ウクライナの歴史家による現代ウクライナ政治史論
 
 
はじめに
 
 2ヵ月ほど前に「ウクライナの政治学者によるウクライナ政治の分析――セルヒー・クデリアの場合」という文章を書き、クデリアという人およびその仕事について若干の紹介を試みた。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/notes2013-/SKudelia.pdf
 その後、このクデリアが歴史家のゲオルギー・カシヤノフと一緒に共著論文を書いたということを橋本伸也氏から教示していただいたので、その論文が収録されている論集を取り寄せて読んでみた。
Serhiy Kudelia and Georgiy Kasianov, "Ukraine's Political Development after Independence," in Mykhailo Minakov, Georgiy Kasianov, Matthew Rojansky (eds.), From 'the Ukraine' to Ukraine: A Contemporary History, 1991-2021, Ibidem Verlag: Stuttgart, 2021.
 カシヤノフという人についてそれほどよくは知らないが、ウクライナ科学アカデミーウクライナ史研究所の現代史および政治部門の長を務めているとのことなので、ウクライナ歴史学界ではそれなりの地位を占めているものと思われる。主たる研究対象は19世紀から21世紀初頭までのウクライナ史で、メモリー・スタディーズにも深い関心を寄せており、歴史の政治的利用に対して批判的なスタンスをとっている人のようである(橋本伸也「「ウクライナ史」とは何か――国民史の構築と記憶の衝突」『歴史学研究』2023年7月号参照)。この共著論文作成の経緯についてもよく知らないが、より若いクデリアの方がファースト・オーサーになっているのは、この論文がどちらかというと歴史学プロパーよりも政治学的分析の色彩が濃いことと関係しているのかもしれない。もっとも、現代政治史研究においては歴史的分析と政治学的分析は密接な相互関係にあるから、これはこれで一つの歴史論として読むこともできるだろう。
 
 論文はまえおきと6つの節からなっている。まえおきでは、2014年3月〔2月の書き間違いか〕に政治暴力の最悪の爆発が生じ、ウクライナ国家は決定的な転換を迎えたが、このような国家の崩壊に瀕する淵へと至る経路はあらかじめ決定されていたものではないと述べられている。独立後の20年間の大半の時期に、ウクライナは政治的公開性と競争性を特徴としてきた。6代の大統領のうち再選されたのは一人〔クチマ〕だけだったし、議会で単独の政党が過半数の議席を獲得することもなかった。法の支配の弱さとか腐敗といった問題はあるものの、政治的紛争は平和的に解決されてきた。しかし、構造的な弱点があり、それは国家が試練にさらされたときに大きな脆弱性となった。
 この記述には二面性があり、2014年よりも前のウクライナ政治は種々の紛争をかかえつつもそれを平和的に収拾することができていたという肯定的側面に注目したいのか、それともその陰に種々の構造的弱点があったという否定的側面の指摘に力点があるのか、判断に迷う。あるいは、両側面がいずれも重要ということなのかもしれない。私自身は別稿「ウクライナとロシア――ソ連解体後の30年」で、独立後十数年のウクライナには、国内に多様な潮流の間の立場の違いと論争があり、またロシアとの関係でも種々の対立や論争があったが、それでもとにかく当時は暴力的衝突はほとんどなかったと指摘したが、この観点とクデリア=カシヤノフの観点はある程度共通性がありつつ、微妙に力点が異なるかもしれない。
 
