最近のマックス・ウェーバー論の諸相――中野敏男および佐藤俊樹の近著を中心に
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マックス・ウェーバー*1が2020年に死後100年を迎えたのを期に、ここ2、3年の間に多数のウェーバー関連文献が刊行された。中でも、野口雅弘と今野元という二人の政治学者がほぼ時を同じくして、どちらも新書本という体裁で、タイトルもそっくりな本を出したのは広く注目された*2。2021年9月の政治学会大会でも、この二著を対象とした書評ラウンドテーブルがひらかれ、活発な討論が行なわれた*3。その他にも、死後100年の年をはさむここ数年の間に何冊もの関連図書が出たが*4、それらのうち、中野敏男『ヴェーバー入門――理解社会学の射程』(ちくま新書、2020年)と佐藤俊樹『社会科学と因果分析――ウェーバーの方法論から知の現在へ』(岩波書店、2019年)はどちらも社会学者の手になり、広い範囲の読者に対して重要な問題提起をしようとする著作だという点で共通するが、実質においては好対照をなす書物である。どちらもかなり専門性の高い書物であり、その方面に十分通じていない私が満足に読みこなすことはできないが、それでもあちこちに刺激されるところがあり、身の程知らずにも敢えて挑戦してみたいという意欲をかき立てられた。
以下、内容が大幅に異なることにかんがみ、それぞれを個別に取り上げて(ごく一部で両者の関係にも触れる)、我流の読書ノートを綴ってみたい。
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まず、中野著について考えてみる。同書は体裁としては今野・野口両著同様に新書本であり、タイトルも「入門」と銘打たれているが、その中味は入門のわりには「重い」印象がある。今野・野口両著もその背後には両著者の深い専門研究があるが、新書本の性格に忠実に、読者にあまり負担をかけず、広範な一般読者がそれほど構えることなく読めるように書かれている。これに対して中野著は、著者が訴えたいことを真っ向勝負で書こうという強い意志が伝わってくる書物だが、それを読み解くのはそれほど容易なわざではない。
一読して強く印象づけられるのは、ウェーバー学説が今なおアクチュアリティを持つものだとアピールする姿勢である。一昔前ならいざ知らず、今日の状況でこのような姿勢をとるのは「反時代的」な挑戦と言えるかもしれない。ある時期まで日本の学界に強い影響を及ぼしていたウェーバーは、今日ではむしろ「歴史上の人物」として相対化する――どのように相対化するかは論者ごとに多様であるにしても――のが大勢であるように思われるが、中野はウェーバー学説を「今なお生きている」ものと捉えているようだ。外観的にいえば、むかし流行したもののリヴァイヴァルということになりそうだが、著者としては単なるリヴァイヴァルではなく、むしろ、これまで誤解されてきたウェーバーの真骨頂を今こそ再発見すべきだと主張したいのだと思われる。これまでの誤解というのは、大塚久雄以来の近代主義的なウェーバー解釈であり、それを大きく更新することが中野の狙いなのだろう。それがどこまで成功しているかをにわかに判断することはできないが、とにかく熱いパッションの伝わる本である。やや小さい表現上のことだが、本書には「しっかり」という言葉が至る所に頻出する。これまでの読者が「しっかり」読んでこなかったために見落としていた事柄を著者の観点に沿って「しっかり」読めば、ウェーバー理論の現代性が明らかになる、と主張したいようである。
中野が自説に絶大な確信をいだいていることは、「はじめに」につけられた注(266-268頁)で今野・野口・佐藤各著を歯牙にもかけない感じで一蹴している点に示される。一蹴された側からすれば「この著者は何と唯我独尊的な奴だ」という印象が生じるだろう。そこまでいかないまでも、私なども、こういう書き方はいささか独善的ではないかという懸念を覚える。それでも、そうした懸念をとりあえず留保して本文を辛抱強く辿ってみると、長年にわたってウェーバーのテキストを読んできた蓄積に裏付けられているだけに、結論への賛否は別として、単なる放言ではなく重要な問題提起らしいという印象を受ける。
