《書評》和田春樹『ロシア革命――ペトログラード、1917年2月』
塩川伸明
和田春樹の大著『ロシア革命――ペトログラード、1917年2月』(作品社、二〇一八年)が出てからもう数ヶ月の時間が過ぎた。早く読まねばと思いつつ、なかなか思うに任せない日々が続いていたが、このほどようやく何とか読み上げた。私自身は一九一七年の一連の出来事を自分の専門研究の対象としていないため、細部にわたる精細な記述をどこまで読みこなせたか心許ないところがあるが、長年にわたって私の恩師・戦友・論敵であり続けてきた著者へのささやかな感謝の念を込めて、いくつかの感想を書き記しておきたい。なお、私は本書を著者から恵贈していただいた直後の時点で、「読む前の予感」のようなものをフェイスブック上に書き込み、その予感が「どの程度当たっているか外れているかを検証するつもりで読むことにしたい」と書いた。読み終えてから振り返ってみると、当初の予感自体はそれほど外れていなかったように思うが、当然ながら、読んでみないと分からない要素が多々あった。そこで、その「予感」はこの小文の末尾に付録として収めることとし、それにとどまらない感想について書いてみたい。
一 旧論文と新著の関係
周知のように、和田は本書と同じテーマに関する重厚な長編論文を一九六八年に発表した*1。今から半世紀前のことである。今回の新著は旧論文を出発点としつつ、その後の長期にわたる史料調査を踏まえて、何倍にも膨らませて書かれた大幅増補新版という性格を帯びている。そこで気になるのは、旧論文と新著はどこがどのように異なるのかという点である。各所で大幅な補強が施されていることはいうまでもない。旧論文よりも膨らまされた個所を逐一跡づけることはできないが、さしあたり目につく点としては、ラスプーチン暗殺をめぐる経緯およびグチコフらの「軍事クーデター」路線の説明が詳しくなっていること、また旧論文では紙幅の制約で割愛された臨時政府の成立と皇帝退位の過程が詳述されていることなどが挙げられる。
他方、左翼自由主義者の動きの重視、それと関係したフリーメーソンへの注目、革命の発端を旧来の通説のように二月二三日(旧暦、以下同じ)におくのではなく一四日にまでさかのぼらせること、またソヴィエトの結成に際してボリシェヴィキは立ち遅れていたという指摘などは旧論文で既に打ち出されていたものであり、とりたてて新見解というわけではない。もっとも、これらの点は、和田の教えを受けてロシア近現代史研究に携わってきた人たち――私自身を含む――には以前から馴染み深かったにしても、多くの非専門家読者にとっては今でも斬新な見解と受け取られるだろう。それはそれでよいが、とにかく和田の研究歴に即して考える限り、これらの点は新見解というよりも、かねてからの持論の再確認および補強という性格が濃いといってよいように思われる。
そうだとすると、今回の新著は個々の点での新しさと圧倒的な詳しさをもつ一方、大きな骨格としてはほぼ旧論文を踏襲しているということになりそうである。ごく大まかにはそう言ってよさそうな気がするが、いくつかの点で目立つ変化がないわけではない。特に私の目を引きつけたのは、革命の路線に関する概念的な特徴づけのような言葉が各所に出てくることである。その代表が「ブルジョア市民(の)革命」という特異な言葉である。この言葉は旧論文では使われた形跡がない*2。そして、この「ブルジョア市民(の)革命」が一方における「軍事クーデター路線」、他方における「労働者兵士の革命」と対比される形で革命の経緯が整理されている(一五、一六、一三一、三九二‐三九三、四四五、四九三頁など)。このような論じ方は旧論文の枠組みを変更するものではなく、それをより明快に整理するための工夫であるように思われる。もっとも、これらの用語はあちこちで使われてはいるものの、その中身に関する突っ込んだ説明はなく、これをどう理解すべきかはなかなか難しい。以下、この問題について多少立ち入って考えてみたい。
二 「ブルジョア市民(の)革命」という概念
先ず、最も中心的な位置を占める「ブルジョア市民(の)革命」について考えてみよう*3。この言葉は和田の旧論文で使われていなかったのみならず、私の知る限り、他の論者によって使われることもほとんどないように思われる(ロシア革命に限らず、他の種々の革命についても)。「ブルジョア革命」ならありふれた用語法だし、「市民革命」という言葉も多くの人によって使われてきた。この二つの概念がどういう関係にあるかについても様々な議論があった。では、和田はこの新奇な用語で何を意味しようとしているのだろうか。
論理的に言うなら、この表現には二通りの解釈がありうる。一つは、「ブルジョア」と「市民」は同じことであり、二つの単語を並べたのは単なる冗語法(強調のために敢えて同じ意味の言葉を重ねる)だという解釈である。もう一つは、「ブルジョア革命」と「市民革命」は無縁ではないがイコールでもない別々の概念であり、それらが一定の条件下で重なり合ったという解釈である。和田がそのどちらの意味でこの表現を使っているのかは、本書を読んだだけでは何とも言えず、いくつかの角度から推測してみるしかない。
先ず、外国語との対応について考えてみよう。ドイツ語のビュルガーリッヒという言葉を念頭におくなら、これは「ブルジョア的」とも「市民的」とも訳せるので、要するに同じ意味だという第一の解釈が当たっていそうに見える。しかし、ロシア語のブルジュアーズヌィとグラジュダンスキーは同じではないだろう(後者が「市民的」に当たる)。英語のブルジョアとシヴィルも同様である。とすると、主にロシア語で考える和田は、ここで「ブルジョア」と「市民」をいったん区別した上で、それらの結合を言おうとしているのだろうか。そうであるようにも思えるが、説明が欠けているために、確信を持つことができない。
具体的な代表者について考えてみるなら、真っ先に思い浮かぶのは、コノヴァーロフやリャブシンスキーに代表される左翼自由主義的な立場の資本家たちである。彼らは確かにある種の革命を志向したブルジョアジーと呼ぶことができるだろう。だが、それだけなら「ブルジョア革命」というだけで済むはずなのに、そこに「市民」と付け加えるのはどうしてかという疑問が浮かぶ*4。