 まえおきから本文に進んで、第1節ではウクライナの政治発展への障害がどういうものだったかが論じられている。多数の論点が取り上げられ、やや羅列的な観もあるが、とにかく大まかな筋を追ってみる。一つには、制度化の弱さ――これは競争性の高さの副産物でもある――が指摘されている。公式制度の弱さとは対照的にインフォーマルな制度があり、それがエリート間の談合の予測可能性を高めていた。その核心は、物質的利得と利権のエリート間での交換にあり、パトロン関係に依拠したエリート・ネットワークが形成された。そこにおいては、汚職、選択的な迫害、非司法的な暴力など、概して透明性の低さ、政治的応答性の低さが特徴的とされる。このような特徴は、アメリカの政治学者ヘンリー・ヘイルに依拠して、「パトロン政治」と名付けられている(政治学の一般的用語としては「クライエンティリズム」の一種となるが、ヘイルはこの言葉よりも「パトロン政治」の方が適切だとしている)。この政治システムのもとでは、多くの政治的紛争は経済的獲物をめぐるエリート・ネットワーク間のインフォーマルな対抗関係を反映していた。特定のアクターが独占的な権力を持つことはなく、そのためにますます競争が激しいものとなった。経済力を持つオリガルヒの政治的影響力ももう一つの特徴である。
 その他に、ネイション形成における矛盾として、ウクライナ語話者を中心とした均質化を追求するアクターと多様性の保存を追求するアクターの対抗があり、主だった政党はこの論点を利用して特定の地域で多数派を形成したが、それは国全体の多数派形成にはつながらないという問題も指摘されている。
 
 第2節は政治制度に充てられており、特に大統領と首相・議会の関係が問題とされている。直接選挙制の大統領――単なる名目的な元首ではなく、実質的に大きな権限を有する――と議会選出の首相の双方が存在する国家制度は「準大統領制」と呼ばれるが、この制度のもとでは大統領と議会・首相の間でさまざまな対抗が展開される。国家制度の骨格は憲法によって定められるが、その憲法をどのようなものとして策定するかをめぐって政治闘争が展開されるため、ウクライナの憲法政治はジグザグの道を歩んだ。独立ウクライナの最初の憲法は旧ソ連諸国中でも最も遅い1996年に採択されたが、このように採択が遅れたのは、強い大統領権限を望む勢力と強い議会権力を望む勢力の駆け引きが続いていたからであり、いったん採択されてからも同様の駆け引きが続いて、何度も憲法改正が繰り返された(2004年、2010年、2014年)。大統領と首相の間で衝突が起きて、首相が更迭されることも多い。クデリア=カシヤノフはこうした推移をたどった上で、憲法上の規定の変更にかかわらずウクライナの大統領はエリート・ネットワーク間の調停に携わるパトロンとして機能してきたこと、各大統領は連合内での離反によって権力を掘り崩されたことを指摘する。相当入り組んでいるが、どれかの憲法がよく、どれかが悪いと判定するのではなく、どの憲法体制のもとでもパトロン政治が繰り返されてきたるという考えであるように見える。なお、準大統領制については、松里公孝『ポスト社会主義の政治――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』(ちくま新書、2021年)が詳しく、クデリア=カシヤノフも松里氏の英語論文を参照している。
 
 第3節は前節と似た問題を、より具体的なアクターに即して検討しており、特に6人の歴代大統領および政治力を持つオリガルヒ(コロモイシキー、メドヴェチュク、アフメトフ、フィルタシュ、タルタ等々)が重点的に論じられている。初期の政治エリートはみなブレジネフ時代にキャリアを積み、シニシズムと腐敗を特徴としていた。これは個人の資質だけの問題ではなく、「制度化された腐敗」ともいうべき現象が持続した。いわゆる「クチマゲート」(ゴンガゼというジャーナリストの不審な死にクチマ自身が関与していたという疑惑)がその端的な例として挙げられている。深刻なのは、そうした旧エリートを追放したオレンジ革命後も、政治的慣行の断絶はもたらされなかったという点である。ユシチェンコは政治的キャリヤをクチマの庇護に負っていたし、オレンジ革命後の政治エリートたちは、権力の座に就くと前任者たちと同様の戦略に訴えた。何らの変化もなかったというわけではなく、選挙における地域的分岐の鮮明化、エリート間の妥協としての憲法改正、選挙に必要とされる巨額の資金の提供者としての新たなオリガルヒの登場などが観察されているが、ウクライナ政治の構造的特徴自体はあまり変わらなかったように描かれている。「オレンジ派」の内部分裂は、2010年大統領選挙でのヤヌコヴィチ勝利をもたらした。勝ったヤヌコヴィチは、かつての対抗相手のうちポロシェンコを取り込み、ティモシェンコを罰した。ヤヌコヴィチが経済的富も政治権力も狭いサークル内で分配したことは、彼の支持者たちの間に亀裂をもたらし、彼を排除しようとする気運を生み出した。2014年2月のヤヌコヴィチ逃亡の結果、ポロシェンコが最大の受益者となり、次の大統領になった。しかし、ポロシェンコは腐敗対策でもドンバス紛争でも成果を上げられず、支持率は急降下した。2019年大統領選挙ではゼレンスキーが大勝したが、彼の知名度上昇は、ポロシェンコの政敵たるコロモイシキーの所有するテレビ局に負っていた。
 
