ワイダとカティン――覚書
一
アンジェイ・ワイダの訃報(二〇一六年一〇月九日)に接して種々の思いが去来するが、とりあえず思い出したのは、映画『カティンの森』(二〇〇七年)完成の直後に『モスクワ・ニュース』紙に載った長大なインタヴューのことである。ワイダの父親はカティンの犠牲者の一人であり、母は夫を終生待ち続けた遺族の一人だった。ワイダはそのような背景を述べる一方、映画の中には人間的に振る舞うソ連の将校が登場し、それをロシア人俳優が演じていることに触れ、これを政治的思惑と受けとってほしくない、この映画が政治的思惑に利用されるのを恐れる、などとも語っている。全体主義的体制と自らその犠牲となった民族〔ロシア人〕とは別々のものだ、カティンの森ではポーランド人だけでなく、ロシア人、ウクライナ人、ユダヤ人、ヴォルガ・ドイツ人等々も大勢死んだ、ヒステリックな糾弾の映画を作りたくはなかった、などとも述べている。ここに示されているのは、カティンの虐殺およびその後長く続いた隠蔽(殺害をナチ・ドイツの仕業とする虚偽)を許すまいという強い意志であると同時に、それを安直な反ロシア宣伝に流し込もうとする風潮にも抗しようとする姿勢であり、印象深いものがあった。それと同時に、このインタヴューでもう一つ目を引く点として、同紙編集部による次のような発言があった。それによれば、一九五〇年代末にフルシチョフはゴムウカに、全てはスターリンのせいだということにしてカティン問題を取り上げればよいではないかと提案したが、ゴムウカは愕然として、まだその用意はできていないと言って断わったのだという。ワイダはこれに対して、それは大きな政治的誤りだった、もしそのとき真実が語られていたなら、現在のわれわれ〔ポーランドとロシア〕の関係はまるで違っただろう、と応じている*1。
この情報がどこまで正確かは、もちろん今後検証しなくてはならない。フルシチョフがソ連の責任を認める提案をしてゴムウカが拒否したという説は古くからあるが、確証はないと述べた論文もある*2。二〇一五年一一月に橋本伸也氏の組織した「歴史と記憶をめぐる紛争」に関する国際シンポジウム(関西学院大学)でポーランドの学者ズザンナ・ボグミウにこの件について尋ねてみたが、彼女も知らないとのことだった。
フルシチョフとゴムウカの時代だけでなく、ギェーレクもカティン問題に関しブレジネフに問いあわせていたとの情報もある。当時ソ連共産党中央委員会の社会主義諸国共産党・労働者党部で働いていたシャフナザーロフは、同部のポーランド課長とともに真相解明のために尽力したが、同部からKGBへの何度もの問い合わせに対して、「資料なし」という回答しか来なかったと回想している*3。カティンについては知らぬ存ぜぬというのが公式の態度だったとはいえ、水面下ではいろんな思惑や駆け引きが渦巻いていたのかもしれない。
上記は、ワイダ死去直後の二〇一六年一〇月一二日にフェイスブックに書き込んだ文章に小規模な改訂を施したものである。その時点で私はこのテーマについて、ここに書いた以上のことは何も知らず、これはごく初歩的な問題提起だった。フェイスブック上では何人かの人が反応を寄せてくれて、この問題への関心の高さを知ることができた。その後、もう少し詳しい事情を知ることができないかという気がして、多少調べているうちに、いくつかの関連情報に接することができた。そうはいっても、関連文献は膨大であり、私がこれまでに当たったのはごく一部に過ぎない。このテーマを本格的に研究しようとするならば、もっと探求を積み重ねなくてはならないが、ポーランド=ソ連関係史を専攻していない私にその余裕はない。以下の小文は、とりあえずこれまでに分かった限りのことを心覚えとしてまとめ、より本格的に取り組むであろう将来の歴史家にとっての踏み台となることを目指したものである*4。肌理の粗い試論とならざるを得ないが、一つの捨て石としての役を果たせるなら望外の幸いである。以下では、いったんワイダから離れるが、最後にワイダの近作(遺作)に触れて全体を締めくくることにしたい。
二
先ず、上で触れた一九五〇年代末のフルシチョフとゴムウカのやりとりが実際にあったのか、あったとしてどういうものだったのかという問題を取り上げてみたい。網羅的に確かめたわけではないが、この種の噂はかなりの範囲に広まっているようである*5。
さしあたり目に触れた限りで相対的に詳しい検討を行なっているのは『カティン・シンドローム』という書物である。この本はロシアの歴史家三人――長らくカティン問題に取り組み、ポーランドの歴史家たちとも協力してきた人たち――の集団的著作である。本書の詳しい成立事情は分からないが、「ロシアの立場」を示すというよりはむしろ「ロシア・ポーランド双方の歴史家の協力の産物」という性格のものであるように見える。本書によれば、フルシチョフがゴムウカにカティンのことを認めてはどうかと提案し、ゴムウカがそれに反対したという噂は、一九七三年にイスラエル紙に報道され、自由ラジオ放送で広められたものだとのことで、ゴムウカ自身は、この報道は中傷、虚偽だとして退けていた。しかし、この説を全面的に否定することはできないというのが著者たちの見解である。フルシチョフ提案は明確な形をとったものではなく、ついでのような形で、観測気球として述べられたらしく、そのときフルシチョフは酔っていたという説もある。ゴムウカはこの提案に対し、緊張した態度で応じ、その波及効果の大きさを指摘して、もし認めるなら文書資料を出し、徹底した形でしなければならない、軽々しく判断すべきことではない、と反論したという*6。単純にフルシチョフの提案をゴムウカが退けたというと、前者が歴史の真実解明に前向き、後者が後ろ向きだったかの印象を与えるが、フルシチョフの提案は考え抜かれていない無責任なもので、より真剣に考えたゴムウカはそれに迂闊に乗れなかったという解釈であるかに見える。問題のフルシチョフ=ゴムウカ会談の時期についてはにわかに確定できないが、ともかく一九五六年一一月から五九年二月の間と推定されている。下限が一九五九年二月というのは、同年三月に新しい展開があったからである*7。
一九五九年三月三日、当時KGB議長だったシェレーピンからフルシチョフに宛てた報告が提出された。この報告は、カティン事件がソ連の内務機関の作戦として行なわれたことを示す資料があるとした上で、この情報はこれまで国際的に広められてきた公式見解――ポーランド人将校らを殺したのはナチの仕業だとする、いわゆる「ブルデンコ委員会」報告――を覆すもので、それが知れ渡ることは有害無益であるとして、銃殺された人々に関する一件書類は、党・政府からのありうべき照会に応じるための略式裁判(トロイカ)議事録を除いて破棄するようにと提案している。シェレーピンは同時に、この提案を承認する旨のソ連共産党幹部会(政治局の当時の名称)決定の草案も提出した(シェレーピン手書きの文書が残っている)*8。証拠破棄という提案は真相解明とは逆向きのものだが、とにかく一九五九年にこの問題が蒸し返されて最高指導部レヴェルで検討対象となったことを物語るとすれば、五〇年代末にフルシチョフとゴムウカの間にあったやりとりをうけた動きと想定することができる。
シェレーピン報告はカティン事件が実はソ連内務機関の仕業だということを事実上認めるもので、これ以降、どの範囲でどの程度詳しくかはともかく、最上層では事件の真相を大なり小なり知りながらそれを公けにしないという居心地の悪い態度がとられることになった。一九六〇年代から八〇年代半ばにかけて、何度か欧米のメディアでカティン問題が取り上げられることがあり、ポーランドにもそれが伝わって、ポーランド当局はカティン問題に関する情報をソ連に求め続けたが、ソ連指導部としては、長く続けてきた公式見解を変えないというのがペレストロイカ前夜までの態度だった。先に触れたシャフナザーロフの回顧的記述もそのことを示す一例と考えられる。
