「《ユーラシア世界》研究と政治学」第三節改訂版
拙稿「《ユーラシア世界》研究と政治学」『国家学会雑誌』第一二六巻第七・八号(二〇一三年八月)は、元来、二〇一三年一月二六日に行なった研究会報告(一種の最終講義のようなもの)の草稿に若干の改訂を施したもので、脱稿は同年五月である。ちょうど定年退職にまつわる大量の雑用が押し寄せていた時期だったことに加えて、健康上の問題もあり、想を練る余裕があまりなく、いささか舌足らずの個所を残していたことに遅ればせに気づいたのは九月頃のことである。活字になって間もない文章に今頃改訂版をつくるというのも間の抜けた話だが、とにかく多少の改訂を思いついたので、とりあえずウェブ上に公開することにした。ひょっとしたら、将来、より本格的な改訂を施した新版を発表するというようなことがあるかもしれないが、現時点ではそこまでのことを考えているわけではない。
当初の執筆時と現在の間に時間差がほとんどない以上、当然ながら私の考えにこれといった変化が生じたわけではない。ただ、時間的・精神的余裕のない時期に書いた原稿では論じ切れていなかったことがらを多少補った方が、本稿の背後にある考えをよりよく理解してもらえるのではないかという期待が、この改訂版執筆の動機である。
修正個所はとりあえず第三節の導入部および第3・4項だけに関わる。細かいことをいえば、それ以外にも補充したり微修正したりした方がよい個所があちこちにあるが、そこまで手を広げるなら事実上の全面改稿になってしまうので、今回はこれだけにとどめることにした。いろいろな意味で中途半端な代物ではあるが、読者の批判を受けて再考するきっかけが得られるなら望外の幸いである。
(二〇一三年一〇月)
三 比較政治・比較体制論・体制移行論
私が一九八二年に職を得たのは、「比較政治論」という講義を担当するポストだった。その実質的内容はソ連(およびある程度まで東欧諸国)の政治という趣旨だと了解されていたが、とにかく看板が「比較政治」であることをどう受けとめるべきかということは、それ以来の課題であり続けた。当時はまだ、comparative politicsという学問分野もあまり確立しておらず――英語でcomparative governmentに当たる政治制度論がある時期までは大きな位置を占めていた――日本比較政治学会も発足していないという時代だったから、「比較政治学とはこういうものだ」という共通了解が確固としてあったわけではないが、とにかく自分の研究が「比較政治」という名称にあまりふさわしくないものではないかという秘かな意識は、当初からつきまとっていた。その後、アメリカ流のcomparative politicsが日本でも盛んになるにつれて、「非主流」意識は一層強まった。
天の邪鬼なたちの私は、自分が「非主流」だからといって急いで「主流」に迎合しなくてはならないとは考えなかったが、とにかく自己流の「比較政治」とは何かについて熟考することは私の長期的課題であり続けた(1)。その背後にあった考えを簡単にまとめるなら、次のようになる。
第二節の冒頭で述べたように、歴史研究および地域研究は一般性や理論性の探究よりも具体的対象の個性記述に力点をおく。私は元来そうしたスタイルの研究にずっと従事してきたが、その作業をある程度積み重ねてみると、そうやって得られた個別事例研究の知見を他の事例と比較していくことにもそれなりの意義があると感じるようになった。その際、「主流」の比較政治学が体系性や理論性の探求を主要目標とし、議論の出発点でもそれを明示するのが普通であるのに対し、むしろ個別事例の方を出発点としつつ、その上に立って少しずつ「中範囲の理論化」の積み上げを試みるという行き方もあってよいのではないかというのが私の基本的な発想だった(2)。あるところで使った表現を繰り返すなら、「抽象的一般論を自己目的的に展開するのではなく、むしろ具体的個別研究の中から育ち、また個別研究のさらなる進展を刺激するようなものとして理論的研究を進めることが必要ではないか」と感じたのである(3)。
