そうではなかったというのか――読者はそのような疑問をかかえながら本書に誘われることになる。
序章では「独裁の限界」論という考え方――人々は社会主義統一党に無条件に従っていたのではなく、政策を自らの都合の良いように読み替えて行動するしたたかさを持っており、体制の意図は「換骨奪胎」されていたという――が紹介されている。序章の末尾では、成功した西ドイツと失敗した東ドイツという単純な対置が批判され、「本書は他人の失敗を上から眺める視点はとらない」「失敗は他人のものであっても、自らを省みる重要な参照軸を提供してくれるのではないだろうか」とある*2。この書き方は微妙である。「失敗」だったということ自体を否定するのではなく、確かに失敗だったのだが、それをどのような視点から見るのかが重要だという意味にとれる。「独裁の限界」論にしても、「独裁」ということを否定するのではなく、それには「限界」があったとする議論である。つまり、常識的通念を全面否定するというよりも、それを補完し、部分的に修正することで、より緻密な認識を得ようとするのが著者の狙いということだと言っていいだろう。
序章と呼応するかのように、終章でも、「東ドイツの社会主義体制の限界や弱点、さらには抑圧の仕組みを描くに当たって、批判的ではあるが一方的に断罪をしなかった」とある。かといって、「東ドイツに暮らした人びとや反対派の行動についても手放しに肯定的にはとらえなかった」という両義的な文章がこれに続いている。「別の〔よりよい〕社会主義の可能性」については、「歴史的な条件が整えば可能であったかもしれない」としつつも、それが現実化し得なかったことを重視するかのようでもある。その理由の説明は入り組んでおり、必ずしも明快でないが、とにかく「一方的な断罪」を避けつつ、「こうだったら良かったのに」という未練論にも陥るまいとする姿勢をとるのが著者の特徴だという印象を受ける。ドイツ統一がバラ色の現実をもたらすのではなく、各種の矛盾をはらんでいることについては、旧東側だけに責任があるのではなく、西の方にも問題があったことが指摘され、「旧東ドイツの人々は自由を手に入れながら公正さを失ったといえなくもない」と述べられている。このような著者の姿勢は、安直な一面的結論を振り回す議論に対して、より慎重でバランスのとれた議論を心がけるという点で好感が持てる。
こういうわけで、本書が多面的な現実をどのように解きほぐすのかという難問に立ち向かっていることは明らかだが、その試みがどこまで成功しているのかという問いを念頭におきながら、本書の内容を検討してみたい。
二
序章と終章の間にはさまれた五つの章は、四〇年にわたる東ドイツの歴史を外交・内政・経済・社会の諸側面にわたって手際よく概観している。そこでは、ドイツ語・英語・日本語によるここ三〇年ほどの研究成果がバランスよく紹介されており、新書の体裁による入門書の役割を十分に果たしている。そのような美点を認めた上で、あえて無い物ねだり的な注文を付けるとするなら、いささか総花的で無難な記述に傾斜し、序章や終章で提起された問題提起にどのように答えようとするのかがあまりはっきりしないうらみがある。本書には、「いえなくもない」、「と見ることもできる」、「とも評価できなくもない」、「考えられなくもない」といった表現が各所に頻出して、著者の真意の汲みとりにくい個所が少なくない。「独裁」「失敗」という通念を裏付けるかに見える記述と、それだけではないことを示唆するかに見える側面が折衷的に並記されているというのが全般的な印象である。
本書は東ドイツという事例を取り上げた「現存した社会主義」に関する歴史研究として読むことができるが、ではソ連および他の東欧諸国における「社会主義」と東ドイツにおけるそれとはどの程度共通性をもち、どの部分が東ドイツ特有なのかという問題が浮かび上がる。だが、本書ではそうした問題はほとんど論じられていない。東ドイツがソ連なり他の東欧諸国なりとどの程度似ていて、どの程度異なっているのかがはっきりしないままに、東ドイツの個性が論じられている観がある。これは書物の性格上、ある程度までやむを得ないことであり、隴を得て蜀を望むの類いかもしれないが、既存の「現存した社会主義」研究の成果を十分吸収していないことが惜しまれる*3。ところどころで「ソ連化」とか「ソ連からの自立」という言葉が出てくるが、そこにおける「ソ連」像は掘り下げを欠いており、東ドイツについて単純化を避けようとする細心さとは対照的に、ソ連については単純なイメージで満足しているのではないかとの印象を免れがたい*4。また、これまで内政と社会史・日常史を専門としてきた著者が外交史や経済史にまで手を広げたのは多大の努力を要したと思われ、その労を多としたい。ただ、結果的にいえば、外交史が比較的充実しているのに対し、経済面は、かなり多くの紙幅が割かれているわりには分析が十分深くない(特に「不足の経済」の説明)。