関連して気になるのは、シェレーピンが提案した党幹部会(政治局)決定案が実際に採択されたのかどうか、そしてそれに基づく証拠破棄が行なわれたのか、それはどの範囲だったのかという点である。『ロシア軍事アルヒーフ』誌の編注によれば、そのような決定は「特別ファイル」に見出されないとのことであり、『カティン・シンドローム』は決定は採択されなかったと書いている*9。実際、その後、かなり多くの資料が出てきたにもかかわらず、シェレーピン提案に基づく党幹部会(政治局)決定は確認されておらず、そのような決定は正式には採択されなかったものと思われる。具合の悪い情報を秘匿する態度を続ける一方、証拠隠滅の提案を正式に裁可することもしなかったというのはソヴェト政権の体質を知る上で興味深い。それでも、後にポーランドが要求するような、より詳しいデータが十分に出てこないのは、やはりある程度の隠滅があったからなのかもしれないと推測する余地を残す。
三
カティン問題が動き出したのはいうまでもなくペレストロイカの開始後のことだが、これはかなり曲折した歩みをたどった。そこで、いくつかの時期に分けて考えることとし、まず一九八八年頃までについて見ていくこととする*10。
ポーランドではかねてよりカティンはソ連のせいではないかとの説が広まっていたことから、ヤルゼルスキ(ポーランド国家評議会議長)はゴルバチョフ登場後の早い時期から、歴史の汚点に関する解明を進めるよう提案していた。一九八五年末のワルシャワ条約機構政治協商会議のときにヤルゼルスキからゴルバチョフへの提案があり、ゴルバチョフはこれに対して、前向きに取り組むとしつつも、まだ書記長になって間がなく、個々の問題については時間をかけて検討しなければならないと返答したという*11。一九八六年七月一一日のソ連共産党政治局会議におけるゴルバチョフ発言には、「カティンにも取り組まねばならない」という個所がある*12。これは簡略ながらも最高指導者がこの問題に言及した早い例である。
一九八七年四月にヤルゼルスキが訪ソした際に調印されたイデオロギー・科学・文化の領域における相互協力宣言をうけて、ポーランド=ソ連共同の歴史問題調査委員会が設置され、カティンや独ソ不可侵条約付属秘密議定書など、種々の問題に取り組むこととなった。共同委員会の第一回会合は五月に開かれ、ポーランド側議長はマチシェフスキ、ソ連側議長はスミルノフが当たることになった。一九八七年末には、翌年に予定されたゴルバチョフのポーランド訪問へ向けて調査作業が進められ、一定の暫定的提案がまとめられたようだが、明快な結論にはたどり着かなかった模様である*13。
一九八八年になると、ポーランドでは真相解明を急ぐべきだという声が一段と高まり、調査作業の遅れに対する不満の声も強まったが、ソ連の公式見解はすぐは変わらなかった。三月初頭の共同調査委員会第二回会合後に両国の共同議長が「歴史の空白」に関するインタヴューに応じたとき、まだ「カティン」という言葉は使われず、「ソ連に抑留されたポーランド軍人のその後の運命」に言及するにとどまった*14。もっとも、ポーランド側ではその時点で既に「カティン」の語が一般に使われており、ソ連側発表との間には溝があった*15。少し後の『プラウダ』論文では「カティン」の語が使われ、共同調査委員会はこれに触れるのを避けてはいないとされたが、その一方、これが政治宣伝に利用されることのないよう、センセーションを避け、粘り強い作業が必要だという態度が表明された*16。同時期の『文学新聞』には、カティンに関するポーランドの新聞記事が紹介された*17。
五月五日の共産党政治局会議でゴルバチョフのポーランド訪問へ向けた討論がなされたとき、秘密議定書については多様な立場が表明されたものの、明確な結論には至らなかった*18。カティンについては正規の議題から外されたようだが*19、とりあえずの対応として、ポーランド人のカティン訪問手続きを簡素化することが取り決められた*20。そのことと関係して、それまでカティンにあった記念碑(一九八三年)が「ヒトラー・ファシズムの犠牲者」という文言を含み、一九四一年を没年としていたのを、没年も殺害者も示さないものに取り換えることとなった*21。
五月段階の政治局会議がこのようなものだったため、七月にポーランドを訪問したゴルバチョフは、秘密議定書についてもカティンについても沈黙を守って、ポーランド人を落胆させた。しかし、ポーランド知識人との会見に関するパンフレットが一〇月に刊行されたとき、ゴルバチョフは長大なあとがきを寄せて、多少踏み出す態度を示した。秘密議定書問題については、その原本は見つかっておらず、出回っているコピーの信憑性は疑わしいと述べながらも、一九三九年九月二八日の独ソ善隣条約は政治的誤りだと述べ、またカティンについては、多くのポーランド人はこれをスターリンとベリヤの仕業と信じていると述べ、更なる調査の必要を語った*22。これはどちらの論点についても中途半端な言及ながら、とにかくも触れたということ自体が一定の意味をもった。この後、ポーランド人旅行者のカティン訪問手続きの簡略化を進め、カティンの土を骨壺に入れた「象徴的遺灰」をワルシャワに送るなどといったポーランドからの要請にソ連側が応じたのは(後注28)、中途半端ながらも最初の取り組みという意味をもった。
以上に見たように、一九八八年頃までのソ連のカティン問題への取り組みは遅ればせ、かつ中途半端なものにとどまっていた。当時の政治指導部および官僚機構内での力関係を思えば無理からぬことと評価するか、指導部(ゴルバチョフ)自身が真実秘匿の政策をとっていたと見なすかは議論の分かれるところである。この時期にポーランドでは在野運動が高まって、政治的流動化が進行しつつあったという情勢も、ソ連指導部の判断に関係していたものと見られる。ゴルバチョフ個人の関与についてはいくつかの説がある。ボルディン説は、ゴルバチョフは早い時期から知っていながら知らないふりをしていたというものだが*23、チェルニャーエフはそれはありそうにないと書いている*24。ヤコヴレフの筆致は抑制的で、結論をあまり明確にしていない*25。この三人はいずれもゴルバチョフと非常に近い間柄にあったが、その関係はそれぞれに異なる。ボルディンは一九九一年八月クーデタ時にゴルバチョフに反逆する側に立ったことから、その記述には個人的悪意が含まれている可能性がある(だからといって、すべてが虚偽だと決めることもできないが)。チェルニャーエフは最期までゴルバチョフに忠誠を尽くしたが、ペレストロイカ末期には多くの論点に関してゴルバチョフに批判的になりつつあり、その回想および日記はゴルバチョフへの苛立ちをあらわにしているから、何が何でもゴルバチョフを擁護するという立場に立っていたわけではない。ヤコヴレフは政治的立場が高かった(政治局員にまでなった)ことから、発言には慎重を期しているものと思われる。
四
一九八九年は独ソ密約の五〇周年であり、東欧諸国では政治的激動が始まり、バルト諸国でも人民戦線の動きが活発化するという情勢の中で、ポーランド国内でもバルト諸共和国内でも、歴史問題の解明は猶予ならない課題と意識されるようになっていた。モスクワでもグラースノスチの拡大の中で、歴史問題への取り組みはペレストロイカ初期よりも一段と拡大しつつあった。なお、当時の公けの場での論争に即していうなら、独ソ密約とカティンという二大問題のうちでは前者の方に主要な関心が集まる傾向があった。この年がその五〇周年だったというだけでなく、カティンはポーランドだけの問題であるのに対し独ソ密約はソ連国内のバルト三国から強い公表要求があったという事情も作用していたと思われる。五月下旬に発表されたソ連=ポーランド関係史再検討に関するテーゼは、やや回りくどい表現ながら秘密議定書があったらしいことを認めたが、カティンについては触れなかった*26。五‐六月の第一回ソ連人民代議員大会で一九三九年問題調査委員会が設置され、夏‐秋の攻防を経て一二月の第二回大会で秘密議定書の存在が正式に認められたのは周知の通りである*27。これに比して、カティンの方はその陰に隠れる傾向があったが、後に明らかにされた情報によるなら、同じ時期にカティンについても内々に調査および検討が進んでいた。
