池田嘉郎『悪党たちのソ連帝国』を読んで
 
 
 数カ月前に出た本だが、池田嘉郎『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書、2025年)の感想をまとめてみた。本書は、レーニンからゴルバチョフに至る6人の最高指導者たちを通して、ソ連の歴史を通史的に描き出そうとした書物である(政治家たちとは別に、異なる視角からソ連史を眺めた人物として、演出家ユーリー・リュビーモフが取り上げられている)。このような組み立てを持つ本書は、一見したところ分かりやすいソ連史概説であるかに見えるが、それでいてかなり特異な見方を押し出している面もあり、単純な入門書ではない。
 私の観点からいうと、本書の叙述には私の見方と重なる面と重ならない面とがあって、それらをどう整理してよいかに戸惑う。ごく大雑把に分類するなら、@「これは通説的見解であり、私もそう思う」と感じる箇所、A「これは新説であり、私もよく知らなかった」と感じる箇所、B「これは特異な見解だが、どうも納得できない」と感じる箇所などがある。量的に言えば@が最も多く、そこに注目する限りでは本書は無難な概説であるかに見える。だが、ABの存在は本書を単純な概説書・入門書と見ることを躊躇わせる。Aがあちこちにあるのは本書の価値を高めるものだが、これはどちらかといえば細部に関わるものが多い。これに対して、Bは細部どころか全体の大筋に関わり、そのことが本書の性格を複雑なものにしている。
 そこで、Bの内容について、具体的に検討していきたい。一つには「悪党たち」というテーマ設定がある。だが、これは著者独自の観点ではない――同じ新潮選書で、君塚直隆『悪党たちの大英帝国』、岡本隆司『悪党たちの中華帝国』が本書よりも前に出ており、タイトルは出版社の企画によると思われる――ので、あまりこだわるには及ばないだろう。もっと重要なのは、ソ連を「家族共同体」とする観点である。この「家族共同体」という言葉は本書の全体を通じて頻出し、一種のキーワードとなっている。ところが、その内実に関する詳しい説明は見当たらないし、これをキーワードとすることの根拠も説明されていない(著者は説明しているつもりなのかもしれないが、私の読み方では見出すことができない)。私の気づいた限りでは、典拠らしき記述があるのはただ2箇所だけである。一つには、1912年にジノヴィエフが「ここではみなが自分たちのことをプロレタリア革命家たちの一つの家族だと感じていた」と述べたという個所がある(32-33頁)。もう一つは、第7回臨時党大会(1918年)でレーニンが「自分たちの同志的な家族」という表現を使ったことが紹介されている(46頁)。たったこれだけの例でもって何ごとかの根拠とするのは相当強引だとの印象を免れない。著者は至るところでこの言葉を使っているが、どうしてそうなのかは分からないというほかない。
 もう一つのキーワードとして、「帝国」という言葉も各所に出てくる(各章のタイトルはすべて「帝国」の語を使っている)。「帝国」概念も論争的ではあるが、ここ数十年、多くの研究者によって種々の議論が積み重ねられてきたし、ソ連という国を「帝国」と呼ぶこともわりと常識化してきたから、この用語法自体は特に異とするに当たらない。だが、いくつかの箇所で「ソ連帝国」を「家族共同体」と重ねる記述もあって(「家族共同体としてのソ連帝国の動揺」194頁、「ソ連帝国の家族共同体のビジョン」253頁)、これはどういう趣旨なのかよく分からない。漠然たる推測だが、著者の考えでは、ソ連の指導者たちはみな共産党およびソ連国家を「家族共同体」たらしめようとしていた、そこにはジグザグもあったがそれを貫く一貫性もあった、ということであるように見える。そういう考え方もできるかもしれないが、これで全体を押し通そうとするのはいささか乱暴ではないかと思われてならない。
 本書の註では多数の文献が言及されているが、私の書いたものへの言及はごく少ない。私のソ連史観は池田の見解と重なる部分と重ならない部分とがあるから、それらを丁寧に腑分けするなら、塩川と池田の異同が明確になり、本書の意義づけもはっきりするのではないかと思われる。だが、その作業は取り組まれておらず、そのため本書の意味について立ち入った論争をしようと思っても、そのための手がかりはあまりないということになる。そこで、以下では、ややとりとめなくなるが、やや気になるあれこれの点を取り上げてみたい。
 
 全体として、6人の最高指導者たちの誰についても、政権の座に就くまでの時期についての記述が詳しい代わり、最高権力者になってからについてはそれほど詳しくない印象がある。初期についての記述が綿密であるのはもちろん大きなメリットだが、権力の座についてからの叙述がそれほど詳しくないのは、この6人を通してソ連史を描く上ではやや物足りないという印象がある。
 
 個別的な問題として、「レーニンの父母のルーツを調べることは、ソ連時代にはタブーであった」とあり、1930年代以降、「レーニンのルーツにそもそもロシア人がいないのではないかという点も、探究すべきではないこととなった」とある(20頁)。これは間違ってはいないが、やや言い過ぎではないかという気がする。確かに、レーニンのルーツは政治的にデリケートなテーマであり、扱いにくいものだった。だが、そうしたデリケートなテーマについても、何とかして探求しようとする試みが全然なかったわけではない。手近な例として、1977年刊の和田春樹編『レーニン(世界の思想家22)』(平凡社)を見ると、父方はカルムィク人(キルギスの血も)、母方の先祖はドイツ人とスウェーデンの混血だが、ユダヤ人も含む可能性があると書かれている(同書、3-4頁)和田の典拠ははっきりしないが、マリエッタ・シャギニャン(ソ連の作家)に多くを依拠していると思われる。1970年代にもこの程度のことは知られていたのである。これに対し、池田はソ連時代には「タブー」だったという前提の上で、在野の研究者がソ連解体後に刊行した著書で多くが明らかになったという書き方をしている(シャギニャンの名前も挙がっているが、彼女が何を発見したかは書かれていない)。これは研究史の流れを単純化するものではないだろうか。
 
