ソロモン・ヴォルコフ『ショスタコーヴィチとスターリン*1』を読んで
ショスタコーヴィチについてはかまびすしい論争があるが、そうした論争の口火を切ったのは、本書の著者ヴォルコフが1979年に発表した『ショスタコーヴィチの証言*2』およびその真贋をめぐる論争だった。この『証言』は作曲家本人の口述筆記による回想だとされていたが(ヴォルコフは著者ではなく編者という体裁になっている)、果たして本当にそうかどうかが争われたからである。この問題をめぐっては国際的にも大論争があったし、日本でもヴォルコフ批判派と擁護派の間で論争があった。そうした中で亀山郁夫は元来ヴォルコフ擁護派の代表者だったが、今回の新著の「訳者あとがき」ではその見解を全面撤回はしないものの部分的に修正したように見える。というのも、ヴォルコフが批判への正面からの反論を回避してきたこと、ショスタコーヴィチ自筆のサインは作曲家を欺して得たものだという経緯が明らかになったこと、イリーナ未亡人による再三の要請にもかかわらずヴォルコフは元原稿たるタイプ原稿を提出していないこと、そして今回の新著では旧著を典拠とすることを基本的に避けていることなどが紹介されていて、少なくとも『証言』の外面的な体裁の真正性は維持できないことを認めているからである。それでも亀山がヴォルコフの新著を邦訳したのは、そうした真贋論争を離れた意味を彼に見出しているからのようである。
私は旧著が日本で紹介された直後に、ローレル・フェイの痛烈な批判に接し*3、その後ヴォルコフからの反論が一向にないことから、「勝負あった」という感覚を早くからいだいていた。と同時に、これもフェイが指摘していることだが、『証言』がショスタコーヴィチ本人の認可を得た聞き書きだという触れ込みは虚偽であるにしても、その内容はショスタコーヴィチ自身や彼に近い多くの人々のあれこれの発言を集めて書かれたものである以上、触れ込みを無視して内容に着目する限りでは興味深く、有意味な著作だと考えてきた。そうした論争につきまとわれてきた旧著から四半世紀を隔てて出された新著(ロシア語・英語とも2004年)がどういう内容のものになっているか、読む前から興味が持たれた。
読んでみると、本書は旧著とは別個に新たに書かれた独自の著作だが、何カ所で『証言』を引き合いに出しており、旧著を全面撤回しているわけではないことが分かった。推測するなら、旧著は《作曲家からの聞き書きを忠実にまとめたもの》という体裁に即していうなら偽書だが、部分的には実際に聞き書きに基づいた個所もあり、全面撤回するには忍びがたいということではないかと思われる。そこには聞き書きに基づく部分とそうでない部分が複雑に混じり合っていて、どこがどの程度本物かを明示することができないということなのではないだろうか。
『証言』との関係はともかくとして、今回の新著をそれ自体として読むとき、旧著のようなセンセーショナリズムからは免れているが、それにしてもやはり著者の独自な解釈や想像の産物という面があり、どこまでが歴史に即したものかを確定するのは難しい。特にスターリンの内面を推測した個所は、いくつかの新資料を利用しているとはいえ、著者の想像の産物という性格を免れないように思われる。その意味で、歴史家にとっては利用しにくい本といわざるを得ない。そういう留保を付けた上での話だが、著者自身がソ連で生まれ育ち、ショスタコーヴィチを含む多くの音楽家たちと接した経験をもつ人である以上*4、それなりに興味深い著作だということも確かである。私は音楽史それ自体に通じているわけではないので詳しく立ち入った検討をすることはできないが、いくつか興味を引かれた点について考えてみたい。
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本書は『ショスタコーヴィチとスターリン』と題されており*5、実際、そのテーマを中心的に論じている。もっとも、本書の中身はそれだけに尽きるものではなく、関連する多くの興味深い論点にも触れている。一つには帝政期におけるツァーリと芸術家の関係とのアナロジーが重要な位置を占めており、特にプーシキンの例について詳しく述べられている。しかも、ソ連時代の多くの人々――スターリンを含む――が帝政期との連続性を念頭においていたとされ、このアナロジーは単なる外面的類似以上の意味をもつことが示唆されている。ロシア語版の副題に「芸術家とツァーリ」と付けられているのは、その意味で象徴的である。