一九八九年三月三一日の共産党政治局会議では、カティン問題に関する調査を検察、KGB、外務省、共産党中央委員会国家・法部、国際部、イデオロギー部に指示し、一ヶ月以内に報告するものとされ、またカティンから「象徴的遺灰」をワルシャワに運ぶというポーランド側からの要請に同意することが決定された*28。これに付随したファーリンの覚書(三月六日付)は、圧倒的多数のポーランド人はポーランド人将校の死はスターリンとベリヤのせいだと信じていること、両国の共同調査委員会ができてから一年半経ったが、ソヴェト側が公式見解に疑念を投げかける権限を与えられていないため、まだこのテーマに取り組むことができていないことを指摘し、ポーランド内政がカティン問題で更に紛糾するなら、〔ポーランドからソ連への〕仇討ちの口実として利用されるかもしれないと警告した*29。もう一つの付属文書として、シェヴァルナゼ、ファーリン、クリュチコフの覚書(三月二二日付)も、同様の懸念を表明して次のように述べた。長引けば長引くほど、これは躓きの石となる。ポーランドで進んでいるキャンペーンによれば、ソ連は当時のドイツに劣らず悪であり、あるいはむしろドイツ以上の悪だとされ、対ポーランド戦争の張本人とされている。われわれはポーランド政府およびポーランド世論に対して説明をしなくてはならない。時間を引き延ばすのは得策でない。むしろ事実を明らかにし、誰に責任があるかを語って、それで落着とした方がよい。そのことに伴うコストは、現在のような無為を続けるコストよりは小さくて済むだろう*30。
上記政治局指示を受けた検察、KGB、外務省、国家・法部、国際部、イデオロギー部からの覚書(四月二二日付)は、まだ結論を明確にしてはいないが、検察がKGBとともに徹底した調査を行なわなければならないとして、次のような趣旨の党中央委員会決定の草案を添付した。それによれば、検察とKGBはカティンにおける大量銃殺の事実に関する徹底した調査を行なうものとされ、内閣付属アルヒーフ総管理部、内務省、国防省、外務省は検察とKGBに資料探索について援助すること、報道機関は調査結果を公表することとされた*31。この中央委員会決定案が実際に採択されたかどうかは未確認だが、ちょうどこの頃から歴史家が重要資料を発掘しはじめたこと*32から考えて、政治的判断による機密解除がこの頃になされたものと考えられる。
ともかく、この頃から、ゾリャ、パルサダノヴァ、レーベヂェヴァ、ヤジュボロフスカヤといった歴史家たちは、カティン事件がソ連内務機関の仕業であることを推定させる内務省の関連文書を発見し、それに基づいた報告を秋頃にまとめた*33。この調査結果はスミルノフ(共同調査委員会のソ連側議長)や党国際部長ファーリンらを経て最高指導部に伝えられたものと思われる。
九月二八日の共産党政治局会議では、ポーランド情勢およびソ=ポ関係が議題に上った。これは、ポーランドで「連帯」系のマゾヴェツキ内閣が発足してからまもない時期というタイミングであり、新しい条件下でのポーランドとの関係を模索することが主要課題とされた。各種のルートでの友好関係維持が課題とされ、「連帯」やカトリック教会とも接触するという方針が示されているが、歴史問題への言及は議事録本文にはない*34。その代わり、付属文書(シェワルナゼ、ヤコヴレフ、ヤーゾフ、クリュチコフの覚書、九月二〇日付)では、「連帯」の立場の分析、統一労働者党の窮状等が述べられるなかで、「歴史の空白」とりわけカティン問題は統一労働者党政権時代よりも一層尖鋭なものとなっていると指摘された*35。
ゴルバチョフの補佐官をつとめていたシャフナザーロフは一一月五日付のゴルバチョフ宛て報告書で次のように述べた。〔カティン事件について〕われわれに責任があるということに疑念の余地はない。この問題はポーランド人にとって、心理的シンドロームの性格を帯びるに至っている。これはアルメニア人にとっての一九一五年虐殺のようなものだ。トルコがジェノサイドの事実を認めないことが、民族〔アルメニア人〕を激昂させている。同じことがカティンについても言える。ヤルゼルスキも含めてすべてのポーランド人が疑う余地のない事実と考えていることをわれわれの側も認めるなら、精神を安定させるだろう。一、二週間は大騒ぎがあるだろうが、その後はおさまるだろう。もちろん、「告白」の形態についてはよく考える必要がある*36。これは、そのタイミングからして、カティン問題に関する内部調査がかなり進んだ段階で、その公表をゴルバチョフに勧めたものと考えられる。
歴史家たちの調査結果を明確な形でまとめたのは、一九九〇年二月二二日付ファーリン覚書である。そこでは次のように述べられた。一連の歴史家たち(ゾリャ、パルサダノヴァ、レーベヂェヴァ)は、これまで知られていなかったカティン関係文書を発見した。約一万四〇〇〇人のポーランド人将校、警察職員、官吏等は一九四〇年一月に三つの収容所にいた。彼らは同年四‐五月に、三つの収容所から移送されたが、その後の記録はない。銃殺および埋葬に関する直接の証拠はないが、彼らの運命を追うことはできる。収容所にいた者の選択的データをドイツによる死体検案書で明らかにされた氏名と照合すると完全に合致しており、結びつきは明らかである。新しい文書に基づく資料は公表のために準備されており、六‐七月には印刷されるだろう。カティン五〇周年に向けて、われわれの立場をはっきりさせねばならない。ヤルゼルスキに次のように告げるのがよい。正確な日時や具体的な責任者の名を挙げる直接の証拠はないが、ブルデンコ委員会〔一九四四年にソ連公式見解を打ち出した機関〕の主張を疑わせるにたる証拠が出てきた。ポーランド人将校のカティンにおける銃殺は内務人民委員部、とりわけベリヤとメルクーロフによるものだと結論することができる。このことをどのように公表すべきか。政治的問題に決着を付け、激情の爆発を避けなければならないということを念頭におき、ポーランド大統領の助言が必要だ*37。
四月一三日――これはヤルゼルスキのモスクワ到着と同じ日――の党政治局会議では、ソ=ポ宣言のテキストが承認され、またゴルバチョフからヤルゼルスキに伝えるべき内容(「極秘」とされている)が承認された。その内容は次の通り。ヤルゼルスキに以下のように話すこと。長期間にわたる調査の結果、カティン事件が当時の内務人民委員部指導者たちによるものであることを物語る、間接的ながら十分に説得力ある証拠が見つかった。この発見がポーランドの友人たちに害を及ぼすことのないよう、またこの発表が圧力の結果と受け取られることのないよう、最大限を尽くすよう勧告する。われわれの書簡交換およびその両国の新聞への公表により、この問題は政治的に終了とすることができる。もちろん、新たに発見された資料に基づく研究は継続される*38。ソ連の仕業であったことを確認しつつ、その政治的影響を最小限に食い止めようとする志向が窺える。
これをうけて、同日にヤルゼルスキと会ったゴルバチョフは事件へのソ連の関与を公式に認め、最近発見された資料を手渡した。ゴルバチョフとヤルゼルスキの共同声明には、両国間関係の歴史における困難な要素に関する真実を徹底して回復するという文言が含まれた。同時に発表されたタス声明は「カティンの悲劇」に言及して、次のように述べた。一九三九年九月に抑留されたポーランド人将校に関する史料が最近アルヒーフで見つかった。発見された史料を総合すると、カティンの森における悪行にベリヤ、メルクーロフらが直接責任があったと結論できる。ソ連側はカティンの悲劇に深い遺憾の念を表明し、これはスターリニズムの重大な犯罪の一つだと声明する。発見された文書のコピーはポーランド側に引き渡される。文書探索は今後も継続される*39。すぐ続いて、ソ=ポ歴史問題共同調査委員会の共同議長二人へのインタヴューも掲載され、カティンはうずき続けている傷であり、真実こそがその治癒過程を始めることができると述べられた*40。