 「ソヴィエト=ウクライナ戦争」という表現がある(42-44頁)。これは一方の側に「ソヴィエト」という国があり、他方の側にウクライナという国があって、そういう2つの国が戦ったというイメージを喚起する。だが、丁寧にいうなら、ウクライナの中にラーダ派とソヴィエト派があり、後者がソヴィエト・ロシアと連合して前者と戦ったというべきだろう。つまり、ここでは国内戦と国家間戦争とが絡み合っていた。同様のことは数十年後に起きたドンバス紛争にも当てはまる(その後に本格化した戦争では、ロシアが攻撃を仕掛けたため、ウクライナ国民の大半が反ロシアで固まり、内戦の要素は消えた。こうした現状を念頭において過去を見ると、かつてあった内戦の要素が見失われやすいように思われる)。
 
 かつて多くの日本人が「グルジア」と呼んでいた地域について、現地名は「サカルトヴェロ」だとした上で、「今日の国際的な呼称ではジョージア」と説明されている(54頁)。しかし、フランス語ではかつても今もジョルジア、ドイツ語ではかつても今もゲオルギエン、ロシア語ではかつても今もグルジア、英語ではかつても今もジョージア、現地ではかつても今もサカルトヴェロであって、最近になって一斉の変化があったわけではない。聞くところでは、リトアニアではロシア語風のグルジアをやめる代わりに現地風のサカルトヴェロにしたとのことである。最近になってグルジアをジョージアにしたのは日本と韓国くらいではないかと思われる。
 
 第3章では、タルボット編の『フルシチョフ回想録』が利用されている。これはソ連国内で刊行できなかった原稿が国外に持ち出されて、英語版として刊行された(そして世界各国語に翻訳された)ものであり、その真正性をめぐって議論があった。これは信用できないものだとして、こういう本に依拠すべきではないとする見解もある時期まではかなり有力だった。ソ連解体後になって、この英語版は原文に基づく翻訳ではあるが、十分正確な翻訳ではなく、手稿のほぼ半分くらいしか訳していないということが明らかにされた。そして、原文そのものは、『時代、人々、権力』というタイトルで4巻本として発行された(1999年)。そういう経緯を念頭におくなら、ここは4巻本を利用した方がよかったろう。
 
 クリミヤに関して、フルシチョフはクリミアとウクライナの歴史的つながりを意識しており、早くからウクライナへの移管を提案していたと述べた個所がある(102-103頁)。これは今日の情勢とも関連して、重要な点である。典拠は2つ挙げられていて、Iurii Shapoval, "The Ukrainian Years, 1894-1949," in William Taubman, Sergei Khrushchev, and Abbot Gleason (eds), Nikita Khrushchev, Yale University Press, 2000, pp. 28-29およびGeoffrey Swain, Khrushchev, Palgrave, 2016, pp. 45-46である。この二つを読み比べてみると、共通点があると同時に微妙な差異もある。クリミアとウクライナの歴史的つながりについては、前者でのみ言及されていて、後者にはない。1944年に9,000-10,000人のウクライナ人がクリミヤにやってきたという点では両者は一致しているが、スウェインの書き方は、彼らは説得されたりあるいは脅されたりして移動したというもので、自発的移動ではなかったという印象を与える。いずれにしても、クリミヤにおけるウクライナ人は昔からそれほど多かったわけではなく、この時期の移住である程度増えた――同時期にロシアからも移住が進んで、大きく増えた――にとどまる(クリミヤ人口の変遷については、塩川伸明『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』東京大学出版会、2021年、646頁の表6参照)。フルシチョフが1944年にクリミヤのウクライナへの移管を提案したという点は2つの典拠で共通に確認され、これは重要な発見である。だが、その動機は明らかでない。フルシチョフはクリミヤのウクライナ人のことを配慮したのか、ウクライナ本土の経済復興を重視したのか、あるいは当時ウクライナ指導者だった彼の権力闘争的動機が作用したのか、さまざまな可能性が考えられる。池田がこの問題に注目し、1944年の状況について一定の発見をしたのは一つの功績だが、これでもってその後につながるクリミヤ問題に関する結論に至ったとは言えないように思われる。
 
 第6章は、ゴルバチョフが書記長になるまでの時期およびペレストロイカの始まりあたりまでが詳しく、その後は比較的あっさりしている。特に政権最末期の1990-1991年はものすごく駆け足で、この間の複雑な変動にほとんど立ち入っていない。この章のタイトルは「帝国の破壊者」となっているが、ゴルバチョフが帝国を破壊しようとしたのか、それとも破壊を食い止めようとしたが、それが失敗したのかという肝心の点が、これでははっきりしない。「帝国」の語でソ連体制のどの側面を指すのかによって、この問いへの答えは異なりうるが、その問題にも立ち入っていない。そのため、この章はソ連の最期についてほとんど論じないものとなっている。エピローグでは、冒頭に「ゴルバチョフが舵取りをあやまったことで、1991年12月にソ連は消滅した」とあるが(243頁)、これも消滅の経緯を明らかにするものではない。
 
 とりとめなくあれこれの面を取り上げてきた。本書には納得のいく部分といかない部分、感心する箇所とそうでない箇所が混じり合っている。そのこと自体は、著者と読者が異なる人間である以上、ごく当然のことである。ただ、本書で中心的な位置を占める「家族共同体」論がよく呑み込めないことは、本書を私にとって謎めいた著作としている。