 第4節は社会の政治への反応を論じている。常識的に「権威主義から民主主義へ」とか「一党制から複数政党制へ」といった図式が描かれがちだが、実際にはそんな単純な図式では尽くされないということが指摘される。前提条件として、ソヴェト時代には曲がりなりにも機能していた社会保障・年金・教育・医療などが崩壊し、その結果、種々の国家機関や制度への信頼度は一貫して低い水準で推移していることが指摘されている。そのことをよく物語るのは、歴代大統領の支持率の変遷である。初代大統領のクラフチュークは1991年12月の大統領選挙では得票率61.6%で、決選を要することなく当選したが、政権末期の調査では、信頼する16.1%、信頼しない52.8%となっていた。第2代のクチマは辛うじて再選に成功したが、第2期の末期には、信頼する15%、信頼しない57.9%となっていた。その次のユシチェンコはオレンジ革命時のやり直し選挙では52%の得票率で勝利したが、次の選挙ではわずか5.5%の票しか得られなかった。彼に代わったヤヌコヴィチは2010年の決選投票時に49%の得票で勝利したが、その4年後に彼を信頼する者は14%に満たなかった。その次のポロシェンコはマイダン革命の高揚の中で54.7%の票を得て、決選を要することなく当選したが、次の選挙のときには24.45%の票しか得られなかった。このように、どの大統領も、登場時には高い支持率を誇ったのに対し、数年経つうちに急速に低下する点で共通した。なお、この論文はゼレンスキー登場時までしかフォローしていないが、彼も2019年の選挙では圧勝したが2020-21年に支持率が低下したから、そこまでは前任者たちと共通しているということになる。2022年の開戦を境にゼレンスキー支持率は圧倒的に急上昇したが、これは非常時体制下のことであり、この論文の枠外の新しい課題となる。
 クデリア=カシヤノフは続いて、大統領に対してだけでなく、司法、検察、税務当局への信頼も一貫して低いということを指摘している。憲法(1996, 2004, 2010, 2014)は参加民主主義を規定しており、各級選挙も何度も繰り返されてきたが、実際には「ファサード民主主義」と化している。大統領はオリガルヒの利害仲介者となり、議会はオリガルヒのロビー活動の場、内閣は種々のレントの分配機構と化した。有権者がそれを感じ取ったことは、選挙における投票率の漸次的低下傾向に示されている。このシステムのもとでは、政党は社会の利害の集約・表出機能を果たさず、私的利害追求のために使われており、選挙不正も多い。こうして、見かけの政治と現実の政治の間の乖離が生じ、前者は政治参加の幻想を生み出すが、後者は特定の利害集団による利益分配と化している。このような状況を指して、学者たちは「恐喝国家」、コーポラティスト国家、選挙権威主義、ファサード民主主義などと呼んできた。
 