これを契機に、『国際生活』『モスクワ・ニュース』『軍事史雑誌』『近現代史』『新時代』といった紙誌は関連資料および解説を一斉に掲載した*41。このように各誌が競って関連記事を載せたのは、おそらく数ヶ月前から歴史家やジャーナリストたちによる準備が進行していて、政治指導部のゴーサインを見て一斉に掲載に踏み切ったものと思われる。
五
こうして一九九〇年春には、カティンをソ連の仕業と認め、遺憾の念を表明し、発見された資料をポーランド側に渡すという形で、一つの大きな山が越えられた。だが、これはすべての問題の解決ではなかった。一つには、この時点で発見された資料類は、ソ連内務機関の関与を想定させる状況証拠であり、共産党指導部による正式決定まで含んではいなかったから、この点については更なる調査が続けられることとなった。
もう一つの問題は、前項でも見たように、カティンの責任を認めることはポーランドの激情をかきたてて二国間関係を不安定化させるのではないかというソ連側の懸念にあった。真実を認めるのはよいとして、それが過剰な感情論の噴出につながるのを避けねばならないという意識はソ連指導部の対応の背後に一貫してつきまとっていたが、その懸念はこの時期のポーランド内政の新しい展開によって更に拍車をかけられることとなった。というのも、ポーランドでは前年の選挙の結果、共産党系のヤルゼルスキ大統領と「連帯」系のマゾヴェツキ首相という組み合わせ(フランス風にいうなら「コアビタシオン」体制)が成立していたが、その直後から「連帯」系勢力内での亀裂――特にマゾヴェツキ首相らとヴァウェンサ(ワレサ)らの開き――が大きくなり、それに伴ってヤルゼルスキ大統領の地位も不安定化していたからである。四月のヤルゼルスキ訪ソ時にゴルバチョフがカティンに関して遺憾の意を表明し、関連資料を渡したのはヤルゼルスキへの梃子入れという意味もあったものと思われる。しかし、これは両国間の完全な和解にはつながらず、カティンをめぐる対立はその後も長くくすぶり続けることになる。
四月から七月にかけての時期のソ連共産党国際部のポーランド情勢分析によれば、広義「連帯」系勢力のうちマゾヴェツキやゲレメクのグループは社会民主主義に近い漸進路線で、ヤルゼルスキ大統領との協力およびソ連との友好関係を維持しようとしており、カトリック教会首脳もこれに同調しているのに対し、ヴァウェンサのグループ(双子のカチンスキ兄弟を含む)はよりラディカルな断絶を要求し、ヤルゼルスキの大統領辞任を求めていると観察された*42。後者の動きが優勢となりつつあることは、ソ連側の懸念を深める要因となった。
こうした情勢下でヤコヴレフとシェワルナゼの共同覚書(五月二九日付で提出、六月四日に党中央委員会で承認)は次のように述べた。ソ=ポ両国関係に影を落としていた一九三九年独ソ秘密議定書およびカティンを認めたことで、この二大問題は解決された。ポーランド側はここ数年来、われわれへの圧力の方法を身につけ、今や、新しい要求を突きつけている。その中には馬鹿げたものもあり、全体として受け入れられない。一九八九年一〇月にポーランド外相は、スターリン時代に被害を受けたポーランド人(およそ二〇‐二五万人)に対する損害賠償五〇‐七〇億ルーブリ要求の問題を提起した。今年四月末にポーランド議会が採択したカティンに関する特別決議は、犠牲者の遺族への補償をソ連政府が検討することが望ましいとしている。こうした要求の狙いは、ポーランドのソ連への債務五三億ルーブリを帳消しにすることだ。そのことはポーランド紙も暴いている。四月末には、ソ連に保存されているポーランド文化財の返還要求が出された。これはソ連によるポーランド領土奪取(一九三九年)と結びつけられている。それをいうなら、ウクライナ、白ロシア、ロシアの文化遺産がポーランドに持ち去られたし、ポーランドのドイツからの解放に際してソ連は莫大な犠牲を払った。一九二〇年の戦争時の被害もあるし、一九四四‐四五年に多くのソヴェト兵士がポーランド反動派の手で殺された。ポーランドがウクライナと白ロシアに与えた被害だけでも〔つまりロシアの分を除いても〕、ポーランドのソ連への要求の数倍にも上る。提案として、ソ連最高会議国際問題委員会でこの問題を審議し、ポーランドへの回答を作成する。その際、相互に要求を突きつけあうことは民族意識を刺激しやすいことに留意し、文化財の問題は相互了解と等価交換の基礎で解決することができる。もしポーランド側がこうしたアプローチをとる用意がない場合には、ポーランドの要求に根拠がないことを示す事実をソヴェト世論に広めなければならない*43。ヤコヴレフとシェワルナゼは通常、当時のソ連指導部内で最も「改革派」的と見なされている人物だが、その彼らも、ポーランドからの過剰な要求の可能性に対して神経をとがらせていたことが窺える。
ポーランドではヤルゼルスキへの攻勢が更に強まり、九月には彼が退陣を表明したため、新たな大統領選挙が一一月下旬に行なわれることになった*44。この選挙を間近に控えた一一月三日付けで作成されたゴルバチョフの大統領命令(распоряжение, 当時非公表)はポーランド外相スクビシェフスキ来訪を総括して、新しいソ=ポ関係の方向性を模索した文書である。この文書は新しい条約関係の必要性、ポーランドからのソ連軍撤退、経済関係、文化・学術協力、ソ連内に住むポーランド人の民族文化・言語に関する状況改善措置などといった幅広い問題を取り上げたが、その第八項でカティンに関する調査の促進を指示し、第九項では二国間関係のうちソ連側が損害を被った側面に関する資料調査――これは必要な場合にはポーランドとの「歴史の空白」に関する交渉で役立てられるかもしれないとされた――が指示された*45。
後のポーランドでは、この文書の第九項が特にクローズアップされ、これはカティンを相対化させるための「アンティ・カティン」だとさえ言われるようになった*46。もっとも、これまで知られている限りでは、この第九項が特に大きな効果を発揮した形跡は確認できず、むしろ第八項に基づく調査継続を物語る資料がいくつかある。一九九一年一月二二日付のトルビン検事総長からゴルバチョフへの情報は、まだ最終結果は出ていないとしつつ、カティンに関する調査の継続について書いている*47。五月一七日付のトルビンのゴルバチョフ宛て情報は、暫定的結論として、ポーランドの捕虜たちは一九四〇年四‐五月に内務人民委員部特別会議の決定に基づいて銃殺されたものと想定されるとし、そのことを確定的に裏付ける文書があるとの情報もあるので、更なるアルヒーフ調査を委託してほしいとしている*48。そして、八月政変後の九月三日に軍検察からゴルバチョフに出された情報は、八月一九日〔クーデタの日〕にソ=ポ共同調査作業を止めさせるようにという圧力がかかったが、軍検察は調査作業を続けたとしている*49。
このように、ソ連検察による調査作業は一九九一年の遅い時期まで進行中だったが、その作業が完成しないうちにソ連解体が訪れ、この課題はロシア政権に引き継がれることとなった*50。
六
