フィリップ・ショートのプーチン伝を読む
最近邦訳の出たフィリップ・ショートのプーチン伝*は上下巻あわせて約1000頁におよぶ大著であり、その全体を丁寧に読み通すのは容易ではない。プーチンの70年に及ぶ生涯を追い、大量の資料やインタヴューに基づいて、個人史・政治史・国際関係などにまたがる広汎なトピックを取り上げているから、きちんと全体像をつかもうとすると、かなり疲れる作業となる。もっとも、本書は専門書ではなく一般読者向けの書物であり、著者は練達のジャーナリストで、文章も概して明快だから、表面だけを追って拾い読みをするのであれば、さほど難しくはないともいえる。その際、大部の著作のうちのどの部分に注目して拾い読みをするかによって、相当異なった印象が生じる可能性がある。あちこちに書かれているプーチンの冷酷さや、無慈悲な権力行使に着目するなら、一般に流布しているプーチン・イメージを補強するものとして読むこともでき、「やっぱりね」という読後感を残すかもしれない。しかし、それとは矛盾するかに見える個所もあちこちにあり、そうした個所を重視するなら、プーチン擁護論ととることもできそうだという気がしてくる。そのことが本書を謎めいた書物としている。
*フィリップ・ショート『プーチン』上・下(白水社、2023年)。
先ず、冒頭の「プロローグ」では、プーチンが大統領になる直前の1999年8-9月にロシア各地で起きた一連の爆弾事件の経緯が、かなり詳しく描かれている。「ロシア国民は、チェチェン人たちではなくロシア政府が爆発を指揮したとますます信じるようになった」、「政府が爆弾による攻撃に関与した証拠はさらに積み重なっていった」とあり、また1996年の前回大統領選挙のときにも、敗北が予期されていたエリツィン陣営が「チェチェン人に非をなすりつける偽旗作戦」を立てたという噂があったとか、1999年の一連の爆発は「西側諸国とロシアでは一連の出来事と見なされている」と書かれている。そういうことが相当長く書かれているのを読むと、著者自身がそう考えているのかという気がしてくるが、その後に進むと、この陰謀論はあまり信じられないという記述が続く。ロシア政府が自国民を多数殺すような爆弾事件をわざと引き起こし、それを「チェチェンのテロリスト」のせいにして、「テロとの戦い」を叫ぶことで大統領選挙を有利に進めたのではないかというという噂はかなりの範囲で広がっているが、本書ははじめの10頁ほどでこの陰謀論をあたかも肯定するかの如き筆致で書いた上で、それを引っ繰り返している。ここに本書の一つの特徴が現われている。
「プロローグ」から本論に進むと、まずプーチンの生い立ちおよび性格に関する詳しい記述がある。プーチンはエリート家庭の出身ではなく、学校の成績もあまり良好でなく、いわば不良少年だったが、不良グループのリーダーというわけでもなかった。将来立身出世しそうだとか、権力の座につこうという野心を感じさせない、ありふれた少年時代を送っていたように見える。しいていえば、「喧嘩をするなら、勝てるように戦法を練らねばならない」という原則を少年時代から身につけていたらしいことは、後の性格形成を考える上で意味を持つかもしれない。「サンボ」というソ連特有の格闘技に打ち込んだ後、柔道に転向したが、柔道の特徴として、最小限の力を最大限に有効活用することや不意打ちの重視などが挙げられているのも、彼の個性の一端を示すかのようである。
プーチンの女性観は典型的に男尊女卑的だが、これは同世代のロシア人男性にとってありふれたもので、彼だけのものではないとされる。とにかく彼のマッチスモ礼賛的な性格は、後にまで持続し、より顕著になったように見える。婚約者リュドミラ――まもなく結婚し、後に離婚する――のように親密な相手にも手札を見せようとせず、感情を隠していたとか、誰に対しても常に曖昧な合図を送って、入り込めない殻を維持していたため、親しい人たちですら彼の真の意図を見抜けなかったというのも、彼の個性の特徴を示している。人と会うときにわざと遅刻して、相手を不安な精神状態に追いやる癖があったというあたりも、政治家になってからの彼の行動様式をある程度説明するかのようである。