「社会主義」と称されてきた国の体制を論じる際に、これまでに提起されてきた膨大な議論をごく大まかにまとめるなら、一方に古典的な全体主義論があり、他方に各種修正主義(いわゆる「歴史修正主義」の意味ではなく、既存の主流的見解への批判的問題提起の意)があり、後者の東ドイツに即した典型例として、「ニッチ社会」論――公的世界では不自由だが、そこから切り離された私的社会(ニッチ)において限定的な自立性の余地があったと説く――があった。本書ではこうしたキータームはそれ自体としては使われていないが、著者が全体主義論にもニッチ社会論にも批判的であることは行論から明らかである。そのこと自体は共感しうる。古典的な全体主義論はあまりにも硬直した「一枚岩」の図式に傾斜しがちだった一方、ニッチ社会論の前提となる公的空間と私的空間の峻別も現実的でなかったからである。そこまではいいのだが、問題は、では全体主義モデルともニッチ社会モデルとも異なる東ドイツ社会像――あるいは、より広く「社会主義」体制像――をどのように構築するかという点にある。
一口に東ドイツ社会に生きていた人々といっても、そこには様々な種類の人たちが含まれる。体制の公的な指示の忠実な執行をひたすら心がけていた人たちもいれば、外見的には「体制派」そのものでありながら、実は内心で種々の「異論」をいだいていた人たちもいた*5。はっきりとした「異論派」に属していた人たち――但し、その異論の内容は多くの場合、「社会主義」否定ではなく、むしろ「真の社会主義」を目指す方向のものだった――もいれば、明確な異論を唱えるのではなく、体制内で考慮されるはずだと思われる日常的要求を当局に提出していた人たち――しかし、そのこと自体が実は体制を揺るがす可能性をはらんでいた――も多かった、その他その他である。そうである以上、そこに生きていた人々の実像を描こうという場合、どのような人たちの、どのような側面に注目するのかを、もっと立ち入って論じる必要があるように思われる。
人々の実像に迫ろうとする際に著者が重視する「請願」(第4章のコラムE)は、それ自体としては体制の論理に沿ったものでありながら、その枠を超えていく潜在性を持つという意味で、興味深い素材である(なお、この種の「請願」は東ドイツ特有ではなく、ソ連にも大量に存在し、これまでも熱心な研究対象となってきた)。ただ、これを手がかりとした分析を進める場合、もう少し丁寧なステップを踏む必要があるのではないかという気がする。いま触れた「コラムE」には、「この国ではごくごく身近な問題こそが政治問題として問われ続けていた。いわば、日常が政治化せざるを得なかったのである」という一句がある(一九五頁)。これは重要な着眼であり、「日常」と「政治」を画然と分けてしまう通念への挑戦としての意味を持つ*6。ただ、「政治」という言葉には種々の意味および位相があり、ある人が思い描く「政治」と他の人が思い描く「政治」とはしばしば食い違うことを想起するなら、ここで使われている「政治問題」「政治化」といった言葉遣いにおける「政治」はどういう意味での「政治」のことなのかをもっと立ち入って論じるべきではないだろうか。すぐ続く個所で、「東ドイツに暮らしていた人びとは政治的に無関心ではいられなかった」とあるのも同様であり、結論として、「政府や社会主義統一党にはいつもいい顔をしながらも、裏では批判をするといった態度をとることは、自分が抱えている身近な問題を解決するためにはありえなかった」(一九六頁)というのは、いささか論理に飛躍がある。他の多くの個所では「と言えなくもない」といった留保付きの文章を好む著者がこの個所では「ありえなかった」と断言しているのも唐突の印象を与える。
三
東ドイツ体制末期たる一九八〇年代を扱った第5章以下については、やや詳しく検討してみてみたい。
この章のうちの第3節では、八九年の変動への背景をなす反対派の登場が描かれているが、そこでは、「彼らはあるべき公正な東ドイツや社会主義の姿を求める傾向が強かった」(二二〇頁)ことが指摘されている。これは後で触れるサロッティなども指摘する点であり、確かに東ドイツの反対派運動の一つの特徴といえるだろう。その種の「あるべき社会主義」論が他の中東欧諸国――ポーランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアなど――に存在しなかったわけではない。ただ、それら諸国では一九六八年や一九八〇‐八一年の経験を経る中で、「あるべき社会主義」論、「人間の顔をした社会主義」への幻滅が広がり、事実上の脱社会主義へと向かう傾向が八九年に先だって広まっていたのに対し、東ドイツでは八九年に至るまで「あるべき社会主義」論が優勢だった点に、一つの重要な違いがあった。もっとも、東ドイツでも「壁」開放を境に急速に脱社会主義論が高まったことを想起するなら、その差異はある程度相対化される。この点は著者も意識しているようで、「社会主義システムの克服を目指す思考と、社会主義体制の改革を目指す思考」の並存が指摘され、そのことが後に反対派運動が分裂していく要因ともなると述べられている(二二五頁)。これは重要な点に触れているが、「克服」という言葉でどういうことを指すのかが明確でない。