一九九二年以降のエリツィン・ロシア政権は、一面ではゴルバチョフ・ソ連政権が完遂し得なかった歴史解明作業を引き継いだが、他面では、ソ連共産党およびゴルバチョフ個人への攻撃の一環として歴史問題を利用するという二面的な性格があった。そのことを象徴するのは、エリツィンによる共産党非合法化大統領令(一九九一年一一月六日)の合憲性をめぐる裁判闘争である。政党の活動禁止という事項を司法手続きでなく大統領令で決定するという手法は違憲ではないかとする憲法裁判所への提訴に対抗して、エリツィン陣営はそもそも共産党の存在と活動が非立憲的なものだったと主張し、そのことを立証するために、共産党中央委員会の秘密文書のうちから特にその犯罪性を示すと見なされる一連の資料を裁判資料として提出した*51。本稿でもこれまで重要資料として利用してきたРГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89がそれに当たる。この文書群は、そうした目的のために提出されたものであるため、膨大な原文書のうちから恣意的に抜き出されたのではないかとの疑念はぬぐいがたい。そのような政治性についての留保は不可欠だが、とにかく公表された資料自体は貴重なものである。一九三九年の独ソ不可侵条約付属秘密議定書の原本やカティンに関する重要決定もこの中に含まれており、一九九二年一〇月に、エリツィンの特使(ロシア政府のアルヒーフ管轄委員会議長ピホヤ)からヴァウェンサに引き渡された*52。
この資料群のうち、カティンに関わる最重要のものは、一九四〇年三月五日にベリヤがスターリンに提出した覚書およびそれに基づく同日付の共産党中央委員会決定である*53。これは『歴史の諸問題』一九九三年第一号および『ロシア軍事アルヒーフ』一九九三年第一号に掲載されて、広く知れ渡ることとなった*54。一九九〇年段階で明らかにされた資料は、カティンでポーランド人将校たちを殺したのはナチ・ドイツではなくソ連の内務機関だということを状況証拠的に示すものだったのに対し、今回の新資料ははっきりと銃殺刑に言及し、しかもそれを共産党政治局が承認した(スターリン、ミコヤン、ヴォロシーロフの手書きサインもある)という直接証拠である。
政治責任の問題に関する限り、これでもって決定的な山を越えたということができ、カティン事件はナチ・ドイツの仕業ではなくソ連共産党指導部の指示に基づく内務機関の仕業だったという点は異論の余地なく確定した。その後もナチ・ドイツ犯行説を唱える人がいなくなったわけではないが、それは一部の極端な論者――日本でいえば「南京大虐殺は幻だった」とする説に該当するだろう――であり、公的な立場に立つ政治家や専門的な歴史家の間では、ソ連の仕業だということは確定済みとなった。
しかし、これでもってすべてが一件落着したわけではなく、その後も、ポーランドとロシアのあいだで種々の意見齟齬が続き、今日に至っている。
七
一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけての経過を追うのは別個の課題となる。私はこの時期の歴史にはあまり通じておらず、ここではごく大まかにいくつかの論点を挙げ、その背景事情について推測するにとどめる*55。
カティンがナチ・ドイツの仕業ではなくソ連共産党指導部の指示に基づく内務機関の仕業だったということは一九九〇‐九二年に確定したが、その後も、なお様々な情報開示および関連する諸問題の検討をめぐって議論が続き、両国間に捉え方の差異が続いているのはどういう事情によるのだろうか。私自身、あまり具体的に通じているわけではないので、論点の羅列にとどまるが、個々の犠牲者に関する詳しい情報の公表、被害者遺族への損害賠償、処刑に関与した個々人の名前の公表および刑事責任追及、そしてカティンに関して「ジェノサイド」規定をとるかどうかなどといった点が問題となっているように見受けられる。
それらの問題が論争的になる背景を考えるなら、歴史事実の確定と責任追及の問題が重なり合うという事情が大きな意味をもつ。その際、厄介なのは、ソ連国家の犯罪の責任を継承するのは誰かという問いへの回答が不確定だという問題である。ポーランドその他の諸国では、ロシアがソ連の責任を継承するのが当然だという感覚が一般的だが、ロシアの多くの人々の間では、カティンはソ連共産党の犯罪であり、その共産党体制を自ら倒したロシアは共産主義時代の犯罪の責任を負うべき立場にはないとする感覚が強い。ソ連共産党の指導部にはロシア人だけでなく、ウクライナ人、ユダヤ人、グルジア人、アルメニア人、ラトヴィア人、ポーランド人等々も含まれていたのに、どうしてロシア人ばかりが責任を負わねばならないのかという感覚である*56。エリツィンはカティンに関する重要文書をポーランドに渡した直後のポーランドのテレビ・インタヴューで、「ロシアはカティンの犯罪の責任を負うことはできない。あれを行なったのは共産党であり、全体主義体制だ」だと語った*57。ここには、「共産党」「全体主義体制」を現ロシア政権にとっての他者とする感覚が表出されている*58。
国家の責任とは相対的に別個に、処刑に携わった個人への刑事責任追及という問題もある。日本の東京裁判になぞらえていえば、A級戦犯に当たるのはスターリンやベリヤを筆頭とする共産党および治安機関の最高指導者たちだという点には異論がない。だが、彼らは既に死んでいるし、その悪行も暴き尽くされている。これに対し、処刑に関与した治安機関員たち――いわばBC級戦犯に当たる――の中にはまだ生きている人もいるかもしれないし、死後にではあれ、これまで知られていなかった罪状を暴くことが必要だという考えもありうる。他方、A級戦犯に比べるならその罪は相対的に軽いはずなのに、そこまで罪を問うのは酷ではないかという考えが当事者やその近親者にはある。いうまでもなく、前者はポーランドで強く、後者はロシアで強い(日本でも、A級戦犯は裁かれて当然だが、BC級戦犯への処遇は苛酷だったとする同情論がかなりあるのと類似しているかもしれない)*59。
この問題はジェノサイド認定問題とも関連する。関連するというのは、遠い過去の犯罪の多くについては時効が適用されるが、ジェノサイドなら時効はないという考えがあるためである(最近の日本のように、殺人罪そのものに時効を認めないことにすれば、話は別になるかもしれないが)。ここで問題となるのが、ジェノサイド概念をどう定義するかという論点である。現代史においては大規模な暴行が世界中のあちこちちで起きたが、それらをジェノサイドと認定するかどうかをめぐっては激しい論争がある。被害者の代弁者を自任する人たちの間では、自己の関わる事例をジェノサイドと認定すべきだという考えが強いが、それはこの概念をあまりにも拡張しすぎるのではないか、またそうした拡張解釈に基づく責任追及は諸国間の歴史論争を過熱化させ、それぞれの国の中での極端な民族主義を煽る結果になるのではないかとの疑問もある*60。カティンについていえば、長らく調査に携わってきたロシア最高軍事検察庁は、ジェノサイドとは認定できないし、被疑者も死亡しているという理由で、二〇〇四年に捜査を打ち切った*61。これに対して、ポーランドではそれは不当だという考えが根強いようである。
こうして、ロシアとポーランドの間では、種々の立場の違いが続いている。それでも、両国の歴史家たちの間では協力関係が維持され、何冊もの資料集が刊行されてきたのは注目に値する。こうした協力と対話の動きは、曲折をはらみながらも、比較的最近まで続いてきた。だが、ここ数年は、やや雲行きが変わっているように見受けられる。
八
二〇一〇年四月はカティン事件の七〇周年に当たったが、このときカティン現地で行なわれた記念の追悼式典には、ロシアのプーチン首相とポーランドのトゥスク首相がそろって出席した。ロシアの首脳が現地を訪れたことといい、両国首相がともに出席したことといい、これまでにないことであり、画期的な意味をもった。プーチンはこのとき、銃殺の真実の否定はありえない、ポーランドとロシアの善隣関係のために他の道はない、と発言した。
事態を複雑化させたのは、この式典がポーランド内政上の対立と絡んだことである。この時期、ポーランドの大統領は右派ナショナリスト政党「法と公正(法と正義)」のカチンスキ、首相は中道政党「市民政綱」のトゥスクという組み合わせだったが、両者の間には複雑な主導権争いがあった。そして、トゥスクがロシア側とともに式典に出席したのに対抗して、カチンスキは独自式典開催を企図し、現地に向かったが、その途上で飛行機が墜落し、大統領を含め多数の要人が死去するという惨事が起きた(「スモレンスクの悲劇」と呼ばれる)。
