江川卓『現代ソビエト文学の世界*1』を読む
 
 
 本書の著者江川卓(1927-2001年)は、いうまでもなくドストエフスキーやソルジェニツィンの訳業や『謎とき・罪と罰』をはじめとする一連の『謎とき』シリーズで知られるロシア文学研究の大家である。1968年に刊行された本書は、多作な江川の第一論集で、1950-60年代に書かれた文章を収めている。著者20-30歳代という若い時期の仕事の集成ということになる。スターリン批判前夜に始まって、フルシチョフ期を経てブレジネフ初期に至る時期のソ連の文学を同時代的に論じた一連の評論は、いまから見れば「遠い昔」のもののように見えるし、そこに時代性が刻印されていることは否定すべくもない。だが、優れた文学および文学評論というものは時代を超えて人に訴えかけるものを持つものだとするなら、この本を刊行後半世紀以上を隔てて読む作業にも、なにがしかの意味があるかもしれない。
 冒頭の「ネクロローグ〔弔辞〕――まえがきに代えて」は、「私の父・外村史郎は、一九五〇年ごろ、シベリアで獄死した」という文章から始まっている。外村史郎*2は戦前日本における先駆的なロシア文学者だったが、生涯愛し続けてきたソ連で「スパイ、戦犯」の汚名を着せられて強制収容所に入れられ、死去の知らせが家族に届いたのはその数年後のことだったという。「愛すべからざるものを愛した父がおろかだったのだろうか?……犠牲になったものが日本人だけではなかったこと、ソビエト人自身も……強制収容所の道を何人もが歩まされていたこと、そして今、そのソビエトの暗黒面に抗議し、人間への信頼をとりもどそうとする声が、文学者をはじめとして、ソビエトでも力強く起こってきていること、――それは、ソビエト人のヒューマニズムを信じてきた父にとっても、僕らにとっても、せめてもの慰めとなるのだろう」。これは父の死を知った直後の1955年に書かれた文章だが、これを十数年後の著作の冒頭に採録するに当たって、江川は、この間にソ連もソビエト文学も大きく変わったが「私のソビエト文学観、というよりもソビエト文学に対する私の心情的な姿勢は、そのときからほとんど変わっていない」と書き付けている。
 本文は二部構成となっており、第一部は1950年代に書かれた一連の文章を収めている。スターリン批判の前夜から始まって、スターリン批判後の変化と揺り戻し、パステルナーク事件*3などがあった時期のソ連の文学状況に関する同時代的観察の記録である。対象としてのソ連が大きな変動の時期だった一方、観察する江川は20歳代の終わりから30歳代のはじめという若さだったことを思うなら、そういう時期に書いた文章を後に再公表するには大きな勇気と覚悟が必要とされただろう。「あとがき」には、「さいわい、私がものを書きはじめた時期が、スターリンの死の直後にあたっていた」ことから、教条主義や経典解釈に血道を上げることはしないで済んだものの、心のどこかに偶像が残っており、「いまとなってみれば、自分でも首肯できないような主張や結論も数多く見出される」とあるが、それでも、いくつかの注記を付けるだけで本文はそのまま手を加えずに採録するという決断をしたのは、歴史への証言という意識があったのだろうか。
 第一部の冒頭に置かれているのは、「「無葛藤理論」批判」という文章(初出は1954年)である。「無葛藤理論」とは、ソ連社会には葛藤や衝突は存在しないという前提に立って文学作品を書かねばならないという、今から思えばおよそ馬鹿馬鹿しい「理論」だが、注目すべきは、そうした「無葛藤理論」への批判が提起されたのはスターリン死後ではなく、むしろスターリンの死に先だっていたということ、そしてこの批判自体にある種の政治的意図がはらまれていたということである。この例に示されるように、ソ連におけるイデオロギー論争は、後世になってから単純化して想定されがちな図式では尽くされな複雑な要素を持っていた。1950年代の江川は、そうした複雑な曲折に振り回されながらも、努めてそれを内在的に追求しようとしていたように見える。
 第二部は1960年から67年までの時期に書かれた多数の文章を収めている。この時期のソ連はスターリン時代から一定の時間を隔てており、江川の方は30歳代半ばに達して、ある程度ものの見方を確立してきたということで、第一部よりは落ち着いた態度で文章を書いているように見える。とはいえ、「雪どけ」以降の言論自由化や新しい文学作品の登場は一直線に進んだわけではなく、イデオロギー引き締めの試みとの厳しい対峙の中に置かれていたから、そうした一進一退を江川は固唾をのんで見守っていたようである。まだ無名だったソルジェニツィンのデビュー作『イワン・デニソヴィチの一日』が『ノーヴイ・ミール(新世界)』誌に公表されて圧倒的な好評を博したこととか、かつてショスタコヴィチ批判の最大の標的とされた歌劇『ムツェンスクのマクベス夫人』が27年ぶりに再演されたというような例を挙げて、ソ連文化は政治的統制に押しつぶされてはいないことを熱っぽく説く一方、それが今後も続くかどうかは予断を許さないという不安をも表出している。いま挙げたのは最も目立つ例だが、本書ではそれ以外にも多数の文学作品が取り上げられて、発表からまもない時期にそれらを読みこなして、政治や社会との関わりという不可避な文脈を意識しつつも、文学としての内在的価値に力点をおいて評論する文章が連ねられているのは壮観である。
 おそらく、今日の若い文学研究者たちの目から見るなら、本書に収められた文章には種々の限界が指摘されるだろうし、今となっては、過去の話――対象についても、論者の姿勢についても――だと映ることだろう。それでも、ここに示される試行錯誤を含んだ知的格闘は、歴史への証言として貴重な意味を持っているように思う。江川が世を去ってから20年経つが、その軌跡自体を一個の歴史として論じる仕事が現われてもよいのではないか。
 あちこちに示唆的な文章を含む本書の中から、一つだけ、最も強い印象を与える言葉(ブルーノ・ヤセンスキー『無関心な人々の共謀』からの引用)を紹介しておきたい。
 
