プロヒー『ウクライナ全史*1』を読む
1
日本では最近までウクライナのことがあまりよく知られていなかったが、戦争という大事件の勃発に伴い、このところ急速に関心が高まってきた。そのこと自体は歓迎すべきことだが、事情にあまり通じていない人たちの間では、やや一面的な理解が広まる傾向もなしとしない。戦争に象徴される政治対立と歴史が無縁でない以上、歴史の見方も立場によって大きく分かれざるを得ないが、ある一つの歴史観を無条件に「正しい」ものとして受けとめる傾向がしばしば見られるように思われる。ここで取り上げるプロヒーの場合、力のある本格的歴史家であることは疑いないが、それはあくまでも「一つの有力な見方」ということであって、あれこれの点をめぐって論争にさらされることがあるのは当然である。このこと自体は当たり前のような話だが、非専門家間で急速に時事的関心が高まっている状況の中で、たまたまよく知られている人の見解がウクライナ全体を代表する「決定版」であるかに受けとめられがちであるのは、やむを得ないこととはいえ、やや気になるところがある。
私自身はウクライナの歴史(家)のことについてそれほど深く通じているわけではなく、口幅ったいことが言えるわけではないが、それでもウクライナ史に関する種々の著作を長らく読んできたし*2、最近は多数のウクライナの社会科学者(社会学者・政治学者・歴史家)の論文を読んで、その多様性や微妙なニュアンスの差異に接してきた経験がある*3。それに照らしていうなら、ウクライナの研究者たちの歴史観は実に多様である。研究者である以上、露骨な事実無視や歪曲は滅多にないが、さまざまな形での偏りがあるのは当然である。現代的な政治対立との関係で言えば、ロシアべったりとかウクライナべったりといった極端な政治主張は研究者間では相対的に少ないが、それでもどちらかといえばウクライナ・ナショナリズム寄りとか、それに批判的といった差異はある。そういう配置の中でプロヒーの場合、あからさまなウクライナ・ナショナリズム賛美論者とは言えないが、どちらかといえばその方向に傾斜しているという観は免れない。それで悪いというわけではないが、とにかくそのような傾斜があるということをわきまえておかないと、無自覚のうちにある方向に引きずられるということになりかねない。なお、プロヒーの多数の著作のうち、私がこれまでに読んだのは、The Last Empire: The Final Days of the Soviet Union, Oneworld Publications, 2014, Paperback Edition, 2015だけだが、これは感心するところとあまり感心できないところが入り混じっていて、評価に戸迷う著作だった*4。今回読んだ『ウクライナ全史』は相当分厚く、幅広い事項を扱っているので、きちんと検討するのは容易ではない(特に古い時期の歴史は私自身があまり通じていないので、論評する資格がない)が、とにかく頑張って通読した感想を綴ってみたい。
2
セルヒー・プロヒーは1957年生まれのウクライナの歴史家である(生まれたのはロシアのニジニ・ノヴゴロドだが、幼少期にウクライナ東部のザポリッジャに移住し、モスクワやキーウの大学で学んだ後、ソ連解体前後の時期に出国して、現在はハーヴァード大学ウクライナ研究所所長)。2023年6月に来日したこともあって、日本でもわりとよく知られている(邦訳は本書が最初だが、ロシアとの戦争を扱ったもう一つの本も邦訳準備中とのこと)。日本で比較的知名度が高いことと多作であることがあいまって、ウクライナの歴史家と言えば彼しかいない――あるいは、彼が最も代表的だ――と受けとめられやすいが、そう決めてしまうのは単純化に過ぎる。本書は多岐にわたる事項を取り上げているため、その特質や他の歴史家たちとの比較をきちんと論じるのは難しいが、とりあえずの感想を記しておきたい。
先ず、全体としてどういう性格の本なのかを知るために、タイトルについて考えてみたい。英語の原書と邦訳書とではメイン・タイトルとサブタイトルが逆になっており、また「全史」の「全」という表現は日本語で付け加えられたものだが、とにかく英語版と日本語版でそれほど大きな差異はない*5。「ウクライナ全史」(A History of Ukraine)というタイトルは、後に「ウクライナ」としてまとめられるようになる地域およびそこに住む人々を一括して「ウクライナ」と呼ぶ発想を前提しているような印象を与える。もっとも、本文を読むと、それほど単純な歴史観が披瀝されているわけではなく、時期によって異なる人々が異なる関係を織りなしていたことが叙述されているが、タイトルおよび全体の構成は「ウクライナ」という単一の単位が単一の歴史を持つというイメージを喚起しやすい形になっている。他の点についても言えることだが、本文の各所では個々の事実についてバランスのとれた複合的な叙述をしていながら、タイトルとかまとめとかの部分ではそうしたバランス論から離れて単純化された構図が示されているという印象を受ける。
本書は「民族としてのウクライナ人」を単一の主体とする歴史像を描くのではなく、ロシア人、ユダヤ人、ポーランド人等の存在およびそれらの相互関係を視野に入れ、トランスナショナルな関係の束として歴史を描こうとしている。そのことと関係して、ウクライナ人が古くから一貫して独立を目指していたという単線的な歴史観はとられていない。ところが、いくつかの章の末尾では、独立がウクライナ人の目標だったという単純化された命題が出てくる。本文における細かい史実に関する複合的な叙述に退屈する読者がこういうまとめだけを読むと、古くから一貫して独立を目指していたという民族主義史観に近づくことになるのではないかという気がする。
もう一つの問題は、「ゲート・オブ・ヨーロッパ」(The Gates of Europe)という言い方と関わる。この表現にはヨーロッパと非ヨーロッパを二項対置するニュアンスが感じられる。この点も、本文ではかなり細かい記述があり、ウクライナはもっぱらヨーロッパだけを志向してきたというような単純な主張がなされているわけではない。だが、いくつかの章の末尾ではそのようなイメージが浮かび上がるような書き方になっている。こういうわけで、本文各所に盛り込まれている多様な事実に関するバランスをとった複合的記述と、まとめ的な部分における図式との間に微妙なズレがあり、後者に着目する読者はやや一面的な解釈に誘導されるのではないかという危惧をいだかせる。
3
本書は時系列に沿った構成で、大きく5部に分かれている(それぞれの部がいくつかの章に分かれている)。古い時期ほど私自身の知識が乏しいので、そうした時期についてはごく簡略な検討にとどめるほかない。
序章は現代的状況に触れているので後回しにし、第T部(第1-6章)は、スラヴ人進出以前の時期、スラヴ人の到来、ヴァイキング、キーウ公国(キーウ・ルーシ)の成立とキリスト教化、キーウ公国の分岐、モンゴルの到来といった経過を扱っている(13世紀半ばまで)。この過程のうちのいくつかの個所をめぐっては、解釈をめぐる論争があるが、私のあまり通じない時期であるため、立ち入らないことにする。
小さな点だが、6世紀頃について、「スラヴ人は民主主義の守り手の名のもとに歴史に登場した」と述べた個所がある(上、49頁)。ここで「民主主義」という言葉でどういうことを了解しているのかは定かでない。かつては現代と違って「民主主義」を良きものとする常識は存在しなかったはずだが、ここで著者が何を言おうとするのか理解に惑う。
第5章では、キーウ・ルーシの正統な継承者は誰かという論争があることが触れられている。もっとも、それが「ロシアとウクライナの論戦に発展した」のは19世紀半ばのことだとされており、そのような「論戦」が古くから一貫して続いていたと捉えられているわけではない。とはいえ、この論争が章を通じて重視されている印象もあり、それは現代における論争を念頭においているのではないかと思われる。章の終わり近くでは、モンゴル到来に先だってキーウ・ルーシの分岐が進んでいたことが指摘され、ある時期以降の公たちは民族的・文化的なアイデンティティは大きく違っていなかったろうが、どの地域に強い愛着心を持つかで異なり、ルーシのアイデンティティの複雑化が進行したとされている(上、95-96頁)。そして章末には、12-13世紀に生まれた各公国のアイデンティティの起源はみなキーウにたどれる、そのことはウクライナ人に他にはない恵みを与えた、とある(上、98-99頁)。こうしたまとめ方も、本文の慎重さに比べ、やや大胆な図式化ではないかという気がする。
第6章ではモンゴルの到来によってキーウ・ルーシの政治的統一という幻想は消え去り、現在のロシアに位置するヴラジーミル・スズダリ公国とウクライナの中部と西部にまたがるハリチ・ヴォリニ公国の二つがモンゴルによって認められたことが記されている。この段階ではまだ「ウクライナ」というまとまりも名称も確定していなかったはずだが、章の各所で「ウクライナ」の語が使われ、後のウクライナの萌芽が生まれつつあったという把握が示唆されているように見える。モンゴルの侵攻後、ルーシのエリートは二つの選択肢の板挟みになった、その一つはステップ遊牧民とビザンツ帝国のキリスト教の伝統に象徴される東の世界、もう一つはローマ教皇の権威を認める中央ヨーロッパの君主に体現される西の世界だ、とある(上、113頁)。立ち入った説明がないので、含意は推測するしかないが、東西の対置、そして東向きのロシアに対してウクライナは西の方に向かっていくのだという図式が仄めかされているようにとれる。