 第5節はオレンジ革命やマイダン革命を含む一連の「革命」を取り扱っている。オレンジとマイダンだけではなく、それ以外にもたくさんの「革命」があったという論じ方をしている点に一つの特徴がある。クデリア=カシヤノフによれば、「革命」の語は肯定的な響きを持つため、さまざまな機会に用いられてきた。1990年10月の「花崗岩の革命」、1991年8-12月の独立およびソ連解体、2000年の左派の敗北(ビロードの革命)、2000年12月-2001年3月の「クチマなきウクライナ」運動、2004年の「オレンジ革命」、2013-14年の「尊厳の革命」(マイダン革命)といった具合である。これらのうち、最初の1990年の「花崗岩の革命」は現代の神話となり、記憶の政治の一環となったことが指摘されている(私は「花崗岩の革命」という呼び方は知らなかったが、この時期の状況については、拙著『国家の解体――ペレストロイカとソ連の最期』東京大学出版会、2021年、1683-1687頁で述べ、より簡潔には「ペレストロイカとウクライナ」『歴史学研究』2023年6月号、31頁で触れた)。それ以外のすべての「革命」について詳述されているわけではないが、4番目の「クチマなきウクライナ」運動については、やや立ち入った論述がなされている。この運動には、異なる種類の反政府運動――イデオロギーも雑多で、議会内反対派と街頭活動家の両方を含み、体制エスタブリッシュメントもいれば、職業革命家もおり、極右勢力も関与していた――が合流した。それまでの「革命」と違って大規模暴力が振るわれ、その中で極右勢力が重要な役割を果たしたことが指摘されている。続く2004年オレンジ革命も複数の要素の重なり合いからなっていた。この革命はそれまでのプロセスの頂点であり、抗議運動は権力エリートの権限乱用に対する大衆の自然発生的な反応だったが、勝利したユシチェンコおよびその取り巻きは「ミニ・オリガルヒ」だったと指摘されている。11月には両陣営の対峙が頂点に達し、オレンジ派は東南部を「ウクライナのヴァンデー」と呼び、ドンバスとクリミヤは西部・中部を「オレンジの疫病」「ファシスト」と呼んだ。外的アクターとして、ロシアとアメリカの対峙も大きな役割を果たした。
 このように見てきた上で、クデリア=カシヤノフは、何かを「革命」と呼ぶことは動員・神話形成・記憶構築には役立つが、出来事およびその帰結の分析にはあまり役立たないと指摘する。後から振り返るなら、オレンジ革命はウクライナの政治システムの核心を変えることはなく、オリガルヒによる利権分配の構造はそのままだった。オレンジ連合は1年も持続しなかった。公的セクターから18,000人が追放されて、人員は入れ替えられたが、腐敗は残った。2009年の世論調査によれば、腐敗はオレンジ革命後にますますひどくなったという回答が61%にのぼった。ユシチェンコが腐敗と戦おうと決意していると信じる人は7.3%に過ぎなかった。
 オレンジ革命の次の大統領選挙(2010年)では、ヤヌコヴィチが勝利した。これも政治システムを変えることはなく、そればかりでなく、彼はウクライナ政治の不文律を破って、政敵たるティモシェンコを投獄し、彼女の内閣メンバーの多くを刑事訴追した。2013年11月に始まったマイダン革命は、最初のうちは平和的な抗議運動だったが、11月末以降に暴力化し、最終的にはヤヌコヴィチの逃亡に至った。このとき、各地の都市で多数のマイダン派集団と反マイダン派集団が登場し、かつてない規模での暴力が双方の側で行使された。この反乱は極右勢力を燃え上がらせた。ウクライナ民族主義者組織(OUN)のスローガン「ウクライナに栄光あれ、英雄に栄光あれ」が広く受け入れられた。オレンジ革命時には排除されていた極右のスヴォボダ党がマイダン革命時には受け入れられた。パラミリタリー集団たる右派セクターは、サッカー・サポーターたちとともに暴力拡大に貢献した。マイダン革命支持者たちはこのときにウクライナ・ネイションが生まれたと主張するが、反対者はこれはクーデタだと主張する。振り返っていうなら、これは腐敗した政治体制への抗議ではあったが、根本的な社会的・政治的変化をもたらしはしなかった。市民の積極性が沈静化した後には、パトロン政治が復活した。世論調査によれば、腐敗の横行を指摘する人の比率はこの後、さらに上昇した。国家制度への信頼は危機的なまでに低下した。皮肉なことに、国内の団結をもたらしたのはロシアによるクリミヤ併合およびドンバス戦争という外的要因だったというのが、この節の最後の言葉となっている。
 
