ヤーン・クロス『マルテンス教授の旅立ち』(勉誠出版、二〇〇〇年)を読んで
一
ヤーン・クロスという人のことはこれまで全く知らなかったが、現代エストニアの有名な小説家らしい*1。本書は、世界的に有名なロシアの国際法学者フリードリヒ・(ロシア風にはフョードル)マルテンス(一八四五‐一九〇九年)*2を主人公とする歴史小説である。この小説がどの程度まで史実を踏まえ、どの程度フィクションなのかは不明だが、とにかく最晩年のマルテンスが汽車で旅をしながら、過去のことを回想しつつ綴った手記という体裁になっている。もし全体が純然たるフィクションではないとするなら、本書を通して彼の生涯を追うことができそうな書物ということになる。もっとも、公私取り混ぜたいろんな回想が順不同で出てくる上に、ところどころで幻覚や夢の話なども出てくるので、きちんと内容を把握するのは結構難しい。ともかく、ここでは私の関心に引き寄せて、本書に窺われるマルテンス像について自己流に考えてみたい。
そうはいっても、私は国際法には不案内だし、対象時期たる帝政末期についても専門的に取り組んでいるわけではないから、マルテンスがどういう状況の中でどういう問題に取り組み、どのような業績を残したのかの細部に立ち入ることはできない。私が本書に興味を覚えたのは、「ヨーロッパ文明から遠い後進国」と見なされがちなロシアの学者でありながら異例なほど国際的に高く評価された人――後にも触れるがノーベル平和賞の有力な候補だった――がどういう歩みをたどり、そのなかでどのような悩みをかかえていたのかといった問題が本書の主題となっているように見え、その点に関心を引かれたからである*3。
先ず関心を惹かれたのはマルテンスの民族帰属である。エストニア出身であることは広く知られているが、帝政ロシアのバルト地域出身のエリートといえば真っ先に思い浮かぶのはドイツ人であり、マルテンスもドイツ人と見なされることが多い(私も漠然とそう思っていた)。ところが、本書では彼はエストニア人とされており、その民族意識についてかなり詳しく書かれている。もし本書が純然たるフィクションではないとするなら、おそらくこれが正しいのだろう。
マルテンスが使いこなした言語はドイツ語、ロシア語、フランス語、英語、スウェーデン語、イタリア語、「そして、もちろんエストニア語」とある(七三頁)。「わたしがどの言語で考えるのか自問してみると、答えるのがむずかしい。時にはドイツ語で考えているし、時にはロシア語、時にはフランス語、時にはエストニア語である。時々は英語やイタリア語、稀にラテン語ということすらある。……とはいえ、わたしが話しかける相手は誰でも、わたしが異常なほど見事にその言葉を駆使すると言ってくれるが、明らかに母国語ではないとも言う」(三七五頁)。おそらく幼時に家庭で最初に身につけたのはエストニア語であっても、その後長きにわたる社会生活の中で主に使っていたのはドイツ語、ロシア語、フランス語などであり、特に国際法や外交について論じるときには、エストニア語以外の諸言語で考えていたのだろう。複数言語を使い分けるエリートは当時のロシアでそれほど珍しい存在ではなかったかもしれないが、その大半はロシア人でなければドイツ人であり、エストニア人ということは滅多になかったものと思われる*4。
ドイツ人かエストニア人かという問題は民族帰属だけに関わるのではなく、身分にも関わる。当時のバルト地域でドイツ人と言えばすぐに思い浮かぶのは、ドイツ騎士団以来の伝統を引く貴族であり、ロシア帝国の政軍官界で高い地位を占めて活躍するエリートたちである(ロシア帝国下バルト地域の主要な支配者はロシア人というよりもドイツ人であり、エストニア人やラトヴィア人の農民や労働者の闘争の相手も第一義的にはドイツ人だった)*5。他方、エストニア人やラトヴィア人は、徐々に初等教育が普及しつつあったとはいえ、大多数は下層階級に属していたから、そういう中から高等教育を受けて学者や高級官僚になる人が出てくるのはきわめて珍しいことだったろう。マルテンスの場合、本書によれば、幼い時期に両親を失って貧民寄宿学校で育ったが、その学校で飛び抜けた才能を示したおかげで、寄宿学校からギムナジウムを経てペテルブルグ大学に入ったのだという。