4
第U部(第7-12章)は、14世紀から18世紀半ばまでを扱っている。後にウクライナと見なされる領域は、この時期にポーランド王国とリトアニア公国――ルブリン合同(1569年)で連合王国(士族共和国)となる――に編入され、他方、モスクワ大公はキプチャク・ハン国からの独立を宣言した。表現の問題だが、後にウクライナということになる領域のことを単純に「ウクライナ」とする表記が各所でとられている。「のちに現代のウクライナ国家が形成される地理的基盤になる歴史的、政治的実体」が創出されたという記述もある(上、133頁)。後に確定される単位の起源を古くさかのぼろうとする志向があるのかもしれない。
第8章はコサックにあてられている。一口にコサックといっても雑多な集団を含むはずだが、コサックのアイデンティティの曖昧さが解消したとか、圧倒的多数はウクライナ人だったという書き方はやや性急ではないだろうか(上、143頁)。もっとも、少し後の方には「ウクライナ・コサック」という言葉も出てきて(上、148-149頁)、ウクライナ系でないコサックの存在も暗に前提しているかのようにも読める。
第9章は正教会とカトリックの関係、とりわけ東方典礼カトリック教会の誕生を扱っている。この過程は入り組んでおり、これまでも多くの研究があるが*6、私自身が直接取り組んでいるわけではないので、立ち入らないことにする。章末には、教会合同をめぐる対立には激しい非難の応酬や暴力さえも伴ったが、同時に、議論を尽くし、意見の相違を容認する新しい文化の形成を促した、彼らは信仰の問題で対立していても、みなルテニア民族(ルーシ民族)という存在を最大限に尊重していた、とある(上、170-171頁)。他の章でもそうだが、本文では多面的で細かい記述をしていながら、まとめのところでは一挙に大きな図式を出しているという印象がある。
第10章と第11章は17世紀のフメリニツィキーの反乱およびその後の経緯を主題として、かなり長大な叙述を展開している。この主題は古くから論争の対象となってきた経緯があり、本書もそれを引き継いでいる*7。その意味では、この章における記述は、その細かさを別にすればそれほど驚くべき新奇性を持っているわけではない。ただ、ペレヤスラウ協定(1654年)はウクライナとロシアの統一でもなければ、ソ連の歴史家が示唆したような「兄弟民族」の合同でもなかったとする結論(上、183-186頁)はやや明快に過ぎる気がする。おそらく現代のウクライナではこれが多数見解となっているのだろうし、「ウクライナとロシアの統一」説も単純化に過ぎるが、この書き方は長年の論争に一方的な決着を付けるもので、極端化の印象がある。
第12章は17世紀末から18世紀初頭にかけての時期を扱っている。この時期に「ウクライナ」という呼び方があらわれたことが述べられているが、その呼称にどのような意味がこめられていたのかは論じられていない。章のはじめには、「現代のウクライナ人のアイデンティティが形成される基盤」という言葉が出てくるが(上、203頁)、その「基盤」がどのようにして発展するのかは、これだけでは判然としない。この章で重要な役割を演じる人物として、ヘチマン(コサックの頭領)イヴァン・マゼーパ――ロシアのピョートル1世の忠実な家臣として振る舞ったが、北方戦争の中で1708年にピョートルと縁を切り、スウェーデン側についた――がいる。彼はポルダヴァの戦い(1709年)で敗北し、オスマン帝国支配下のモルダヴィアに亡命した*8。この戦いの後、ロシアは「帝国」を称するようになり、ヘチマン国家への締め付けを強めた。なお、小さな問題だが、「十七世紀にはまだ、ロシアのエリートには二つの民族は縁続きだという観点はなかった」というのは(上、207頁)、言い過ぎではないだろうか。
5
第V部(第13-17章)は18世紀から20世紀初頭を対象としている。大まかにいって近代史ということになる。
第13章では18世紀が論じられている。先ずロシア帝国下に入っていた部分について、ヘチマン職が廃止され、やがてヘチマン国家そのものが消滅したことが述べられている。「ヘチマン国家のロシアへの統合は、それを思いがけない幸運と信じる多数の住民の支えで果たされた」(上、228頁)とあるのは注目される。続いて、クリミヤ半島および黒海北岸がロシアの手に入り、「ウクライナ南部」はノヴォロシアと呼ばれたことが記されている。この地には多くの人々とりわけ東スラヴ人が入植したが、「民族構成の大部分はウクライナ人が占めていた」とある(上、236頁)。「ウクライナ南部」という呼び方は当時はなかったはずだし、入植者の多数がウクライナ人だったというのもどういう根拠によるのか分からない。18世紀末には3次にわたるポーランド分割があり、それまでポーランド領だった地域はロシア、オーストリア、プロイセンに分かれることになった。これによって、今日のウクライナの大きな部分がロシア領ということになったが、著者はこれは「ウクライナの再統一」ではなかったことを強調する(上、241頁)。それはその通りだが、どうしてわざわざそのことを強調するのか、解釈に戸惑う。
第14章では、19世紀における民族主義の高揚という文脈で、ともに国家を失ったポーランドとウクライナが論じられている。国民の観念の基礎を言語と文化におくヘルダーの考えが広まり、言語・民間伝承・文学・歴史が重視された。ロシアでもポーランドに対抗するナショナリズムが高まり、ウヴァーロフ教育大臣は「専制、正教、国民性(ナロードノスチ)」の3本柱を掲げた。ウクライナ語で書く文学者としてシェウチェンコが現われた。彼はゴーゴリがロシア語で書いていることを批判したといったことが指摘されている。ここは比較的無難な叙述であるように感じる。
第15章はロシア領とハプスブルク領の境界およびそれを超えた関係が重視され、ハプスブルク領のハリチナ(特にその東部)が主要に論じられている。その地のウクライナ人はルテニア人もしくはルシン人と称していた。ルテニア人はポーランド人と違ってオーストリア支配に忠実だった。彼らは、後の用語でいえば「親ウクライナ派」「親ポーランド派」「親ロシア派」に分かれた。「この民族がより大きなロシア民族の一部なのか、ウクライナ民族の一部なのか、あるいはどちらとも違う民族なのかは、まだ答えが出ずにいた」とある(上、272頁)。いずれにせよ、この地での出版物はロシア領に持ち込まれたため、ロシア政府の警戒を招いた。ロシアではもともとウクライナ語での出版がヴァルーエフ時代に禁止されていたが、1876年のエムス法は外国からのウクライナ語書籍の輸入を禁止した。この禁制は1905年末に解除されるまで維持された。章末には、オーストリアのルテニア人とロシアの小ロシア人が同じ民族であることに疑問はなかったとある(上、282-283頁)。このまとめ方は本文における曲折した叙述と比べて単純化されているような印象を受ける。
第16章はロシア領地域を扱っているが、ハプスブルク領を扱った前章に比べてやや散漫な印象がある。イギリス人実業家ヒューズによる工場開発の話に始まって、クリミヤの動向(タタール人が大量に出国し、ロシアによる開発が進展した)に続いて、いきなりフルシチョフ、ブレジネフやゴルバチョフの名が出てくる。そうかと思うと、「労働者の大部分はロシア人だった」という文章があるが(上、295頁)、これはそれ以上敷衍されず、孤立している。よく分からないが、ハプスブルク領地域に比べロシア領地域について掘り下げる意欲があまり強くないのではないかという印象を受ける。
第17章は1905-06年の第一革命およびその後の時期(10月詔書や国会開設など)を扱っている。戦艦ポチョムキン号の反乱に関して、首謀者と参加者の大半はウクライナ出身であり、ある下士官が「一説によればウクライナ語で「いつまで奴隷でいるつもりなのか」と船員に呼びかけた」とある(上、305頁)。続いて、ポグロムの話が出てくる。ポグロムは1880年代に始まったが、1905年のそれはもっと大規模だったことが指摘されている。問題はその加害者だが、「保守的な帝政支持者」とか「保守派の大衆」といった言葉が続いた後に、「加害者はたいていロシアか、比較的数は少ないがウクライナの貧しい村から都市に移住してきたばかりの労働者だった」と書かれている(上、307-309頁)。ウクライナ人が加害者の中に多かったことを認めたくないのではないかという印象を受ける(上、319頁も参照)。ウクライナ人の政治運動に関しては、先ずあまり知名度の高くないミフノウシキーという人物が取り上げられ、彼が独立を目標として宣言したことがかなり詳しく紹介されている(上、310-312頁)。それに続いて、当時ウクライナ人政治家の大半が求めたのは「「解放された」民主的連邦制ロシアの中での自治であり、完全な独立ではなかった」という短い文章がある(上、312頁)。こういう論の進め方は、当時の大半の政治家の動向よりも少数の例外の方を重視するニュアンスが感じられる。10月詔書と時を同じくして、ウクライナ語の出版に関する公式の禁止令が廃止され、ウクライナ語での出版は急増した。これは重要な指摘である。その後の第2ドゥーマの解散に関する説明(上、314頁)はあまり要を得ない。フルシェウスキーに関する叙述が続き、彼は「民主的な連邦制のロシアの中で自治権をもつ民主国家ウクライナ」を目標としたと書かれている(上、316頁)。章末では、革命運動の退潮により、「ウクライナ人の独立の夢、あるいは自治の夢ですら」当面手が届きそうになくなったとある(上、321頁)。あくまでも独立が第1の夢であり、民主的連邦制の中での自治はそれに次ぐものだという理解が前提されているように見える。