中心をなすソ連時代についていえば、ショスタコーヴィチ以外の種々の芸術家たちがその時代状況の関係で論じられている。思いつくままに並べてみても、ピアニストのマリヤ・ユージナに関する特異なエピソードの紹介(57-60頁)に始まり、多くの音楽家が取りあげられている。特に目を引くのは、プロコーフィエフとショスタコーヴィチのライヴァル関係である(323-330頁)。文学者たちもブルガーコフ、パステルナークをはじめとして、多くの人が取りあげられている。ショスタコーヴィチとソルジェニツィンとのアンビヴァレントな関係の指摘も興味深い(471頁)。
このように多様な内容をもつ本書だが、何といっても最大の主人公はショスタコーヴィチである(スターリンももう一人の主人公ではあるが、本書で描かれたスターリン像は想像に頼ったところが多く、歴史的検討に耐えないように感じられるので、ここでは取り上げない)。本書はもちろん歴史書ではないが、構成としては基本的に編年体で書かれており、そのおかげで社会全体の歴史の流れと作曲家個人の生育史とをあわせて考える手がかりになるのが一つのメリットである。
ショスタコーヴィチに限らず、音楽家というのは「早熟の天才」であることが珍しくなく、普通の感覚でいえば子供時代に当たるような年齢で、大人が聞いて十分鑑賞に堪える作品を書いたりすることがある。それでも、音楽以外の方面では「年齢相応」ということがあるだろうから、ある作品がつくられたときの社会・政治状況との関係を考えるときには、その時点での年齢を考慮しないわけにはいかない。そのことを端的に物語るのは、1906年9月生まれの彼は1917年のロシア革命時にはまだ10代に入ったばかりだったという事実である。この時期のショスタコーヴィチがどのような政治意識をいだき、革命に対してどのような態度をとっていたかをめぐってはかまびすしい論争があるようだが*6、10歳になるかならずかという年齢を思うなら、そもそも「政治意識」を云々すること自体に無理があり、この論争の大部分は――作曲家本人の後の回顧的発言を含めて――当時の現実というよりは後に想像=創造された神話の類だと見るべきではないかと思われる。
ショスタコーヴィチは10代で父を喪って、プロの音楽家として自活を迫られるようになった。そして1926年には19歳という若さで、交響曲第1番で華々しくデビューするという「神童」ぶりを発揮した。もっとも、1927年の第1回ショパン・コンクールでは入賞することができず、ピアニストとしては挫折を味わわされた*7。そのことは、ピアニストとして稼ぐことはできず、作曲家として収入を得るしかなくなったということを意味する。本書の各所に挿入されているショスタコーヴィチの写真のうち若い時期のものを見ると、「こんな坊やだったのか」と感じさせられる童顔であり、そういう坊やがたまたま音楽的天分を持っていたために年齢不相応に政治の荒波に巻き込まれたことには痛々しい思いを誘われる。ある意味では、若くして成功し、多くの人々の注目を集めたことが彼の悲劇の始まりだったように思える。1927年の革命十周年に際して「十月革命に捧ぐ」という副題をもつ合唱付き交響曲を書くよう委嘱されたのは、彼が20歳になるかならずのことだった。本書では、この交響曲第2番は「雇われ仕事」であり、その後あまり演奏されなかったと書かれている(104-108頁)。ヴォルコフの意図はともあれ、この作品を革命賛美の曲と見ることも、逆に内心では革命に反対していたのだと見ることも同じ程度に無理があるのではないかという気がする。
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曲折に富んだショスタコーヴィチの生涯の中でも特に話題性に富むのは、1934年のオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』から1937年の交響曲第5番に至る過程であり、本書の第2章から第4章にかけてこのプロセスが詳しく物語られている。
