池田嘉郎『ロシア革命――破局の8ヶ月』(岩波新書、二〇一七年)を読む
 
 
     一
 
 今年が百周年に当たるロシア革命について、歯切れのいい口調で明快に語った書物である。内容的にもユニークかつオリジナルな洞察が随所に含まれており、単なる常識的な啓蒙書の域を超えている。文体が明快で、非専門家読者にも分かりやすく、面白いという特徴と、内容がユニークかつオリジナルだという特徴を兼ね備えている本はそう滅多にあるものではない。広い範囲の読者に――ロシア革命についてあまりよく知らない人にとっては手頃な入門書として、そしてある程度以上の予備知識を持つ人にとっては新鮮な角度からの再考を促す刺激的著作として――推奨される本だといってよいだろう。
 いま書いた賛辞は決して単なる社交辞令ではないのだが、そういっただけではおさまらない、何かつかみがたい要素が、この本にはあるのではないかという気がする。端的にいって、いま挙げた二つの特徴の間には実は抵触する面もあるのではないかという疑問が私の頭にとりついて離れない。
 ユニークかつオリジナルだということは、他の研究者たちとは異なる独自な観点をもっているということである。言い換えれば、誰もが一致するわけではなく、論争的だということでもある。ところが、明快で歯切れよい文体は、どこがどのように論争的なのかを明示しない。どうしてこういう特異な見解を出すのかの説明も省かれ、断定口調できっぱりと言い切られている。主題のことをあまりよく知らない読者は、このように明快に断定されている事柄は論議の余地ない史実であり、当たり前のことだと受け取るかもしれない。しかし、実際には、本書のなかには「当たり前」などではなく、読んでいて論争をしたくなる気分に駆り立てられる個所がたくさんある。それは欠点ではなく、むしろ読者の思考を刺激するという意味で肯定的に評価されるべきものだが、困るのは、立論の根拠が説明されることなく、あっさりと断定的に書かれていることである。そのことは、かみあった論争を困難にし、読む者を当惑させる。
 私は本書を読みながら、あちこちの個所にいろんな感想をいだいたが、その感想はさまざまな種類に分かれる。ある部分については、「当たり前」とは言えないまでも、それほど驚きを感じることなく、すんなりと入ってくると感じられる。純然たる非専門家にとっては目新しいかもしれないが、ある程度ロシア革命に関心をもっている研究者であれば、だいぶ以前から共有されてきた見解だという感想をいだく個所である。他方では、「これは相当新しい」と感じる個所ももちろんたくさんある。その新しさも一様ではなく、単純な驚き、新発見への感嘆、ひそかな違和感など、いろいろな種類に分かれる。
 新しいかどうかということとは別に、疑問を感じたり、場合によっては異論を唱えたくなる個所もあちこちにある。それは大小とりまぜて多種多様な疑問・異論であり、考え方の差である場合もあれば、結論は異を唱える必要を覚えないが、書き方がミスリーディングだったり、スウィーピングだったり、飛躍したりしているのではないかと感じるような個所もある。
 さらに、賛否をいう以前に、そもそも歴史家がこういうことを論じるべきなのかという疑問の湧く個所もある。やや丁寧にいうなら、歴史家がこういうことまで論じるべきだというのも一つの考えではあるが、少なくともそれは自明ではなく、もっと突っ込んだ説明があって然るべきだと感じるところがある。これ自体、幾通りかに分かれる。一つは、人間とは、社会とはこういうものだ、これが自然あるいは当然だといった、世界観や社会哲学に関わって独自な価値判断を示す命題があちこちにある。こういう文章が出てくるのは、かつてロシア革命が人類史の転換点と見なされ、社会主義が人類の未来を指し示すと考えられていた時代の名残かもしれない。といっても、著者の歴史観はかつて主流だったのとはまるで違うのだが、とにかくそれを意識し、それを暗黙の論争対象としているように感じられるところがある。それはそれで一つの見識ではあるが、あまりにもあっさりと断定的に書かれているのをみると「そう言い切っていいのか」という疑問が湧くこともある。
 第二に、本書には「もし」という言葉があちこちに出てくる。とりあえず目についた個所をざっと並べるだけでも、一〇、二七、一三三、一六〇、一八四頁等である。もっとも、私自身は「歴史におけるもし」を論じてはいけないという考えをとらない。むしろ、ある程度以上分析的な歴史を考えるのであれば、「もし」に触れるのは不可避であるとさえ考える*1。そうはいっても、実験の利かない歴史において、いろんな条件を変えて考えるのは相当な難事であり、「歴史においてもしを論じてはならない」という考えが広まっているのも無理からぬところがある。そういう事情を念頭におくなら、「もし」という言葉を何度も使うこと自体はよいとして、何らかの説明なり留保なりがあった方がよいのではないかと感じる。
 さらに、あれこれの登場人物の性格描写における文学的な表現があちこちにあり、それは本書の叙述を生彩あるものにしている。だが、会ったこともない遠い昔の人について、まるで見てきたようにこんなことが言えるものだろうかという疑問も浮かぶ。もちろん池田はそういう個所を書くに際して想像だけに頼っているのではなく、当人の口調とか文体、あるいは同時代人による人物評などを基礎に書いているのだろうが、それにしても、「この人はこういう人だ」という、本来断定できそうにない事項についてすっぱりと割り切って書く大胆さには驚く。
 いろんな種類の感想を列挙したが、これですべてが尽くされるわけではなく、もっと微妙なケースもあるし、どの個所がどれに該当するかということを丹念に腑分けするのも結構難しい。次から次へといろんな疑問を呼び起こす文章が出てくるにもかかわらず、歯切れよく明快な文体は、それらが論争的だということをあまり読者に意識させず、あたかも確定的な結論であるかの印象を与える書き方になっている。そのため、どこをどのようにとりあげて論争したらよいのかについても、なかなか手がかりがつかめない。著者と対話しようというつもりで本書を読むと、なかなかそれは難しいという感想が湧き、もどかしい思いが募る。
 