先ず目を引くのは、本文の冒頭である。そこでは、「精神なき専門人」云々の有名な言葉(『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』の末尾)は実はウェーバーのオリジナルではなく、グスタフ・シュモラーが一足先に酷似した表現をとっていたことが指摘されている。だからといって、ウェーバーがシュモラーと同じことを考えていたというわけではなく、類似した表現に込められた意味は異なっており、その違いを理解するためには学説史を立ち入って検討する必要があると指摘されている。「精神なき専門人」という言葉は広く人口に膾炙し、一種のキャッチフレーズと化している観もあるが、ウェーバーにとっての意味をきちんと理解するには学説史的なコンテキストを踏まえなくてはならないという指摘はまっとうなものだろう。学説史の細部は十分咀嚼しきれないものの、この個所はわりと納得させられる。
さて、本書の中心部分は、『プロテスタントの倫理と資本主義の精神』〔以下『プロ倫』と記す〕の読み直し(第2章)、遺稿となった大著『経済と社会』とりわけそのうちの『宗教社会学』の部分の再構成作業(第3章)、『世界宗教の経済倫理』の読解(第4章)、となっている。その細部が十分理解できるわけではないが、特に第3章は丹念な文献学的作業を(おそらく折原浩の作業を引き継いで)積み重ねてきた努力の産物のようで、価値が高いのではないかと思われる。
この関連で論争的なのは、これらの著作をある特異な角度――「理解社会学」の観点――から読むべきだという主張である。従来、『プロ倫』は資本主義の起源を解明しようとした作品だと解釈され、『世界宗教の経済倫理』は中国やインドなどの各文化圏を実体化した比較史の試みだと解釈されることが多かった。そのような解釈に立つなら、資本主義の起源にしても中国文明やインド文明の理解にしても、ウェーバー以後のさまざまな歴史研究によって多数の欠陥や誤りが指摘されており、もはやウェーバーをそれほど尊重するには及ばず、むしろそれを乗り越えるべきだという考えが強まるのも自然である。これに対して中野は、それはウェーバーの狙いを見誤ったものだと考えているようだ。人間行動の動機理解に接近しようとする理解社会学の観点に立つなら、『プロ倫』は資本主義という経済システムの歴史的起源を解明するものではなく、ましてや、近代という時代とその文化を一般的に擁護したり批判したりするものでもなく、問いの焦点は個人の生活態度とそれを導く倫理(エートス)にあるとされる(123-124頁)。そして、その倫理が指示する合理的な生活態度、そこに生まれる当の合理的な行為が秩序を構成して、すべての人々をその強制力のもとに取り込んでしまう経済秩序の「強大な秩序界」(「鋼鉄のように固い殻」)を作り上げる規定要因とされているのだという(126-127頁)。同様に、『世界宗教の経済倫理』の中の『儒教と道教』や『ヒンドゥー教と仏教』は中国論やインド論の書ではなく、ウェーバーの狙いは、当該の宗教の実践倫理にもっとも強く影響を与え、この宗教に特徴的な性格を刻印した社会層について、その生活態度の方向を定めるエレメントを取り出すことに限定されていたのだと指摘されている(193-194頁)。このような中野の主張に従うなら、ウェーバーのあれこれの著作が歴史学的に見て不十分だとか間違っていると指摘する議論は彼の狙いを見誤ったものであり、批判として空回りしているということになりそうである。こうした議論がどこまで妥当なのかを判定することは私にはできず、結論は留保するしかないが、とにかくそれなりの文献学的根拠をもって提出されている以上、一つの重要な問題提起として受けとめる必要があるのではないかと思われる。
もう一つ重要なのは、ウェーバーにとって「近代」とは何だったのかという論争問題である。この点に関わって注目されるのは、ウェーバーは「近代的」という形容詞はよく使っているが「近代化」とか「近代社会」という言葉はほとんど使っていないという指摘である。つまり、個々の社会事象や文化諸現象を形容する言葉として「近代的」と言うことはできても、全体社会を実体化して「近代社会」と呼ぶことはできないということのようである(251-254頁)。この指摘は、それ自体としては文献学的考証――テキストの電子化が進んだおかげで、用語探索が容易になったという――の一例だが、従来「近代化」と呼ばれていたものをどう考えるのかという大きな論争問題とつながる。