〔原論文第三節導入部末尾の段落(一二頁五‐一〇行目)は、多少手を入れて第4項に移すので、この個所からは削除する〕。
1 以前からの主要課題――体制間比較および社会主義諸国間の比較
〔この項は原論文のまま〕。
2 比較対象の質的変容――比較体制論から体制移行論へ
〔この項もほぼ原論文のままだが、「私はもともと「民主化」がそれ程順調に進むわけではなく、むしろ権威主義化の傾向も見過ごせないということを早い時期から主張してきた」という個所(一七頁二‐三行目)に、新たに注をつける(4)〕。
3 変化の具体相
かつてのソ連を構成していた諸共和国間の比較は、一九九一年まではソ連という一つの国の中での地域間・民族間比較だったが、その後、その性格を大きく変えて、国際比較ということになった。もともとソ連時代においても、諸共和国間に個性的な差異がなかったわけではなく、画一的と思われがちなソ連各地には意外なほどの多様性があった。そうした多様性を出発点として、ソ連解体後になると、たとえばバルト三国はEU・NATOに加盟して西欧諸国との関係を深め、コーカサスや中央アジアは南ではトルコ・イラン・アフガニスタン、東の方では中国・韓国などとの関係が濃密になる――もっとも、どこでも同じように関係が深まるのではなく、そうした国際関係の展開自体が各国ごとの個性をもっている――という状況の中で、各国の個性的差異はますます鮮明なものとなってきた。
こうして、かつてはソ連という一つの国を対象とする研究に従事してきた人間は、いまや一五もの明確に異なった個性をもつ独立国を対象として比較研究を進めなくてはならなくなった(もっと広げていえば、かつて東欧に存在した八つの社会主義国は、いまでは一三、あるいはコソヴォを独立国に数えるなら一四の国になったので、旧ソ連・中東欧諸国(5)全体でいえば二八ないし二九カ国となる(6))。このように多数の国の研究を一人の人間が担うのはもちろん不可能であり、多数の専門家たちの共同の努力によって推進するほかないが、そのような協力を成り立たせるためにも、それら諸国をバラバラに切り離すことなく、相互関係を意識しておく必要がある。実際には、そのような意識なしに個別の国の研究のみに専念する傾向が強まっているが、私は乏しい力の中で可能な限り、これら諸国を視野の中に入れ続けるよう努めてきた。
独立国の数が増えただけではない。ロシア連邦内の様々な地域間の比較も、新しい研究課題となった。ソ連時代においてもロシア共和国内各地の個性やそれらの相互比較という論点が存在しなかったわけではないが、どちらかというとあまり目立たない位置を占めるにとどまっていた。ペレストロイカ期には連邦構成共和国における自立化の動きが高まったのに刺激されて、ロシア共和国内自治地域の問題がそれを追いかけるようにしてクローズアップされだしたが、それがソ連解体後のロシア連邦の問題ということになった。ソ連が多民族連邦国家だったのと同様、今日のロシアも多民族連邦国家だが、両者の間には連邦概念をはじめとする制度面でも、多民族性の度合いなどの実体面でも、かなりの差異がある。私はこのことを「ソ連とのズレを含んだ相似形」と表現し、両者の比較検討を進めてきた(7)。なお、ロシア連邦内の地域間比較という場合、民族地域だけが問題であるわけではなく、ロシア人地域のリージョン研究も重要だが、私自身は取り組んでいない。
中東欧諸国を含めた旧社会主義国を総体として比較の視座で見る際に一つのヒントとなるのは、「東は南になった」というプシェヴォルスキの指摘である(8)。この観点からは、旧社会主義諸国と発展途上国との比較も大きな課題となる。途上国も体制移行国も「模範」「モデル」を欧米諸国に求めて、それを完成品の形で輸入しようと試みるが、外から輸入される新しい制度とそれまでに存在していた国内の社会構造・文化との間の不適合性から、種々の摩擦が生じたり、微妙な融合や変形が進行したりする。こういった点に関する限り、両者の間には大きな文脈での共通性がある。旧社会主義国をもっぱら先進資本主義諸国と比べて、その基準に合っていないから体制移行が不十分だ、あるいは後退したとするたぐいの評論がまま見られるが、むしろ比較の基準として発展途上国をとった方が適切な面があるように思われる。
