引きこもり日誌
 
 
 コロナ禍の中で多くの人が「引きこもり」生活を余儀なくされるようになってきたが、数年前に年金生活に入った私は、これまでも「引きこもり」に近い生活を続けてきたので、一挙の激変ということではない。それでも若干の変化はあるので、それがどんな具合かを心覚えのために書き付けてみたい。なお、高齢者は外出しないようにという呼びかけは緊急事態宣言よりも前から始まっており、今後、緊急事態宣言が解除された後もかなりの期間続くだろうから、これは一時的なものではなく、相当長きにわたることを覚悟している(この文章を書き始めた時点では2年程度と見込んでいたが、その後、3年、5年あるいはもっと長期かもしれないと考えるようになった)。
 定年退職後コンスンタントに出勤することがなくなってからも、月に2、3回は本郷キャンパスに出かけて、図書室で資料調べをしたり、大学生協の書籍部や文具売場で買い物をしたりしていたが、それを完全にやめなくてはならなくなった。各種の学会・研究会・シンポジウムなどにもかなり頻繁に顔を出し、ついでに呑み会にも参加していたが、それもなくなった(オンライン方式での研究会には何度か参加して、それなりに有益だと感じたが、インフォーマルな雑談ができないのは寂しい)。
 降圧剤を処方してもらっているかかりつけ医には、これまで1ヶ月ごとに通っていたのを2ヶ月分の処方にしてもらった。それ以外に、特に大きな不安があるわけではないが念のためということで定期的に検査を受けている病院・医院がいくつかあるが、それらは当分すべてキャンセルすることにした(いつ頃、改めて予約を取るのがよいのかは悩ましい問題だ)。
 こういうわけで、人と会う機会は、もともとあまり多くなかったのが更に一層激減した。お喋りをするたった一人の相手は、唯一の「濃厚接触」者たる妻のみである。こういうときに配偶者とともにいられることの有難さをしみじみとかみしめている(向こうもそうである、と信じたい……)。
 体をなまらせないために、自宅周辺の人通りの少ない道を自転車で走り回る(特に坂道を探して、上り坂で負荷をかける)ことを日課にしているが、これは以前からの習慣なので、特に変化したわけではない。他の健康法として、市営プールでの水中歩行も重視していたが、そのプールは大分以前に市の独自判断で閉鎖されてしまった。それ以外にも若干の体操めいたことをしており、本当ならそれをもっと増やすべきなのだが、なかなか思うに任せない。
 SNSを読むことに時間を費やすのはあまり好ましくないと思って、抑制気味にするつもりでいたが、コロナ関連の情報が急増する中で、いつしか相当の時間を割くようになってきた。そこには極度に雑多な情報が渦巻いており、どれが比較的信頼できそうかを見分けるのは至難である。最初のうちは、あからさまな感情論には目を向けず、冷静な議論を主に読むようにすればおよその状況はつかめると考えていたが、次第にそうも言えない気がしてきた。一つには、感情論といえども、それぞれに独自な形で現状を反映したり象徴したりしているので、単純に無視してよいものではない。他方、日頃冷静な議論をする人たちも、この状況下では大なり小なり感情的に反応することを免れないから、感情論と理性的議論の間に明快な一線を引くことができるとは限らない。そして、医療分野の専門家たちの見解も多岐にわたっているし、それ以外の諸分野の学者・ジャーナリスト・解説家・評論家たちの意見に至っては千差万別である(それでいながら、多くの人は自分こそは正しい見解を持っていて他の人たちは間違っていると強調しがちだ)。こういう状況である以上、「どれが正しいか」という結論を焦るのではなく、混沌たる情勢をじっくりと観察することが歴史家としての目を鍛えてくれると期待するほかないのかもしれない。今から10年とか20年くらい経ったら「コロナ研究」や「コロナ文学」が隆盛になるだろうが、それを無事に生きて見届けることができるかどうかも定かではない。
 私の通常の仕事は本や論文を読んだり、文章を書いたりすることであり、そのこと自体はこれまでと基本的に変わらない。もっとも、SNSを読む時間が増えたり、自分でフェイスブックに書き込む時間が増えたりその他の事情で、仕事に充てる時間はやや減少気味だ。「外出しないから、することがなくて退屈だ」とか、「この機会に、日頃読めずにいた本をじっくりと読もう」などという声をときおり目にするが、私自身はむしろ時間が足りなくて、あれもこれも読みたいのに読めずに焦るという感覚が強まっている。本の購入や借り出しが不便になったせいで文献の新規入手はやや難しくなったが、「積ん読」状態の本が膨大にあるし、ネット注文などによる入手も加わって、「累積債務」は大きくなる一方だ。私のように古風な人間は、やはりリアル書店や図書館の書庫で現物の本を眺めたいという欲求に駆り立てられるが、それは相当長いことお預けだろう。
 厄介なのは、文章を書きながら調べ直す必要を感じたとき、手もとにある文献やネット経由で入手できるものだけでは足りず、本来なら大学図書館その他に出かけて調べなくてはならないのに、それができずに困るという点である(外国訪問も、相当長期にわたって不可能だろう)。こういう状況下では専門性の高い文章を書くのは至難であり、概説かエッセイ的な文章を主に書くしかないのかもしれない。
 たまたま今年は2つの拙著を相次いで校正することになっており、そのうちの二番目のものはものすごく厚い本なので、新しい文章を書くよりも旧稿とゲラを見比べる作業に相当長い時間を費やすことになるだろう。その途上で資料の再点検を必要とする個所に出くわしたらどうするかというのは悩ましい問題だ。その昔、升味準之輔が「出所失念」という注を付けて有名になったことがある。それに倣って、「コロナ禍に伴う外出制限につき、確認不能」という注を付けたら「歴史への証言」という意味を持つかもしれない(?)が、それはしたくない。さて、どうしたものか。
 
(2020年5月5日にフェイスブックに投稿した文章)