今ごく大雑把に日本におけるウェーバー受容の歴史を振り返ってみると、ある時期まではウェーバーは「近代主義者」と見なされ、かつそれは日本にとっての目標を指し示すものという受けとめ方が主流だった。その後、「近代」が光を失う中で、実はウェーバーは「近代主義者」ではなく、「近代批判者」だったのだという解釈が広がってきた。そして近年では、そのように「近代批判者」としてウェーバーを解釈するのは無理があり、やはり「近代主義者」として見た方が素直ではないか――但し、かつてのようにそれを模範とするのではなく、長所も短所もある、過去の一つの思想として受けとめる――といったような考え方が広がってきたように思われる。仮にこのような整理が妥当だとすると、一見したところ中野は第2の立場であるように見える。それは第1の立場を批判的に乗り越えているが、第3の立場からは批判の対象となる、という風に見える。しかし、そう言い切ってしまう前に、もう少し中野の議論につきあってみよう。
この関連で重要なのは、『宗教社会学論集』第1巻の序言にある有名な言葉である。「いったいどのような状況の連鎖が、他ならぬ西洋の地において、そしてここにおいてのみ、普遍的な意義と妥当性を持つ――と、少なくともわれわれはそう考えたいわけだが――文化諸現象の登場をもたらしたのか」(233-234頁。傍点は省略した)。中野は先ず「少なくともわれわれはそう考えたい」という文言に注意を向け、これは「普遍史」の構想などではないという。そして、「西洋文化における特別な形の合理主義」、あるいはそれによって生まれた文化諸現象がウェーバーの主たる関心の対象なのであり、その中身は各文化領域を分化させ、それぞれについて要件を限定して合理的な理論的・技術的基礎の上に据えて、自律的な文化領域として自立させ、内容を専門化し高度化させていく、そんな特別な形の「合理主義」だという(235-239頁)。「合理主義」にはいろいろな種類のものがあり、それらは世界各地に存在するから、合理主義自体が西洋の専売だと言うことはできないが、このように限定して理解された「特別な形の合理主義」は、やはり西洋出自と認めないわけにはいかないし、それが今日、科学、政治、経済において合理性の基本形として世界に受け入れられている(制覇している)というのも一定の事実だ、というのが中野の主張である。
我流に言い直すなら、先の引用文でウェーバーが「普遍的」という言葉を使ったのは、それを人類がみな目標としなくてはならないという趣旨ではなく、よかれ悪しかれそれが世界全体を制覇しているという事実の指摘だ、ということのようである。その合理主義は「現世支配の合理主義」であり、暴走する危険性をはらんでいるという指摘もある(これはウェーバー自身の言葉ではなく、中野の言葉)。ここから先は議論の分かれるところだが、「西洋文化における特別な形の合理主義」が世界を制覇した果てにどのような危機がもたらされたか、そしてそれをどのようにして超えるかという問題は、それをウェーバーとどう結びつけるかは別にして、とにかく重要な問いではあるだろう。この問いに関して、中野はウェーバーの先見性を高く評価しており、その点については賛否両論がある。私自身はウェーバー学に通じていない以上、どちらかに軍配を上げることはできないが、とにかくこれはこれで一つの見識ではあるだろう。その見識に賛同しない人も当然いるだろうが、それなりの文献学的探索に裏付けられた議論である以上、とにかく本格的な検討と論争の対象とされてよいのではないかと思われる。
以上では、十分理解しきれないものを残しつつ、それなりに重要な問題提起だと思われる事項を取り上げてきたが、本書の中核をなす「理解社会学」、とりわけ「解明的理解」の部分は、どうしても納得しきれない憾みがある。そもそも他者理解はどのようにして可能なのかという根本的な疑問があるが、中野はその点に触れた後、次のように論じる。当の他者自身においてさえ、その体験を対象的に捉えるためには、すなわち自分の体験を「体験」として判断の「客体」にするためには、「概念」と結びつけるという論理的操作を経なければならず、この事実が他者理解可能性の起点になる。そのようにして「客体」とされた「体験されたこと」であるなら、自分のであれ他人のであれ、同様な概念化を通じてその意味を確認し、動機の複合の要因として因果的な行為連関の中に捉えて、それについての判断の妥当性を問うこともでき、この意味で「解明する」ことはできる。さらに、体験と動機と行為の現実連関に内在して作動している「動機」を概念的に捉える営みとして解釈されるのだ、というのが中野の議論である(52-54頁)。