プーチンは大学卒業後、KGBに就職し、東ドイツのドレスデンに派遣された。ドイツ語を学んでいたKGB職員にとって、東ドイツは西ドイツに比べれば活躍の機会の少ない派遣先であり、その中でも首都のベルリンでなくドレスデンに送られたというのは、あまり出世コースとは言い難い。それでも、もともとトップの座を狙えるような成績だったわけではない以上、これでも満足できると考えたのではないか、と著者は想像している。その想像がどこまで当たっているかは何とも言えないが、とにかくこの頃までのプーチンは、将来大物になりそうだという予兆をあまり感じさせない、その意味では凡庸な人間であり、ただいくつかの点で、後につながる独自の個性を形成しつつあったということのようである。
プーチンがドレスデンに勤務している間に、モスクワではゴルバチョフが共産党書記長に就任し、新しい時代が始まった。この時期の政治過程はあまりにも複雑で、ここで検討できる範囲を超えるが、政策や路線をめぐる種々の対立・論争とは別に、共産主義イデオロギーへの信念はもはや掘り崩されていたことが指摘されている。プーチンも、当時の同僚の後の回想によれば、1980年代後半にはもはや共産主義者ではなくなっているようだったという。ベルリンの壁が開いてまもない1989年12月には、群衆が東ドイツ秘密警察(シュタージ)の建物を襲撃するという事件が起きた。当時のプーチンが何を考え、感じていたかについて直接の証拠はなく、かなり時間が経ってからの「後知恵」的な説明しかないようだが、それまで揺るぎないと思われていた国家権力が無力をさらけ出したことの衝撃は大きなものがあったようだ。それは共産主義イデオロギーの権威失墜ということではなく(それだけなら、彼自身も既に感じ取っていた)、イデオロギーとは関わらない国家の弱体化の衝撃であり、国家権力の建て直しの重要性を痛感させたということのようである。
この時期にプーチンはレニングラードに移動し、同市の「民主派」指導者として急上昇中だったサプチャーク(元レニングラード法学部教授)の補佐役を務めることになった。かつてプーチンはレニングラード大学法学部の学生だったときにサプチャークのゼミに出席していたという縁があった。それだけでなく、当時のソ連の大学法学部にしては珍しく個性的な教師だったオリンピアード・ヨッフェ――まもなく共産党から追放され、アメリカに移住した――の授業が気に入っていたとも書かれている。そのことにどの程度大きな意味を付与すべきかは微妙だが、とにかく型にはまらない授業を好んだということと、サプチャーク個人と学生時代に知り合っていたということは、後に意味を持つようになる。ドレスデンからレニングラードに戻った時点では、プーチンはまだKGBに籍を置いていたが、当時のソ連政治は、KGB=保守派=ペレストロイカ反対と図式化できるような単純なものではなかった。学者出身のサプチャークとしては、治安機関をはじめとする官僚機構との調整役を必要としており、KGBに籍があるがそれほどの大物ではないプーチンはまさに好適な補佐役だったとされる。まもなく、サプチャークの周辺では複雑な権力闘争が展開したが、これも《保守派vs改革派》という図式で割り切れるような単純なものではなかった。そして、この時期のプーチンは政治の表舞台に出るのではなく、「裏方」にとどまりつつ、実務経験を積んでいたようである。
1991年8月のクーデタ、12月のソ連解体、1993年の激しい政治闘争(ロシア議会ビルへの砲撃)といったドラマティックな政治過程を経た後の1990年代半ばには、かつて「民主派」のスターと見なされていたサプチャークとエリツィンはどちらも評判を大きく落としており、二人の相互関係も最悪となっていた。1996年大統領選挙におけるエリツィン当選の見込みは非常に低くなっていたが、エリツィンが敗北して共産党候補が当選するのを阻止するため、欧米諸国もロシアのビジネス界も、エリツィン当選のために手段を選ばない汚い選挙キャンペーンを展開した。このときアメリカの選挙コンサルタントがエリツィン陣営に伝授した汚い選挙戦術は、ロシアにおける民主主義を決定的に傷つけた。著者は、「西側が民主的規範と考えるものからロシアが逸脱しはじめたのは、プーチンの時代からではなかった。それは1990年代に、アメリカの友人ボリス・エリツィンが権力の座にあった頃から始まっていたのだった」と書いている(上、289頁)。これは重要な指摘である。