ここで重要なのは、彼らとつながっていた戦時工業委員会労働者グループの存在、またトルドヴィキのケレンスキーやメンシェヴィキのチヘイゼ、スコベレフがフリーメーソンに属してコノヴァーロフとつながっていたという事実である。このように労働者の一部や社会主義者の一部とつながりをもっていたことは、この左翼自由主義路線の大きな特徴である。これは重要なポイントだが、だからといって「単なるブルジョア革命ではなく市民革命でもあった」とまで言えるかは、なおはっきりしない*5。
もう一つ考えなくてはならないのは、「市民」という言葉にどういう語感がこめられているのかという問題である。二〇世紀初頭のロシアにおける「グラジュダニン」と現代日本における「市民」とを単純に重ね合わせることはできないが、一九六八年論文でこの言葉を使わなかった和田が長期にわたる市民運動の経験を積んだ後にこの言葉を使うようになったのは、そこになにがしか現代的な意味での「市民」――社会や政治の問題について積極的な関心をいだき、そこに自主的・能動的に関わろうとする意欲を持つ人たちというようなニュアンス――を読み込もうとしているのではないかと推測したくなる。
この点に関連して注意を引くのは、二月一五日のミリュコーフ国会演説に「住民は市民となり」とあり、続くケレンスキー演説に「彼らは市民たることを望んでいます」とあることである(二五〇、二五二頁)。ミリュコーフとケレンスキーでは立場が違うが、この時点ではミリュコーフもかなり反政府色を鮮明にしているので、その限りではある程度の接近があるように見える*6。いずれにせよ、重要なのは「市民となる」「市民たることを望む」という表現である。これを敷衍すれば、「これまで市民たりえなかった人々が、今や市民となって発言しようとしている」という趣旨にとることができる。当時のロシアでは、一般大衆は通常「市民」とみなされていなかったが、危機的状況の中で大衆が立ち上がりつつあるのを見て、「彼らも市民になろうとしている」という捉え方が政治家たちの脳裏に浮かんだかのようである。そうだとすれば、リベラルな改革を求めるブルジョアジーが今や「市民」となりつつある労働者大衆と結びついて「ブルジョア市民(の)革命」に向かったという把握が正当化されるようにも思える。だが、和田自身がそこまで明示しているわけではない。それに、いま引用したミリュコーフやケレンスキーの言葉はあくまでも政治家による希望的観測のこもった言葉であり、そのまま現実を反映しているわけではない。ロシアの民衆運動を特徴付ける際によく使われる「スチヒーヤ」という言葉(適訳がないが、しばしば「自然発生性」と訳される)は、むしろ「市民」のようにお行儀のよくない暴風のような動きを連想させる。ひょっとしたら、労働者たちのうちのある部分は「市民」となりつつあるが、他の部分はスチヒーヤで特徴付けられるということなのかもしれないが、この点に関しても明示的な説明はない*7。
三 「軍事クーデター路線」の評価
以上、「ブルジョア市民(の)革命」にこだわってきたが、それと対置される「軍事クーデター路線」はどうだろうか。これは一九一六年一二月のラスプーチン暗殺(これ自体は「宮廷革命」の試みとされている)とある程度近接した性格をもっており、第一当事者はオクチャブリストのグチコフだとされている(一一九‐一三〇頁)。まもなく臨時政府の初代首相となるリヴォーフも一時期、類似の構想を出していた。内容としては、軍隊を動かして皇帝を退位させ、皇太子に譲位させると同時に摂政をおくことにより、君主制の形は維持しながら政治の主導権を国会がとるという構想を指す。この構想は二月革命前夜にある程度練られながら、「手遅れ」となったとされている(一三〇頁)。
しかし、この構想は単純に消えたのではなく、むしろ二月の日々に再浮上した。グチコフは国会臨時委員会軍事委員会の中心に立ち、国会議長のロジャンコとも協力して、皇帝に退位を迫った。これは「首都での民衆革命を圧力に使い、国家改造を皇帝に迫る軍事クーデター構想の再現」と特徴付けられている(四三〇頁)。皇帝は《皇太子への譲位、ミハイル大公を摂政に》という案をいったん飲むかに見えたが、土壇場で翻意して、ミハイルへの譲位に転換し、そのミハイルが帝位に就くことを拒んだために、君主制維持は実現できなくなった。問題はそのことの評価である。
国会休会の勅令が出され、それに国会がどう対応するかが問題となった二月二七日の情勢について、和田は国会内で二つの路線が拮抗していたと書き、その一つは「変革を軍事クーデターとして収束させ、立憲君主制への移行を実現させるという路線」、もう一つは「民衆革命の力に依拠してブルジョア市民革命を実現し、民主共和制へ突き進むという路線」だとしている(三二五頁)。翌日に国会臨時委員会が権力掌握に乗り出した時点での情勢は、「首都の民衆革命を皇帝に対する圧力として利用し、立憲専制体制から立憲君主体制への移行」を目指す路線すなわち「革命をブルジョア市民革命ではなく軍事クーデターに収束させるという路線」と、「民衆革命に立脚し、……専制君主制を廃止しブルジョア市民革命を実現するという路線」が対置されている(三七五頁)。そして、退位の詔書が首都に届いた三月二‐三日における対抗軸は、「立憲君主制への改編をめざす、革命を軍事クーデターに歪曲する道」と「共和国をめざすブルジョア市民革命への道」だとされている(四四五頁)。