 敵を恐れるな、彼らはきみを殺すのが関の山だ。
 友を恐れるな、彼らはきみを裏切るのが関の山だ。
 無関心な人々を恐れよ、――彼らは殺しも裏切りもしない。
 けれど、彼らの沈黙の同意があればこそ、
 この地上に、裏切りと殺戮が存在するのだ。
 (本書77-78頁より)。
 
 私はこの文句を若い頃から何度も目にしてきたし、最近も、現代的状況の中で新しい意味を帯びて引用されているのに接することがある。だが、これが元来、1930年代に異端の共産主義者によって書かれ、長い空白の後に1956年にソ連で公刊され、その直後に日本にも紹介されたという経緯はすっかり忘れ去られている。これを思い起こしただけでも、本書を読んだ甲斐があった。
 
(追記)
 江川さん(こういう風にどうしても呼びたい)は、私にとって思い出深い人である。彼は本書の刊行時にはラジオ・プレスに勤務していたようだが、その後、東京工業大学教授となり、東大教養学部教養学科(後期課程)でも非常勤講師としてロシア語を教えていた。私もその授業に出たが、第3外国語で初級文法をやっと終えたばかりの学生にいきなりドストエフスキーやソルジェニツィンの難しい文章を読ませるという猛烈な授業だった。ほとんど全ての単語を一つ一つ辞書に当たらねばならず、ほんの1ページ進むにも何時間もかけねばならないという感じで、泣く思いで準備させられた。授業では江川さんが一行ごとに、多数の単語や熟語について詳しく丁寧な説明を施し、読解とはどういうことなのかを身をもって示してくれた。私が辛うじてロシア語を読めるようになったのは、江川さんの厳しいトレーニングの賜物である。
 個人としての江川さんは、とても温かい人柄で、学生たちを包み込むようなところがあった。そのおかげで、文学とは縁遠い私のような人間でも、どことなく江川人脈に連なりたいと感じさせられるところがあり、江川門下のロシア文学研究者たち(亀山郁夫、諫早勇一、望月哲男、沼野充義等々といった面々)と一時期結構親しくつきあわせてもらった。その後、自分の本業が忙しくなり、文学研究者たちとの縁も細くなったが、今でも彼らに「仲間」という意識をいだくことができるのは江川さんのおかげである。
 この本を買ったのがいつのことか記憶が定かでないが、とにかく刊行直後ではなく、数年してから古書店で買った。そのうち読もうと思って「積ん読」にしているうちに時間が経ち、こういう書物を持っているということ自体をほとんど忘れかけていた。それがたまたま押し入れの奥から出てきたので、長年の不義理を詫びるような気持ちで読んだのは、ごく最近のことである。それがちょうど江川さんの没後20周年に当たったのは偶然のなせるわざだが、これも何かの縁かもしれない。
 
(フェイスブックへの2021年5月1日の投稿を僅かに補正したもの)

*1江川卓『現代ソビエト文学の世界』(晶文社、1968年)。
*2本名は馬場哲哉。なお、江川の本名は馬場宏。
*3パステルナークは1957年に『ドクトル・ジヴァゴ』を国外で出版し、翌58年にノーベル文学賞授与が決定されたが、ソ連当局の圧力で辞退に追い込まれた。