 これまでの各節が様々な角度からウクライナ政治全体の特徴を描いていたのに対し、第6節は対象を変えて、クリミヤとドンバスについて論じている。そのうちのクリミヤに関する記述は比較的あっさりしている。クリミヤがウクライナの一部になったのは1954年のことであり、住民の多数派はロシア人だった。1994年のクリミヤ大統領選挙では、ウクライナからの独立とロシアへの移行を唱えるメシュコフが72.92%、キーウ政権との協調を維持しようとするバフロフが23.35%の得票で、前者が当選した。クリミヤ議会でも、親ロシア派が多数を制した。しかし、メシュコフは経済問題をうまく処理することができず、地域での基盤を固めることができなかった。数ヶ月後のウクライナ大統領選挙でロシアとの関係改善を唱えるクチマが当選したことは、クリミヤがキーウのナショナリストを恐れる理由を引き下げた。クチマは実力行使抜きでクリミヤの反乱を鎮圧し、1996年の憲法はクリミヤの自治共和国という地位を保持した。このような経過に関するクデリア=カシヤノフの記述は淡々としたもので、クリミヤでは親露的雰囲気が優勢であることを示すと同時に、それが明確な分離や正面対決を不可避としたわけではないことを示唆している。
 ドンバスに関する記述はこれよりもはるかに入り組んでいる。まず、ウクライナ全体への全国的帰属意識と地域的アイデンティティの競合関係があることが論じられる。地域的アイデンティティは、工業化の歴史的記憶、経済力への自負、ウクライナとロシアの両方にルーツをもつ独自な帰属意識などに基づいている。1994年3月の地域レヴェルでの住民投票では、ウクライナの連邦化、ロシア主導のCISへの帰属、ロシア語の第2国家語化に70%以上の住民が賛成投票した。但し、クリミヤと違って、ドンバスのエリートはウクライナ全国規模の政治制度に統合されており、議会やさまざまな執行機関に代表されていた。地域党およびその指導者ヤヌコヴィチは、ドンバスの代表であると同時にウクライナ中枢の政治の重要アクターであり、そのことによってドンバスの分離主義的傾向を封じ込めていた。しかし、いったん力関係が急変すると、分離主義運動が高揚する条件が形成されていた。2014年2月のマイダン革命によって生じた権力空白は分離主義運動の高揚およびロシアからの隠然たる侵入を可能にした。西部・中部のウクライナ民族主義集団が国家制度に対する暴力的戦術をとったことは、ドンバスにおける対抗的な自衛集団形成を生み出した。ヤヌコヴィチ逃亡後の野党によるキーウ権力奪取はドンバス住民の眼からは正統性を欠くものと受けとめられた。ウクライナ最高会議が2012年言語法の取り消しを決めたことは、ナショナリストによるロシア語系住民の権利剥奪と受けとめられた。これらの要因が重なり合って、人道的理由に基づくと称するロシアの介入が可能となり、ドンバスではウクライナの連邦化とドンバス自治の要求が一層高まった。4月には、いくつかの都市で対抗権力がつくられ、ドンバス自治要求はウクライナからの分離要求へとエスカレートした(「人民共和国」宣言)。5月11日のエセ・レファレンダムは多くの逸脱が指摘されたものの、とにかく多数の現地住民が参加したため、分離主義者はキーウの抗議を無視して、レファレンダムは大衆の支持を物語ると称した。このようなプロセスに関するクデリア=カシヤノフの記述は微妙なもので、「エセ・レファレンダム」という表現やそこにおける逸脱への言及はドンバス分離運動への否定的評価を含意するが、それでもそれが一定の基盤を持っていたことに注目している。
 まもなく事態は軍事的衝突の形をとるようになり、8月末にはロシア軍が本格的に参戦するに至った。9月5日にミンスク議定書、2015年2月11日にはミンスク2が調印されたが、多数の項目のうちのどれを優先すべきかをめぐる対立が深く、協定履行は進展しなかった。社会および政治エリートの間で非妥協的スタンスが強いため、当面ウクライナの領土は分断されたままにとどまる公算が高い。こういう新しい現実をネイションとしてのウクライナ人が受けとめる能力が今後の国家建設の軌跡を規定するだろうというのが論文の結びの言葉となっている。
 