ここに示されているのは、《立憲君主制=軍事クーデター、共和制=ブルジョア市民革命》という理解である(四二一頁には、「ブルジョア革命ではなく立憲君主制をめざす軍事クーデター派」とある)。具体的な経過はさておき一般論として考えるとき、専制から立憲君主制への移行が「ブルジョア革命ではない」と言い切れるのかという疑問が先ず浮かぶ。なかなか退位を認めようとしない皇帝に退位と立憲君主制を納得させるためには軍の圧力だけでなく、民衆の暴動が高まっていて退位なしでは収拾できないという説得が必要だったとすれば、これも民衆革命の力に依拠した一種の革命と言えるのではないだろうか。前の段落で引用した四四五頁の一節は、二つの路線の一方が「本物の革命」で他方が「歪曲」だという価値判断を伴っているが*8、どうしてそういう風に言えるのかは明らかでない。なお、現代ロシアの歴史家ニコラーエフは、このときロジャンコらによって構想された権力体制は単なる立憲君主制ではなく「議会君主制ないし議会制をもつ立憲君主制」と呼ぶべきだと主張している*9。単なる立憲君主制でない議会君主制であれば、ますます「ブルジョア革命」と呼ぶにふさわしいように見える。このニコラーエフ説に和田は否定的だが、あっさりと「正しくない」とするだけで、それ以上の説明はない(三二五頁)。和田=ニコラーエフ論争に介入するのは私の任ではないが、ここのところはもう少し詳しく書いてほしかったという気がする*10。
皇帝退位および臨時政府成立の経緯は入り組んでいるが、本書第八・九章の叙述を大まかにまとめるなら、およそ次のようになるだろう。 先ず二月二七日に、国会の非公式会議で国会臨時委員会*11が選出された。国会臨時委員会の性格は最初のうち不明確だったが、翌二八日には権力掌握の決意を固め、そのための具体的行動を開始した。三月二日深夜、ロジャンコは皇帝に対して、ミハイル大公を摂政とし、皇太子アレクセイに譲位するという形での退位を要求し(グチコフも同様の働きかけを行なった)、皇帝はこれを受け容れて退位を決意した。その直後に、皇帝は皇太子ではなくミハイルに譲位すると表明したため君主制の行く末は不透明になったが、まだその帰趨が確定していない時点で、退位の詔書およびリヴォーフを首相に任命する勅令が首都に届けられた。そうしたなかで国会臨時委員会はペトログラード労兵ソヴィエトの条件付き承認と支持を取り付けて臨時政府を発足させた。
皇帝の退位と臨時政府の発足は権力交代=政治革命の最もクルーシャルな局面だが、この時点で見る限り、君主制がなくなるかどうかはまだ確定していなかったし、臨時政府首相リヴォーフの指名は皇帝の勅令によっていた。とすれば、この時点では君主制維持問題はとりあえず未確定のまま、国会臨時委員会主導で革命が実現したということになる。このとき誕生した臨時政府の中には、和田のいう「軍事クーデター路線」派と「ブルジョア市民革命」派の双方が入っていたが、両派は一定の食い違いをはらみつつも、当面前者が主導権をとる形で新政府を構成することになった(首相兼内相、外相、陸海軍相はみな「軍事クーデター派」)。そう考えるなら、この両派は、一方が「革命」、他方が「歪曲」という関係で捉えるよりも、むしろ内部矛盾をはらみつつもとりあえず共同歩調を歩んだ革命勢力の両翼という風に捉えられるのではないか。
結果的に君主制が維持されなかった原因は、皇帝が皇太子ではなくミハイル大公に譲位しようとしたこと、そしてミハイルが帝位を受けなかったことにある。このうちの前者は、病弱な皇太子に対する皇帝の個人的感情という一種の偶然的要因だが、後者は必ずしも偶然ないし個人的事情に帰することはできない。臨時政府発足の直後、三月三日にミハイルのもとを臨時政府の閣僚たちが訪問した際、ミハイルが帝位に就くべきだと主張したのはグチコフとミリュコーフのみで、ケレンスキー、ロジャンコ、リヴォーフらはこぞってそれに反対した。こういう力関係の中で、ミハイルは帝位に就かないという決断を下した(四四八‐四四九頁)。ロジャンコとリヴォーフはこれまでの個所では「軍事クーデター路線」(=君主制維持派)とされていたが、彼らもこの時点で君主制維持は無理だとの判断に移行したものとみえる。これはこの時期の政治情勢がいかに急速に移り変わっていたかを物語り、興味深い。なお、この時点で敗北したグチコフとミリュコーフは臨時政府に入らないと表明したが、まもなく翻意して彼らも入閣した(四四九‐四五三頁)。ということは、元来「軍事クーデター路線」(=君主制維持派)だった人たちも共和制下の臨時政府を支える立場に移行したということになる。これによって主導権は「ブルジョア市民革命」派に移ったことになるが、元来「軍事クーデター」派だった人々も合流して重要な位置を占め続けたことを思うなら、この両派は、一方が「革命」、他方が「歪曲」というように鮮明に対置するよりも、種々の対抗をはらみながらも一つの革命を遂行したと見た方が適切なのではなかろうか。
四 「労働者兵士の革命」および戦争問題
以上、「ブルジョア市民(の)革命」および「軍事クーデター路線」について検討してきた。では、これらと対比されるもう一つの流れとしての「労働者兵士の革命」はどうだろうか。実は、この言葉は本書の中にそれほど頻繁に出てくるわけではない。それもそのはずで、二月半ばに民衆運動が高揚する以前の時期には、この言葉に表わされるような動きはまだ姿を現わしていなかった。実際、「革命の序幕」を論じた第二章で取りあげられているのは「軍事クーデター路線」と「ブルジョア市民革命路線」の二つだけであり、それらと並べて「労働者兵士の革命」が論じられることはない。
その後、二月後半に民衆運動は急激に高まる。だが、これは特定の党派に率いられて起きた動きではないので、少なくとも初期においては特定の路線によって特徴付けられることはない。労働運動諸派のうち相対的に準備のできていた度合いの高い戦時工業委員会労働者グループは「ブルジョア市民革命路線」に連なる勢力だし、急進的なボリシェヴィキはソヴィエト結成の主導権をとったわけではない。おそらくそうした事情のせいで、「労働者兵士の革命」という言葉は本書のうちの相当遅い個所に至るまで出てこない。三五二頁には「専制打倒の民衆革命」という言葉が出てくるが、「労働者兵士の革命」とはされていない。
事項索引がないため正確を期するのは難しいが、私の確認した限り、この言葉が最初に出てくるのは、序章を別にすれば三九二‐三九三頁である。その後もこの言葉はあまり使われている様子がなく、私が次に気づいたのは四六五頁である。ところが、この二個所の間には、微妙なニュアンスの差がある。前者では、「労働者兵士の革命には、軍隊民主化を急進させ、戦争反対に向かう動きがあり、これが進めば戦争続行を求めるブルジョア市民の革命との衝突が避けられなかった」とある。これに対し、後者では、「革命的民衆・労働者兵士革命が戦争に反対している」とか「民衆の反戦志向」と書かれていて、臨時政府の戦争継続宣言と対置されている。つまり、戦争反対の志向性は、前者においては労働者兵士革命のうちの一部にあったもの――やがて大きくなるにしても、この時点ではそれはまだ確定していなかった――と描かれているのに対し、後者では労働者兵士革命そのものがまさしくそういうものだったということになっている(この後者の把握が「あとがきにかえて」に引き継がれることは後で立ち返る)。