サンクトペテルブルクでも、かつてのサプチャーク陣営が分裂し、市長選挙でサプチャークは敗北した。そのことを一つの契機として、プーチンは同市を離れてモスクワに移動し、エリツィンのもとで働くことになった。はじめは比較的目立たない行政職だったが、次第に高い地位につくようになり、1998年5月に大統領府第一副長官、7月にFSB長官(翌年3月に安全保障会議書記兼任)となった。もともとプーチンは政治というものを馬鹿にしていて、自分は行政官だと考えていたようだが、「裏方」での実務能力を買われて次第に政治の表舞台に出てきたということのようである。そして、とうとう1999年8月には次期大統領候補含みで首相に任命された。12月の下院選挙の直後にエリツィンが期限前辞任してプーチンを大統領代行にしたことは、彼の当選を事前に確実なものとした。
以上、大統領になる前のプーチンについて追ってきたが、「若きエリート」とか「花形」とかではなく、むしろ「地味」な人生経路を送ってきた彼の前半生を扱った本書の前半(およそ上巻に当たる)は知られざる事実の発掘がかなり多い。これに対し、大統領になってからのプーチンの軌跡はロシア政権の軌跡そのものと重なり合い、よく知られている事項が多い。そのことと関係して、本書の後半(およそ下巻に当たる)は、新規な印象を与える個所があまり多くはない。プーチン政権下のロシア政治の権威主義性とか、対外的強硬姿勢といった特徴は広く知られているところであり、本書も大まかにはそれをなぞっている。そうした面に注目する限り、本書は「独裁者プーチン」という一般的通念を裏付けるものという読み方も可能である。
とはいえ、あれこれの細部にこだわって読むなら、マスコミで通常広められている常識的なプーチン像の修正を迫るかに見える個所もあちこちにある。一つには、先に触れたようにロシアにおける民主主義の後退はプーチンではなくエリツィンに始まるという見方が根底にあり、その意味で、プーチンの民主的ならざる言動も、それほど極端な彼の独自性だとはされていない。特に注目されるのは、彼自身にせよ彼を取り巻く多くのロシア政治エリートにせよ、ロシアはヨーロッパの一部だと考え、ヨーロッパとの関係を重視していたという指摘が各所に見られる点である。スラヴ派と西欧派という古典的な区分でいえば、プーチンは西欧派に分類される。もっとも、ヨーロッパと「西側」は別々の概念であり、アメリカに主導される「西側」には対抗意識をいだくが、アメリカに追随しないヨーロッパとの関係は協調的なものにしておきたいという考えである。このようなヨーロッパ重視の立場は、かなり遅い時期まで維持されていた。しかし、ロシアが自らをヨーロッパの一員と見なすのに対し、ヨーロッパの方はロシアを身内と見なさない傾向があり、いわば片想いが報われなかったことが、最近のロシアが反対の方向に動きだしたことの背景にあることが示唆されている。
もう一つ、各所で重要な問題として取り上げられているのは、一連の政治的暗殺である。冒頭で見たように、1999年にロシア各地で起きたテロをロシア政府による「自作自演」と見なす陰謀論に著者は否定的だが、その後のいくつかの政治的暗殺(特に重要なのは、2006年のポリトコフスカヤ暗殺と2015年のネムツォフ暗殺)には政府の責任が濃厚に疑われるというのが著者の見解である。もっとも、西側およびロシア・リベラル派は、政権批判者排除のために治安機関が殺したと見なしがちだが、著者はそれには同調していない。当時のネムツォフは既に政治的影響力を失っていて、何ら脅威ではなく、プーチンが彼を排除する理由はなかった。では、誰が彼の暗殺を指示したのかといえば、チェチェン共和国首長のカディロフの側近の仕業らしいと述べられている(ポリトコフスカヤについても同様)。西側で広く信じられているのとは違い、プーチンが直接命令を下したわけではない。但し、殺害責任者を放置することで、権力とつながっている個人は殺人を犯しても逃げおおせると確信できる環境を容認したのであり、その意味では暗殺の横行に政治責任があるという見方が示されている。この関連でもう一つ重要なのは、かつては強固だったプーチンの掌握力は弱まっており、カディロフに対して強いことを言えなくなっていたという指摘である。しばしば忠実なプーチンの部下と見なされがちなカディロフが、実はかなり勝手な行動をとっており、プーチンはそれを統御することができていないのだという。これは言ってみれば、部下を思い通りに操ることのできない弱い独裁者というイメージである。
もう一つの特徴点として、プーチンのロシアがこの間とってきた内外政策における各種汚点を容赦なく暴露する一方、それとの対比でアメリカを理想化することも避け、むしろロシアのやっていることはアメリカとそれほど大きく変わらないと指摘する感じの文章が各所にある。対外面での乱暴な行動についても、アメリカの方も似たり寄ったりだという指摘があちこちにあり、プーチンはアメリカの帝国主義的振る舞いに反応したり、模倣したりしているのだと示唆しているように見える。
