斎藤治子『リトヴィーノフ』読後感(2016年11月)
 
 
 ソヴェト外交史という分野は日本ではあまり盛んではない(正直にいえば、私自身、あまりきちんと取り組んでこなかった)。直接的な意味での専門家が少ないだけでなく、より広い国際政治(史)研究者たちの間での関心もあまり高くないように見える。しかし、1920-80年代の国際政治の歴史を振り返るなら、そこにおけるソ連外交の位置はよかれ悪しかれ相当大きなものがあったから、研究対象としての意味は十分あるはずである。何とかして、このギャップを埋める必要があるのではないかということをかねて感じていた。
 今年の2月に刊行された斎藤治子『リトヴィーノフ』(岩波書店、2016年)は専門書と概説書の中間的な性格の本で、オリジナルな研究成果を踏まえつつ、それを一般読者にも還元しようという狙いを込めた作品である。分量もそれほど分厚くないので、非専門家が読む上でのハードルは高くない。その意味で、ロシア・ソ連を専門としない国際政治(国際関係)史研究者たちが広く読んで、それぞれの角度から論評することが期待される。
 内容的にいうと、本書には、一見したところ「古い」(かにみえる)印象を与える部分と、「新しい」(かにみえる)要素とがある。「古い」というのは、ソ連外交を主題として「ファシズムへの抵抗」「平和のための闘い」という文脈で論じるという問題設定自体、よかれ悪しかれ「古典的」な印象を与えるだろう。「新しい」要素としては、何といっても、近年利用可能となった種々の資料を駆使していることが挙げられる。また、これは今となってはそれほど「新しい」とはいえない点だが、とにかくスターリン外交に対しては強く批判的であり、少なくとも極端に「古くさく」はない。
 1920-40年代にソ連の外交官として活躍したマクシム・リトヴィーノフ(1930-39年には外相)は、もちろん大きな意味ではスターリンの指揮命令に服していたが、単純な操り人形ではなく、それなりの主体性をもって平和のために多面的に尽力していた(そして、最終的に挫折した)というのが、本書の描くリトヴィーノフ像である。このようなリトヴィーノフ像がどこまで説得力を持つか、そして大量の新資料はそうした主張を裏付ける上でどこまで適切に使われているか――本書の評価はそうした点にかかるだろう。私自身は外交史を専攻していないので、細部にわたる検討をすることはできないが、漠然たる印象として、「大成功」でも「大失敗」でもなく「ほどほどの成功」といったあたりではないかという感想をいだいた(内政に関わる叙述で若干の疑問があるが、本筋から離れるので立ち入らない)。外交史や国際政治史の研究者たちによる多角的な検討が現われることを期待したい。
 
(補)小さな瑕瑾一つ。重要参考文献の一つであるジノーヴィー・シェイニスのリトヴィーノフ伝が巻末注の初出個所で、いきなり「シェイニス、同上」と記され、タイトルや刊行年が表示されていない。単なるうっかりミスだろうが、残念なことである。
 
(Facebookの私のタイムラインに2016年11月20日に記入したもの)。