     二
 
 こういうわけで、なかなか論評しにくい本だが、とにかくいくつかの特徴を挙げて、それらの意味について考えてみたい。
 先ず何よりも目につくのは、一九一七年のロシアで起きた二つの革命のうち、十月をクライマックスと見るのではなく、むしろ二月を重視している点、そして十月に至る過程を大団円というよりはむしろ「破局」への道だったとする見方をとっている点である。関連して、十月革命を主導したボリシェヴィキよりもむしろリベラルやメンシェヴィキ・エスエルなどが主要な登場人物としての位置を割り当てられている。
 このこと自体は、かつて主流だったロシア革命観とは大きく違っているにしても、それほど驚天動地の新見解というわけではない。たしかに、私が若かった、今から数十年前の時代には「十月革命クライマックス史観」が圧倒的に主流であり、それを担ったボリシェヴィキやその同盟者としての左翼エスエルが重視され、リベラルは「敵役」、穏健社会主義者(メンシェヴィキおよびエスエル)は「裏切り者」的な見方が優勢だった。しかし、そうした見方の限界のようなものも次第に意識されるようになり、リベラルや穏健社会主義者を重視し、十月革命よりもむしろ二月を重視すべきではないかという考えも次第に広まりつつあったというのが私の感覚である。だから、ここまでであればそれほど驚かないのだが、本書の特徴はそれだけにはとどまらないように思える。
 リベラル、穏健社会主義者、ボリシェヴィキといった政治勢力が本書の主要登場人物だが、そうした政治家たちは社会全体から孤立した存在ではなく、社会の中のあれこれの部分と何らかの形でつながっていた。この点と関わって重要なのは、「公衆」と「人民」――後者の側からの表現でいえば「われわれ」と「やつら」――の間の深い溝と亀裂である。ここで、「公衆」(オプシェストヴェンノスチ)とは、政府や官僚団と対峙して社会改革を目指す人たちのことだが、下層の民衆は含まず、社会の上層にいる改革志向のエリートを指す。リベラルがこの「公衆」の代表であることはいうまでもないが、それが「人民」からかけ離れていることが、彼らの主導による改革を困難なものとした(一五‐一八頁*2。当初リベラルによって構成された臨時政府が穏健社会主義者の政府参加を求めたのも、社会主義者によって代表されるものと想定された人民の支持調達が必須だった――しかし、その実現はきわめて困難だった――という事情を背景にしている。こういった構図自体はそれほど新奇ではなく、ある意味では常識的だが、それを描く著者の記述には、あちこちで「ここまでいうのか」と驚かされる大胆な断言が見られる。
 一つには、「公衆」と「人民」の間の亀裂が埋められる可能性についてどう考えるかという論点がある。本書の「おわりに」には、「長い目で見れば、二つの世界を隔てる壁はだんだんと低くなり、あちこちに穴も開いていくようであった」との指摘がある(二二七頁)。帝政ロシア史は私の専門ではないが、近年の帝政末期研究では、都市部における識字の普及と出版事業の拡大、農村における協同組合運動の発展など、「上層」と「下層」を架橋する可能性が徐々に開けつつあったことが重視されているように思われる。もちろん、その可能性は限定的なものであり、安易に過大評価すべきではないが、ともかくそうした変化がどの程度進展したのかを慎重に測る作業がロシア革命の前提を理解する上でも重要な意味をもつだろう。ところが、この問題は「おわりに」で突然触れられるにとどまり、それ以前の本論部分では、ひたすら亀裂の大きさばかりが強調されている印象を受ける。もし亀裂が埋めようのないものであるとすれば、リベラルと穏健社会主義者の連合を通した「公衆」と「人民」架橋の試みもはじめから失敗を運命づけられており、反動派と過激派のどちらかが凱歌をあげるしかなかった、ということになりそうである。本書が明確にそう言い切っているわけではないが、どことなくそう感じさせるような個所はあちこちにある。「要するに二月革命そのものが失敗だったのであった」という断言(一〇五頁*3、なぜ臨時政府は挫折したのかという問いの答えは「二月革命の最初から出ていたと言ってよい」という個所(二二八頁)などはその例である。
 いずれにせよ、社会上層と下層の間の亀裂の大きさ自体はこれまでも広く認識されてきたことだが、これまでの研究ではどちらかというと「下層」に同情的な観察が多かったのに対し、本書ではむしろ「上層」への同情と「下層」の破壊性への注目が特徴的であるように見える。そのことは、「はじめに」で、「本書の叙述は、裏返しの「十月革命クライマックス史観」になるのかもしれない」、「冷戦時代初期のアメリカ、またソ連崩壊後にはあちこちで見られた反ボリシェヴィキ史観」――「それはつまり、民衆の暗愚とボリシェヴィキの煽動を重視する史観」――と類似して見えるかもしれない、と自ら述べているところにも窺える(viii頁)。
 いま引いた個所に続いて、そうした史観と本書がどう違うかについて、池田はミリュコーフの『第二ロシア革命史』をとりあげて、次のように述べている。「臨時政府と民衆のあいだに横たわる暗き淵の底なしの深さについては、ミリュコーフの計測は正しかった。たしかに民衆の行動は破壊的であったのだ」。ここまではミリュコーフに同意するが、その破壊性は個々の政治勢力の悪意や迂闊さだけで説明できるものではなく、「それはむしろ、ミリュコーフ自身が属するエリート社会と、民衆世界との懸隔に由来していた。そして、そういう懸隔はロシア史の長い歴史の中でかたちづくられてきたものなのである」というのが池田の考えのようである(viii-ix頁)。ということは結局、エリート社会(公衆)と民衆世界の懸隔、亀裂が埋めようもなく大きいものだったということであり、そういう前提のもとでは、エリート社会は「民衆の破壊性」を説得によって抑制することはできず、破局が不可避だったということになる。端的にいって、「民衆の暗愚とボリシェヴィキの煽動を重視する史観」と価値評価を共有し、ただその要因を個々の政治勢力の落ち度よりももっと深い構造に求める点に違いがあるということになりそうである。
 誤解を避けるために付言するなら、このことを指摘するのは必ずしも非難の意味ではない。かつて多くの左翼的知識人をとらえていた「下層」「民衆」の賛美には非現実的なところがあり、「暗愚」「破壊的」という言葉で言い表わされるような側面があることは現実問題として見つめる必要があるだろう。そしてまた、エリート社会と民衆世界のあいだの溝が深く、相互の無理解・蔑視が大きかった――そのことは両者の間の妥協的提携を困難にする――というのも事実だろう。だが、そのことをこんなにも明快に割り切っていいのだろうかという疑問がどうしてもつきまとう。以下、いくつかの局面に即して考えてみたい。
 