残念ながら、この個所はあまり納得することができない。話を振り出しに戻すようだが、こういう形での他者理解が本当の他者理解なのかという疑問がどうしても残る。中野は話を分かりやすくするための例示として医者と患者の対話を挙げているが、こういう例を読まされると、本来もっと難しかったはずの問題がひどく単純化された話に置き換えられているのではないかという気がしてしまう。「解明的理解」がこういうものであり、「行為の意味をその内面の動機に即して追尾する営み」(179頁)だと言われても、どうも納得できない。
もちろん、これは私の理解不足のせいだろうし、私が「他者理解」とは何かという問題に過度に囚われているのかもしれない*5。ともあれ、「理解社会学」は本書の核心部分をなしているから、ここが納得できないということは「本丸」を攻め落とせなかったということになりそうである。それは残念だが、本丸に迫るべく、まわりをぐるぐると探索する中で、あちこちで知的刺激を受けることができたのはありがたい体験だった。専門の遠い分野の、かなり専門性の高い本を読む以上、こういった意味での恩恵をこうむることができれば、それでもってよしとすべきではないかというのが全体的感想である。
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以上、中野著について考えてきたが、次に佐藤俊樹『社会科学と因果分析――ウェーバーの方法論から知の現在へ』(岩波書店、2019年)を取り上げてみる。中野著とは毛色を大いに異にする本である。
佐藤著はメインタイトルとサブタイトルの組み合わせから窺えるように、かなり欲張った目標を持っている。ウェーバー論であると同時に現代的な社会科学方法論でもあるという二重の狙いが本書には込められている。どうしてこのように二兎を追うような企図がなされるのかといえば、ウェーバーの方法論関係の論考群のうち「従来あまり光を当てられなかった部分」の再検討を通して「現代の社会科学の最先端の展開」――つまり「知の現在」――につながる重要な示唆が得られる、というのが佐藤の考えのようである(はしがき、v頁)。
ウェーバーの社会科学方法論といえば、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、1904年の論文「社会科学的および社会政策的認識の「客観性」」(邦訳各種あり)だろう。ところが、佐藤によれば、この論文はウェーバーがまだリッカートの影響から脱していなかった時期の産物であり、その2年後の「文化科学の論理学の領域での批判的研究」(邦訳は森岡弘通編訳『歴史は科学か』みすず書房、1965年所収)で一種の飛躍があったのだという。これはびっくりさせられる主張である。私は今から半世紀以上前の学生時代に、折原浩の教えを受けて新カント派のリッカートやヴィンデルバントを読みかじり、その延長上でウェーバーを考えてきた。私だけでなく、ウェーバーの哲学的基礎を新カント派に見る見解は、日本では広く定着しているのではないかと思われる。これに対し佐藤によれば、ウェーバーはリッカートの影響から脱するなかで真価を発揮するようになった、そして日本で尊重されている「客観性」論文は実はあまり大したことない、ということになる。これは、従来のウェーバー理解の「常識」を引っ繰り返すものであるようにみえる。