ペテルブルグ大学法学部で優秀な成績をおさめた彼は学者を志すが、刑法を専攻しようと考えていた彼に国際法を専攻するようにと勧める学部長は、彼に次のような言葉をかけた。「君が外務大臣になれないだろうということは確かだ。大使だって、うん、おそらく駄目だろうな。しかし、そういう人種がやっているのは政治だよ。法律ではないんだ。……君のような才能を主から与えられた者こそが、外交の扉を自分に向けて開けるのだ、失礼な言い方だが、生まれつきの環境がどんなに低かろうが、気にすることはないんだ」(七六頁)。もし彼がバルト・ドイツ人貴族の出だったなら、こういう言葉が向けられることはあり得ず、エストニア人の平民出身だったからこその言葉ということなのだろう。
この学部長は彼がエストニア人だということを知っていたのだろうが、より広い世間に出るようになると、「本当はドイツ人の系統で……いささかエストニア人の血が混じっている」という見方が広まり、彼自身もそれをあえて否定しなかった。「上流社会の人たちが、親切にもわたしをドイツ人もしくは「ほぼ」ドイツ人に分類してくれた際、わたしは真実のために闘うということをほとんどしなかった。……わたしのエストニアの血筋を認めたり認めなかったり、否定したり肯定したりするのは、わたしにとってはいつでも慎重で意識的な「決断」だったのだ。わたしはわざとドイツ人かエストニア人かを選んでいた。それは誇るべきことではなかった」(三〇九‐三一〇頁)。一言でいって、彼は上流社会とつきあう上では「多分ドイツ人なのだろう」という誤解を正すことなく、むしろそれを利用していたが、そこにやましさの感覚と、そうでしかありえないという自己正当化の要素とが共存していたということであるようにみえる。
もっとも、例外はあり、タタール人であることが知れ渡っているユスポフ公爵に対してはエストニア系を自認した。だが、それ以外の上流階層の人たちの間では、エストニアの血統を決して宣伝しなかった。「ゴルチャコフ公爵やそのサークルには、わたしがバルト系ドイツ人で、没落してはいるがそれでもドイツのブルジョア一家の出であるとの説明から始めている。……彼のような考えの人間にとっては、わたしがエストニア人であることは、これまでに例のないことだし、単に理解できないことなのであろう」。このように、上流階層の人たちの間ではドイツ人で通していたマルテンスは、学生たち、革命家たち、ポーランド人、ユダヤ人、ラトヴィア人、カフカース人といった人々を相手にするときには、直接あるいは間接に自分のエストニア人の素性を明かしていた。「それは、わたしが彼らとの安手の連帯感を表明するためではない、……また、安易な同情を呼ぶためでもない。……われわれが互いに事態を議論しあうのを容易にするためにそうしてきたのだ」(三一〇‐三一一頁)。
そういうマルテンスにとって微妙だったのは妻との関係である*6。彼の妻はロシア人であり、しかも元老院議員の娘とあるから、相当高い身分の出身ということになる。つまり、下層階級出身のマルテンスにとって、これは身分違いの結婚であり、そのことを彼自身が痛感していたことが本書の各所で描かれている。彼女は、とうとう夫の母国語であるエストニア語を習得しなかったとも書かれている(二一頁)*7。これ自体は私生活に関わることだが、公的生活を含めた彼の自意識にとって大きな位置を占めていたように見える。
二