     三
 
 二月革命の時点で生まれた最初の臨時政府はほとんど全員がリベラルからなり、社会主義者はケレンスキー一人だけで、しかも彼はソヴィエト代表としてではなく個人として入閣したにとどまる。とはいえ、リベラルたちはそれをよしとしたわけではなく、民衆の信頼をつなぎとめるべく社会主義者たちの入閣とソヴィエトの支持を求めていたし、五月には社会主義者の閣僚が増えて、連立の体裁が整えられた。こうした経緯は、「公衆」の側が「人民」との亀裂を意識しつつ、何とかしてそれを埋めようと努めたことを意味する。ここまでは、比較的無難な記述であり、あまり問題がない。
 臨時政府を条件付きで支持したペトログラード・ソヴィエトの指導部は主としてメンシェヴィキとエスエルからなっていたが、二月革命直後のボリシェヴィキもそれほど隔たった立場をとっていたわけではない。当時ペトログラードのボリシェヴィキを指導する立場にあったカーメネフとスターリンも、レーニン帰国以前には「条件付き支持」路線を容認していた。これはかつてスターリン時代の公式史学では秘匿され、トロツキーやスターリン批判後の史学で指摘されるようになった事実である。問題はそのことの評価である。従来の「スターリン批判」的史学においては、臨時政府条件付き支持は「誤った」戦術であり、これはスターリンの誤りを物語るものと評価されてきた。これに対して、池田はそのような評価を取っていない。カーメネフとスターリンが編集部を掌握した党機関紙『プラウダ』が、ドイツ兵がドイツ皇帝に服従しているうちはロシアの兵士は部署を離れてはならず、銃弾には銃弾で応えなければならないと書いたことを紹介した後に、「戦争中である以上、これは言ってみれば常識的な判断だった」と池田は書いている(六四頁)。これは賛否はともかく、ドキッとさせられる言明である。
 臨時政府とソヴィエトの連携を困難にした大きな要因が戦争への態度にあったことはいうまでもない。臨時政府の中軸を担ったリベラルにとって、「二月革命は戦争を完遂するためになされた」ものだった(五九頁)。このこと自体は古くから広く認識されてきたことだが、反戦の立場を重視する「進歩的」知識人にとっては、これはリベラルの――そしてまた彼らに追随する穏健社会主義者の――反人民性を示すものと解釈するのが通例だったように思う(特に、平和主義的気分の強い戦後日本では)。しかし、池田はそうではない。戦争完遂論と関連して帝政の秘密外交を継続しようとするミリュコーフ外相に疑念を示した人のことを「ナイーヴな反応」「ひとのよい、直情径行型の人物」という風に揶揄を込めて描写する一方、「革命ロシアが連合国との約束に縛られていることは、簡単には覆しようのない現実であった」と述べたあたりは、池田の共感がどちらにあるかを示しているように見える(六〇‐六一頁)
 「簡単には覆しようのない現実」というのは客観的な事実の指摘であって、価値評価と関わらないという読み方もできないわけではない。「簡単には覆しようのない現実」を困難にもかかわらず何とかして覆すべきだという考えもありうる。だが、池田がそう考えているようには見えない。本書の少し先には、「戦後世界において新生ロシアが名誉ある地位を占めるためにも、英仏という二大先進国との同盟関係は何としてでも維持しなければならなかった」とあり(六六頁)、もっと先の方では、連合国との関係を維持しなければ財政援助も軍事援助も途絶え、革命の運命が危うくなるという指摘もある(一〇七頁)。これらはそれだけ取ってみれば、単純な客観的事実の指摘のようにも見えるが、「これが現実なのだから、そうするのが正しいのだ」という価値判断を伴っているように読める。「世界戦争を決定的な勝利まで完遂する」ことをうたうミリュコーフ通牒を「お手本のような外交文書」とする一方、ソヴィエト側の態度について、「飽きもせずにこの文書に反発した」とする書き方にもそうした判断が窺える(七一頁)。
 戦争に関するリベラルのこういう態度に対して、穏健社会主義者は一面で反撥しながら、他面で提携を維持しなくてはならないというディレンマをかかえていた。そうした中でメンシェヴィキ最右派の一人は、大ブルジョアの階級利害の代表としっかり組んで、戦争を完遂しなければならないという論陣を張った。この個所に「これは正論であった」という言葉が添えられている(一三四頁)。これは明らかに池田の価値判断を示す文言である。
 