佐藤は続いて、リッカート離れしたウェーバーが主要に参照したのはヨハネス・フォン・クリース*6という統計学者・生理学者だという。これもまた人を驚かせる指摘である。私はこれまでクリースという人の名前を聞いたこともなかった。これ自体は私の無知のなせるわざだが、手もとにあるウェーバー関係の書物を大急ぎでパラパラとめくってみても、クリースの名前はほとんど出てこない。ウィキペディアに当たってみると、英語版・ドイツ語版・ロシア語版・ポーランド語版・スウェーデン語版では、詳しさにばらつきがあるもののともかくクリースの項があるのに対し、日本語版では立項されていない。どうやら、日本ではあまり知られていないが英語圏やドイツ語圏ではよく知られている大学者ということのようである。佐藤の解説によるなら、クリースは本人が統計学・生理学という複数分野の研究者だっただけでなく、法学者のラートブルフ、物理学者のプランク、哲学者のフッサールといった大物たちと密接な交流を持ち、それら諸分野にまたがって広範な影響を及ぼした知の巨人だったという。そして、このクリースの影響を受けつつ打ち出されたウェーバーの方法論は、統計学・確率論・数理分析などを駆使した現代的な社会科学方法論の基礎を築いたということになるらしい。そういえば、ウェーバーには、あまり広く知られていないが――私も読んだことがない――工業労働に関する統計分析の論文(1908-09年)もあり、佐藤によれば、これは「計量社会学の先駆」といえるもので、「ここでウェーバーは、具体的な計算まではできなかったが、多変量解析の要因統制にあたる手法を模索した」のだという(332頁)。
こういう風にいわれると、統計や数理分析に通じていない読者としては、自分には手の届かない話と感じてしまうが、頑張って読んでみると、実はそれだけでない要素が本書にはあり、よくは分からないがこういうことではないかと得心する個所もあちこちにある。そうした個所と、まるで分からない個所とが交互に出てくるので、読み通すのに難渋するが、後者を流し読みしながら前者に食らいついていくと、それなりに興味深い知的体験をすることができたという気がする。こういうわけで、以下に記す感想は、どこまで当たっているか分からないが、とにかく私にはこういう風に受け取れたという読解の記録である。
先に、統計学・確率論・数理分析と記したが、実は本書はそれだけではない問題にもかなり触れているし、数式で表現できる問題だけを一方的に尊重しているわけでもないように見える。一般論になるが、自然科学と人文社会科学、量的方法と質的分析、法則性志向と個別性志向といった一連のペアを並べると、何となく各ペアのうちの前項の方が後項よりも「科学的」で厳密だという印象をいだきやすい。しかし、実は前項といえども、何らかの仮説を背後に持っていたり、関連するかもしれない未知の変数をとりあえず所与であるかに扱う(「他の条件にして同じ限り」と仮定する)といった問題があって、完全に正確であるわけではない。但し、その仮説や変数がどういうものかを自覚することによって、不正確度のばらつきを知ることができる。つまり、量的でありさえすれば正確だというのではなく、こうした反省作用によって不正確度を統制することができる。そして、反省作用によって不正確度を測るという限りでは、先のペアの各後項も同様である。こういう風に考えるなら、一連のペアの前項と後項はそれほど画然と峻別されるわけではないということになりそうである。
この点と関連して、ここ数年来、産業界からの要請およびそれを背後に持つ文部科学省から出されてきた「文系学問不要論」にどう対応するかという問題があり、本書もその点に触れている。この問題への対応にはいくつかの種類がある。そもそも文系・理系という区分をあまり固定的に考えるべきでないという指摘もあれば、文系の中で社会科学と人文学を分けて考える議論もある。社会科学と人文学を分ける場合、前者のほうが「科学的」だから上等だと考える人もいれば、むしろ「科学」では捉えきれない価値の問題を扱う人文学こそが重要なのだという考えもある。こうして多様な見解が乱立している中で、佐藤の見解は、それとして明示されているわけではないが、自然科学・社会科学・人文学をある程度区別しながらも峻別はしないということではないかと思われる。佐藤自身は社会学者であるため、どちらかというと社会科学に力点をおいた議論を展開しているが、それは自然科学と隔絶しているわけではなく、むしろ方法論の基礎において原則的に共通する――人文学については微妙だが、少なくとも部分的には共通の展望で考えられる――という発想をとっているように見える。