ここで問題なのは、「労働者兵士の革命」という言葉で何を指すかである。労働者大衆および特に兵士大衆一般の動きを念頭において考えるなら、そこには多様な要素が流れ込んでおり、一言でまとめあげるのは難しいだろう。もちろん、厭戦気分はかなりの程度広がっていただろうし、横暴な上官に服従したくないという気分――これは突き詰めると軍紀の弛緩、すなわち戦争続行の不可能性ともつながる――も広まっていただろう。そういう意味で「戦争反対」の要素を指摘すること自体はあながち間違ってはいない。ややさかのぼるなら第一章に一九一六年一〇月に兵士の抗命が始まったことの指摘があるのも注目される(七九‐八三頁)*12。ただ、それは少なくとも最初のうちはアモルフな気分のようなものであり、明確な路線に集約されていたわけではないのではなかろうか。二月の日々の描写の中で「戦争反対」というスローガンが出てきたことも各所で記されているが(二七〇、二七三‐二七四、二七六、二八〇、二八四、二八五頁など)が、この段階では「労働者兵士の革命」という言葉は使われていないし、このスローガンがどういう意味をもつか、またそれが全体の中でどういう位置を占めるかについては複雑な揺れが示唆されていて――「「戦争反対」に対する労働者の態度は「より複雑」だったとする証言もある」(二七四頁)、「彼〔スハノフ〕は……「戦争反対」のスローガンをおろすべきだとすら考えていた」(二九一頁)など――、これが圧倒的な要求だったとまでされているわけではない。そして、労働者兵士革命の担い手という自己意識をいだいていたペトログラード労働者ソヴィエト――まもなく兵士代表を加えて「労働者兵士ソヴィエト」となる――執行委員会への各党派からの代表の構成は右派一〇、中間派一二、左派六とされている(三五二頁)。その後の諸工場でのソヴィエトへの代表選挙は網羅的な統計がないようだが、大まかにいって右派・中間派が圧倒的多数を占め、左派は少数派にとどまったとされる(三六七‐三七〇頁)。「中間派」の位置づけが微妙だが、とにかくこの時点でのソヴィエトが明確な戦争反対勢力によって主導されていたわけでないことは確実だろう。
確かに、二月二七日の兵士反乱は二月の民衆運動を「革命」たらしめる上で決定的な役割を果たした。しかし、それは第一義的には、民衆に銃口を向けることを拒むということであって、ドイツとの戦争に反対ということがそこにどこまで含まれていたかは定かでない。また労兵ソヴィエトが三月一日に発した「命令第一号」には、「すべての政治的行動において、部隊は労兵ソヴィエトと自らの委員会にのみ服従する」という有名な個所がある。だが、これはまさしく「政治的行動において」という限定付きの指示であって、軍務上の義務については別の項目で触れられている。そこでは、「線列〔戦列?〕にあり、軍務上の義務の遂行中は、兵士はもっとも厳格な軍律を遵守しなければならない」とした上で、「軍務と線列外の政治生活・市民生活・私生活」においては兵士もすべての市民と同等の権利をもつとされている(三八六‐三八七頁)。つまり、この命令第一号は戦闘以外の場面での軍隊民主化を打ち出したものであって、それ自体として戦争反対を明示したわけではない。もっとも、軍隊民主化は軍紀弛緩を招き、その結果として戦争継続が不可能になるという連関は想定しうるが、それはあくまでも潜在的可能性としてであって、この段階で明示されているわけではない*13。そう考えるなら、「労働者兵士の革命」が「戦争に反対」というのは、この段階ではまだ不確定だったものを特に取りだした評価ということになるのではないか。なお、戦争続行問題は二月革命時よりも後の四月以降に尖鋭化するが、その点については後で立ち戻ることにする。
五 いわゆる「二重権力」概念について
二月末‐三月初頭の時点で首都に存在していた主な政治的主体は国会臨時委員会、臨時政府、ペトログラード労兵ソヴィエトの三つだが、それらの相互関係は入り組んでいる。簡単に骨子をまとめるなら、二月二八日に権力掌握を決意した国会臨時委員会は三月一日にソヴィエト執行委員会の一部の人たちと協議し、後者の合意を得て臨時政府樹立の方針を打ち出した。これに対して三月二日のソヴィエト総会では臨時政府への態度をめぐり激論が交わされたが、結論的に臨時政府への条件付き支持案が承認された(四二〇‐四三九頁)。ということは、臨時政府の発足は種々の対抗のなかにあったとはいえ、基本的には国会臨時委員会の主導のもと、ソヴィエト側からも条件付き支持を取り付けることによって実現したということになる。
そう考えるなら、本書が二月革命後の権力状況について伝統的に使われてきた「二重権力」の語を使っていないのは理解できる。権力機関として立ち現われたのは、ソヴィエトの条件付き支持を得た臨時政府だけであり、二つの別々の権力機関が存在したわけではないからである。だが、そういうだけでは片付かない問題が残る。和田は本書で「二重権力」の語を使っていないが、その概念を使うべきでないと積極的に主張しているわけでもない。そして、なぜこの語を使わないかということについての説明も一切ない。これまでの研究史との関わりでこの問題をどう考えるのかという点にも触れていない。