     四
 
 戦争問題に限らず、より広く考えるなら、連合国との提携をはじめとする現実的諸条件を考慮するなら、統治の観点からは民衆の素朴な要求をそのまま支持することはできず、それをある範囲内に押し込めることが必要とされた。この点、連立政府に入らなかったボリシェヴィキはフリーハンドをもつことができ、「土地・平和・自由・パン」といったスローガンに象徴される民衆の要求の無条件全面支持を掲げることができた。そのことは、ボリシェヴィキが大衆的支持を獲得することを助けた反面、彼らが権力を取った後に彼らを拘束し、苦しめることになった。これはロシア革命につきまとった根本的なディレンマである。なお、いま書いたのは私の考えであり、池田著にこのようなことが書かれているわけではない。おそらくこうしたディレンマを意識する点では大差ないのではないかと思われるが、その描き方は――どういう方面に力点をおき、どのように論を進めるかに個性の差があるのは当然だが、それはさておき――しばしば非常に大胆であり、「ここまで言うのか」という感をいだかせる。
 あちこちにある断片的な文言を拾い上げる感じになるが、早い方では、死刑廃止について、「いかにもひとのよい臨時政府らしい行為ではあった」という言葉が出てくる(四九頁)。民衆の反撥を招く――今風に言うなら「痛みを伴う」ということになるだろうか――政策をとるためには、連立政府に入っている穏健社会主義者は「強権的な統治のすべ」を身につけねばならなくなるが、「そうした覚悟は彼らにはなかった」、エスエルとメンシェヴィキは「あまりにも柔和な人たちなのであった」とも述べられている(一三四頁)。全体として、穏健社会主義者たちはあまりにもお人好しで、柔和すぎたから敗北せざるを得なかったというのが本書の基調であるように見える。では、彼らがもっと断固として厳しい政策をとることができたなら、その方がよかったということなのだろうか。
 民衆反乱から生じた革命政権が民衆の要求をそのまま満たすことができないというディレンマの中で、政権は民衆反乱を容赦なく鎮圧するという強硬策をとるのかどうかという問題が浮上する。この問題は夏以降に深刻の度を加えた。八月の「コルニーロフ反乱」の立役者となる軍人コルニーロフは七月の段階で、思い切った措置が必要であり、厳格な規律に基づき軍を建て直すため、死刑と野戦法廷の復活が不可避だと主張していた(一四五頁)。かつての「左翼的」史観では、これは反動の極みと評価される立場だが、池田はそのような評価を示していない。死刑廃止が「ひとのよい」行為だったとするなら、死刑復活は当然の主張だということになるのだろうか。コルニーロフよりもあからさまに集会の禁止、ソヴィエトの廃止などをずけずけと主張したコサックのカレジンについては、その「言葉にいつわりはなかった」という評語が添えられている(一五二‐一五三頁)
 軍人の主張が「独裁官」を立てることにつながり、「血まみれの銃殺」による秩序回復を意味するのに対して、リベラル政治家の多くは、それをそのまま受け入れるのに躊躇いを見せた。そうした中で、独裁官を認めるほかに出口はない、「血を流すしかないのだ」と言い切ったティルコヴァについては、「ずっと果断であった」「覚悟を固めていた」という言葉が添えられている(一五七‐一五八頁)。
 こうして情勢が煮詰まる中で起きたのが「コルニーロフの反乱」だが、この出来事に関する本書の叙述は、私のようにトロツキーのロシア革命史によって基本的なイメージを形成していた者にとっては、斬新な印象を与えるものである。古典的なコルニーロフ反乱像を簡単にまとめて言うなら、それは反動勢力の暴力的巻き返しであり、それに対してケレンスキー政府が無策をさらけ出す中で、ボリシェヴィキが反コルニーロフ運動のヘゲモニーを握り、これが十月へと至る過程で決定的な役割を果たしたというものだが、どうもそういうことではないというのが本書の主張のようである。第七章のタイトルが「コルニーロフの陰謀?」となっているのは、実は陰謀などなかったという見方を示唆する。
 もちろん、古典的見解に異を唱えるのがいけないというわけではない。古いイメージの虚構性を暴き、新しい像を提起するのは若手研究者の特権でもあり、義務でもある。コルニーロフについてであれケレンスキーについてであれ、トロツキーの描写を鵜呑みにすることなく、新しい目で再検討すること自体は大いに必要なことであり、本書がその課題に挑戦していることには共感できる。
 そのことを断わった上で、本書の該当個所はややドラマ仕立てで書かれている観があり、これがどこまで確実な史実なのかには疑問も残らないではない。本書の叙述によるなら、ドジで間抜けなリヴォフの馬鹿馬鹿しい立ちまわりのせいで、本来決定的に対立してはいなかったケレンスキーとコルニーロフがあたかも正面対決の関係にあるかの錯覚に追いやられ、存在しなかった「陰謀」が現実のものであるかの様相が生じ、そのおかげでボリシェヴィキが漁夫の利を得た、ということになる。実際そうなのかもしれない。その可能性を否定するつもりはない。だが、本書の書き方はテレビドラマでも見ているような面白さはあるものの、「これが歴史的真実だ」という確信をもたせるものになっていない。
 