 以上、6つの節の概要を紹介してきた。最後に、論文全体の特徴と若干の感想を記しておきたい。論文の基本的なトーンは、シニカルとまではいわないまでも、醒めた視線が特徴的である。価値評価を全然していないわけではなく、腐敗とかスキャンダル(クチマゲート)への言及およびそれに対する市民の抗議は善と悪の対抗というニュアンスを帯びている。だが、市民運動の高揚は長続きはせず、結局のところ、もとと同じ構造的欠陥(オリガルヒの跋扈、腐敗、パトロン政治)が再生産されたというのが全体的な構図であるように見える。
 言語・歴史意識・対外オリエンテーション(西欧志向かロシア志向か)に関わるアイデンティティ政治については、ウクライナ語話者を中心とした均質化を追求するアクターと、多様性の保存を追求するアクターの対抗が描かれているが、クデリア=カシヤノフはいずれかを是としたり非としたりするのではなく、前者が西部・中部で強く、後者が東部・南部で強いという対抗の持続・強化が国全体の多数派形成の障害となっているという見方を示唆している。
 何度も繰り返される「革命」がその都度期待を裏切ってきたという指摘は、変化の乏しさを示唆するかのようだが、変化の要素が全然ないというわけではない。大規模な暴力は「クチマなきウクライナ」運動のときにはじめて現われ、マイダン革命時に圧倒的に噴出した。極右勢力の役割もそれにつれて増大した。こうした指摘はマイダン革命に対する批判的な視点を含意しているかにとれるが、ヤヌコヴィチ政権の腐敗への市民の正当な怒りが見失われているわけではない。ドンバスについては、「エセ・レファレンダム」という表現に見られるように、「親露派」勢力に対する否定的評価が明らかだが、それでもそれが一定の基盤を持っていた――クリミヤではもっと強い――ことに着目している。
 こういうわけで、全体的な位置づけは難しいが、日本で「ウクライナの声」として広く伝えられている論調とはかなりトーンを異にしていることが明らかである。だからといって、「ロシア寄り」とか「親露派寄り」というわけでもない。抑制気味の筆致の間に見え隠れする価値判断は、自らをウクライナ・ネイションの一員として意識しつつ、そのネイションが排他的な立場に凝り固まることなく、リベラルな統合へと向かうことを期待する思いがあり、急進ナショナリズムの行き過ぎが国内の分断を深めることを懸念しているのではないかと思われる。
 この論文を収録した論集は2021年の刊行だが、その直後に火を噴いた戦争は言論状況にも大きな変化をもたらし、急進的な反露ナショナリズム以外の声はほとんど聞こえないようになった。そういう中で著者たちがどういう状況に置かれ、どのような発言を行なっているのかにも関心がもたれる。
 
(2023年6-7月)