『ムツェンスク郡のマクベス夫人』については、私はCDを持っていて(指揮ロストロポーヴィチ、主役ヴィシネフスカヤ)、何度か聴いたことがあり、この作品をめぐる論争状況についてもごく大雑把なことは一応聞きかじっていたが、詳しい経緯はこれまで全く知らなかった。そのため、本書における説明は、事情通にとっては周知のものなのかもしれないが、少なくとも私にとっては新鮮な知識をもたらしてくれるものだった。それによれば、元来19世紀半ばに書かれたレスコフの小説がオペラ化された契機は、1930年にその小説が挿絵付きで再刊されたことにあった。その挿絵を描いた画家はショスタコーヴィチと親交があり、刊行本には載せなかったエロティックな挿絵を作曲家に見せていた可能性がある。「若きショスタコーヴィチが当時、これらの「節度のない」素描を目にしていたと仮定するならば、エロスやセックスが最も顕著なテーマの一つである、彼の二番目のオペラの生成における多くのことが説明されよう」と著者は書いている(162頁)。これはヴォルコフの推測であって、確定的な史実ではない。ただ、当時のショスタコーヴィチが年齢でいうと20代半ばであり、ちょうど結婚前後の時期だったことを考えると、そうした挿絵に接したことが強い刺激になったことはありそうなことに思える。
やや意外だったのは、このオペラは当初好意的に迎えられたという指摘である。この作品は1934-35年には大成功を収めた(但し、批評はエロチシズムの問題については慎重に避けていたという)。国内だけでなく外国でも高く評価され、トスカニーニやストラヴィンスキーに賞賛された。ところが、突然、1936年1月28日の『プラウダ』に批判論文が掲載され、ショスタコーヴィチは集中砲火にさらされることになった。このような経緯から考えると、当時の政治指導部や文化官僚に一貫した音楽政策があったわけではなく、個々の作品への評価も最初から一義的なものがあったわけではないということであるように思える。1936年1月における突然の政治的介入の背後に何があったかは、今なお謎である。ヴォルコフはこの『プラウダ』論文はスターリンじきじきの執筆だと主張しているが、この推測がどこまで当たっているかは何とも言えない。
ともかく、はっきりしているのは、不協和音を多数含む「現代音楽」的手法が、玄人受けはしても「大衆にとって分かりにくい」と見なされたことである。また、芸術家たちの間で『プラウダ』論文への秘かな反撥や不満が広がったことは文化官僚たちに警戒心を呼び起こし*8、彼らの態度を一層強硬なものとする要因となったようである。他方、国外とりわけフランスでソ連の芸術政策への批判が高まったことは、当時フランスとの関係改善に向かっていたソ連指導部にとって懸念材料となった。ひょっとしてショスタコーヴィチが自殺するのではないか、万が一そうなったなら国際的な大スキャンダルとなりかねないという配慮も働いて、しばらく続いた反ショスタコーヴィチ宣伝は退潮に転じた(200頁)。このような経緯を見ると、上からの指令で全てが決まっていたかに見える政策も、国内での秘かな反応や国外世論の動きなどを見ながら、それに対応して変動していたことが窺える(もっとも、著者自身はそうした結論を引き出してはいない)。
吊るし上げられた後に一種の恩赦を得たショスタコーヴィチは、大衆の耳に馴染みやすい映画音楽をはじめとして、いくつかの作品を書いたが、そのなかで最大傑作と目されているのが有名な交響曲第5番(1937年11月初演)であり、この作品は大成功を博した。この曲をめぐっては、一方の極に「社会主義体制勝利の賛歌」、他方の極に「スターリン独裁のもとでの悲劇と苦悩の表現」という極端なまでに隔たった種々の解釈が出されてきた(後者の解釈を生み出すきっかけをつくったのはヴォルコフの旧著『証言』である)。私はこの曲を若い頃から何回となく聴いてきたし、ある時期以降は、相異なる解釈のどれが妥当なのかと考えたりもしてきたが、結局のところ、そのような政治的含意を求めること自体が見当違いなのではないかという気がしてきた。オペラやオラトリオと違って歌詞を持たない器楽作品である以上、そこにどのような意味をもたせるかは、聞く人の立場や気分によって大幅に異なる(声楽作品との違いについて、この小文の付論を参照)。そのどれかが正しいとか間違っているというのではなく、どんな風にでも聴くことができるというのがこの作品の特徴であり、どういう政治的意味を読み込もう(聞き込もう)と、それに関わりなく「よくできた作品だ」と感じさせるのがこの曲の強みだということではないだろうか。