6
第W部(第18-23章)では第一次世界大戦からロシア革命を経て第二次世界大戦に至る時期が扱われている。いわば現代史の前半ということになる。
第18章では、先ず第一次世界大戦の勃発が述べられている。オーストリア領だったハリチナ(ロシア風にはガリツィア)はロシア軍によって占領された。1917年には2月革命が起き、キーウでは中央ラーダが設立された。当初は、中央ラーダは国土と平和という二大要求を満たすことができる唯一の機関と見なされていたが、秋までにその威信は落ち、実権はソヴィエト(評議会)に移りつつあったという。ペトログラードで10月革命が宣言されると、中央ラーダはこれに対抗して「ロシアとの連邦制を維持しつつ独立した国家であるウクライナ人民共和国」の建国を宣言した。ボリシェヴィキはキーウでは少数派だったが、ハルキウで暫定国家ウクライナ人民共和国(ソヴィエト派)の樹立を宣言した。こうした2派の対抗の中で、ラーダの影響力はリベラルな知識階級にとどまり、労働者には及ばなかったため、都市部ではソヴィエト派が優位となった。1918年1月、中央ラーダはドイツ・オーストリアと講和交渉を展開する前提としてウクライナの独立を宣言した。これに基づいた2月のブレスト=リトウスク交渉(その直後のソヴェト政府とドイツのブレスト=リトウスク交渉とは別)で、ラーダはドイツ・オーストリアとの講和を結び、ドイツ軍の介入を認めた。直ちにドイツ軍がウクライナにやってきて、スコロパツィキーの政権を誕生させた。この政権はドイツを後ろ盾に持っていたとはいえ、ウクライナの自治および独立という理念をいだいていたとされる。これに対抗して、ボリシェヴィキ派はオデーサ人民共和国、ドネツィ・クリヴィー・リーフ共和国、タウリダ共和国を建て、クリミヤをも制した(中央ラーダは一度もクリミヤ領有を主張したことがないことが指摘されている)。1918年11月、ドイツが降伏して第一次世界大戦が終結すると、ウクライナからドイツ軍が撤退し、スコロパツィキー政権に対して「ディレクトリア」派が立ち上がり、ウクライナ人民共和国を復活させた。ハリチナでは西ウクライナ人民共和国と呼ばれるもう一つのウクライナ国家が誕生し、ポーランドとの戦争に突入した。東西二つの人民共和国は合同の方針を打ち出したが、それは次章で見るようにうまくいかなかった。章末では、戦争の中で「民族のアイデンティティ」が発揚されたことが述べられ、そのなかで生まれた新しい政治は「独立」を明確な政治目標としたとされている。独立という大義名分はウクライナ人を鼓舞する一方、少数派民族を敵に回し、隣人を疎外したとも指摘されている(下、26-27頁)。このまとめ方は、本文における多面的展開を単純化するものではないかという印象を受ける。
第19章では1919-21年という短い時期が扱われている。前章で見たように、ディレクトリアの軍を率いるペトリューラと西ウクライナ人民共和国のハリチナ軍は統一を目指したが、実際には、誰を主要敵と見なし、誰を可能な同盟相手と見なすかで対立し、分解した。西ウクライナの立場からは、反ボリシェヴィキ・反ポーランドのために白軍と同盟を結ぶのに何の問題もなかったが、東ウクライナの人々はボリシェヴィキと白軍に対抗するためにポーランドを同盟しうる相手と見なした。この内部対立状況にチフスが追い打ちをかけ、1919年末までにウクライナの軍隊は消滅し、国家としての体裁も失われた*9。その後のウクライナではポーランド、白軍、ボリシェヴィキの3者が相争ったが、ボリシェヴィキはそれまでの民族問題軽視を反省して、ウクライナにおける民族革命の文化的受容を進めることで成功を収めた。ウクライナの左派(「社会主義革命家」と訳されているが、「エスエル」と訳す方が分かりやすい)はボロチビストという独自の党派をつくり、次第にボリシェヴィキに吸収された。内戦の中でポグロムが猖獗を極めたが、1918年にそれを実行したのはドイツ軍でも中央ラーダ軍もなくボリシェヴィキだったと書かれている(下、39-40頁)。その後もポグロムは続き、「全体では、ポグロムのおよそ20%が白軍、10%が赤軍、25%が軍閥、40%がペトリューラ軍によるもの」だったという(下、40頁)。総体としては赤軍によるものはあまり多くなく、ペトリューラ軍が最大だった――「軍閥」が何を指すか不明だが、これも多くがウクライナ人だったと思われる――ということになるが、あまりそれを目立たせないような書き方である。ペトリューラ自身は反ユダヤ主義に反対だったが、現実にはポグロムの実行犯をほとんど処罰せず、罰したとしても遅きに失したとされている(下、42頁)。反ユダヤ主義と闘った唯一の指揮官はネストル・マフノだったという。クリミヤでは人口の約3割を占めていたタタール人がクリミヤ人民共和国を樹立したが、短命に終わった。結局、1921年3月にリガで、ソヴィエト・ロシア、ソヴィエト・ウクライナ、ポーランドが平和条約に調印した。章末のまとめでは、この時期には独立国家形成は成功しなかったが、それでも「独立統一国家という理想は、ウクライナの新しい信念の柱になった」とある(下、47頁)。成功しなかった目標を「信念の柱」と描きたいという志向があるように感じられる。
第20章では主に1920年代が扱われている。冒頭近くに「ロシアの主導するソヴィエト連邦の一部」という表現がある(下、49頁)。だが、ロシア・ナショナリズムを強く警戒していた共産党とソ連を「ロシアの主導」と断定する根拠は示されていない。とにかくソ連に入ったウクライナは「ソヴィエト版民族共産主義」と特徴付けられ、ポーランド領のハリチナとヴォリニを本拠とした急進ナショナリズムと対比されている。ソ連形成時の論争についての解説は通俗的だが*10、「レーニンはウクライナの立場を支持した」とされ、ウクライナが獲得した事実上の自治はそれまで多くのウクライナの政治家たちが想像していたものを超える大きな特権だったとあるのは注目に値する(下、50-51頁)。コレニザーツィヤ、すなわち「現地化」政策の説明がこれに続き、忠実な現地エリートの創出が目指されたことが述べられている。ここで問題となるのは、現地化政策がどのように推進されたかである。シュムスキーを中心とするウクライナ民族共産主義者とカガノヴィチの対抗のことはかねて知られているが*11、本書では、「スターリンがウクライナ化を支援したのは戦略であり、一時のことだった。スターリンははロシア人とウクライナ人が同国民であると考えており」と根拠抜きに書かれており(下、56頁)、共産党中央はウクライナ化政策に懐疑的だったことを示唆している。そのことが1929年のウクライナ解放同盟事件に示されたという。言語と文化のウクライナ化の度合いについては、ハルキウでウクライナ語を母語とする者の割合が24%から32%に増大したに過ぎず、これは「取るに足らない増加」だという(下、57頁)。もともとロシア語の優勢なハルキウで十数年の間に母語率がこの程度変わったのはかなり大きな変化とも見られるはずだが、著者はその考えをとらないようである。章の後半では、ポーランド領ハリチナを中心とする地域とソヴィエト・ウクライナの関係が論じられている。ソヴィエト政権は当初、ウクライナ・ソヴィエト共和国を「新しいウクライナのピエモンテ」(将来の統一の根拠地)と位置づけていた*12。戦間期のポーランドは、国内におけるウクライナ人の権利を一応認めることをうたっていながら、実際にはそれを無視していた。そのことはウクライナ化を推進していたソヴィエト・ウクライナを相対的に優位な立場においた。ポーランドのウクライナ人政策が厳しいものだったことから、それに対抗するウクライナ民族主義者の団体は、地下組織ウクライナ軍事組織から1929年に「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」と改称して再出発した。OUNは二つの暗殺事件を起こしたが、それを計画したのはステパン・バンデラだった。ヴォリニには、ハリチナから来たOUNのほか、ソヴィエト・ウクライナから来た西ウクライナ共産党の支持者もおり、人数は後者の方がずっと多かった。続いて、ルーマニアおよびチェコスロヴァキア領内のウクライナ人について(後者はサブカルパティア・ルテニア)述べられ、これらと対比するとき、戦間期にはモスクワだけがウクライナの国家計画に何らかの形の国家を認め、ウクライナ文化の発展を支援したとされている(下、71頁)。なお、この個所は「国家」の語が繰り返されていて分かりにくいが、原書を見ると前の方はnational project, 後ろの方はstatehoodである(p. 244)。後ろは「国家」でよいが、前の方は「ネイションの企図」とでも訳した方がよい。これ以外にも各所でnationが「国家」と訳されているが(上、99頁、下、36頁、47頁、166頁、第18章のタイトル、また下、232では「ロシア国」という表現が出てくる)、ネイションは国家ではないので、この訳は妥当でない。章末では、当初は一定の有意性を持っていたソ連の民族共産主義は1930年代の大転換で挫折したとして、次章に続く形になっている。