日本における研究史を簡単に振り返るなら、次のようになる。和田は一九六八年の旧論文では、「二重権力」の語を留保を付けることなく使っていた*14。一九七〇年の岩波講座論文、一九九七年の山川通史でも同様である*15。他方、和田旧論文と同じ一九六八年の論集に寄稿した長尾久はこの言葉に留保を付け、「「ドヴォエヴラースチエ〔二重権力〕」なる用語については、これまでに述べたような実態を総括する言葉として、少なくともさしあたりは有効だと思わないので、使用しない」としている*16。長尾は数年後の著作で、この概念が何を意味するかという「肝腎のこの問いに、これまでちゃんと答えられているとは思わない」と問題提起し、「本書で私は二重権力規定をやはり採用することにしたが、ソヴェートの対抗権力はしばしば言われているよりは弱い」としている*17。結論的にはこの用語を使うけれども、その意味内容は従来の通説とは異なり、限定付きのものだという考えのようである。
「二重権力」に限らずおよそ一般的に言葉というものは、定義次第でいろんな風に使うことができる。重要なのは、ある言葉を使うかどうかそれ自体ではなく、それにどのような定義を与え、どのような意味において使ったり使わなかったりするかという点にある。長尾はこの問題を自覚的に呈示し、彼なりの模索の末に一定の結論を出している。これに対し、和田は一九九七年に至るまで「二重権力」の語を留保抜きに使っていたのに本書で突然その立場を変えたのはどうしてか、そしてまた長尾の模索に対してどう考えるのかは、本書では何も述べられていない。
私自身についていうと、この時期のことを自分の専門研究の対象としてこなかったとはいえ、学部学生向けの講義でこの問題を避けて通るわけにもいかないので、およそ次のような説明の仕方をしていた。
「通俗的な理解によれば、「二重権力」とは二つの権力が別々に並立していたかに捉えられる。そして、一つの国に二つの権力が並存する状況は極度に不安定で、長続きするはずはなく、一方が他方を打倒して終わるほかなかった、そして現にソヴィエトが臨時政府を打倒してこの状況は終結した、それが一〇月革命だ、と捉えられることになる。この説明は単純で分かりやすいが、十分正確ではない。二月末に生まれたのは、臨時政府とソヴィエトのそれぞれが別々の権力だという状況ではなかった。ソヴィエトは自ら権力を掌握しようとは考えておらず、その意味で、正規の権力は臨時政府のみだったのである。この点を強調して、「二重権力」という把握そのものに反対する見解もある。これは通説への批判としては鋭いものをもっているが、やや行き過ぎている観がある。確かに正規の権力、あるいは狭義の権力機関は臨時政府だけだったが、その臨時政府は労働者・兵士の間に自前の権威をもっておらず、ソヴィエトの条件付き支持を得ることで間接的に兵士委員会・工場委員会・赤衛隊などの忠誠をとりつけているに過ぎないという大きな弱点をかかえていた。暴力装置の掌握が決定的である状況の中で、兵士委員会や赤衛隊を自らの下においたソヴィエトは臨時政府を権力たらしめる上で決定的な役割を演じていた。しかも、両者の関係は不安定であり、臨時政府は必ずしもソヴィエトの支持を安心して享受し得たわけではない。ということは、臨時政府はそれだけで十全な権力とはいえず、ソヴィエトも半ば権力に近い性格をもっていたということであり、その意味で、「二重権力」論にはやはりそれなりの根拠があるということになる*18」。
このような私見は和田、長尾らの研究に学んで自己流にまとめてみたものである。この試論が今回の重厚な研究によって是とされるのか非とされるのかが気になるところだが、本書を読んだだけでははっきりしない。
六 ロシア革命観――序章および「あとがきにかえて」を手がかりに
本書の本文は二〇一七年三月までで終わっており、それ以降の過程は本文の枠外となっている。すぐ後で見るように和田はロシア革命は第一(二月)、第二(一〇月)、第三(一九一八年以降)の三段階からなるとしているが、本書の本文が扱っているのはそのうちの第一段階だけである。とすれば、本書のタイトルは『ロシア革命』とするよりも『二月革命』とした方がスッキリするように思える*19。もっとも、序章および「あとがきにかえて」(以下では、ただ「あとがき」と記す)には四月以降の過程に関する簡単な叙述がある。そこで、この部分についてもある程度考えてみたい。
まず二月革命のまとめとして、それはブルジョア市民の革命と労働者兵士の革命からなっていたと書かれており、これは問題ない。だが、それに続いて二月革命は「反戦・反軍の民衆革命のはじまり」だったというのはやや気になる(四九三頁)。これはおそらく「ブルジョア市民(の)革命」よりも「労働者兵士革命」の方を念頭においたものだろうが、そうだとしても、先に取りあげた三九三頁よりも四六五頁の方に近い捉え方、つまりその後の展開を先取りした書き方ということになる。
本書の本文各所で和田自身が繰り返し説いているように、「ブルジョア市民(の)革命」は戦争反対ではなく、戦争をよりよく遂行することを目指すものだった。そして、二月末‐三月初頭の時点で権力を握った臨時政府は、ソヴィエトの条件付き支持に依拠するという制約をかかえていたとはいえ、基本的には左翼自由主義者たちを中心とする「ブルジョア市民(の)革命」派が主導権をとっていた(「軍事クーデター派」も共和制を受容しつつ、その中に入っていた)。とすれば、二月革命はその主導勢力に即していう限り、「戦争をよりよく遂行しようとする革命」だったということになるはずである。もちろん、それに反対の動きもあり、それは時間の経過の中で大きくなっていく。「これ〔戦争反対に向かう動き〕が進めば戦争続行を求めるブルジョア市民の革命との衝突が避けられなかった」と本文にあるとおりである(三九三頁)。
ところが、序章には「一〇月革命は二月革命の完成であったと言うことができる」という一節があり(一九頁)、あとがきでは「ロシア革命は世界戦争に反対して起こった革命である」(四九一頁)と書かれている。これは「労働者兵士革命」のうちの急進的な部分に着目する限りでは当たっているだろうが、「ブルジョア市民(の)革命」については全く当てはまらない。本文では「ブルジョア市民(の)革命」についてあれほど詳しく丁寧に論じているにもかかわらず、この断言は、戦争続行のためにこそ革命を主導した「ブルジョア市民(の)革命」を無視するもののように見える。