この惨事に際して、ロシア政府は直ちに追悼の意を表し、他のケースにはあまり見られないほどの丁重な態度をとることでポーランド政府との友好関係を維持した。三年前にカティンの映画を撮ったワイダには、ロシア政府から友好勲章が授与された。メドヴェーヂェフ大統領は一〇月の発言でスターリンの犯罪を改めて確認し、それをうけてロシア軍検察の資料がポーランド側に渡された。また一一月二六日には、ロシア下院がカティンの悲劇に関する声明を採択した。これまでのゴルバチョフやエリツィンによるカティンに関する発言はほとんどもっぱらポーランド向けのもので、ロシア世論への反響はあまりなかったのに対し、今回の下院声明はロシア社会へ向けて発信されるという意味をもったとされる*62。こうして、「スモレンスクの悲劇」の直後には、この惨事が両国間の対抗感情昂進につながるのを避けるべく、両国政府の間で和解と友好を目指す努力が強められたように見える。
しかし、この少し後から「法と公正(法と正義)」党(墜落死したカチンスキの双子の兄弟が党首)は、「スモレンスクの悲劇」は単なる事故ではなく、プーチンとトゥスクの合作による陰謀だというキャンペーンを展開しだした。この「陰謀」説は、それを信じる人と信じない人とにポーランド社会を引き裂き、それでなくてもデリケートだったポーランド=ロシア関係をこれまで以上に険悪にさせた。
二〇一四年になると、ウクライナ危機を契機とするロシア=ヨーロッパ関係の急激な悪化の中で、ポーランドはEU・NATOの東端に位置する国としてロシア封じ込めの前哨という位置を占めるようになった。もっとも、ポーランド政界内では「法と公正」が非妥協的な反ロシアであるのに対し、「市民政綱」の方はロシアを過度に追い詰めるべきでないという立場であり、国全体が一枚岩になったわけではなかった。
その後、二〇一五年には大統領選挙と議会選挙の双方で「法と公正」が勝利した。「市民政綱」の下野、そして社会民主主義勢力の壊滅的敗北という情勢の中で、優位に立った同党は、急速に権威主義的な統治スタイルに傾斜しだした*63。この政権は非リベラルで権威主義的な統治手法という面ではロシアのプーチン――あるいはまた、ハンガリーのオルバーン――と似たところがあり、その限りでは一種の「神聖同盟」が結ばれてもおかしくないという考え方もありうるが、長らく非妥協的に反ロシアを看板としてきた同党が一挙に親露に転じることは考えにくく、今のところ両国関係は極度に冷え込んでいるように見受けられる(ごく最近になって変化の兆しがあるとの情報もあるが、つまびらかにしない)。
ロシアの側では、二〇一七年四月(カティン事件記念日の直前)に、半ば公的な団体が、一九二〇年のソ=ポ戦争でポーランドの捕虜となった赤軍兵士を追悼する記念碑をカティンに建てた。犠牲を出したのはポーランド側だけではないという議論が出されたのはこれが初めてではないが、今回の記念碑は特に大規模なもので、場所およびタイミングからして、カティンに対抗する意味をもつかのようであり、歴史をめぐる政治論争をさらに刺激する契機となった模様である*64。こうして、一時期進むかに見えた歴史をめぐるポーランド=ロシア間の和解と対話は、ここへきて再び強い対抗の昂進へと転じたように見える。
九
振り返って考えるなら、カティンはポーランド=ソ連関係およびポーランド=ロシア関係における「喉に刺さったトゲ」であり続けた。そのトゲを注意深く取り扱いながら和解を達成しようとする試みは、種々の紆余曲折や一進一退を含む苦難な過程ながらも、とにかくもここ三〇年ほどの間に少しずつ積み重ねられてきた。ゴルバチョフ期の一九九〇年、エリツィン期の一九九二年、プーチン=メドヴェーヂェフ期の二〇一〇年は、それぞれの政権の時期における象徴的な節目をなした。しかし、ここ数年の状況は、これまでの和解のプロセスを全面的にひっくり返すとまではいかないまでも、極度に冷たい状況を生み出しているように見える。
このような歴史を身をもって生き抜いた映画監督ワイダは、本稿冒頭で見たように、自分自身がカティンの犠牲者の子であり、長年の労苦の末に、二〇〇七年に『カティンの森』を製作した。この作品はソ連内務機関の残虐を克明に暴いたが、同時に、これを反ロシア宣伝の道具にしてはならないというメッセージも込められており、おそらくそれを理解したロシア政府から友好勲章を授与された。これに比して、遺作となった『残像』(二〇一六年)は、スターリン期ポーランドの閉塞状況を極度に暗い色調で描いた作品だが、それだけにはとどまらないかもしれないと感じさせる暗示的な細部を含みつつも、その含意については黙示的で、見る人の解釈に委ねるというスタイルをとっている*65。「法と公正」政権下のポーランド社会の状況がここにどのように反映しているのかも、ただ想像するしかない。
推測になるが、おそらくワイダが期待したのは、一方的なロシア非難でもなければ、政治的思惑による便宜的妥協でもなく、悲劇を正面から見つめることを通した相互の和解と対話だったのではないだろうか。それは二〇〇七‐一〇年頃にはいったん実現に近づいたかにみえたが、ここ数年はまたしても遠のいたように見える。いつの日か、今度こそ実現することがあるのだろうか。これは日本と韓国の歴史問題をめぐる和解と対話が何度となく試みられては挫折を繰り返し、今なお解決の糸口を見出しかねているわれわれにとって他人事ではない*66。
(二〇一六年一〇月‐二〇一七年八月)
【追記】
本文の五および八で、一九二〇年のポ=ソ戦争期にポーランドの収容所でソヴェト側捕虜が多数死亡した出来事をカティンへの対抗宣伝の手段として取りあげる傾向に触れた。初稿執筆後、この問題については、Алексей Памятных. Пленные красноармейцы в польских лагерях //Новая Польша, 10, 2005およびVera Tolz, "Modern Russian Memory of the Great War, 1914-20," in Lohr, E., Tolz, V., Semyonov, A. & von Hagen, Mark (eds.), The Empire and Nationalism at War, Bloomington, In.: Slavica Press, 2014が取り上げていることを知った。いずれもロシアの一部の論者がこの問題を政治的に利用して、誇張した議論を展開していることを指摘しているが、同時に、ポーランド・ロシア両国の歴史家と文書館関係者が協力して詳細な資料集を編纂した(Красноармейцы в польском плену в 1919-1922 гг. Сб. документов и материалов. М.-СПб., 2004、筆者未見)という事実も紹介している。こうした地道な努力の積み重ねと政治的論争過熱化の関係が気になるところである。(二〇一九年二月の付記)。
これまで見落としていたが、ファーリンの回想(一九九九年)によれば、一九二〇年のポ=ソ戦争期にポーランドの収容所でソヴェト側捕虜が多数死亡した出来事についても解明すべきだという提案は一九九〇年に始まるものではなく、もっと早い時期にさかのぼる。В. М. Фалин. Без скидок на обстоятельства. Политические воспоминания. М., 1999, c. 371, 404.その意味でも、一九九〇年一一月のゴルバチョフ大統領命令を出発点とする見解はこの文書を過大評価していたことになる。(二〇一九年一一月の付記)。
*1 Московские новости, 2007, 37 (21-27 сентября), с. 42-43.