第21章は前章をうけて、1930年代のスターリン時代が扱われている。急激な工業化および農業集団化の時代である。小さなことだが、「それまでの全労働者同一賃金政策をやめ」とか、「クルクーリ(ロシア語でクラーク)」は本来は富農を指したが、「村の人口のうち最貧層しか除かれなかった」というのはやや誇張の観がある(下、77, 79頁)。どちらも大まかな傾向としては一応言えることだが、このような単純化は対象にあまり深い関心をいだいていないのではないかという気がする。飢饉が広がる中でウクライナの喪失が危惧され、1932年にウクライナ化政策が停止されたとある。この時期に政策転換があったのは確かだが、ウクライナ化政策の全面停止という捉え方もやや単純化の観がある*13。続いて1932-34年の飢饉が叙述され、ウクライナにおけるが死者数は400万以上とされている*14。問題は、これが意図的な大量殺害だったのかどうかという点にあるが、本書では「放置した」という書き方になっている(下、84-85頁)。この大飢饉(ウクライナでは「ホロドモール」と呼ばれる)はウクライナとその国民に対する計画的なジェノサイドだったのかという問いが出され、2006年11月にウクライナ議会はそうであると認定したが、「ジェノサイド」の定義をめぐる国際的論争が続いていると述べられている。飢饉はウクライナには限られず、北コーカサス、ヴォルガ川下流域、カザフスタンでも被害があったが、民族に向けられた政策から飢饉が発生したのはウクライナだけだったとも述べられている(下、86頁)。このあたりの書き方は微妙だが、スターリン政権の非道さを強調しつつも、計画的なジェノサイドとまで断定するのは避けているように見える。続く個所では、ウクライナの自立性が引き下げられたことが述べられているが、「自治共和国」という書き方は不正確である(下、86頁)。更に1930年代後半の大粛清でウクライナが大きな被害を出したことが述べられているが、その度合いがソ連の他共和国・民族と比べて特に大きかったかどうかは触れられていない*15。章の終わり近くでは、チェコスロヴァキア(その頃までにヒトラーの指令で分割されていた)のザカルパッチャで自治政府がつくられたことが言及され、この動向はスターリンを不安にさせたと述べられている。
第22章ではヒトラーによるウクライナ統治の時代が扱われている。先ず、独ソ不可侵条約付属秘密議定書(条約本体と秘密議定書が区別されることなく一体として扱われている)による独ソ提携、ポーランド分割、およびカティン事件のことが述べられている。1941年6月には独ソ戦が始まり、ドイツ軍がウクライナに侵攻した。それまでのソ連支配に苦しんでいたウクライナ人は当初ドイツの到来を歓迎したが、彼らの期待はすぐに裏切られた。もっとも、ドイツの東部占領地域担当大臣アルフレート・ローゼンベルク(バルト・ドイツ人)はウクライナ人、バルト人、ベラルーシ人、グルジア人などの独立を支援しようとした。しかし、彼は党内の政治闘争に敗れ、その構想は現実化しなかった。ナチ政権の政策はウクライナ人を失望させ、OUNはドイツとの協力者から敵に転化した。OUNはバンデラ派とメリニク派に分かれていたが、前者が尖鋭な反ドイツになっただけでなく、より穏健な後者も結局はドイツ軍と戦争状態になったと書かれている(下、102-103頁)。もっとも、この点に関しては異論を挟む余地があり*16、本書の書き方は相対的にバンデラに同情的という観がある。続いて、ウクライナにおけるホロコーストに関する叙述があるが、ユダヤ人虐殺へのウクライナ人の関与には触れられていない(ユダヤ人を救おうとしたウクライナ人については記述されている)。章末では、ドイツ撤退後にやってきた赤軍はウクライナ人の忠誠を疑い、彼らは「勝利した共産主義政権の脅威」になったと書かれている。
第23章では独ソ戦後半におけるソ連の巻き返しが扱われている。ドイツ軍を西に押し返したとき、フルシチョフの率いるソヴィエト勢力は旧敵たるウクライナ民族主義者と遭遇した。ソヴィエト当局は彼らをバンデラ主義者と呼んだが、バンデラ自身は1941年にドイツ軍に逮捕されてからウクライナに戻らず、作戦を指示することはできなかったと書かれている(下、120頁)。前章でも触れたように、この点については疑義がある*17。続いて、UPA(ウクライナ・パルチザン軍)とポーランド人の間で衝突が起き、双方が犠牲者を出したが、ウクライナ人に殺されたポーランド人の方がずっと多かったことが述べられている(この問題は今日にまで引き続く歴史論争の大きな要素となる)。1944年7月には赤軍がリヴィウを制圧し、ウクライナとポーランドの国境画定が問題となった。ポーランドではロンドン亡命政権とソ連派のルブリン委員会が対抗していたが、後者とソヴィエト・ウクライナが国境画定で合意し、民族交換によって住民の民族構成を新しい国境にあわせることにした。続いて、東方典礼カトリック教会(ユニエイト教会)のロシア正教会への合流が強要されたことが述べられている(下、130-131頁)。これはソヴェト政権による強制という側面からだけ見られているが、ロシア正教会の動向にも注目すべき要素があるのではないかと思われる*18。戦後のソヴィエト・ウクライナは、かつてウクライナ・ナショナリズムが目指していたことを真似て、古くからウクライナ人の住んでいたポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアの領土を獲得したが、そのことは新しい試練をもたらした。特に西部では戦時中に勢いを伸ばしていたUPAの抵抗が続き、その壊滅は1950年代までかかったことが記されている(下、131-132頁)。章末には、この新領土をソヴィエト化するためにもかつてのウクライナ化政策に立ち戻る必要があったことが記されているが、そうした「不本意なウクライナ化政策」は本来の目標たるロシア化を遅らせることとなったと書かれている(下、132頁)。これはウクライナ化/ロシア化に関する特定の判断を暗黙に前提した叙述という印象がある。
7
第X部(第24-28章)は第二次世界大戦後の時期をソ連時代と独立後をあわせて論じている。いわば現代史の後半ということになる。
第24章では、戦後のウクライナ・ソヴィエト共和国が扱われている。ウクライナは国連の原加盟国となり、国際的地位を高めた。もっとも、経済の惨状(1946-47年の飢饉を含む)からの復興、UPAのパルチザン戦争との戦いといった困難な課題に取り組まねばならなかった。続いて、ユダヤ人弾圧(「国際主義者」と訳されている語は「コスモポリタン」とした方がよいだろう)のことが触れられているが(下、142-143頁)、わりと短い記述であり、あまり詳しい掘り下げはない*19。続いてスターリン死後の時代になり、ウクライナ共産党の地位の高さが触れられている。フルシチョフはウクライナの配下をモスクワに呼び寄せて、高い地位につけた。1954年にはペレヤスラウ協定300周年祝典が行なわれ、ウクライナ人はソヴィエトで二番目に重要な民族に格上げされたとある(下、145頁)。もっとも、ウクライナ人の地位がロシアについて二番目に大きいのはこれ以前からのことではないかとの疑問も浮かぶ(ロシア人をソ連の「長兄」とする比喩になぞらえていえば、ウクライナ人は「次兄」であり、他の諸民族との対比では相対的に高い地位にあった)。1954年の祝典の中でクリミヤがロシアからウクライナへと移管された。この移管の「本当の理由」は地理および経済要因にあったとされている。クリミヤ人口のうちロシア人が71%、ウクライナ人が22%だったから、この領土拡大は民族的要因によるものではなかった(下、146-147頁)。続いて1956年の第20回党大会におけるフルシチョフのスターリン批判秘密報告のことが触れられているが、どちらかというとその限界が強調される感じの叙述になっている。経済政策に関して、「経済開発を担当する地区評議会」(「国民経済会議」と訳した方がよい)が「1920年代の政策への復帰」とされている(下、152頁)。しかし、国民経済会議方式は市場化を含んではおらず、この解釈にはうなずけない。1964年にはフルシチョフが失脚し、ブレジネフの時代が始まった。異論派への取り締まりが強められ、ウクライナではイヴァン・ジューバらが弾圧された。シェレストがウクライナ共産党第1書記を務めている間は「民族共産主義」路線がとられたが、彼が1972年に解任されてシチェルビツィキーに代わると、その路線は取り消された。