国際法学者としてのマルテンスの活動は多岐にわたるが、中でも彼の名前を国際的に高めたのは一八九九年と一九〇七年のハーグ平和会議であり、そこで採択された「陸戦の法規慣例に関する条約」の起草において彼が主導的役割を果たしたとされている。彼がノーベル平和賞の有力な候補となったのも、第一回ハーグ平和会議における彼の重要な役割によっていたらしい。それどころか、本書によれば、実際に授与されたという誤報が広がったこともあり、その誤報はその後も繰り返されて、彼の心をかき乱したことが描かれている(三六‐三七、一四二‐一六三頁)。
授賞に至らなかった理由について、ノーベル賞選考委員会での議論の内容を人づてに聞いたところ、「非道義的な〔ロシア〕政府への譲歩」、戦争を非難していないこと、「拡張主義国家の代弁人にすぎないと見なされたこと」が挙げられたという。それを聞いたマルテンスは自分の立場を次のようにまとめている。確かに自分は戦争を不可避のものと見なしており、それをなくすことはできず、ただできるだけ人間的なものにする努力しかないと考えている。「わたしが書いたのは、戦争が人間の現象であって、それは部分的には社会そのものに根があり、部分的には人間という動物に根があるということだった。そして、それは真理なのである。……神よ、この問題はわたしを震え上がらせる、結局、真面目な道徳家ならば、おそらく、戦争の不可避なことをこのように冷静かつ形式的に、しかもほとんど勝ち誇った風にして、認めてしまうべきではなかったのだ。……しかし、わたしは道徳家ではない。わたしは学者だ。わたしは政治家だ。わたしは現実の世界に生きているのだ……」(三七七‐三七八頁)。
これだけであれば、ノーベル賞を取り損ねたことの悔しさ、また戦争をなくすことはできないという信念が平和賞にそぐわないと見なされたことへの憤懣ということになりそうだが、ここにはもう一つの事情も関与していたように見える。それは、エストニア人平民出身の彼がロシア帝国で活躍するためには「拡張主義国家の代弁人」のように振る舞わざるを得なかったという事実であり、本書にはそのことへの悔恨と自己正当化の入り交じった感慨が各所に表出されている(そのどこまでが作者の想像の産物かは確定できないが)。
マルテンスの活動でもう一つ特筆されるのは、日露戦争後のポーツマス講和会議(一九〇五年八‐九月)である。講和会議に国際法学者が参加すること自体は当たり前のことかもしれないが、この場合、それだけにはとどまらない意味があった。一九世紀末から二〇世紀初頭にかけての時期に日本もロシアも、西欧諸国から見れば「文明国かどうかが怪しいボーダーライン」のような位置におかれており、それだけに、「わが国は国際法を尊重する文明国なのですよ」ということを強くアピールする必要に迫られていた。第一回ハーグ平和会議がロシア皇帝ニコライ二世の提唱で開かれたのもそのあらわれだし、日露戦争期の日本が捕虜の待遇に関して人道的配慮を重視したのも、国際社会の成熟した一人前のメンバーとして認められたいという願望に基づいていた。そして、ポーツマスに向かうロシア政府としては、日本よりもロシアの方がヨーロッパ的外交に熟達していることを誇示する必要があり、そのためにマルテンスの専門知識が不可欠だったということのようである(一七頁)。捕虜に対する人道的取り扱いを規定したハーグ条約自体、マルテンスの活躍の産物だったし、彼の国際法教科書は早くも一八八九年に日本語に翻訳され、日本の法律家たちはこの本から国際法の基礎知識を習得していた(三二三頁)。
そういうわけで、このとき彼がポーツマス行きを要請されたのは自然な成り行きだったが、ここにもう一つ別の問題がからみあった。それは、会議に法律専門家として参加するのか正規の代表団員として参加するのかという問題であり、これはエストニア人平民出身のマルテンスの自尊心に関わっていた。主要な代表団員となることが最初から確実だったローゼンはバルト・ドイツ人貴族の一員であり、マルテンスに対して「病的なまでの反感」を示していた。これに対して、「貴族出身の外交官の伝統的階層からの敵意」(一〇七頁)にさいなまれていたマルテンスは、会議への参加を受諾するに際して、単なる専門家としてではなくあくまで正式の代表団員として参加するという条件を付けた。その一つの理由は、自分が交渉の場にいないなら有利な条件での妥結は難しいということだったが、それが唯一の理由ではなかった。主たる理由は、ローゼンと同格に扱われたいということだった。「この〔ポーツマス会議の〕重要な政治的立場でこそ、外交官の職を生まれながらの権利と見なしうる、将軍や提督の末裔として、ドイツ貴族として、わたしは正式に認められたかったのだ」(三一二‐三一四頁)。