     五
 
 コルニーロフの「反乱」に対抗する動きを最も熱心に担ったのがボリシェヴィキだったことから、彼らの勢力は急激に伸張した。こうして、ボリシェヴィキによる権力奪取としての十月革命が――それを「大団円」とにみるにせよ「破局」と見るにせよ――近づいてきた。このプロセスに関する本書の叙述(第九章第二節)は、私にとってあまり新鮮ではなく、むしろ意外なほど常識的に見える。先に触れたように、池田はコルニーロフ反乱についてはトロツキー革命史と大きく違う像を出しているが、十月革命の経過についてはむしろトロツキーの記述に近いように見える。
 それはともかく、問題は、「なぜ臨時政府は挫折したのか」「なぜボリシェヴィキは成功したのか」という二つの問い――「はじめに」で提起され、「おわりに」で答えられている――である。この点に関する池田の考えは、当然ながらこれまでの叙述の延長上にある。十月革命前夜の時点で臨時政府は行き詰まっていたと指摘した個所で、その後の展望として、最小限の社会秩序の秩序の一体性が保たれるかどうかという問いを立て、「結局のところそれは、民衆にどこまで苛酷になれるかにかかっているのであった」とある(一八五頁)。これをうけるかのように、臨時政府はあまりに深く西欧諸国と結びつき、あまりにも柔和であったとした上で、これに対するボリシェヴィキは「いざ政権を獲得してからは、躊躇なく民衆に銃口を向けることができるだけの苛酷さをもっていた」とされる(二二九頁)。この二個所を結びつけるなら、要するに柔和に過ぎて民衆に対して苛酷になれない勢力は政権を維持できず、とことん苛酷になれる勢力の方が成功したということになりそうである。これはある意味では、政治というものの恐ろしさを指摘し、苦い真実を描き出したと見ることもできる。だから、この指摘に道徳主義的に反撥しようというのではないのだが、それにしても、こういうことをあまり苦渋のあとを見せずにすっぱりと言い切る書きぶりには驚かされる。
 権力を握ったボリシェヴィキが民衆に銃口を向けることを躊躇わなかったという事実を指摘するからといって、十月革命によって打ち立てられた社会主義が民衆の要望と全く異なるものだったと主張されているわけではない。むしろ、私的所有権や市場経済を否定する新しい経済秩序は「民衆の規範に適うものものであった」とも書かれている(二二九頁)。これも重要な点である。
 実際問題として、二月革命の時点ではソヴィエト内少数派だったボリシェヴィキは夏から秋にかけて急速に大衆的支持を広げていた。トロツキーが武装蜂起を第二回ソヴィエト大会開催と結びつけたのはそのことを背景としている。ということは、十月革命には何の大衆的基盤もなく、一握りの陰謀家のクーデタに過ぎなかったという見方――ソ連解体後、「十月革命の神話」を暴くとして、このように説く議論も一部で広まりつつあるように見える――は妥当でないということである。池田も、「十月革命は、形式上は軍事クーデタのようであったが、首都をはじめ各地の労働者と兵士はそれを歓迎した。その意味では、それは革命の名にふさわしかった」と書いている(二一七頁)。
 問題は、民衆の要望に応え、民衆の支持をある程度確保する形で政権を握った勢力の政策が、その後、民衆に銃口を向けざるを得なくなるというパラドクスにある。民衆の要求をそのまま支持することが民衆のためになるわけでもなければ、経済や文明を進歩させることにも貢献しないのではないかという深刻な問いである。
 このようなまとめ方は池田の意に反するものかもしれない。ボリシェヴィキのロシアが「文明の本道から外れた「異常」な世界であった」とする見方を池田は否定しており(二三〇頁)、「文明の進歩」という書き方は慎重に避けている。だが、他面で、本書には、「私的所有権という近代ヨーロッパ文明の基本的な要素とは異なる方向」という言葉もあり(二一四‐二一五頁)、「「破局の八ヶ月」によって失われたもの」について言及した後に、私的所有権と議会政治を中軸とする制度への模索は今日のロシアでもなお続いているという個所もある(二三一頁)。ということは、西欧的な諸制度へ向かってのロシアの歩みはいったん断ち切られたが、それを今度こそ実現するための模索が再開しているという見方であり、言い換えれば、一種の「進歩」――「近代ヨーロッパ文明」への接近――を目指す動きが試みられたり、挫折したり、再開したりという歴史観になるのではなかろうか。やや話が大きくなり、かつ抽象論になるが、この点についてまとめて考えてみたい。
 