第25章はブレジネフの死去からソ連解体までを追っている。かなり駆け足の叙述であり、細かい時期ごとの変化はあまり重視されていない。1982年にブレジネフが死んだ時点で、その後の改革の試み、経済の一挙的崩落、ウクライナの独立への歩みがすべて始まったかのような叙述になっているが、これは複雑な曲折を省いて、何もかもが一直線に進んだかの印象を与える。1985年にゴルバチョフが書記長となってからの過程も駆け足で、時期ごとの細かい変化はほとんど無視されている*20。1986年のチョルノビリ(チェルノブイリ)原発事故については、ウクライナの知識人ドラチが原子力時代の到来を歓迎していたという記述が眼を引くが(下、161頁)、全体としてモスクワによる現地情勢の無視というトーンで貫かれている。ウクライナではあらゆる人がモスクワへの不満を募らせ、共産主義者も民主派もモスクワとりわけゴルバチョフに対抗する点で一致したという書き方も、事態を極度に単純化している(下、163-164頁)。そうした中で、かつての異論派ルクヤネンコらによってウクライナ・ヘルシンキ連合が結成された。特に重視された問題として言語が挙げられているが、この個所もわりと単純で、掘り下げが足りない*21。もう一つの問題として歴史の見直しがあり、1930年代の飢饉、OUNおよびUPAの評価、コサックの歴史などが挙げられているが、これもわりと短くて、あっさりとしている。時系列が1990年に飛んで、西部の活動家の「東への行進」のことが触れられ、その後で1989年のルーフ結成が出てくる。初期のルーフとその後の急進化や内部分岐については触れられていない。東方典礼カトリックの合法化がどのようにして進行したかについても立ち入った検討がない。1990年のウクライナ議会選挙では民主派は4分の1にとどまったが、ウクライナの政治を一変させた、ウクライナ議会の採択した主権宣言は分離独立までを要求しなかったが、ウクライナ法の優先を主張したとあり、節の末尾では「主権、そして最終的な完全独立が共通の根本方針になった」とある(下、170頁)。独立論がまだ目標とされていなかった時期から独立論が強まるに至る経過が省かれて、すべてが一直線に書かれているという印象がある。ここでも時系列が1990年末に飛んで、したたかなクラウチュクが「主権派コミュニスト」として人気を高めたとあり、そこから1990年秋に戻って、キーウ中心部での学生ストライキの衝撃が触れられ、これは後に「第一次マイダン」と呼ばれることになると書かれている(下、171-172頁)。そして、1991年8月にブッシュ米大統領がキーウを訪問したときに独立を支持しないという「チキンキエフ演説」を行なったことが述べられている。これは有名な話だが、その背後の事情(7月末のモスクワでのブッシュ、ゴルバチョフ、エリツィンの会談、またブッシュ演説の草稿が早めにキーウの急進派に伝わったという事情など)が触れられていないため、一面的な記述になっている*22。その直後にクーデタが起き、その敗北の中でウクライナでも独立宣言が採択された。この宣言をルクヤネンコが起草したとあるが(下、175頁)、これは「採択された宣言に至る前の草案」というべきだろう*23。ウクライナの独立宣言の直後に、ロシアは国境問題を提起し、事実上、東ウクライナとクリミヤを要求した。これはよく知られた話だが、それに続けて、エリツィンはルツコイを送り込んだがウクライナは譲らず、ルツコイは手ぶらでモスクワに帰ったとあるのは(下、176頁)、説得的でない。12月1日の住民投票では圧倒的に独立支持が大多数を占め、大統領選挙ではクラウチュクが勝利したことが述べられている。これ自体はその通りだが、大統領候補たちの間で立場の分岐があり、そのことが地域別得票率の差につながったことが触れられていない。12月8日のロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国首脳会議でソ連解体およびCIS創設が決まったが、「21日に中央アジアの共和国もこれに参加することになった」という書き方は正確でない。中央アジアは12月8日に自分たちが無視されたことに不満を表明し、CISに条件つきで合流することになった――その条件のうち重要なものは、既に創設されたCISに後から参加するのではなく、中央アジアも対等の創立者としてCISをつくるということ――という経過が無視されている。全体として、この章は細かい事実経過を綿密に追う姿勢に欠けている。
第26章はソ連解体後の1991年末から2014年にかけての時期を扱っている。まず、そもそもCISとは何かをめぐってロシアとウクライナの間に対立があったことが述べられている。ウクライナがCISを離婚協議の場と見たのは確かだが、ロシアはCISを「ロシアの支配する政体」と見ていたというのはやや極論の観がある(下、181-182頁)。ロシアの中にもさまざまな見解があったし、ロシア以外でも中央アジアとりわけカザフスタンはCISの統合を重視していたので、この解釈は単純な二項対置に傾斜している。続いて、ウクライナ軍の創出が取り上げられ、関連して黒海艦隊をめぐるロシアとウクライナの対立が触れられている。もっとも、この対立は1997年の協定で落着したことも触れられており、いつまでも同じ対立が続いたとされているわけではない。続いて国際関係が論じられているが、「ヨーロッパの国の一つ」「ウクライナはヨーロッパである」というように、ひたすらヨーロッパ志向とロシア離れが強調される記述になっている(下、184-185頁)。その際、EU加盟の願望が重視されているが、NATOについては軽い扱いにとどまっている。ロシアはEUとは協調的、NATOに関しては脅威を覚える――従って、ウクライナのEU加盟には反対しないが、NATO加盟には強く反対――という関係にあったが、本書はそのことに触れておらず、一面的な記述となっている。また1994年1月に「ソ連から引き継いだ核兵器を放棄」とあるが、もともと1990年の主権宣言も1991年12月の独立確認時にも「非核国家」になるとの目標が掲げられていたこと、ウクライナにおかれていた核兵器は一貫してモスクワに管理されていたのでウクライナが「核保有国」となったわけではないという事情が無視されている。続いて、内政に話が移り、大統領と議会の関係や1996年憲法制定が扱われている。宗教の問題が触れられ、諸教会の対抗関係についても簡単に述べられているが、「国教」という表現はあまり正確でない(下、188頁。ついでにいうと、「モスクワ総主教庁のウクライナ支部」という言い方は、ウクライナ正教会が1990年にロシア正教会から自治を認められたことを無視する表現になっている)。続いて、経済の大幅な衰退(ゴルバチョフ期さえも「失われた楽園」のように思われるほどの大後退)、人口流出、オリガルヒの動向などが述べられ、そうした背景の中で、いわゆる「クチマゲート」(政敵を抹殺し、そのことをもみ消そうとしたというスキャンダル)が起き、大規模な反政府運動が起きたことが述べられている。クチマ大統領の威信が大きく傷つく中で、ユシチェンコとヤヌコヴィチという二人の首相経験者が次期大統領の有力候補としてクローズアップされた。この二人の描き方はあからさまに善玉・悪玉的になっていて、前者が勝つのが当然という印象を与えるものになっている。いわゆる「オレンジ革命」の書き方はわりとあっさりしていて、不正が暴かれて当然の結果に行き着いたという感じになっている(下、194-196頁)。この革命の渦中には、ロシアとの関係でも、両派の相互関係でも妥協の要素があったが、そのことは無視されている*24。当選したユシチェンコはEU加盟に全力を傾注したが、EUの主要国はそれに応じなかった。政権末期のユシチェンコ支持率はどん底に落ちていた。その要因として、オレンジ陣営内のティモシェンコとの対立のほか、飢饉やUPA評価などに関わる「記憶の政治」がウクライナ社会を分裂させたことが指摘されている(下、198-199頁)。これは重要な点である。
第27章は2013-14年のマイダン革命から始まっているが、その記述はあまり詳しくなく、わりとあっさりとしているという印象を受ける。発端は2013年11月にヤヌコヴィチがEUとの連合協定調印を突然延期したことにあったが、その直前まで政府は調印の方針だったことが軽視され、どうして転換が生じたのかが論じられていない*25。ヤヌコヴィチはもともと強権体制を目指していたとあり、真っ黒に描かれている(個々の事実については一応当たっているが、いささか誇張気味であるように感じる)。最大の問題は、2013年11月下旬に平和的に始まった反政府運動が2014年2月の大規模な衝突に転化したのはどのようにしてかという点にあるが、このプロセスに関わる記述はごく短く、短期的変化に立ち入っていない(下、203-204頁)。「スヴォボダ党」や「右派勢力同盟」といった極右勢力のことについては何も触れていない。極右の役割をどう見るかをめぐっては多数の議論があり、重く見る論者と軽く見る論者がいるが、いずれにしても完全に無視するという書き方には大きな問題がある。なお、2014年2月の衝突については序章でも触れられているが、そこでは、「機動隊と政府軍の狙撃手が実弾を使用し、親欧派のデモ参加者数十名を死傷させた」とある(上、20頁)。しかし、最大の犠牲者を出した2月20日にはデモ参加者だけでなく多くの警官が死傷したし、主要な狙撃者は実は警官隊側ではなく一部の極右勢力だったという説が提起されている*26。この問題について確定的結論を出すことはできないが、主要な狙撃者が政府側ではなく「マイダン」側に味方する極右だったという主張――その後のウクライナ政権にとっては不利な解釈であり、あまり取り上げられることがない――が相当有力な根拠(キーウの裁判に提出された弾道などの資料)によって提起されていることは無視しがたい意味を持つはずである。続いて、ロシアによるクリミヤ併合が扱われ、住民投票の公式結果は偽造されたものだとされている(下、206-207頁)。混乱した状況の中で急遽実施された住民投票に不正確な要素が含まれていたことは大いにありうるが、他の資料から推測するなら、住民のロシア移管への賛成率は公式結果よりはやや少ないにしても多数が賛成だったことは確実である*27。