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本書には、以上で触れた以外にも興味深い叙述が各所にあるが、個人的には、交響曲第7番を取り上げた第5章に関心を引かれた。通説によれば、この曲は1941年6月の独ソ戦開戦直後に構想され、一気に書き上げられたとされる。しかし、ヴォルコフはこの曲の構想は開戦以前にできていたのだということを力説している。そこには、この作品と戦時プロパガンダを切り離そうという意図があるように感じられる。かつて戦争と結びつけて賛美されてきた作品を脱神話化しようという意図は理解できるが、そういうヴォルコフは逆の方向にこの曲を神話化しているのではないかという気もする。
作曲の経緯はともかく、独ソ戦の最中に初演されたこの曲は、戦意を高揚させる愛国的な作品と受け取られ、ソ連国内で熱狂的に歓迎されただけでなく、当時ソ連と「大連合」を組んでいたアメリカでも好意的に受けとめられた(アメリカでの初演を誰が指揮するかをめぐり多くの有名指揮者の間で競争があり、結局トスカニーニが指揮したという)。もっとも、そうした全般的な好評に反撥する人たちもいて、特にバルトークはこの曲を酷評した(私自身、バルトークの酷評の影響で、これはつまらない作品だという印象を持ってきた)。その後、冷戦期の西側では、これはソ連体制プロパガンダの駄作だという見方が広がり、更にはそれがソ連のエリート層にも浸透した。しかし、ヴォルコフによればそれは不当だという。そのことを示す例として、あるときシュニトケはアメリカでこの作品を聴いて、これは傑作だ、自分はこれまでこの作品を過小評価していたと述べた、というエピソードが紹介されている(351-352頁)。もっとも、芸術作品の評価というものは一義的に定まりきらない面があるから、これを「駄作」と思っていたときのシュニトケと「実は傑作だった」と感じたシュニトケのどちらが「正しい」ということを決めるわけにはいかないだろう。ただ、同じ曲の受け止め方や評価が時代状況に翻弄されるという問題は、いろんなことを考えさせられる。
以上、ところどころで著者ヴォルコフ――およびある程度まで訳者亀山郁夫――の意図に逆らいつつ、私なりの感想を書き綴ってきた。音楽家と政治や歴史の関係は一筋縄では整理しきれないものだが、ともかくその複雑な関係について考え、と同時に、そうした雑念にとらわれることなく素直に作品を聴くことの大事さにも気づかされたという意味で、面白い読書体験だった。
(付論)
ショスタコーヴィチの『森の歌』(1949年)がパーヴォ・ヤルヴィ指揮、エストニア国立交響楽団の演奏で録音されたということを左近幸村氏の紹介で知り、早速CDを購入した。スターリン個人崇拝の絶頂ともいうべき時期に体制賛美の作品としてつくられたこの曲を今日のエストニアで演奏することについては激しい論争もあったようで、ヤルヴィも批判を承知の上で敢えて録音に踏み切ったらしい。一般論として、バルト三国を含む旧ソ連諸国の音楽家たちがソ連時代の作品を今でも重要なレパートリーとしているのはごくありふれたことで、特に驚くべきことではないが、この作品のようにスターリン賛美と密接に結びついている作品の場合には、事態はずっと複雑になる。いってみれば、イスラエルでワグナーの作品を演奏するようなデリケートさがここにはあったものと想定される。ダニエル・バレンボイムがイスラエルでワグナーを指揮したときと似た葛藤がヤルヴィにもあったのではないだろうか。