     六
 
 本書の「はじめに」と「おわりに」には、ロシアと西欧諸国の歴史の流れを骨太に描き出した個所がある。リベラルおよび彼らを助けようとした穏健社会主義者はロシアを「ヨーロッパ文明の最先進国」にしようと目指し、西欧諸国が備えていたものをロシアにも揃えようと試みた。この試みはあえなく挫折し、「根本において誤っていた展望」に立脚したボリシェヴィキに打倒されることで、ロシアは西欧社会と異なる方向に進んだ。「ロシア革命で滅びたもの」「「破局の八ヶ月」によって失われたもの」――それは、西欧的な社会への歩みだ、というのがアウトラインである(iii-vi、二三一頁)。
 「ロシア革命で滅びたもの」について考えてみようという試みは興味深いものであるし、そのために、敗れた側であるリベラルと穏健社会主義者について認識を深めるのも重要な作業である。ただ、ここでは「西欧諸国」というものがあまりにも理念化されてとらえられているのではないか、そのことと関係して、ロシアと西欧とがあまりにもきっぱりと対置されているのではないかという疑念が浮かぶ。
 特に気になるのは、西欧社会の基本原理を列挙する際に、「言論の自由」「人身の不可侵」「議会制」「市場経済」など、今日異論を呼び起こさないものと並んで、何の説明もなしに、あたかも当たり前のように「私的所有権」が並べられている点である(vi、二一四‐二一五、二二二、二二九、二三〇、二三一頁)。一言でいって、私的所有権こそが近代社会の基礎だというテーゼがその底に流れているように思われる*4
 誤解を避けるために断わっておくなら、私は私的所有権を重視することや、それを他の一連の原理と結びつけて考えること自体に原理主義的に反対しているわけではない。ただ、とにかくこれらがそう簡単に結びつくかどうかは熟考すべき問題であり、「当たり前」で片付けることはできないと思う。これは突っ込んでいくなら、哲学・法学・政治理論・経済思想などの根本に関わる大問題だが、敢えて単純にいうなら、「言論の自由」「人身の不可侵」「議会制」「市場経済」などは建前として万人に開かれるものであるのに対し、「私的所有権」は人びとを有産者と無産者に分ける原理であり、これを近代社会の基礎と考えることは、無意識にもせよ有産者の立場に立つことを意味しないかという疑問がある。
 この小文の前の方で、社会上層(「公衆」)と下層(人民)の間の亀裂という問題に触れて、本書では「上層」への同情と「下層」の破壊性への注目が特徴的であるように見えると書いたのはこの問題と関係する。
 本書では民衆の動きには、そもそもあまり紙幅がさかれていない。リベラルが社会上層(「公衆」)の代表であることはもとより、社会主義者たちの大半も主観的に民衆を代表しようとした社会上層の一員であり、そうした人たちの動きの描写が本書の大半を占めている。そうした中で、珍しく農民たちの動きに触れた個所では、彼らが自営農民を共同体に引き戻した事実が指摘され、共同体の再強化をもたらしたことが述べられている。土地革命によって農村共同体が復活強化したという事実はヴィクトル・ダニーロフによって先駆的に指摘され、日本の研究者によっても重視されてきたが、その際、それを農民自身の主体性の発揮として高く評価するのがこれまでの主流だった*5。これに対して、池田は同じ事実を、ストルイピン改革の「成果も水泡に帰した」という形で描き、「時計の針が逆転しているように見えなくもなかった」と書いている(五四頁)。
 やや後の方で「民衆の動向」と題された節では、農村・都市部・兵舎を通じて、それまでの家父長的な規範に基づいた秩序が切断されたことにより、「底が抜けた」状況になったことが描かれている(九二‐九五頁)。「底が抜けた」という表現はこの後も何回か繰り返され、一種のキーワードとなっている。感覚的に分かるような気がするものの、一種のメタファーであるため、厳密に何を意味しているのかははっきりしない。はっきりしているのは、リベラルから見れば、「臣民」が自立的「市民」になるという望ましい方向が実現しそうにないという悲観的な展望であり、ボリシェヴィキだけが「既存の秩序をなんとも思わない」立場をとったということである(九四‐九七頁)。
 たしかに、上からの命令に服属していた「臣民」が「自立的に考える「市民」」、「自己を律することができる自覚的な主体」になるのは容易なことではない。それは長い時間を要するだろうし、ひょっとしたら長い時間をかけてさえも達成されないかもしれない(現代の日本に「自己を律することができる自覚的な主体」はどのくらいいるのだろうか)。そう考えるなら、既存の規範の転覆と秩序の解体を単純に歓迎するレーニンやトロツキーのような考えは無責任であり、子供っぽい現実離れというべきなのかもしれない。もっと突き詰めていえば、下層大衆の情念を解き放つような革命というものはそもそも歓迎すべきものではなく、自立的「市民」が生まれるまでの長い間(ひょっとしたら永遠に?)、社会上層(「公衆」)が統治を続ける――そこに大衆啓蒙の要素が含まれるにしても、それはあくまでも「上からの」ものである――ということになるのかもしれない。そういう考えに私自身、半ば傾きもするが、はっきりそうだと言い切ってしまうことには苦い思いと躊躇いがつきまとう。池田の文章はそうした苦い思いや躊躇いを感じさせないカラッとしたものである。ここには、ものの考え方の違いというよりも体質の違いのようなものが関係しているのかもしれない。
 本書には下層大衆への同情を表明する個所がほとんどない反面、社会上層からなる「公衆」に対しては――もちろん、その全体ということではなく、そのうちのある部分についてということだが――共感をいだいていることを窺わせる叙述が各所にある。小さな例だが、「ミリュコーフを「ブルジョア」呼ばわりしたのは、歴史家のような儲からない稼業を選んだ人に、ずいぶんと失礼な話であった」という個所がある(六九頁)。こういう書き方は一部の読者には感心されるのかもしれないが、私には抵抗感がある。
 たしかに、歴史家というのは、実業家になって成功した人に比べればそれほど裕福ではないという傾向があるかもしれない。だが、それはあくまでも大金持ちに比べての話である。そもそもある程度以上ゆとりのある家庭の出身でなければ、大学で歴史家となる訓練を受けることもなかなかできにくいし、「儲からない稼業」でも食っていけるということ自体が、相対的上層部の一員ならではのことである。そして、文字通りの大ブルジョアでなくても、大きな意味でその陣営に属していると見られる立場にある以上、「プロレタリア革命」を目指す人たちから「ブルジョア」呼ばわりされても、別に驚くほどのことではないはずではないか。このように書くことは、もちろん私自身にも跳ね返ってくる。研究者という職業は、成功した実業家や高級官僚に比べれば相対的につましい生活と結びついている――中には、金持ちになる人もいるのかもしれないが――とはいえ、純然たる「下層」ではなく、相対的にはある程度恵まれた環境の中で生きている。金がなければ、専門書や資料集を購入することもできなければ、学会出張や調査旅行をすることも簡単にはできない。そのこと自体は否定しようもない。ただ、たとえ金持ちではないまでも相対的に恵まれた状況にある以上、より底辺に近い人たちから「ブルジョア」というレッテルを貼られても仕方ないという意識くらいは持っていてもよいのではないか。
 