本書の他の部分で書かれているように、クリミヤ住民の大多数はロシア人およびロシア化したウクライナ人である以上、彼らがロシアへの移管に反対だったと想定する根拠はない。次にノヴォロシアが取り上げられ、この地域の住民のうちロシアとの統一を支持しているのは15%に過ぎなかったと指摘されている。具体的な数字はともかく、大まかな傾向としてはその通りだろうが、問題はドンバスである。ここではロシア語系住民の比率が高く、ウクライナ・ナショナリズムへの反撥が強かった。ところが、ドンバスを扱ったパラグラフはいきなり「ロシアの諜報機関」から始まっている。ヤヌコヴィチ政権の働きかけのことも触れられ、「ロシアにつけ込まれやすい土壌」がつくりだされたのはそうした政治的働きかけのせいだとされている(下、208-209頁)。それをうけて、2014年4月に登場した武装組織は「ロシア政府から訓練と資金提供をうけ、クレムリンのオリガルヒと親密な関係にある」と書かれている(下、209頁)。しかし、ドンバスを支配していた地域党が崩壊する中で、権力空白を衝いて「人民革命」を起こしたのはそれまでマージナルだった共産党中下級活動家や一部の急進ロシア・ナショナリストであって、彼らは最初からモスクワの指令を受けていたわけではない。少し後に出てくるギルキン(別名ストレルコフ)は、モスクワの指令を受けることなく独自の行動を開始したのであり、その後もクレムリンにとっては悩みの種となる存在である。ロシアがドンバスに本格的に関与するのは8月のことであり、最初からロシアの策謀だったかに捉えるのは一種の陰謀史観である。こうした動きに対して「ウクライナの市民社会が立ち上がった」とあるが(下、210頁)、その中に極右勢力が混入していたことは触れられていない。章の終わり近くでは2回のミンスク合意が触れられ、停戦がうたわれたにもかかわらず戦闘行為はやまなかったことが述べられている。「ミンスクU」については、一連の条項のうちのどれが先行すべきかがその後も争点となったことが指摘されている(下、212頁)。これは一応妥当な指摘と言える。
第28章は2021年版で新たに追加された章で、2014年から2020年までの情勢を扱っている。2022年勃発の戦争にまでは及ばないにしても、最現代ということになる。はじめの方で、マイダン革命後まもなくEUとの連合協定が調印されたことが触れられ、その価値はウクライナの政治・経済のヨーロッパへの方向転換を後押しする自由貿易地域の形成にあるとされている(下、214頁)。ヨーロッパ志向を重視する著者からすると当然の評価ということなのだろうが、自由貿易地域はウクライナ経済にとって不利だという批判が、必ずしも親露的ではない論者からも出ていることを考えるなら*28,これはやや一面的という印象がある。少し後に、脱共産主義法の話が出てきて、全国の共産主義指導者の記念碑を撤去することになり、道路・村・都市・州の共産主義時代の名称が廃止されたことが述べられている。関連して宗教界の状況にも触れられ、ポロシェンコ大統領のイニシャチヴでウクライナ独立正教会とキーウ総主教庁系ウクライナ正教会が統合され、コンスタンチノープル総主教から独立教会として承認を得たことが述べられている。本書はそれを肯定的な変化として描いているが、教会の合同を世俗権力が推し進めることがどういう意味を持つかには触れられていない。東方正教会の世界ではロシア正教会とコンスタンチノープルの長きにわたる対抗関係があり、そのどちらが「正しい」ということを外部者が決めることはできない。コンスタンチノープルは2016年6月に世界の首座主教たちからなる全正教会公会議を開催したが、ロシアその他いくつかの首座主教座が欠席したため、この公会議は正教会世界全体に及ぶ効力を持つものとはならなかった。それでも2019年にはコンスタンチーノフはウクライナの独立正教会に公認の詔勅(トモス)を与えたが、世界の正教会のうちこれを認めるものは少数にとどまっている*29。そうした経緯を踏まえるなら、「東方教会の主な総主教たちがモスクワの管轄外にある正教会を認めたのである」という記述(下、216頁)は正しくない。もっとも、この個所には留保がつけられていて、「これらの変化は全面的に受け入れられたわけではなかった」とされ、脱共産主義法にせよ新教会の設立にせよ、疑念の声もあり、そうした批判の声は旧体制とその政策の支持者からばかりでなく、リベラル派からも上がったことが指摘されている。彼らはナショナリズムの隆盛を心配していたとも記されているが、その後に、「ナショナリズムがことさらに目立ってきたわけではない」とある。「ウクライナで何よりも勝るイデオロギーでありつづけたのは、愛国主義、言い換えれば市民ナショナリズムなのである」(下、216-217頁)。これはこれでそれなりに成り立つ議論ではあるが、排他的なエスニック・ナショナリズムの要素がウクライナに存在しないわけではなく、著者の議論に納得しない論者も当然いるだろう*30。続いて、ドンバス戦争を戦う中で軍隊の充実が必要とされたが、それにはアメリカおよびNATO諸国による支援が不可欠だったことが述べられている。続いて経済の状況が扱われ、大きな打撃に立ち向かうため改革が進められ、オリガルヒの権力は著しく小さくなったとある(下、220頁)。これはやや楽観的に過ぎる記述ではないかという気がする。その後に、2019年の大統領選挙でポロシェンコとゼレンシキーが争ったことが述べられているが、この選挙が「人々が変化よりも継続を選んだことを実証し」というのは(下、222頁)理解しがたい。現職大統領に新人が挑戦し、後者が大勝したという事実は継続よりも変化を物語っているのではないだろうか。著者は概してポロシェンコに対して肯定的評価を示しており、その彼が新人に負けたことの意味を過小評価しているような印象を受ける。選挙地図に関する叙述――かつてのような東西分裂が見られなくなった――は、この時期の選挙にはクリミヤおよびドンバスの多くの地域が参加しなかったことを無視するかのごとくである。続いて、ロシアとの対立でウクライナが政治的主権を守るためにはアメリカが最も重要だと指摘され、そのアメリカでトランプとバイデンの政治闘争にウクライナ問題がからみ、スキャンダルが起きたことが述べられている。そうした混乱はあったが、「この一件にかかわったワシントンとキーウの首脳は見事にこの混乱を乗り越え,両政府および両国の緊密な関係は保たれた」とされている(下、224-226頁)。章末の結びでは、ロシアの侵略はウクライナを言語、地域、民族の境界線で分断しようとしたが、ウクライナ社会の大部分は行政でも政治でも一つに結ばれた多言語・多文化国家であるという理念のもとに一致協力したとされ、この理念は異なる言語、文化、宗教が何世紀にもわたって共存してきた伝統の上に成り立っている、ウクライナ人はその困難な歴史を読み解いたのだと述べられている(下、227頁)。厳しい対立状況の中で団結を守ろうとする動きを高く評価する心情は理解できるが、誰もがそれに同調するわけではないだろう。
「終章――歴史の意味」は本書全体を締めくくるものであり、多くが既に述べられたことの繰り返しなので、個々の個所に立ち入る必要はないだろう。概していって、あちこちでウクライナの内的多様性が言及されており,ウクライナ全体を一体視するような単純化は避けられているが、ロシアに関してはかなり単純化した記述がなされているような印象を受ける。終わり近くでは、「独立への希求はつねにヨーロッパを志向するものだった」とある(下、237頁)。もっとも、ここでは「つねに」という書き方がされているのに対し、数行後には2014年を境に対外意識が短期に急速に変化したことが指摘されている。EU加盟支持もNATO加盟支持も、それまで一貫して高かったわけではなく、2014年以降に急激に高まった*31。前段の記述よりもこちらの方が説得力が高い。
8
以上、本書の記述を一通り検討してきた。はじめにも述べたことだが、かなり丁寧な分析がなされている個所と、そうでもない個所が入り混じっていて、全体としての評価は難しい。あからさまなウクライナ・ナショナリズムとの一体化は避けられているが、どちらかというとその方向に傾斜しているとの印象も避けがたい。本文で細かい事実経過を書いた後のまとめ的な個所ではそのような印象が特に強いし、その傾向は現代に近づくほど顕著になっている。政治と歴史観が密接に結びつくのは自然なことだが、本書では現在の政治闘争と関連した特定の歴史観が是とされているという印象を否みにくい。そのこと自体は必ずしも否定すべきことではない。誰しも完全な価値中立ということはありえないし、今日のような激しい対立状況下ではますますそうである。ただ、ここに提起されているのはあくまでも「対立状況下の一つの党派的な歴史観」であって、これが唯一の真実ということではない。日本ではあまりウクライナの歴史のことがよく知られておらず、本書が邦訳されたほぼ唯一の分厚い通史があることから、これだけを読んで「これがウクライナの見解だ」と思い込む人が出てこないとも限らないが、そのことには注意をしておきたい。
【翻訳について】