佐藤自身の文章に密着することなく、我流の解釈を書き連ねてきたが、仮にこういう読み取りが完全に的を外していないとするなら、これはこれで興味深い考えであるように思われる。私自身は、社会科学と人文学のはざまのようなところでずっと仕事をしてきた。また、数理的手法は自分自身はとらないし、それを特権的に重視すべきだという一部の風潮には辟易するが、一定の留保付きでなら、それなりに尊重すべきものだとも考えている。上記の読解は、そうした自分自身の考えに佐藤著を引きつけたものだということになるかもしれない。
前項でとりあげた中野敏男に戻るなら、中野も佐藤もウェーバーの方法論に強い関心を寄せているという意味では一定の接点がある――いくつかの文献を共通に取り上げている――が、その解釈はおよそかけ離れている。中野著は、その注で佐藤著に触れて、「行為動機の解明的理解という関心と方法がすっかり脱落してしまっています。それではそもそもヴェーバーの学問方法論ということができないでしょう」と断定的に書いている(267-268頁、傍点は省略した)。おそらく佐藤から見れば、中野こそ何も分かっていないということになるのだろう。
それだけではない。おそらく中野よりは佐藤の方に近いと思われる社会学者たち(北田暁大ら)の間でも、佐藤のウェーバー解釈やクリース理解について大きな疑問が出されているらしい(その中身はよく分からず、ここで立ち入ることはできない)。こういうわけで、専門家たちの間で厳しい論争が続いているのが現状のようだが、そうした中で非専門家が何を言えるのかと自問すると、もちろん大したことが言えるわけではない。ただとにかく、遠くからはこう見えるということをまとめる作業には自分なりの意義があったと感じる。
それにしても、死後100年を経てなお、このように多彩で、相互に大きく隔たったウェーバー論が提出されるというのは、いかにウェーバーが巨人だったかを改めて物語るのだろう。
(2021年10月14日と10月22日にフェイスブックに投稿した文章をもとに、若干の微修正を施して、10月末にまとめ直した)。
*1ウェーバー/ヴェーバーどちらの表記をとるかは悩ましい。私はドイツ語にあまりよく通じていないが、地域差もかなりあるらしく、どちらが絶対に正しいということは言いにくいのではないかと思う。とりあえず、単純な慣れで、「ウェーバー」の方をとる(但し、言及する著作が「ヴェーバー」をとっている場合にはそれに倣う)。
*2野口雅弘『マックス・ウェーバー――近代と格闘した思想家』中公新書、2020年、今野元『マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇』岩波新書、2020年。この2著に関する簡単な感想は、2020年7月8日にフェイスブックに投稿した。なお、今野は以前に『マックス・ヴェーバーとポーランド問題――ヴィルヘルム期ドイツ・ナショナリズム研究序説』東京大学出版会、2003年、『マックス・ヴェーバー――ある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』東京大学出版会、2007年という、いずれも重厚な野心作――同時に論争の書でもある――を出している。私は双方を読んで、強い印象を受けたが、今回改めて読み直すことはしていない。
*3報告は水谷仁、渡辺浩の2人で、書評対象者たる野口雅弘、今野元がこれに答えた(2021年9月26日、オンライン開催)。私は簡単な感想を9月27日にフェイスブックに書いた。
*4 2019‐21年の間に刊行されたものとして、私の目に触れた範囲に限っても、千葉芳夫『ヴェーバーの迷宮 迷宮のヴェーバー』ミネルヴァ書房、2019年、内藤葉子『ヴェーバーの心情倫理』風行社、2019年、水谷仁『仕事としての政治』風行社、2020年、『現代思想』2020年12月号〔特集マックス・ウェーバー――没後100年〕、ハインツ・シュタイナート『マックス・ヴェーバーに構造的欠陥はあるのか』ミネルヴァ書房、2021年があるが、いずれもまだ読んでいない。前注2に挙げた今野の旧著を読み返していないこととあわせて、本稿の限界である。
*5この点に関連して、かつて数土直紀『理解できない他者と理解されない自己――寛容の社会理論』勁草書房、2001年への読書ノートを書いて、私のホームページに載せたことがある。
*6この人の姓をどう表記すべきか――クリース、フォン・クリース、v. クリースという3通りの表記法がある――も悩ましい。とりあえず、本稿では簡略化のため、「クリース」と書くことにする。