こうしてマルテンスは正式の代表団員の一人としてポーツマスに到着したが、会議初日、不可解な事情で彼の名前は代表団リストから外された。彼はこれはローゼンの企みではないかと疑ったが、確たる根拠はないとも認めている。その後しばらく、正式の会合に出席することなくホテルで待機するという、彼にとって屈辱の日々が続いた。ある日、彼はとうとう、ここにいてもなすべきことがないので帰国したいと代表団長のヴィッテに申し出た。そのときヴィッテは慰留しなかった。ところ、翌日、いとま乞いに行ったところ、ヴィッテは、明日の議題は賠償問題だから絶対に君がいてくれないと困る、代表団への参加を日本側に呑ませる、と言った。「わたしに何が出来ただろう。多分、自分の自由の名において拒否すべきだったろう。しかし、わたしはそうしなかった。わたしは屈伏した。……わたしが喜んでいたのか悲しんでいたのか、よくは分からない。いや、わたしには分かっていたのだ。この重大な時期にロシアのために闘うチャンスで、私は気分が良かったことは否定すべくもない」。こうして彼は賠償に関する折衝に出席し、日本側から譲歩を引き出すことに成功した。それが全て自分のおかげだと自惚れるわけではないが、とにかく彼の大きな貢献ではあると彼は感じる。平和条約の決定稿を作成する際、日本側では小村寿太郎が当たったが、ロシア側ではマルテンスが当たった。「ポーツマスを振り返ってみると、この任務は、代表団の他の者たちへのわたしの個人的な勝利、特にローゼンにたいする勝利でもあった」。ローゼンは突然マルテンスに対して貴族らしからぬ追従を示すようになった(三二四‐三三四頁)。
ここには自分の貢献を誇る一方、「自分の自由の名において〔代表団への復帰を〕拒否すべきだった」のに屈伏してしまったことへの屈折した思いが表出されているように見える。
三
これまで見てきたところからも窺えるように、マルテンスは帝政ロシアの上層社会の中で微妙な位置にあった。彼自身の信念はどちらかといえばリベラルに近かったようだが、専制政府に仕える身として、しかも平民出身であるため自分の地位確保に神経質にならざるを得ない人間として、難しい世渡りを余儀なくされ、その結果、ときとしてリベラル左派や社会主義者から批判されたりしたらしい。
一つの例として、ブロックハウス・エフロン百科事典補遺第二巻のマルテンスの項目における批判的言及が本書でしばしば取りあげられている。この百科事典自体は私は参照しておらず、その正確な内容は不明だが、本書の記述から推測するに、リベラル左派の立場から、マルテンスの専制への奉仕と首尾不一貫性を批判したもののようだ。そこにおいて特に問題とされたのは、日露戦争開戦直後の一九〇四年二月に、日本による宣戦布告なしの攻撃を非難する論文をマルテンスが書いたことだったらしい。実は、彼は一八七九年の露土戦争時に正式の宣戦布告は時代錯誤だとする論文を書いていて、これと一九〇四年論文は矛盾していた。そのような論文を書いたのは皇帝からの依頼を断われないと感じたからであり、「皇帝の承認、仕事ができる男としてわたしを個人的に選んでくれたことにあまりにも有頂天になっていたので、拒絶できなかった」とある。自分がかつて書いた論文と矛盾する内容の文章など書けないと言って断わることもできたかもしれないが、「二世代目の自由民」「ようやく乞食階級を抜け出していた」人間、「成り上がり者」として、拒絶することができなかった。このような葛藤をかかえながら書いた論文を批判されることは、その批判が痛いところを衝いているだけに、長くうずく痛みを与えたということのようである(五六‐六六、一三四‐一三六、三五八‐三六一頁)。