翻訳は概して読みやすい。プロの翻訳家が訳文を作成し、歴史家が監訳に当たるという分担が成果をあげたものと思われる。とはいえ、全体を丁寧に読んでみると、いくつかの問題が見つかる。原書のGatesが訳書では単数のGateとなっていることは既に触れた。それ以外にもいくつかの誤訳ないし不適訳があることは本文で指摘したが、ここではそれ以外のいくつかの点に触れておきたい*32。
早い時期については私の予備知識不足のせいであまり細かく検討していないが、第9章のタイトルが「東方の改革」となっているのが気になる。原書ではEastern Reformationsであり、これは「宗教改革」と訳した方がよいように思われる。もちろん西方の宗教改革とは異なるが、いわばその東方版があったという捉え方がこの章の前提となっているからである。また、この章のはじめの方に、「東西キリスト教会の原理」「二つの教会の原理」という表現が出てくるが、これは「原理」というよりも「要素」だろう(上、156頁、原書85)。
上巻173頁に「ロシアによるウクライナへの長きにわたる干渉」という表現がある。しかし、原書97を見ると、ここはRussian involvement in Ukraineとなっている。これは「干渉」というよりも「関与」だろう。
上巻244-245頁にミツキェヴィチの名が出てくるが、ミキツェヴィチとなっている個所がある。これは訳の問題ではなく単なる誤植だろうが、再版が出る際には訂正を期待したい。
上巻253頁に「ロシア化」という言葉が出てくる。原書153をみると、ここは"go native"となっている。訳しにくい表現であり、何が適訳かを定めることはできないが、とにかく「ロシア化」というと言い過ぎのような気がする。すぐ後に「ロシア人の愛国心と生まれたばかりのナショナリズム」とあるが(原書ではRussian patriotism and nascent nationalism)、愛国心/愛国主義(patriotism)はナショナリズムよりも広い範囲を包括する概念であり、nascent nationalismも何を指しているのかつかみにくい。全体として著者の意図を読み取りにくい個所だが、「ロシア化」というと、ウクライナ民族が確立しているのにそれを人為的に「ロシア化」するというニュアンスがこもり、適切でないように思われる。
上巻263頁に「シェウチェンコの正教はロシア正教ではなかった」とある。原書159を見ると、Nor was his Orthodox of an imperial kindとなっている。「ロシア正教ではない」というと別の宗派であるかに思えてしまうが、そうではなく、正教は正教でも帝国的な性格のものではなかったという意味である。
第15章(ついでながら「隙だらけの国境」というタイトルは意味が取りにくい。原書ではPorous Bordersであり、固い訳では「多孔性」、もう少し砕いていうと「通り抜けできる」といった感じだろうか)の後半に「ポピュリスト」という言葉が何回か出てくる。原書でもpopulistsとあって、その意味では正しい訳なのだが、今日の日本語で「ポピュリスト」というと違う性格の運動を連想しやすい。歴史的文脈に即して「ナロードニキ」とした方が分かりやすいだろう。
上巻310, 312頁に「全ロシア主義」という言葉がある。原書191, 193では"all-Russian"である。これに「主義」の語を付けると強すぎる意味になるように思われる。もう一つの問題は、ここでいう「ロシア」(Russian)はロシア語でいうとルスキーなのかロシースキーなのかという点である。著者はその点を明確にしていないが、文脈から考えてロシースキーだろうと考えられる。つまり、狭い民族としてのロシアよりも広く、ロシア帝国に住む諸民族を包括するという意味である。この点をはっきりさせないと、狭いロシア民族主義であるかの印象を生じやすい。これは著者が明示していない点なので、訳注を付けておいた方がよいのではないかと思われる。
下巻25頁に「ウクライナの領土自治」という言葉が出てくる。原書205を見ると、territorial autonomy for Ukraineとある。territorialは「領土」とも「領域」とも訳せるが、独立国家形成を指しているわけではないのだから、「領域的自治」の方がよいと思われる。
下巻56頁に「スターリンがウクライナ化を支持したのは戦略であり」という個所がある。原書233を見ると、ここはtacticalと書かれている。「戦略」ではなく「戦術」である。
下巻63頁に「国勢調査で国籍を問わない」という個所がある。原書238を見ると、ここはnationalityである。この語は「国籍」の意味で使われることもあるが、この場合は「民族」ないし「民族帰属」の意である。下巻160頁(原書309)も同様。
第24章のタイトルは「ウクライナ・ソヴィエト共和国」となっているが、原書を見ると、The Second Soviet Republicとなっている。直訳しても意味がとれないが、二通りの解釈がありうる。一つは、戦前に続く戦後の(第2の)ウクライナ・ソヴィエト共和国という意味であり、もう一つは、ソ連の中でロシアに次ぐ第2の位置を占める共和国という意味である。どちらを取るかにもよるが、その意味を汲んだ訳を付けた方がよいだろう。
下巻158頁に「先進社会主義」という言葉が出てくる。原書308を見ると"developed socialism"とあり、これは「発達した社会主義」が定訳である。
下巻171頁に「議会は最も重要な行政府になっていた」とある。原書316を見ると、the most important branch of governmentとある。governmentは広狭さまざまな意味があるが、日本語で「行政府」というと、立法府に対置される狭義の執行機関を指すので、この訳では立法府が執行機関になったかの印象を与える。「政府機関のうちの最も重要な部分」とでも訳した方がよいだろう。
下巻204頁に、「二〇一四年一月中旬、政府が抗議行動を非合法化したことで」とある。私の手もとの原書339には「政府が抗議行動を非合法化したことで」に当たる個所がない。版によってテキストが違うのかもしれない。それにしても、1月16日採択の法律は抗議行動への条件を厳しくしたとはいえ、「非合法化」したとまで言うのは誇張である。
下巻208頁に「ロシア系住民」という言葉が出てくる。原書342を見ると、ethnic Russiansとなっている。これは微妙な問題にかかわるが、人口調査で「民族的ロシア人」と「ロシア語を母語とする者」は明確に異なる。ドンバスの場合、前者は過半数をやや下回るのに対し、後者は過半数を大きく上回る。そうした差違を明確にするためには、この個所は「民族的ロシア人」と訳し、「ロシア語系住民はそれよりも大分多い」といった訳注を付けておいた方がよいだろう。
*1セルヒー・プロヒー『ウクライナ全史――ゲート・オブ・ヨーロッパ』上下(明石書店、2024年)。
*2日本語で読める代表的なウクライナ史として、古典的には中井和夫『ソヴェト民族政策史――ウクライナ、1917-1945』(御茶の水書房、1988年)、より新しいところでは、松里公孝の多くの作品(代表例として、『ウクライナ動乱――ソ連解体から露ウ戦争まで』(ちくま新書、2023年))、村田優樹「第一次世界大戦、ロシア革命とウクライナ・ナショナリズム」(『スラヴ研究』64号、2017年)、同「一九一八年のウクライナにおける国制構想と外交路線の相互関係――独立と連邦制」(『ロシア・東欧研究』47号、2018年)、同「革命期ロシアのウクライナ問題と近世ヘトマン領――過ぎ去った過去と来たるべき自治」(『史学雑誌』2021年7月号)、黛秋津編『講義ウクライナの歴史』(山川出版社、2023年)などが代表的である。また、Terry Martin, The Affirmative Action Empire: Nations and Nationalism in the Soviet Union, 1923-1939, Cornell University Press, 2001; テリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国――ソ連の民族とナショナリズム、1923-1939年』(明石書店、2011年)はソ連民族政策全般に関する著作だが、著者の先祖がウクライナ出身のメノー派の一員だったことも手伝って、ウクライナにかなりの重点がおかれている。
*3多数の著作があるが、とりあえず、Georciy Kasianov, "How a war for the past becomes a war in the present," Kritika, vo. 16, no. 1, 2015; Serhiy Kudelia and Georgiy Kasianov, "Ukraine's Political Development after Independence," in Minakov, M., Kasianov, G. Rojansky, M (eds.), From 'the Ukraine' to Ukraine: A Contemporary History, 1991-2021, Ibidem Verlag: Stuttgart, 2021などを参照。また、私のホームページの「新しいノート」欄にも、「ウクライナの社会学者による現代ウクライナ政治分析」、「ウクライナの政治学者によるウクライナ政治の分析――セルヒー・クデリアの場合」、「ウクライナの歴史家による現代ウクライナ政治史論」などのノートが載せてある。