     七
 
 以上、多少前後しながらではあるが、本書の流れを一通り追ってきた。最後に、ロシア革命と現代の関連についても考えてみたい。
 私は本書を読みながら、しきりに一九一七年とペレストロイカの類似性ということを考えさせられた。「自由の到来は、終わることのない混乱の始まりだったのである」という文章(四九頁)はまさにペレストロイカを思い起こさせる。また、ゴルバチョフもメンシェヴィキやエスエルと同じように「あまりにも柔和な人」だったために、議会に大砲をぶち込んだり、チェチェンに大量軍事作戦を仕掛けることをためらわないエリツィンに敗北したというようにも考えたくなる。
 こう書くと、一九一七年と一九八〇‐九〇年代とでは時代が違うといわれるかもしれない。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて進みつつあったロシア社会の近代化がソヴェト政権のもとで形を変えて継続し、社会の成熟が進行し、それこそがソ連社会の改革を可能にしたという見方もありうる。古典的には、ドイッチャーなどがそうした考えを出していた*6。ペレストロイカ初期には、レヴィンがそうした期待を示した*7。だが、その後の成り行きは、この期待が現実化しなかったことを物語っている。
 先に「底が抜けた」という表現に触れたが、それをうけていうなら、現代の世界各地も――ロシアその他の旧社会主義諸国だけでなく、日本も、アメリカも、そしてある時期まで相対的に安定しているかに見えたEU諸国さえも――「底が抜けた」ような感じになりつつあるのではないかという気がしてならない。政権の交代についていえば、日本における短命な民主党政権はあまりにも柔和であったために無能をさらけ出し、「決められる政治」を求める風潮の中で「安倍一強」時代にとって代わられた。アメリカでは、「弱腰」を非難された柔和なオバマの後にトランプがやってきた。この推移は、一九一七年のロシアで臨時政府がボリシェヴィキにとって代わられ、その数十年後にゴルバチョフがエリツィン――そしてその後のプーチン――にとって代わられた経過を思い起こさせられる。このようなアナロジーは時空の隔たりを無視した強引な飛躍かもしれない。だが、本書の「おわりに」には、「今日あらたに、中東であれ、東欧であれ、旧ソ連諸国であれ、似たようなことは生じている」とあり、さらに「似たようなギャップは先進諸国の内部にも生じている」とある(二三一‐二三二頁)。とすれば、問題は「西欧諸国と対置されるロシア」だけのものでもなければ、二〇世紀初頭という歴史的時点だけのものでもないということになるのではないか。
 全体の末尾に、「今日の世界においては銃口はとるべき選択肢たりえない。……敵を探し、極論が力を持つ「街頭の政治」もまた、避けるにこしたことはない。……ひとは互いに譲りながら、あい異なる利害を調整できる制度を粘り強くつくっていくしかないのだ」とある(二三二頁)。この言葉は共感できる。だが、苛烈な政治の現実の中では、このような考えは「あまりにもお人好し」「あまりにも柔和」なものとして投げ捨てられてしまうということこそが、本文で述べられていたことだったのではないだろうか。現在の世の中を見るなら、「敵を探し、極論が力を持つ」風潮が広がり、「銃口」をとるべき選択肢と考える人が着実に増えているというのが現実ではないだろうか。いや、そうした風潮に屈してはならない、いかに困難であろうとも、利害調整を暴力によらず対話によって解決するような道を粘り強く探していくしかないのだ、と言いたいのかもしれない。だが、それをいうなら、そのことは歴史の認識にも跳ね返りはしないだろうか。
 
 
【補論の1】
 この小文の冒頭で、本書のある個所はそれほど新しくなく、ある個所は新しく感じるというようなことを書いた。何を「新しい/新しくない」と感じるかは読者がどういう予備知識や先入見をもっていたかに依存するから、一般論として語ることはできないが、ともかく私自身に即して、「新しい」と感じた点のうち本文で取り上げなかったものを挙げてみたい。
 最も新しいという印象を受けたコルニーロフ反乱については本論で述べたが、これに次いで新しい印象を与えるのは、ドゥーマ(国会)臨時委員会が二月の時点で退場したのではなく、その後も一定の役割を演じていたとの指摘である(三〇頁以下各所)。おそらくこれは、ロシアのニコラーエフおよびアメリカで研究を続けている長谷川毅が先鞭をつけた観点を引き継ぐものと思われる。彼らの研究に池田が何を付け加えたのかは私には分からないが、専門家の間での議論が期待される。
 また、「革命議会の不在」を重視する一方、「議会」にはなれないながらもそれに近い性格をもつ合議体としてのモスクワ国家会議、民主主義会議、予備議会などといった試みについてそれなりの紙幅を割いているのも特徴的である。こうした合議体は以前からも全く知られていなかったわけではないが、ロシアにおける「議会」形成の困難性――それでいながら、「議会」類似の機関をつくろうとする試みは何度も繰り返された――という文脈の中に位置づけられている点は重要だと感じる。ただ、せっかくこのように論じるなら、憲法制定会議解散で終わるのではなく、第三回ソヴィエト大会にも触れた方がよかったのではないだろうか。
 個別的な点だが、臨時政府で大臣をつとめた人たちのその後についての記述(二二四‐二二六頁)も面白く感じた。
 第五章で取り上げられている民族問題は私自身の専門テーマと重なるところがある。もっとも、本書全体の筋からいうとやや脇筋の話になっている上、その後の展望にも立ち入っていないため、私としては「論争をしたいのだけれども、どう論争していいか分からない」という隔靴掻痒の感をいだく。この問題に関わる本書の記述のうち、特に注目されるのは、伝統的に重視されてきた「民族自決」よりもむしろ自治および連邦制の問題を重視している点である。これは大まかに言えば私も同感であり、今後もっと議論を続けたい点である。もう一つ、ドイツの法学者イェリネクの影響を受けたココシキンの所説を紹介している点も重要であり、オリジナルである(一一五‐一一六頁)。ただ、概説書としての性格上やむを得ないことではあるが、問題の所在が簡単に触れられるにとどまっており、もう少し掘り下げてほしいという望蜀の感をいだく*8
 本書でわりと重視されているフリーメーソンの役割をどの程度「新しい」と見るかは微妙なところである。純然たる非専門家はそもそもこういう事実自体を知らなかっただろうが、和田春樹の先駆的な一九六八年論文などで以前から指摘されてきたという意味では、それほど新しいということではない*9。今回、和田論文と比べたわけではないが、本書ではわりと詳しく具体的に指摘されている点は新しいのかもしれない。ただ、こうした人的結合関係があったという事実は確かだとして、それがどういう意味をもったのか、そもそもフリーメーソンとは何かという点はあまりはっきりしないような気がする。
 それ以外の点として、ジェンダーの問題に着目した個所があちこちにあるのも目を引く。もっとも、それほど詳しいわけではないし、今の世ではこの問題に触れない方が珍しいかもしれない。
 