この問題は四月以降の過程における戦争問題をどのように見るかという論点と関わる。ここで頭に浮かぶのが、池田嘉郎『ロシア革命』(岩波新書)との対比である。池田の見解は、「戦争を一方的にやめるわけにはいかない……〔というのも〕戦後世界において新生ロシアが名誉ある地位を占めるためにも、英仏という二大先進国との同盟関係は何としてでも維持しなければならなかった」とか、「世界戦争を決定的な勝利まで完遂する」ことをうたうミリュコーフ通牒を「お手本のような外交文書」と評した個所、またメンシェヴィキ最右派の一人が大ブルジョアの階級利害の代表としっかり組んで戦争を完遂しなければならないという論陣を張ったことに「これは正論であった」という言葉が添えられている点などに窺うことができる。和田が「画期的」として高く評価する死刑廃止(四六三‐四六四頁)について、「いかにもひとのよい臨時政府らしい行為ではあった」と評している個所もある*20。単純にいうなら、和田が「戦争反対」を革命の最重要目標としているのに対し、池田はそれはお人好しで非現実的な発想だという見解を対置していることになる。もっとも、このように戦争問題評価では対極的な立場に立つ和田と池田は、二月革命時点では提携関係にあった二つの流れがやがて分裂し、鋭い対抗関係に入るのは当然の成り行きだという捉え方を示唆する点では共通する。
二月から一〇月に至る過程に関する和田のまとめは、「民衆の反戦・反軍の革命が、ブルジョア市民の革命との共同の成果である臨時政府を押し倒したのが、一〇月革命である」というものである(四九三頁)。これは、二月から一〇月にかけての推移に関する伝統的な見解――一〇月革命クライマックス史観――とあまり変わらない*21。私はこの個所を読んで、拍子抜けのような感覚をいだいた。同じあとがきに、「一九八〇年代に入って、ロシア革命観をすっかり考え直す方向に進んだ」(四九一頁)とあることから、もう少し大胆な評価変更が打ち出されるのかと思っていたのだが、本体をなす二月革命論が大きな骨格において旧論文をほぼ維持しているだけでなく、一〇月革命についても「反戦・反軍の民衆革命」のクライマックスと見るのでは、これまでのロシア革命観とほとんど隔たらないように見える。
この疑問は、「第三のレーニンの革命」なるものが打ち出されることで、ある程度答えられるかに見える。第一(二月革命)も第二(一〇月革命)も「民衆の革命」であり、「人類の希望の灯を掲げ、世界を震撼させた」(一九頁)という伝統的見解が維持される一方、その後に「レーニンによる第三革命」をおくことによって大きく転回する、ということなのかもしれない。だが、その「第三の革命」なるものは序章とあとがきでそれぞれ数行ずつ触れられるだけであって、その具体的内容についてはほとんど何も述べられていない*22。しいていうなら、憲法制定会議の解散を「社会主義の名においてクーデターを決行した」と描き、「ここに、二月革命の願ったところとは異なる方向に向かう、ロシア革命の新しい章がはじまった」としているのが目にとまるくらいである(一九‐二〇、四九三頁)。憲法制定会議解散をロシア革命の「原罪」と見なす見解は欧米では古くからありふれたものだったし、ロシアでもペレストロイカ末期以降に急速に広まったものである。憲法制定会議解散が重要な出来事だったことは確かであり、その解釈および評価をめぐってはこれまでも種々の議論が積み重ねられてきたが、それらについてどう考えるかを説明することなしにこのようにただ一言触れるだけでは、著者の新しいロシア革命観がどういうものであるのかは一向に明らかにならない*23。
「第三革命」について突っ込んだ説明がない以上、その含意を正確に読み取るのはほとんど不可能に近いが、一つの憶測として、これは今や否定的評価の確立したソ連という国からロシア革命を救い出そうとする試みではないかという気がしてならない。ソ連という国、そこでとられた政治経済体制について、今日では否定的評価以外の何ものもありえないという理解が支配的だが、そういう時代状況の中で、ロシア革命は二月も一〇月もともに「民衆の革命」であり、「人類の希望の灯を掲げ、世界を震撼させた」という見地を維持するためには、その間に一つの断絶をおくしかない。それがこの「第三革命」論だということではないだろうか。しかし、これは無理な議論だと思われてならない。
考えようによっては、一〇月革命は民衆の支持をひとかけらももたない陰謀集団によるクーデターだったとする見解もあり、昨今ではこのような見地が漠たる形で広まりつつある。だが、それは誇張であり、「一〇月」には全面的とはいわないまでもかなりの程度の民衆の支持があったことは否定できない歴史的事実である(この点では和田と私の見解はほぼ一致している)。はじめのうちソヴィエト内少数派だったボリシェヴィキが次第に勢力を伸張し、ソヴィエト内で左翼エスエルとともに多数派の位置を占めるようになったこと、そしてトロツキーが第二回ソヴィエト大会防衛という形をとって一〇月蜂起を指揮することができたのはそのことを物語っている。その意味で、二月革命のみならず一〇月革命も、一定の留保付きながらもとにかく「民衆の革命」だった。そのような革命が結果的に非民衆的な体制を生み出したのはどのようにしてか――ここに問われるべき問題がある。
この問いへの従来の答え方としては、共産党内権力闘争におけるトロツキーの敗北とか、ブハーリンの敗北、そして農業集団化と強行的工業化の開始に代表されるスターリン体制の成立などに注目して、そこに「堕落」「変質」のはじまりを見る議論が古典的なものとしてあった。それらに比して、憲法制定会議解散を画期とする見解は「変質」のはじまりをもう少しさかのぼらせることになるが、革命とソ連体制の間に「変質」の画期を見いだそうとする点では共通する。だが、ロシア革命とその後のソ連の展開の間に種々の曲折があるのは確かだとしても、どこかの時点までは民衆的だったものがどこかで一転して非民衆的なものになるというのは無理な説明ではないだろうか。むしろ、ロシア革命とその後の間に明確な断絶を想定するのではなく、《民衆の革命が非民衆的な体制を生み出すことがある》という現実を見据えることこそが必要なのではないか。この問題は、それから七〇年後、非民衆的であることがあからさまになったソ連体制を倒して「民主化」を実現するのだと称したエリツィン革命がまたしても非民衆的な体制を生み出したのはどのようにしてかという問いともつながる*24。「第三の革命」による断絶論は、この深刻な問いを回避して、従来通りのロシア革命像(二月および一〇月)を温存するもののように思われてならない。