もっとも、旧社会主義国には後発国一般の問題に尽きない特有の状況もある。多くの旧社会主義国は、既に一旦ある程度の「近代化」「西欧化」を進めた後で再度の外来文化との遭遇・摩擦を経験しているのであって、出発点における国内社会構造はもはや古い伝統社会ではなく、社会主義的近代化による変容を伴ったそれだという独自性をもっている。大都市、大規模工業、教育度の高い住民などの存在は、社会主義時代に進行した独自な「近代化」の産物だが、それは今日の目で見たとき、積極的「遺産」であると同時に克服すべき「後遺症」でもあるという両義性をもっている。
やや個別的な例になるが、比較対象のうちの旧ユーゴスラヴィアの位置がそれまでよりも大きくなった。もともと東欧諸国全体をソ連との比較対象として意識しており、ユーゴスラヴィアもその一つだったことは前述したが、一九九〇年代以降、特に旧ユーゴスラヴィア諸国の位置が大きくなってきた。一つには、以前からの関心として、社会主義の諸類型という観点があり、これが体制転換過程の比較につながった。ユーゴスラヴィアは他の東欧諸国と違って、社会主義化の過程がソ連同様、「内発型」だったが(この分類論については文献〔13〕)、そのことは体制転換の過程を屈曲したものとさせた。「外発型」だった諸国においては比較的短期に転換が進展し、EU・NATOへの包摂も進んだが、旧ソ連および旧ユーゴスラヴィア諸国ではそうはいかない。そのことを単なる「遅れ」とか「逸脱」と片付けてすませるのではなく、どのような条件がどのような屈曲をもたらしているかを――それら諸国の間での比較をも含んで――考察する必要がある。
もう一つ、この時期に浮かび上がった大きな論点として、連邦制および民族問題という観点からの比較がある。多民族連邦国家およびその解体という点で、ソ連とユーゴスラヴィアは大まかな意味で共通性をもつ(もう一つの事例としてはチェコスロヴァキアもある)。だが、その具体的な実態は大きく隔たっており、それらをどのようにして比較するかが大きな問題となる(旧ユーゴスラヴィアの場合、民族紛争および連邦国家解体と関連して、一九九〇年代には凄惨な内戦に至ったが、これは国際政治上の課題であるので、四で後述する)。
4 より広く対象をとった比較
元来、私の主たる研究対象は旧ソ連・東欧圏ないし旧社会主義圏という範囲に限られていたが、次第に、その枠を超えた比較にも、あれこれの形で関心をいだくようになった。
その最初のきっかけは、言語政策という問題に取り組んだことである。ソ連民族政策研究の一環として、言語政策史についての論文を一九九〇年代にいくつか書いた後、二〇〇四年に〔21〕にまとめたが、この問題について考える上で、社会主義圏以外の諸国――カナダ、インド、ベルギー、かつてのハプスブルク帝国、あるいは社会主義国だがソ連型とは異なるユーゴスラヴィア等々――における多様な言語問題・言語政策について考えることの有意味性を感じ、視野を広げるようになった。社会言語学という分野にはもちろん門外漢だが、「岡目八目」効果を狙った問題提起を行なったりもした(〔27〕・〔61〕など)。
これを契機に、言語問題から更に視野を広げて、民族・エスニシティの一般論にも徐々に手を伸ばすようになった。そのとりまとめとしての〔38〕は、一人の人間が書くには大きすぎる問題に取り組んだものであり、相当な冒険だったが、幸いにして諸方面で好評を得ることができた(9)。ネイション論と関係して、シティズンシップ論にも部分的にではあるが、ある程度手を出してみた(〔33〕)。