マルテンスが革命運動や社会主義運動に対してどのような態度をとっていたかは、あまり系統的に述べられていないが、あちこちに示唆的なエピソードがある。一つには、彼の甥ヨハネスは革命運動に関与していたらしく、マルテンスはその甥に、直接の関与を悟られないよう秘かに、かつ限定的に支援したことが断片的に触れられている(一九‐二三、八一‐八五、三六一頁など各所)。
もう一つの例は、汽車で乗り合わせた女性(前注4)との会話に見られる。彼女は会話の最中に興奮して、「わたしは社会主義者です」と言い放つ。このときマルテンスは「血の日曜日」の惨事に居合わせたときのことを思い出し、自分は社会問題に関心がないわけではないにしても、しょせんは傍観者でしかありえないと感じ、社会主義者を自称する女性に冷水を浴びせるような言葉をかける。しかし、彼はそう話しながら、自己懐疑にもとりつかれる。「自分のほろ苦い皮肉に感情を痛めつけながら、わたしは考える、では「お前」自身はどうなんだ」(二五六‐‐二六三頁)。
学者としてのマルテンスは、政府による革命家弾圧に直接携わったわけではない。にもかかわらず、彼は次のように考えざるをえない。「誰にせよ(幸いなことに、少なくとも、わたしにはないが)、あるいはわれわれの多くが、暴力による弾圧の共犯者となっている。……わたしも共犯者だ……わたしは国家機構にたいして最も重要な仕事を行なっている一人ではないのか」(二六八‐二六九頁)。
彼がこう考えるのは抽象的一般論ではなく、一九〇五年の第一革命後に彼が果たした現実的役割と関係している。同年一〇月一七日に政府が反政府運動鎮静化を目指して発した宣言(マニフェスト)はロシアを立憲制の国に変えるものだとも、それはうわべに過ぎず専制の本質は変わらないとも両様に解釈できるものだった(同時代的にロシア情勢を注視していたマックス・ウェーバーがこれを「表見的立憲制」と呼んだのは有名である)。マルテンス自身は、この宣言は「十通りの違った風にでも解釈でき」ると考えたが、どの解釈をとるかは、ロシアが国際的信用を回復してとりわけフランスからの借款を獲得できるかどうかに直接に関わっていた。学問的にはともかく、「政治的、あるいは言ってよければ愛国的な視点からすれば、遅滞や逡巡の時間はなかった。……そこで、わたしはできるだけの速さで手紙を書き、ヴィッテがそれをポアンカレに送った。外国借款に関する事情説明として、わたしは、ロシア政府の法的な権威は最近の憲政改革によりいかなる意味でも縮小されるものではないと書いた」。その結果、フランスは二二億五千万フランをロシアに与えた。この借款は革命運動弾圧のために使われたと一部の人たちは批判した。それは言い過ぎであり、大飢饉を避けるためにも使われたとマルテンスは考えるが、弾圧のために使われた面を否定するわけにもいかないと感じる(二六九‐二七一頁)。
マルテンスは旅の終わり近くで、ある駅のカフェの給仕に議論を吹きかける。相手の考えを読むことに長けた給仕は、マルテンスの意見に合致する返事をするが、それを聞いて彼は突然恥ずかしさを覚える。「この機転のきく給仕は……その本能により、あらゆる種類の顧客と彼らの期待を扱ってきた体験のおかげで、彼は私が聞きたいと思っていることを語っているのだのだ。……わたしは、同じことをしてきたのだ、一生を通じて」(三七九‐三八〇頁)。ここには、帝政政府に仕える身として、皇帝や高位の政治家たちが聞きたいと思うことを語ってきた自分のこれまでのあり方に対する痛切な思いが表出されている。
四