*
あれこれと勝手な注文ばかり付ける書評になってしまった。とはいえ、この小文で私が提示した見解の大半は、もとをただせば和田から学んだものである。私がここで試みたのは我流に咀嚼した和田説に基づいた内在的な和田批判のつもりだが、それがどこまで成功したかは甚だ心許ない。和田先生は不肖かつ不遜な弟子によるこのレポートにどのような評点を付けてくれるだろうか。
【付録――読む前の予感*25】
前々から予告されていた和田春樹『ロシア革命――ペトログラード、1917年2月』(作品社、二〇一八年)がとうとう刊行された。
読む前の予感を長々と述べるのは適当でないが、何の予断もなしに読むということは事実上不可能なので、いただいた直後の時点でこんな気がするということを書きとめ、それがどの程度当たっているか外れているかを検証するつもりで読むことにしたい。
和田が定年退職後に書いた一連の著作のうち、『テロルと革命』(山川出版、二〇〇五年)および『スターリン批判』(作品社、二〇一六年)の二冊はどちらも数十年前に執筆された長編論文の大幅改訂版という性格を帯びていた。今回の二月革命論はそれらよりも長い期間をかけて周到に準備されてきたもので前二著と同列に並べられるものではないが、五〇年前の長編論文の大幅増補改訂版という意味では、やはり似たところがある。若い時期に、資料状況に制約がある中で、それでも利用できる資料を最大限に活用して書かれた長編論文と、数十年を隔てて新たに書かれた著作を比べると、資料が格段と豊富になったおかげで、個々の具体的プロセスがリアルに分かるようになり、生き生きとした叙述になっているのはいうまでもない。他面、個々の具体的なプロセスを離れて大きな骨格についていうなら、旧論文との間にそれほどの違いはないということを著者自身が前二著について語っている。これは、旧論文の水準の高さを物語るが、同時に、和田の歴史観・人間観が数十年の激動を通してもあまり変わっていないということを物語るように思われる。では、本書の場合はどうだろうか。「あとがきにかえて」によれば、和田はこの間にロシア革命観を大きく変えたという。これは注目すべき述懐である。ただ、「あとがきにかえて」から窺う限り、見方が変わったのは一九一七年二月から一〇月にかけての過程および一〇月革命後の時期についての見通しに関わっており、二月そのものに関しては「戦争に対抗する市民の革命」という大枠を基本的に維持しているように見える。そういう理解でいいのかどうか。これが第一点。
第二点。和田はかつてペレストロイカ初期に『私の見たペレストロイカ』(岩波新書、一九八七年)という本を書いたことがある。ソ連の多くの知識人との交流に基づいて、その当時の活気あふれた言論状況を生き生きと描き出した本で、いま読んでも有意義な著作である。他面、その数年後に書いた『ペレストロイカ――成果と危機』(岩波新書、一九九〇年)は私の評価では失敗作である。どうしてそうなるのかということがかねて気になっていた。ペレストロイカ初期というのは、その少し前まで逼塞を強いられていたリベラルな知識人たちが久しぶりに自由を享受し、将来に夢を持って活発に議論をかわしていた「希望の時代」だった。その後、ペレストロイカは複雑な経過をたどって混乱と破局の時代へと突き進んだ。上記二著の対比は、和田の資質にとって「希望の時代」の方が「混乱と破局の時代」よりも向いていることを物語っているのではないかという気がする。そして、この問題は、「市民の革命」ととらえられる一九一七年二月革命がどのようにしてその後の混乱と破壊の時代につながったのかという問題とも重なるところがある。
考えてみると、ロリス=メリコフの改革(『テロルと改革』の主題の一つ)、スターリン批判、ペレストロイカ初期、二月革命は、いずれも「改革」とか「解放」とかの気運が高まり、知識人たちが民衆との結合を信じて将来に夢をいだくことのできた「希望の時代」だったという点で共通している(ここで触れなかったもう一つの著作たる『血の日曜日』をここに加えてもよいかもしれない)。そうした夢はまもなく潰えるのだが、和田という人は、歴史の中のそのような局面を描く時に最も精彩を放つ歴史家なのではないだろうか。
はじめに断わっておいたように、これはあくまでも直観的な予断にすぎない。この予断に当てはまらない要素を見落とさないよう心がけながら読むことにしよう。
(二〇一八年一一‐一二月)
*1和田春樹「二月革命」江口朴郎編『ロシア革命の研究』中央公論社、一九六八年。
*2一九六八年論文の二年後に発表された和田春樹「ロシア社会の危機と二月革命」『岩波講座世界歴史』第二四巻(現代1・第一次世界大戦)、一九七〇年でもこの言葉は使われていない。他方、一九九七年刊の山川通史にはこの言葉が出てくる。和田春樹「ロシア革命」田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『ロシア史』第三巻、山川出版、一九九七年、三六頁。どうやら、この言葉は一九七〇年代から九〇年代の間のどこかで和田の頭に浮かんだようだ。
*3なお、「市民」の語はほとんどの場合「ブルジョア」に続く形で使われているが、珍しく「労働者市民」という言葉が二九五頁に出てくる。「ブルジョア市民」と「労働者市民」の関係については何も説明されていない。
*4一九七〇年論文では、「市民」の語抜きに「ブルジョワジーの革命」と書かれている。和田「ロシア社会の危機と二月革命」三三〇頁。
*5一九六八年論文には、「「労働者グループ」を通じて労働者の闘争をコントロールしつつ、自分がヘゲモニーを握るというブルジョワジーの革命コース」という個所がある(「二月革命」三三四頁)。一部の労働者とつながってはいるが、ヘゲモニーはあくまでもブルジョアの側にあり、その意味で「ブルジョワジーの革命」だという理解のように見える。これに対して、今回の新著における「ついに労働者を動かして、ブルジョア市民革命に向かうことを開始せざるをえなかった」(一三八頁)という表現は、ややニュアンスが異なるように思える。