*4この本はソ連時代の最末期を詳しく取り上げた著作として一定の価値があり、特にウクライナ内での政治過程やアメリカのウクライナ人コミュニティについてはかなり詳しくて有用だが、それ以外の部分の多くは、少数の最高政治指導者の個人的言動に集中している。その際、すべてが善玉・悪玉的発想で一貫しているわけではないが、ウクライナ独立を絶対的な善とする点では価値判断が明確になっている。ウクライナの中に様々な潮流があることを認識している一方、「ウクライナは独立を熱望していた」とか「ウクライナは同盟維持を帝国の延命と見なし、絶対反対だった」というように、あたかもウクライナが一体であるかのような書き方をした個所もあちこちにある。また、全体的に注の付け方が粗く、論争的な記述を含む複数の段落にまとめて一つの注を付け、そこに性格の異なる多数の文献を列挙したりしているので、どの記述がどの論拠に基づいているのか――あるいは論拠なしに書いているのか――を確定することができない。米政権の内情については新しい資料を用いており、ウクライナ関係については当事者たちのインタヴューを多用しているが、ソ連中央およびロシアについてはそれほど多彩な資料を用いてはいない。
*5但し、小さなことだが、英語ではGatesという複数形の表現がとられているのに対し、邦訳書では単数形のGateと記されている。
*6日本での代表的研究として、福嶋千穂『ブレスト教会合同』(群像社、2015年)がある。
*7私の記憶では、1980年代初頭に長期留学から帰ってきた中井和夫が欧米における論争状況を伝えたのを聞いたのが早い例である。新しいところでは、小山哲「リトアニア・ポーランド支配の時代――十四‐十八世紀の近世ウクライナ地域」(黛秋津編『講義ウクライナの歴史』所収)が論争を手際よく整理している。中井も小山もどちらかといえばウクライナ寄りの見解を支持しているが、本書におけるほど単純明快ではない。
*8マゼーパについては、前注の中井報告でも触れられていた。新しいところでは、松里公孝「ルーシの歴史とウクライナ」塩川編『ロシア・ウクライナ戦争――歴史・民族・政治から考える』(東京堂出版、2023年)、150-157頁がかなり詳しく論じている。
*9この錯雑した過程については、中井和夫『ソヴィエト民族政策史研究』第U部第2章に古典的叙述がある。
*10ソ連結成時の論争について、塩川伸明『国家の構築と解体――多民族国家ソ連の興亡U』(岩波書店、2007年)28-37頁参照。
*111920年代ウクライナにおける政策論争について、中井和夫『ソヴィエト民族政策史研究』第V部第2章が詳しい。
*12「ピエモンテ」の比喩およびその意味転換について、マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国』が詳しい。
*13この転換については、マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国』が詳しい。
*14飢饉を含む「スターリニズムの犠牲者」の規模については、どういう範囲をどういう定義に基づいて算出するかという問題を含め、各種の議論がある。塩川伸明『終焉の中のソ連史』(朝日新聞社、1993年)、第Y章参照。最終的な結論を出すわけにはいかないが、飢饉におけるウクライナの人口喪失(死者のほか出生率低下を含む)の規模はおよそ350万前後とみられる。
*15大テロルの犠牲の民族別内訳については、詳しいことが明らかでないが、1939年のラーゲリ人口の内訳によれば、民族による差異はそれほど顕著ではない(ロシア人はやや過剰代表であり、ウクライナ人はやや過小評価になっている)。塩川『終焉の中のソ連史』377-379頁。
*16バンデラ評価をめぐる歴史論争については、浜由樹子「「歴史」をめぐる相克――ロシア・ウクライナ戦争の一側面」(塩川編『ロシア・ウクライナ戦争』所収)が詳しく論じている。
*17バンデラのおかれていた政治犯収容所では外国からの小包を受け取ることや妻との面会も許されており、行動の自由が一定程度認められていたという説もある。浜由樹子「「歴史」をめぐる相克」255-256頁。
*18戦後のユニエイトについて、Bohdan R. Bociurkiw, "The Ukrainian Catholic Church in the USSR under Gorbachev," Problems of Communism, vol. 39, no. 6 (November-December 1990)参照。
*19戦後ソ連のユダヤ人問題については、長尾広視の一連の研究がある。「ソ連のユダヤ人問題――スターリンの『最終的解決』に関する考察」『ロシア史研究』第69号、2001年、「戦後ソ連物理学界の抗争とユダヤ人問題――知識人層における反ユダヤ現象の一側面」『スラヴ研究』第50号、2003年、「コスモポリタン批判再考・ソ連演劇界にみるスターリン統治の論理」『思想』2007年4月号、「スターリン時代のユダヤ人問題」(塩川伸明・小松久男・沼野充義編『ユーラシア世界 越境と変容の場』第2巻(ディアスポラ)、東京大学出版会、2012年。
*20この時期の変動について、細かくは、塩川伸明『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』(全三冊、東京大学出版会、2021年)を参照。
*21ウクライナの言語問題については、塩川伸明『民族と言語――多民族国家ソ連の興亡T』(岩波書店、212-220頁。
*22この間の事情については、塩川『国家の解体』975-976, 1705-1706頁、Jack Matolock, Jr., Autopsy on an Empire: The American Ambassodor's Account of the Collapse of the Soviet Union, Randam House, 19995, pp. 565-571参照。
*23独立論に転じた共産党との協議を経て採択された独立宣言はごく短いもので、独立した上で新しい同盟に入るかどうかには触れていない。少し後に「ウクライナの国家としての一千年の歴史」とあるが、この文言も、採択された宣言には含まれていない。
*24憲法上の妥協については、松里公孝『ポスト社会主義国の政治――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』(ちくま新書、二〇二一年)、269-272頁を参照。
*25アメリカのウクライナ政治研究者ダニエリは、この問題を「安全保障のディレンマの経済版」という観点から詳しく論じている。Paul D'Anieri, Ukraine and Russia: From Civilized Divorce to Uncivil War, Cambridge University Press, 2019, pp. 190-207.
*26Ivan Katchanovski, The Maidan Massacre in Ukraine: The Mass Killing that Captured the World, Palgamon/Macmillan, 2024; 松里『ウクライナ動乱』110-115頁、塩川伸明「ウクライナ戦争の序幕――――2014年前後/2010年代後半/2020-21年」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/IntroductionUkrainianWar.pdf)10-11頁参照。
*27John O'Loughlin & Gerald Toal, "The Crimean conundrum,”Open Democracy, 3 March 2015.
*28たとえば、Interview with Volodymyr Ishchenko, "Ukraine's Fractures," New Left Review, No. 87 (May-June 2014).
*29この間の複雑な事情については、高橋沙奈美『迷えるウクライナ――宗教をめぐるロシアとのもう一つの戦い』(扶桑社新書、2023年)、199-222頁に詳しい叙述がある。
*30塩川伸明「シヴィック/エスニック・ナショナリズム論再考」(http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/civicethnicnationalism.pdf)参照。
*31塩川伸明「ウクライナ戦争の序幕」6-7頁。その典拠として、Olexiy Haran and Mariia Zolkina, “The Demise of Ukraine's “Eurasian Vector” and the Rise of Pro-NATO Sentiment,” PONARS Eurasia Policy Memo, No. 458, (February 2017) , pp. 2, 5.
*32私の手もとにあるのは2016年刊のペーパーバックであり、2021年版で追加された第28章は含まれていない(邦訳は二分冊だが、原書は一冊)。以下、原書のページ数はこのペーパーバック版による。