一九八九年一一月九日の「壁」開放は、それ自体としては指導部レヴェルにおける手違いの産物としての偶発的事件であり、その時点で反対派活動家はこれを決定的な転機と見てはいなかったが(二四三‐二四五頁)、一旦それが起きてしまうと、その後の状況は急速に変わった。中でも重要なのは、一ヶ月も経たないうちに東ドイツの改革を要求する声は後退し、ドイツ統一を求める声が大きくなったという指摘である(二四九頁)。ドイツ統一に対する慎重な立場は人々には受け入れられなかった。「革命はその子供たちを置き去りにした」とも書かれている(二五四頁)*7。ということは、八九年秋を頂点とする市民運動と八九年末から九〇年の統一に至る経過の間には一種の断絶があり、前者がストレートに後者を生み出したわけではないということになる。ジャーナリスティックに広められている通念では、「壁」開放を頂点とする八九年秋の市民運動――論者によっては「市民革命」――がそのまま統一を生み出したかに思われがちだが、そこには実は主役の交代があり、前者の主人公は後者の局面では背後に追いやられたということである。
このような主役の転換は、それほど広く認識されているとはいえないにしても、専門家たちの間ではかなりの程度共通認識となっている。その上で、それをどのように捉えるかは論者によってまちまちである。レダーの場合、反対派市民運動のつくった「新フォーラム」は大衆の支持を得ていなかった、独立し改革された東ドイツが「自由な民主政」になるというオルタナティブは経済的にほとんど存続不可能だったろう、などと論じられている。従って、現実にとられた道以外のオルタナティブは実現不可能だったというのが彼の結論である*8。これに対してメアリー・サロッティは、東ドイツ国内改革への志向を「ヒロイック・モデル」と特徴づけ、それは勇気やヴィジョンを意味する反面、向こう見ずな試みでもあるという意味で、肯定・否定両面を持つものという見地を示している。ヒロイック・モデルは賞賛すべき目標を掲げており、もっと時間を与えられたなら、より実現可能性の高いモデルを作り上げることもできたかもしれない、だが現実にはそうした時間は与えられず、より手っ取り早い方式としての「プレハブ・モデル」――既存のシステムとしての西ドイツ国家構造および国際的にはNATOへの吸収――がとられた、というのが彼女の議論である*9。
大雑把にまとめていうなら、レダーが東ドイツ市民運動をどちらかといえば冷たくあしらう態度をとっているのに対し、サロッティはある程度の心情的共感を寄せた上で、現実の歴史においてはあまりにも理想主義的だったために力を持ち得なかったという両義的な捉え方になっている。なお、「円卓会議」が事実上その生命を終えた後も、それに参加した法律家たちは東独新憲法草案を統一プロセスに生かそうと試み、西の法律家の一部もそれに協力するという経緯があったが、こうした試みの評価をめぐっても、論者によってさまざまな評価がある*10。このような分岐がある中で、著者はどのような観点に立っているのだろうか。東の市民運動が全く無力かつ無意味だったというような見方に与していないことは明らかだが、かなりの程度有力でありながら惜しいところで敗北したという観点なのか、一定の評価を与えつつもその限界を重視する観点なのか、本書を読んだだけでははっきりしない。関連して、体制転換に先だつ時期の反対派運動の中で「対抗公共圏」が生まれたという市川ひろみの所説が紹介されているが(二二二頁)、そのような公共圏が確固として確立して転換をもたらしたのか、それともそれは幼弱な萌芽にとどまり、統一過程のなかで洗い流されてしまったのかといった問題も気にかかる。
統一後の三〇年については、「この国は少なくとも四〇年かけて、ソ連から徐々に自立性を獲得してきた。それが〔中略〕たったの二年半で、西ドイツの立場を追認するだけの立場にまで追いやられ」たという記述があり、ドイツ連邦共和国基本法二三条による統一は「吸収合併」に他ならなかったと述べられている(二五九‐二六〇頁)。事実経過がこのようなものだったことには疑う余地がない。問題は、それをレダーのように当然視するのか、それともそれに伴うマイナス面を重視するのかという点にある。関連して、当時の西ドイツでは社会民主党などによって、基本法二三条ではなく一四六条による統一――いわば「対等合併」論――が唱えられていた。「そうだったならよかったのに」という未練論に立つかどうかは別として、当時の政治過程において「二三条か一四六条か」という論争があったという事実自体は想起に値する。この点、本書に一四六条への言及がないのはやや説明不足の観がある*11。