はじめに書いたように、この小説がどこまで史実に立脚し、どの程度のフィクションを含んでいるのかは分からない。おそらく、マルテンスが内面を吐露しているように描かれている個所の多くは直接的な証拠に基づくというよりは、作家の想像力の産物なのだろう。それにしても、本書に描かれた彼の経歴がほぼ現実と合致しているなら、その中で彼がこのように感じたというのは大いにありそうな気がする。いってみれば、そうした個所は実証史学的な意味での真実性を主張することはできないが、文学的・心理的には「真実味」を持っているということかもしれない。もし私がマルテンス自身なりその時代なりを研究しているなら、この作品を資料として使うことはできないだろうが、専門家としてではなく多少の関心をもつ読者としては、いろんなことを考えさせられる示唆深い著作として読んだ。
【追記】私がこの本を知ったきっかけは、昨年急逝した故・大沼保昭氏の主宰する研究会で数年前に大沼氏と大中真氏が言葉を交わすなかで本書の名が挙げられるのを聞いたことにある。そのとき関心を刺激された私はすぐに本書を購入したが、テーマが私の専門から遠そうだと感じたせいで、長らく「積ん読」のままに放置していた。このたびようやく読んで、いろんな感想が浮かんだが、それを大沼氏と語り合う機会はもうない。読むのが遅れたのが悔やまれる。
(二〇一九年五月)
*1『新版・ロシアを知る事典』(平凡社、二〇〇四年)の「現代ロシア・旧ソ連諸国Who's Who」の部にクロスの項目があり(沼野充義氏の担当)、代表作の一つとして本書も挙げられている。
*2なお、まぎらわしいことに、ドイツの国際法学者でゲオルク・マルテンス(一七五六‐一八二一年)という人もいる。同業者かつ同じ苗字というだけでなく、人生の歩みにも似かよったところがあり、フリードリヒは自分をゲオルクの生まれ変わりであるかのように感じていたことが本書の各所で触れられている。本人がそう意識しただけでなく、当時のロシアで流行していたオカルト的な降霊術の催しで、ゲオルク・マルテンスの精霊を呼び出す夜会に来るようにと誘われた――本人は降霊術を信じなかったので、その夜会には出かけなかったが――とある(三九〇‐三九一頁)。
*3マルテンスを論じた邦語文献は管見の範囲ではあまり多くないが、天野尚樹「近代ロシア思想における「外来」と「内発」――F・F・マルテンスの国際法思想」『スラヴ研究』第五〇号、二〇〇三年)があり、このクロス著にも簡単に触れている。天野論文の主題は、マルテンス国際法思想の主旋律は西欧思想だが、その底部にはロシア的法意識が執拗低音として響きつづけていたという点におかれている。
*4本書中の印象深いエピソードとして、汽車の中で出会ったエストニア出身の女性がドイツ語とロシア語を話し、高い教育を受けたらしいことを知ったマルテンスは、てっきり彼女はドイツ人なのだろうと思いこむが、「わたしはドイツの女性じゃありません。エストニア女性です」というのを聞いてびっくりし、相手への強い関心をそそられるという個所がある(二四一‐二四二頁)。
*5ロシア帝国におけるバルト・ドイツ人について、山本健三『帝国・〈陰謀〉・ナショナリズム――「国民」統合過程のロシア社会とバルト・ドイツ人』(法政大学出版局、二〇一六年)、第T章参照。
*6妻の名前はエカテリーナ・ニコラエヴナだが、本書では「カーティ」と記されている。エカテリーナの愛称はロシア風にはカーチャだが、エストニアではカーティとなるのだろうか。
*7なお、本書は妻に宛てて書いた手記という体裁をとっており、大事なことを告白しようと思って書いているようにみえるが、その告白の内実はあまり明瞭には読み取れない(不倫を何回かしたことが認められているが、それが最重要の点なのかどうかははっきりしない)。その一つの理由は、手記という体裁をとった本書が突然尻切れトンボに終わっている点にある。実在のマルテンスは旅行の最中に死去したとのことだから、こういう終わり方は、手記を書き終えないうちに死去したことを暗示しているのだろう。とにかく、そういう書き方であるため、重大な告白の中心部分を書き終えないうちに彼の人生も手記も終わるという形になっている。