*2 Thomas S. Szayna, "Addressing 'Blank Spots' in Polish-Soviet Relations," Problems of Communism, vol. 37, no. 6 (November-December 1988), p. 50.
*3 Г. Х. Шахназаров. Цена свободы. Реформация Горбачева глазами его помощника. М., 1993, с. 117.
*4 カティン問題に関して日本語で読める手っ取り早い文献として、V・ザスラフスキー『カチンの森』みすず書房、二〇一〇年がある。この本はいくつかの重要資料を紹介しており、そうした資料にたどり着く上での手がかりとして便利だが、そのうちのいくつかに実地に当たってみたところ、資料の解釈および操作にやや雑なところがあり、ところによっては誤訳もあったりして、安心して依拠できるものではないとの感想をいだかされた。この小文は、そうした点に関する私なりの検証作業から生まれたものである。とはいえ、まだまだ中途半端な段階にとどまっていることも断わっておかねばならない。
*5 一例として、チェルニャーエフの回想もこの噂に簡単に触れている。A. Черняев. Шесть лет с Горбачевым. M., 1993, с. 173(チェルニャーエフ『ゴルバチョフと運命をともにした2000日』潮出版社、一九九四年では省略されている)。
*6 И. С. Яжборовская, А. Ю. Яблоков, В. С. Парсаданова. Катынский синдром в советско-польских и российско-польских отошенях. М., 2001, c. 202-204.(この文献には二〇〇九年版もあり、頁数が異なるが、ここでは二〇〇一年版による)。著者たちがこの個所で主要な典拠としているのは、ソ連共産党中央委員会でポーランド問題を担当していたコスチコフの回想(ポーランド語)である。
*7 Там же, с. 205.
*8 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 13-15.この一件書類番号(д. 1-20)はいささか奇異な印象を与えるが、マイクロフィルム版ではこのように表示されており、リスト数はこのд. 1-20の中での通し番号となっている。冊子体の目録(Архивы Кремля и старой площади. Документы по "делу КПСС". Новосибирск, 1995)ではд. 1からд. 20までがそれぞれ別々の一件書類とされているが、本稿はマイクロフィルム版に依拠した。同じ資料は、『歴史の諸問題』一九九三年第一号および『ロシア軍事アルヒーフ』一九九三年第一号に公表され(Вопросы истории, 1993, 1, с. 20-22; Военные архивы России, 1993, 1, с. 127-129)、その後、他の複数の文書集にも収録された。なお、この文書には一九六五年月三月九日と一九五九年三月三日という二通りの日付が付けられているが、一九五九年が元来の日付で、一九六五年というのは後に文書館への照会があったときの日付だと考えられる。
*9 Военные архивы России, 1993, 1, с. 129; Катынский синдром, c. 203.
*10 ペレストロイカ期の政治指導部内でカティン問題についてどのような態度がとられ、どのような駆け引きがあったかについては、アレクサンドル・ヤコヴレフ、ヴァディム・メドヴェーヂェフ、ボルディン、チェルニャーエフ、シャフナザーロフ、ファーリン、ゲオルギー・スミルノフ、カプト等々(同じ姓の有名人が複数いる場合に限りファースト・ネームを記した)、多くの人がそれぞれに異なった観点からの回想を残している。本来なら、それらを丹念に照合して各人のバイアスを測定しつつ、相対的に確度の高い像を描きだす作業が必要だが、それには長い時間と根気が必要とされる。『カティン・シンドローム』はこれらに言及しつつ、かなり詳しい叙述をしているが、話が前後していたり、ところどころ不正確な記述があったりして、全面的に依拠することはできない。以下では、同書と他の諸文献とを可能な範囲でつきあわせることを試みたが、これ自体まだ多くの点で不十分な作業だということを断わっておく。
*11 Катынский синдром, c. 228.
*12 В Политбюро ЦК КПСС....По записям Анатолия Черняева, Вадима Медведева, Георгия Шахназарова (1985-1991). М., 2006, с. 69.(この文献は同じ年に出た初版でもハードカバーとソフトカバーとで頁数が異なり、二〇〇八年の第二版も異なるが、ここでは初版のハードカバーによる)。
*13 一九八九年一二月に独ソ不可侵条約秘密議定書の存在が公式に認められたときの外務次官の説明。Известия, 27 декабря 1989 г., с. 5 (A. Г. Ковалев).当時、調査委員会の事務方を務めていたアレクサンドロフの回想も参照。В. А. Александров. Сговор Сталина и Гитлера в 1939 году -- мина, взоровавшаяся через полвека //Вопросы истории, 1999, 8, c. 74-78.
*14 Правда, 12 марта 1988 г., с. 4.「抑留」という言い方をしているのは、ソ連とポーランドが正式に戦争を行なったわけではなく、「捕虜」という言葉が当てはまらないという考えによる。なお、スミルノフはこのとき、一九三九年秋のモロトフ発言(戦間期ポーランド国家への侮蔑的発言)にも触れているが、それほど踏み込んではいない。
*15 Szayna, "Addressing 'Blank Spots' in Polish-Soviet Relations," pp. 51-53.
*16 Правда, 22 марта 1988 г., с. 5 (О. Лосота).
*17 Литературная газета, 1988, 13 (30 марта), с. 9.
*18 В Политбюро ЦК, с. 343-344.秘密議定書の存在を認めるべきだとする議論と消極論の双方が出されているが、ゴルバチョフ自身の発言は記録されていない。この問題については別途論じる予定。
*19 Вопросы истории, 1999, 8, c. 75-78 (В. А. Александров); Катынский синдром, c. 262.
*20 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 31-34(配列が乱れており、31, 34, 33, 32の順に読む必要がある); Военные архивы России, 1993, 1, с. 145-147.なお、このとき、ポーランド人将校たちの記念碑と並んで、後にヒトラー派によって殺されて同じ場所に埋葬されたソ連人捕虜たちの記念碑も立てることも提案された。
*21 Катынский синдром, c. 262-263, 275.
*22 М. С. Горбачев. Собрание сочинений. т. 11, М., 2009, с. 376. この間の経緯について、Szayna, "Addressing 'Blank Spots' in Polish-Soviet Relations," pp. 56-57も参照。
*23 В. И. Болдин. Крушение пьедестала. М., 1995, c. 257-258.
*24 Черняев. Шесть лет с Горбачевым, с. 174(邦訳書では省略されている)。
*25 А. Н. Яковлев. К читателю. //Катынь. Пленники необъявленной войны. М., 1997, c. 5-6.
*26 Правда, 25 мая 1989 г., с. 4.
*27 秘密議定書問題については膨大な関連情報があるが、ここでは立ち入らない。他日を期す。
*28 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, л. 40; Военные архивы России, 1993, 1, c. 156.
*29 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 41-43; Военные архивы России, 1993, 1, c. 152-153.
*30 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 44-46; Военные архивы России, 1993, 1, c. 154-155.
*31 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 47-48; Военные архивы России, 1993, 1, c. 157-158.なお、この提案は四月二七‐二八日にヤルゼルスキの訪ソが迫っているのを見据えて提起されたもの。
*32 歴史家のゾリャによれば、重要資料が見つかったのは一九八九年六月とされている。Военно-исторический журнал, 1990, 6, с. 47.他方、ゴルバチョフ著作集第一一巻の編注には、カティンの悲劇における内務人民委員部の役割を物語る文書が一九八九年春に発見されたとある。Горбачев. Собрание сочинений. т. 11, М., 2009, с. 557.