多民族・多言語国家は多様な形をとりうるが、歴史的に大きな位置を占めてきた存在として「帝国」が挙げられる。「帝国」という概念は極度に多義的であり、単一の定義に収めるわけにはいかないが、とにかく一時期忘れられかけていたこの概念が近年急速に流行となったのは周知の通りである。その内容についてこで詳しく立ち入ることはできないが、とにかく私は民族問題の探求から帝国論へと接近し、その歴史的類型、ソ連にその概念を当てはめるときの注意点、そして冷戦後の「新しい帝国」論などについて、いくつかの角度から論じてみた(10)。ソ連を「帝国」の一種とみる観点は、ある時期までは異端の議論だったが、ソ連末期以降急激に広まり、あっという間に一般化した。その際、ただ単に「帝国であるか/ないか」を問うのではなく、「どのような帝国なのか」を考えることが重要である。この点については種々の議論があり、百家争鳴状況だが、そうした多様な議論をどのように整理していくかが今後の課題となる。一つの有力な議論――だからといって「決定版」というわけではない――として、「アファーマティヴ・アクションの帝国」という議論(テリー・マーチン(11))があるが、この挑発的問題提起を単純に全面肯定するとか否定するとかいうのではなく、どのように受けとめれば有意味なものになるかを考えてみようとしたのが、同書邦訳に私が付した解説である(12)。
帝国とは性格を異にするが、ある時期以降、連邦国家という形をとる多民族国家がいくつかあらわれた。連邦という原理それ自体は民族問題と直接結びつくものではなく、非エスニックな基準によって構成された連邦国家も多いが、民族や言語が主要な基準となる連邦国家も希少な例外というわけではない。その中にはソ連・ユーゴスラヴィア・チェコスロヴァキアという三つの社会主義連邦国家が含まれ、いずれも体制転換と相前後して解体したが、民族・言語を主要基準とする連邦国家はこれらの例だけにとどまるものではなく、インドやベルギーをはじめ、他の事例を含めて幅広く比較考察することに意味がある。こうした比較連邦国家論ともいうべきテーマは、本格的に取り組もうとするなら途方もない巨大な課題となってしまうが、とりあえずの試論的な問題提起を〔31〕その他の著作である程度提示してみた。
以上では民族がらみでの視野の広がりについて述べたが、視野拡大のもう一つの契機として、日本の大学で主に日本人学生を相手に授業をするからには、日本との比較が重要な意味をもつのではないかということを、ある時期から痛感するようになった。もっとも、これを本格的に論じることは手に余るので、あくまでも断片的な思いつきにとどまるが、ともかく授業の端々で、日本との比較に触れることを積極的に試みるようになった。不十分ながら、アメリカとの比較もずっと頭の片隅にあった。
日本やアメリカのような、いわゆる「先進資本主義」諸国との比較という問題意識は、社会主義時代に「体制間比較」が重要課題だった時期から継続する面がある。もっとも、かつては両体制の大づかみな対比・差異を前提した比較が課題だったのに対し(13)、体制転換後は、旧社会主義国が「どのような資本主義になろうとしているのか」という問題を考える上で、資本主義諸国の間の個性的差異が重要性を帯びるようになった。日本とアメリカの対比もその一例だが、「欧米」と括られがちな諸国における「欧」と「米」の差異――さらにいえば、西欧諸国のなかにも種々の歴史的個性の差異がある――という問題に目を向ける必要性が増大した。このような関心が強まったのにはいくつかの契機があるが、「社会主義圏」解体後の中東欧諸国が西欧への接近を強め、二〇世紀末から二一世紀初頭にかけて相次いでEU・NATOへの加盟を果たしたという経緯も、西欧諸国を視野に入れる必要性を一層高めた。
研究者の世界でも、中東欧諸国専門家の多くは、ロシア・旧ソ連諸国研究の世界から距離を置いて「ヨーロッパ研究」の世界に入ろうとしているように見える。かつて「ヨーロッパ研究」がもっぱら西欧研究と等置され、中東欧諸国が視野から排除されがちだった状況に比べるなら、ヨーロッパの西と東をともに視野に入れるのは一種の前進と言える。もっとも、「ヨーロッパ」の一体性ばかりが重視される一方、ヨーロッパとロシア・旧ソ連諸国が全面的に断絶しているかにとらえられるなら、そこには一種の行き過ぎがはらまれる。確かに、「ソ連・東欧ブロック」解体後の中東欧諸国とロシア・旧ソ連諸国の間にはいくつかの顕著な差異があり、それら諸国を「ブロック」としてみることはもはやできない。しかし、体制移行国としての比較や、地理的隣接性を基礎とした相互関係は今なお重要な検討課題である。とすれば、中東欧諸国とロシア・旧ソ連諸国とは、いまでは共通性が乏しくなっているにしても、完全に無縁な世界として分断するのではなく、より広いユーラシア世界という視座の中で捉えることが重要な課題となるだろう(14)。