*6この個所での和田の書き方は微妙だが、基本的には革命的でないミリュコーフがこの発言でだけは革命的立場にリップサーヴィスを払ったというニュアンスが感じられる。
*7なお、やや古い伝統的見解では、当時のロシアの民衆の大多数は文字も読めず、教育水準も文化水準も低くて、社会・政治問題に自覚的に取り組むことなどありえないというイメージがいだかれていた。これに対し、最近の近代ロシア史研究は帝政末期における教育の普及、識字率向上、大衆的出版物の増大などを指摘し、少なくともペテルブルグ/ペトログラードをはじめとする大都市部に限っていうなら、「暗愚な大衆」という伝統的イメージは修正を迫られている。だが、それが「市民」意識に結びつくとまで言えるかは別個の問題であり、更なる検討を要する。いずれにせよ、和田は本書でこの問題には触れていない。
*8少し前の個所には、「これ〔軍事クーデター路線〕が成功すれば、革命は一場の夢と消え、帝国の体制は改造されて存続するのである」とある(四三〇頁)。
*9アンドレイ・ニコラーエフ「二月革命――帝政エリートの反乱」松戸清裕・浅岡善治・池田嘉郎・宇山智彦・中嶋毅・松井康浩編『ロシア革命とソ連の世紀』第一巻(世界戦争から革命へ)、岩波書店、二〇一七年、一三三頁。
*10この問題について、池田嘉郎はフェイスブック上で私と異なる見地から触れている。
*11小さなことだが、三五四頁には「国会臨時委員会」と並んで「国会議員臨時委員会」という言葉も出てくる。これは別個の機関あるいは同じ機関の別の名称なのだろうか、それとも単なる誤記なのか。
*12もっとも、「兵士たちの叫びは、世界戦争に対抗し、専守防衛以外の軍隊を拒否する深い意味をもっていた」(八三頁)というまとめはやや飛躍があるように感じられる。
*13本文で引用した個所の直後に「命令第一号」のまとめとして、「世界戦争と帝国軍隊に反対して立ち上がった兵士たち」とあるが(三八八頁)、これは言い過ぎではないだろうか。
*14和田「二月革命」四五〇、四五二頁。
*15和田「ロシア社会の危機と二月革命」三二七、三三〇頁、「ロシア革命」三四頁。
*16長尾久「二月革命から七月事件へ――ソヴェトと民衆運動を中心として」江口朴郎編、前掲書所収、四五六、四八九頁。
*17長尾久『ロシヤ十月革命の研究』社会思想社、一九七三年、七、二〇頁。
*18私が在職中に使っていた講義ノートの一節より。
*19実際、本書の母体となった旧論文のタイトルは「二月革命」だったし、本書あとがきの副題も「私は二月革命をどのように研究してきたか」となっている。ひょっとしたら『ロシア革命』というタイトルは著者自身の意図というよりも、販売上の考慮からする出版社の意向によるのかもしれない。
*20池田嘉郎『ロシア革命――破局の八ヶ月』岩波新書、二〇一七年、四九、六六、七一、一三四頁。この本に関する私の論評は塩川伸明ホームぺージの「新しいノート」欄に載せてある。
*21序章には、一〇月革命についてレーニン的見解とトロツキー的見解を対置して、後者を正しいとした個所がある(一八頁)。この対置はやや誇張ではないかと思われるところがあるが、それはさておき、トロツキー流の一〇月革命史把握はここ数十年来、日本のロシア史研究の主流的見解となっていたはずであり、和田のこの個所に特別な新しさがあるわけではない。
*22なお、本書の人名索引にはレーニン、トロツキー、スターリンの項目がない。実際には、序章およびあとがきを別にしても本文中の第四章にはレーニン、トロツキー、スターリンがみな出てくるし、スターリンの名は第一〇章にもある。にもかかわらず彼らを索引項目にとらないのは、本書の枠内では「第三の革命」を具体的に論じないことと関係しているのだろうか。ついでながら、当時スターリンとほぼ同じ位置にあったカーメネフはどういうわけか索引項目にとられている。同じ個所にスターリンとカーメネフの両方が出てくることもある(四六二頁)のに、どうしてカーメネフのみ項目にとってスターリンは落とすのか不可解である。
*23一九六八年の中央公論社論集で憲法制定会議問題に取り組んでいるのは藤田勇「ロシア革命における国家と法――その一側面に関する予備的考察」である(後に、藤田『ソビエト法史研究』東京大学出版会、一九八二年に第T章として再録)。藤田はそこで、「極左的な憲法制定会議有害無用論」と「右翼的な憲法制定会議の過大評価」の双方を批判しつつ、特定の条件下での解散は正当化されるという理解を示し、しかしそれは必ずしも一般的な意味をもつものではないという留保付きの見解を提示していた。藤田は数十年後にこの問題に立ち返り、「自由抑圧政策」や「抑圧政策の正当化の論理」について、より踏み込んで論じている。そこでは、ボリシェヴィキの自由抑圧政策を鋭く批判したローザ・ルクセンブルクへの共感が示された上で、苦渋に満ちた議論が展開されている。藤田勇『自由・平等と社会主義――1840年代ヨーロッパ‐1917年ロシア革命』青木書店、一九九九年、第六章、藤田『自由・民主主義と社会主義1917-1991――社会主義史の第二段階とその第三段階への移行』桜井書店、二〇〇七年、第一章(後に挙げた著作について私は長めの書評を書いたことがある。『社会体制と法』第一〇号、二〇〇九年)。藤田と和田は長らく東京大学社会科学研究所で同僚関係にあったが、和田がこうした藤田の模索についてどう考えているのか興味が持たれる。
*24この問題に関する試論として、塩川伸明「一九一七年と一九九一年」『現代思想』二〇一七年一〇月号、および「ポスト社会主義の時代にロシア革命とソ連を考える」『ニュクス』第五号(二〇一八年九月)参照。
*25この「付録」は元来二〇一八年九月一七日にフェイスブックに書き込んだもの。なお、執筆時に本書を未読だったために多少不正確なところがあるが(たとえば、「戦争に対抗する市民の革命」という言葉遣いなど)、事前にどういう予感をいだいていたかを示すという狙いであるので、訂正を施すことなくそのまま再録しておく。