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いささか注文の多い書評になってしまったが、それというのも、本書が知的関心を誘う書物と感じるからこそである。新書サイズで東ドイツの通史をバランスよく描いた書物がこれまで存在しなかったことを思うなら、ここ三〇年の研究成果を踏まえた本書の登場は大いに歓迎されるところだという全体的印象は、ここに書き連ねたような無い物ねだりにかかわらず揺るがないだろう。
*河合信晴『物語 東ドイツの歴史――分断国家の挑戦と挫折』(中公新書、二〇二〇年)。
(二〇二一年一月)
*1日本でもある時期に大量に噴出した「シュタージもの」を私は網羅的に読んだわけではないが、桑原草子『シュタージの犯罪』(中央公論社、一九九三年)は、歴史の専門家の手になるものでないわりには興味深い書物だと感じた記憶があり、やや長めの読書ノートを書いたことがある(「塩川伸明ホームページ」の中の「読書ノート」欄に収録)。
*2本書とほぼ同時期に刊行されたアンドレアス・レダー『ドイツ統一』(岩波新書、二〇二〇年)は西ドイツの「成功物語」を東ドイツの失敗と対比しており、この点に関する限り、本書とレダー著は対照的である。
*3さしあたり塩川伸明『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』(勁草書房、一九九九年)参照。
*4純然たる細部だが、二七頁に引用されているスターリン発言(一九四六年三月)は、その文脈――チャーチルのフルトン演説に対する反駁の狙いで公表された――の説明が欠けている上に、やや意訳に過ぎる訳し方をしているために、ミスリーディングなものとなっている。
*5オーソドックスな体制エリートの代表のように見なされながら、本人の主観においては「秘かな異論者」だったとされる特異な人物の一例として、有名な経済学者ユルゲン・クチンスキーが挙げられる。彼が回想で描く自画像は必ずしも説得的でなく、多くの疑問を呼び起こすが、そのような言訳をせざるを得ないような大物知識人がいたということ自体が、東ドイツ社会の一つの側面を知る手がかりにはなる。ユルゲン・クチンスキー『クチンスキー回想録、1945-1989、正統派の異端者』(大月書店、一九九八年)。この本について私は批判的論評を書いたことがある(「塩川伸明ホームページ」の「読書ノート」欄に収録)。
*6著者はこの主題について最初の単著を書いている。河合信晴『政治が紡ぎだす日常――東ドイツの余暇と「普通の人びと」』(現代書館、二〇一五年)。本書の記述も同書を下敷きとしている。
*7当時東ドイツで留学生として暮らしていた人によるヴィヴィッドな観察として、芳地隆之『ぼくたちは「革命」のなかにいた――東ベルリン留学グラフィティ』(朝日新聞社、一九九〇年)、同『壁は必要だった――大国ドイツ三たびの民族主義』(新潮社、一九九四年)参照。
*8レダー、前掲書、一〇二、一七一‐一七四頁。
*9Mary Elise Sarotte, 1989: The Struggle to Create Post-Cold War Europe, new and revised edition, Princeton University Press, 2014, chapter 3.本書は「壁」開放を大団円ではなくむしろ出発点とする見地に立って、その後の複雑な駆け引きを詳細に描いている。部分的に若干の疑問点がなくはないが、ドイツ統一に関する基本書である。但し、邦訳書(サロッティ『1989――ベルリンの壁崩壊後のヨーロッパをめぐる闘争』上下、慶応義塾大学出版会、二〇一九年、第二刷、二〇二〇年)は誤訳・不適訳が多すぎるため、安心して依拠することができない。私は英文原書および邦訳書のそれぞれに関する論評を書いてホームページ上に公開した(どちらも、「塩川伸明ホームページ」の中の「新しいノート」欄に収録)。
*10Ulrich K. Preuss, "The Roundtable Talks in the German Democratic Republic," in Jon Elster (ed.), The Roundtable Talks and the Breakdown of Communism, The Univesity of Chicago Press, 1996; 広渡清吾『統一ドイツの法変動――統一の一つの決算』有信堂、一九九六年、第六章、大川睦夫「幻の東ドイツ新憲法の憲法史的意義」『社会主義法研究会年報』第一一号(社会主義法の変容と分岐)、法律文化社、一九九二年、市野川容孝『社会』岩波書店、二〇〇六年、二二頁など参照。
*11この問題については、広渡清吾、前掲書、第一章参照。この広渡著は統一にまつわる法的諸問題を体系的かつ詳細に論じており、ドイツ統一問題の基本書である。