こうした「先進諸国」との比較とは別に、いわゆる発展途上国との比較も重要性を増してきた。「東は南になった」というプシェヴォルスキの指摘については第3項で触れたが、その観点を生かすためには、多数にのぼる非欧米諸国の実例について知見を広めることが不可欠となる。この点で一つのステップとなったのは、二〇〇七‐〇九年度に「非欧米世界からの比較政治学」という共同研究(科学研究費基盤研究A、課題番号一九二〇三〇〇七)を組織したことである。このような共同研究を試みた背景には、「主流の比較政治学」への対抗意識があった。というのも、既存の「比較政治」がややもすれば欧米先進諸国を基準とし、それへの近接度で各国を測るという発想に傾斜しがちであるように見えることから、それだけでは割り切れない多様な非欧米諸国に関する具体的な事例研究を拠り所としながら、それらを比較していく作業にもそれなりの意味があるのではないかと考えたからである。それまで、私はそのような問題意識を一般論として意識しつつも、実際にそれらの地域に関する研究成果を幅広く吸収することはあまりできていなかった。この共同研究には、ロシア・旧ソ連諸国のほか、東アジア、東南アジア、南アジア、中東イスラーム圏、アフリカ、ラテンアメリカを専攻する研究者たちに加わってもらうことができたが、そうした人たちとの交流は、私の視野を広げる得難い経験となった。もっとも、このプロジェクトはまとまった具体的成果を生み出すには至らず、「非主流の比較政治学」確立は遠い展望にとどまっている。
以上に述べてきたように、当初の専門以外の地域への関心は、あちこちの多民族・多言語国家に始まり、多くの帝国および連邦国家、日本、アメリカ、西欧諸国、そして数多くの発展途上国という風に広がってきた。こう並べるなら、ほとんど世界中のあらゆる国を包含することになる。といっても、各国・地域への私の関心・知識には濃淡があり、それぞれの地域に関心をいだくようになったきっかけもまちまちである。である以上、それらを体系的に包括する図式ないしその予感のようなものが簡単に得られるわけではなく、むしろアドホックな比較の積み上げを重視するという行き方をとるほかない。体系性や理論性を重視するタイプの人からは、「こんなのは比較政治ではない」と言われるかもしれない。
そのような批評がありうることを意識しつつも、敢えて言うなら、もともと政治現象というもの自体、明快な法則性で割り切ることのできない性格を帯び、抽象的論理モデルの想定をしばしば裏切るアートとしての性格をもっているのではないかとも思われる。だとすれば、対象の全体を包括する壮大な体系ではなく、「中範囲の理論」(前注2)を当面の目標とすることも有意味であり、そのためには、本節の冒頭で述べたように「具体的個別研究の中から育ち、また個別研究のさらなる進展を刺激するようなもの」としての比較研究も一定の役割を果たすことが期待される。いずれにせよ、私の比較政治研究はこういう形で進んできたし、その作業はまだ継続中である。
(1)その最初のきっかけとなったのは、「伊東孝之氏の書評へのリプライ」『ロシア史研究』第五六号(一九九九五年三月)である。
(2)この発想は我流のものだが、ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』みすず書房、一九六一年の序論に示唆を受けた。
(3)文献〔44〕の二一〇頁。
(4)早い時期に「「民主派」の勝利が民主主義の勝利を意味しないという逆説」を指摘したものとして、「ペレストロイカの終焉と社会主義の運命」(岩波ブックレット、一九九二年、三四頁)、ほぼ同時期に「民主化の産物としての権威主義化傾向」をもう少し詳しく論じた例として、「ペレストロイカとその後――「民主化」のパラドクス」和田春樹・小森田秋夫・近藤邦康編『〈社会主義〉それぞれの苦悩と模索』日本評論社、一九九二年がある。その後、九〇年代のいくつかの仕事でこの問題に何度か立ち返ったが、九〇年代末のとりまとめとして、文献〔13〕第X章。