*33 これらの歴史家のうちレーベヂェヴァはその後、一連の関連著作を発表して有名になった。しかし、『カティン・シンドローム』の著者たちは、レーベヂェヴァは肝心の資料発掘に貢献しなかったにもかかわらず、その功績を独り占めしようとしたと非難している。Катынский синдром, c. 298-299.詳細は不明だが、外観的に近いように見える歴史家たちの間の関係もなかなか複雑なようである。
*34 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 9, д. 33, лл. 1-5.
*35 Там же, лл. 6-15(カティンへの言及はл. 10)
*36 Архив Горбачев-фонда, ф. 5, oп. 1, 18234, лл. 3-4; Шахназаров. Цена свободы, с. 432.
*37 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 49-52; Военные архивы России, 1993, 1, c. 162-164.
*38 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 9, д. 116, л. 1; ф. 89, оп. 9, д. 115, лл. 1-2.
*39 Известия, 13 апреля 1990 г., с. 4; 14 апреля 1990 г., с. 1, 4.ゴルバチョフがヤルゼルスキに資料を手渡しているシーンの大きな写真も載っている。
*40 Известия, 14 апреля 1990 г., с. 5.
*41 Н. Лебедева. О трагедии в Катыни. //Международная жизнь, 1990, 5, с. 112-130; Катынская трагедия.// Московские новости, 1990, 12 (25 марта), с. 8-9; И еще раз о Катыне.//Московские новости, 1990, 18 (6 мая), с. 6; Нюрнбергский бумеранг. //Военно-исторический журнал, 1990, 6, с. 47-57; В. С. Парсаданова. К историю Катынского дело. //Новая и новейшая история, 1990, 3 (май-июнь), с. 19-36; В. Парсаданова и Ю. Зоря. Катынь. Документы. Свидетельства. Версии. //Новое время, 1990, 16, с. 34-39.
*42 Конец эпохи. СССР и революции в странах Восточной Европы в 1989-1991 гг. Документы. М., 2015, c. 324-326, 327-328, 331-333.ここで言及されている双子のカチンスキ兄弟は、後に「法と公正(法と正義)」という政党を率いて、ポーランド政治に大きな役割を果たすことになる(後述参照)。
*43 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 8, д. 74, лл. 1-6.
*44 第一回投票は一一月二五日。大方の予想では、ヴァウェンサとマゾヴェツキの争いとなるものと見られていたが、少し前まで無名だったアメリカ帰りのティミンスキがマゾヴェツキをしのいで第二位に付け、決選投票に残った。一二月九日の決選投票で当選したヴァウェンサは前任者のヤルゼルスキからではなくロンドン亡命政権から政権を引き継ぐという儀式を行なった。このことは、マゾヴェツキの不振と並んで、ポーランドがソ連から完全に離反する姿勢を意味するものと受け取られ、ソ連の対ポーランド不信を強めた。
*45 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 53-55; Военные архивы России, 1993, 1, c. 168-170.
*46 ズザンナ・ボグミウ「二〇世紀の困難な過去をめぐるポーランド人とその隣人たちのの対立と対話」橋本伸也編『紛争化させられる過去――アジアとヨーロッパにおける歴史の政治化』岩波書店、二〇一八年、一四一頁、И. С. Яжборовская. Катынское дело на пути к правде. //Вопросы истории, 2011, 5, с. 25参照。
*47 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 56-58; Военные архивы России, 1993, 1, c. 159-161.
*48 Военные архивы России, 1993, 1, c. 165-167.この資料は、РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89にはない。
*49 Военные архивы России, 1993, 1, c. 171-173.この資料は、РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89にはない。
*50 本来ならこの後の検察の動向も検討すべきだが、力およばず、本稿では立ち入ることができない。
*51 なお、憲法裁判所の判決は、共産党は政党ではなく国家機関だったので、その解散を命じたエリツィンの大統領令は合憲、但し、地域別の初級党組織については国家機関ではなかったので、大統領令のその部分は違憲という中間的なものとなった(一九九二年一一月)。この判決をうけて、地域別組織を基礎に再建されたのがロシア連邦共産党である。
*52 Известия, 15 октября 1992 г., с. 1, 5.この記事は、問題の秘密資料をゴルバチョフも知っていたはずなのに隠していたと非難している。これに対するゴルバチョフの説明は、 Независимая газета, 16 октября 1992 г., с. 2; Горбачев. Жизнь и реформы, кн. 2, с. 348-349;『ゴルバチョフ回想録』下、四一一‐四一三頁。関連するボルディン、ヤコヴレフ、チェルニャーエフらの証言は前注23・24・25。
*53 РГАНИ (бывш. ЦХСД), ф. 89, оп. 14, д. 1-20, лл. 5-12.なお、中央委員会総会決定と異なり、ただ「中央委員会決定」とされている文書は実際には政治局決定である。
*54 Вопросы истории, 1993, 1, с. 17-19; Военные архивы России, 1993, 1, с. 123-126.両誌ともその他に、前述の一九五九年シェレーピン覚書や独ソ不可侵条約秘密議定書の原本をも掲載した。
*55 この問題については、ボグミウ、前掲論文、橋本伸也「過去の政治化と国家間「歴史対話」――ロシアと周辺諸国との二国間歴史委員会の事例から」橋本編『紛争化させられる過去』所収、岡野詩子「カティンの森事件のもうひとつの側面――「政治の道具」としての歴史の空白」『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第三〇号(二〇一〇年一一月)、同「カティンの森事件に関する公開文書から見る歴史認識共有への課題」『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第三四号(二〇一二年一一月)などを参照。
*56塩川伸明「歴史・記憶紛争の歴史化のために――東アジアとヨーロッパ」橋本編『紛争化させられる過去』三〇四‐三〇七、三一〇‐三一三頁参照。
*57 Вопросы истории, 2011, 5, с. 27 (И. С. Яжборовская).
*58 前注の文献の続く個所によれば、これをうけて両国大統領はポーランドはロシアに対していかなる物質的要求も出さないことで合意したという。
*59 別の事例として、橋本伸也『記憶の政治』岩波書店、二〇一六年、第四章で扱われているコーノノフ裁判や、映画『イーダ』のモデルとなったブルス夫人――戦後初期に「赤い検事」だったことの罪が問われ、体制転換後のポーランド政府によりイギリスに身柄引き渡し請求がなされた――などのケースが挙げられる。
*60 さしあたり、塩川『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎 、二〇一一年、第T部、および「歴史・記憶紛争の歴史化のために」を参照。
*61 Вопросы истории, 2011, 5, с. 29 (И. С. Яжборовская).
*62 Там же, с. 32 .
*63 小森田秋夫「欧州を驚かすポーランドの政変」『ロシア・ユーラシアの経済と社会』二〇一六年三月号、同「議会多数派が立憲主義を踏みにじるとき」『神奈川大学評論』第八三号、二〇一六年、仙石学「ポーランド政治の変容――リベラルからポピュリズムへ?」『西南学院大学法学論集』第四九号第二・三合併号、二〇一七年二月参照。なお、ポーランドの社会民主主義勢力――親ロシア的というわけではないが、とにかくロシアを過度に追い詰めることには反対という立場――は二〇一五年選挙で大敗し、国会での議席を完全に失った。イェジ・J・ヴィアトル「選択に直面する選挙後の左翼」1・2『ロシア・ユーラシアの経済と社会』二〇一七年三月号、四月号参照。
*64 А Э. Гурьянов. О попытке российских ведомств опрадать Катынь. (http://istorex.ru/page/guryanov_ae_o_popitke_rossiskikh_vedomstv_opradat_katin). 富田武氏の御教示による。
*65 別稿「ワイダの映画『残像』を見て」(本稿と同じく塩川伸明ホームページの「最近のノート」欄に収録)参照。
*66 浅野豊美・小倉紀蔵・西成彦編『対話のために――「帝国の慰安婦」という問いをひらく』クレイン、二〇一七年参照。