CDを買ってから何度か聞いているうちにいくつかの感想が湧いてきたが、素人の音楽談義はおくとして、ふと気になったのは器楽と声楽の違いである。器楽作品の場合、それ自体にイデオロギー的な内容が直接表現されるということは基本的にない。もちろん、裏を読めば(この場合、「裏を聞けば」といった方がよいのかもしれないが)、いろんな意味を読み込む(聞き取る)ことができるだろうが、それはそれぞれの聴者の自由な想像に委ねられる。ショスタコーヴィチの交響曲第5番をはじめとする器楽作品の解釈が今日に至るまで大きく割れているのは、その一つのあらわれだろう。これに対し、声楽作品の場合、歌詞というものがあるから、その表面上の意味はそこに示されているし、裏を読むにしても、その読み方は現にあるテキストに制約されるから、器楽作品ほどの自由度をもちにくいのではないか。そして、この曲の場合、スターリン批判後に歌詞が部分的に変更されてスターリン賛美色が薄められたという経緯があるが、この録音では敢えて変更前の歌詞を使っているということで、これはかなり大胆な選択である。その上、ロシア語の歌詞をエストニアの声楽家が歌うということも、言語問題の政治的デリケートさを思うなら、いろいろと微妙な問題がある*9。
そんなことを考えているうちに、オーケストラはさておき声楽部分をどういう人が担当しているのかが気になってきた。CDのカバーによれば、ソロはバスがアレクセイ・タノヴィツキー、テノールがコンスタンチン・アンドレーエフということで、名前から判断する限りどうもロシア人であるように見える。合唱はエストニア・コンサート合唱団のほかに児童合唱があり、この児童合唱はナルヴァ少年合唱団となっている。ナルヴァといえば住民の大多数がロシア語系だから、この少年合唱団も主にロシア人からなっているものと推測される。だとすると、この演奏は、ソロおよび児童合唱はロシア人、大人の合唱団は主にエストニア人という組み合わせになっているのだろうか(合唱指揮も、児童合唱団の方はロシア的な名前の人が当たり、大人の合唱団の方はエストニア的な名前の人が当たっている)。そうだとすれば、そのこと自体が意味深長であるように思える。もっとも、ここに書いたのはあくまでも私の勝手な推測に過ぎない。エストニアの音楽事情に詳しい人の御教示を乞いたい。
(2018年4月から7月の間にフェイスブックに投稿したいくつかの原稿をもとに9月に執筆)
*1 ソロモン・ヴォルコフ『ショスタコーヴィチとスターリン』亀山郁夫・梅津紀雄・前田和泉・古川哲訳、慶応義塾大学出版会、2018年。
*2 水野忠夫訳、中央公論社、1980年。その後も体裁を変えて版を重ねている。
*3 Laurel E. Fay, "Shostakovich versus Volkov: Whose Testimony?," Russian Review, vol. 39, no. 4 (October 1980).
*4 戦時中の1944年に疎開先のタジキスタンで生まれ、終戦後、先ずリガに戻り、次いでレニングラード音楽院で学んだ。1976年に出国。
*5 私は原書には当たっていないが、「訳者あとがき」によればロシア語版・英語版とも同じタイトルで、ロシア語版には「芸術家とツァーリ」という副題がついている。
*6 この問題については本書の第1章で触れられているほか、梅津紀雄「ショスタコーヴィチとロシア革命――作曲家の生涯と創作をめぐる神話と現実」青山学院大学『総合文化研究所年報』第18号(2011年)に詳しい検討がある。
*7 余談ながら、このとき優勝したのは、ショスタコーヴィチとともにソ連から参加したレフ・オボーリン。
*8 本書によると、芸術家たちの間での反撥や不満の存在は、今では公開されている当時の秘密文書から明らかだが、1960年代にそのことを思い出す人はほとんどいなかったという。スターリン批判後の時期である以上、「実は自分は当時、秘かに抵抗していたのだ」と誇ってもよさそうなものだが、当事者自身がそのことを忘れ去っていたという指摘は興味深い(195-197頁)。
*9 エストニアにおける「言語の政治」「歴史と政治」という問題に関して、塩川伸明『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』岩波書店、2004年、小森宏美『エストニアの政治と歴史認識』三元社、2009年、橋本伸也『記憶の政治――ヨーロッパの歴史認識紛争』岩波書店、2016年、橋本伸也編『紛争化させられる過去――アジアとヨーロッパにおける歴史の政治化』岩波書店、2018年など参照。