(5)「東欧」「中欧」「中東欧」「東中欧」「バルカン」「西バルカン」等々の用語が乱立していることについては二の2でも触れたが、この問題にここで立ち入ることはできない。とりあえず、便宜的な用語法として、社会主義時代については「東欧」、冷戦後については「中東欧」と表記しておくことにする。その際、冷戦期には「鉄のカーテン」があったため「東欧」の境界・範囲は明確だったが、それが崩れた後は、一応「中東欧」と呼ぶにしてもその境界・範囲とも流動的である。見方によっては、元来の「鉄のカーテン」の代わりに新しい障壁が拡大NATO・EUとロシアの間に立てられていると見られなくもないが、これは第四節の問題となる。
(6)それ以外に、いわゆる「未承認国家」を含めるともっと多くの政治単位があることになるが、ここでは立ち入らない。
(7)ソ連全体との比較でロシア連邦の構造を考えるだけでなく、その中の個別具体例についても考える必要がある。この作業を全面的に展開するのは一個人の手に余る大事業だが、特に多くの論者の注目を引いている事例としてタタルスタンとチェチェンがあり、文献〔32〕では総論と並んで、この両地域を取り上げてみた。
(8)A. Przeworski, "The 'East' Becomes the 'South'? The 'Autumn of the People' and the Future of Eastern Europe," PS: Political Science and Politics, vol. 24, no. 1 (March 1991); id., Democracy and the Market, Cambridge University Press, 1991, p. 191.プシェヴォルスキ自身はこれを中欧諸国についての言葉として提起したが、その後の経過を見ると、中欧諸国はまだしも「西」に近づきつつあるのに対し、旧ソ連諸国はより一層「南」的な傾斜を濃くしているようにみえる。もっとも、この特徴づけはあくまでも大まかなものにとどまり、絶対化すべきではないが。
(9)反響と応答を文献〔44〕にまとめた。
(10)歴史的帝国については、文献〔38〕第U章の2と4、ソ連については同第V章の3、現代の状況については同第W章の1など。
(11)Terry Martin, The Affirmative Action Empire: Nations and Nationalism in the Soviet Union, 1923-1939, Cornell University Press, 2001(邦訳『アファーマティヴ・アクションの帝国――ソ連の民族とナショナリズム、1923-1939年』明石書店、二〇一一年)。
(12)しばしば誤解されているが、ソ連民族政策に「アファーマティヴ・アクション」と捉えうる面があったと指摘することは、両者を単純に同一視することを意味しない。一般に比較とは、何かと何かを同一視するか異質と見るかという二者択一の問題ではなく、どのような抽象のレヴェルで、どのような側面に注目するなら、どのような類似性/異質性が指摘できるかを考えるものである。「質的な違いがある」からこの概念を使うのはミスリーディングだと言ってしまうなら(池田嘉郎「ソヴィエト帝国論の新しい地平」『歴史と地理』二〇一三年二月号、四頁)、比較の意味自体を無にしかねない。
(13)体制間比較が両体制の異質性・差異に注目するのは当然だが、それにとどまらず、「常識的で目につきやすい異質性にもかかわらず存在する、意外な共通性」の要素に注目する視点もあった。文献〔13〕五四‐五七頁。この視点は、体制転換後のよりきめ細かい比較につながる面をもっていた。
(14)原論文でこれに続く個所にあった段落(二二頁の末尾から二三頁六行目まで)は、むしろ第二節第2項にふさわしいので、ここでは削除する。