「あとがき」には、国際的危機に関する簡単なまとめがあるが、そこでは、ある時期まで能動的なのはアメリカの方で、ロシアは受動的だったとされ、2008年の南オセチア戦争も、先に手を出したのは、アメリカの支持を受けていると誤解したグルジアだったとされている。そして、この間の流れは、ロシアと西側の相互不信と失望の悪循環が高まっていく中で、「どちらのせいでもない離婚」に至ったのだとされている。
2014年のウクライナ危機については相当大きな紙幅が割り当てられているが、そこでの叙述は入り組んでいて、明快な図式化を許すものではない。ロシアおよび「親露派」勢力に対して辛辣な指摘がある一方で、ウクライナの極右ナショナリスト勢力が武装部隊を組織化して、暴力のエスカレート――その頂点として、スナイパーによる大量殺戮が起きたが、スナイパーの陰にいたのが誰かについては諸説あって、確定できない――を促進したことにも触れられていて、「マイダン革命」は民主主義を求める市民の勝利だという図式だけでは片付けられない側面があったことにも着目している。クリミヤ併合については、ロシアによる侵略という通説を否定してはいないが、西側の主張におけるダブルスタンダード――コソヴォについてとクリミヤについての対比――は否定しがたいともされている。それに続くドンバスの動きについては、アメリカはモスクワが背後にいると糾弾したが、最初の争いが自然発生的だった可能性もあり、その後に予定外のエスカレートが生じたのだという見方が示唆されている。
2022年2月の開戦以降についてもかなり詳しく経過が追われている。ヨーロッパは第二次世界大戦後、外交の延長としての戦争は時代遅れになったと考えたが、それはやや性急だった。過去数世紀のヨーロッパでは外交の延長としての戦争はありふれたものだったのであり、そうである以上、プーチンは今でもそれを実行できると考えたのだろうという見方が示唆されている。いざ開戦してみると、プーチンの目論見は外れたが、読み間違えたのはモスクワだけではなく、アメリカの諜報筋もキーウはすぐに陥落するだろうと見ていたのだと指摘される。開戦はギャンブルであり、冷酷、シニカル、不道徳だったが、後から見えるほど非合理的ではなかった、とも述べられている。
巻末の「訳者解説」によれば、著者から完成稿ができたという連絡が届いたのは2021年末、その「完成稿」が届いたのは2022年2月半ば(つまり、開戦の直前)のことであり、そこではプーチンは2021年末の時点で一通りやることをやり終えたという観点が示され、クリミヤ併合もそれ以上に拡大する思惑を秘めたものではなく、プーチンは領土侵略的な意図はないという解釈が提示されていた。その直後に始まった戦争を見た後に刊行された書物は、直前に届けられていた「完成稿」とはかなり異なるものとなっているが、そこにおける修正はそれほど大幅なものではなく、元来の原稿で打ち出されていた解釈は基本的に維持されている。訳者はこのことに批判的であり、現に戦争が始まった今や、プーチン観は大きく変わらざるを得ないのではないかと述べている。ある時点で予期されていなかった大事件が起きたとき、それまでの見方は間違っていたのではないかという疑問が出されるのは自然である。だが、すべてを引っ繰り返せばよいかといえば、それもまた安易であるように思われる。著者のプーチン観・ロシア政治観がどこまで妥当かについてはもちろん争う余地がある(本書の中には、重要な論点への言及が欠けていたり、やや不正確ないし一面的な描き方をしていると感じられる個所があちこちにある)。だが、「訳者解説」のように、戦争という既成事実を見たからといって、単純にそれまでのプーチン観を引っ繰り返すべきだという主張にも疑問を覚える。
全体として、本書は大量の事実・観察・伝聞・解釈を満載しており、そこには欧米諸国や日本で通説的に広まっている見方を裏付けるものもあれば、それに留保をつけようとするものも混在している。これをどう受けとめるかは、人それぞれだろう。ただ、折角大著を読むのであれば、従来の通念を裏付けそうな個所だけを拾い読みして「やっぱりね」と納得するよりも、ひょっとしたらそれだけでは片付かないのではないかという疑問をいだき、それを再考の手がかりにする方が生産的ではないかと思われる。
(2023年8月1日にフェイスブックに投稿した文章に微修正を施した)。