【補論の2】
 個別的な細部への疑問をいくつか記す。
 目次と本文の間に配置されている「ヨーロッパ・ロシア(一九一四年)」の地図は、江口朴郎編『ロシア革命の研究』(中央公論社、一九六八年)巻末地図をもとに作成とある。元の地図と比べると、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアという、その当時存在していなかった地域区分が新たに記入されていることが分かる。おそらく、今日の読者に分かりやすくするための工夫なのだろう。だが、これでは、ロシア帝国がこういった民族別行政区分をとらず、これらの民族的単位はソヴェト政権下で新たに生まれたものだという事実が見失われてしまうのではなかろうか。
 訳語の問題として、ソヴィエトの掲げた講和の条件に関し、「無併合・無賠償・民族自決」という言葉が使われている(六二‐六三頁その他)。かつて「賠償」と「償金」は異なる概念だとして、この文脈では「無賠償」ではなく「無償金」と訳すべきだという有力な主張が出されたことがあった*10。私はこのテーマに関して専門的に取り組んではおらず、最近の学界動向にも通じていないが、漠然たる印象として、その後、この提唱は反論されるわけでもなければ、定着するわけでもないという、奇妙な状況にあるような気がする。本書で「無賠償」という伝統的な訳語に戻っているのは、どういう考えに基づいているのだろうか。ついでにいえば、「アメリカのウィルソン大統領が提唱した「被抑圧民族の自決」」という書き方(七一頁)も、本当にこれでよいのか、ちょっと気になる。
 九五頁に「間接大統領制」という用語が出てくるが、これはあまり聞かない言葉遣いである。大統領を国民の直接選挙とせず議会選出にするというのは、大統領にあまり大きな権力を持たせず、議会の方を重視する制度であり、議会制(議院内閣制)という方が普通ではなかろうか。
 九六頁にある「多党制」は「複数政党制」の方がよいのではないか。この二つの言葉はどちらでも同じように見えるかもしれないが、政党システム論では区別されている。複数政党制は多様な下位類型を持つ幅広い概念であり、そこには一党優位制、二大政党制、穏健な多党制、破片的多党制などが含まれる(形式上複数政党でも実質的競争を伴わないヘゲモニー政党制をここに含めるかどうかは微妙)。つまり、多党制は複数政党制の下位カテゴリーであり、ここは「複数政党制」といった方がよいと思われる。
 一二一頁に「「ウクライナ人」というくくりも公式統計には現れず、「ロシア人」に含み込まれた。「ウクライナ語」も自立した言語として扱われず、ロシア語の方言という扱いがなされた」とある。ウクライナ人が広義ロシア人の一部と見なされ、ウクライナ語が「方言」と見なされていたのは事実だが、それでも統計に全然あらわれなかったわけではない。一八九七年センサスは母語を問う際に「小ロシア語(ウクライナ語)」という項目を立てており、そのおかげで、その当時における「ウクライナ人(小ロシア人)」の数が「大ロシア人」と区別して数えられている。
 
(二〇一七年四月)

*1この問題については、塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第一一章、「E・H・カーのロシア革命論」(東京大学社会科学研究所)『社会科学研究』第六七巻第一号(二〇一六年二月)など参照
*2なお、本書では、労働者・農民・兵士といった民衆は「民主勢力」(デモクラチア)の語で言い表わされ、その代表が社会主義者だという書き方になっている。しかし、リベラル政治家たちが自分自身「公衆」の一員であるのに対し、下層民衆を代表しようとする社会主義者たちの多くは自分自身が下層民衆の一員であるわけではなく、むしろ教育を受けた「公衆」の一員であることが多いから、ここには若干のズレがある。下層民衆は「デモクラチア」というよりもむしろ「ナロード(人民)」と呼ぶべきであり、そのナロードを――大なり小なり隔たりを含みつつ――代表しようとしたのが「デモクラチア」(ソヴィエトに結集した人たち)だったというべきではないだろうか。
*3この引用個所はグチコフ発言の紹介に接続する個所におかれており、著者自身の認識というよりはグチコフの認識なのかもしれない。しかし、このグチコフ発言は「透徹した認識」(これは池田自身の言葉)と書かれており、池田がこれと異なった認識を持っているとはとりにくい。
*4池田がこうした見解を示したのはこれがはじめてではない。池田嘉郎「多民族国家ロシアにおけるナショナリズム」塩川・池田編『東大塾 社会人のための現代ロシア講義』東京大学出版会、二〇一六年、三九頁、池田嘉郎「20世紀のヨーロッパ――ソ連史から照らし出す」近藤和彦編『ヨーロッパ史講義』山川出版社、二〇一五年、二二五頁。私はこれに対して何度か疑問を提示したことがあるが、これまでのところ納得のいく説明を受け取っていない。
*5典型的には、和田春樹『農民革命の世界――エセーニンとマフノ』東京大学出版会、一九七八年。
*6I・ドイッチャー『ロシア革命五十年――未完の革命』岩波新書、一九六七年。また一時期のカーもこれに近い見解を示したことがある。塩川「E・H・カーのロシア革命論」三四‐三六頁参照。
*7モーシェ・レヴィン『歴史としてのゴルバチョフ』平凡社、一九八八年。
*8この問題について池田は、"Toward an Empire of Republics: Transformation of Russia in the Age of Total War, Revolution, and Nationalism,"(pdf原稿)でも論じている。これに対して私はかなり長文の感想を個人的に書き送ったことがあるが、まだ討論は完結していない。
*9和田春樹「二月革命」江口朴郎編『ロシア革命の研究』中央公論社、一九六八年。
*10典型的には、A・J・メイア『ウィルソン対レーニン』T・U、岩波現代選書、一九八三年で、斉藤孝と木畑洋一が「無償金」の訳語をとっている。